「なーんで水族館なんかな」
チケット窓口で手渡された小さなパンフレットを丸めながら目の前の大水槽を見上げる。悠々と泳ぐジンベエザメ、ひらひらと舞うマンタの影、銀の背をライトに照らされながら一斉に向きを変える魚の群れ、そして隣を歩く、サングラスをかけて黒いフードを被ったいかにもな不審者。
その黒いレンズの隙間からのぞく蒼い目が愉快そうに弓なりに反った。
「さあな。薄暗くて雑多でブツの受け渡し場所に最適なんだとさ。先生とやらのお考えは崇高で俺にはさっぱりだ。まァ、イカレてんだろ」
イカレてるのはお前もだろ、荼毘。
喉まで出かけた台詞を無理やり飲み込んで、俺はフロアの段差に気づき、男の手を上へ引いた。
「見える? ゆるいスロープあるの」
色の濃いレンズを指で叩いてやれば、荼毘は芝居がかった仕草でサングラスをずらし、ふと笑った。
「その辺のカーペットでも焼きゃあよく見えるんだがなァ。お前は夜目もきくんだな」
「んー、俺は人間なんで」
笑い声を上げてから前に向き直り、どうせ見えないだろうと思い切り顔を歪める。コイツ、会話のキャッチボールとか知らんかな。常にデッドボールを投げてくるのがほとほと嫌になる。
内心悪態をつかれているとは知らない荼毘は、俺の手を頼りにしてゆっくりとついて歩いてくる。室内に入ってから妙に足元が覚束ないこの男、どうやら視神経も若干やられてるらしい。そりゃそうだ、目の下の火傷はかなりの範囲だし。よっぽど装うのが上手いのか、俺に合わせてきちんと歩いてくるけど、微妙にタイミングがズレる。
最悪なことに解放戦線が無事発足したことだしバイオレットの部下を使えばいいのに、なんでわざわざ俺を指名したんだろうか。コイツに気に入られているなら好都合だけど。俺はスケプティックにマイクロデバイスをつけられる前から公安に同じものを取り付けられているから、この取引は全部向こうへ筒抜けだ。
『十四時よりブルーラグーンにてイルカショーを行います。観覧のお客様……』
指定のフロアに着いた直後だった。頭上のスピーカーからアナウンスが館内に響き渡り、色とりどりの熱帯魚が舞う華やかな水槽の前で荼毘は立ち止まった。振り返れば、男はサングラスを外してポケットにしまっていた。四方八方に飛ばして追尾させている羽根で感知する限り、人波はショーへ向かっている。
「そろそろ時間だ」
羽根の先がぴんと伸びる。ここからだ。遅れをとるとこの諜報任務が終わりかねない。今から会うオール・フォー・ワンの手先には最大限の注意を払い、なおかつ隣にいる発火物の火の粉にかからないように、市民を守らなければいけない。
深呼吸をする。俺は「ヴィラン」だ。今からは決してヒーローの顔をしてはならない。
「ふは、肩の力抜けよ、ホークス」
テノールが笑いをこらえながら言った。なんでこんな時は聡いんだろう、この男。本当に嫌いだ。俺は気の抜けた笑みを作って頭をかいた。
「わかった? さすがにね、あの方は俺も気になるんだよ」
「ハハ、ビルボの発表会みたいにたてつかねえんだな。安心しろよ、本人は深海のハコの中、今から来る相手は単なる社会のゴミだ。ビビるなら目をそらせばいい。ここは綺麗だろ」
荼毘の手が水槽のガラスに触れた。燃やさないかとどきりとしたけれど、男の蒼い瞳は目の前で揺らめく熱帯魚の群れを静かに映していた。青い光に照らされた男の全身を魚の影が横切ってゆく。男はしばらくしてガラスにつけていた手を下ろし、また薄暗いフロアに戻ってきた。
「お前にもそんな感情あるんだ。こういうとこ好きなの?」
「さあ。情緒を俺に期待するなよ。とっくに焼ききれちまった」
「ふーん。こういうとこ俺は目新しくて好きだよ。前に一回来たっきりだし」
荼毘がぱちりと瞬きをした。時折この男が見せる幼い眼差しに、俺の頭は感情よりも理性を優先する。いける。今、この男の隙間に入り込める。
「お前と来れて嬉しいよ」
口角を上げながら繋いだ手を強く握ってやると、荼毘の目元がわずかに緩んだ。触れている手がほんのり温まってくる。無言で肩を寄せてきたので、荼毘の方の翼を少し広げて覆ってやる。火傷でかさついている頬が羽根に触れ、ちくちくと痛むけれど、そんなことは感情を昂らせたコイツに燃やされることを思えば大したことじゃない。
実際は水族館なんて何度も来たことがある。人の多い娯楽施設で事件が起こった場合のシミュレーションは必須だ。こうやって荼毘の手を引けるのも、この水族館での脱出経路を完璧に把握しているからにすぎない。
一度、情操教育とかで訓練抜きに水族館へ来たことはあるけど、ろくに覚えていない。鷹見啓悟が戸籍上死んでから数年はあまりの環境の変化で記憶があまりないし、思い出しても部分的なものだった。
「あんまりこういうとこ来なかった?」
できるだけ優しく甘い声で尋ねると、荼毘は俺の手を握りながら小さく答えた。
「お前と同じ」
一度きりってことか。貧しい家庭で育ったのか、親がこういう施設に連れてこなかったのか、あるいは荼毘自身に興味がなかったのか。
「こういうとこ好きじゃないの?」
「好きじゃねえな。こいつらは、死ぬまで本当の海で自由に泳げない」
それは、ほんの一瞬だった。荼毘がうつむくと、ちょうど白いスポットライトが黒髪を白く輝かせ、肌の火傷が光で消えた。長い睫毛は蒼い目に影を落とし、俺の知る荼毘ではない誰かがそこに佇んでいた。思わず目を奪われる。
「それでも、客が見てるだけマシだ」
感情が抜け落ちたような淡々とした声だった。天井のライトが移動したのか、男の顔はまた荼毘に戻った。
ステインの意思を継ぎ、偽りのヒーローを消し去る。冷めた目でそう嘯く男の台詞を、俺は本気で信じ込んでいるわけじゃない。だけど、今の言葉は。
「……そうだね」
迷った末に肯定を返せば、荼毘はそっと翼に頬を寄せてきた。黙ってそのまま翼で軽くくるんでやると、じっとしている。
分倍河原と違ってコイツは手遅れだ。監獄にブチ込めば敵の攻撃力を大幅にそげる。だからときどき優しく接してやっているだけなのに、この男はいつも初めてこんな扱いを受けたみたいにおとなしくなるから、調子が狂う。
「あんまり悲観するなよ。どんな場所にいたって魚は泳げる」
そう声をかけた途端、突然荼毘は手を振り払ってきた。さっきまでのしおらしい態度は何だったのか、まだ広がったままの翼を手で押しやってきたかと思えば、馬鹿にしたような視線が突き刺さってくる。
「ハ、つまんねえ慰めだな、ヒーロー。映画の方がよっぽどましだ」
「急に何? なんの映画?」
「ハリボテの街で隠しカメラ回されて生まれてからずううっと生中継されてる男の映画」
「何ソレ、怖。面白い?」
荼毘は何か思い出したのか喉で笑ってから、俺の顔を見てその笑みを消した。
「すげえ笑えるから観てみれば」
「うわァ……観る気失せた」
「大丈夫大丈夫、お前なら感動できるって」
再び荼毘が楽しそうに笑んで肩に手を回してきた。くそ。コイツ、自分の過去も死柄木の居場所も肝心な情報は絶対漏らさない。振り払おうか迷った瞬間テノールが囁いた。
「おい、来たぜ」
荼毘が顎をしゃくった先には、チャック柄のシャツを着た黒髪の男がいた。ありふれた容姿だが、目が合った瞬間分かった。自分のためなら平気で人を殺せる類の人間だった。
「あいつが先生とやらの捨て駒だ。見るのは初めてか?」
「そうだよ。紹介してくれる?」
コイツはダメだ。顔を覚えなければ。帰ったら速攻公安のデータベースに照会をかけて、この男の手がかりを――。
「こんにちは」
能面のように表情のない顔が近づいてきたかと思うと、身をかわす間もなく男の両手が翼を乱暴に掴んできた。瞬間、バチッと強い痛みが走る。すぐに後ろへ飛び退き、翼をたたもうとしたが足も翼もうまく動かない。一歩下がって男の手から逃れただけ、羽は中途半端に広がったままだ。
男の両手からはバチバチと稲妻が走っている。電気系統の“個性”か――しまった、気を抜いていた。唇を噛みながら、反射的に荼毘を背にして痺れの残る手で風切り羽を構える。
「挨拶していきなり攻撃はないっスね、先輩?」
「失礼、念のためマイクロデバイスを遮断させていただきました。すべてデトネラット社製とは限らないので」
「……そーっスか。用心深いことで」
バレてる。公安のマイクロデバイスは生きているだろうか。アレがないと上からの指示を仰げない。このあと俺の自由にしすぎたら、委員長から呼び出しをくらうのは確実だし。
「では、こちらです。どうぞ、ホークス」
男はリュックをおろして中から黒い箱を取り出し、俺の前に差し出した。大丈夫なのか、コレ。仕方なく受け取ろうとした瞬間、背後から黒いコートが滑るように前に出てきた。
「あいにくこいつは持ち物が多くて手が塞がってる」
片手でひったくるように受け取ったかと思うと、ボッという音ともにその手が赤い炎をまとった。箱はあっという間に炎に包まれ、黒焦げになった。
「おいおい、こんな低温で燃えるゴミが例のブツだって? 言っておくが俺はてめえみてえにご主人様に命じられればどこにでも出向く犬じゃねえ。わざわざ衆目を集めるような場所に出向かせておいて、カスをつかませる気ならこちらにも考えがある」
男は数秒間荼毘の方をじっと見てから、深々とお辞儀をした。
「大変失礼いたしました、荼毘さま。死柄木さま本人ではない場合、信用できない相手には渡さないよう仰せつかっておりましたので、一度試させていただきました」
「それは荼毘の信用テストってこと?」
「いえ。変わった方をお連れだと判断したまでです」
男の虚ろな目が俺を映し、それから説明は済んだとばかりにもう一つの箱を取り出して荼毘へ差し出した。荼毘が受け取ると、男は「では、確かにお渡ししましたよ」と語気を強めた。
「持ち帰り次第、確実に死柄木さまへお渡しください。死柄木さまの“個性”が鍵ですので、剛翼では開けません。無理な開錠はおやめになった方が賢明です」
「あはは、俺って信用ないんかな。開けませんよ」
男は返答することなく再びリュックを背負い、荼毘の方にだけ一礼して去っていった。
「ありがと、さっきは助かったよ」
まだ痺れが残る翼をゆっくりとたたみながら声をかけると、荼毘がふっと笑った。
「何の礼だ? ひょっとして恐怖に縮み上がってたか? ……あァ、足輪を断ち切ってやった礼ならいらねえよ」
「あっ」
急に翼の付け根を掴まれて声が出た。人肌と羽毛の境界線をなぞるように触れられ、自分の意思とは関係なく体が跳ねる。思わず男によりかかれば、優しい手つきで撫でられた。
「よかったなァ、今日こそはお前の翼に埋め込まれたクソみてえな監視器具を燃やそうと思ってたんだよ。今まで辛かったろ、だらしねえ喘ぎ声も社会的に死んじまう愚痴も四六時中録音されてるなんて俺なら発狂しちまう。スケプティックはひどいヤツだよ、お前はもうとっくに“こちら側”だってのに未だに疑ってンだ。……ハハ、そんな心配そうな顔すんなよ、あの神経質なナードにお前が合わせてやる必要はねえ。今日付けでお前はバイオレットが預かる」
コイツ、今なんて言ってる? 荼毘がこんなに饒舌だなんて珍しい。聞かないといけないのに、荼毘の手が触れている翼の付け根が妙にぞわぞわとしてたまらなくて身をよじる。言葉を咀嚼する前に、脳がじんと痺れるような感覚に全身を支配されて、風切羽を取り落とした。ア、と声を上げて手を伸ばした瞬間、黒いブーツの先がそれを踏みつける。
「安心しろよ、俺がうまく言ってやる。もしホークスがスパイ野郎なら随分哀れで滑稽だと思わないか? 自分はさも自由に飛ぶ狩人だって偉そうな顔した猛禽類が、実はとっくに調教済みだなんて、下手な感動映画よりよっぽど泣けちまうだろ、ってな」
まだ熱の残る手に顎を持ち上げられて、蒼い目が間近に迫ってくる。コイツの目だって先ほどの男と変わらない、人でなしの目だ。それなのに、なんでこんなに目が逸らせない?
もう一度付け根を優しくくすぐられて身体を小さく震わせた瞬間、ヴィランは金属の針を埋めこんだ口の端を吊り上げて笑った。
「なァ、ホークス?」