私たちが体験してきた限りのこの40年間ほどの教育界を振り返ってみると、当然多くの変化があります。特に私達が気に掛かることは、「先生」と呼ばれる人間の地位低下です。小学校における学級崩壊、高校、大学における授業に対する意識の低下(トップ校ですら多くの生徒が居眠りをし、多くの教師もそれを咎めない)など社会問題になったことも多々ありますが、そうした目に付く問題よりも、子供の大人に対する敬意の心が希薄になっていることに驚きます。部活動も行き過ぎた熱血指導に疑問がもたれるようになるとともに、先生=顧問と生徒との関係が希薄になっているように思われます。私たちは教師がその能力と人間性において子供達に敬意を抱かれないならば、そもそも教育は困難であると考えています。一芸に秀でた職人の技術が敬意を抱かれるように、教師もプロとして承認されなければ、そもそも子供達に話すら聞いてもらえず、そのような希薄な人間関係では、どのような授業を行っても無駄でしょう。
教師と生徒が、お互いに承認しあうような人間関係、特に教師(大人)が生徒(子供)に敬意を抱かれるような関係を構築するためには、どうすれば良いのか?それは私達にとっては非常に簡明なことで、教師に承認に値するような力量があれば良く、力量とは学識(受験指導にとどまらない)と人間性に尽き、何よりも重要なことは、その力量を研ぎ澄まし、磨き上げるために、教師(大人)が、生徒(子供)以上に努めればいい、ということです。より人柄の優れた人間が、研鑽に力を尽くす、という、言うには易しく行うは難きことを倦まずに実践できる人間が私たちの理想の教師像です。そのために私達は日々の教材研究、入試問題研究、授業研修のような初歩的な研鑽から、高度な読書研修にいたる訓練を極めて大切にしています。
この10年ほどの間の社会の変化の中でも、私達が特に注目している現象は、スマホを始めとするデバイスの進歩普及と、それが子供達に与えている大きな影響です。特に人と人の間のコミュニケーションは大きく変化し、ラインなどの一方向的要素が強い人間関係が急速に浸透し、教育の世界においても、教師と生徒の肉声を伴わない、ビデオやスマホを利用した勉強形態が広まりだしています。私達はこれらの技術的進歩を否定するどころか、そのプラス面を認め、大いに活用していますが、無自覚に人間関係を一方向的な要素が強いIT技術に依存していると、身体(特に肉声)を使った、より根本的なコミュニケーション能力が、著しく低下しているように思われます。教師自身が己れの口下手を広言したりすることは職務の放棄に等しいと、私達は考えます。私達の敬愛する教師のひとりである古代ギリシャのプラトンの著作は大部分が登場人物の対話からなるので「対話篇」と呼ばれていますが、彼自身は、その己れの対話篇すら「自分の影」であると否定し、本当の自分は、アカデメイアで身体と肉声を使って講義を行っている自分である、と述べていますが、私達はこの考えに大いに賛同するものです。
学習塾は「学校と異なり点数・成績・合格第一主義である」という固定観念が世の中にあるようで、「日々学校に通って、さらにお金を払って、学校とほぼ同じ学習内容を塾で学ぶ」ということが当たり前になった現代では仕方がないことかもしれませんが、私達はこの固定観念に大いに違和感を感じるものです。
大方の子供にとって受験勉強は楽しいことではなく、しかしやらなければならない最大の義務であり、しかも簡単なことではありません。もしこのような受験勉強を、子供の意欲を無視して強制したらどうなるでしょうか?テストや順位表で子供達を追込み、あせらせ、勉強させることは可能ですが、子供たちの将来を考えたら、それもどうでしょうか?
勉強には、楽しくないことも多々あり、辛いこともあるけれども、それはスポーツにおける筋肉トレーニングやランニングにも似て、やれば最後は自分のためになるものであり、実は最後の成果のみならず、一見辛い途中の過程においても「学ぶ喜び」がある、ということを粘り強く説得したい、ということが私たちの信念です。実際、過去の指導において十分成果を挙げてきた自負もあります。勉強をやらせる(そもそも勉強は強制されるものではなく、自主的に向かうべきものです)前に、「なぜやるのか?」「やる意義とは?」などを納得した上で、自らに勉強に向かってもらいたい、と私達は願います。
現代哲学の最も重要な結論のひとつが、絶対的価値観・正義の否定=両義的・多様な価値観の重要性でしょう。戦後の世界における、共産主義革命の盛衰や、官僚制と社会保障制度の行き詰まりなど、日本における戦後の極端な民主化・非軍事化・伝統的価値観の没落などは、哲学の観念的世界の話ではなく、過酷な現実の生活世界の話です。教育の世界も同様で、日本の教育の根幹である教育基本法と学校教育法は戦前の日本の教育を否定しましたが、現代はその相対化がまた進んでいて、絶対的な価値観が崩壊するのは結構なことかもしれませんが、混迷の度合いも深まっています。私塾の多くは、学校法人ではないので文科省の指導を受けていません。外見はどこの塾も似ているように見えますが、実は中身は相当異なっています。言い方を変えれば玉石混交の状態です。私達はこうした混沌を十二分に自覚し、子供達になにがしかの影響を与える立場にある重要性と危険性を忘れず、多様な価値観を学び、普遍的な価値観とは何か?を問い続けたいと考えています。
英単語や漢字、理科社会の用語などの暗記は多くの子供達にとってあまり楽しくない作業です。楽しくないから「いやいややる」、意識が低いからますます暗記できない、という悪循環の中で結果がでないので、ますますいやになる。教育の現場でよく聞く話です。私達は、暗記の勉強に代表される単純作業の意義を、スポーツの基礎トレーニングに譬えて考えます。単純で退屈な、そして面白みの欠ける作業ですが、これなくしては、人間の成長そのものが考えられない重大な行為であると考え、子供達に常日頃訴えていきます。ただし強制してやらせるのでなく、意義を理解した上で、自ら闘争心をもってむかってもらいたい、ということが私達の願いです。
読書とは、国語という一教科における単なる一分野ではなく、人間の合理的理性を用いた思考力、推理力、さらに想像力などを鍛えるために不可欠の勉強である、と私達は考えています。教育人は文系、理系を問わず、読書研修を常日頃行い、まず教師が読書に励んでいます。
私達は、人間の活動の中でも特に日々反復される行動に関しては、習慣化・身体化が非常に大切であると考えています。部活動における練習と学習習慣は特に子供たちの将来に大きな影響を与えているように思われます。私達が特に塾において重要視している身体化は以下のものです。
①挨拶、遅刻、欠席、忘れ物、身なり(特に服装)などの生活習慣は厳しく律する
②授業時間内に全力を尽くす
③居残、早出、補習など規定の時間以外の学習は特に集中力を高め、力を尽くす
④宿題のような家庭において一人で行なう勉強は、自主性と能動性を重んじる
⑤課題のような自主的な勉強を大切にする
⑥字は人を表す。綺麗な文字を書けるよう訓練する
⑦ノート、プリントなどは書き方・書体に留意し、扱い・保存などをきちんと行う
塾が最も世に期待されていることが、受験指導とその結果としての合格である、ということは当然、私達も最も肝に銘じるところで、これが達成できなければ、どんな理念・理想も空言である、と考えています。点数・成績・合格は教育における究極の目的ではありませんが、この厳しい現実世界においては、最も人の心を動揺させるものです。私達は、長年この世界で、多くの子供と保護者の方の点数・成績・合格にまつわる悲喜こもごもを見てきましたが、苦楽を共にしてきた子供が泣く姿は誰も見たくありません。目先の点数を馬鹿にするどころか、このために日々全力を尽くします。
私達が経験し、研鑽し、ノウハウを持っている受験指導は、現状の開講を問わず、以下のものです。
①国私立中学受験
②公立高校受験
③国私立難関高校受験
④大学受験