長久手に何故 景行天皇が来たのか 講話資料 ③
*景行天皇社の由緒記
日本武尊の東征後、父景行天皇が戦跡を巡り当地を行幸の折、この地方の豪族の
石作大連が斎殿を造営して天皇を歓迎した。その斎殿跡である根ノ神の
地に天皇の御名を冠した景行天皇社の社殿を建立したことに始まる。
*延喜式神名帳などに斎殿のあった地名、蟹原・根ノ神の記載がある
景行天皇の東国巡幸(日本書紀
伊勢から尾張に(尾張巡幸)、「東海うちのみちへ入りたもう」、、、、、(日本書紀)
【日本武尊の慰霊、鎮魂の旅】
ヤマトタケル(日本武尊)が西征に続く東征の帰国途中、伊勢の国で30才で没したと知ると
景行天皇はヤマトタケルを慰霊、鎮魂のため東国巡幸する。
㈠ 尾張という名称は第13代健針綱根命が15代応神天皇の御世「尾治連」の姓を賜る、
(後に尾張と改姓、国の名称となる)又、尾張氏は当時、尾張を統治する豪族であり
ヤマトタケルの東征にも参加している。
㈡ 日本武尊妃ミヤズ嬡の館があったと伝承されている現在緑区大高町に延喜式内
氷川姉子神社がある。
㈢ 天皇最大の目的地と思われる 日本武尊の陵墓、白鳥塚古墳がある。
白鳥塚古墳・・・4世紀前半に尾張初の前方後円墳で、建造は石作連乎職県集団
によって築かれたものである。
*白鳥塚古墳はどうして東谷山(守山区上志段味)に造られたか?
◎ヤマトタケルが伊吹山の賊を征伐に行く途中に蛇に足を噛まれ、傷口を川で洗って
いたところ一羽の白鳥が現れた。ヤマトタケルが白鳥に尾張へ連れて行ってくれと頼み、
ヤマトタケルを乗せた白鳥が尾張の東谷山の麗についたところで死んだため、その
場所にヤマトタケルが白鳥を葬った為その墓が白鳥塚だと伝わる。
* 伊勢から尾張に、、、㈠、㈡、㈢ などの伝承から、景行天皇が当地へ巡幸し、長久手に拠点
を置いた石作職集団が白鳥塚古墳築造に参加していることも考えられ、豪族である石作大連が
長久手(根ノ神の地)に斎殿を造営し歓迎したことも推し量ることができる。
令和5年9月10日 氏子長会議講話 丹羽宮司、責任役員近藤