「燃やすモンねェか」
鼻をすすりながら道路にチョークで落書きしていたわたしは、ふいに頭上からかけられた男の声に、驚いて顔を上げた。夕日を背にして、上から下まで真っ黒な男が立っていた。半袖から伸びる右腕は、ママが作ったパッチワークのぬいぐるみみたいに途中で色が変わっていて縫い合わされている。左腕はない。逆光で顔はよく見えなかった。
「……〝ままをこらしめてやる〟な」
男は低く囁くような声で、チョークの文字を読み、薄っすら笑ってこう言った。
「俺が燃やしてやろうか、ママ」
わたしはチョークを取り落としてスカートの裾を掴んだ。
「おじさん、誰?」
男はちらとアスファルトの上に置きっぱなしになっていた絵本へ顔を向けた。そこには、当時わたしがお気に入りだったカラフルな火をまとった妖怪キャラが踊っているページが開かれていた。男はそれを指差した。
「俺だ」
「おじさん、妖怪なの?」
「そうだ。何でも簡単に燃やせる。お前が嫌なものぜぇんぶ……」
目の前にしゃがんだ男と目が合う。田中さんちの向こうにある、ため池の土砂降りで濁った水面のような、かろうじて青色と呼べる色。子どもでも分かった。この人、近づいちゃダメだ。
「いいな、その髪……」
男がわたしに向かって手を伸ばしてきた瞬間、身体が急に動かなくなった。足は磁石みたいに地面にくっついて、心臓だけがどくどくと早鐘を打っていた。
「綺麗な赤だ。よく燃えそうだな」
熱い手に頭を撫でられて、息が詰まった。殺される。純粋な恐怖がわたしを襲った。直毛の赤毛はヒーロー・ショートに半分似ているし、パパと同じ色だから気に入っていたけれど、この時からちょっと苦手になった気がする。
「……ビ、やめろ!」
突然、切羽詰まったような第三者の声が辺りに響いた。弾かれるように目の前の男は沈みかけた太陽の方を振り向いた。
「あァ、ヒーローが来やがった」
夕陽に照らされた口元は異様なほど横に大きく開いていて、腕と同じで色の違う肌が縫い合わされていた。わたしは声にならない悲鳴を上げ、その場にぺたりと座り込んだ。
ホントに妖怪だ、火の妖怪なんだ! 絵本の妖怪は火の玉をたくさん出して、悪い人を地獄に連れていく。きっとわたしはママに怒られて拗ねていたから、悪い子だから地獄に連れて行かれるんだ!
妖怪は私の方を横目で見ると、手のひらから蒼い炎を出した。それはじわじわと腕、肩、胸へと広がっていき、とうとう全身へと至った。大きな蒼い炎が縮こまったわたしの上から覆いかぶさってくる。頭のてっぺんに熱が迫る。思わず目を瞑った瞬間、大きな影が間に入ってきた。
「何してる!」
熱が離れた。恐る恐る目を開ければ、蒼い炎の妖怪は、誰かに片腕を取られて動けないようだった。
「この子泣いてるだろ? かわいそうだから薪にしてやるんだよ」
「冗談やめろよ。また海底に戻りたいの?」
「いいぜ、今度はお前も一緒だ。ほら、見ろよ。俺の可愛い弟は親父と同じことしてるんだ……ヒーロー、お前も見過ごせないだろ? あの子はお前なんだよ」
ごうと音を立ててよりいっそう炎の勢いが増した。魚が焼けたような焦げ臭さが鼻をつく。一拍置いて、穏やかな声が言った。
「トウヤ、落ち着いて。たぶん誤解してるよ。まず俺のことわかる?」
「わかるよヒーロー。出所した俺を一番に探しに来てくれたろ。面会もお前だけがずっと来てくれた。嬉しいよ」
赤ずきんに出てくる狼さながらの大きな口が横に開いた。その繋ぎ目からぽた、と液体が垂れてわたしのスニーカーに落ち、赤い染みができた。誰かの血だ。背筋がぞっとした。
「なァ、俺がこの十年どれだけ待ったと思う。ようやく陸に這い出てあいつを殺してやろうと思ったのに、とっくに死んじまってるんだ……卑怯者! 俺を生かしておいて、自分だけ楽になりやがった! 自分だけ!」
大声で暴れ始めた妖怪に固まるわたしの方を影が振り返った。黒い顔の真ん中に、太陽みたいな黄色い目が二つ、きらきらと光っていた。
「俺が来たからもう大丈夫。君は走って」
そう囁かれた瞬間、わたしは急に力が湧いてきて立ち上がった。途中で足がもつれて転びそうになるのをなんとか踏ん張りながら、自分の家の方へ走り出した。
「離せ! 燃やしてやらねえと」
「子どもの言ったことを真に受けるなよ。あ、熱ッ、やめろ! 熱い!」
後ろから悲痛な叫び声が聞こえた。じわ、と涙がにじんで目の前が歪んだ。
ああ、あの人捕まっちゃったんだ。燃やされちゃうんだ。助けてくれたヒーローを、わたしは置いていくんだ。そう思うと足が止まった。立ち止まり、振り返ろうとした瞬間、頭の中で低い声が言った。
――燃やすモンねェか。
ぶるっと全身が震えた。わたしはそのまま家まで脇目も振らず走って、リビングへ駆け込んだ。
怖い妖怪がきた、ヒーローのこと置いてきちゃった、ママ燃やされちゃったらどうしよう。とりとめもなく喚き散らし、泣きじゃくるわたしの肩を抱いてパパは言った。
「大丈夫だ、それはホークスだよ」
「ホークス?」
「そうだよ。カッコいいヒーローだから、燃やされない」
「ホント?」
「ああ、ホントだよ。それに、その妖怪はかわいそうなやつなんだ。もうお前の前に現れないように、ホークスに頼んでおくから、今日のことは忘れなさい」
わたしは驚いて涙が止まった。奇妙な外見、熱い手、逃げる間際の叫び声、どれをとっても強烈だった。
「そんなのムリだよ!」
わたしは叫んだ。さっきの恐怖とは別の感情が溢れて、じわりと涙がせりあがってきた。
「パパは見てないからそんなこと言うんだ! わたし怖かったのに、すっごく怖かったのに……!」
パパは困った顔で「ごめん」と言った。
きっとわたしは人生に課金して生まれてきたんだと思う。幼い頃、そんな怖い目にあってもトラウマにならずに済んだのはホークスに助けてもらったからだし、よく考えたら推しとの初めての出会いってことだし。それに。
わたしはスマホ画面に映った、表札の出ていない玄関に運び込まれる段ボール箱の列を追っていた。
「わ、物結構多い……意外……」
あれから、わたしは立派な「雛鳥」になった。ヒーロー・ホークスの活動時期はまだこの世に生まれていなかったけど、そんな誤差は気にしない。昨日も動画サイトに上がっていた十年前のバラエティ番組を見て、ホークスの過去を再現したドラマに泣いてしまった。一年前に大好きな推しが会長を退いて表舞台から姿を消しても、ずっと気持ちは変わらず群訝山荘跡地や公安本部に聖地巡礼していた。
でも、まさか住んでるマンションの隣の家に引っ越してくるなんて、本当の本当にわたしって運がいい!
「部屋のインテリアもかっこいい……」
五センチぐらい開けた窓の隙間にスマホのレンズを差し込み、隣家の開いた窓の中を覗いていると、後ろからとんとんと肩を叩かれて飛び上がった。
「ただいま、ストーカー。課題は終わったの? 木菱先生は赤点とったら休み中ずっと補習だよ」
お姉ちゃんがスーツを脱ぎながら言うので、居候の高校生は仕方なく縮こまった。
「おかえり。だってさあ、こんな偶然ある? 少女コミックの世界だよ」
わたしは再びスマホのカメラをズームさせて隣の家の壁を大きく映し出した。皺ひとつない黒いコートが一つかかっていて、棚の上ではアロマキャンドルが燃えている。意外とオシャレ、そんなところもかっこいい。
お姉ちゃんは「ここは現実ですけど」と顔をしかめて腕を組んだ。
「夢見るぐらいいいでしょ。ホークスのこと、ずっと好きなんだもん」
「ホントに夢見るだけにしなよ。あんた見てると最近ほんっとジジイの因果を感じるんだよね。なんていうかな、執着心っていうの? 強すぎて怖いわ」
わたしはスマホを引き上げて窓を閉め、写真でしか見たことのない祖父のことを思った。パパが喧嘩別れしたって言うから、お姉ちゃんも嫌っている。ママはビルボ上位のスゴいヒーローだったって言うけれど、名前は教えてくれない。
「……そういうお姉ちゃんこそ、諦めが早すぎるんじゃない。強個性だし、いっぱいスカウトされてたのに、なんでヒーロー事務所のインターン途中でやめたの」
「またそれ? 口喧嘩になったらいちいち蒸し返すのやめてよ。私は医療の方が性に合ってたし、吉田先生からもスカウトはきてた」
「でもクリエティに憧れてたじゃん。なのになんで?」
「夢と現実は違ったの。それに、」
お姉ちゃんは通知音がしたスマホを弄ってから深いため息をつき、テーブルに投げ出した。片手に持ったままだったわたしのスマホ画面に、オンにしたままのお姉ちゃんの画面が映る。その中に「荼毘」という文字を見つけて、わたしは続けて問いただすのをやめた。
「ヒーローもヴィランも、画面で見てる方がよかったわ」
翌日わたしは学校を休んだ。風邪をひいたと言えば、窓開けっ放しで罰が当たったって叱られたけど、本当は違う。
『荼毘が近くに引っ越したから、二人とも気を付けて』
お姉ちゃんのスマホ画面には、パパのメッセージが映し出されていた。
お姉ちゃんは間違っていない。わたしがいくらホークスを追いかけたって何にもならない。マンションと一軒家じゃお隣さんとして挨拶することもない。物理的に近くても、距離が縮まるわけじゃない。
それに、たとえ知り合いになったって、ホークスはきっとわたしのことをよく思わない。絵本を信じていたのは昔のことだ。この世には悪の権化みたいな妖怪なんていなくて、いるのは正義と公益を尊ぶヒーローと、静観するだけの一般市民と、犯罪を重ねるヴィランだけ。
あの日、声をかけてきたのは荼毘だった。わたしはもう泣きじゃくる子どもじゃない。パパが嫌いなおじいちゃん、ママの言葉、わたしの赤毛。家族皆がわたしに隠しごとをしている。荼毘がわたしを狙った理由は全部そこにある。
チャイムが鳴った。宅配便かお姉ちゃんの忘れ物か、わたしはしぶしぶベッドから這い出て玄関のドアを開けた。この時、なんでドアスコープで確認しなかったんだろう。そうしたら、わたしはきっと能天気なままいられた。
ドアを開けると、黒いコートを着た荼毘が立っていた。
「久しぶり。夏くんいる?」
マスクもつけずに動画そのものの素顔でにこりと笑い、玄関で棒立ちになったわたしを押しのけて土足のまま入ってゆく。靴脱いでよ、なんで来たの、どうして。言いたいことはたくさんあるのに喉でつっかえて、当然黒い背中は答えてくれない。
「みんな留守か? それとも今度はお前がみんなのヒーローにされちまったのか……」
荼毘は哀れんだような目をわたしに向け、それからリビングのテーブルに勝手に腰掛けた。わたしは座らずに侵入者の前に立ち、視線を避けて首元や顔をほんやり見つめた。立襟の隙間からツギハギされた肌が覗いていたけれど、色褪せた記憶よりもずっと痛々しくかさついて見えた。
「なんでここにいるんですか。……タルタロスにいるってニュースで見ました」
わたしのかすれた声に、荼毘は瞠目し、それから少し嬉しそうに笑った。
「あァ、俺のこと覚えてる? ハハ、そりゃそうか。あの時はごめんな。ママは元気か?」
「質問に答えてください」
「恩赦」
荼毘はにいと笑った。蒼い目は笑っていないのに、形だけが弓なりになる。
「俺、愛されてんだ」
荼毘はテーブルに右肘をつき、頑丈そうな針金で形造られた右手で頬杖をついた。わたしはルームウェアの裾を握りしめた。
「なんでここに来たんですか」
「挨拶」
荼毘は左手に提げた白い箱を掲げてテーブルに置いた。側面に近くのケーキ屋のロゴが入っていた。
「うちにはわたしと姉しかいません」
「へえ、そう」
「父は実家にいます」
「実家? どこ?」
荼毘の目が輝いたのを見て、わたしは口をつぐんだ。パパはきっと、この人が訪ねて来るのを望まない。
「……うちに何しに来たんですか」
「だから挨拶だよ。そこに引っ越してきた」
荼毘が自分の真後ろを親指で差した瞬間、わたしの心臓は跳ねた。昨夜わたしが開けていた窓を背にして荼毘は座っている。
「……どこですか」
「昨日お前が熱心に見てくれてた家」
荼毘の口角がゆっくりと上がった。蒼い目が一瞬炎をまとったように揺れて見えた。
なんで? どうして、あなたがホークスの家に? わたしは叫びださないように必死にこらえた。
「かわいい姪に忠告だ。盗撮はやめた方がいい。俺みたいに何年も海に沈められたくなけりゃな」
してません、と嘘をつこうとしたけれど、口が動かなかった。かろうじて小さく頷けば、荼毘は満足そうに微笑んだ。
「ありがとう、助かるよ。あいつも喜ぶ」
あいつ? 荼毘の低音に乗せられた甘い響きを感じ取って、ちくりと胸が痛んだ。
「あいつ人気だからさ、前の家じゃ毎日パパラッチを追い払ったし、盗聴器は週イチで壊した。盗撮してた奴は捕まえて脅したら何人か消えちまった。そしたら俺が疑われてあいつに迷惑がかかる。そんなことで衆目を集めるのはもう望んでない……」
蒼い目が少し遠くを見据え、それから自分の左手に移った。
「俺はどうなってもいいが、あいつだけはそっとしておいてやってほしい。あいつ、あの家広くて気に入ってるし、もう越してすぐ引き払うのに疲れたんだ。最近じゃ俺が火傷をしただけで嫌がる」
「わたし、そんなことしません。嫌がらせとかそんなひどいこと……」
「知ってるよ。ただあいつが好きなんだ」
荼毘の口の端がきゅっと吊り上がり、心臓がばくばくと大きな音を立てる。恐怖からじゃない。これは。
――執着心っていうの? 強すぎて怖いわ。
お姉ちゃんは、わたしのことをおじいちゃんに例えたんだと思っていた。だからわたしはお姉ちゃんのインターンのことなんて引っ張り出して、意地悪なことを言った。だけど、お姉ちゃんの言葉は本当におじいちゃんだけを指していたんだろうか。
「夏くんが可愛がってる子だ、お前の恋を応援してやりたいよ。でもなァ……ホークスはさ、」
荼毘は声を潜めて言った。初めてわたしに声をかけてきたあの日と同じように、耳まで裂けそうなほど口が開いた。
「俺のなんだ」