「個性カウンセリングは一定の成果を得ています。ここ三年は未成年ヴィランの犯罪件数が減少してまして……」
書類を指さした瞬間、スマホが鳴った。胸ポケットから取り出したスマホの画面には、「非通知設定」の文字が浮かんでいる。カフェの店内、ジャズのBGMを遮るように鳴り響くコール音に周囲の視線も感じ始めた。相手に断りを入れ、氷の溶けかけたアイスコーヒーを尻目に、俺はスマホ片手に立ち上がって店を出た。
「ハイ、鷹見です」
『ナンバーツー』
低い囁き声に心臓が跳ねた。剛翼とともに過去へ置いてきた称号を呼ぶ人間はもういない。はずだ。
「……いたずら?」
『ああ。最近お前がツレないもんだから拗ねちまったんだ。ごめんな』
「そんな可愛らしいもんじゃないでしょ。何するつもり?」
『さあな。お前のヒーロー活動に比べれば、俺の放火なんてガキのいたずらレベルだろ?』
「十分災害だよ」
『ひでェなァ。俺が今お前のいるビルを燃やしてから言ってくれよ』
録音じゃない。合成音声か――いや、何にせよどこかで見てる。辺りを見回してみたが、ここは都心のビル街、全面ガラス張りのフロアだ。窓の向こうには大通りに面した広場があり、「個性の母」の像の背面から後光のように噴水が四方八方に曲線を描いている。定番の待ち合わせ場所だ、周囲に人は多い。
何の気なしに店を眺めるふりをして周囲に目を走らせる。俺を見ている人間はいない。息を吸ってエスカレーターに向かう。目立つ場所に俺が移動して、向こうも移動させてやる。
「あのさ、もしよかったら今度の日曜日に不韻中学校に来てくれないかな」
『ハァ? どこだ』
「俺、今、個性カウンセリングとかやってんの。……キミも時間あれば話聞きたいかな」
『ハ? とうとうイカレちまったか、ヒーロー。そんな自己満に付き合わされる俺らの身になってみろよ』
「俺は本気だよ」
「へえ。スケプティックの言う通りだな。お前は思想の浸透に邁進してるわけだ――あの金ヅ――支援してくださる社長の敬愛するお父様の素晴らしいお考えをな」
含み笑いが続き、俺は一瞬時を忘れた。分厚いジャケットを羽織っていて、剛翼で飛べるような気がした。こんな鈍い速度で下降するよりもガラス窓を叩き割って真っ逆さまに落ちてこっそり俺を見張る黒いフードの男の身体ごとをかっさらって上昇して空中に閉じ込めてやりたい。けれど鏡張りの壁に映る俺はスーツで、翼はなく機械の力で階下へ降りてゆく。
「お前、今どこからかけてるの」
『お前の後ろ』
振り向けば、後ろに立っていた見知らぬ人がスマホから顔を上げて不思議そうに自分も後ろを振り向き、再びスマホに目を落とした。スピーカーから笑い声が響いてくる。
「かわいいこと言うね。で、今日、何日だっけ」
『二■■■年八月十■日。頭まで鳥にならないでくれよ。俺はヒーローが地に伏せる日をずっと心待ちにしてるんだ』
滑らかに告げられた八年前の日付にはっと息を吐く。別に期待しちゃいない。本当は生きてたんじゃないか。そんなこと一秒も思っちゃいない。コイツが死んだから今がある。
満員のカフェから何人もの話し声が響いてくる。待ち列に並ぶ人々が連れの誰かとともにメニューを片手に口々に喋っている。エスカレーターにはもう俺しか乗っていなかった。
『あァそうだ、トゥワイスがお前に聞きたいことがあるらしい』
「……ああ」
『たまには俺にも教えてくれよ。デストロのありがたい教えってヤツを』
荼毘は襲撃以外の会議は全て出席しなかった。トゥワイスから半ば言いつけるように俺は聞いている。なのに、男はときどき冗談めかしてこう言ってきた。群訝山荘の冷めた表情からすれば、「トゥワイスは騙せても、俺は騙せない」という牽制だったのかもしれない。けど。
「いいよ。今度教えてあげる」
声は震えていないだろうか。俺はもう自信がない。
荼毘の遺体が海に葬られ墓もないと聞いた時、気づけばその場所まで車を走らせていた。申し訳程度の萎れた仏花が供えられているほかは、ただの岸壁だった。草木もない崖の上で海を見下ろしていると、そのうち視界が歪んできて、俺は引き返した。公安のヒーローだった時はどれほどヒーローやヴィランを葬っても涙なんて一滴も出なかったのに。
『へえ、嬉しいね。最近顔も見ねえから嫌われちまったかと思った』
最後に「荼毘」に会った日はいつだっただろう。奇襲をかける日が決まってからは、黒衣を翻しながら薄暗く狭い廊下を歩いてゆく姿を見かければUターンしていた。あの鋭い蒼い目で見られるのが嫌だった。でも。
「そんなことないよ。俺ね、」
声が少し震えた。今までいくらでも話してきた。公安で叩きこまれた話術で夢見た未来も本音もお世辞も全部笑顔で、好印象を与えるように話してきた。なのに俺はやっぱり詰めが甘い。
「お前のこと、結構好きだった」
声はところどころ裏返っていた。通りすがりの人々がちらと俺を見ていくのが分かる。視界が揺れてにじんでいく。ぼんやりとしたビル街の隙間に、あの瞳の色と同じ空が見える。
一呼吸おいて、スピーカーから吐息混じりの声が言った。
『俺も』
それきり荼毘の声は聞こえなくなった。スマホを耳から離せば、電話はとっくに切れていた。ホーム画面には、蒼い海が映っている。