南田原の稲葉谷の奥、丘の上に一つの小さな祠が、ひっそりとたたずんでいます。地域の人々が「瘡神(くさがみ)さん」と呼ぶこの祠は、かつてこの土地の人々が、最も恐れた病と向き合った、切実な祈りの場所でした 。
その病の名は、疱瘡(ほうそう)、すなわち天然痘。近代医療が確立される以前、それは死に至る病であり、たとえ一命を取り留めても顔に醜い痘痕(あばた)を残すことから、「みめ定め(容姿を決める病)」とまで言われた、目に見えぬ最大の脅威でした 。
この記事では、この小さな祠に秘められた、恐怖を乗り越えようとした人々の知恵と、神様と交わした素朴で力強い「契約」の物語をひもときます。
科学的な知見が及ばない圧倒的な脅威に直面した時、昔の人々は、その災厄に人格と意思を与え、「疱瘡神(ほうそうがみ)」という神として捉えました 。これは単なる迷信ではありません。それは、人知を超えた恐るべき現実を理解し、交渉し、そして乗り越えるための、当時の人々にとっての合理的で体系的な世界観でした 。
疱瘡神は、日本古来の「御霊信仰(ごりょうしんこう)」の系譜に連なります。これは、非業の死を遂げた人間の怨霊などが引き起こす「祟り(たたり)」を鎮めるため、その霊を丁重に神として祀り上げることで、逆に共同体を守護する神へと転換させようとする信仰です 。
このため、疱瘡神への対応は二つの段階に分かれました。
第一段階は「撃退」。疱瘡神は赤い色を嫌うとされ、赤い着物や赤い玩具(※福島の「赤べこ」など)で神を家に寄せ付けないようにしました 。
しかし、一度家に侵入されてしまった(=病が発症してしまった)場合、戦略は第二段階の「 歓待」へと移行します。疱瘡神は、怒らせると恐ろしいが、丁重にもてなせば病を軽くしてくれる「客神(まろうどがみ)」として扱われ、病人の枕元には祭壇が設けられ、御神酒や赤飯が供えられたのです 。
南田原の稲葉谷に祀られる「瘡神さん」は、この疱瘡神信仰が、この土地でいかに具体的で、ユニークな形で実践されていたかを示す、貴重な証人です。
この祠は、昭和の初期まで「デンポ(天然痘)の神さん」として、地域の人々から篤く信仰されていました 。そして、ここには神様との間に結ばれた、素朴で切実な「契約」の風習が伝えられています。
家族が病にかかり、平癒を願う時には、まず「泥の団子」をお供えしました 。これは、最も質素で、しかし最も切実な祈りの形です。泥の団子に、自らの病や苦しみ、そして貧しさを託し、どうかこの苦しみを取り除いてください、と神様に差し出したのです。
そして、その祈りが聞き届けられ、病が癒えた時には、お礼として「本物の団子」をお供えしました 。これは、最高の感謝の形であると同時に、神様との約束を果たした証でもありました。
この一連の行為は、目に見えぬ脅威と共に生きた、昔の人々の切実な祈りの心が凝縮されています。それは、神を一方的に頼るのではなく、神と対等に「契約」を結び、自らの誠意をもって願いを叶えようとする、人々の強靭な精神の表れでもあったのです。
南田原には、この「瘡神さん」だけでなく、街道沿いや村の辻に、旅人や子供を守る地蔵菩薩や、超自然的な力を持つ役行者の石仏が数多く残されています 。
これらの石仏は、外部から侵入するあらゆる災厄を防ぐ「道祖神(どうそじん)」としての役割を担っていました 。南田原の人々は、疱瘡という未曾有の脅威に直面した際、専門神である「瘡神さん」に特別な祈りを捧げると同時に、古くから馴染みのある地蔵菩薩や役行者の力にも頼り、幾重にもわたる「祈りのセーフティネット」を張り巡らせていたのでしょう 。
医学の進歩と共に、天然痘の恐怖は過去のものとなり、「瘡神さん」の役割もまた、その役目を終えました。しかし、稲葉谷の森にたたずむあの小さな祠は、単なる古い史跡ではありません。
それは、圧倒的な災厄を前にしても決して希望を捨てず、知恵と工夫で神と対話し、家族の無事を祈り続けた、私たちの先祖たちの力強い精神の記念碑です。泥の団子に込められた切実な祈りと、米の団子に込められた深い感謝の物語は、この土地が持つ、かけがえのない魂の記録なのです。