「景行天皇社」の名前の由来 講和資料②
*このころより《景行天皇社》と呼ばれる所以
「長久手の戦い」は徳川家康が天下を取るうえで、天下分け目の「関ヶ原の戦い」以上に重要な意味が
あったといわれる。長久手合戦に徳川家康が勝利した土地として、又その武運を招いた地に遷座する
古代日本成立の時代の天皇に対し、尾張藩主が代々に亘り重臣とともに崇敬の思いを寄せ参拝、多大
な鳥目(銭)、引き幕、太刀などを奉納。そのことに地元の人々も感化されて、今のような呼び方になって
いったことが浮かんでくる。
平成16年(2002) 中日新聞 記事 (あいち博士)
長久手「景行天皇社」名前の由来は? 福岡鍄三氏 寄稿
◎尾張藩は慶長15年以来長久手合戦場を家康公勝利の地として、尾張藩二千有百ケ村の内
長湫村だけには地頭給地を置かず全て藩の直轄蔵入地として優遇して支配した。
長久手市 文化財
景行天皇社 所蔵文化財 棟札 元禄12年(1699)長駒形480×125×5
景行天皇社 所蔵文化財 家康奉納の木太刀
天正12年(1584) 徳川家康 奉納・・・小牧長久手の戦い
慶長 9年(1604) 尾張藩主と重臣 奉納
元和 8年(1622) 尾張藩主と重臣 奉納
文献等
平成 5年(1993) 一)郷土史研究会 会報 福岡鍄三 寄稿
平成16年(2002) 二)中日新聞 記事 (あいち博士)
長久手「景行天皇社」名前の由来は? 福岡鍄三 談
平成24年(2012) 三)郷土史研究会 会報 山田征治 寄稿
令和 元年(2019) 四)産経新聞 記事「ヤマトタケル追悼の旅」(景行天皇の東国巡幸)
* 産経新聞社論説委員より天皇の名前を冠した神社は大変珍しいと取材をうける
五)長久手市の神社今昔・・旧長久手村 (郷土史研究会誌)
平安時代 ◎ 延喜式名帳
* 記載に山田郡の和に良神社(かにらじんじゃ又はわにらじんじゃ)、、蟹原
江戸時代 ◎ 寛文村々覚書・寺社誌・張州府志・尾張洵行記・尾張誌
天保3年 *「鎮座の旧地ハ…中略・・・字神井堀麓ノ和に原ナリ」、、、、、、、、、、、蟹原
(創建から時を経て、蟹原の高根に建てられた社を「根神」と呼ぶように
なったと思われます)、、、(現在の根ノ神・蟹原)
* 江戸時代の地誌に記載『今は景行天皇社と称し、いとめづらかなる祭神なり』
明治以降 ◎ 尾張国愛知郡長久手村・長久手村誌・長久手町誌
景行天皇を歓迎した斎殿が“根ノ神”にあり、その斎殿が《和二良神社》となり、そして大久手、秙乎良岐と移り現社地の三社明神となる。いずれにしても最初の祠(神社)から《景行天皇》が
祀られていて「景行天皇社」となったと推し量れる。
景行天皇社は創建から 1188年 村社から 153年 の歴史のある神社です。