私たちのふるさと、南田原を静かに流れる一本の川、天野川。 そのせせらぎは、多くの人にとって見慣れた日常の風景かもしれません。しかし、その名の奥には、この土地の土の記憶、都人の詩心、そして日本の始まりを語る壮大な神話が、幾重にも重なり合って息づいています。
なぜ、この川は天上の川と同じ名で呼ばれるのでしょうか。その流れは、どこから来て、どこへ向かうのでしょうか。
この記事では、南田原の母なる川・天野川の物語をたどり、その流れに刻まれた、私たちの故郷の魂に触れる旅にご案内します。
天野川の名には、二つの異なる時代の物語が秘められています。
この川の最も古い名は、おそらく「甘野川」であったと考えられています 。その名の通り、「甘い野を流れる川」。この流域で収穫される米が、ことのほか甘く美味であったことから、そう呼ばれるようになったといいます 。弥生時代から続く稲作の営み、その豊かな実りへの感謝と誇りが、この川の最初の名には込められていました 。それは、この土地に生きる人々の、土と共にあった暮らしの記憶そのものです。
【画像挿入案】 ここに、南田原の黄金色に実った稲穂と、その脇を流れる穏やかな天野川の写真を挿入します。
時代は下り、平安時代。交野(かたの)の地が都の貴族たちの狩りや桜狩りのための風雅な遊猟地となると、川の名は新たな物語をまといます 。彼らが目をとめたのは、天野川の川底に輝く 白い砂(白砂)。これは、生駒山地の花崗岩が風化して生まれた、この川ならではの特徴です 。
月明かりに照らされてキラキラと輝くその様を、都人たちは夜空にまたたく星々の川、「天の川(あまのがわ)」になぞらえたのです 。
この詩的な見立てを、日本の文学史に不滅のものとして刻みつけたのが、平安時代を代表する歌物語『伊勢物語』の第八十二段です。物語の主人公とされる在原業平(ありわらのなりひら)が、惟喬親王(これたかしんのう)のお供として交野で狩りをした後、この地にたどり着いた際の情景が描かれています。
よき所を求めゆくに、天の河といふ所にいたりぬ。親王に馬の頭、大御酒まゐる。親王ののたまひける、「交野を狩りて、天の河のほとりに至るを題にて、歌よみて盃はさせ」とのたまうければ、かの馬の頭よみて奉りける。
狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に 我は来にけり
(良い場所を探し求めて行くと、天野川という所に着いた。親王に馬の頭がお酒を差し上げる。親王がおっしゃるには、「交野で狩りをして、天野川のほとりに着いたということを題にして、歌を詠んで盃をすすめよ」とのことだったので、例の馬の頭が詠んで差し上げた歌。)
(一日中狩りをして日が暮れたことだし、今夜は織姫様に宿を借りようか。なにしろ私は、天の川の河原にやって来たのだから。)
【画像挿入案】 ここに、天野川の川底の白砂が美しく見える写真と、上記の和歌を添えたデザインを挿入します。
この一首は、単に美しいだけでなく、極めて巧みな言葉遊びです。「天の河」という地名から、七夕伝説の「天の川」と「たなばたつめ(織姫)」を瞬時に連想させ、現実の風景と神話の世界を鮮やかに結びつけてみせました。この歌が詠まれた瞬間、この川は単なる地上の川であることを超え、恋人たちが年に一度だけ出会うことを許される、ロマンティックな物語の舞台となったのです。
「甘野川」から「天野川」へ。それは、地域の農業的なアイデンティティが、都の洗練された文化と出会い、新たな物語を重ね合わせていった、文化的な地殻変動の証なのです。
天野川は、その短い流路の中で、驚くほど多彩な表情を見せてくれます。
その源流は、南田原にある竜田川との分水点、かつて「田原卿(たわらのきょう)」と呼ばれた我々の地域にあります 。南田原を含むこの穏やかな上流域では、川は田畑を潤す命の水として、人々の暮らしに寄り添います。
この風景の美しさは、江戸時代の碩学をも魅了しました。元禄2年(1689年)、福岡藩出身の儒学者・貝原益軒は、この地を旅した際の記録『南遊紀行』の中で、田原の里の印象を次のように記しています。
此田原も、岩船のせばき山澗(さんかん)を過(すぎ)て、其(その)おくの頗(すこぶる)広き谷也。恰(あたかも)、陶淵明(たうえんめい)が桃花源記(たうくわげんき)にかけるがごとし。 (この田原も、磐船の狭い谷間を過ぎた奥にある、たいそう広い谷である。その様は、まるで陶淵明が『桃花源記』に書いた理想郷のようだ。)
貝原益軒『南遊紀行』より
【画像挿入案】 ここに、田原卿ののどかな田園風景の中を、穏やかに流れる天野川のパノラマ写真を挿入します。
しかし、国道168号線に沿って北へ下るにつれ、川の様相は一変します。深く切り立ったV字谷に入り、磐船渓谷と呼ばれる荒々しい景観を刻み込むのです 。露出した巨大な花崗岩の間を、白い飛沫を上げて流れるこの区間は、古くから修験道の行場としても利用されてきました 。
貝原益軒もまた、この劇的な風景の変化に驚き、天野川の名の由来について、自らの目で確かめた感動を次のように記しています。
獅子窟山より天川を見おろせば、其川、東西に直(すぐ)に流れ、砂川にて水少く、其(その)川原、白く広し。恰(あたかも)、銀河(ぎんが)の如し。故に、天の川と名付(なづけ)たるならん。…(中略)…凡、諸国の川を見しに、かくのごとく沙白くして広く直くにして、あざやかによく見ゆるは未見之(いまだこれをみず)。天川と名付し事、宜(むべ)也。 (獅子窟山から天野川を見下ろすと、その川は東西にまっすぐ流れ、砂の川で水は少なく、その川原は白く広い。まさしく、天の川のようだ。だから天の川と名付けたのだろう。…これまで諸国の川を見てきたが、このように砂が白く、広くまっすぐで、鮮やかに見える川は未だ見たことがない。天野川と名付けたことは、もっともなことである。)
貝原益軒『南遊紀行』より
この磐船渓谷には、七夕伝説よりもさらに古い、日本の創生神話が根付いています。それは、古代の有力氏族・物部氏の祖神である饒速日命(にぎはやひのみこと)が、天からこの地に降り立ったという物語です 。
【画像挿入案】 ここに、磐船神社の御神体である、巨大な「天の磐船」の迫力ある写真を挿入します。
饒速日命は、「天の磐船(あめのいわふね)」に乗って天から舞い降りたとされ、この磐船こそ、磐船神社の中心に鎮座する巨石そのものであると信じられています 。この神話は、天野川の渓谷を、単なる美しい風景ではなく、天と地を結ぶ神聖な門口として位置づけました。川は、神の権威と文化を畿内の中枢部へと運ぶ、聖なる通路としての意味を帯びることになったのです 。
天野川は、その流れと共に、南田原の歴史そのものを形作ってきました。
古代においては、大和と河内を結ぶ文化と物資の回廊であり 、戦国時代には、田原城が睨みを利かせる軍事的な 最前線でした 。そして江戸時代、貝原益軒が記したように、川は公式な 行政境界線となり、川を挟んで東は「大和国」、西は「河内国」と、人々は異なる藩に属することになります 。
川は、時に人々を分かち、時に人々を繋いできました。その流れは、時代から時代へと、この土地の物語を運び続けてきたのです。
南田原を流れる、一本の川。 その水は、甘い米を育んだ大地の記憶を運び、その砂は、平安貴族や江戸の碩学が見た星空の輝きを映し、その渓谷は、神々が降り立った始まりの物語を秘めています。
次にあなたが天野川のほとりを歩くとき、ぜひその流れに耳を澄ませてみてください。そこには、私たちの故郷を形作ってきた、幾千年もの物語のせせらぎが、今も変わらずに聞こえてくるはずです。