南田原の歴史を深く探訪する者は、やがて一つの古刹へと導かれます。修験道の祖が拓き、日本仏教史の巨人たちが祈りを重ね、そして戦国の武将たちがその信仰を守り継いできた場所。その名は、岩蔵寺(いわくらでら) 。
このお寺の奥深い歴史は、江戸時代前期の天和二年(1682年)に記された古記録『大和国添下郡 岩屋山岩藏寺 紀』によって、今に生き生きと伝えられています 。この記録は、岩蔵寺が単に一つの宗派の歴史を語るだけではなく、古代の山岳信仰、修験道、天台宗、真言宗という、異なる時代の、異なる祈りが、まるで地層のように美しく重なり合って形成された「聖地」であることを、雄弁に物語っています。
この記事では、この三百数十年前の記録を道しるべに、この土地がいかにして「聖者たちの交差点」となったのか、その壮大で重層的な物語へとご案内します。
岩蔵寺の歴史は、日本の宗教史における伝説的なスーパーヒーロー、役行者(えんのぎょうじゃ)によってその幕を開けます 。
その昔、生駒山には人々を苦しめる恐ろしい鬼がいました。役行者がこれを降伏させようと山に入ると、鬼は激しく抵抗します。役行者が呪文を唱えたその時、にわかに雲が下りてきて、その中から金色の鎧をまとった神人、毘沙門天王が現れました。毘沙門天は「あなたの篤い信仰心に応えてやって来た。望みを叶えよう」と告げ、たちまち鬼を降伏させたといいます 。
その後、毘沙門天が去っていった北の方角を探し求めた役行者がたどり着いたのが、この岩屋山の峰でした。役行者はこの地の霊験に感じ入り、自らの手で、目の前に現れてくださった毘沙門天の姿を模した仏像を彫り、岩窟に安置したとされます。これが、聖地・岩蔵寺の全ての物語の始まりです 。
役行者が拓いた聖地は、やがて平安時代に入ると、日本仏教史における二人の巨人を惹きつけます。日本天台宗の開祖・**最澄(伝教大師)**と、真言宗の開祖・弘法大師空海です 。
『岩藏寺 紀』によれば、まず延暦年間(782-806年)に最澄が役行者の神聖な足跡を慕ってこの地を訪れ、七日七夜の修行の後に立派な堂宇を建立し、「岩蔵寺」と名付けたとされます 。この時、最澄は自らがまとっていた袈裟を寺に残し、さらに 熊野権現が現れて「この寺の仏法を守護しよう」と誓ったため、熊野権現の祠も建てられたといいます 。
しかし、その後、寺には魔物が住み着き、修行者は逃げ去り、荒れ果ててしまいました。この危機を救ったのが、唐から帰朝した弘法大師空海でした。空海がこの山の麓で休んでいると、一人の老翁が現れ、自らを「住吉の神」と名乗り、「あなたの密教の力で、この山の魔物を祓ってほしい」と懇願したのです 。
この神託を受け入れた空海は、山に登り、一夜の祈祷の末に魔物の一団を完全に退散させました。そして、傍らの石で不動明王の像を彫って岩窟に置き、永くこの地を守る鎮守としました。また、水がなかったこの地に、呪文を唱えて清らかな泉を湧き出させ、滝としたとも記されています 。
このように、岩蔵寺の縁起は、修験道の開祖、天台宗の開祖、そして真言宗の開祖という、日本仏教史における三人の巨人が関わるという、極めて格式の高い物語として構成されています。これは、後世の人々が、自らの寺院の権威と神聖性を高めるために、偉大な先人たちの物語を戦略的に重ね合わせていった「聖なる物語の重層化」の証です 。
岩蔵寺の縁起の中でも特に興味深いのが、空海と、この土地の神との関わりを描いた逸話です。
空海がこの地に滞在していた際、一人の老翁が現れ、自らを「この郷に鎮ずる住吉明神なり」と名乗り、空海に対して「鎮国安民息災増益の密教」の力でこの地の魔を鎮めるよう懇願したと記されています 。空海はこの神託を受け入れ、魔を鎮め、三層の宝塔を建てたとされます。
この物語は、神と仏が共存する「神仏習合」の典型例です。重要なのは、仏教が一方的に神を征服するのではなく、土地の神(神道)が自ら仏法(仏教)の力を認め、その助力を請うという形をとっている点です。これにより、岩蔵寺と、そのすぐ近くに鎮座する住吉神社の関係は、互いの権威を高め合う、深い協力関係の上に成り立っているのです 。
聖地としての岩蔵寺の価値は、戦国の武将たちからも深く認識されていました。『岩藏寺紀』は、二人の重要な武将の名を記しています。
永禄十一年(1568年)、河内西田原の領主であったキリシタン武将・田原対馬守が、荒廃していた寺を再興し、本堂を見事に建て直したとあります 。
さらに天正七年(1579年)には、この地を治めた最後の城主・坂上丹後守(尊忠)が、本堂の外陣(げじん、参拝者のためのスペース)を再建しました 。
『岩藏寺 紀』は、この坂上氏と岩蔵寺の毘沙門天との間に、特別な因縁があったことを伝えています。昔、この郷に子のいない貧しい夫婦がおり、当山の毘沙門天に七日間祈ったところ、妻の夢に宝珠が胎内に入るのを見て、男の子を授かりました。その子は長じて才能を発揮し、やがて朝廷からこの地に領地を賜った。その末裔こそが、現在の丹後守(尊忠)である、というのです。この奇跡の物語があったからこそ、坂上氏の毘沙門天への信仰は、他とは比べものにならないほど篤かったと、記録は結んでいます 。
岩蔵寺の物語は、一人の聖者が拓いた祈りの小道が、やがて時代の巨人たちの足跡が交差する「聖なる交差点」となり、神と仏が対話し、そして地域の領主たちがその信仰を守り継いでいった、壮大な歴史の物語です。
その境内には、役行者の磨崖仏や、室町時代の十三仏種子板碑など、各時代の祈りが石に刻まれて今も残ります 。次にあなたがこの静かな寺を訪れる際には、ぜひその石の一つひとつに耳を澄ませてみてください。そこには、千三百年以上にわたってこの土地に積層してきた、豊かで力強い祈りの声が、こだましているはずです。
この特集記事でご紹介した岩蔵寺の壮大な物語は、単なる口伝えの伝説ではありません。その多くは、江戸時代前期の天和二年(1682年)に記された『大和国添下郡 岩屋山岩藏寺 紀』という、一つの貴重な古記録に基づいています 。
この記録は、三百数十年の時を超えて、役行者、最澄、空海といった聖者たちの息吹と、この土地に幾重にも重なってきた信仰の姿を、私たちに生き生きと伝えてくれます。
ここでは、その全文を現代語訳で掲載します。江戸時代の人々が信じ、語り継いできた、聖地の物語の原文に触れることで、岩蔵寺という場所が持つ、より深く、より豊かな精神性を感じていただければ幸いです。
大和国添下郡 岩屋山岩藏寺 紀(現代語訳)
仏の道というものは静かで形がなく、その救済の働きはあらゆる場所に現れる。形のない道は全世界に広がり、その働きはあらゆる人々に及ぶ。しかし、道はそれ自体で広まるのではなく、必ず人を通じて広まるものである。また、救済の働きはむやみに起こるのではなく、必ず人々の信仰心に応じて現れるのだ。思うに、非凡な人物がいてこそ非凡な事業が成し遂げられ、非凡な事業があってこそ非凡な功績が立てられる。事業というものは常に存在するわけではなく、それを成し遂げる人物も常に現れるわけではない。我が国日本は辺鄙な場所にあり、その純粋な姿を長く保ってきた。インドからの仏法の素晴らしい風が遠く伝来して以来、代々偉大な人物が現れ、国々に霊験あらたかな場所が開かれてきた。書物に記されたものは数えきれず、見聞きする場所も実に多い。これらは人々の心の塵を払い、代々の人々の幸福の源となっている。
当山(岩倉寺)は、役行者によって開かれた場所である。役行者は、世に稀な資質を持ち、誰もが真似できないような修行を行った。葛城山に入り、岩窟で暮らすこと三十余年、藤の蔓を衣とし、松の実を食料とした。五色の雲に乗り、様々な場所を訪れ、鬼神を使役した。日本の霊場をほとんど巡り歩き、当山もその一つである。
その昔、生駒山に恐ろしい鬼がいて、人々を苦しめ殺していた。役行者がこれを降伏させようと山に登ると、鬼は激しく抵抗した。役行者が呪文を唱えると、にわかに雲が下りてきて、その中から金色の鎧を着た神人が現れた。それは毘沙門天王であった。毘沙門天は「私はあなたの篤い信仰心に感じてやって来た。あなたの望みを叶えよう」と告げた。たちまち鬼は降伏し捕らえられた。この詳細は生駒山の縁起に記されている。その後、毘沙門天は北の方角の峰々へと去っていった。役行者はその方角を望み、探し求めてこの峰(岩屋山)にたどり着いた。この峰は、緑の山々が連なり、谷川を抱き、木々の茂る峰は奥深く雲を吐き出すようで、俗世の煩わしい思いを心から取り除き、世の塵を洗い流してくれる場所であった。いわゆる、山々の神秘的な美しさを持つ、天地の奥深い霊場である。世俗を捨てて仏道を楽しみ、仙人のように霞を食べて不老不死を得るような者でなければ、どうしてこのような場所に来ることができようか。役行者はこの霊験を目の当たりにし、鬼を地下深くに鎮め、そして目の前に現れてくださった毘沙門天のお姿を模して、自ら一体の仏像を彫り、この岩窟に安置し、日々祈りを捧げた後、この地を去った。岩に残る足跡は、その時のものであると伝えられ、今も消えずに残っている。人々はこの山を岩屋山と呼ぶ。
その後、延暦年間(782-806年)に、伝教大師(最澄)が役行者の神聖な足跡を慕い、その不思議な土地を巡り、帰ることを忘れるほどであった。仏法を広め人々を救いたいという願いを込めて、この岩窟に七日間こもって祈った。するとある夜、夢の中でお告げがあり、立派なお堂を建てて役行者の毘沙門天像をそこへ移し、新たにご自身の作で吉祥天女と禅尼師童子の像を両脇に安置した。そして「岩藏寺」と名付けた。大師は自らがまとっていた袈裟をこの寺に残した。その時、熊野権現が現れて「この山はもともと私の土地だが、毘沙門天王に差し上げたものだ。今、幸いにもあなた様のお力によって、真の仏法を広める場所となった。私がこれを喜ばないわけがあろうか。誓って、この寺の仏法を守護しよう」と告げた。これによって、熊野権現の祠が建てられ、寺の鎮守とされた。以来、静かに修行する人々が住むようになった。しかし、その評判が広まってまだ間もない頃に、魔物の障りや祟りが起こった。住んでいた修行者たちは安心して修行ができなくなり、逃げ去ってしまい、灯明や香を供える者もいなくなった。お堂にはただ山風が吹き込むばかりで、魔物が主のように居座ってしまった。
さらにその後、弘法大師(空海)が、唐での修行を終えて帰国し、高野山を開いた後、京との往還の途中で当山の麓で休息をとっていた。すると一人の老翁が現れ、指をさしてこう言った。「この山は役行者が開き、毘沙門天王が祀られている神聖な岩窟です。伝教大師がお堂を建てて道場とされましたが、魔物が絶えず、住む人がいなくなってしまいました。大師は、国を鎮め、民を安んじ、災いを除いて福をもたらす密教の秘術を深く体得しておられます。どうか、この魔物を祓ってください。そうすれば、人々は仏の修行に励み、里人は安心して木を切ったり草を刈ったりできるようになるでしょう。私は住吉の神ですが、この地を守ってはいるものの、私一人の力では及びません。そのことをお伝えするために参りました。」老翁はそう言い終わると姿を消した。弘法大師はこの神のお告げを断ることができず、この峰に登られた。木々は奥深く生い茂り、石の道は曲がりくねり、山中は静まり返って人の訪れる気配は既になかった。主のいない一軒のお堂があり、やがて夜になった。大師は毘沙門天像の前にうずくまり、密教の作法に則って祈祷を始められた。すると、魔物の一団が驚き騒ぎ、山や岩が崩れ落ちるかのような物音がした。しかし大師は動じることなく結界を張り、魔物たちは侵入することができずに退散し、その後二度と現れなかった。岩も木々も喜んでいるかのように見えた。大師は傍にあった石で不動明王の像を彫り、岩窟に置いて、永くこの地を守る鎮守とされた。また、所持していた仏舎利(釈迦の遺骨)を毘沙門天像に奉納し、その威光と福徳をさらに高めた。この場所には清水がなかったため、大師が岩の角に呪文を唱えると、清水が湧き出して滝となった。境内全体の濁っていた水も皆清らかになり、永く続く甘い泉の湧く素晴らしい場所となった。大師は善女龍王を招いて泉の守り神とし、大黒天や弁財天などを祀って人々の豊かな暮らしを祈願した。住吉明神と熊野権現も、寺を護る神として並んで祀られている。その他、八幡神や春日神など多くの護法善神も祀られ、万全の守護体制が整えられた。それ以来、仏道を学び修行に励む人々が次々と訪れるようになり、僧侶の住坊が軒を連ね、立ち上る炊事の煙が絶えないほどになり、顕教・密教ともに盛んに学ばれる場所となった。三層の宝塔が雲間にそびえ、その屋根の飾りが日に輝き、護摩を焚く炉は暖かく、楼閣の鐘が時を告げた。経典を納めるお堂や宝物庫も建てられ、功績のあった開祖である役行者・伝教大師・弘法大師それぞれを祀るお堂もできた。単に仏法が栄えただけでなく、国中でも指折りの壮大な景観となった。
その岩屋から二町(約220m)ほど離れた場所に、龍の形に似ていることから龍池と呼ばれる長い池がある。これは弘法大師が掘ったもので、住吉明神が姿を現した形を表しているという。思うに、神は時に仮の姿(垂迹)で現れることがあるということだろうか。池のほとりには一本の背の高い木があり、星の森と名付けられているが、これには諸説あり、真実はわからない。
新堂法薬寺は、住吉の神の本体である仏を祀るお堂(本地堂)と言われている。住吉の神はこの地域全体の鎮守神である。お堂には地蔵菩薩が安置されており、役行者・伝教大師・弘法大師の三人の開祖がこの地を訪れた後に建立されたため、「新堂」と呼ばれている。
また、この峰から数十町(数km)離れたところに真弓山がある。ここにある寺は聖武天皇の建立である。この場所にも水が無く、そこの僧侶たちは当山の清らかな泉を慕い、毘沙門天像に祈って清水を分けてもらうことを願った。百日間、毎日歩いて当山に詣で、滝の水を汲んで帰り、それを仏に供える聖水として修行に用いた。百日目の満願の日、一匹の蛙がその聖水の桶に飛び込んだ。僧侶は、これこそが祈りが通じた証だと考えた。早速、地面を掘って井戸とし、その蛙の入った水を注いだ。すると、果たして清らかな泉が湧き出した。それ以来、その寺の境内には多くの泉が湧くようになった。毎年正月元旦に、その寺の二人の僧侶がこの山に来て、滝の水を汲んで帰るのが慣例となっており、今も続いている。
当山の毘沙門天像は、伝教大師と弘法大師が拝まれて以来、秘仏として篤く敬われ、そのお姿を直接拝む者はいなかった。しかし後宇多天皇の御代、建治二年(1276年)の春、相談の上で厨子の扉が開かれ、多くの人々がその威厳あるお姿を拝むことになった。その時には、遠近から多くの人々が雲のように集まった。しかし、歳月は物を風化させる。ましてや、深い洞窟の中の湿気は仏像にとって厳しい環境であった。そのため、仏像には損傷が見られた。そこで、当寺の僧侶である実恩法師が、名工の永観に依頼して修復を行った。これは、先師である行月への追善供養のためでもあった。
時は止まることなく、物は移り変わってゆく。この寺も、数百年の歳月を経て、建物の棟や軒が傾いてしまった。その頃、田原対馬守という人物がいた。彼は河内国西田原の領主で、正直で信義に厚い性格であった。この寺の衰退を見て、再興を発願し、本堂を見事に建て直し、昔の姿に戻した。永禄十一年(1568年)三月十五日に上棟式が行われた。また、坂上丹後守という人物もいた。彼は天正七年(1579年)に、本堂の外陣(げじん、参拝者のためのスペース)を再建した。この坂上氏は、次のような由来を持つ。昔、この郷に貧しく子供のいない夫婦がいた。夫婦は当山の毘沙門天像に七日間こもり、子供を授かるよう一心に祈った。満願の夜、妻の夢に、お堂の内陣から宝珠が飛んできて胎内に入るのを見た。その後、妊娠に気づき、月が満ちて男の子を産んだ。家もまた大変裕福になり、その子は次第に成長して、才能は人並み外れ、その評判は朝廷から庶民にまで広まった。やがて朝廷からお召しがあり、この国に領地を賜った。その後、年月を経て、山口に城郭を築いて住んだ。その武勇は代々受け継がれ、現在の丹後守に至っている。そのため、当山の毘沙門天への信仰は他とは比べものにならないほど篤い。ある時、隣村の役人が隙を狙って攻め入り、よからぬことを企んだ。丹後守はこれを討伐しようと、当山の毘沙門天に祈り、神仏の助けを求めた。すると夢に毘沙門天が現れ、鎧と矢を授けてくれた。そこで兵を率いて出陣すると、たやすく敵を平定し、功名を立てることができた。領民は安心して暮らし、田畑を耕すことができた。これも当山の毘沙門天のご加護のおかげであると、信じるに足ることである。丹後守が外陣を再建したのは、この賊を討伐できたことへの感謝を奉げるためであった。
元和六年(1620年)秋七月に再び御開扉が行われた。建治の御開扉から、三百四十年後のことである。
当寺の四方の境界は、東は鳥見、南は生駒、西は河内の国境、北は新堂山までである。
朝廷からは、三十町余り(約30ヘクタール)の田地が、寺の供物料として寄進された。寺は十五軒あり、僧侶たちは朝夕の勤行において、国家の安全と万民の豊作を祈っている。しかし、物事の道理には隆盛と衰退があり、義は現れたり隠れたりし、物事にも栄枯盛衰があるように、道理が常に同じ状態を保つことは難しい。当寺の過去の歴史を学び、現在の姿を見ると、嘆かずにはいられない。世は乱れ、事業は廃れ、人々の心は昔の気高い精神を失ってしまった。今の我々が昔を知らないように、後の人々もまた今のことを知ることはないだろう。ああ、どうして昔の素晴らしい功績を忘れ去ることができようか。このような思いから、当寺の住職が、寺の歴史が忘れ去られることを嘆き、記録して後世に伝えたいと、私にその執筆を依頼した。私は多病の身で筆を執るのも億劫であったが、住職の熱心な願いに断りきれず、ついに聞き知ったことを記録することにした。文章は拙く、筆の運びも覚束ないものである。
天和二年(壬戌)六月十八日