『おつかれ。ゴメンね、緊急出動要請かかっちゃってそっち行けなくて。……うん、今は話せない。今回は単独任務だから。いつかね。
アハハ、また買ったの? あんまり物を増やしすぎないようにね。すぐ窓の傍に並べるやろ。俺が入りづらくなっちゃうから』
窓の方からかすかな音がした。風にそよぐレースのカーテンから月明かりが差し込み、ホークスからもらった時計の文字盤が明るく照らされている。針は十二時を差していた。
ゴトン、と妙な音がした。腰掛けていたベッドから立ち上がったところで、にゅっと人間の指が伸びてきて窓枠にかかった。爪は短く切りそろえられていて、肌は爛れている。
ここはマンションの五階だ。〝個性〟の翼を準備してから、一歩踏み出した。窓枠にかかる指が増える。両手がかかり、窓の向こうに黒い頭が現れ、一瞬にして黒ずくめの男が姿を現した。
「はじめまして、かな」
軽い身のこなしで窓際のぬいぐるみを蹴散らして窓枠に腰掛けた男はそう言って、背に月光を浴びてますます暗い湖底のような蒼色をした両眼を部屋中に走らせた。
「物が多いな。あいつと真逆だ」
画面越しに聞いたことのある低い声に奥歯を噛みしめる。ヴィラン連合の一人、荼毘だ。眼の下に半円形の火傷跡が確認できる。公安上層部はお馴染みのメンバーに連合の過去を洗うよう指示している。ホークスは荼毘担当だった。そこから繋がりを知られた可能性はある。
『あれ? もしもーし聞こえてる? そろそろ着くから切るよ』
まだホークスとの通話は終わっていなかった。向こうは極秘任務のはずだ。慌てて通話を切ったが、荼毘は口の端を歪めて笑った。
「今の、ホークスか? あいつ嘘つきだからさァ……お互い苦労するよな」
にこ、と微笑みかけられて肩の力が抜ける。そういえば資料にもメンバーの中では比較的話が通じそうだという評価が上がっていた。ただホークスの報告によれば頭は悪い男のはずだ。
荼毘は土足でカーペットの上に降り立ち、床に散らばったぬいぐるみを尻目にこちらへ向かってくる。あと一メートル、というところで男は立ち止まった。
「へえ」
荼毘が手に取ったのはチェストの上に飾ってある家族写真だった。学生時代、実家にいる両親と弟妹3人で沖縄へ家族旅行に行った時の写真だ。全員、前日の海水浴で日焼けした顔で笑っている。
「幸せな光景ってヤツだ。いいね。ひとり譲ってくれよ」
首を左右に振る。ホークスの下位互換、遠距離で活躍する個性でヴィランとこの距離で接触するのは初めてだったが、今さらあとには引けない。公安に所属している以上、仕方がない。こんな日もいつか来るとは思っていた。
「ん……そりゃそうだよな」荼毘は横目でかろうじて窓際に残った羊のぬいぐるみを見て、口の端だけ上げて笑った。「善良な市民の皆さまはあって当然のものだ」
なにか仕掛けてくる。直感に従い、覚悟を決めて向かい合えば、荼毘は片眉を上げてまっすぐ目を合わせてきた。
捕まりたくなければ今すぐ出ていって。すぐにホークスが来るから。そう脅した瞬間だった。荼毘の目が大きく見開かれた。
「あいつ、ここに来るのか」
もちろん嘘だ。でもホークスが来るとなれば荼毘も諦めるはず。無言で頷けば、
「なるほどな。あいつの急用ってこれかァ……」
無言でいれば、荼毘は組んでいた足を部屋に降ろした。尖った靴の先がカーペットに触れると、じゅっと焦げる音がした。
ホークスはナンバーツーヒーローだ。こうしている今も助けを求めている人の元へ駆けつけて救っている。これ以上、足を引っ張るわけにはいかない。
荼毘はここで食い止める。後ろ手に風切り羽根を隠したまま穏やかな表情を心がける。会話のできるヴィランは、話を聞いてやれば理解できることも多い。そうやって出来た隙を狙えば、確実に仕留められる。
あなたにも家族がいたのか。そう尋ねた瞬間だった。
「わかんねェもんだな。ホークスはお前みたいな女が好みなワケだ。人のプライベートに土足で踏み込んでくる――」
風になびいていたカーテンがおとなしくなり、嵐の前のような静けさがやってきた。月が雲に隠れる。部屋に本物の夜が訪れた途端、荼毘の爪先から火花が散った。
「――こんなゴミが!」
Fooosh!!!!
一気に打ち寄せる高波のように蒼炎が部屋一面に広がった。咄嗟に飛び退ってしゃがんだが、膝から下が熱く痛む。背にしたドアは熱風にやられてノブが動かない。棚の上に並んだぬいぐるみはあらかた火にまみれて見えなかった。
まもなく火災報知器が作動し、サイレンがけたたましく鳴り始めた。一分も経たずに公安の仲間が飛んでくるだろう。それまで荼毘を引き留めなければいけなかったが、朦朧とした頭では良い策が浮かんでこなかった。
「あァ、かわいそうに! ヒーローが遅すぎるせいで善良な市民がまた燃えちまった!」
高笑いが響き渡り、男の姿が熱波に揺れ始める。
なんとか目を凝らせば、荼毘は熱でひしゃげた窓枠に戻って腰かけ、立て膝に頬杖をついて窓の外を眺めていた。目線は高く、視線は左右を彷徨う。再び雲の合間から現れた月が蒼い眼に光を灯していたが、しばらくして瞬きを一つした後はすっかり消え、元の濁った湖底の色に戻ってしまった。
「やっぱり来ねえな、ヒーローは」
荼毘は諦めたように呟くと、黒衣を翻して窓の外に消えてしまった。