引き出物の木箱を開ければ、甘い匂いが漂った。バームクーヘン。こんなリボンでラッピングされた贈答用の菓子を見るのは何年ぶりだろう。冬美ちゃんや夏くんが親父宛に届く菓子を送り主も見ずに口に入れていたのを思い出す。この焼き菓子は、年輪を重ねることから縁起が良いと言われているらしい。
「クソだな……」
年月を単に重ねるだけでいいなら、俺はとっくに幸せになっている。家を出てからたまにしか顔を見せに来なくなったアレは今年で還暦だし、俺は更にその一つ上だ。
「それ気に入った?」
居間に入ってきたホークスが底抜けの笑顔で言う。その頬は白く、火傷の後もイカレ女のつけた傷跡もない。大きな事故や事件に首を突っ込まなかった二十そこそこの健康体だ。古く湿っぽい日本家屋の屋敷に陽の光が差し込んできたようだった。かつて汚れ仕事に手を染め傷だらけだったヒーロー・ホークスは、本来ならこれほど眩しい男だったのだと思い知る。
「啓悟、おかえり」
バームクーヘンを蒼炎で燃やしかけていた俺はテーブルに手をついて立ち上がり、その勢いのままテーブルを乗り越え宙を飛んでホークスの傍に立ったが、男はわずかに眉根を寄せた。
「普通に歩いてよ」
「お前しかいないだろ」
「もしユノちゃんを連れてたらどうするんだよ。これが父さんの個性でさァって言い訳すんの? 飛んだり燃やしたり死んだペットを生き返らせてんのに」
ホークスは横目でセピア色に照らされた水槽を見ながら言った。流木の陰から白蛇がすいと鎌首をもたげてホークスを見上げた。
「そんときゃ記憶かき換えてやるよ」
笑いながら頬に口づけると、甘い匂いがした。公安委員長からはいつもわずかに血の臭いがしたが、ホークスからは――俺の啓悟からは清潔な石鹸の香りがする。こめかみ、目元と口づけて最後に耳を甘く噛んでいると、胸のあたりを片手で押し返される。そんな力で……? 小さな抵抗がおかしくて、笑いが漏れた。
墓を暴いて生き返らせた後の十数年間、この男はずっと俺だけを見てくれた。半分は俺が実の父親だと思い込んでいたせいだが、俺だって親父の轍は踏まないよう努めたつもりだ。この男が公安の地下で俺にそうしてくれたように、欲しがるものは与えたし、寝入るまで眠らず傍にいたし、無邪気に夢を語れば聞いてやった。
「荼毘」の失敗を繰り返さないようにも気をつけた。十歳そこそこで俺が年を取らないで自由気ままに暮らしているのがおかしいことに気づかれた時は驚いたが、隠さずにありのままに話した。俺が荼毘で、お前はヒーローだったと。ホークスの面影を残す子どもは昔と同じように目を見張り、俺を睨みつけ、数日間口も聞かず部屋にこもっていたが、しばらくして俺の動画を見たと報告してくれた。そうして「父さんと敵対するならヒーローになるのやめる。普通に生きたい」と神妙な顔で言われた。ホークスらしからぬ台詞に俺の方が動揺したが、そういうものかもしれないと思い直して、なるべく啓悟が普通に過ごせるように心がけた。今から思えば、それが間違いだった。
「荼毘」には中学からの普通の生活なんて想像がつかなくて、俺はただ啓悟の口にした望みを叶えた。普通に学生生活を送りたい、一人暮らしをしたい。大学で研究室に籠もるから、となかなか帰ってこなくなっても、仕事で忙しいから来ないでほしいと言われても、それが普通なら仕方がないと待った。啓悟だってそのうち思い出してくれる。委員長ホークスのように俺を見てくれる。俺はヴィランで、ほとんどの罪を償わないまま生きている。ホークスは許せないはずだ。きっとホークスが俺より先に死んだあの日の続きが――まだ続きがある、だなんて、そんな幸せな夢を見ていた。
「父さん、やめて」
胸を押し返す力が強くなったが、構わず腰を抱いて唇を食んだ。視界の隅に小綺麗な木箱が映る。今ならわかる。啓悟のいう「普通の生活」に、初めから俺は入っていなかった。
「なんで?」
「あのさ、ユノちゃんがこういうのおかしいって」
「ハハ、何がおかしい?」
「親子でこんなことしないって」
強く額を押し返されて、しぶしぶ体を離す。ほんの十年前まで疑いもしなかったのに、いつからこんな余計な知恵をつけてきたのか。横目で綺麗な木箱を睨みつければ、ホークスが慌てたように「燈矢」と俺の腕を引いた。昔から名前を呼ばれると俺が喜ぶのを、この小賢しい子どもはよく心得ている。
「血ィつながってねえよ。またお前が死んだ時のことから話してやろうか」
「燈矢、そういうことじゃなくてさ」
「何が不満だよ」
「俺、平和に暮らしたい。……それに、燈矢に言うの遅くなったけど」
ホークスは顔をしかめて唾液のついた唇を手で拭い、吐き捨てた。
「子どもが生まれるから」
俺は自然と口角が上がるのを感じた。
「そんなことか。とっくに知ってるよ。なァ、その子の個性教えてやろうか」
途端にホークスの顔が引きつった。扱いを心得ているのはこの男だけじゃない。俺だってそうだ。〝予知〟の話をすれば、ホークスは瞬きもせずに俺だけを見てくれる。
俺はこんな身体になってから夢を見なくなった。そもそも眠らなくても構わないから、啓悟が県外ゾロ目ナンバーの赤い車にひかれる白昼夢を見た時は文字通り血の気が引いた。何の〝個性〟か分からないまま啓悟に話していた矢先、同じ車にひかれかけた。初めは単純に啓悟の危険を回避しようと夢を見るたび話していたが、そのうちホークスがいらねえ正義感を発揮し始めて、夢で火事になった家へ真夜中に単身張り込みに行って放火犯を捕まえてからは、あまり見えなくなったと嘘をついた。そして、こういう時に引っ張り出してやることにした。
「赤い翼だよ、啓悟。何もかもを聞きつけてくれる綺麗な羽だ」
カナリアイエローの目には俺が本名を明かした時のように俺の姿だけが映り込んでいた。気分が高揚する。ただ、その表情は歪んでいて、明らかに俺を疎ましがっていた。
「燈矢、それ本当に?」
「ああ、可愛いよな、お前似だ」
「俺、個性がないのに。燈矢だって剛翼はもってない。ユノちゃんになんて言えば……」
「正直に話せよ。俺はホークスだって」
「そんなことできるわけないだろ!」
「ハハ、なんでだよ。たとえそいつがバラしたって俺みてえにタルタロス行きじゃねえんだ、決戦で大活躍したヒーロー様のご帰還だろ。客は大喜びでホークスを褒め称えるぜ、奇跡の生還とかなんとか言って。もちろん公安も諸手を挙げて歓迎するだろうな、必死に存在を消してきた二十年前の洗脳教育の賜物が今さら化けて出てくるんだから」
ホークスはハッと強く息を吐き、俺の肩を掴んだ。
「燈矢、その話、絶対に他の人に言わないで」
「ハハ、必死だなァ? 何をそんなに怖がってるんだよヒーロー」
「ユノちゃんにも」
「家族になるのに秘密にしたままか? 不誠実な奴だな。子どもにはいつ話す? 気が進まねえなら俺から話してやろうか」
「燈矢、お願いだから」
ホークスは俺の手首を強く握りしめて懇願してきた。
「……いいぜ。その女、今度家に連れてこい。俺が剛翼を生やした幻でも見せてやる。ただし条件をつけさせろ」
「分かった。俺ができることなら何でもする」
ホークスは淀みなく言った。この男のこういうところが、俺は本当に。拳を握りしめ、それから義手の方を伸ばして頬に触れた。
「なら、俺を拒むな」
ホークスはあからさまにほっとした顔をして、見た目だけは生身の義手を掴んで自ら顔をすり寄せてきた。それから、指先に軽いキスをされる。
「お安い御用だよ、これでいい?」
にっこりするのがどうにも憎めない。選ばれなかったと分かっているのに、俺はまだ甘い希望を捨てられないでいる。そろそろと肩に顔を埋めれば、まるで子どもに――俺がホークスの真似をして幼い啓悟にしてやったように、背をぽんぽんと叩かれた。
「今まで通り二人きりの時ならいいよ。その代わり、さっきの約束は守って」
先ほどの強い拒絶はなんだったのかと疑うほどホークスは簡単に言ってのけた。無理やり条件を飲ませたはずなのに、なぜか俺の方がしてやられた気分になるのが気に食わなかった。今さら後悔なんてしないが。
テーブルに放置されていた包みを開け、綺麗に切り分けられたバームクーヘンの一欠けをフォークで突き刺して無言で差し出す。ホークスは案外大きな口を開けフォークに噛り付くと、一度で口に入れてしまった。前触れもなく、白い顔で公安本部の地下に横たわっていた男の顔が脳裏をよぎる。同じだが傷一つない顔が、目の前で咀嚼し、結構おいしい、と笑った。
「心配しなくても誰にも言わねえよ。結婚おめでとう、啓悟」
男は一瞬躊躇ったが、すぐに大事そうに両手で俺の手を包んで嘯いた。かつてヒーローとして俺に近づいてきた頃のように、この嘘こそが正しいのだと言わんばかりに。
「ありがとう。愛してるよ、父さん」