南田原の里を歩くと、地域の人々から「シンドンドー」という、どこか懐かしく、温かい響きの愛称で呼ばれるお寺に出会います。その名は、新塔堂 法薬寺(しんとうどう ほうやくじ) 。
ここは、安産を願う人々の祈りを受け止め、病気の平癒を願う人々の心の拠り所となってきた、地域に深く根ざした祈りの場です。
この記事では、なぜこのお寺が「シンドンドー」と呼ばれるのか、その由来をひもときながら、二人の仏様に見守られた、この土地ならではの信仰の物語へとご案内します。
法薬寺が「シンドンドー」と呼ばれるようになった背景には、この土地の歴史が深く関わっています。
かつて南田原村には、真言宗の五つのお寺がありました 。その中で、新しく建てられたお堂に子安地蔵尊を祀ったのが、この法薬寺でした 。この「新塔堂(しんとうどう)」という呼び名が、いつしか人々の間で親しみを込めた「シンドンドー」という響きに変わり、今なお愛称として受け継がれているのです 。
この愛称は、法薬寺が創建当初から、地域の人々にとって身近で、新しい希望の象徴であったことを物語っています。
法薬寺は、岩蔵寺の末寺として、江戸時代中期の寛文年間(1661~1673年)に開かれました 。ご本尊は、安産や子供の健やかな成長を守ってくださる「子安地蔵尊(こやすじぞうそん)」です 。
しかし、明治3年(1870年)の詔書「大教宣布」の影響を受け、お寺は大きな困難に見舞われます。廃仏毀釈運動の流れを受け本堂が破損、同じく岩蔵寺の末寺であった「常福寺」と合寺(合併)することになったのです 。この時、常福寺のご本尊であった、病気平癒の仏様「薬師如来(やくしにょらい)」も、法薬寺に合祀されました 。
こうした苦境の末、法薬寺シンドンドーは、「子安地蔵尊」が子供たちの誕生と成長を見守り、「薬師如来」が人々の病や苦しみを取り除くという、二人の仏様が共に人々の祈りを受け止める、より懐の深いお寺となったのです。この歴史は、困難を乗り越え、信仰を守り継いできた地域の人々の力の証でもあります。
法薬寺には、その信仰の深さを示す貴重な寺宝が伝えられています。
特に有名なのが、「矢田地蔵縁起井地獄極楽之図(やたじぞうえんぎいじごくごくらくのず)」と呼ばれる大きな絵図です 。これは、人が亡くなった後に行くという地獄の恐ろしい風景と、善い行いをした人が行けるという極楽の安らかな風景を描いたもので、毎年夏の地蔵盆の日にだけ、特別に開帳されます 。
そしてもう一つが、とても大きな「百万遍大数珠(ひゃくまんべんおおじゅず)」です 。地蔵盆の日には、地域の人々が輪になってこの大きな数珠を皆で回しながら念仏を唱える「数珠くり」という行事が行われます 。一人ひとりの祈りを、大きな数珠が一つに繋いでいく。この光景は、法薬寺が今も地域の人々の心を結ぶ、生きた祈りの場であることを象徴しています。
法薬寺では、今も年間を通じて、地域の人々の暮らしに寄り添った行事が大切に営まれています。
薬師如来の祭(4月8日) 病気平癒の仏様である薬師如来に、一年間の健康を祈願する法要です 。
地蔵盆(8月23日) 子供たちの守り仏であるお地蔵様に感謝を捧げる、夏の一大行事。前述の「地獄極楽之図」が開帳され、「数珠くり」が行われるなど、人々で賑わいます 。
法薬寺、シンドンドー。その愛称で呼ばれるこのお寺は、安産を祈り、子の成長を願い、病の平癒を求める、人々の最も切実な祈りと共にありました。
一つの困難を乗り越え、二人の仏様を祀るようになったその歴史は、まるで、どんな苦しみも受け止め、救いの手を差し伸べてくれるかのようです。次にあなたがこの静かなお寺を訪れる際には、ぜひ思い出してみてください。この場所には、何百年もの間、地域の人々のささやかな、しかし力強い祈りが、温かく積もり続けていることを。