加茂慶太郎・宮崎玲奈
『実験ラボ2025年12月6日』
加茂慶太郎・宮崎玲奈
『実験ラボ2025年12月6日』
加茂慶太郎(演劇作家)と宮崎玲奈(劇作家・演出家・ムニ主宰)による、いま創作において問いたい命題を思いっきり実験する場。2024年4月10日(水)の一日、神奈川県横浜市のSTスポットにて、第1回を実施。オープンリハーサルの形式で小屋入り時から、本番を行い、解散するまでの過程を公開した。
第2回目となる本企画では、それぞれの新作戯曲を持ち寄り「集まりを上演」する。
※ご来場の皆さまに上演へのご協力をお願いする可能性があります。
日時
2025年
12月6日(土) 20:30〜
20:10受付開始
終了時間未定(1時間半程度を予定しております)
『可能性の演劇』 宮崎玲奈
あたかも役として俳優が舞台上に登場すること、舞台上に戯曲の再現のための物質が存在すること、演劇の当たり前がわたしにははじめから疑わしかった。可能性の演劇では、俳優が役として舞台上に存在し続けるのではなく、環境により俳優から役が立ち現れる現象について記述していきたい、それを「可能性の演劇」と名付ける。意識の本質をはじめから確定させるのではなく、周縁から主観を描写することを通して、意識の実態に迫っていきたいのだ。
【はじめに−劇への抵抗の宣誓】
絵画の支持体はキャンパスと絵の具だと仮定される。では演劇の支持体はなにか。演劇の支持体は「集まり」であると仮定する。ある時、友人に「集まりを、集まるということを問うことができなければ、演劇の未来は明るくない。」と言われたことがある。その発言の意味するところは「集まり」の意味を問うことが為されなければ、演劇の未来は明るくない、ということであった。自閉的な集団の中で出された戯曲の解釈および「〜に見える」ためにという目的に向かって創作する、という行為それ自体にいつのまにかわたしは魅力を感じなくなってしまった。劇作家・演出家の有する世界の再現のためにあるような共同体に違和感を感じる。戯曲という媒体を複写するといった目的がなくとも、役という媒体を仲介せずとも、個が個として共存し、一つの創作物を作り上げる、そのような上演を志すことはできないのだろうか。
上演が戯曲をよりわかりやすく現前させる装置としてではなく、上演を戯曲から引き剥がし、上演それ自体が戯曲から自立することを目指すことが、劇(法)への抵抗となり得る、とここで宣誓する。また、上演が上演それ自体として戯曲から自立し得ることが目指される時、「軽さ」を目指すことが一つの方向性として示される。同時に「軽さ」の裏返しとして、言葉それ自体の「重さ」が現場には発生する。
戯曲、演出、俳優、舞台美術、小道具、照明、さまざまな要素が複同的に作用し合っていることから、演劇は総合芸術だ、と言われる。が、舞台上に当たり前に物が存在するということについて、そこに存在する光について、演技を行う俳優が何に向けて演技を行っているのかについて、改めて個別に問い直し、定義し直していってもよいのではないか。それらの要素が「〜に見える」ために、という目的に向かい、戯曲の再現および演出家の有する世界の見方の再現のために必要とされているのだとしたら。わたしはそれらの法に抵抗したい。
【集まり方を問いなおす】
演劇をつくる時、戯曲、演出、俳優、舞台美術、小道具、照明、さまざまな要素が複同的に作用する状態を目指す。学校や会社と似たように、思想、年齢、ジェンダー、職能など異なるさまざまな個人が一つの劇をつくるために集まるのだ。では、どのようにして集まるのか。たとえばリーダーが今回はこれがやりたい、と方針をもって集まる。演劇においては劇作家であったり、演出家であったり、プロデューサーである場合が多い。リーダー不在の、俳優たちによる集団、特定のセクシュアリティの人々が集まって作られた集団、といったこともある。集まり方を以下では大きく3点に分けて見ていきたい。
⑴ 特定の属性によって集まる
⑵ テーマおよび物語を目的として集まる
⑶ 形式や問いを目的として集まる
一点目は前述したような、俳優による俳優の集団、特定のセクシュアリティの人々が集まって作られた集団、といった特定の属性によって集まりが構成されるあり方である。その者が何者であるか、どのような人が集まっているか集まりのテーゼによって集団が構成される。集まりの特性が作品に反映されることもある。二点目はテーマや物語の上演を目的としての集まり方、三点目は上演における問いや形式の発展を目的とした集まり方である。
わたしは近年、二点目の物語やテーマを軸に人が集まる場合、ある一貫性が必要なのではないか、と感じている。この物語を上演したいということに、思想もジェンダーも年齢もばらばらな人々が集まる。物語の思想に共感できる人ばかりがそこに集まる訳ではない。バラバラな個が集まって上演に漕ぎつけたなどと、リーダーがバラバラな者たちでひとつの作品を立ち上げたという点を特化し美徳のように語ることもあるが、共感し難い。なぜなら、脱イデオロギーの時代変遷と共に近代演劇は目的やテーマが喪失されている。表現のイデオロギーが希薄化した時代の集まりの目的がテーマや物語である時、何を目的にわたしたちは集まっていると言えるのか不明瞭に思うからだ。このゆるふわな集まり方がどうにも理解し難いのだ。
上演ではこのような問いを立てたい、という問いはテーマでなく、形式であるはずだ。なにを表現するか、ではなく、どのように表現するか、が重要なのではないか。わたしは演出家として上演の集まりを作ることが多いため、何を上演の問いとしたいか、どのような形式を選択したいかを明示し、形式の探究に同伴する希望者を集め、集まりとする。三点目の方法を選択している。作家として表現したい世界は戯曲で既に成立しているようにも思うし、上演および上演のための集まりが戯曲の再現に留まることが決して良いと思わない。集まりの目的が物語やテーマ、つまりは、戯曲から離れたところにあることが重要であると考える。
「行為は自由であろうとすれば、一方では動機づけから、しかも他方では予言可能な結果としての意図された目標からも自由でなければならない。行為の一つ一つの局面において動機づけや目的が重要な要因でないというわけではない。それらは行為の個々の局面を規定する要因ではあるが、こうした要因を超越しうるかぎるでのみ行為は自由なのである。」
(『過去と未来の間−政治思想への8試論』第四章「自由とはなにか」ハンナ・アーレント斎藤純一、引田隆也訳)より引用
形式の問いを立てたとしても、問いがありながら逸脱していく可能性の方が大きい。テーマの議論というよりも、わからない数式をいかに集団で解くか、という感覚に近いのかもしれない。同時に形式を問いとしたとしても、戯曲における精査が為されないままだと、形式主義に陥る可能性もある。長くなったが、ここまでが演劇を作る集まり方についての話である。上演の際にはその集団の上演に立ち会う観客も含めての集まりであると捉えることができる。
演劇の再開発 加茂慶太郎
「演劇」というワードの指し示すものの広さに困っている。
世間一般においてのそれだけでなく、演劇に携わる人々の間でも、かなりの差がある。しかしながら、それについて明らかにはせぬままに、「演劇をやっている」ということで連帯をしていることがままあるように思う。演劇は演技のことではないし、物語のことでもない。演劇の要素として重要ではあるのかもしれないが、私はそもそも、これらは演劇の必要条件ですらないと思っている。同意をしてくれる人も、全く意味がわからないという人も居るだろう。
これはかんたんに解消できるものではないだろうし、解消される必要もないのかもしれないが、私自身はそれなりに困っている。困っていた、という方が正しいか。他者の演劇観について否定するつもりはない。世でそれらが「演劇」と呼ばれている以上、逆に「演劇」の定義を広く構え、そのうえで演劇の何を嗜好しているか、という部分をそれぞれが明らかにする必要があると思う。
現在の私による演劇の定義を述べる。
演劇とは、事態の変容する過程のことである。
そのさまが、そこに居合わせる者に対してフィクションを生じさせる場合、それを演劇という。
※「居合わせる者に対してフィクションを生じさせる」・・・居合わせる者の想像によって、その者自身に現実と異なる感覚をもたらすこと
どうだろう。述べておきながらこれが完全だとはまだ全く思えていない。これから変わっていくだろう。何より、これに当てはまるものは世の中にごまんとあるから、「演劇」そのものをドンピシャで言い表しているとは感じられないのだ。
しかしながら、そのすべてが「演劇」で、別によいのだと思っている。「演劇でもあるし、〇〇でもある」ことばかりである。人が出てこない演劇も、意図せず偶発的に発生する演劇もあろう。だからこういうひどく曖昧な定義になる。必要なのは、見る/見られるの同時発生、時間経過、そして見る者の想像とそれに起因する変化だと考える。その他の演劇の要素たち、すなわち演技や物語(行為、状態、身体や言葉)、音や光なんかは、すべて演劇の状況を理想的に起こすための演出にすぎないといえる。
たとえば物語に比重を置いた演劇である場合には、なにか表現したい、伝達したい物語がまずあり、演劇およびその手法を活用してそれを周知している、ということになる。現代演劇は、特にこの方向に進化してきていると感じる。物語への没入度を高めるために客席を暗くし、大音量で会場全体に一体感をもたらし、照明で注目する箇所を切り取り、リアルな/ナチュラルな/上手な/違和感のない演技で役への親近感を抱かせる、といった具合だ。あくまでそれが面白い、それが良いと信じた多くの人々によってその方向に進化してきた、いま現在もっとも多く上演されているであろうタイプの「演劇」が、多くの人の「演劇」に対するイメージと合致するのではないだろうか。例として物語への比重の大きな演劇を取り上げているが、そうでない場合にも進化の仕方が共通している部分はあるように思うし、上演の根底の目的に起因しない形で、「演劇とはこういうものであるから」といった感覚でそうした演出が用いられている場合も多々あるように感じる。
私にとって、現在の「演劇」の姿、演劇のこれまでの進化形が最終形態であるかどうかは疑わしい。そしてこれから先このままで通用するのか、他のメディアに取って代わられることなく存在し続けられるか、定かではないと思う。
近年私は、上記演劇の定義に立ち戻る形で、純粋な演劇状況、ごく僅かな演出によって現れる演劇を活用して、演劇の新たな進化系を模索している。いちど更地に戻してから建て直すといった具合で、「演劇の再開発」と呼べるかもしれない。演劇の新しい魅力を作りたいのと同時に、演劇の”現れしろ”を増やしたいのだ。演劇とはすなわち想像の時間である。いま以上に生活にそういう時間を持つこと、私にとってはこれが、これからを生きるうえで重要に感じられる。まずその機構を軽くすること、日常に取り込みやすくすることが重要であると仮定している。
今回の実験ラボでは、戯曲を用いる。戯曲は、話者/出演者の行為を指示するマニュアルのような形式で執筆する。参加者には、その戯曲を読み、それに沿って動いてみてもらいたいと思う。それだけで演劇になるだろうか。なると予想しているし、そのためのテキストについて検討したい。
誰にでもできる、その場で演劇を起こすための指示書の開発というのが私の今回の実験内容である。
プロフィール
宮崎玲奈
ムニ主宰/劇作家・演出家。1996年高知県生まれ。第11回せんがわ劇場演劇コンクールにて『真昼森を抜ける』で演出家賞。大学卒業制作の『須磨浦旅行譚』が令和元年度北海道戯曲賞最終候補。『ことばにない』で第1回日本みどりのゆび舞台芸術賞HOPE賞。俳句、小説など他ジャンルの創作にも意欲的に取り組む。2024年オフィスマウンテン『トリオの踊り』に参加。最新作は『始まりの終わり』(2025)。
加茂慶太郎
1996年生まれ。神奈川県川崎市出身、福岡県福岡市在住。演劇作家。近年は「演劇の再開発」をキーワードに、極めて少ない演出からなる原初的な演劇を活用。現代において演劇のもつ潜在的な可能性を最大限有効化する手だてを模索している。国際交流基金/YPAM共催 2025年度舞台芸術専門家派遣事業バンコク派遣アーティスト。過去作品に『ちょうどいい入り口』(2025 福岡)、マルレーベル『一等地』(2023 福岡・大阪・横浜)など。
お問い合わせ
メール kamokeitaro.contact@gmail.com
電話 070-4217-4361
主催 - 加茂慶太郎 宮崎玲奈
※会場に駐車場・駐輪場はございません。公共交通機関もしくは周辺の駐車場等をご利用ください。