復刊に際して 澤田四郎作
近畿民俗学会が日本民俗学二十五回連続講習会を開催したのは、十三年前の昭和十一年であった。大阪の庶民の学問に因縁の深かった懐徳堂書院を会場としたのであったが、この書院も戦災でなくなってゐる。第一期の「近畿民俗」は兵庫の太田陸郎君によって編輯せられ二巻二号まで発行されたが、遂に中絶されてしまった。尤もその後も、京都・兵庫・大阪・奈良・堺の人々が、後藤捷一氏の好意により染料会館を借用し毎月一回なごやかな会合を続けて来たのであるが、宮本・桜田・岩倉の諸君が東京に去り、其後太田・小島・岸田・持田・岡見の諸君や私までが南方や大陸に渡り、時局の深刻化のため、会報の発行も会合も不可能となり、わづかに各地区内の会合をつゞけ来った。この間に於て、太田陸郎君は台湾上空で、また小島勝治君は中華の地で亡くなられた事は悲痛の極みである。その他、岩田準一・伊達俊光・伊藤櫟堂・多井敏夫の諸君も逝かれたが、いづれもわれわれにとっては忘れることの出来ぬ人々である。われわれはその霊に対しても、会を一層盛大にせなければならぬ事を感ずる。
昨年二月渋沢敬三氏が西下せられし折、近畿の各地の同人が五倍子居に会合し、宮本君の提唱により、隔月一回各地の人々が会合し、そのうち会報年四回発行等今後の活動の方針等が議せられ、隔月会合せられて来たのであるが、人々の気持が二月も待てず自づと毎月一回になってしまった。昨秋、田辺五兵衛氏の好意により大阪家庭薬組合事務室を会場に貸して戴き、至ってなごやかな且つ真摯な会合をつゞけて来てゐる。閉会の時間がきても、なかなかに別れがたく、毎度群をなしつゝ難波まで歩いて解散となるのが常である。
最近、会報の再刊の機が熟し、「近畿民俗」の誌名を襲ふ事に話がきまり、茲にその第一号を発刊する事になったが、われわれはこれによって東京を始め各地の民俗学徒との連絡を密にして、日本民俗学の発展の一翼を担はんとするものである。
復刊にあたり、柳田国男先生より玉稿を賜ひ、又題簽は松井佳一博士が書いて下さった。ここに厚く感謝の意を申し上ぐ。
(出典:『近畿民俗』第一号(昭和24年2月25日)巻頭)