Let's enjoy the universe together!
Space engineer JAXA engineer
TV and Radio space commentator
Instructor NAOJ engineer
This homepage is in English and Japanese!
<子どもからシニアまで、全ての皆さんを対象としたホームページ>
私たちの心をとらえてやまない宇宙の魅力のほんの一端を お話しと映像で皆さんにお届けします! 夢のある不思議な世界に浸って下さい!そして、それぞれの故郷や地球の事をより好きになって欲しいと願っています。
このホームぺージが、皆さんの心を少しでも感動させ癒せることが出来たら幸いです。
<三千回の“宇宙の話”で、夢と宇宙を語り続けるエンジニア!>
宇宙トップメーカー、JAXA、国立天文台などで国際プロジェクトに携わり、
宇宙開発の最前線の魅力をわかりやすく伝えるエンジニア。
山梨を拠点に、学校や科学館などで講演活動を展開。
東京・神奈川・茨城・群馬・福島など全国各地、さらには海外でも活躍している。
講演回数にテレビ・ラジオ番組の放送回数を合わせると、三千回の“宇宙の話”を子どもたちに届けてきた。
スタジオを飛び出し、子どもたちとともに科学館・国立天文台・JAXA・極地研究所などを取材する特集番組も制作。
科学の面白さと宇宙への憧れを、多くの人々に広めてきた。
「宇宙を通じて、地域の皆さんや未来を子ども達に夢と希望を届けたい」──
その思いを胸に、今も講演会やメディアを通じて“宇宙の話”を続けている。
今年の夏休みには私の宇宙講演会で宇宙に浸って(^^♪!私の講演会は学校や団体さん主催が中心で、「多分、私の一般募集の最後の講演会」是非ご参加下さい!未就学児からシニアの皆さん対象内容で無料、更に美しい映像も惜しみなく見て頂きます!申込:8月9日㈮まで、チラシの問い合わせ先まで電話かメールで申し込んで下さい☺!
山梨で生まれ育った宮川広です。
日本の宇宙三部門※で国際プロジェクト等に携わった日本で唯一人のエンジニアです。(※宇宙トップメーカー、国立天文台、JAXA)
多くは山梨から首都圏に長距離通勤していました。また時には国内外に長期出張したり赴任しました。代表的なのは東北へ約6年間、神奈川に約2年間、南米チリへ約2年間などです。以上のようなエンジニア経験!
それから、宇宙のみならず他の業種も含めて国家プロジェクトと国際プロジェクトを設備関係を中心に数十件立ち上げた経験、平均すると数年に一度のペースです。
更にテレビ・ラジオで宇宙の特集番組を10年以上かけ数百回制作した経験、
これらの経験を活かして、山梨を中心に宇宙講演会を開催。私の宇宙講演会は日本や世界の科学者の皆さんの講演会とは一味違い、人工衛星や宇宙船を製造する工場の皆さんのお話や、衛星などのトラブル発生時の対応方法から日本を代表する気象衛星「ひまわり」や宇宙船「こうのとり」の話、更には国際プロジェクトである国際宇宙ステーションや人類史上最高性能を誇る国際プロジェクト「アルマ望遠鏡」の話。極めつけは約40年間のエンジニア生活で数十件もの国家プロジェクトや国際プロジェクトを、一番お金のかかる設備関係のキーマンとして立ち上げ成功させた経験と幅広い講演会内容が子ども達や地域の皆さんにも喜んで頂きリピーターが多い理由です。最近、大変に人気となっている講演会は「山梨から世界を目指したエンジニア!」です。
たたき上げのエンジニアが国家プロジェクトや国際プロジェクトで一番金のかかる設備関係のキーマンとして数十件のプロジェクトを立ち上げ成功させたこと、また企業や団体のバックアップ無しで山梨県を中心に国内外で宇宙講演会を数百回も開催したこと、地域のテレビやラジオ番組で10年以上もの間レギュラーとなって宇宙の話しや解説を行ったこと、しかも宇宙番組を原案・資料作り・資料類使用許可申請・出演・監修など撮影以外の全てを行い数百番組も制作していること、どれをとっても日本のみならず世界においても他に例がないことです。
残りの人生を、宇宙講演会・テレビラジオ出演のみならず、SNSなどを使って次の時代を担う子供たちや地域の皆さんのために、胸をワクワクさせ続けたエンジニア生活などの経験を、皆さんと一緒に楽しみながら発信し続けたいと思っています。
宜しくお願いします。
まず最初にお断りしておきますが、私が今まで関わってきました分野は、国家プロジェクトや国際プロジェクトが多く宇宙を含め、どの分野も詳細を語れない部分があります。そんな場所はオブラートに包んだような表現や分かりやすくするために多少変えた表現になるところもありますが、ご了承願います。
約半世紀の私のエンジニア生活において、心を震わし感動するような出来事に、たくさん出会うことがありました。
その中でも特に感動したことを、part1からpart3くらいまでに分けてブログ投稿したいと思っています。
「心震える感動を味わい続けた私のエンジニア人生!」と言うことで、
今回はpart1として、「日本人として初めて接した米国の世界最高峰技術」についてです。
手前の塔がワシントン記念塔、円形広場の奥の白い建物がホワイトハウス 写真提供:wikipedia
随分むかしの事ですが、日本に初めて本格的な人工衛星工場が首都圏に誕生し、私は希望通り入社することができました。
人工衛星工場と言っても、当時は人工衛星打ち上げ頻度は5年に一度くらいのペースでした、さらに会社間の受注争いもありますので、下手をすると打上げがもっと遠ざかるケースもあります。
国立天文台やJAXAに勤務しているのであれば、宇宙関係から離れることはありませんが、民間会社ではそうはいきません。
忙しい分野に移動させられるのは、民間では当然のことであります。私も当然のように新規プロジェクトで、米国製の世界一と言われている高性能な電子機器を日本国内で生産するための国際プロジェクト立ち上げエンジニアとして新しい分野に移動になりました。
当時はコンピュータはありましたが、学校の教室くらいの部屋に入れるような大きなものでした。銀行や大学なんかでも、そんな大きなコンピュータを使っていました。
勿論、私たちの人工衛星工場もミニコンと言われる当時としては小型のコンピュータも出始めていましたが、大型コンピュータが一部現役だったころです。
米ニューヨーク 写真提供:wikipedia
新規国際プロジェクトのために米国に渡った私が扱ったのは、コンピュータ内蔵の完全自動装置でした。仕事がら最新のシステムを見たり扱ったりすることは多かったのですが、10ラックもあるような大規模なシステムは初めてでした。
下の写真は、私が担当した新規国際プロジェクトの電子機器ではありませんが、ウィキペディアで自由に使用できる写真パブリックドメインで公開されていましたので、また世界最高性能の装置と言う点では近いので、皆さんがイメージしやすいと思い使用させて頂きました。
装置内で試験中の戦闘機 写真提供:wikipedia
このような装置が複数台あり、製品である電子機器のモジュールレベルから、組立後のシステムレベルまで全ての機器の試験ができるものでありました。参考までに、複数台で百億円を超える高価なシステムでした。
当時の日本の、この分野の電子機器も世界のトップクラスだと言われ各装置はコンピュータによる自動化は進んでおり、高性能な装置でした。でも新規国際プロジェクトの装置は、それらの装置をはるかに超える性能、1/10から1/20くらいの時間で試験が行える、つまり丸1日かかるような試験が30分から1時間で終わるのです。当時、世界最高性能と言われる米国のシステム装置でありました。
試験のスピードが早いばかりではなく、当時では考えられないような不具合発生時の不具合場所特定も短時間でできる優れものでした。不具合サンプルや突発な不具合品を取付けると、次から次へと自動で、しかも短時間で不具合の場所をみつけてしまうので、あまりの凄さに驚くばかりでした。
米テラダイン社製の半導体自動試験装置 写真提供:wikipedia
大きさや性能は桁外れに凄い、さらに見た目、つまりデザインも素晴らしい!製品の電子機器は当然だが、それぞれの装置も輝いている。見た目、美しさも十分に世界最高峰です。
日本の、いや世界のエンジニアであれば一度は触れてみたい人類最高性能のマシーンです。私は米国に行って異次元の世界に足を踏み入れたような気持ちでいっぱいでした。
私は日本にいる時も他のエンジニアに比べ世界中の電子機器や装置類を取り扱う機会には恵まれていました。
例えば、現在でも日本・米国・台湾などがトップクラスと言われている半導体の試験装置の性能は当時から凄いレベルでした。
これらの技術は、これから発展が予想されるAIやEV技術に欠かすことができません。今でも、日米台の技術は他を寄せ付けず断トツです。私はこういった国々の全ての装置の性能確認や修理をしていましたので、新しいマシーンを見ても簡単に驚くようなエンジニアではないと思っていました。
ところが、私が今回米国出張で出あった新規国際プロジェクトのシステム装置は、そのレベルではないのです。規模が違うのです。
例えば世界最高性能の半導体試験装置は、新規国際プロジェクトのシステム装置の中では一つのモジュールレベルなんです。
日本で想像していたシステム装置とは桁違いで、価格・規模や性能はスケールが違う、当時にとって異次元の近未来型のシステム装置でした。ですから、その能力を知った時は期待や興奮で胸がワクワクしっぱなしで、おさまらなかったのを覚えています。
米国出張時の著者
大リーグの試合観戦 写真撮影:著者
ボストン交響楽団の本拠地シンフォニーホール 写真撮影:著者
ナイアガラの滝にて著者
米国出張のスタートは製品である電子機器の説明を受け、そして各装置の説明、その後に取り扱い方法、その後に各装置毎の点検方法、それから各装置の修理方法、最後に全装置が性能通り動作しているかの確認、全てを数か月間で行いました。
当時の米国のコンピュータ技術と製品の電子機器技術は、飛び抜けていた。まさしく世界最高と世界中が認めているものでした。
英語説明に苦戦し、不明な点について米エンジニアに質問すると、分かりやすい英語でトコトン付き合ってくれました。また最初のころは時差の関係で睡魔に襲われかかることもあったが、新しい空気を吸いに行こうと、他の機器を見せてくれたり庭の散歩に連れて行ってくれた。お蔭でスッキリした気分で業務に打ち込むことが出来ました。
米国に渡ってから1ヶ月ほど経ったころに、私の表情に疲れを感じとったのか、休日に大リーグの野球の試合を見に連れて行ってくれました。私が少年のころに野球をやっていたことを知ったから、気晴らしにと誘ってくれたのです。
また1ヶ月が経ったころ、今度は交響楽団の演奏を聴きに誘ってくれました。
その後も米国を代表する科学博物館や有名観光地や美術館などにも案内して頂きました。
それらの間には、エンジニアの皆さんの家庭に招いて頂く機会も多かったです。本当に米国のエンジニアの皆さん方には今でも大変感謝しています。
英語に苦戦していたが、数ヶ月が経過するころには不思議とほとんどを理解できるようになっていた。エンジニアなので専門用語については理解できていたと言うことも、米国エンジニアの英語説明が早く理解できるようになった理由だと思いました。
そんな米国の会社での仕事に加え、宿舎での予習復習も繰り返し行っていた。そんな事もあってか、どうにか数か月間のスケジュールを終えることができた。
最後には今まで数ヶ月間の内容をどの位理解しているか、理解度確認もクリアすることができました。
米国出張・宿舎にて著者
当時としては、人類史上最高性能と言われている米国製マシーンを、日本人として初めてその技術に触れただけでなく、日本人としては初めて専門エンジニアとして認定されたことになりました。正直言って、大変に嬉しかったです。
当時、日本ばかりでなく世界何処に行っても見ることができないような、想像をはるかに超えた米国製の高性能電子機器や各装置の性能に驚き、感動した数か月間の米国出張でありました。
何もかもが新鮮で、毎日毎日新しい驚くような知識を教えていただき、胸がグルグルしてワクワクしていました。数か月間の米国出張中は、アドレナリンが出っ放しって感じでした。多分、サムライの時代に欧米に渡った使節団のような気分だったと思います。
今の世の中で言いかえると、野口聡一宇宙飛行士が日本人として初めて米民間有人宇宙船クルードラゴンに搭乗し、新しい米国の自動化の進んだ有人宇宙船を操作した時は、多分最初の日本人宇宙飛行士として大変に感動したことでしょう。
私もエンジニアとして、1台数億円以上という世界最高性能のマシーンを複数台も隅々まで取り扱うことが出来たのです。私たちエンジニアにとって電子機器やシステム装置は、宇宙飛行士にとっての宇宙船のようなもの、たった数か月間でしたが、世界一高額で高性能なマシーンを取り扱い、内容について語り合ったのですから、感動もひとしおです。
私にとって大変な刺激となり、人としてもエンジニアとしても、大きく成長するための大きなステップとなった米国出張でした。
米国出張時の著者
米国出張時の著者
このように大変に進んだ技術の新しい世界に触れ、驚きと感動で数か月間も胸をワクワクし続けた経験、こんな事は初めてでした。
今、振り返ってみると、このような米国出張を経験出来たことは大きく自信にもつながった。そして国際プロジェクトを成功させたことは、その後の多くの難問に怖がることなく正義感を持ち続け、正々堂々と立ち向かえるようになった。
そして、もっともっと大きなプロジェクトに真っすぐに向かう、途轍もない力を与えて頂きました。
この米国出張経験が活き、その後・数十件の国家プロジェクトと国際プロジェクトを担当することとなる。
ですから、この米国出張時の経験は「心震える感動を味わい続けた私のエンジニア人生」においても、一・二を争う強く感動した出来事であったことは確かです。
本当にエンジニア冥利に尽きる感動の米国出張と言う機会を与えて下さった、関係者の皆さんに感謝しています。有難うございました。
私の夢は宇宙エンジニアでした。でも、当時は数年に一度・人工衛星を打ち上げるペースでありました。ですから当然民間会社では忙しい部門に移動となり、色々な分野の仕事を担当する事が多かったです。
でも、いつかは宇宙関係の仕事に戻ることができると思い、くじけずに与えられた分野で技術力を磨くことに精進していました。
他の分野の仕事を担ってはいましたが、どれも最先端技術を必要とする分野で宇宙で必要となる技術ばかりであり、その点は大変に恵まれておりました。
夢を実現するのには色々なスタイルがあります。猛烈に頑張って、しかも環境にも恵まれて直ぐにスタート点に立てる場合。紆余曲折しながら時間をかけてスタート点に立てる場合などなど、色々ですが明日はきっと良い方向に進むと信じ、毎日毎日頑張ることが大切だと思います。
私の場合は、どちらかと言うと紆余曲折でした、でもスタート地点に立ったら一気に恵まれた環境となりました。国際宇宙ステーションに荷物を届ける宇宙船「こうのとり」などや、欧米各国への宇宙部品の製作など、日本の宇宙関連トップメーカーエンジニアとして多くのプロジェクトの機会に恵まれました。
またJAXAの人工衛星追跡管制隊に所属し、H-ⅡAロケットでの人工衛星打上げに立ち会い、人工衛星とその衛星を追跡管制するための日本や世界各国にある基地局の設備類の不具合対応を担いました。
私が定年退職するころは、定年は60才でありました。これがかえって大きな夢への挑戦タイミングが出来たのです。どう言う事かと言うと、今まで日本の宇宙三部門(宇宙三部門とは宇宙トップメーカーとJAXAそれから国立天文台です)全てに関わったエンジニアは、いないということ。
つまり私は今まで宇宙トップメーカーとJAXAでエンジニアであったために、もし国立天文台の試験に合格したら日本初のエンジニアとなります。
もし定年退職年齢が、今のように65才から70才であれば、国立天文台の試験はあきらめていたでしょう。高齢になってからの5年とか10年と言うのは若い頃の数年と違い大きなネックとなるからです。
高齢になってから国立天文台の試験にチャレンジと言うことは、大変にハードルは高いですが、挑戦する価値はあります。ましてや、もし国立天文台の国際プロジェクトに関わることができれば、日本の宇宙三部門で国家プロジェクトや国際プロジェクトのビッグプロジェクトに携わった、日本で唯一人のエンジニアとなります。
清水の舞台から飛び降りるような気持ちでチャレンジし、運よく合格する事ができました。しかも、国際プロジェクトであるアルマ電波望遠鏡建設のために南米チリ共和国に赴任となりました。
60才を越えての「日本の宇宙三大部門で国家・国際プロジェクトに携わった日本で唯一人のエンジニア」を目指してのチャレンジは大成功となりました。予定通り2013年初頭には日本の担当部門の電波望遠鏡建設は全て完成し、南米チリ・アタカマ砂漠の標高五千メートルの高地に設置終了しました。本当に嬉しい経験をさせて頂きました。
現在、テレビやラジオ番組に出演する時、または講演会などでの私の紹介と言うか、キャッチコピーは「日本の宇宙三部門で国際プロジェクトに携わった日本で唯一人のエンジニア・宮川広です。」と自信を持って語っています(*^-^*)!
最後に私は子どもの頃に、当時としては殆どの子ども達が想像もしていなかった宇宙時代が、日本や世界に来ると予想し子どもの頃から宇宙エンジニアを目指しました。
きっかけは同じ小学校のU君という友達が、家に誘ってくれて「鉄腕アトム」「鉄人28号」などの漫画を見せてくれたり、子ども向けの科学雑誌をたくさん見せてくれたことです。当時は何処の家も子だくさんで、家の周りにもたくさんの子どもがいましたが、当時としてはU君のように科学に興味のある子は珍しい存在でした。
だからU君の家で出あった科学の世界は新鮮で、しかもU君の説明が上手ですっかり科学のとりこになりました。手作りの簡単な望遠鏡を作り、月見する毎日となりました。
スポーツも大好きで特に野球や格闘技を続け、望遠鏡にも夢中になり、手作りカメラも楽しんでいました。こんな書き方をすると裕福な家庭に生まれた子のように思われますが、戦後間もない頃で、どの家も大変な生活をしており、ほとんど小遣いなどもらえない時代で、つぎの当たったズボンや穴のあいたズボンを平気ではいていました。望遠鏡やカメラも段ボールや広告紙などを使い、ほとんど手作りで、お金はかかってないと言うか金をかけれなかったのです。
そんなスポーツ(野球)・宇宙(望遠鏡)・芸術(写真)と言う、現在の私の生活の3本柱が子どもの頃に出来上がったのでした。
昭和40年代、神奈川県に日本一の人工衛星工場が誕生、受験して運よく合格しました。
当時としては大きな夢であった宇宙エンジニアの夢を実現し、それらの経験を活かしJAXAで人工衛星の打ち上げに関わり、定年後に挑戦した国立天文台に合格し、日本で唯一人の「日本の宇宙三部門で国際プロジェクトに携わったエンジニア」となりました。
また設備関係をメインではありましたが、国家プロジェクトや国際プロジェクトを数年に一度のペースで立ち上げ、新プロジェクトを担当するに当たっては夫々のプロジェクトで1年程度の国内外での勉強タイムを設けて頂き無事こなすことができました。
さらに、それらの経験を活かして10年以上のあいだ地元のテレビやラジオ番組で数多くの宇宙話題をお話しして、宇宙特集番組は地域の数社テレビ局で数百回の番組制作を完成させ、現在も新番組制作中であります。
それらの経験を更に活かして、山梨県内を中心に県外や国外などで合計数百回の宇宙講演会を開催、こちらも進行中です。
今ふりかえってみると、目指した宇宙エンジニア経験を積み重ねて、ワクワクする驚くような凄い経験をたくさんさせて頂きました。
どちらをとっても国内外で、このようなハードなスケジュールをこなしたエンジニアは例をみません。
好きだからこそ出来たことだと思っています。本当に楽しかった宇宙エンジニア生活でした。これからの人生、宇宙エンジニアで味わったワクワク感を、SNSを駆使して又テレビやラジオそして宇宙講演会で語り続けていきたいと思っております。
私のユーチューブチャンネル「宇宙のシャワー」も併せて楽しんで下さい!※私の写真をクリックして頂くと私のユーチューブチャンネル「宇宙のシャワー」に行くことができます。
Please enjoy my YouTube channel "The Shower of the Space" as well! * Click on my photo to go to my YouTube channel "Shower in Space".
私の半世紀近いエンジニア生活から思うことは、明日を担う子どもたちが大きな夢に向かって挑戦するとき、常に心身をベストコンディションに近いかたちで維持できるように心掛けながら夢に向かって進むことが大切だと思います。夢が大きくなればなるほど、その大切さが大きくなります。更に、国家プロジェクトや国際プロジェクトなどのビッグプロジェクトを立ち上げる立場に加わった時は、心身コンディションを乱すようでは、プロジェクトの成功は期待できません。
私は以下のようなスタイルで心身のコンディションを維持し、宇宙エンジニアの夢を追い続けました。参考にしていただければ幸いです。
私は子どもの頃からも、エンジニアになってからもそうですが、自分に合ったスポーツを通して自分の体力をきたえたり体力維持することは大切なことだと思っていました。
なぜかと言うと、特にエンジニアになってからは毎日のように斬新なアイディアを出し続けなければならないのがエンジニアですので、体力をきたえることと同時に体をリフレッシュできるスポーツは欠かすことはありませんでした。
人工衛星工場での若いエンジニア時代から60才代の南米チリ・アタカマ砂漠でもジョギング・野球バットの素振り・ソフトボールのピッチング・縄跳び・筋トレなどを場所や時間に合わせて行っていました。
ですから、子どもの頃から続けてシニアになった今でも、スポーツは生活の中の一部として継続しています。もちろん、若い頃は激しいスポーツ、今では軽いスポーツです。
もう一つ、私が欠かさないで続けたことは、心のリフレッシュとして写真を撮ることでした。なぜ写真かと言うと、子どもの頃から身近にカメラがあり撮っていたことからです。
出来れば、ピアノとか楽器を使っての音楽とか絵などを描いたりとかにも憧れましたが、1からスタートするより多忙なエンジニア生活でしたので、慣れ親しんでいた写真の方が良いと選びました。
このスポーツと写真で常に心身のリフレッシュを続け、ベストまたはベストに近いコンディションを維持できたことがアイディア命のエンジニアの世界で長く斬新なアイデアを出し続けてこられた理由だと思っています。
更に連休などは、日ごろ出来ない家族サービスなどに時間を使いましたが、それでも時間のある時には、地域のマラソン大会に出場したり、趣味のアマチュア無線や天体観測などを楽しみリフレッシュすることができました。
勿論、新しいプロジェクトを立ち上げる時の年などには、マラソン大会もアマチュア無線・天体観測など一切できない年は度々でした。ですから、出来る時には貪欲に楽しんだのです。
後日談ですが、アルコールの席などで何度か科学者の皆さんとも、このことについて話したところ、ほとんどの方々が科学者の世界でも同じだと思っていますと言ってくださいました。
さらに言えば、宇宙飛行士とか宇宙飛行士を目指している皆さんは、もっと高いレベルでコンディション調整されているか、意識しないで自然にできてしまうのでしょう。
宇宙講演会やテレビやラジオ番組では、子どもたちには色々な事を見て経験して「健康で心豊かな人生を送るためには、体をリフレッシュできる好きなスポーツを見つけること。更に出来れば心をリフレッシュできる音楽・絵・写真など芸術や文化活動を見つけれれば鬼に金棒です。」と話しています。
私が見つけたスポーツは、若い頃は野球・ハンドボール・格闘技など、35才頃からは陸上競技・ソフトボール・縄跳びなど、60才頃からは軽いジョギング・ウォーキング・縄跳びなどです。
芸術・文化活動は、若い頃からシニアの現在まで一貫して、写真・アマチュア無線・天文観測などです。
それらを続けたお蔭でか、斬新なアイディアマンとしてエンジニアの世界でも活躍することができました。
エンジニアや科学者だけではなく、どんな仕事でもアイディアマンは貴重な存在となります。私が接してきた異業種の皆さんは沢山います。例えば、営業マン・職人さん・バンカー・農家さん・教育者・音楽家・写真家・広報担当者などです。豊かな発想力を持ち、周りのことに関心を持って物事に向き合っているアイディアマンは、ほとんどの皆さんが多くの仕事や活動などでキーマンとなり活き活きと活躍していました。
このホームページを読みにきてくれた子どもさんは、ぜひ自分に合ったものを其々1個で十分なので見つけ、大きな大きな夢に向かってアイディアマンとして活躍して欲しいです。頑張って下さい。
海王星より遠くから探査機ボイジャーが地球を撮りました。地球は分かりますか?
長距離通勤時にみつけた楽しみ「車窓からの月さがし」
今から7年ほど前まで、私は山梨から首都圏へ通勤していました。朝早く夜遅い長距離通勤者であった私が、当時みつけた楽しみが「車窓からの月さがし」です。
夜遅く、電車の窓側の席に座る。
鏡の様に車内が明るく写った窓の向こうに、やさしく光る月が目に入る。
静まり返った車内に月だけが妙にやさしく語りかけてくる。
しばらくすると、それまで静かだった月が電車との位置関係で前や後ろ、そして高くなったり低くなったり、忙しく位置を変えてくる、時には南の空に止まってまんまる笑顔を見せたり・・・。と思うと突然!猛スピードで電車を追い掛けてくる。
どんどんどんどん早くなり雲の間を走り抜け空をかけあがって急に止まる。
心配して見つめると、「一緒に遊ぼうよ」とでも言っているかの様に電車の影に出たり入ったり、山を滑り台のように滑ってみせたり、お隣の木星と楽しそうにおどってみたり、雲のマントに隠れてみせたり、かと思えばトンネルの出口に突然現れて驚かしてきたり・・・。
あきることなく見とれていると、気が付けば、見なれた景色の中に、私の降りる駅の明かりがすぐそこにあった。
このホームぺージ「宇宙のシャワー!」に、ご感想やリクエストなどありましたら、こちらからメールをお願いします!If you have any comments or requests on this home page "The shower of space", Please email us from here!
メールアドレス(Email address ): hiroshi_miyagawa@ymail.ne.jp