エッセイ「いのちいとおし」

いのちいとおし1 与えられたいのちをどう生きるか」





1)いのちに直面している日々

 半世紀近く内科医として、患者さんといういのちに向き合ってきた私の最大の関心は、いのちとは何か、ということです。私は、いのちの神秘に惹かれて、この仕事を選びました。病院は、いのちの誕生から死までを扱う唯一の場であり、私たち医療従事者は否応なしに、日々刻々患者さんのいのちに直面しているために、絶えずいのちについて感じさせられ、考えさせられています。

 私の日常は、いのちの本質を追求することだけで展開しています。患者さんを診ていても、医学論文や哲学書を読んでいても、私の頭を去来するのは、いのちです。


 人の誕生は、誰もが新たないのちの息吹を素直に喜ぶ瞬間です。重い病気に罹り、辛い症状に苦しんでいれば、自分のいのちの危機を感じざるを得ません。事故などで一瞬にして消え失せるいのちに直面すると、そのはかなさに、呆然とします。死に至るかもしれない病気が回復して来たら、いのちのありがたさをしみじみ実感します。奇跡的な治癒を目撃するたびに、いのちの神秘性を痛感させられます。同じ治療をしても、どうして治る人と治らない人がいるのか。どう考えても、いのちの差が歴然と存在します。いのちなんて、最新医学をもってしても、ちっとも解明できていないんだ、とつくづく思います。


 長年の臨床で、私は確信を持っています。いのちが良好なら健康を保ち、より幸せな人生を送ることができる、いのちが低下していれば病気になり、夢の実現の妨害になる、これは絶対間違いありません。

 今生でのたった一回きりの人生です。己のいのちを精一杯輝かして日々を送りたい、人生を全うしたい、そういつも思います。皆さんもそうでしょう。


 改めて問います。いのちって、何でしょうか。

私と一緒に、いのちを探求する旅に出かけませんか。


いのちいとおし2 「与えられたいのちをどう生きるか」





2)いのちの不思議

 生まれたてで元気に泣いている赤ちゃんはいのちを連想させますが、不思議なことに、1年前にはこのいのちはなかったのです。精子と卵子が受精し、1個の細胞から細胞分裂が始まり、200種類以上の細胞に分化してミニ版のあらゆる臓器を創り始め、胎児がゆっくりと成長し、極小の心臓が動き出し、手足ができ、脳が大きくなり、胎動を始め、羊水が貯まり、臨月に誕生に至り、母乳しか受け付けない脆弱な赤ちゃんが日々たくましく成長し、知恵をつけ、大人になっていく。この至極当然の過程も、よくよく考えれば、全く奇跡的なことです。


 人間の体はどうしてこのようにうまくできているのでしょうか。いのちはなぜ成長するのでしょうか。1個の細胞を無数に増加させ号令に従うかのように正確に体を創っていく司令塔は何でしょうか。いのちの根源は一体何なのでしょうか。全く何もわかっていません。

 医師として患者さんを診ていて毎日驚くのは、人間の生命力、いのちのすさまじさです。骨折してもちゃんとくっつきます。転んで膝をすりむいても、勝手に出血は止まり、肉芽が盛り上がり、元通りになります。外科手術がうまくいくのも、切除部位の修復と言う治癒力があるからです。

16世紀のフランスの偉大な外科医アンブロワーズ・パレが言ったように、「我包帯するのみ、神癒したもう」です。

インフルエンザだろうが新型コロナだろうが、罹っても大抵の人は1週間もすれば自然に治ります。末期的ながんでも難病でも、時に完治するのは、いのちのおかげと言えます。言うまでもなく、我々の体の自己治癒力は、生命力あるいはいのちと言い換えても良いでしょう。私たちは病気にかからないよう、罹っても治るよう、実にうまく設計されているのです。当初から、遺伝子などにこの重要ないのちの情報が書き込まれていると言えます。いのちによって生かされていることに感謝あるのみです。

 

 健康の原点、それは、いのちです。



いのちいとおし3 「与えられたいのちをどう生きるか」





3)いのちは精密の極致で美しい

 37兆ほどの細胞で出来ている私たちの体は、あらゆる部位を取ってみても実に精巧にできていることに驚かされます。しかも多少の破損には自動修復機能があります。

 目の構造を見てみましょう。情報は水晶体から入り、網膜で像を結びます。網膜には1億個以上の光覚細胞があります。網膜で複雑に変換された情報が視神経を通して脳に運ばれ、視覚を統合する分野で瞬時に処理され、人は正確な情報を得ます。最新のテレビカメラでも、足下にも及ばない色彩と精密さに圧倒されます。


 聴覚についても考えてみましょう。鼓膜は10億分の1センチのかすかな振動を感じとることが出来ます。振動は耳小骨(ツチ骨・キヌタ骨・アブミ骨)を経て22倍のエネルギーとなり、内耳のリンパ液に伝わり、各種の繊毛が微妙に震えることで、振動が音情報に正確に変換され、聴覚神経を経て、脳でどんな音か判定されます。どんな微妙な音も立体的に瞬時に聞き分ける能力のある聴覚は驚嘆ものです。


 心臓も肺も、肝臓や腎臓も、食道や胃腸も、子宮・卵巣、精巣も、甲状腺・副腎などの内分泌系も、脳も、実に素晴らしく出来ています。人工腎臓はうまく出来ていますが、単なる濾過装置ですから、本物に相当劣ります。人工心臓もしかりです。人工肝臓は永遠に作成不能でしょう。股関節はうまく使えば100年以上持つのですが、本物より優れた人工股関節を創ることが出来ず、20年もすればまた摩耗して取り替える必要があります。


 これだけ科学が進歩していても、人間が解明できているのは、いのちのごく一部に過ぎません。いのちはとてつもなくすごいのです。

 また、細胞を拡大してみると実に美しいのです。図鑑での確認をお勧めしますが、1個1個の細胞も組織も驚嘆すべき美しさです。私の愛読書の一つは、解剖学の教科書の図です。いのちに接すれば接するほど、その精密さ・美しさに、私は感動します。



いのちいとおし4 「与えられたいのちをどう生きるか」





4)いのちはどこから来て、どこに行くのか

ゴーギャン晩年の傑作の絵「われわれはどこから来たのか?われわれは何者なのか?われわれはどこに行くのか?」を都内の展示場に見に行ったことがあります。何とも説明不能の決して忘れられない特異な絵です。人生を通しての彼の根源的な問いに対して、きちんと答えられる人は誰もいません。科学はこの重大な質問に沈黙を守るのみです。

いのちは偶然の産物だから、人生に意味はなく、虚無的に生きて当然だ、と考えることは可能です。しかし、人のために生きるいのちは美しいと感じませんか。本来いのちは美しい、品位あるものだと私は思います。


5)大宇宙の中のたった一つのいのちはいとおしい

あなたは大宇宙の中のたった一つの生命体であり、いのちです。家族や友人の一人一人もいのちであり、世は多数のいのちによって構成されています。そしてお互い支え合っています。だからこそ、自分だけでなく人のいのちも大切にすべきなのです。利己的な生き方は、いのちの法則に反し、病気を招きやすいことがわかっています。

この貴重ないのちは、残念ながら、いつ取り去られるか分かりません。自分がいつ死ぬか、わかる人はいません。それにもかかわらず、仏のモラリスト、ラ・ロシュフコーが「太陽も死も直視できない」と言ったように、人は死を直視したがりません。いのちがはかないからこそ、自分のいのちが尽きることについて、日頃から準備をしておくべきです。いのちがはかないからこそ、いとおしいのです。


6)いのちいとおし

いのちは自分が創ったのでなく与えられたものです。私たちは勝手に生きているのでなく、生かされているのです。いのちは奇跡そのものです。与えられている自分といういのちに感動し感謝して、他のいのちと支え合いながら、美しく一瞬一瞬を生きることが悔いのない人生だと私は確信しています。そして「いのちいとおし」の生き方が、より健康的で幸せな人生を送りやすいことを、患者さんを通して教えられてきました。

やはり、いのちはいとおしいのです。


いのちいとおし5 「いのちの最小単位――細胞、その発生と受難、そして死」





1)日常臨床での細胞との邂逅

 いのちは美しいものです。内視鏡で見ると、消化管の内部は見とれるほど美しく、実に合理的にできているのがわかります。その中で、妙に赤い(炎症?)、変に白い(乏血状態?)、荒れている(炎症?)、出っ張っている(ポリープ?がん?)、など美しさに欠けている場所が見られれば、何らかの病変の可能性が高いと判断されます。良性腫瘍の表面はきれいであり、がんはいかにも汚らしい毒々しい塊です。


 診断確定のために、内視鏡から延ばした針金の先端の鉗子で腫瘍の一部が削り取られ、病理室に運ばれます。手間暇かけて標本が創られ、スライドグラス上の病理標本を病理医が一枚一枚丁寧に顕微鏡で見て、がん細胞があるか、どんなタイプか(腺がんか扁平上皮がん)か)、悪性度が高い(進行が速い)か、どこまでがん細胞が広がっているか、などを微に入り際にわたって判断し正確に記載します。病理学とは細胞を見て病気を正確に診断する学問です。人間の細胞は美しいものですが、がん細胞は形が崩れ、核も不整形で、いかにも美しくない細胞です。後日その結果を患者さんは担当医から聴くことになります。


 最新の内視鏡では、病変が超拡大されて各細胞がくっきり見え、核の変形までわかり、その場でがんかそうでないかを診断できるようになりました。その診断も人工知能がかなり正確につけてくれるのですから、将来病理医が要らなくなるかもしれません。古い世代の私達から見れば、革命的な進歩です。


 がん臨床とは日々の医師のがん細胞との邂逅(出会い)であると言えます。がん細胞をゼロにすることを目標にしているからです。患者さん同様、医師もできればがん細胞と邂逅したくないし、あるのは正常細胞だけであってほしいと願っているのです。このようにがん細胞の動向に一喜一憂しているのが、我々医師の実情です。



いのちいとおし6 「いのちの最小単位――細胞、その発生と受難、そして死」





2)いのちの最小単位――細胞はあまりに複雑で美しい

細胞がいのちの最小単位です。人体は37兆個ほどの細胞からできています。これは想像を絶する数で、世界人口ですら77億です。細胞1個は1mmの1/100程度の大きさ(細胞によって違う)ですから、もし全細胞をつなげたら、その37兆倍、37万kmに達します。すなわち地球8周分になりますから、我々が一生かかっても歩けないであろう距離です。細胞膜を集めたら、900m四方の面積になります。


顕微鏡で見ると、細胞は実に美しいのです。1個の細胞には、細胞膜(細胞を包む膜)・細胞質(細胞膜の中の核以外の半透明な液体で、様々な代謝を行っている)・核(遺伝情報が詰まっている)・ミトコンドリア(エネルギーを生み出す)・小胞体(遺伝子の命令に沿ってタンパク質を合成する)・ゴルジ装置(小胞体で造られたタンパク質に糖を付加し、安定させて必要な場所に送り届ける)・リソソーム(不要になったタンパク質などを分解する)・エンドソーム(タンパク質を輸送する)・ペルオキシソーム(活性酸素を分解する)などが存在します。一つでも欠けると死が待っています。


細胞を電子顕微鏡で数百万倍に拡大しても、実態の解明にはほど遠いのです。なぜなら細胞は、標本を創った瞬間に死んでしまうからです。スルメを見ても、生きているイカのほんのちょっとのことしかわかりません。


しかも全身の細胞が決して喧嘩せず、見事な調和を保ちながら、精密にネットワークを組んで、一瞬一瞬いのちの維持に働いています。

この事実だけでも、奇跡的だと思いませんか。


私はそこに調和と愛を見ます。



いのちいとおし7 「いのちの最小単位――細胞、その発生と受難、そして死」





3)細胞の一生――生老病死

 生:私達の細胞は1個の受精卵から始まりますが、倍々ゲームで刻々成長し続け、

大人になる頃には、300種類ほどの分化(専門化)した成熟細胞、例えば神経細胞や胃粘膜細胞、骨髄細胞など、形や働きの全く違う細胞に成長します。細胞を分化に誘導する因子は何なのかは解明されていませんが、分化した細胞の見事な多様性には驚かされます。全細胞は約1年ですべて入れ替わることもわかっています。今の自分は細胞レベルでは1年前と別人になっているので、あまり過去を引きずらないで生きていきたいものです。


 老:細胞は頑張り屋さんであり、いろいろな試練にもかかわらず、けなげに生き続けます。しかし当初は若くて元気満々だった細胞も、年々老化することを免れず、様々な病気にかかりやすくなります。


 病:細胞に病的な変化が起こると病気になります。心臓の筋肉細胞に病気が起これば心筋症になり、肺の細胞に炎症が起これば肺炎になり、脳細胞にベータ・アミロイドが溜まれば認知症になります。病気とは、細胞の異常にほかなりませんから、病理医は顕微鏡を見て病気を診断します。


 死:死とは全身の細胞死です。心臓停止が血液循環を停止させ、全細胞への酸素の供給が不能となり、細胞死を迎えます。細胞が病気になることによる死もあります。寿命による細胞死も防ぐことができません。細胞は50回位分裂すると、必ず死を迎えます。細胞に死の情報が組み込まれているからです。現時点において、永遠に生きる細胞はありえません。


いのちいとおし8 「いのちの最小単位――細胞、その発生と受難、そして死」





4)いのちはいのちから

現在のすさまじい科学の発達をもってしても、試験管内で生命を創ることは絶対にできません。

たった1個の細胞のからくりがまだよく分かっていないからです。

ドイツの大病理学者フィルヒョウ(かってベルリン大学を訪問した際、

彼の記念館を訪れたことがあります)が言った、

「細胞は細胞から(ラテン語でOmunis cellula e cellula)」という大原則は今も変わりません。


実は生命が自然発生するのは途方もないほど困難なのです。

DNA構造の発見で1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞したフランシス・クリック博士は、

「正直なところ、現在の知識を動員して言えることは、

生命誕生のために満たされるべき条件が非常に多いため、

現時点では生命の起源はまず奇跡としか思えない、ということだ」

(生命 この宇宙なるもの、88頁、新思索社、2005)と言います。

私たちはいのちを当然のものとして軽く受け止めていますが、いのちの発生自体奇跡的なのです。

今生きていること自体が奇跡的なのです。


私達の知らないうちに細胞達が懸命に働いて私達の健康を維持し、

病気を未然に防いでくれていることに感謝しましょう! 

生かされているのは、生き生きと生きている細胞にお世話になっていることであることに

気づいてください。


細胞1個1個を美しい状態でできるだけ保つことができれば、

健康な人生を送ることができるはずです。

生まれ成長し死んでいく細胞1個1個は何といとおしい存在でしょう。

いのちが与えられている、すなわち、美しい細胞が一人一人に与えられていることに、

感謝あるのみです。


いのちいとおし9 「いのちは機械ではない」





1) 機械論的生命観の間違い

有史以来人間は創造神を信じてきましたが、18世紀のフランスの医師にして唯物論者のド・ラ・メトリは、人間機械論を唱えました。人間という生命体も理性ですべて解明できるとしたのです。「人間は極めて複雑な機械である」「超自然な、それ自身としては理解しがたい事物を解釈するに当たって、各人が自然より受けたる理性の光を用いることである」。

 

医学は、人間機械論に基づいて発展してきました。簡単に言えば、部品交換の医学です。科学は分析が得意ですから、いのちも極限まで分析すれば本質がわかると信じ、分子や原子レベルまで細胞を分析してきましたが、それにもかかわらず、いのちの本質はまったく解明されていません。


心は人体の分析では説明不能です。むしろ分析すればするほど、いのちの本質がわからなくなってしまいます。いのちはジグゾーパズルの組み合わせではなく、合成することはできません。


2) 絶妙なホメオスターシス

アメリカの生理学者ウォルター・キャノンが1932年に提唱した概念です。いのちには、たとえ何か突発的なことが起きても、元通りに治そうとする力が働きます。これをホメオスターシス(恒常性維持機能)と呼びます。広い意味での自然治癒力ともいえます。血液の酸塩基平衡・止血機転・そして、体温・自律神経系・血圧・消化機能・循環機能・排泄系・内分泌系の調節など無数にあげられます。当然なことのようで、実に人体は驚くばかりにうまく機能しています。


私たちが健康的な生活ができるのは、体のホメオスターシスによっています。もしこの機能がなければ、人はいのちを一瞬たりとも保つことはできません。しかし最新医学も、ホメオスターシスの本質を明らかにできません。私たちはホメオスターシスに感謝しなくてはなりません。


いのちいとおし10 「いのちは機械ではない」





3)不思議なオートファジー

2016年度ノーベル生理学・医学賞受賞の大隅良典博士のオートファジーの研究は興味深いものです。

細胞が生きるためには、アミノ酸が必要で、食べ物から摂る必要があります。

もし飢餓が続けば、アミノ酸不足となり、終には細胞死に陥ります。

それを防ぐために起こる現象が、オートファジー(自食)です。

オートは「自分」、ファジーは「食べる」という意味です。

人は細胞内で、食事で摂る量の何と3倍も、古いタンパク質をオートファジーし、分解し、利用しています。

できた新しいタンパク質は、細胞をリフレッシュする力があります。

飢餓に対するいのちの対抗策でもあり、これがないと人は飢餓で簡単に死んでしまいます。

もっとも、飢餓が長引けば、いくらオートファジーが起こると言えども、終には細胞死に至りますので、限界はあります。


赤ちゃんが出生するとき、胎盤から切り離され、一時的に飢餓に陥ります。

この時体内ではオートファジーが起きて、自分のたんぱく質を分解して利用することで、飢餓を免れているのです。

オートファジーは細胞内の古い物質を分解し、清掃し、中身を入れ替え、不良になったミトコンドリアの分解もしています。

細菌を取り込んで、消化し、自分の栄養素にしてしまいます。

この点でオートファジーは免疫の働きにもあずかっています。


オートファジーがうまく働かないと、細胞内で作られるたんぱく質の品質管理ができなくなるので、細胞内に異常物質が貯まって、癌・アルツハイマー病・パーキンソン病などの病気の一因になると考えられています。


オートファジー現象は不思議としか言いようがありません。

先述のホメオスターシスの一環でもあります。

オートファジーのことが分かれば分かるほど、生命が神秘であると感じさせられます。



いのちいとおし11 「いのちは機械ではない」





5)細胞は賢い

 細胞生物学者の団まりなは、異物が侵入すると、仲間と協力して相手を覆って貪食する大食細胞や、ばらしても身体を元の姿に造り直していく細胞など、一個一個の細胞は自ら状況を判断し、的確に行動することを、豊富な実例で説いています。

「私が本書で伝えたいことは、細胞が私たち人間と同じように、思い、悩み、予測し、相談し、決意し、決行する生き物だということです」


「胚(胎児)の身体の中は、発生の時期に応じてさまざまな分子のちらばる範囲や濃度の違い(濃度勾配)があり、細胞たちがそれらを感知して、自分の位置やするべき仕事や発生運命を会得していることが、無数の実験から分かっています。もちろん、これらの分子の分布や濃度勾配を作り出すのも、細胞たち自身です。何しろ、彼ら以外の指揮官など、どこにもいないのですから」


細胞には脳がないのだから、それはあり得ないとする通説は正しいのでしょうか。どう見ても個々の細胞は自立していると観察している生物学者は多いのです。

彼女は言います。「遺伝子変異をもとにした生物進化の仮説では、遺伝子変異から先のメカニズムは、実は何もわかっていないのです。細胞たちの現在の姿を、彼らがさまざまな状況に直面して、自分たちに与えられた能力の範囲で必死に工夫し、自分を改良してきた結果とする”擬人的考え方”も、それを裏付けるメカニズムは何もわかっていません」


今起きている現実を既成の科学・医学ですべて解釈しようとしても、限界があることを知るべきです。生命現象は神秘に満ちています。一個の細胞は賢いのです。それが単なる偶然の分子運動だとする先入観を持ってみるのでなく、人間は単純に生命の神秘に感嘆していればいいのです。


いのちいとおし12 「精妙な遺伝子の仕組み」





(1)ちっぽけでも優秀な遺伝子 

遺伝子の本体は、細胞の核の中にある染色体を構成しているDNA(デオキシリボ核酸)であることは言うまでもありません。2003年に人の遺伝子のDNA配列(ゲノム)がすべて解読されました。遺伝子の働きは、親から子へと形質を伝える、常時たんぱく質を作り生命を維持している、の二つです。アメリカに留学していた30年前、友人の分子生物学者が、試験管内のDNAを見せてくれたことを思い出します。白っぽいひも状のものが水中にふわふわ浮かんでいて、これがDNAなのかと感動しました。


1個の遺伝子のDNAをすべてつなぎ合わせると、約1.8メートル、重さはわずか1グラムの2000億分の1、幅は1ミリの50万分の1です。核を1センチとすると、その中に1.8キロもの長さの細いひもがきちんと折りたたまれて入っていることになります。遺伝子は美しい二重ラセン構造で、アデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)という4つの塩基から構成されています。人の遺伝子は、この4つの塩基の30億の対からできています。超微細な遺伝子ですが、一つの遺伝子の持つ情報量は、1ページに1000字ある1000ページの本で、約6000冊分に達します。AとT、GとCがペアになって、二重ラセン構造を造っています。


紫外線などの変異原物質の作用で塩基に異常が生じると、さまざまな修復酵素が働いて、元通りに戻ります。例えばAが欠損したらペアの片方はTなので、すぐAが再生されます。もし異常が大きくて修復がうまくいかなければ、最悪の場合がん細胞に成長するかもしれないので、自死を命令する遺伝子が働いて、勝手に死んでくれます。


DNAは普段くっついて固形の形をとっていますが、動き出すと、インスタントラーメンがお湯で1本ずつにほぐれるように、二重ラセンがほぐれて、ついには1本になります。そしてちょうど鋳型を造るように、片側のAの向かいにT、Gの向かいにCというように合成されたら、ほぐれる前の2本のDNAと同じDNAがコピーされることになります(複製と呼ばれる)。


また、Tの代わりにU(ウラシル)が使われてできた(転写と呼ばれる)1本のメッセンジャーRNA(リボ核酸)が、核内のDNA情報を正確に核外の「たんぱく質合成工場」(リボゾーム)に伝えます。そこでは、遺伝子の4つの塩基の内の三つが1個のアミノ酸を作り、20個のアミノ酸が1個のタンパク質を作ります(翻訳と呼ばれる)。1個の遺伝子は数万種類ものタンパク質を生み出し、複雑きわまりない生命現象を司っています。1個の細胞には80億個ほどのたんぱく質が存在します。



いのちいとおし13 「精妙な遺伝子の仕組み」





(2)エピゲノムとは

妊娠中の栄養失調が、大人になってから、生活習慣病のリスクを上げることがわかってきました。第二次大戦中のオランダでは、食糧難で多くの人が餓死し、栄養失調状態が続きました。その後生まれた子どもたちが大人になると、高血圧・心臓病・糖尿病などの生活習慣病や、統合失調症が多いことが判明しました。体内環境が胎児に影響を与えているのですが、母体の栄養失調は胎児の遺伝子そのものは変化させません。


 一個の受精卵の遺伝子はまったく同じなのに、分化して全く違う細胞になり、独自の臓器を創るのも不思議で、変身せしめるのは遺伝子だけでないことがわかります。一卵性双生児も遺伝子は全く同じですが、歳と共に違いが大きくなり、かかる病気や寿命も異なります。環境因子の影響の方が大きいのです。


 これらの現象から、遺伝子の働きを調節いている仕組みがあることが分かってきました。近年注目されているのがエピゲノムです。ギリシア語で、ゲノムは遺伝子、エピは「上に」、あるいは「傍らに」という意味です。すなわち、エピゲノムとは、遺伝子の塩基配列の変化によらないで遺伝情報を伝えるいとなみです。わかりやすく言えば、エピゲノムは遺伝子の働きをオンにしたりオフにしたりするのです。オンであれば遺伝子が正常に働き、オフになれば、遺伝子が働かなくなります。パイプオルガンも、初めからパイプの数は不変ですが、ストップを変えると、パイプが開いたり(オン)閉じたり(オフ)して音色が変わり、奏でられる音楽もガラッと変わります。遺伝子は変えられないのでデジタル、エピゲノムは変えられるのでアナログと言うことができます。


いのちいとおし14 「精妙な遺伝子の仕組み」





(3)エピゲノムの医療

人間も元々の遺伝子は不変ですが、絶えずエピゲノムの影響下にあり、環境によって遺伝子のスイッチがオンになり、変身可能です。


がんはがん関連遺伝子の変異が引き金になることがわかってきていますが、エピゲノムの変化だけでも、胃がん、大腸がん、乳がん、前立腺がんなどになりやすくなることが判明してきました。遺伝子の変異自体は変えようがありませんが、エピゲノムは変えられるので、がんの治療薬を作ることが可能となりました。すでにアザシチジンは骨髄異形成症候群の薬として使われています。またエピゲノムは血液や尿でのがん診断にも応用され始めました。


精神面もエピゲノムに影響を与えています。いじめのようなストレスがエピゲノムを介してストレスホルモンであるコルチゾールの分泌を減らすということが起きるらしいのです。愛されて育つと脳のエピゲノムが変化して、ストレスに強くなる可能性があります。記憶や学習にもエピゲノムが関わっていることはほぼ間違いありません。


遺伝子学者の村上和雄は、高血糖でさえ、笑っていると下がることを実験で示しました。これは血糖を下げるたんぱく質を作る遺伝子がスイッチ・オンになった可能性があり、エピゲノムによる変化かもしれません(『幸せになる遺伝子の使い方』海竜社)。何かに挑戦したり、希望を持つと、いのちが向上します。逆に、絶望したりうつ状態が続けば免疫力が下がり、血糖が上がるなど、不健康な現象が起きやすくなります。


今注目されているのが、長寿系の遺伝子(サーチュインなど)のエピゲノム次第で、長寿が期待できることです。この件は徐々にお知らせします。


いのちいとおし15 ミトコンドリアを活性化する」





(1)エネルギーはどこから?

人を生かしているのは、言うまでもなくエネルギーです。子どものほうが老人よりエネルギーに満ちています。エネルギーが切れると死が訪れます。


あなたのエネルギーはどこから来ているのでしょうか。誰でも「食べ物から」と答えるでしょう。


私たちのエネルギーは食べ物の糖から来ています。糖は太陽エネルギーによって葉緑体が光合成して、酸素とともに作られます。私たちのエネルギーは太陽光から来ているのです。

 では、私たちの食べた糖はどこでエネルギーに変換されるのでしょうか。それは、細胞の中のミトコンドリアです。


(2)ミトコンドリアとは?

ミトコンドリアは細胞の中の、蚕(かいこ)の繭(まゆ)のような形をした小器官です。1個の細胞に数百から数千あり、細胞全体の10~20%を占めています。筋肉や脳など活動が盛んな臓器に多く存在します。


ミトコンドリアは、エネルギーを作る工場として、人が生命を維持するために大事な働きをしています。植物中の糖は食されて体内でブドウ糖に分解され、呼吸で入ってくる酸素とで、ミトコンドリアが大変複雑な過程を経て、ATP(アデノシン3リン酸)を作ります。ATPはいわばエネルギーの通貨で、1分子のブドウ糖から30数分子のATPができます。一日に作られるATPは65~70キログラムにも達します。しかしお金と違って蓄えが効かず、わずか1秒でなくなりますが、1分子のATPは毎日1500回もリサイクルされて、うまく維持されています。「エネルギーの源であるATPは、ものすごい数のミトコンドリアで、ものすごい速度で合成されて、ものすごい速度で消費されているのです」(仲野徹『こわいもの知らずの病理学講義』晶文社)。


生きるために体で起きているすべてのこと、あらゆる細胞の活動にATPは使われています。細胞の活動とは、必要な物質を創るDNAの材料の提供、細胞の内外への出し入れ、情報の伝達、ホルモンの分泌、脳の機能調整、筋収縮、壊れた部分の修復、体温や免疫の調節などにもエネルギーが必要で、すべてATPでまかなわれます。


ATPはドイツ人の科学者ローマンによって1929年に発見されましたが、化学構造は日本人医師の牧野堅が1935年に初めて明らかにしました。


いのちいとおし16 ミトコンドリアを活性化する」



3)ミトコンドリアの量と質

ミトコンドリアが効率よくATPを作る際に、ブドウ糖をいったん電気エネルギーに変えているのですが、このとき活性酸素を少量生み出してしまいます。呼吸で取り込んだ酸素の1~2%がミトコンドリアで活性酸素になってしまうのです。

活性酸素とは体を酸化させる有害な物質と思っている人が多いと思いますが、実際はがん細胞や細菌を殺すなど、いいこともしています。また、体に活性酸素が増えないように、活性酸素を消去する酵素がしっかり働いていまので、わずかの活性酸素は体に悪影響を及ぼしませんので、ご安心ください。

質のいいミトコンドリアだと効率よくエネルギーを作り出して活性酸素を少なくし、健康長寿をもたらしやすくなります。質の悪いミトコンドリアならエネルギー効率が悪いうえ、活性酸素を増やしてしまうので、老化のスピードを速めてしまいます。



4)ミトコンドリアと病気

いろいろな病気はミトコンドリアの数と質の異常から来ることがわかってきました。

パーキンソン病は古くなった脳のミトコンドリアを除去できない病気です。認知症は脳のミトコンドリアの数と質の低下が背景にあります。脳のミトコンドリアが増えると、脳が使えるエネルギーが増えるので、認知症を防ぐだけでなく、脳の機能全体がよくなり、記憶力改善、集中力増加、発想力増強、良眠などが期待できます。

 がん細胞は正常細胞と異なる代謝活動をしています。正常細胞は酸素の下でブドウ糖から多量のATPを創りますが、がん細胞は低酸素状態でブドウ糖から少量のATPしか創りません。そのため多量のブドウ糖を取り込むことで補おうとします。実はこの原理を応用したのが、PET-CTによるがん検査です。がん細胞がこのように非効率な代謝を示すのは、どうもがん細胞仲間を増やすためであることが次第にわかってきました。

また、がん細胞のミトコンドリアは小さくなったり破壊されたりする異常が見つかっています。ミトコンドリアの異常はがん細胞の増殖に都合がいいのです。そこで、がんの新しい治療法として、ミトコンドリア活性を高めることでがん細胞をコントロールできるのではないかという考えが出てきました。今後の研究が期待されます。