【第2回】本丸。現実的なライン。(vol.016:2024年10月23日)
https://stand.fm/episodes/6713bce05d1da8876f9a3347
【第3回】どんどんやってみて、その上で考える(vol.021:2024年11月27日)
https://stand.fm/episodes/673ee4ffae140b34df8a329e
【第4回】朗読原稿のほとんどをMTGで話してしまった(vol.024:2024年12月18日)
https://stand.fm/episodes/675f883ee648ac59de334dbd
【第5回】本丸を迂回している。(vol.028:25年1月15日)
https://stand.fm/episodes/6785b977e47eacdc0bac63a9
【第6回】撮りためてきた写真の選定を凡そ完了し・・・(vol.034:2025年2月26日)
https://stand.fm/episodes/67bd15551c168284574beba7
【第7回】自室で油絵を描くということに取組始めた。(vol.038:2025年3月26日)
https://stand.fm/episodes/67dd14c3b36d1cf5058081bd
9月3日23時ごろからつらつらと、、、
23時27分に描き終わる。
ハイボールの500mm缶を飲んだのち、音楽と共に手を動かす。
あと5日で、第5回まるネコ堂芸術際の出展者、実行委員、顧問、
10名が一同に会する第1回MTG、顔合わせだ。
今回から実行委員に加わり、事前からの動きをしてきた。
とはいえ来年の5月に自分自身がどんな作品を展示することになるか。正直なところまだ何も白紙な状態だ。
第4回の展示で、これまでの連続性には数穴をあけることは、できたような気がする。
だからこそなんか延長線上で、これまでの連続性の中で何かをやるというよりも、まったくやっていない感じで大風呂敷を広げて、とにかくやってみるということを大事にしたいと思う自分もいたりする。
何が正解なんてことはわからないし、そんなことよりも自分自身の納得感があるかどうか。自分がやっていることに対して実感を持って、日々の中で取り組むことができるかどうか。
制作活動があって、生活があるような、仕事の合間にとか、オフの時間にということではなく、暮らしそのものが制作活動になるようなそんな取り組みをしていきたい。
じゃあ何をするのかと言われるとうっとなるが、現時点では写本を作るということが頭にはある。ヨハネの黙示録の全文を、文章とそこに描かれている情景やさまざまなものを描くことを一つの作品として、1つの本のようなかたちで作品として作り上げるということができないかということを思っている。
ScrapBookに1枚1枚貼って、405枚の集積ではなく、すべてが一つに統合されているような作品。白黒では面白くないので、カラーで思いっきり描くということに取り組むような作品にしたいと思う。場所を選んだり、描く時間が制約されるような感じではなく、描きたいと思うときに思う存分描くということを、作品活動ができるということができるといいなと思う。
そうなってくると、やっぱり自分のアトリエが欲しい。解放するというか、描きたい人が描く会の月一の会場になったり、日常的に人が出入りできるようなそんな制作空間を創れたらいいなと思う。汚れないかとか余計ないことは気にせずに、思う存分に制作活動に取り組める場所をまずは持つことを実現するようなことも、作品をつくることと同時に動いてみると、何かが変わるかもしれないなと思ったりしている。
9月3日23時ごろからつらつらと、、、
23時27分に描き終わる。
ハイボールの500mm缶を飲んだのち、音楽と共に手を動かす。
あと5日で、第5回まるネコ堂芸術際の出展者、実行委員、顧問、
10名が一同に会する第1回MTG、顔合わせだ。
今回から実行委員に加わり、事前からの動きをしてきた。
とはいえ来年の5月に自分自身がどんな作品を展示することになるか。正直なところまだ何も白紙な状態だ。
第4回の展示で、これまでの連続性には数穴をあけることは、できたような気がする。
だからこそなんか延長線上で、これまでの連続性の中で何かをやるというよりも、まったくやっていない感じで大風呂敷を広げて、とにかくやってみるということを大事にしたいと思う自分もいたりする。
何が正解なんてことはわからないし、そんなことよりも自分自身の納得感があるかどうか。自分がやっていることに対して実感を持って、日々の中で取り組むことができるかどうか。
制作活動があって、生活があるような、仕事の合間にとか、オフの時間にということではなく、暮らしそのものが制作活動になるようなそんな取り組みをしていきたい。
じゃあ何をするのかと言われるとうっとなるが、現時点では写本を作るということが頭にはある。ヨハネの黙示録の全文を、文章とそこに描かれている情景やさまざまなものを描くことを一つの作品として、1つの本のようなかたちで作品として作り上げるということができないかということを思っている。
ScrapBookに1枚1枚貼って、405枚の集積ではなく、すべてが一つに統合されているような作品。白黒では面白くないので、カラーで思いっきり描くということに取り組むような作品にしたいと思う。場所を選んだり、描く時間が制約されるような感じではなく、描きたいと思うときに思う存分描くということを、作品活動ができるということができるといいなと思う。
そうなってくると、やっぱり自分のアトリエが欲しい。解放するというか、描きたい人が描く会の月一の会場になったり、日常的に人が出入りできるようなそんな制作空間を創れたらいいなと思う。汚れないかとか余計ないことは気にせずに、思う存分に制作活動に取り組める場所をまずは持つことを実現するようなことも、作品をつくることと同時に動いてみると、何かが変わるかもしれないなと思ったりしている。
9月9日の深夜に
なんだかわくわくしている。いよいよ第5回まるネコ堂芸術祭が始まった。もう言い逃れはできない。前に進んでいくしかない。やっていないことはそのまま出るし、やっていけばその分何かが前に進んでいくし、その実感を楽しんで生きたい。今回はじめての参加のお二人は、どことなく僕の問題意識というか、絵を描くということとの付き合い方というものに親近感を持った。昨日までは存在しなかった領域での、同志とも言えるような、勝手にいってしまうとそんなことを思った。描くということも、基本的には孤独な作業だ。描くことそのものは楽しい時間であったりもするし、集中して無我夢中になれる瞬間であったりもする。だけど描くという行為は、自分自身でしかできない。共同制作というものがあっても、線一本を描いているその時は自分一人での行為だ。一緒に描くということも実際にはできるかもしれないし、言い方の問題であるということも言えるかもしれない。でも、描くという行為は孤独で、忍耐強く、目の前のことに取り組むことだと思う。早く全体像を見たいと思って、一つ一つの線がいい加減になったり、影の感じが潰れてしまってのっぺりとしてしまうということも、その時の自分自身のありようを映している。そんなふうにその時の自分そのものが出てきてしまう。描くということだけでなく、書くことにおいても、一つの振る舞いにしても、その時の自分というものは、そのままに表出する。隠していると、誤魔化そうとしても、そのことは気づかれている。わかっていないのは、自分だけということもよくあることのように思う。表面的に出てくるものだけを受け取っているわけではない。なんとなくの感じ。引っかかりや違和感なんかも、そうしたセンサーをキャッチすることを、自然とやっている。すべては筒抜けであるということは、とても受け入れ難い事実であるが、そのことを受け入れると楽になる。気にしないのも考えものだけど、考えすぎも良くない。
10月3日(木)21時ごろに書き始めて、一度やめて日付が変わって読み直す
今週末は芸術祭のたくらみ発表会だ。形式は自由で、とにかく当日に向けて今たくらんでいることを発表する場だ。なんとなく頭にはあるけれど、発表するかたちにすることをしていない。もう明後日だというのにと思いつつ、ようやく前に進めようとしている。なんだかとっ散らかっているという感じはある。話し出したら何かしたらは出てくるとは思うけど、これというものがまだ掴めていない。一番思っていることは、やりたいなと思っているのはカラーの作品をつくりたいということだ。今年の5月・第4回まるネコ堂芸術祭に向けて作成した”ヨハネの黙示録創造現場ルポ”は、基礎作業として、今後の参照する資料としてのベースとなるものだと作り終えて思った。ドストエフスキイであり、ヨハネの黙示録を読むというきっかけとなった研究会をひらいていた恩師の先生からは、第4回のまるネコ堂芸術祭の後にお会いして、作成した作品を見ていただいた新たに3つの宿題をもらった。
それらに取り組むということを基本として、芸術祭に取り組めたらいいと思っているけど、日々の中で作品制作を進めていくということとの乖離というか、いくつかのステップを踏まないといけないような感じを持っていて、その部分をもう少し細かく切り分けたり、段階的に進めるということができるといいと思うが、その糸口がまだ見つかっていない。
動いていないから見つかりようもないのだけど、日々の忙しさにかまけて、制作ということそのものをすみにおいやってしまっている。その自覚はあるけど、ずるずるとたくらみ発表会の直前まで来てしまった。さてどうしたものか。そんなことを考えていないで、今思い浮かんでいることを書き出してみること。とにかく今頭にあるもの、思いついているものから始めていくしかない。書いてみて何もなかったということに直面するのも一つだ。できるはず、あるはずだと、ない可能性にしがみついていても、幻想の中にいるだけになってしまう。こうして言葉にしていくと、頭の中が少しほぐれていく感じがある。そんなことを思いながら、まだ仕事のことが頭にありながらも、その後、発表に向けて吐き出す時間を持とうと思う。今日はそんな感じだ。
10月15日火曜日、仕事帰りの電車の中で書き始める。
企み発表会を終えて、みんなの発表に当てられた。「この方向でやっていこう!」というものがあったけれど、迷いが生じている。。。もっと自由に描くということを追求してみた方がいい。そんな感じがしている。
みおさんからは、「油絵をやったらいいと思う。やるための環境が課題だね。」と言われたのだけど、核心を突かれていた。とにかくカラーでやりたいということを企み発表会では言っていて、いろいろな画材のことを教えてもらって、それらを試してみるということをしてみようと思っていた。
でもこれも結局、本丸をやらないで迂回する構造にはまっている。自覚的には思っていなかったけど、改めてこうして言葉にしていくと、明らかにやろうとしていることは、やろうと思っていること、やりたいと思っていることを棚上げして、本丸からは遠のいていく思考だ。
確かにと、痛いところを突かれたなような うっすらとは思っていたけど、素直に受け入れてはいなかった。でも、アトリエが欲しいと言っていたのは自分自身だ。何も気にすることなく思いっきり油絵を描くための場所。日々の中で制作活動をやれる環境を欲しいと思っている。
そういう気持ちがあったにも関わらず、現実的ではないと、違う選択肢を考え始めてしまっていた。そうした中で、企み発表会を迎えていて、いざ発表となると、こうして文章で書くことよりも現実的なラインに落ち着かせてしまっていたのだということに気付かされる。
あらゆる手をつくして油絵を思う存分できる環境を作ることが何よりも最優先事項なのだと思う。手を動かして、可能性を追求しみた方がいい。どこかなにかに躊躇して、いろいろと考えすぎて手を動かさないままに頭でっかちになってしまうという、よくやるパターンだ。油断するといつもこのパターンにはまっていく。
こうして文章にすることで自覚的になることができる。そもそもの思いをキープしたうえで、前に進めていくことに引き戻してくれる。
文章にしないとその分気づくのが遅れて、時間だけが経過して、何かの期限に追われる状況になってようやく火がつく。それだと遅いのだ。
【vol.016の削除箇所(終わりから続きで書いた文章)】
※同じことを繰り返している文章であるのではという指摘があり削除。
やりたいことを進めていくためには、そんなことではダメだ。計画的に考える部分と、やりたいと思うことに貪欲に日々の中で攻めていくことが必要だ。ある程度は自分自身を追い込むということも、必要なのだと思う。
制作活動を生活の中心に置いた時に、すべてが制作活動の延長線上にあるような、そういう広がりを持って日々の生活、暮らしを位置付けるとすると、どういう制作活動になるか。自分にとっての制作活動。実感を持って、日々の中で進めていくを、制限を作らずもっと楽しまないと!
なんだかまじめだなと思う。
とにかく手を動かす、時間的に外、外で絵を描く、風景画を以前から書きたいと思っていた、クロッキー帳と折りたたみ式の台を移動先に持って行った、ちょうどいいところがなかなか見つからず歩き回った、歩いている時に椅子も必要であることに気づいた、ちょうどいい座る場所と描きたいものがセットで見つかるような都合のいい条件はなかった、椅子があればどこでも描いたいものを描く場所になりうるのぁということをわかっていなかった、歩いている途中で椅子が必要だということに気がついた。
オンラインで繋いで、オンライン越しで何かを、それぞれに進めていることを感じながら描いた
描くための体勢がイマイチすぎて、ラフ画を描くということしかできなかったけど、目の前にあるものをよく見ると、すごく精密で、一つ一つを書こうと思うととても果てしなく、その精密さに圧倒された、でもその曲線は美しく、一つ一つのつながり、物体としての連動を感じた、描いたものは小さな花がいっぱい集まった黄色の植物と、ススキにした。風に揺られながら、見ている時にと動き続けていて、じっくり見るということも、室内で何かを見ながら描くということとは全く別の体験だった。外でスケッチしたりするための折りたたみ椅子が必要だということがわかった。油絵を外でやるとすると、台であったり色々と他にも必要なものはあるのだと思うけど、まずは野外で描くという機会そのものを増やすということに取り組んでみるといいのではないかと思った。目の前のほんとに小さな範囲のものを描くだけでもいざ描こうとすると果てしなく、これが風景となったら一体どうなるのか。その感覚を感じてみたいと思った。いざ描こうと思った時に、描く対象との距離感であったり、どこを描くかの位置どりというか枠をどこにセットするのか。なかなか難しいというか、決めるための自分の中でのこれを描こう、これを描きたいと思うものを持てると、いいのだろうなぁと思った。描き出しの取っ掛かりをいかに持てるか。そのきっかけを掴むこと。そういうことに取り組んでみると、これまでとは違った世界が拓けてくるのかもしれないなとも思った。
みんなそれぞれに何かしらやっている。
11月15日、金曜日、深夜。
すっかり寒くなってきているが、秋を感じることもなく冬に突入してしまいそうな雰囲気だ。
11月まるネコ堂のアトリエで、作品制作を開始する。今住んでいるのは東京で、自分の住んでいる身近にアトリエを持つことができたら、持ちたいと思っていたが、まるネコ堂でアトリエ空間に身を置いて、作品制作に取り掛かるとは、先月の自分は思ってもいなかった。
こうして言葉にするときに、書いたものを読んで、それが世に発信される。だから書く内容には躊躇があって、書こうか、どうしようかという心の動きがあったりする。でも、思っていることは言葉にしてしまったほうがいい。言ってみることだけはやってみる。
最近はそういう心持ちになっていて、思いついたことはどんどんやってみて、その上で考える。フットワーク軽く、思いついたことはやった上で、どうか?ということを判断するほうが、ずっと心のうちにしまっておくよりもいいのだということがはっきりとしてきた。
アトリエだって、正直なところずっと心の中にはあっても、書くことをしなかったら、読むことはなく、ましてや世に配信されることもなかった。これまでの自分は言葉にするということを、勇気を持って一歩踏み出すということを、いかにしてこなかったか。そのことには愕然とする。
4日後。
なんだか刻々と、自分自身の感じが変化している。今まではというか、ここ最近はずっと、停滞していたように思う。自分自身の変化が起きない。自分から変化を起こすということをやってこなかった。
1つを表現してみると、また次の展開につながっていく。文章を書くということも、何か絵を描くということも、誰かと話す中で言葉にすることも、とにかく行動してみることも、すべては自分自身が動く、手や足、頭、体、意識、気持ち、あらゆる自分を動かすことだ。
動かすと動き出す。動き出すと、そこから動きが生まれていく。頭ではわかっていても動かない時は動かない。当たり前のようで当たり前じゃない。自らが動くことによって、流れが生まれる。場がつくられる。
いい動きは、自分自身を手伝ってくれたり、後押ししてくれる。自分次第でいかようにもなるのだということも、一つ一つの実感の上に築かれていく。
【 vol.021の削除箇所二箇所】
・11月15日、金曜日、深夜。
→最後の2段落を削除
実際に絵を描いてみると、動き出した感じがある。風景画であったり、写実的な表現というものが好きで、描きたいと思うのだけど、時間をかければできることであるように思えて、そうではない表現をしていきたいという自分がいる。
下書きはあまりしないで、もうそのままキャンバスの上で描き進めていくということをやっていこうと思う。部分的には写実的に描くということもしたいと思っているけど、基本的な雰囲気、テーストとしては、落書きをするようなカラーな落書き的なものになっていくと思う。
・4日後。:11月19日の夜に描き始める。
→最後の2段落を削除
今は描く長さを気にしている。もう書くことがなくなった。手が止まったなと思って、まだ三分の一くらいしか書けていないと思った。でも、あくまでも勝手に決めていて、これまでそれくらいの分量を描くことができていた。ただそれだけだ。
朗読をした時に、3分はほしいと買ってに決めて、その基準に満たないということに対して反応している。こうして書いていくうちに、だんだんと自分の目指している分量に近づいてくる。でも、最初の書いたところまでで、中身はなくなっている。
12月14日、まるネコ堂芸術祭のミーティング。
前日の夜に、ハマコー制作記の朗読原稿を書いたが、ほとんどのことをミーティングの中で話してしまった。話してみると、自分自身が話す以前からは更新されていることに気づく。
やっていないということの言い訳をつらつらと書いていたが、一度書いて、しかも話してしまうと、もはや後戻りはできず、とにかく前進する。書いた上に話したということがとても大きいのだと思う。先に進む感覚。昨日から今日の自分はまさにそれだ。
話すということによって、言葉にしたことによって、その地点ではない場所にいる。持ち歩いているスケッチブックにどんどんいろいろなものを描いていったほうがいい。使い終わったら、次のを買うなりなんなりすればいい。それくらいの気持ちで、書くことに没入したい。没入しよう。
忙しいという感じに飲み込まれると、手足が止まって、ただただできないこと、できていないことの言い訳をする。言い訳することによって、今の自分自身を正当化してしまう。そのほうが楽だからと、楽な方に逃げ込んでしまう。
だけど留まるということに留まることができると、また違った地平が拓かれる。たとえ不快だったとしても、自分自身にとって必要だと思うこと、切実さをともなっているのであれば、不快な方を選び取ったほうがいいし、しんどくてもその先につながる。
今、頭にある構図。自分自身の描きたい世界観であり、描こうとするものがどういう構図で描かれるといいか。今は、自分が好きな構図やいいなと思う構図がどういうものであるのかということを、色々と見比べながら、自分がどういう構図に反応するかということを確かめている。
インプットをしていくことも必要だけど、同時にアウトプットをしていきたい。枯渇したと思うくらいに、踏ん張ってアウトプットしていくということに取り組むこと。1ヶ月後には、いっぱい描いたなと思えるようなそんな状態でいたい。
プロポーザルもあと2週間ほどで提出だ。やってみないことには、どうなるかなんてことはわからないを、楽しんでやるということができれば一番だ。
12月13日(金)。仕事帰りの電車の中で書き始める。
ここ最近は忙しいという感じに支配されて、忙しさを言い訳に、手を動かしていない。
絵を描きたいという気持ちはある。
でもその気持ちに、体がついてきていない。
決めてないから、やらないままに時間が経過していく。経過している。
そんな中でも、通勤の最寄り駅から自宅までの25分ほどの帰り道、自分はどんな構図の絵を描きたいか。歩を進めながらも、頭の中で思い描いたりはしている。
もうそろそろというか、いい加減、作品として一つ一つ作っていくということにシフトした方がいい。そうでないと同じところをぐるぐると、堂々巡りのワープに入っていく。
今考えてるのは、自分にとっての好きな構図だ。
持ち歩き用のコンパクトなスケッチブックと筆記具は常に持ち歩いているので、あとは描く時間の確保だ。目の前のやらないといけないことに追われると、どんどん後ろ倒しになっていく。
限られた時間の中でのせめぎあい。やることそのものの絶対量を減らすことは必要だ。
1ヶ月に一度、絵を描く会を自主イベントとして開催しているが、絵を描く機会としては足りていない。もう少し描く時間を確保する必要がある。
あと2週間とちょっとで、芸術祭での展示内容を決める必要がある。もう温めるのは終わりにして、手を動かすをした方がいい。
こっちじゃないとか、この方向性だという自分の感じを確かめながら、前に進めていくこと。
もう少し考えるということに留まって考えるということに入り込むことも必要な気はする。安易な方に、楽な方に逃げないで、不快さを楽しむこと。逆境を、越えるべき試練を楽しむこと。限界をつくらずに、自分自身を壊して、更新し続けること。
恐れをいただいていてもいい。不安出ることも当たり前だ。そのうえで、すべてを受け止めて、すべてひっくるめて、楽しみながら難関に挑んでいくこと。恥をかいても、失敗して、そのことを糧に次にトレイすること。
難しく考えすぎないで、とにかくやってみる。実際にやってみると、自分の中での感じとやってみた感じを確かめることができる。そうすると、修正もできるし、訂正する中で、だんだんと調整されていく。そういうことの繰り返しの中で、自分自身の取り組む、表現に対する解像度もあがっていく今日は12月13日金曜日。あと45分で次の日だと書いたら、それから時間が過ぎてもう世も更けている。
2025年1月8日から9日にかけて書いている。
今はとにかく接続過剰な状況だ。目の前のやることに追われ、じっと留まって、考えるということができていない。なんとなく頭にあることも、頭にあるというだけになっている。
年末に芸術祭のプロポーザルの提出を終え、今週末がプロポーザル当日だ。
去年の今頃を振り返ってみると、すでに当日に向けての逆算をして、あと何枚当日までに書くか、1日あたり何枚描く必要があるか割り出して、睨めっこの日々だった。
今年は、その先に行きたいと思っているが、思っているだけで、実際に手を動かすことができていない。
カラーにすること。油絵を描くということが、日常化していない。昨年のうちにまるネコ堂のアトリエで油絵を描き始めたが、本丸を迂回している。なかなか手をつけることができていない。
頭にあるものを描き出してみないことには、始まらない。
これまでに2回はクレパスを使って、木を描いたりした。以前、クジラを描いた時よりも、細部まで描くことができそうな感触だった。
まずは全体像を、クレパスで描くことを進めた方がいい。
イメージしているものと、実際との比較をしないことにはなんとも言えないところだ。
物語のシーンを描くという時に、絵巻物にできたら面白いと思っている。物語のシーンを見る時、一枚一枚ページをめくっていくのではなく、広げていくごとにシーンが進んでいく、そんな物語の進み方、展開をしていけるといいと思っている。
そういうイメージに絵巻物というスタイルはぴったりな感じがしている。
ヨハネの黙示録創造現場ルポを何度も見返しながら、描くシーンをイメージしていったほうがいい。常に参照するものとして、身近な存在にして行ったほうがいい。今日の駅からの帰り道に、改めて思った。
当初からそういう位置付けだったのに、そうなっていない。
まずはここを足がかりに、当日に向けて前進していこう。まずは今週末のプロポーザルだけど、この数日の間に、進められることは進めていこうと思う。
2025年2月21日、夕方から書き始める。今日の夜に収録をしようと思っている。
もう2月もあと一週間ということに驚く。まるネコ堂芸術祭まであと50日ほどになろうとしている。
目まぐるしく日々が過ぎていく。そんな感じがしている。今は自分の感じとしては、あらゆることが同時並行的に動き出している。
一つ一つ完了させていきながら、前に進めていくこと。
早め早めにやっていくことが必要だとこの一年ほど感じてはいつつも、よりそうした動き方が必要になっている感じだ。
これまで撮りためてきた写真の中から、芸術祭に出展する作品の背景となる風景の選定をおおよそ完了し、5枚に絞った。
描こうと思っている作品は大きく3つだ。似た風景が2枚ずつ、それぞれに入れたい要素がある。
2つの風景を融合させて、3枚にしたいと思っている。
2月中に完了させて、作品そのものの下書きに移ろうと思う。
キャンバスの大きさをまだ決めかねているが、3枚を並べた時に、どんな感じがいいか。もう少しイメージをしないとかなり漠然としている。ただ今回は、大きさよりは、一つ一つの作品を緻密に、密度のある作品として描くことに取り組みたい。
とわいえある程度の大きさは欲しいなぁと思っている自分もいる。
部屋の中には作業台があって、クレパスで描いた絵を飾っている。視覚的に触れる場所に作品と関係するものがあると、毎日考えるモードに入る。
見た瞬間に呼び起こされて、その感じがいい。
少なくとも家に帰ってきた時と出かける時に目にしていて、作品制作ということの連続性を感じながら日々を過ごしている。
部屋にいる時には、常に目の入る場所にある。さすがにそろそろ描き始めないとまずいなぁと思いつつ、ゆっくりだけど、背景となる写真たちを印刷し、今はそれを飾っている。
並び替えてみたり、順番はどうするか。どのシーンを実際に描くか。
全体の流れ、シーンは頭にあるので、あとは今選んでいる背景との調整だ。
早く決めるに越したことないし、決めていこう。
2025年3月20日の夜。もう当日まで40日を切っている。
先日、自室に油絵を保管するスペースを作った。
キッチンのガス台の換気扇のスペースに、ビニール袋を開いて、テープを貼って囲いを作った。
油絵を自室で描く時に、一番の難題は、使った油の匂いであり、保管する場所であった。
一部屋ではできないと決め込んでいたけれど、考えを改めた。
以前から頭の中にはあったものの、実行に移していなかった。
実際にイメージしていたことをやってみて、やはり油の匂いがきついということであれば、
自室での制作は断念せざるおえない。
でもやってみてもいないのに、できないと思っているだけでは、ただ時間が過ぎていく。
まるネコ堂でアトリエとして部屋を使わせてもらっているが、なかなか行った時に制作を進めることができていない。
まるネコ堂に行った時は、一人でできることではないことを、せっかく行ったからできることをしたいという気持ちがある。
そんなわけで、東京の自室で油絵を描くということに取り組み始めた。芸術祭まで残りの日数は限られて来ているが、とにかく描くを進めていく。
ああだこうだと思い悩んでいるよりも、ああだこうだ少しずつでも描き進めていくこと。
この間、クレパスで何枚かの風景画を描いてみたが、僕の描きたいイメージ、出したい色であり、雰囲気を出すことには限界があることがはっきりした。
やはり油絵で描くということを通して、自分の思い描くものをかたちにしていくこと。
そのことに取り組むことが何よりも一番だ。
描く情景の中に入り込んでくるものをどこまで描き切ることができるか。
入り込んでくるものを、具体的に描くということにどれだけ取り組むことができるか。
とにかく今は描こうと決めた背景として、風景を見ながら描き進めている。