大きな成果を得た十年企画   2022.03.10 小嶋 倫子


 3月4日から7日までの福島原発事故10周年イベントが3度目の正直で1年遅れで無事終わりました。本当に皆様ありがとうございました。

1年間延びただけ皆さんの思いが熟成された展示や講演会・座談会・上映会などとても充実しており、コロナ禍ではあり、会場もちょっと不便なところではありましたが多くの人が参加してくれました。

私も展示の準備をしたり、展示会場の受付係をしたり、空いた時には展示を見たり、説明したり、来場者と話し合ったり、講演会や座談会、上映会に参加したり、期待していた以上のとても学ぶことが多い有意義な機会が持てました。また実行委員のそれぞれの方々のイベントを盛り上げようとする積極的努力や協力的な働きぶりに感動するとともに、刺激を受けました。

また、イベント開催日の4日に、ウクライナに侵攻したロシア軍は、既に2月末にチェルノブイリ原発を占拠したのですが、更に欧州最大級のザポリージャ原発(爆発すればチェルノブイリ原発事故の10倍以上と言われている)を攻撃したと報道され、ぞっとしました。まさに恐れていた戦争と原発が現実に結び付いてしまったかと思いました。


自発的に実行委員よってウクライナの国旗のプリントが会場や窓に張られました。そしてまた自発的に「ロシア政府に抗議文を送ろう」との意見が出され、共感の輪がいつの間にか広まって主催者・参加者一同の抗議文の呼びかけが講演会や座談会の最後に賛同・確認され、抗議行動への働きかけはイベントと同時進行に進んでいきました。

戦争の危機とイベントの緊張感が二重に重なった毎日でした。イベント終了後の8日に実行委員の参加できる人がロシア大使館に届け、ウクライナ大使館に激励に行くことになりました。

村田団長が最後におっしゃった「このイベントのテーマは『私たちはどこに向かうのか』ですが、まずは我々は明日ロシア大使館に向かいます」の言葉が忘れられません。

 原発反対と戦争反対が根っこのところで、だれの目にも結び付くことができた、イベントの大きな成果だと思います。

福島県浜通り2021光と影

      ~現地見学ツアー報告 ~   チームみつばち

 福島原発事故10年企画実行委員会のメンバーである、「チームみつばち」さんの5人の方が、事故10年目の福島浜通りを視察して報告書を寄せていただきましたので、ここに掲載します。 

 なお、レポート文書そのものはPDFファイルでダウンロードできますので、印刷してご覧いただけます。こちらをクリックしてダウンして下さい。

ドキュメント10年前・横須賀で(連載07)       沢園昌夫 21,5,20記

この年の5月末、会社の人事異動。やりがいはあるが、やたら忙しい。

会社の後輩連中が震災ボランティアに参加しているのを逞しく思いつつ、私はずっと行けず。

写真は、横須賀米軍基地の原子力空母ロナルド・レーガンが、おととい5月19日に出港したときのです。

レーガンは、東日本大震災の時の「トモダチ作戦」の主力艦で、当時の母港は米国のサンディエゴでしたが、

2015年以降、横須賀を母港にしています。

★当時の「トモダチ作戦」の被ばく兵士については、パネル展でレポートします。

写真 吉野拓造
21,4,11 新横浜にて津島原告団と集い時 (撮影 飯島)
21,4,11 新横浜にて津島原告団と集い時 (撮影 田戸)

[詩]原発被災者と懇談お話しとその情景と      横浜市旭区  吉野拓造 21,5,12

福島県浪江町津島地区の被災者を迎えて懇談

十年前の原発事故で ふるさとを追われた人達

阿武隈の山々と家屋は 今も放射能汚染のまま

それでも早く戻りたいと言う 津島の人達

かけがえのないふるさと 生まれ育った所に


川の北側、相馬藩は今野家が 

南側、三春藩は紺野家が

江戸時代より先祖代々と 

農作に厳しい土地を丹精込め育んできた

戦後移り住んだ開拓者達も 大事な隣人だ

毎年、公民館で郷土芸能の稽古 三晩続けて

豊作願う田植え踊り 家族総出で楽しいな

三匹獅子舞は 

横笛に大太鼓、小太鼓の演奏は欠かせない

今野家十八代目当主が受け継いできた 

大事な大事な郷土の誇りさ


山菜、椎茸が沢山取れる 松茸は美味しいよ

釜土に火をおこして炊く ご飯はいつも多め

ご近所さんが来訪しても困らぬように 

村の古くからのしきたりさ

保育園も、学校も、診療所も、住宅長屋もある

旨い郷土料理の山くじら屋さん

三瓶さんちのヘアーサロンだって


国と東電を信じ 原発の安全神話を真に受けて

都会人の生活を支えるために 

電力を提供した福島第一原発が・・・

私たち津島の人が何をした? 

なぜ今もふるさとに戻れない?

慰問に来た自衛隊員たち 

演奏する『ふるさと』が涙で唄えない


戻ることのできない我が家は 

獣に荒らされて崩れていくだけ

線量計を持ちながら手短に 

お墓参りに訪れる津島の人々

町立の共同墓地だけが ご先祖の墓だけが

いつも綺麗に手入れされている

かけがえのない愛するふるさとは、山々は

今も汚染されたまま

なのに今年も満開の桜が 津島に咲き乱れる

せめて我ら郷土の想い出を 

その姿をDVD画像に残そうと決意する


せめて我らの悔しいこの想いを 

ささやかな権利と信念を持ち

津島原発訴訟を起こして闘う決意 

ふるさとを返せ、我らの暮らしを返せと

日本国民に知ってほしいから 

何かを残さねばならないから

ふるさとを破壊した危険な原発と・・・

国に裏切られた我ら辛い胸の内と・・・

地域のかたち   飯島ちひろ 21,4,26

 東日本大災害当時、経緯を経て桑田佳祐、サザンオールスターズに感銘(?)を受けて過ごしました。「東北の人は関東圏の転勤族と違って土地に足の着いた人達」という新聞かテレビの言葉に、ふるさと、土地に足を着けるとは?、地域の誇りとは?と横浜の新しい街で生まれて育った私は疑問に探し、自身の土地地域を思う気持ちを、桑田佳祐さんから教わったように感じました。                                                                  また、筑紫哲也さん、2008年に亡くなりましたが、たいへん人となりが良い方だと思うのですが、見識があり、ご本を読ませていただくと筑紫さんの温かさも含めて教わることが多いのです。今回は、土地、地域の文化、異文化を含めた都を筑紫さんが伝えて下さっている、町、国のかたち?をご紹介します。

 横浜は開港して、特にアメリカなど欧米化な影響が大きく、おそらく横浜自身のかたち地盤をまだ持てないでいる街かなと思うのですが、動画の(注)独自地盤を築き上げる力、在り方をなるほどと思いました。自分の地域を財政の為に他のものに誘致託さずに(原発や、ものの同一化・画一化フランチャイズ、グローバル産業など)自身で創り、さらに受け取る(地消)まですると、その土地、風土に合った正しいかたち、その土地で生きる意味と誇りに繋がるのではと思います。

(横浜は独自を創るのが時代的にも周りの影響的にも難しいのかなと思っていたのですが、ユーゴスラビアなど、ヨーロッパもおそらく昔から他の地域の影響は強く受ける環境だったと思い、だとしても街を作っているのが(まんま誘致でなく)自身でやっているところが鍵なのかなと思いました。)

 筑紫さん「よくユーゴスラビアの国を表現するのに、1つの国だけども、2つの言葉があり、3つの宗教があり、4つの言語を持ち、5つの民族があり、6つの共和国からなっていて、7つの外国と国境を接していると、そういう言い方でユーゴスラビアを説明する言葉があるそうです。色んなものが交じり合っててその交じり合いの中からある種の独特の文化を創ってるというのがユーゴスラビアという国の・・・」

 日本では鎖国状態の中で東京の江戸文化までが日本的地域独自文化は創りやすい環境だったのかなと思いました。横浜はいわゆる今までの日本的なものは多分今後も出来ないと思いますが、トルコみたいな位置付けに横浜自身で文化を築くと良いのかなと思いました。

 これを日本の中で創成するには ”県単位” で、農業・漁業・商業=文化・行事・エンターテイメントまで地産地消していくのを手段として提案します。

(動画2/2ではどの国(地域)にも自身の土地を思う、桑田佳祐さんみたいな方はいるんだなと思った動画で、両方割と何度も見返しました。(こちらのyoutubeは私ではありませんが、なんて良い動画を上げてくれたんだろうと思います。))


(注)飯島さんは筑紫哲也さんのYoutube「旅の街から」を張り付けていましたが、当実行委員会として著作権上問題ありと判断し、飯島さんの許可を得て当サイトからは削除させて頂きました。

ドキュメント10年前・横須賀で(連載06) 沢園昌夫 21,4,26

この年のゴールデン・ウィーク、津波の破壊力というのを初めて目の当たりにした。

震災で被災し公営住宅に避難していた北茨城の先輩宅に行き、県境を越えて福島迄ドライブ。沿岸部の様相に仰天した。岸壁が引き倒され、大きな家々が壊滅し、たくさんの方が片づけの作業中。これは、私も何かせねばいかんと思ったが、会社の仕事が忙しくなり、やっとボランティアに参加できたのは、翌年の3月、一周忌の催しのお手伝いであった。

当時、横須賀を緊急出港して、4月20日に再入港した原子力空母「ジョージ・ワシントン」は、横須賀で定期修理を続け、修理によって発生した「放射性廃棄物」を6月8日に搬出した。内容物は作業で発生した手袋やシートなど低レベルのものであるというが、「日本の国内では放射性廃棄物は搬出しない」という過去からの約束は、原子力空母母港化の2008年以降、守られていない。

以下のURLはその時のレポートです。

https://www.rimpeace.or.jp/jrp/umi/yokosuka/110608kontena.html

ドキュメント10年前・横須賀で(連載05 沢園昌夫 21,4,19

横須賀に2008年から配備された「原子力空母「ジョージ・ワシントン」は、東日本大震災のよる放射線被害を回避するために、定期修理中にもかかわらず、3月21日に緊急出港した。が、4月20日に横須賀に入港。緊急事態のために、洋上で定期修理を行ったよう。

写真は、4月20日入港時のです。

横須賀・久里浜の原発燃料工場(GNF)では、この年の11月にも燃料搬出が行われており、わたくしが購入した測定器で計測。あれま、びっくり。

このときの動画のURLは以下でUpしてます。

◆横須賀市久里浜の核燃料工場(GNFJ)から燃料棒の搬出 11年11月16日(字幕あり)

ドキュメント10年前・横須賀で(連載04 沢園昌夫 21,4,13

震災後、放射性物質の値や基準に関する報道が多くなり、私の蓄積メモリでは理解不能?シーベルト?ベクレル?グレイ?なんじゃい、それは。友人がチェルノブイリ以降持っていたガイガカウンターの操作方法を聞きましたが、「今は、もっといいのがあるよ」というお薦めで、線量測定器を注文して、届いたのは9月。さっそく、ほうぼうを計測。家の側溝が高いと判る。雨水溜まるからね。本日の計測値は「0.1マイクロSv」程度、9年半前は、0.3ぐらい。でしたから、放射線量は、1/3になってるとは、思います。写真は、定点観測地点の「我が家の側溝」。オマケは庭のツツジでこの辺りはずっと通常なみ。

ドキュメント10年前・横須賀で(連載03) 沢園昌夫 21,4,5

4月になると会社は通常の業務に戻りましたが、東電の「計画停電」に伴い、製造現場は勤務シフト変更でかなりアタフタ。

太陽光パネルを載せてた我が家も、「ほ~ら停電でも大丈夫!」と、いいたいところでしたが、

現実的には、東電の送電網に入っているため、家では自立できず、ほとんど役に立たたず。

簡単にいうと、「太陽が出てる日中は発電OK」「でも夜は、東電からの供給不能で、まっくら」ということです。

いま思うと、当時、関東の私たちが守った「計画停電」への対応と、いまの「コロナ緊急事態宣言」への順応、

似てますね。

写真は、2月に会議で行った時のオルタの太陽光パネルの出力。2002年2月から設置、さすが!

2003年設置のウチも、ちょっとヨボヨボしてきましたが、まだ頑張ってます。ながぁもちしてもらいましょう。

ドキュメント10年前・横須賀で連載02) 沢園昌夫 21,3,29

ということで3月15日の、横須賀へのプルーム初到来以降、私が行ったことは、

① 外出時はマスクをする、②家に帰ったら上着を玄関外でバタバタはらう、③洗濯物は外に干さない、です。

4月初めぐらいまでは続けたと思います。このためか、毎年悩まされる花粉症の症状が軽かったように思う。

米海軍の空母レーガン艦隊が、東北沖に急派され、救援活動中に放射性物質を検知し、それを回避したことは、当時の報道で知っていたが、その放射能が兵士たちに甚大な健康被害をもたらした実態を私が知ったのは、それから3年以上をたってからだった。

この米軍の支援活動は、その後「トモダチ作戦」として広く知られるようになり、私も、もちろん米国含め、当時の各国・地域からの支援活動に感謝している。

が、今年の震災10年の「トモダチ作戦」に関する各マスコミの報道はイカンな、ひと言もこのヒバク兵士には、触れていない。。。

という事で、このことは、今回のパネル展でレポートしたいと思います。[沢園昌夫 記]

ドキュメント10年前・横須賀で(連載01沢園昌夫 21,3,22

311のあの時は、神奈川県の川崎の10階の会議室で、、という事は書きましたがその後の「今ごろ」をドキュメントします。

2011年3月15日に、私の住む横須賀に放射性物質のプルームが来ました。

米軍基地に入港する原子力空母や潜水艦用のモニタリングポストは表示範囲を超えました。

このモニポス数値はネット表示されていて、その監視は、震災前からずっと仲間と交代でやっていて、3月15日早朝に当番のTさんから連絡が来て、驚いた。

ヤバイと感じましたが、関東へのプルーム到来はすぐには報道されず、ようやく12時のNHKのニュースでチラと出ただけ。

こりゃぁ、ダメだと思い、小さい子供のいる友達や同僚に電話しまくった。

東北救援のため、横須賀基地の自衛隊・米軍艦船は出動し、唯一、定期修理中のため動けなかった原子力空母ジョージ・ワシントンは、3月21日に緊急出港した。これ以上横須賀にいると放射線被ばくが危険というのが理由。

震災直後に、原子力空母「ロナルド・レーガン」の艦隊が、東北沖で行った活動で、多くの兵士が被ばくしたことは、今回のパネル展でレポートしたいと思います。[沢園昌夫 記]

撮影 吉野拓造

あの日の原発事故を忘れない!8月展示会場にお越し下さい! 吉野拓造 21,3,2

10年前の3月11日大地震の時、私は分譲住宅の管理組合理事として事務所に駆けつけた。横浜でも震度5の強震に襲われ、揺れがおさまってから外で一人泣いている者、子供の帰りを心配する主婦などをしり目に、建物に損傷はないのか?樹木が倒れていないのか?電信柱は傾いてないか?点検に急いだ。その後、福島第一原発の水素爆発をテレビが映し出し、放射能汚染が関東地区にも及んでいることを知る。敷地の公園や砂場の放射汚染測定をするべきか?と理事会でも討議したことを思い出す。今も福島第一原発廃炉の目途が立たず、汚染水処理に追われているのが現状!私たちの日常も納める税金も、あの原発事故が今も深く影を落としている![吉野拓造 記]

あのとき勤め先で 沢園昌夫 21,2,26

地震発生時は川崎にある会社の10階の会議室で関西の取引先と電話会議中。壁の時計が落下し、ただならぬ状況で会議やめ、皆で机の下にもぐる。

机の下で家族に電話したがつながらず。会議室の外は誰かが倒した消火器の煙で真っ白もうもう。

電車は止まり、歩いて行ける女房の実家に泊まる。原発状況については知り合いからのメールで知ったが、夜中のテレビで気仙沼の大火を見て東北の被害の事態の甚大さをはじめて知った。

その後、心がけたのは、①水や食料の備蓄②何かあった時のために「家族の集合場所」を決めておくこと。

しかしながら、10年たつと、備蓄食品は期限切れ(食ったら充分うまかった)。さらに、新たな脅威のコロナ体験したいま、もうちょっと生活の工夫をしたいと思ってます。沢園昌夫 記]

田戸俊秀 撮影]

千葉訴訟の判決を受けて 21,2,22

福島原発事故10年企画実行委員会

事務局長 田戸俊秀

福島原発千葉訴訟の判決報告集会が終わって、外に出ると真っ青な空が広がっていた。日比谷公園の松の緑と青い空に涙が込み上げて止まらない。

逆転勝訴で嬉しいはずだが嬉し涙ではない。

勝っても被災者の故郷は戻らない、提訴出来ず原告になれなかった被災者、避難者も沢山いる。自死した人や著しい精神的ダメージで壊れた人もいる、この10年で故郷の空を見ることなくなくなられた被災者、原告も沢山いる。

こう言う言い方は憚れるのかも知れないがその被害の甚大さ、深刻さはコロナウイルス被害に劣るものではない。

これらの事を考えると、被告の国と東電に人間の心があるのか、良心の欠片もないのではと思ってしまう。

せめて上告することなく、全ての被災者と真心を込めた解決策を話し合って欲しい。

それでも失ったものは還らない、逝った人は還らない、なんと残酷な事なのだろう。