足利市今福町にある弁財天(弁天さま)をご紹介します
主祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと、水の神、弁財天の化身で七福神の一神)。
祭礼は五月第三日曜日。
弁天は、水による恩恵を施す財宝神であるとともに、河の女神としてせせらぎが音楽や弁舌に繋がる才能神でもあります。これが、絶世の美女で立派に子育てをした市杵島姫命の伝承と一体となり、ご利益は、開運財運や学芸成就から、美貌・健康、縁結びや子孫繁栄など多岐にわたります。
足利長尾氏の三代目の城主長尾景長が16世紀初頭に、足利城(両崖山城)を守るため祀った七尊の弁財天のひとつといわれています。
現在の社殿は元禄2年(1689)に下野国足利郡今福村の領主となった六角越廣治が創建、元禄5年(1692)に改築されたものです。平成19年(2007)に行われた社殿老朽化対策のため改築工事の際に発見された銅板製の棟札によって確認することができます。
天保2年(1831)には渡辺崋山が境内脇を通ったことが、崋山の旅日記(「毛武游記」)から推測されます。寛政年間(1789−1801)に発行された絵図には、弁財天が鳥居と共に鮮明に描かれています。
また、かつて隣接していた延寿院は足利学校の療養施設や地域の学びの施設でもあり、足利学校を中心とした学びのネットワークの拠点のひとつとして機能していたと考えられます。
このように、弁財天は、地域の信仰の場としてのみならず、学びや交通の拠点として人々を惹きつけ、歴史に重要な足跡を残した場所といえます。
両崖山から天狗山経由沢を降りたところにある今福沢奥のため池のほとりに、「弁才天」と彫られた石造りの小さな祠があります。地元の人たちから「奥の院」と呼ばれていることから、数百メートル下った山沿いにある現在の社殿は、村人の参拝のために「里宮」としてつくられたのではと考えられます。
この里宮の東側にはかつて「延寿院」という臨済宗の寺院がありましたが、明治初期の廃寺により消滅(あるいは弁財天と神仏習合)し、弁財天として存続したとも推測されます。
地域で営々と守り継がれてきた社殿も老朽化が著しく、倒壊の危機にあったため、平成19年(2007)11月に改築に着手、土台部分の修復、屋根を銅板葺に替え、彩色等全面改築が行われたました
この解体作業中、神社の屋根裏に打ち付けられた銅板製の棟札が発見され、そこには「今福村領主高家旗本六角越前守廣治が元禄5年(1692)5月改築」と記録されています。
詳しくは銅製棟札
天保2年(1831)には、足利学校などを見学した渡辺崋山が、丹南藩高木主水正の代官五十部村岡田立助(東塢)宅に立ち寄るため、当時の道中にある境内脇を通ったことが、崋山の旅日記から推測されます。
詳しくは毛武游記
現在の社殿を創建・改修した六角廣治は六角家の3代目。
六角家は江戸時代前期、京都の公卿で、歌人烏丸大納言光廣の次男廣賢を祖とします。
廣賢は天保4年(1647)、本昭院守澄親王に従い江戸に下ります。元禄二年(1689)、廣賢の長男廣治が高家職に就き、従五位下侍従越前守木工権頭に叙任し、下野足利郡内に一千石を与えられます。その後、廣治の子廣豊の代には二千石を知行し、享保6年(1721)から、下野国安蘇郡、足利郡の八ヶ村、武蔵国の二ヶ村を采地したと言われています。足利郡における六角家の地行地は今福村の他に、稲岡村、小中村、山川村、助戸村、田島村、大久保村、迫間村でした。
小中村では幕末に領民と六角家の間に「六角騒動」が起こります。そこで領民のために争った小中村名主がのちに足尾鉱毒事件被害者救済で活躍した田中正造(1841−1913)でした。
詳しくは六角家と六角騒動