スタッフ(運営委員)の自己紹介

サンデー先生(2004年診断)

2024年3月 記

【病歴】

きっかけは前年2月の鎖骨骨折。スキー場でスノボーダーに後方から衝突されての転倒でした。 

骨折は2か月ぐらいで良くなったはずなのに、肩から身体の奥深いところの痛みが消えなくて、更年期障害?と思いながら過ごしていました。

身体のあちこちの痛みに耐えられなくなって整形外科を受診したのは年も押し迫った頃でした。

整形外科―放射線科―血液内科と辿り着いた時には、肋骨、鎖骨・上腕骨・左肩甲骨・左大腿骨・全脊椎・腸骨・頭蓋骨に病変ありとの診断。

 

 当時は現在使われている薬はひとつも承認されていなくて(サリドマイドが個人輸入で唯一使える薬の時代でした)、タンデム(2回続けて行う)自家移植または自家移植+ミニ移植を勧められました。

タンデム自家移植は生存率を延ばす効果があるとされていた治療で、もう一つは自家移植にミニ移植をプラスすることで完治を目指すことができるかもしれないという説明でした。

三人の姉弟のHLA型を調べてもらうと、弟が一致していて、どちらの治療法を選択するのか、随分迷いました。

結局、仕事に早く復帰したいという希望で、タンデム自家移植を選択。

「この選択が良かったのかどうかは、人生が終わる時にしかわからない」が、当時の心境でした。

 

途中入退院を繰り返しながら、7カ月半の病院生活が終わったのは、その年の終わりごろでした。

 

【その後の経過】

復職後2カ月で出血性膀胱炎・水疱瘡で入院。

その数か月後、甲状腺急性増悪(甲状腺機能低下症の持病あり)で、決まって夜中の2時に高熱が出るということが1か月続く。

その他、何度も様々な感染症にかかる

 

長くは生きられないのなら、好きなことをしようと、定年を待たずに退職。

コンサート、海外旅行、お稽古・・・・。

その間も感染症にはめっきり弱く、病院とは縁が切れない状態が続き、家族からは「病気のデパート」と言われていました。 

同年代に比べれば体力の低下はかなり大きいようです。

今年(2024年)で、骨髄腫患者歴20年になります。

色々なことがあって、その時々を何とか生きてきて、後ろを振り返ったら20年経っていたというのが、実感です。

2,3年前からフリーライトチェーンの値が少しづつ動き始めました。

「骨髄腫細胞は、やっぱり残っているんだ」と妙に納得しています。


【オリゾンと私】

聞いたこともない病名を告げられた時に探しだしたのが「日本骨髄腫患者の会」。

この国のどこかに同じ病気と向き合っている仲間たちがいるということが、とても心強く、メーリングリストに登録。メーリングリストで配信されるメールで、病に向き合う勇気をもらいってました。

この会を作ってくれた故堀之内朗さん、そしてその遺志を継いでくれた仲間の方々に感謝しています。

 

「日本骨髄腫患者の会福岡ブロック会」

2006年に福岡で開かれたのをきっかけに、翌年からは地元メンバーで計画実行してきました。

福岡大学医学部の高松泰先生を始め、県内の血液内科の医師の協力をいただきながら10回開催。

 

「骨髄腫セミナー福岡2016~患者・家族・医療者のつどい」

2016年からは地元メンバーだけでの開催をすることになりました。

2017年4月に「骨髄腫患者と家族の会福岡オリゾン」として正式発足。

 

福岡ブロック会を始めた当初は自分の状態についての不安が大きかったので、自分自身が病気について学びたいという気持ちが強くあり、それがエネルギーになっていました。

しかし年月を重ねるうちに、あの頃の自分と同じような不安を抱えている人たちのために、学んだり交流したりする場を作りたいという気持ちが強くなってきています。

 

仲間がいるということが、私の支えです。

そして、一番辛かった時に励ましになってくれた方々から受け継いだバトンを次の方々に渡す役割をしたいと願っています。

 

 現在、治療はしていないけれどずーっと患者です。 

ひょうたん島の三四郎(2011年診断)

2024年3月 記

ハンドルネーム「ひょうたん島の三四郎」です。

三四郎は、御存知の漱石の作品の主人公です。この名前が昔からお気に入りでした。

また、「♪辛い修行と弱音をはくな、月が笑うぞ三四郎♪」の三四郎にも励まされます。


【診断】

2011年1月に人間ドックで受けた血液検査がきっかけで判明。

翌年3月末には、晴れて定年退職という時期でしたから、相当のショックを受けました。

はじめての骨髄穿刺の強烈な痛みやMRIの異様な音響は、今でも忘れられません。


【受容】

診断間もなく、担当医から「この病気の平均余命は3年半」と言われてお先真っ暗に。

判明した当時、職場の特別支援学校では、「学習発表会」に向けた練習が連日行われていました。その度に歌うテーマ曲(「負けないで」ZARD)には、目がうるんで仕方がありませんでした。

生徒たちに励まされる毎日でもありました。これも忘れられない「心の光景」です。

骨髄腫に関する本を読み、情報集めの日々と時間の流れの中で、いつしか病気を受容できるようになりました。

「嘆いても始まらない。なるようになるだろう」という開き直りの気持ちで、前向きに生きる「自分」を取り戻すことができるようになりました。

病気を受容できるようになるまでには、半年ほどの歳月を要しました。


【治療の経過】

2011年:1月 人間ドック、精密検査を経て、多発性骨髄腫の診断を受ける。

             5月 ゾメタの点滴を開始。歯科にも通院。ゾメタは9月頃、発熱などで中止。

2012年:2月 免疫力低下により頸椎炎に。10日間入院。定年退職し、福岡へ帰郷。

             4月 九州がんセンターに転院。

                   主治医の「治療を要せず」の診断でホッとする。無症候性/くすぶり型。

                  1~2ヶ月間隔の通院で、経過観察となる。

2013年:4月 血便、憩室炎。IgGは2900台で推移。

2014年:3月 急性腎盂腎炎で1週間入院。

             4月 腎臓結石も見つかる。

             7月 IgG 4000超で本格的に入院治療(ベルケイド・抗がん剤)

           11月 自家造血幹細胞移植をする。IgGは1600程度に。

2015年:約1年間、外来による経過観察。

           11月頃からIgG値が2500前後で推移。

2016年:2月 再入院。レブラミドとステロイド剤による治療へ。

2017年:3月 IgGは483まで下がる。

             4月 眼に違和感が強くなる。副作用が出て治療を中断。

             5月 再びIgG972まで上昇。以後、3年間無治療(IgGは緩やかに上昇)。

2018年:5月 福岡大学付属病院に転院。

2019年:1月 帯状疱疹。夏には白内障の手術。

2020年:10月 IgGが3200となり、福大付属病院に入院。

             サークリサ、ポマリスト、デキサメタゾンによる治療に入る。 

2021年:3月  IgGは350まで下がり、以後、1年半は無治療、経過観察。

        飛蚊症に悩むようになる。

2022年:12月 IgGが2500を越え、福大付属病院に入院。

             ダラキューロ、ポマリドミド、デキサメタゾンによる治療に入る。

2024年:3月 17コース目に入った。月1回の通院治療中。


【~今思うこと~雑感】

通っている病院が新しく建て替わりました。

毎月1回は、経過観察で通院しています。

その度に思うのは、跡形もなくなった旧病棟への愛おしさと空しさです。

不安な心持ちで受診した日々、自己流で退屈な時間を過ごした病室での日々、毎朝の楽しみだった入浴、深夜に歩いた長くて細長い廊下、親しくなった病棟の方々・・・。

今は旧病棟は跡形もなく更地になってしまいました。

存在しなくなったものへの愛着や懐かしさには、胸が熱くなりますね。

発症から2、3年は「がんとどう向き合っていくべきか」という潜在意識のもとに、患者の体験記や骨髄腫関係の本を読みあさっていました。

最近は、もともと興味があった社会問題(政治・歴史・福祉等)に関心が戻り、新書本ばかりを読んでいます。

そして、聴覚障害の当事者の一人として、任意団体である難聴者協会の活動などに「持てる時間」を費やしています。

与えられた命なりエネルギーを完全燃焼ができるように、積極的に生きているつもりです。そのことが、体内の「自己免疫力」を高めているのではないかとも思っています。

ポジティブに生きる姿勢こそが一番の「良薬」

それが私こと、三四郎の「信条」です。

「がん哲学」等で、いろいろなことが取り沙汰されますが、何であれ、「がん」とは自分自身が納得いくようにつきあい、共生していくことが最善だと考えています。

※以上の雑感は6年前に記したもので、九州がんセンターが新しく改築された頃です。

2024年の「いま」に思うことは、自らの生命を維持して生き続けられていることへの感謝の念です。そして、「お蔭さま」の気持ちを、一つ一つ返していけるように自らの生き方も見つめ直して、積極的にトライする気持ちも忘れないようにしたいです。

最近は、詩のサークルにも入りました。が、詩らしい詩が書けずに苦闘中です・・・。

プリン(2004年診断)

2024年3月 記

プリンです

スタッフのみんなで、ひょっこりひょうたん島からハンドルネームを付けようということとなり、キャラクター設定もあまり知らないままプリンになってしまいました。

決しておとなしくもなく、美少女でもありませんが、プリンを名乗っています。


【治療歴】

・2004年6月

人間ドックにて多発性骨髄腫と診断(IgG-λ型)。

自覚症状全くなし。


・2006年4月

余命2年と告げられる。

医師の口から余命2年とはっきり告げられた時は、多発性骨髄腫と診断された時よりもずっとずっとショックでした。ここで泣いてはいけないと思いましたが、あふれ出す涙を止めることはできませんでした。絶望そのものでした。


・2006年5月

日本骨髄腫患者の会(オリゾンの前身です)に参加。

この患者の会で、今の主治医と出会い、私は救われました。

そして初めて同じ病名を持つ方々とお会いし、皆さんに励まされ、どれほど勇気づけられたことか…。

この時、こんな私でも何かお役に立ちたいと思いスタッフに入れていただきました。


・2004年~2010年5月

無治療で過ごす。

このまま無治療でいいのか疑問を抱えて、また不安も抱えての6年間でした。


・2010年5月

VAD治療開始(IgG 6090)

この時から私の長い闘病生活が始まりました。

1回目のVAD治療で敗血症となり、生死をさまよいました。

VAD中止。


・2010年7月

ベルケイド開始。

当時はVADがファースト治療でベルケイドはセカンド治療でした。

ベルケイド2回目投与で肝酵素が著しく上昇し、ベルケイドの製薬会社ヤンセンファーマの重篤副作用リストに載ってしまいました(日本では事例がなかったそうです)。

この当時のベルケイドは骨髄腫患者にとって画期的な重要な薬でした。中止することはできなかったので、先生は石橋を叩いて渡るように、投薬の量を調整しながら治療を続けてくれました。


・2011年3月

自家末梢血幹細胞移植

移植から1週間後、白血球の値が一番低くなったときに、あの東日本大震災が起こり、テレビに映る映像を見ては、今、置かれている環境が、いかにありがたいことなのか、こんな所で「しんどい」なんていえないと強く思った日々でした。

この後、2年半ほど無治療で過ごしました。


・2013年10月頃

再発。

IgGが上がりはじめ、左前頭部にこぶができているのを確認。

髄外腫瘤でした。


・2014年4月

ベルケイド開始(IgG 3339)。


・2014年12月

2回目の自家末梢血幹細胞移植。


・2015年3月

維持療法 レブラミド開始。

6日間服用したところで突然両耳が聞こえなくなる。

「両耳突発性難聴」と診断。

副作用事例に突発性難聴がありレブラミド中止。

大学病院の耳鼻科の先生によると「完治の可能性30%程度、残りは何らかの後遺症が残るか聴力は戻らないかも知れない」

これを聞いた時、自分の寿命がいつまであるのか解らないけれど、これから先どのようにして生きていけばいいのか。不安でいっぱいでした。

8ヶ月程、耳の治療に専念。幸運にも聴力は年齢相応まで回復。


・2016年10月

ポマリドミド2mg開始(IgG 2392)。 

1ヶ月程、高熱と微熱の繰り返し。

全身に膨れ上がるような蕁麻疹が出て、この後、あまり熱は出なくなりました。


・2016年12月

このあたりから視力に異常を感じるようになる。

(11月中頃の眼科定期受診では特に異常なし)


・2017年3月

ステロイド白内障と診断。

ほぼ視界が霧の中にいる感じ。


・2017年6月

両眼白内障手術を受ける。


・2020年11月

3回目の再発。

今度は、右前頭部(前回は左)に髄外腫瘤を確認。

ポマリスト単剤で54クール目のことでした。


・2021年1月

放射線治療開始(20回照射)。


・2021年3月

Isa-Pd療法(サークリサ・ポマリドミド・デキサメタゾン)開始。

副作用は薬剤を入れるときのアレルギー反応といわれるインフュージョンリアクションが出る。

髄外腫瘤に効くといわれるサークリサ。放射線の効果もあり3回目の投与ぐらいから髄外腫瘤がどんどん小さくなっていくのを感じました。


・2022年11月

急性期脳梗塞で入院


・2023年9月

Isa-Pd療法30コース(1コース2回)終了。

IgGの値が徐々に上がってきたため中止。


・2023年11月

二重特異性抗体の治験を受ける。



このように薬を変えるたび思わぬ副作用が起こるのですが、診断されてもうすぐ20年の今、こうして普通に生活できるのは、次々に出てくる新薬のおかげです。

ベルケイドが出てから骨髄腫の治療は大きく変わりました。

今は完治は難しいけれど、いつかきっと完治できる時が来るでしょう。

今の生活を大切にして、時には励まされ、また時には励まし合いながら同じ病名を持つ皆様、これからも頑張りましょうね。

チャッピー(2003年診断)

2024年3月 記

【1 診断まで】

2003年7月腰の痛みのため整形外科を受診。血液検査の結果、すぐに血液内科のある病院に行くように言われた。

血液内科で「告知されたいですか?」と言われ、「がん?多発性骨髄腫?なに?」と訳が分からなかったけれど、即入院することになった。

当初2ヶ月ぐらいの入院だろうと思っていが、入院してすぐに背骨の圧迫骨折のため寝たきり状態になり、1年半年続くことになった。


【2 入院中】

 VAD療法をしつつ、年齢が若いことと移植することで完治が期待できるということで、骨髄移植を勧められる。

(2003年当時はベルケイド、サリドマイド、レブラミドなどの薬剤はまだ承認されておらず、骨髄腫の治療はMP療法か自家移植しかなく、完治を目指すための同種移植が検討されていた)


HLAの型が弟と合ったことで同種移植を選択するかどうかかなり悩み、師長さんに相談にのってもらい、随分話し合った。

同種移植をしないと生存率が低いということで、最終的に決断した。

当初はフル移植の予定だったが、移植前の薬が合わず、ミニ移植をすることになった。

移植前には、胆石がみつかり内視鏡で手術をしたり、放射線治療のため他の病院へ救急車で行ったりした。

また、髪の毛が抜けるので師長さんにバリカンで短く刈ってもらったことなども記憶に残っている。


2004年1月ミニ移植。

その後、とにかく吐き気がひどく、食事ができない状態が1年近く続き、点滴に囲まれた生活だった。


食べることができるようになるのだろうか…と不安な毎日だった。

少しずつ食べられるようになっても、プリンとゼリーとを交互に食べることからのスタート。

やがて鳥釜飯のおにぎりを一握り食べることができたのをきっかけに食事ができるようになったが、寝たきりだったので味噌汁などはストローで飲んでいた。


圧迫骨折が良くなったらまた骨折で、5回も骨折し寝たきり状態が続いた。


GVHDは吐き気が強く出たと思われる。


【3 退院してから】

 2006年10月からデイサービスで地域のお年寄りに混じってリハビリをする。


自宅近くを散歩中に自転車事故で、膝を骨折、入院手術。


2007年1月に仕事復帰。


同年、仕事中に転んで大腿骨骨折入院手術。


退院後、現在まで仕事を続けている。


今 飲んでいる薬は骨粗鬆症の薬だけ。


この次の診察から、3ヶ月から6ヶ月ごとの診察になった。


【4 おわりに】

 ずっと寝たきりかもと思うこともあったが、(実際、両親には、ずっと寝たきりかもと言われていたそうです)根が楽天的なので、寝たきりになっても、人とおしゃべりできるし、笑うこともできると考えたり、「孫の顔を見るまでは頑張りなさい」「良いことを思って取り越し苦労はしないこと」と励ましてくれる友に力づけられたり、お医者さんは、悪い方を何%とお話されるけれど、少ない%でも良い方に入る可能性はあると諦めないでいようと考えたり、誰の言葉か知らないけれど「夜明けが来ない夜はない」という言葉を支えにしたりして入院生活を送っていました。


退院してから、福岡の患者会を知り、支えられています。

ハカセ(患者家族)

2024年3月 記

私たちオリゾンのスタッフのペンネームは、なるべく、ひょうたん島の住民の名前を名乗ることにしています。私のペンネームはハカセです。昔むかし、中学生の私が一番好きな番組が「ひょっこりひょうたん島」でした。今のように録画ができない時代、放送に間に合うように家路を急いだこともしばしばでした。魅力的な住民ばかりのひょうたん島でしたが、中でもハカセが好きでした。


さて、骨髄腫のことです。患者は義母(妻の母)です。

義母が骨髄腫の診断を受けたのは今世紀になって間もなく、70代半ばのときでした。義母はこれをきっかけに私たち夫婦と同居することになり、私が勤める病院での治療が始まりました。

当時の標準療法は効果がありませんでしたが、個人輸入のサリドマイドを使いだしてからは小康を得ました。私は患者会からの情報をもとにして主治医と相談しましたので、サリドマイドを使うことができたのは患者会との出会いがあってこそでした。当時は未承認の薬ですし、皆さんご存知のように、かつては大きな薬害を引き起こした薬です。病院の倫理委員会での承認を得たうえでの使用となりました。あとで聞いたところでは、承認に否定的な意見も外部委員から出ていたそうです。

義母との同居では、義母の点てたお茶を頂いたり、一緒に椿や桜を見に行ったりと、たくさんの思い出をもらいました。そして、生活の質という意味での義母のQOL(Quality of Life)が低下した中でも、義母の一日一日の、人生の質という意味でのQOLは私の何倍も高いままでした。いつも微笑を絶やさず、それでいて伝えるべきものを子や孫に懸命に伝えようとしているように思えました。義母は東日本大震災のころ、ほぼ天寿を全うする形で亡くなることになりましたが、それまで私たちに多くを与え、多くを教えてくれました。義母に限りません。患者さん方の生き方は、人間としての、そして医療従事者としての私に多くを学ばせてくださいます。本当に頭が下がります。

そういうわけで、私は患者会、患者さん方に恩返しができればとオリゾンのお手伝いをしている次第です。少しでも患者さんやご家族のお役に立てれば幸いです。

ライオン(2014年診断)

2024年3月 記

スタッフのライオンです。

 

〜今までの病歴〜

2014年5月

人間ドックでくすぶり型骨髄腫発覚 IgG-κ型と診断。
IgGは4438でした。
症状は全くなく、普通に元気でした。

その後1か月毎に経過観察。IgGは500ずつ増加。
少しずつ腰痛が出てきて咳をするたびに激痛が走るように。

2014年12月

腰椎圧迫骨折により多発性骨髄腫発症。
同時に貧血も現われる。IgG6795。
 

2014年12月

VCD(ベルケイド、エンドキサン、レナデックス)4クール
 

2015年3月

VRD(ベルケイド、レブラミド、レナデックス)4クール
 

2015年7月

大量メルファランによる自家移植
 

2015年10月末

維持療法の治験26クール終了
無治療で様子見していたが、2018年2月にIgGが上昇傾向
 

2018年2月〜2020年4月

IRD(ニンラーロ、レブラミド、レナデックス)


2020年5月

ニンラーロ単剤

 

今までの治療の中で一番辛かったのはVRDの時でした。

副作用のだるさや起立性低血圧がとても酷くて立ち上がるのも大変でした。
水下痢にも悩まされ、1日に10回以上トイレに通う日が数ヶ月続きました。
レナデックスの離脱も酷くて、心身ともにジェットコースターのように上下していました。
一人娘がいるのですが、当時は幼稚園の年中でした。歩いて数分の幼稚園の送り迎えさえもやっとで、娘に不安な思いをさせていました。
娘が寝た後に申し訳なくて、寝顔を見ながら毎晩泣いていました。
親からは会うたびに前向きになれと言われて「どうやって前向きになれるの!?教えて欲しい!」と困らせていました。

 とにかく生きるだけで精一杯でした。
何もする気が起こらない中で唯一やっていたのは、同病の方のブログを読み漁ることでした。
ある時、前向きに闘病されている方のブログに出会いました。

辛い闘病も笑いにかえて過ごされている様子を読んでいるうちに、久しぶりに笑顔の自分がいました。
そして読み終えた時には、憑き物が落ちたように心がスッキリしていたのです。

うじうじしていても何も変わらない、だったら開き直って過ごした方がいいと思えるようになりました。

ちょっとしたきっかけで、立ち直ることができるんだと思った瞬間でした。

それからオリゾンのスタッフとも知り合うことができ、さらに心強くなりました。

仲間と出会うことにより、少しずつですが病気と向き合うことができるようになったと思います。

これからも治療が続きますが、ストレスを溜めず、好きなことをしながら、大好きな沖縄の言葉「なんくるないさ〜」の精神で前向きに過ごしていきたいです。

グランドゴルファー(2004年診断)

長崎県在住 72歳10ヶ月 男性

◎診断と治療

腰椎の圧迫骨折が診断のきっかけでした。診断と同時に治療が始まり14年目を迎えています。

メルファランの大量療法と自家移植で完全寛解を得たものの、残念ながらこれまで3度の再発治療を余儀なくされました。

その都度、新薬の代表格たるレブラミド、ベルケイドの治療を受け、ここまで歩んで来ることができました。

現在も4回/5週ベルケイドの治療中です。

薬効は寛解に程遠い状況ですが、大した副作用もなく良好な生活が送れています。


◎仲間との出会い

診断を受けた先生から、『患者会があるので勉強したらいい』との指導を頂いて患者会を知りました。

'06年5月佐世保ブロック会に続いて、翌日、福岡ブロック会が開催され両会場とも参加しました。この時から患者会スタッフや九州の仲間たちとの交流が始まりました。


同年秋、群馬前橋でのセミナー会場で現在のオリゾン代表から福岡ブロック会のスタッフ就任を要請されました。その後、福岡ブロック会~オリゾンと変遷しますが、『自分の為、他人(ひと)の為』と思い運営委員活動をやろうと決意して活動を続けています。


患者会セミナーやブロック会で行われる講演にはできるだけ参加して、知恵を仕入れるようにしています。ほぼ毎年、遠くであっても出かけます。


'16年3月、『長崎MM交流会』を長崎県の仲間と立ち上げました。年2回余開催しています。オリゾンの支部的活動も行います。


患者会の活動を行ってきた先人の遺志を大切に思い、先に旅立った仲間の悔しさを活動の中に生かして行ければと念じています。


◎趣味

私の趣味は、週3回のグランドゴルフ、家庭菜園と山野草です。

ハンドルネームにグランドゴルファーを名乗れるほど、40~80名のメンバーと元気にプレーを楽しんでいます。

寒風・酷暑、年間を通して早朝8時~8時30分からのプレーは生活に張りを与えてくれますし、健康の指標となっています。

まさに、生きがいです。打ち込んでいます。


グランドゴルフの運動量は多くありませんが、メンバーとの交流(おしゃべり)が貴重な財産です。QOLを上げてくれていると確信しています。


200坪の菜園は趣味の域を超えているかも知れません。が、家内の助けを借りながら季節ごとの野菜を作っています。無農薬がコンセプトで、配ると地域の人から喜ばれます。全て借地ですが、50→150→200坪まで広げてきました。スイカやカボチャなどのツルもの野菜を作りたかったからです。


次に山野草。山アジサイが50鉢を少し超えて最も多く、鉢物全種で150くらい、夏は水遣りに精を出します。最近はホトトギスや石斛(長生蘭)にも凝っています。


マシンガンダンディ(2007年診断)

2024年3月 記

私の名は、マシンガン・ダンディ!
ご存知ではありませんか?ひょうたん島の保安官です。
この4月から運営委員として参加しています。

2007年6月某日、18時半過ぎに突然の電話、
もしもし、「〇〇クリニックですが、あなたは、多発性骨髄腫です。近隣の専門医で診察できるように紹介状を書きますから、早めに来院して下さい。」と!
多発性骨髄腫?何なの?
直ぐにインターネットで調べると、完治はしない、平均余命3年、・・・・・・。
会社の健康診断で軽い貧血が指摘され、クリニックの医者もこれくらいは問題ないのでは?
そこまで言うなら血液検査をしましょうと言っていたのに!
私の生活は、この電話を境に激変します。

2007年11月に入院し治療を開始しました。
VAD療法4回と自己幹細胞移植を行いましたが、治療効果が十分ではなく、自己幹細胞移植3ケ月後から、ベルケード治療を開始しました。
治療開始して、2クルール目に血小板が殆どゼロに近くなることもありましたが、投与量を減らしたり、投与間隔をあけたりして、8クール分の32回の投与を完了しました。
ベルケードの投与は、殆ど外来でおこないました。
最終的に治療が終了したのは、2010年3月、実に28ヶ月間に渡る治療でした。

最初の告知から12年経過した現在の私は、免疫固定法でM蛋白の痕跡が認められるものの、血中のIgG値は正常範囲の中心付近、フリーライト測定法は正常範囲です。
このような状態では、治療を勧める主治医の先生もいるかと思いますが、私は、定期的に診察を受けながら無治療で過ごしています。
永遠に悪性の形質細胞が眠りから覚めてくれないことを祈っています。


私には、大きく後悔している事があります。
治療中の皆様には、私の様な後悔をして欲しくはありません。
多発性骨髄腫を発症した頃の私は、会社員として最も華やかな時を迎えていました。
そんな時の告知、まさに天国から地獄、私は、自暴自棄になり全く周りが見えなくなりました。
また、治療薬の副作用で私の気性は荒々しくなっていました。
そんな私と接していた妻は、主治医から「良くなったり悪くなったりを繰り返しながら、3年位と覚悟していて下さい」と宣言されていた事を最近知りました。
妻は、そんな告知があったことなど微塵も態度に示しませんでした。
また、入院中は、運転に自信がないにも拘わらず、毎週、高速道路を利用して洗濯物等の交換に来てくれていました。
また、外来で治療中は、診察の順番が遅い!仕事に間に合わない!と怒る私を全て受け入れてくれていました。

私が、後悔しているのはそのような妻に感謝の言葉ひとつも掛けてあげる心の余裕が全くなかったことです。
皆さんには、奥様(配偶者)をはじめとして周囲の方々を思いやる気持ちを持って欲しいと思っています。
患者は、治療が大変で沢山の副作用があり、治るかどうか分からない不安があります。
しかし、患者以上に配偶者や子供達も心配や不安で一杯ではないでしょうか?
治療中の皆さんには、こんな後悔をして欲しくありません。
皆さんには、配偶者や身近な人への感謝の念を持ち、また行動で示しながら、治療に励んで頂きたいと思います。


多発性骨髄腫を患って私の生活、人生は大きく変わりました。
失ったものも沢山あるでしょう!
しかし、得たものもきっと沢山あると思います。
病気を患ってから、12年になりますが、病気になって得られた12年です。

私は、平凡に毎日を楽しく過ごすことに努めています。
色んな場所に出かけ、多くの方々と知り合うことが楽しくなりました。
また、フェイスブック、インスタグラム、ツイッターなどのSNSを積極的に活用しています。
スマホで花の写真を撮るのも趣味のひとつになりました。
お年寄りのゲームと言われています、ポケンモンも楽しでいます。
都会から田舎に戻り、余り楽しめなくなったのが残念です!


いつ再発するのか分からないのがこの病気です。
でも、最近は、沢山の新薬を使えるようになりました。
さらに沢山の新薬が開発されています。
もし、私が再発したら? 
もちろん、主治医の先生と相談しながら治療を開始します。

ダンプ(2021年診断)

2024年3月 記

■出身地:福岡県生まれ、福岡県育ち

■趣味   :筋トレ・散歩

■病型   :軽鎖型(ベンスジョーンズκ型)

■病歴   :2021年6月(当時45歳)、かかりつけ医で判明。

2018年から貧血傾向から骨折(肋骨、仙骨、胸骨)・倦怠感・吐き気が現れ、複数の病院に行くが原因がわからず、判明まで2年程かかりました。


■治療歴

・2022年7月 

DBD療法(ダラザレックス・ベルケイド・レナデックス) 3コース実施

※9月からダラキューロが保険適用になり使用

(κ/λ比:416.6 κ:3208 λ:7.7)


・2022年10月

ベルケイドの副作用による手足先の痺れから、ベルケイド中止

(κ/λ比:1.3 κ:8.2 λ:6.3)


・2022年11月

DKD療法(ダラキューロ・カイプロリス・レナデックス) 6コース実施

(κ/λ比:0.83 κ:0.5 λ:0.6)


・2022年6月

MRD陽性 マルチパラメーターフローサイトメトリー(8color)

(κ/λ比:0.5 κ:0.6 λ:1.2)


・2022年8月

HD-MEL療法 自家移植

※腎臓機能の低下のため、アルケランは通常の80%投与

(κ/λ比:0.63 κ:0.5 λ:0.8)


・2022年10月

維持療法 ニンラーロを服用(2.2㎎×2錠/月)

※ニンラーロ2.2㎎×3錠/月の場合、血小板値が減少のため減薬

(κ/λ比:0.83 κ:0.5 λ:0.6)


・2023年5月

MRD陰性 マルチパラメーターフローサイトメトリー(8color)

(κ/λ比:2.42 κ:4.6 λ:1.9)


・2024年4月

維持療法を継続中(19コース)

(κ/λ比:0.82 κ:6.3 λ:7.7)


■今思うこと

病気が判明するまで、自分の症状をネットで調べ色々な病院を駆回り、ある医者から「心の病では?」とのことで抗うつ剤を服用するなど奔走していました。

振り返ると、総合診療科がある病院で一つの窓口から旗振りをしてもらい、医者間での情報共有からもう少し早く病気が判明したのではないかと思います。

最初は自分の病気を受け入れることができず、気持ちが滅入っていましたが、オリゾンのセミナーに参加し、患者間での会話や大学の先生の話を聞けて、徐々に病気を受け入れています。

現在は、手足先の痺れがある時は落ち込みますが、その時は気分転換に好きなこと見つけて気分を上げています。

テケ(2022年診断)

2024年3月 記

私の名前はテケ。いつもお腹をすかせてるの。ひょっこりひょうたん島の住人やサンデー先生、そしてお友達みーんなと、のどかな島でのんびり楽しい毎日を過ごせるといいな(^^♪といつも思っていました。

平穏な日々がずっと続くと思っていたのに、その宣告は衝撃でした。

 

2022年8月16日

集団検診で貧血を指摘され近所のお医者さんに掛かっていたところ、大きな病院で検査をと言われました。紹介状を握りしめて行った大きな病院の診察室でぼーっとして(この時貧血がかなりひどかったからなのか、いつものぼーっなのかどうか?!)血液検査の結果を聞いていました。

先生の口からは「紹介状のお見立て通り多発性骨髄腫に間違いありません」と確かおっしゃっていたようです。

当時の症状としては、ひどい貧血、疲れやすさ、なぜか突然の腰椎圧迫骨折!確かに体調の異変には気づいていましたが、まさかそんな恐ろしい病が私を蝕んでいたなんて!

頭の上を通り過ぎていった、聞いたことのない病名。骨髄腫というからにはがんの一種なのかしら?

がんの告知ってもっと重々しいのかと思っていたし、今まで病気とは無縁だった私がなぜ?という気持ちが渦巻きながらも、どこか醒めていた私。

家に帰ってから、大変な病気に罹ってしまったのだと、ことの重大さに気づき、それからというもの、毎日毎晩検索しまくり、この病気の情報を集めました。

結果、治療法は進歩しているものの、完治は難しく、再発の可能性は高いということがわかりました。

 

2022年8月24日

DR(ダラツムマブ、レナリドミド)療法

すぐに3週間ほどの入院治療が始まり、DR(ダラツムマブ、レナリドミド)療法で寛解導入療法を行い、いったん退院。退院後も通院で自家移植まで治療は継続していました。

 

2022年12月9日

【抹梢血幹細胞の採取】

再度1週間入院し、抹梢血幹細胞の採取を行いました。

 

2023年1月18日

【自家抹梢血幹細胞移植療法】

 

2023年2月

【退院後地固め療法】

 

2023年9月

【維持療法】

 

2023年10月

【骨髄腫 福岡セミナー~2023~患者、家族、医療者の集い】 

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