六角家
江戸時代前期、京都の公卿で、歌人烏丸大納言光廣の次男廣賢を祖とする。廣賢は天保四年(1647)、本昭院守澄親王に従い江戸に下る。元禄二年(1689)、廣賢の長男廣治が高家職に就き、従五位下侍従越前守木工権頭に叙任し、下野足利郡内に一千石を与えられる。この3年後の元禄5年(1692)に今福村の農民が水に困らないよう現在の弁財天社殿を改修奉納した。その後、廣治の子廣豊の代には二千石を知行し、享保六年(1721)から、下野国安蘇郡、足利郡の八ヶ村、武蔵国の二ヶ村を采地したと言われている。足利郡における六角家の地行地は今福村の他に、稲岡村、小中村、山川村、助戸村、田島村、大久保村、迫間村であった。わずかに二千石であったが、威格は万石の上を誇っていた。