風通しのよいいきものたちのためのリサーチワークショップvol.2
「いちばん聴いた音楽」を持ち寄って、あなたやわたしを今よりすこし身近な存在にしてみようとするワークショップ
実施レポート|穴井豊太郎(舞台芸術制作)
風通しのよいいきものたちのためのリサーチワークショップvol.2
「いちばん聴いた音楽」を持ち寄って、あなたやわたしを今よりすこし身近な存在にしてみようとするワークショップ
実施レポート|穴井豊太郎(舞台芸術制作)
【ワークショップ概要】
[日時]2024年10月13日(日) 19:30〜21:30
[会場]福岡市民会館 練習室A
[料金]無料
[対象]関心のある方ならどなたでも(未成年の方は保護者の許可を得てご参加ください)
[定員]6名程度
[案内役]加茂 慶太郎
【導入】
この日の参加者は2名(以下、「参加者A」「参加者B」と表記)。それに見学者2名と、加茂を加えた合計5名がそろうと、まず加茂は本ワークショップの趣旨を説明した。
「リサーチワークショップ」という名称の通り、本ワークショップは演劇作品の創作に先立つリサーチ、つまり「試す」ことを主な目的として行われる。
加茂の創作手法の特徴は、戯曲を基にせず、アイデアや問いを起点に様々なことを試しながら、作品を構成するシーンやその要素を見出していく点にある。そのような手法をとる背景として、加茂は自身が「“演劇”というものをゆるい条件で捉えている」ことを挙げた。具体的な条件は次の3点である。
① 見られる人と見る人がいて、時間を一緒に過ごすこと
② 創り手の意図があること(“演劇”の“演”の部分)
③ 物語性があること(“演劇”の“劇”の部分)
加茂が作りたい“演劇”はこのうち、特に②と③の程度が薄いものだという。すなわち客席にいる人が見ているものについて主体的に考え、面白さを見出しうるような余白をもつ作品ということができる。
では、一体どの程度“演”や“劇”の程度を薄くすれば“演劇”として望ましい作品になるのだろうか。そして、いかにしてそれを面白くすることができるのだろうか。――稽古場での創作に入る前に、そのような1人では試せないことを試すための場としてリサーチワークショップを始めることにしたらしい。
今回の起点となる問いは「音楽に生を預けることは可能か?」というもの。
すなわち、音楽を流すだけで「その人がそこにいる」という状況を再現できるのか。
この疑問を発端に、参加者とともに様々な試行錯誤が行われた。
【「いちばん聴いた音楽」の紹介】
本ワークショップの参加者には、事前に人生で「いちばん聴いた音楽」を持ち寄るようにアナウンスされていた。まずはこの「いちばん聴いた音楽」についてどのようなものを思いついたか、加茂が参加者に尋ねると、次のような答えが挙がった。
・(参加者A)1曲に絞り込むのが難しかった。「いちばん聴いたアーティスト」ならすぐに思いつくし、そのアーティストの曲は体験や記憶と結びついているものが多い。今回候補として挙げたのは2曲で、どちらも聴かずとも頭の中で流れていることが多い曲だった。
・(参加者B)「いちばん聴いた音楽」が何なのか、いつ聴いていた曲なのか直感的にはわからなかった。候補として考えてきた曲は、親の運転する車の中でよく聴いていた曲。
2名とも、個人的な体験や記憶と結びついた曲を想起したようだ。
学校のチャイムや、信号機から流れる音楽、あるいは『蛍の光』のように、生活の中で聴く回数が多い音楽や、一般的によく知られている曲は挙がらなかった。
次に、自己紹介の代わりに持ち寄った音楽を紹介する時間を過ごした。各々が自分の1番聴いた音楽について紹介し、その音楽を流す。そして他の人たちは音楽を聴きながら、その人を見てみることにした。
ここでは参加者2名に加えて、加茂も「いちばん聴いた音楽」の候補を紹介した。紹介されたのは以下の6曲である。
(参加者A)
・『らしさ』SUPER BEAVER
・『くちづけDiamond』WEAVER
(参加者B)
・『WATTATA(河を渡った)』忌野清志郎
・『阿蘇』(児童合唱のための組曲「火のくにのうた」より)小林秀雄
(加茂)
・『ピンポンパン体操』小鳩くるみ
・『勝手にシンドバット』サザンオールスターズ
いずれも紹介した曲が1曲ではなく2曲ずつだったことを受けて、「どちらか1曲に絞り込むのは難しかった」「たとえ1番聴いた音楽だったとしても、一般的に有名な1曲だけでは聴いた人にその人らしさが伝わらない」という意見が挙がっていた。
また、曲を聴きながら紹介した人のことを見て「その人の第一印象と曲の印象にギャップがあった」、逆に「結構わかるかも、と思った。その人に合っている気がした」という両方の感想があった。
【加茂の身体を使って試してみる】
自己紹介を終え、早速舞台を使って色んなことを試してみる。
まずは加茂が選んだ曲を流しながら、舞台上で加茂の身体を使って色々なこと(以下の1~6)を試し、参加者からの感想を共有した。
1. 直立不動の加茂が舞台上に立っており、音楽は流れているが、動きはない。
→まず流したのは『ピンポンパン体操』。次に、より一般的に有名な曲での印象の違いを確かめるため、加茂が選曲した『ヘビーローテーション』(AKB48)を流してみる。
参加者の感想を聞くと、いずれの曲でも「流れている音と立っている人が結びつかない、別物みたい」という意見、「その人と音楽が結びつき、紹介されていた音楽に関するエピソードへの想像が膨らむ」という意見の両方が挙がっていた。有名な曲であるか否かは、舞台上の人物のイメージと結びつくかどうかに必ずしも影響を与えていないようだ。
次に、加茂がスピーカーを身につけ、より身体の動きと音楽が連動するような形式で印象の変化について感じてみる。(以下、2~6で使用している音楽は『ヘビーローテーション』)
2. 加茂が会場に入場するとともに音楽が流れ、退場するとともに音楽が鳴りやむ。
→「今から何かが始まるような感じ」「プロレスや野球の登場曲のようだ」という感想。
3. 加茂が目を開けると音楽が流れ、閉じると鳴りやみ、また開けると続きが流れる。
→「曲の歌詞がその人自身のセリフみたい」「目が再生ボタンみたい」との声が。
2,3のいずれも、1のように動きのない状態で音楽を流すよりも、舞台上にいる人の存在と音楽が結びつきやすくなったようだ。
4. 加茂が目を開けている間は音楽が流れるが、閉じると再生した箇所がリセットされ、再び目を開けるとイントロから音楽が流れ出す。
→「その人自身がスピーカーみたい」「逆に生命感が無い」と、音楽に人間の生や存在感を感じなくなったとの指摘があった。
5.加茂が上着を脱ぎ、その中にスピーカーを入れて音楽を流したまま自身はその場から立ち去ってみる。音楽は1曲をリピート再生し続ける。
→「物語が始まりそうな感じ」「亡骸のような存在感」「人がいたのかもしれない、と思う」と、舞台上に身体は存在しないが、それゆえに残された上着に対して音楽が存在感を与えているようだった。
さらに、「着メロが鳴っているけど電話に出られないのかも」「音楽が繰り返し再生されるのとともに、人生も繰り返しているのでは」と、リピート再生によって物語への想像が膨らんでいた。
舞台に人がただ(直立不動で)いるときには音楽と存在が結びつかなかったのに対して、いないときには一気に想像が膨らんでいるようだ。
関連して、「もしスピーカーを積んだ台車だけが舞台上に現れ、そこから音楽が再生されたとしたら、その音楽と人物の存在が結びついていれば、まるでその人物がこの世からいなくなってしまったように感じるのではないか。実際に去るところを見たわけではないのに、観客がその人物に思いを馳せる状況ができていたら、それは演劇だといえるのでは」と対話が広がった。
6.加茂がスピーカーを身に着けたまま、自分で楽しんで聴いているくらいの(音漏れのような)小さな音量で舞台上を歩き、舞台から客席に目を向けたら音が止まる。
→「加茂の集中力が切れるのと同時に音楽も止まったような感じがした」「脳内再生されている音楽みたい」との感想。
ここまでは、加茂が選んだ曲を流しながら、加茂の身体を使って試行を繰り返した。その結果、1の直立不動以外では加茂の動きと音楽が連動していることによって、「その人から流れている感じ」があり、存在と音楽が結びついて感じられた。
また、5では加茂の身体自体は舞台上になかったが、それまでに動きと音楽が結びついていたように感じていた記憶や、加茂が選んだ曲が流れていたことから、やはり音楽と加茂の存在が結びついて想像が促されているようだった。
【参加者の身体を使って試してみる】
では、加茂以外の参加者でも同じことを試してみてはどうだろうか。
まず、参加者Aの入退場と、参加者Aが選んだ曲『らしさ』を連動させてみる。また、瞼の開閉だけでなく、観客と目が合うと音量が大きくなり、目線が外れると音量が小さくなるという連動も試してみた。すると、やはり違和感なく音楽と存在が結びついている感じがする、と意見が一致した。
次に、「その人だけの曲」ではない曲(その人が選んでおらず、みんなが聴いている曲)で同様の入退場、目線の動きを連動させてみる。ここでは『天体観測』(BUMP OF CHIKEN)を使用。「存在がチープに感じた」「さっきよりも「この人」という感じがなく、やわらかな人に感じた」という感想が上がった。
参加者Bについても同様に、自身が選んだ曲(『WATTATA(河を渡った)』)とみんなが聴いている曲(『トリセツ』西野カナ)で試してみる。前者では「曲が面白い」「80年代のアニメBGMみたい」との声が。後者を流すと、「さっきの曲では景色やシーンを連想したが、この曲の歌詞を聴くと立っている人そのものについて想像した」「1曲目は物語が始まる感じ、2曲目は自己紹介をしている感じ」と曲調の違いから人物に受ける印象の違いについての話が広がった。
【まとめ:音楽の持つイメージと存在】
先ほどの『トリセツ』に受けた印象を踏まえると、よりイメージが固まっている曲ではどのように感じるのだろうか。
再び直立不動の加茂を見ながら「蛍の光」(オルゴールver.)を流してみると、「曲が直立不動と合っていない」「「今、この人が聴いている曲」ではなかった」と音楽と存在が結びつかないことを指摘する声に加えて、「「終わりを告げに来た者」というキャラを感じた」と曲のイメージに人物の存在感が引っ張られ、強化されているような指摘もあった。
さらに、今度は舞台上に2人の人物がいた場合の音楽と存在感について検討してみる。次のようなシーンを再現した。
最初は2人がお互いを見ながら会話している。BGMとして、1人の選んだ曲が小さな音量で鳴っている。やがて、1人が会話から離脱し、客席の方に歩いてくる(その間、もう1人の人物はまだ目の前に相手がいるかのように話し続けている)。BGMが段々と大きくなる。そして歩いてきた人物が客席に目を向けると、BGMの音量は最大限に達する。その人物が客席から離れていき、会話に再び参加すると、音量はまた小さくなる。
この2人の人物のシーンは、様々な曲で、また様々な人物の組み合わせで試してみた。しかし、いずれの場合も、音楽の曲調や歌詞のイメージによって観客が想像する人物の性格や受ける印象が左右されるようだった。また、もう1人の人物が話し続けていても、話の内容よりもう1人の視線と音楽に気を取られてしまう、という指摘もあった。
一通りの試行錯誤が終わり、まとめとして、加茂を含めた参加者による対話の時間が設けられた。その中で出た意見を以下に列挙する。
・音楽にはサウンド以外の面でも、関連する年代や出来事をも想起させうる情報量がある。
・音楽を流す場所、聴こえる場所は観客が受ける印象に影響を与えやすい。
・直立不動よりもシチュエーションや動作が加わると情報量が増え、音楽と存在が結びつきやすい。
・音楽が人物の集中力や人柄まで表現しうるというのは新しい発見だった。
・音楽に生を預けることは可能だと思ったが、その預けた生は1曲のイメージに引っ張られるところがあり「その人らしさ」とは限らない。
・会話をしている途中に「こっちを見る」という何気ない動作が音楽と結びついていることに面白みを感じた。(何でもないこととの関連を意外に感じたのかも?)
最後に加茂が全体を通しての感想を述べる。
「「いちばん聴いた音楽」の方がそうでない音楽よりも、その人に合っていることは今日感じられた。では、よりその人に合っていると感じる曲は単純に聴いた回数がより多い曲なのか、という点を突き詰めるのはだいぶ先のステップになりそう。ただ、脚本にストーリーが無くても身体と音楽の変化があるだけでおもしろい演劇になりうることが今日確認できた。ここにどう創り手の作為を載せていくか? という部分が作品につながっていくのではないか。この現象を舞台上でどうおもしろがっていくか、引き続き検討していきたい。」
音楽に限らず、私たちは様々なモノに関わり、触れながら生きている。ある人が繰り返し触れたものはいつの間にかその人の一部になり、やがて他者から見るとその人の生を預けられたものになるかもしれない。それはその人そのものではない。しかし、その人のことを今よりすこし身近な存在にする。
音楽を使って遊びながら、少し距離を取って互いの存在と生を見つめる。間もなく閉館する福岡市民会館の一室で、私たちはたくさんのモノに囲まれながらそんな時間を過ごした。
筆者紹介
穴井 豊太郎(舞台芸術制作)
1996年生まれ。佐賀県出身。九州大学教育学部在学中、落語研究会で活動したことをきっかけに、舞台芸術の公共性や社会的役割について関心を持つ。大学卒業後、公立文化施設の事業担当として公演やワークショップの制作、票券管理などを経験。より多くの社会と舞台芸術の接点を見出すことができるアートマネージャーを目指し、日々活動の幅を広げている。