名称 学校法人 嘉悦学園 かえつ有明中・高等学校
所在地 東京都江東区東雲2-16-1
敷地面積 17,888.00m2
地域/地区
・第一種住居地域
・準防火地域
・東京都都市計画事業 有明北土地区画整理事業施工地区
・臨海副都心有明北地区地区計画地域
建築面積/延べ床面積 4,429.95m2/13,031.74m2
構造/階数 RC造/地下1階 地上5階、塔屋2階
軒高/最高高さ 20.67m/30.90m
〈 外部仕上 〉
普通教室 屋根:アスファルト防水
普通教室 外壁:磁器質タイル
普通教室 開口部:アルミサッシ
〈 内部仕上 〉
普通教室床 :ビニル床タイル
普通教室 壁 :石膏ボード+EP RC+EP
普通教室 天井:岩綿吸音板
〈 設 備 〉
電気設備 受 電:3相3線 6.6kV
変圧器相容量:650kVA
衛生設備 給 水:受水槽+加圧ポンプ
中水:将来引込み可能な様対応
給湯:個別式(電気、ガス)
消火:屋内消火栓、連結送水管
空調設備 (普通教室)吸収式冷温水発生機+ファンコイルユニット
(体 育 館)吸収式冷温水発生機+ファンコイルユニット
(法 人 棟)ガスヒートポンプパッケージ
昇降機設備 EV1:1300kg 20人 45m/min 人荷用車椅子兼用
EV2:600kg 9人 45m/min 乗用
EV3:900kg 13人 45m/min 乗用車椅子兼用
〈 設計監理 〉 鹿島建設 建築設計本部
〈 施 工 〉 鹿島建設 東京建築支店
〈 設計協力 〉 ランドスケープデザイン、イリア
明治36年10月1日 嘉悦孝、神田錦町に私立女子商業学校を創立、初代校長 和田垣謙三
明治37年7月 第1回卒業生13名を世に送る
明治40年5月 私立日本女子商業学校と改称し、千代田区土手3番地に移転
大正8年8月 和田垣謙三死去、嘉悦孝校長就任、日本女子商業学校と改称
昭和7年5月 千代田区富士見町(現位置)に移転
昭和22年4月1日 学制改革により嘉悦学園中学校誕生
昭和23年4月1日 同じく嘉悦学園高等学校誕生
昭和24年2月5日 嘉悦孝死去、平岡市三校長就任
昭和27年3月 平岡市三死去、内海幸作校長就任
昭和27年4月 校名を嘉悦女子中学校・嘉悦女子高等学校と改称
昭和28年4月1日 高等学校に定時制商業科開設
昭和34年10月 嘉悦康人理事長に就任
昭和35年1月 第1期工事(地下1階地上4階、商業実践室・簿記室)完成
昭和35年12月 第2期工事(短大校舎および高校理科室・調理室)改築
昭和37年3月 第3期工事(音楽室・家庭科教室・職員室・食堂等)完成
昭和38年10月 創立60周年記念式典を厚生年金会館において挙行
昭和41年3月 内海幸作校長退任
昭和41年4月 喜多村理校長就任
昭和43年4月 第4期工事(体育館兼講堂・LL教室・図書館・タイプ室・事務機械室)完成
昭和44年11月 喜多村理校長退任・加藤三郎校長就任
昭和47年3月 加藤三郎校長退任
昭和47年4月 嘉悦康人校長就任
昭和48年10月 創立70周年記念式典を武道館において挙行
昭和58年10月 創立80周年記念式典をホテルニューオータニにおいて挙行
平成5年10月 創立90周年記念式典を武道館において挙行
平成8年7月 新校舎建設のため、台東区東上野旧下谷小学校跡地へ仮移転
平成10年4月 富士見新校舎竣工、台東区東上野仮校舎より富士見へ移転
平成13年3月 嘉悦康人校長退任
平成13年4月 嘉悦克校長就任・嘉悦大学開設
平成15年10月 創立100周年記念式典を虎ノ門ホールにて挙行
平成18年4月 有明新校舎竣工、富士見校舎より江東区東雲に移転
平成25年10月 創立110周年記念行事を開催
平成27年3月 嘉悦克校長退任
平成27年4月 石川一郎校長就任
平成28年3月 石川一郎校長退任
平成28年6月 小畑秀文校長就任
令和3年3月 小畑秀文校長退任
令和3年4月 前嶋正秀校長就任
令和5年3月 前嶋正秀校長退任
令和5年4月 石川百代校長就任
令和6年3月 石川百代校長退任
令和6年4月 小島貴子校長就任
福島 四郎 作詞
牛山 充 作曲
一
市ヶ谷のみほり今も深く
見付の松が枝みどりは千代
かわらぬ誠を心として
礎はかたしわがまなびや
二
家をも国をも富ます業に
勤しむ男の子を内にたすけ
渡らん吾らが世の海路は
望みにみちたりなど恐れん
三
かざりにあらざる此手と足
静かにもつべきわが心ぞ
教えを守りてただひたすら
怒るな働け命かぎり
この校歌は、大正2年(1913年)に創立10周年を記念して制定されたものである。作詞は、婦女新聞社社長福島四郎氏、作曲は、東京音楽学校(現・東京芸術大学)助教授牛山充氏による。この曲は、校歌には珍しい8分の6拍子で歌曲風の流麗な名曲である。当初この校歌は旋律だけであったが、後に本校(当時 日本女子商業学校)の音楽講師吉原規氏がピアノ伴奏部分を付した。また、この時代日本の洋楽界はまだ黎明ながら、作曲者は異なるが同じ年に「早春賦」、大正中期にかけて「浜辺の歌」「宵待草」などいずれも同じ拍子の傑出した名曲が流行的に生まれている。
歌詞の第1節目に、市ヶ谷の御濠と見付の松が歌われているのは、市ヶ谷見附(明治4年撤去)のたもと(現・JR中央線市ヶ谷駅前)にあった当時まだ新築間もない聳立した校舎から臨む、市ヶ谷の御濠と見付の松を永遠の象徴として、わが学び舎とその教育精神のとわなる事を願い校歌にもり込んだものである。この第1節目の中に学校の歴史と伝統を知ることができる。第2節目と第3節目には教育の基本精神が歌われている。
見付というのは、かつて皇居が江戸城(別名 千代田城)として徳川の居城であった時、城への進入者を見付けるために外濠の諸処に設けられていた見張り場所のことで、その数は36にも及んだ。駅名等に見る赤坂見附、四谷見附及び牛込見附の名称はその名残りである。見付には、それぞれ枡形をした城門が置かれていた。この見付門の外観は皇居の大手門(江戸城の正門)などと同じである。枡形の城門は現在田安門にその典型が見られる。
第1節:(学校の常とわを歌ったもの)
女子の学ぶべき道を教える私達の学校の礎は盤石であり、市ヶ谷の御濠や見付の松と共に永遠である。
第2節:(女子のたしなみを歌ったもの)
家のため国のために懸命に働いている夫を助け、主婦の本分を尽くして暮らしてゆけば、未来への希望が満ち、世の荒波の中に出ても何も恐れる事がない。
第3節:(教えを守って実践する事を歌ったもの)
手や足は飾りではなく、働くために使うものである。心は常に静かにもって、いらだたせてはならない。怒るな働けの教えを一途に守って精いっぱい努力する事である。
はるかな空 流れてゆく雲
心がただ 誘われてゆく
はるかなものが 私を呼ぶ
子供の時から 遠いとこで
いつか会える 願うならば
はるか輝くものに
はるか遠く はるか高く
それは待っている
光ひとすじ 地平は夜明けだ
風が吹く道 顔を上げゆこう
はるかなものに あこがれて
私はどこまでも 歩いてゆく
光りそそいだ 花が咲く野の道
風は渡るよ 荒野を町を
はるかなものに あこがれて
私はどこまでも 歩いてゆく
歌詞は簡潔で分かりやすく、限りなく明るく、遠大な広がりと希望が溢れる空間を表現し、歌詞と曲があいまって響く名曲である。
作詞は広く知られている「翼をください」他、数ある作品とレコード大賞等多くのグランプリ受賞者の山上路夫氏。
作曲は、同「翼をください」を始め「虹と雪のバラード」他多くの名曲そしてグランプリ受賞、またアルファレコードの創業者でもある村井邦彦氏である。
村井氏は、その作曲活動の多くが、カナダという大自然を背景としての創作であり、曲にはその雄大さが反映されている。
100年の伝統の上に生まれた、新しい学園の新たな夜明けを迎えるにふさわしい名曲である。
これまでの校歌も優れたものであったが、女子校の歌として作られたものであり、学園歌として残すこととし、この新校歌は、共学校として生まれ変わった嘉悦百年の集大成とし、男女が共に歌えるよう、創立者が好んだ言葉「光と風」をモチーフに作られた。
※ 歌詞について歌う時に解説者側から望むこと。
各句に自分の願いを乗せて歌う事により、より深い味わいが出る。
はるかな空・・・(の果てに届けよ願い)
流れてゆく雲・・・(に乗って)
はるかなものが・・・(私を待っている)
子供の時から・・・(遠い願いが)
それぞれに想いを乗せて、望みを描いて、歌えるところに、この歌の味わいと深さがある。
校訓「怒るな働け」は、人的資源としての一人ひとりの育成を目指した創設者嘉悦孝が提唱したものである。
「怒るな」は、
不平・不満を他人や社会の責任にせず、自分の中に解決の道を求め、自己責任をもち自分の力で未来に挑むようになってほしい、そして多くの人と様々な関わりを持ち、社会環境の中で生きていき、その中で共生を感じるとともに、広い心で沢山の人と接し、優しい気持ちを持てる人柄であってほしいと願うものである。
「働け」は、
財あるいは富の生産性のみならず、社会の中で生き抜いていくこと、強い信念と忍耐を持ち自分がなさねばならぬことをやり遂げるという意味である。自分らしくいきいきと、そして広く社会に貢献できる喜びを感じてほしい。そのために、社会にある様々な職業を知り、選んでいく力を身につけてほしい。
さらに人生の目的が見つけられたなら、積極的に行動し、チャレンジ精神を持ち、常に努力し、明るく元気に生き続けてほしいと願うものである。