足尾通見取図絵
寛政年間(1789−1801)に編修された「五街道分間延絵図」のうちのひとつ。北側上空から見下ろしたものであり、延寿院の西側に弁財天が描かれている。
足尾通見取図絵
寛政年間(1789−1801)に編修された「五街道分間延絵図」のうちのひとつ。北側上空から見下ろしたものであり、延寿院の西側に弁財天が描かれている。
かつて弁財天に隣接して延寿院と呼ばれる臨済宗の寺院があったという。
今は、弁財天社殿横の小さな祠脇に寺院のものと推測される屋根瓦の破片があるだけで、寺院の痕跡は認められない。
延寿院は明治初期に廃寺となったが、寛政年間に出版された「足尾道絵図」には大規模な本堂のほか鐘楼や回廊を有する立派な寺院として描かれている。
近年の研究によれば、延寿院は「省行堂」として足利学校の附属病院的な機能も併せもち、療養中の生徒や僧侶、地域住民による書写会も行われ、足利学校を中心とした足利庄全体が学園都市として形成されたことを示すものと考えられる。
大澤伸啓著『中世足利・学園まち考』及び『近世における延寿院について』、研究紀要「學校」20号、21号、2022−2023)では、足利は足利学校を中心とする日本初の学園都市であり、延寿寺は足利から桐生へと向かう街道沿にありの学びのネットワークの重要拠点であったこと、応永30年(1423)の『学校省行堂日用憲章』で省行堂使用の心得が規定されていること、応永11年(1403)今福郷(省行堂である延寿院と思われる)で『礼記集説』が書写されていること、などを紹介している。