新潟県の自由民権運動がある程度まとまった形で現れたのは明治10年頃である。上越の鈴木昌司が地租改正反対運動を基盤にして明十社を創設し、翌11年に山際七司が下越で自立社を組織して運動を進めるようになった。
各地域毎に小さい結社ができ、その地域地域で民権運動が起り一般民衆への呼びかけが続けられていた。西潟はこの間、地租の改正に取り組みながら各結社と交流しつつ民権運動の火中に入って行った。
自由民権運動は国会開設という目標を持つことによって強固な政治運動として発展するようになった。
明治12年8月、千葉県の桜井静が国会開設懇請協議案を新潟県の県会議員(明治12年6月、第1回の県会議員が選出)宛に郵送され、明治13年1月県会議員小山宋四郎、山際七司が新潟新聞紙上に、桜井の提案を支持する意見を発表するとともに県下の有志にこれを印刷、送付し共鳴を求めた。それと時を同じくして新潟新聞社の主筆尾崎行雄が新潟新聞紙上に「時期を失う可からず」の論文を発表し、国会開設の請願の必要性を力説、「山際・小山の努力に協力せよ」と論じて県民の奮起を促した。
こうした県下の情勢の中で明治13年4月5日から10日までの6日間、新潟区西堀通り浄泉寺を会場にして第1回県下国会開設懇望協議会が開かれた(参加者60名)。西潟も率先出席し、その必要性を強調、ようやく民権運動の表舞台へ登場し始めたのである。
西潟は南蒲原の代表委員として度々会合し、国会開設懇望建白書を作成、上京委員に選任され元老院議長大木喬任の手を通じて上奏の手続きを取った。しかし、その建白書は太政官に於いて上奏の手続きを取られず放任されたままになって終わった。
その情報を聞いた県下の同志は一層決意を固くし、再度弥彦に会合して再挙を計画した。那代表委員としての西潟は、再び国会開設請願書を起草して11月24日に三條一之木戸渡辺腆等を請願捧呈委員として県下同志1252名の署名を得た請願書を太政官に再度提出したのである。然るに12月9日政府は突然太政官布告を交付して中央政府に対して直接請願陳情することを禁止したのである。そのため同志の苦労した請願書は太政官で却下される結果となって終わってしまった。
そのような政府の装置に対して民間同志の憤激は甚だしく、村松藩士族赤沢常容が憤激の余り、太政官門前で自刃を企てたのもこの時であった。
この頃から西潟は国会開設運動によって自由民権運動の県下の指導者として先頭に乗り出すようになってきた。
西潟は第2回の請願には上京委員に選ばれなかったが、山際、渡辺の両上京委員の出発に際しては、木村順三(新屋村)と2人で幹事役となって、三條町二洲楼に壮行会を開いた。また署名を得るに昼夜の別なく奔走されて、この署名1250名のうち下田郷からは99名の署名者があったことをみても西潟が如何に努力したかが解る。
※この文章は昭和43年12月に西潟為蔵翁顕彰碑建設委員会発行した『西潟為蔵翁の道徳を偲ぶ』を為蔵塾が加筆・修正を加えたものです。