中東におけるディアスポラのユダヤ

中東におけるディアスポラのユダヤ


「中東におけるディアスポラのユダヤ」

ヘロデ大王没後、ローマによる直接支配下に置かれたユダヤ人は、宗教的確執を契機に対ローマ・ユダヤ戦争に突入し、紀元70年にはエルサレム第二神殿が破壊された。こうして信仰の中心である神殿祭儀と国家という形態を喪失し、2世紀の第二次対ローマ・ユダヤ戦争の敗北を経てユダヤ人は各地に離散(ディアスポラ)した。捕囚以来のバビロニアとパレスチナを二大中心としながら、中東一帯、地中海沿岸一帯に本格的に拡散したのである。

   

ラビ・ユダヤ教の成立 信仰の中心である神殿を失った従来のユダヤ教を引き継いだのは、聖書に長けた師という意味を持つラビと呼ばれる集団である。彼らはパリサイ派の流れを汲む人々で、ヘブライ語聖書に関する膨大な伝承、議論を継承していた。信仰の中心にトーラーの学習を据えた新しいユダヤ教は、彼らラビたちが率いたことから、ラビ・ユダヤ教と呼ばれ、中世を経て近代に至るまで存続していくのである。ラビ・ユダヤ教の特徴は、二つのトーラー(律法)という信念である。即ち神の意志は成文トーラーと口伝トーラーによって二重に啓示されたとされ、成文トーラーに拘束されつつも柔軟な法解釈によって、環境の異なる新しい事態に対処できるようにしたのである。実生活における広範な領域を包摂する法伝承はミシュナー(200年頃)、タルムード(5世紀)として編集された。こうして、7世紀前半のイスラームの出現以前に、ラビの指導の下でユダヤ法による自治社会の基礎が形成されたのである。

イスラーム支配下のユダヤ教 イスラームが中東を中心とする広大な領域に覇権を確立した紀元8世紀初頭までには、全世界のユダヤ教徒の90%以上がその版図内に居住することとなった。イスラーム圏のユダヤ教徒は、キリスト教徒と共に同じ神からの啓示を共有する「啓典の民(アフル・アル=キターブ)」として位置付けられた。彼らは、イスラーム法の優越を認め、人頭税(ジズヤ)と土地税(ハラージュ)の支払いと引き換えに、生命・財産及び信仰の自由が保証され、共同体ごとの内部自治を認められる庇護民(ズィンミー)とされた。イスラーム圏では啓示法に基づく宗教共同体(ウンマ)が普及し、これがイスラーム圏内部の他の一神教集団にも適用された。また、後にイスラーム圏においては、アラビア語を用いた法学が学問の主流となり、唯一神の啓示法がシャリーアとして確立したが、それはユダヤ社会にも大きな影響を与えたと考えられ、ユダヤの啓示法はハラハ―として確立した。両者は非常に酷似しているが、その歴史的な因果関係はまだ解明されておらず、今後の大きな課題の一つとなっている。

派閥の出現と正統派としてのラビ・ユダヤ教 イスラーム以前から、ユダヤ社会にはバビロニアのスーラ及びプンペディータという都市にそれぞれイェシバー(学塾)が存在したが、イスラームの出現以降、特にバビロニア(イラク)のバグダードに帝都を据えたアッバース朝の下で、二つの学塾の権威は、その塾長であるガオンという称号と共にカリフの支配する全イスラーム圏に及んだ。ところが8世紀後半、ラビたちの伝承してきた口伝トーラーを一切認めない分派が登場した。カライ派である。彼らはやがてラビ・ユダヤ教の権威の及ばない派閥を形成した。カライ派はイェシバーのガオンに替えて理性の働きを重視したが、彼らのこの合理主義精神は、当時のイスラーム圏を席巻した合理主義神学、ムータジラ派の思惟方法の影響を受けていた。一方、ラビ・ユダヤ教の立場からカライ派に果敢に挑んだのが、10世紀に活躍したサアディア・ガオンである。彼自身もムータジラ派の思想から多くを学び、ギリシア哲学以来の合理主義的精神に基づいて生涯カライ派と争い、正統派ラビ・ユダヤ教を擁護した。サアディア・ガオン以降ラビ・ユダヤ教にも合理主義的な理性が本格的に導入されて様々な学問分野に大きな影響を与え、やがて12世紀に活躍したマイモニデスにおいて頂点に達した。彼は医学においても大きな業績を残すと共に、膨大なハラハ―を整然とした法典に纏め上げた他、カイロのユダヤ社会を主宰した。

イスラーム圏のユダヤ教徒の活躍と衰退 当初専ら農業に従事していたユダヤ教徒は、イスラーム圏の社会構造の変化に機敏に対応し、9世紀初め頃までに離農を完了して都市民化した。旧カイロのゲニザ文書の研究成果からも明らかなように、ユダヤ商人はムスリムやキリスト教諸派に交じって盛んに陸海の商業活動を行った。その際、バビロニア及び各地の共同体の間に張り巡らされた宗教的、人的、情報のネットーワークが大いに活用された。また、金融や様々な手工業にも多数従事していた。10世紀以降バビロニアの没落を他所にエジプト、マグリブやアンダルスでユダヤ教社会は大いに繁栄したが、ムスリムを優遇したマムルーク朝下では次第に衰退した。しかし、宗教・宗派や民族の別に囚われないオスマン朝の下で再び大きく息を吹き返し、やがて激動の近代を迎えるのである。【嶋田英晴】