天保2年(1831)の10月21日(旧暦)から23日に、妹の嫁ぎ先である桐生に逗留していた崋山は奥山昌庵(桐生新町の名医)と佐羽蘭渓(同じ桐生新町の絹買継商)に誘われ足利へ2泊3日の旅に出かける。
10月21日:
昼過ぎに桐生新町岩本家を出発。桐生境野村ー境橋ー小俣村ー葉鹿村ー大前村ー山下村ー五十部(よべ)村ー足利町(蔦屋泊)
葉鹿村の奥山昌庵に縁のある店で飲んだ崋山はそこで妹茂登の評判を聞いて大喜び、山下村でも酒を飲み続け泥酔し、奥山昌庵と佐羽蘭渓が民家に運び込み寝かせられる。ひと足早く足利町に入った昌庵と蘭渓が駕籠を雇い、寝ている崋山を迎えに行かせる。崋山は夢見心地で駕籠に乗って、五十部村(よべむら)を通過して足利町の宿屋「蔦屋」(現在の足利市通7丁目の常念寺の斜め向かいにあったという)に到着、岡田立助と武井孫左衛門に迎えられる。蔦屋の2階の客室で岡田立助と書画や画法について夜明けまで語り合い、意気投合します。
10月22日:
蔦屋ー近江屋忠七家ー足利学校ー茂木家で蕎麦ー鑁阿寺(ばんなじ)ー相角清風楼ー近江屋忠七家→蔦屋泊
10月23日:
蔦屋→観音山→蔦屋→五十部(よべ)村→岡田東塢(立助)宅(丹南藩五十部村代官宅・酒食)→大前村(茶店)→葉鹿村→桐生新町二丁目岩本茂兵衛家。
早朝に蔦屋からほど近い観音山に登った崋山は街並みを写生している。その後桐生への帰途に着くが、岡田立助は崋山を自宅に迎え入れるため先に宿を出発している。
蔦屋から五十部村から足利までは現在の旧50号のような直線ではなく、渡良瀬川伏流や湿地帯を避けるよう山沿いを縫うように作られた小径をであった。今福弁財天はその途中にあり、渡辺崋山は往路は駕籠に揺られ、復路は歩いて社殿の側を通ったものと考えられる。