加茂慶太郎
『博多ショートステイ』
2026.09.28-10.02
住んでいる/いた街に滞在して作る、もっともミニマルな演劇
加茂慶太郎
『博多ショートステイ』
2026.09.28-10.02
住んでいる/いた街に滞在して作る、もっともミニマルな演劇
8月某日、京都。旅程を組むのが遅れた僕は、割高で宿に泊まるのが悔しくて4泊5日(0泊5日?)の野宿による滞在を決行した。たくさん歩いてちょうどいい場所を探す。幸い天候にも恵まれ、時おり虫に悩まされながらも無事に夜を過ごした。これまで何度も訪れていても、身をもって改めて感じた街はまた新鮮だった。僕は、福岡に住んでいる。この街のことをまだまだ知りたい。これまでいくつかの土地に滞在してきてなんとなく、「まちを知る」ことのド真ん中はつまるところ、そこで暮らす人と会話しその人を知ることだ、という気がしている。街そのものの形や動きを知ることは、さして重要ではないのかもしれない。それでも。歩いたことのない道を歩いて、したことのないことをするのは、意味があることだと思う。
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博多駅周辺で京都でのそれと同じ日数過ごしてみます。朝、風呂に入ってメシを食って、パフォーマンス(といってもただ喋るだけですが)をしてから一日をはじめます。そして、すごくシンプルな演劇を作ります。平日8:00に博多駅、来られる人は限られると思いますが、ぜひお立ち会いください。
加茂慶太郎
日時
2026年
9月29日(火) 8:00《パフォーマンス:10分程度》
9月30日(水) 8:00《パフォーマンス:10分程度》
10月1日(木) 8:00《パフォーマンス:10分程度》
10月2日(金) 8:00《パフォーマンス+演劇:計30分程度》
パフォーマンス
博多駅周辺に数日間滞在する人が、前日にしたこと、見聞きしたこと、考えたことを喋る
出演|加茂慶太郎
演劇
全4回のパフォーマンスを見た人が、この4日間でしたこと、見聞きしたこと、考えたことを喋る(パフォーマンスを再現しているかもしれないし、自身の体験をブレンドしているかもしれないし、完全創作かもしれない)
出演|よねとくゆりえ(スムっと)
会場
明治公園
福岡市博多区博多駅前3丁目24−24
JR・福岡市地下鉄 博多駅徒歩5分
料金
無料
企画・演出 - 加茂慶太郎
協力 - PAPIO CHILDREN
本企画は法律・条例を遵守して実施します
お問い合わせ
kamokeitaro.contact@gmail.com
プロフィール
加茂慶太郎
1996年生まれ。演劇作家。神奈川県川崎市出身、福岡県福岡市在住。演劇を起こすこと、およびその過程をデザインすることを活動の主としている。近年は「演劇の再開発」をキーワードに、極めて少ない演出からなる原初的な演劇を活用。ときに他アーティストと協働しつつ、作品形態や企画設計までをも検討の範疇に含みながら、現代において演劇のもつ潜在的な可能性を最大限有効化する手だてを模索している。過去作品に、『ちょうどいい入り口』(2025 福岡)、演劇空間ロッカクナット×加茂慶太郎『ひとときのベンチ』(2025 ※造形作品)、マルレーベル『一等地』(2023 福岡・大阪・横浜)など。
よねとくゆりえ
福岡の大学在学中に演劇を始め、演劇団体スムっとを旗揚げ。現在は、東京で暮らしながら、週末演劇人的な活動形態をとっている。よく、何故演劇を続けているのかと聞かれて困る。演劇の良さを伝える言葉は、まだまとまらないが「自分は演劇を始めたことで生きやすくなったから、この生活を続けられるだけ続けたい。」というのが本音。直近の活動では、「がらくた宝物殿」や「みかんプロジェクト」の作品に役者として参加。今回は、来たる10月1~3日、東区箱崎のハコビルにて開催のPAPIO CHILDREN#2「Patio」に制作として参加のため帰福する。11月には、東京で開催の「劇団湾岸サイクル」の公演に出演予定。
踏み込みたい方へ向けたノート
本企画の趣旨について説明します。
私は近年、演劇における創作・演出手法の更新に強い関心を持って作家活動を続けてきましたが、本企画、ならびに10月に発表を予定している新作『フロアB』をもって、大きな段落を迎えようとしている感覚があります。
今後は、自身の問題意識を起点として、これまで培ってきた手法を活用する(演劇を利用する)ことで作品を作っていくスタイルへと転換してゆきたいと考えています。
演劇を始め、大学を卒業し、団体の発足・解散、演劇祭運営等をおこなった活動初期、そして「マルレーベル」等のプロジェクトや『一等地』『ちょうどいい入り口』等の作品で活動形態・演出手法の検討をおこなってきたこれまで、をまとめて活動【前期】とするならば、これからそれに続く【中期】が始まってゆきます。
本企画『博多ショートステイ』は、その移行のための橋渡しを担っています。
本企画には二つの主題があります。
一つは、「問題の自分ごと化」です。
滞在にあたっては、公園などの公有地を使用、もしくは営業中の施設(カフェ等)を料金を支払い利用します。公園を使用する際は、機材等の設置をおこなわず、また占有せずに使用します。
これを具体的な言葉で要旨を簡単にして言い換えるならば、「夜は基本的に公園で野宿をするし、発表は周囲への迷惑を気にしつつこじんまりとやる」ということです。
夜は野宿できる公園を探すことになります。レジャーシートなどがあれば正直どこでも可能ですが、今回は(京都での前例にならい)持参していません。あくまでもベンチ等の、“地べたではない”場所で横になり睡眠を取ることを理想としています。このノートの執筆時点ですでに3晩が経過していますが、だいぶ博多駅周辺の公園事情がわかってきました。
10以上の公園を回りましたが、ほぼすべてのベンチで、人間一人分とちょっとの幅で手すり等の区切りが設置されている、もしくは凸凹とした段差がその幅で設けられていて、まっすぐ横になれるフラットなベンチはほとんど存在しません。
ホームレス対策・寝泊まり対策であることは容易に想像できます。そうした人や光景を街からなくす思惑が行政にはあるでしょう。私も一般市民として、あまり気持ちの良い光景ではありませんから、基本的には賛同しています(区切りがない方がベンチとしても使いやすいと思いますが)。一方で、そうした排除を良しとしない向きが一定数あることは把握しています。しかし、そこ止まりで、これまで私はそれ以上、そうした問題を調べることも、誰かとどこかで話題にすることも特にありませんでした。
こうした、どこかで“問題”になっている事柄に対して、私はかなり無頓着に生きてきました。全てに向き合うことは難しくとも、できるだけ多くのことを踏まえ考え生きてゆきたいし、自分にとって切実な話題のために作品をつくりたいと思っています。現状、まだ自分には切実といえる問題意識はありませんが、近頃少しづつ、疑問や違和感が自分の内で生まれ育っているのを知覚できるようになってきました。
今後、公共性の話題、あるいはホームレスの話題を作品で扱うかは別として、これまでにない経験を通じて社会との接続の仕方を増やし、自分から“遠い”話題を自分に近づけて考えるきっかけを作る、自分へ導入していく訓練としてこの企画は作用します。
加えて、これは主題というほどではありませんが、公園にて特に占有することなく(興行にもならない)発表をおこなうことは、『ひとときのベンチ』の頃より意識している“演劇を生活に近づける”ひとつの取り組みです。
公園で演劇公演をやるならば、たいてい多くの集客や舞台機構の設置が望まれるため、公共空間を公演のために占有するかたちとなり、本来は許可を取らねばなりません。今回はあくまで、税金を納めている一市民として、その範疇で公共の場所をごく短い時間のみ使用します。
劇場という制度に依存せず、かつ実現にかかる金銭・体力コストを軽減しながら、演劇的事柄をありふれたものとして生活に、社会の光景に発生させようとすること、それについての検討・実践をおこなうことは、これからの未来で自らが扱っていくメディアをより有効に、そして柔軟に用いるために役立つと考えています。
本企画の主題のもう一つは、「パフォーマンスと演劇の区別(を自分なりにつける)」です。現在進行中の『フロアB』制作過程で向き合っている話題と関連しながら、“演技”ないし“演劇”についての検討をより深めようとしています。
パフォーマンスと演劇の違いについては、これまであまり深く考えたことがありませんでしたが、本企画最終日の演劇作品を作っていく過程で整理できた、私の考えを述べます。
まず、演劇が発生する際には、二つのことが起こっていると考えます。
一つは、「上演を見て、観客が何かを想像する」こと。ここでいう上演とは、なにも人間による演技ないし動きに限らず、無生物を含めあらゆるもので構成される眼前の状況が、時間A時点のそれから時間A'時点のそれへと変化するさまそのものです。
二つ目は、「その想像が、上演の構成物(例:舞台上の人間)そのものへの想像に起因する」ことです。この二つが両立しているとき、演劇が発生しています。そして、演劇が発生しているとき、その上演の構成物は演技をしていると言えます。
例として、私が観客の前で何かを話しているとします。私が「昨晩は〇〇公園で寝ることにしたが、深夜から冷え込みなかなか眠ることができなかった」と言ったとして、まずこれは上演です。このとき、観客はその文章の意味を理解するだけでなく、人によっては、寒さに凍える私が居る公園の光景を、あるいはずっと震えている私の姿を脳裏に浮かべるかもしれません。一つ目の想像が働いています。もしそこで、その発言をしている私の雰囲気がとても寝不足に見えないほど元気であったりすると、二つ目のことが起こり得ます。例えば私が嘘をついているように見えて、その発言の真意が気になったり、あるいは信用できない人だというイメージを抱くかもしれません。
一つ目の想像の段階では、あくまで発言の内容自体が想像を喚起しています。極論、人体による生の発声でなくとも、録音や文字であってもそれをもとに想像が可能です。一方、二つ目の状況では、発言内容と合わせて本体が想像に影響を与えています。
本企画では、前者のみの状態でいられる上演を「パフォーマンス」、そして両者を兼ねた状態となる上演を「演劇(作品)」と区別し、実行することとしています。
加茂は、4日間のパフォーマンスにおいて、前日の体験を、自身が想像を誘発しないように意図して喋ります。しかし観る人によっては、それでも演劇が発生してしまうかもしれません。よねとくさんは、自身が想像を誘発することを意に介さずに喋ります。むしろ、演劇と銘打っている以上、観客全員の想像を誘発するべきです。……かといって、ではわかりやすくなにかを演じる、意図が伝わるようにするというのはナンセンスに感じられます。
せっかく二つの上演を並べるのですから、どちらも人が喋っているだけなのに、かたやパフォーマンスでしかなく、かたや演劇であるという紙一重の状態を狙ってみたいと思います。そのために何ができるか? 考えてやってみる、というのが本企画です。
ですので、なにか笑える小話をするとか、派手に上手な演技が見られるとか、そういうエンターテインメント性はありません。二つを観て比べて考えたり、そもそも朝の公園でなにか想像の時間をとることにご興味がある方にぜひお越しいただきたいと思います。できれば自分も二つとも客席で鑑賞したいのですが、今回はそうもいきません。ご覧になった方で教えてくださる方がいれば、二つの鑑賞体験の違いをお聞きしたいです。
加茂慶太郎