小島勝治の部屋
2024年は生誕110年、没後80年でした。
2024年は生誕110年、没後80年でした。
昭和19(1944)年7月、30歳の声を聞くことなく、華中に散った小島勝治の職人や都市の民俗学にスポットライトを当て、その業績を紹介していきます。ここで取り上げる小島勝治資料は、佛教大学社会学部の上田千秋教授から引き継いだ高橋伸一教授が自身の研究室で保管されていたものです。高橋教授の定年退職にともない、2018年8月から高橋教授保管の小島勝治資料は、伊藤廣之が引き継ぎ、保管しています。今後、整理の済んだものから逐次、このホームページや雑誌『近畿民俗』において公開していく予定です。【2023年5月25日更新】
小島勝治が主宰する古代生活研究会から刊行されていた雑誌『昔』(謄写版印刷)と関係資料などを綴ったものです。『昔』は小島 勝治自編の雑誌で、『土と史』(昭和10年2月~8月にかけて発行)を改題したものでした。ここに綴られている雑誌『昔』は創刊号・第2号・第3号(終刊号)で、これらは「校正本」と記されており、手書きで字句の修正や文章の加筆などがなされています。
『昔』創刊号は昭和10年11月刊(42部)、第2号は昭和11年1月刊(34部)、第3号は昭和11年4月刊(部数不明)です。雑誌『昔』は『近畿民俗』第1巻第1号(昭和11年2月)の発行にともない、第3号で終刊となりました。発行部数は小島のメモ書きによります。
「未刊資料及原稿」とされるのは、『昔』の編集に関連して送られてきた原稿のうち、収録されなかったものではないかと推測されます。表紙には、「泉南漁業史料」赤井義雄、「花巻の正月飾り」藤原貞次郎、「俗信・農具資料」芥子久一良、「大和民俗行」横井照秀、とあります。赤城義雄は小島の浪速中学からの友人で、『昔』の奥付に「印刷者」として名前があがっています。藤原貞次郎は花巻在住の投稿者、芥子久一良は神宮皇學館での友人、横井照秀は住吉土俗研究会を主宰し、横井赤城の名で雑誌『田舎』を編輯し、住吉土俗研究会が雑志を発行していました。『案山子考』の編著もあり、大阪民俗談話会の常連でもありました。
赤松啓介は『民俗学』(三笠書房、1938年)のなかで、地方に出現した昭和戦前期の雑誌を列記しています(47頁)。そのなかで、近畿地方の雑誌として、『和泉郷土資料』『上方』『大阪土俗資料』『口承文学』『いなか』など、大阪の雑誌も紹介されていますが、小島勝治の雑誌『昔』は含まれていません。『昔』は発行部数が少なく、赤松の目にふれる機会がなかったのかもしれません。
『昔 資料』の表紙をくった最初のページです。これは雑誌『昔』の贈呈先の一覧です。上段の「1」「2」「3」は号数、表の左端は贈呈先です。贈呈先は個人名、研究会名などが記されています。上から順番に、内務省・古代生活研会・酔月・平子鼎・南要・沢田四郎作・西村正彦・小谷方明・奥村伊九良・民間伝承の会・桂又三郎・大和国史会・郷研同好会・信濃同好社・小林存・土俗趣味社・八木博・飛騨会・口承文学の会・橘文策・青柳秀夫・鈴木貞緒・本山桂川・横井照秀・大和社・三元社・川崎巨泉・杉浦瓢・岡村千秋・小野工・藤田準三・藤田康良・芥子久一良・井上大八郎・伊藤孝三郎・庄司正一・昔話研究・藤原貞吉郎・勝又朝頼・太田陸郎・市野康治郎・鎌田春雄、と記されています。
贈呈先の右側の数字は各号の奥付に付された通し番号とみられます。たとえば、内務省には、創刊号の第1番と第2番を贈呈したことを表しています。
表のなかの文字は、五倍子雑筆・郷土和泉・瓜茄・中国民研・岡山地歴・尾参郷研・高志路・口承文学・佐渡研究・田舎といった交換雑誌の名前とみられるものが記されています。これらから、小島勝治は佐渡・新潟・東京・長野・愛知・京都・奈良・三重・岡山など、各地の同好の人たちと幅広く交流し、情報を収集しようとしていたことがわかります。昭和戦前期の大阪において、民俗学の研究をめざそうとしていた小島勝治のネットワークをみていくうえで興味深い資料といえます。
詳細は『近畿民俗』第189号(2023年3月)に掲載しています。
はがき(表)横井照秀→小島勝治 昭和10年11月6日
小島勝治から送られた『昔』第1号に対する横井の礼状
はがき(裏)横井照秀→小島勝治 昭和10年11月6日
文面には、昭和10年10月28日に大阪・朝日新聞社の3階講堂で開催された「柳田先生還暦記念講演会」で、横井は受付に居り、当日の参会者の名刺のなかに小島の名刺を見つけたこと、都合がつけば沢田氏宅での民俗談話会例会への誘いかけが記されています。このハガキによって、この時点では、小島は大阪民俗談話会へはまだ出席しておらず、横井との面識もなかったことがわかります。
なお「大阪民俗談話会報」によれば、「柳田先生還暦記念講演会」は、下記のような内容でした。
開会の辞(沢田四郎作)、大間知篤三「民俗学の産屋より」、折口信夫「年中行事と大阪」、ウィーン大学シュミット「所感」、西田直二郎「丹波に残る田楽」、挨拶(柳田国男)、閉会の辞(宮本常一)。聴衆は滋賀・京都・奈良・和歌山・大阪・兵庫の2府4県にわたり、300人。
講演会後の11月2日、大阪民俗談話会第12回例会は、柳田国男を中心に橋浦泰雄・守随一も参加し、32名の参加者により開催されました。この例会で柳田は「都市民俗採集についての注意すべき点」という話をしています。「大阪堺は共に古風なる町であるから多くの採集すべきものがあるであらうとの御教示を、ウィーンを例にひいて説かれた」とのこと。この例会の出席者名が不明であるため、現時点では小島の出欠を確認する手がかりがありません。ちなみに「大阪民俗談話会記録 第1集稿本」によれば、小島勝治が大阪民俗談話会の例会の参加者名に認められるのは、昭和10年12月8日の第13回例会です。
『昔 資料』に綴られた『昔』第2号の巻頭の論考です。ページ数の「二五」は創刊号からの通し番号となっています。第2号は奥付をみると、昭和10年12月25日印刷納本、昭和11年1月1日発行となっており、発行所は小島勝治方の古代史研究会です。
小島勝治の職人に関する研究成果の発表を、時間軸にそって見ていくと、まず昭和11年1月1日に『昔』第2号に「都市と職人筋」が掲載されます(本資料)。その翌月、2月23日に大阪民俗談話会で「河内の職人調査」についての発表がありました。そして、同年の9月26日に日本民俗学二十五回連続講習会では「職人習俗の採集について」講演がありました。その後、統計雑誌『浪華の鏡』に「職人の町と農業」が連載されるのが、昭和11年10月から12月でした。このように、本資料は小島の職人研究のスタートを飾る論考といえ、内容面では彼の職人研究のアウトラインをつかむことができる論考ともいえます。
全文は『近畿民俗』第187号(2021年3月)に掲載しています。
小島勝治資料のなかに、講演のときのメモや原稿類を1冊に綴ったものがあります。綴りの背には手書きで文字が書かれていますが、欠損した部分も多く、判読はむずかしい状況です。
綴りを開くと、最初に「講演目次」があります。写真の左から2行目に「職人習俗の採集について」という講演タイトルが記されています。これは小島勝治が昭和11年9月26日に近畿民俗学会主催の「日本民俗学二十五回連続講習会」(会場:大阪市東区内本町 懐徳堂書院)で講義をしたときのものです。
連続講習会の期間中に作成された「日本民俗学講習会報」第壱号の5頁下段をみると、講義の題目と講演者名が記されています。そこには「第二講」の9月26日は「職人制度の採集 小島勝治」「採集技能と伝承者 大間知篤三」とあります。
また昭和11年12月刊行の『近畿民俗』第1巻第6号のなかの「民俗学第二十五回連続講習会だより」の記事では、小島勝治の講義の題目は「職人の習俗採集に就いて」となっています。
このように、講義の演題については異なる記載がみられますが、ここで紹介した「講演目次」と、小島自編の著作目録では「職人習俗の採集について」と記されており、これが正式な演題であったとみてよいかもしれません。
400字詰原稿用紙で20枚からなるこの草稿は、小島勝治の講演記録集のなかに綴られていたものです。目次にある「職人習俗の採集について」の講演に対応するものとみることができます。しかし、草稿のタイトルは「職人の民俗採集―気風の問題を中心として―」とあります。内容からみると、「日本民俗学二十五回連続講習会」での講演後にまとめられたものと考えられます。この草稿は、小島勝治による「都市」や「職人」の研究のあり方を探っていくうえで重要な資料といえます。今後、この原稿を翻刻し、公開していきます。
ちなみに、小島勝治自編の文献目録(「資料 小島勝治文献目録」『社会学部論叢』第3号、佛教大学社会学部学会、1969年、所収)のなかの「著作編輯目録」には、「このわたしの話について伊藤櫟堂先生と正面衝突をした、ために一切の民俗学を退会する心はこのときにうごいてゐた」と記されています。この草稿によって、そのときの話の内容が明確になってくると思われます。
これは小島勝治の自筆原稿の綴りです。ミネルヴァ・昔・旅と伝説・民間伝承・近畿民俗・浪華の鏡などの雑誌に掲載されたものもありますが、未掲載とみられる原稿も含まれています。この綴りの背文字に記されている「釋迢風」は、36ほどある小島勝治のペンネームのひとつです。民俗学論文集 第一輯は、現在のところ未確認です。
これは『民俗学論文集 第二輯』に綴じられていた原稿です。400字詰め原稿用紙14枚半からなります。小島自編の「著作編輯目録」(『社会学部論叢』第3号、佛教大学社会学部学会、1969年、所収)によれば、1936年2月23日の大阪民俗談話会第15回例会において「河内の職人調査」の題目で発表しており、この原稿はその発表に関連したものではないかと思われます。さきに紹介した「講演目次」にも同様の記載があります。
大阪毎日新聞の1936年2月25日の紙面に小島勝治の「河内の職人調査」と題する小文が掲載されています。その内容は大阪民俗談話会での話の一部かと思われます。この新聞記事は『東大阪市史資料 第五集 小島勝治遺稿集』(1972年)に収録されています。今回見つかった原稿と新聞記事を突き合わせてみたところ、原稿の一部がそのまま掲載されていたことがわかりました(一部に加筆修正あり)。
草稿は『近畿民俗』第188号(2022年3月)に掲載しています。
小島勝治の自筆原稿の綴りです。旅と伝説・近畿民俗・上方・浪華の鏡などの雑誌に掲載されたものもありますが、未掲載とみられる原稿も含まれています。今後精査していく必要があると思います。
昭和12年9月8日
小島勝治から『布施町誌続編』(昭和12年9月1日発行)を受け取った横井照秀が本の感想をしたためた手紙の一枚目の部分。
昭和12年9月9日
横井の手紙に対する布施町誌続編への想いや都市民俗学についての考え方を語った小島の書簡の控え。
書簡類の翻刻は、『近畿民俗』第187号(2021年3月)に掲載しています。
雑誌『昔』第1号を受領した小谷方明から小島勝治宛ての礼状。「盗人考」が面白かったこと、10月28日の大阪・朝日新聞社での柳田の還暦記念講演会では探したが見当たらず、残念であったこと、などが記されている。
はがき裏面の「泉南 石材ノ石神様」の写真の説明が記されている。貝塚町の牛神で、石棒を祀るところは珍しいなどとある。
雑誌『昔』第3号を受領した小谷方明から小島勝治宛ての礼状。泉南の狐狸や淡輪村の子守唄など、和泉の事について書いてくれる同志のあることを喜ぶ記載などがみられる。
これは民俗学を中心に考古・歴史分野の文献や雑誌にかんする著者別・件名別・雑誌別の索引をひと綴りにしたものです。名称が「索引」ではなく「索隠」とされているのは、小島勝治ならではのあそびの表現といえます。表紙を繰ると、まず最初に折口信夫にかんする明治44年から昭和10年5月までの年譜が記されています。年譜につづいて、折口の単著、共著、雑誌論文、随筆、序跋、編纂、講演・講習・講座の一覧が綴られています。その分量は400字詰原稿用紙で27枚となっていますが、つぎの柳田國男にかんする著作目録は400字詰原稿用紙で12枚に止まっていることと比較すると、小島勝治が折口信夫に強い関心を寄せていたことが浮かび上がってきます。ちなみに、折口信夫が自分の作品や評論のときに使うペンネーム「釋迢空」にまねて、小島勝治は「釋迢風」というペンネームを使用することがあります。
文献索隠に収録されている研究者(収録順)
折口信夫、柳田國男、黒板勝美、橋本増吉、安藤正次、太田亮、武田祐吉、伊波普猷、佐々木喜善、中山太郎、金田一京助、早川孝太郎、西村真次、鳥居龍蔵