大会プログラム

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大会プログラム

【大会プログラム】

シンポジウム1:大学と科学――教育思想史からどのようなアプローチが可能か――

シンポジウム2:応答する教育思想史研究 ――人新世の自然思想史と言語論的転回後の政治思想史をうけて ――

フォーラム:近代教育批判以後の主体性――後期フーコーにおける「プラトニズムのパラドックス」を中心に ――

コロキウム1:高大接続改革における探究学習の意義を問う――学びの当事者とともに――

コロキウム2:ポップカルチャーの教育思想Ⅱ

コロキウム3:伝達と創造――「原爆の絵」プロジェクトを通して想起と想像を考える――

コロキウム4:日本学術会議と教育思想史研究

【各コンテンツの概要】


シンポジウム1

大学と科学

――教育思想史からどのようなアプローチが可能か ――


 科学は、近現代の大学において、その知的活動の根幹を占めてきた。系統的な方法・手続きのもとで、普遍的な真理や法則、体系的な知識を探究する姿勢は、大学の研究・教育・公益(社会貢献)活動を貫く基本原理として共有されてきたはずである。

 とは言っても、科学は決して大学の専有物ではない。科学・技術分野における研究・開発において、大学外の研究機関が大学の優位性を脅かすことも少なくない。また情報技術ネットワークの発展、さらにIoTの拡張やAIの活用によって到来するデータ駆動型社会においては、知識はさまざまな境界を越えて創出され拡散し、もはや大学が科学(的知識)を占有することは不可能になっている。科学が大学という境界から越え出ようとするとき、大学と科学の関係をどのように再構成すればよいのか。大学にとって科学とは何か、科学にとって大学とは何か、いまあらためて問う必要がある。

 もっとも800年を越えるとされる大学史のなかで、大学の知的活動の根幹を科学が占めるようになったのは、近代科学の成立以降、相当の時間(年数)を経た後である。大学と科学の関係を問うには、やはり歴史的な観点が求められる。この問題に教育思想史としてどのようなアプローチが可能になるのか。このシンポジウムでは、大学と科学のこれまでの関係を検証することを通して、大学と科学、そして教育のいまとこれからを考えたい。

 討議においては、いずれも歴史(思想史)的な知見をふまえた上で、次のような論点を想定している。

✓ これからの大学・高等教育において科学はどのような位置を占めるのか/これからの科学にとって大学・高等教育はどのような役割を果たすのか。

✓ 急速に進展する科学技術革新の動向に、大学・高等教育はどのように対応してゆけばよいのか。

✓ 大学と科学に関する議論のなかで、教育(学)と科学の関係をどのように再構成してゆけばよいのか。

シンポジウム2

応答する教育思想史研究

――人新世の自然思想史と言語論的転回後の政治思想史をうけて――


 感染症を扱った歴史書がこれまでになく話題とされた一年であった。パンデミックに限らず、気候変動、格差、ブラックライブスマターなど、人々は直面する問題を過去に遡って理解し、対処法を考えようとしてきた。それらの問題の解決にあたり、人々の歴史学への期待は医学や工学や法学ほどには高くないかもしれない。しかし、他とは代替できない役割が史的アプローチにはある。それは、現在を歴史的に相対化することによって問題認識の枠組み自体を問い直すことができる点にある。

 本学会の前身である「近代教育思想史研究会」の設立趣意書には、今日の教育問題の原因を近代教育思想の中に求め、今日の教育的思考の歴史的構造を明らかにしていくことが謳われている。そして、社会史、観念の歴史、フーコー、ルーマン等の方法を用いて、今日の教育問題の歴史的構造を解体し問い直す実践が展開された。

本シンポジウムでは、研究会の設立趣意書に名を連ねた発起人でもある田中智志会員と鳥光美緒子会員に、設立30年後の教育思想史研究の「いま」を、両氏の研究の最先端を事例に報告いただく。

 田中会員からは「人新世(アントロポセン)」という自然史理解をめぐる議論が、鳥光会員からは言語論的転回後の政治思想史研究を取り上げた議論が報告される。「人新世」は地球史上の時代区分であり、人間の自然に対するこれまでの態度と関係を問い直す概念として注目されている。一方、言語論的転回後の政治思想史研究を代表するケンブリッジ学派の研究者らは、政治的テキストを当時の文脈の中で捉えようとした方法論によって注目された。政治的アクターを個人主体に還元しない思想史研究は、個人思想家に焦点を当ててきたこれまでの教育思想史研究を問い直すものとなるはずである。両会員によって、私たちが当然のものとして受け入れていた概念、歴史観、研究方法が相対化されることになるであろう。

フォーラム

近代教育批判以後の主体性

――後期フーコーにおける「プラトニズムのパラドックス」を中心に――


 規律訓練による「主体化=従属化」の後で、私たちはどのような主体性を構想できるだろうか。

 戦後日本の教育政策において、「主体(性)」の育成は大きな課題であり続けてきた。それは例えば、戦前の権威主義に対する「ひはん的精神」の欠如(1946年の『新教育指針』)、あるいは、いわゆる「逆コース」下の教育行政により抑圧される主体(性)といった形で、理念化された「西洋近代」をモデルとした主体的で自立的な個人の育成を目指していた。しかし、1980年代以降「キャッチアップ型近代化」(苅谷剛彦)の終焉とともに、主体(性)の育成は「西洋近代」をモデルとするのではなく、予測困難で流動的な社会への対応に課題がシフトしていく。臨時教育審議会以後、2018年の学習指導要領改訂における「アクティブラーニング」に至るまで、「社会の変化に主体的に対応し行動できるようにする」(1998年の教育課程審議会)ことが目指されてきたことは周知の通りである。

 しかしながら、これだけ教育政策において主体・主体性の育成が課題とされてきたにもかかわらず、肝心の主体・主体性概念については十分に検討されてこなかったのではないか。

 以上を踏まえて、本発表では、後期ミシェル・フーコー思想における主体・主体性概念を検討していく。具体的には、近代教育学批判の文脈で参照される『監獄の誕生』以後の仕事の中でも、フーコーのプラトン読解に注目する。いわゆる「ポストモダニズム」思想においては、反基礎づけ主義などの観点からプラトン思想がしばしば批判される。後期フーコーの主体・主体性論についてもプラトンの批判的検討から開始されるが(1982年講義)、その評価については整理が難しい。本発表では、フランスのプラトン研究者であるアニッサ=カステル・ブシュシが問題にした「プラトニズムのパラドックス」問題を検討することで、なぜフーコーがプラトンに対して「肯定的」な評価を下したのかを明らかにしていく予定である。

上記の作業により、本発表では近代教育学批判以後の主体性について議論していく。しかし急いで付け加えるなら、それは近代教育学批判がすでに終わった営みであることを意味しない。それは同時に、規律訓練による「主体化=従属化」が消失したということも意味しない。本学会の前身である近代教育思想史研究会の創設から30年、本発表が「近代教育学批判という思想運動」(設立趣意書より)について改めて考える契機になれば幸いである。

▶本フォーラムは下記のとおり実施いたします。

【オンデマンド配信】

フォーラム報告(司会者によるイントロダクション含む)

Webライブディスカッション】

前半(30分):コメンテーターによるコメント・報告者からの応答

後半(60分):全体でのディスカッション

コロキウム1

高大接続改革における探究学習の意義を問う

――学びの当事者とともに――

 今日、学校教育全般にわたって探究的な学びの重要性が言われている。とりわけ、高校教育においては「総合的な探究の時間」に加え、「古典探究」「地理探究」「世界史探究」「日本史探究」そして「理数探究」といった科目が新設されるなど、探究的な学びを中核とした改革が進められている。こうした試みは、2015年から本格的な取り組みがなされてきた高大接続改革に位置づくものであり、探究と研究がどのように架橋されうるのかを考えることは、これまでの試みを振り返り、これからを展望するうえで避けられない課題であるように思われる。  以上のような問題意識から、本コロキウムでは、高校生、大学生そして研究者という複数の視点から、高校/大学、探究/研究の関係を問い直すことを試みる。昨年度につづき高校生による報告が議論の土台となるが、加えて、高校で探究的な学びを積んで大学へと進学した大学生の視点からも、探究と研究のつながりと違いについて論じられることになるだろう。高校生、大学生そして大学教育に携わる研究者が共に、従来高等教育を中心に行われてきた知の生産システムのあり方にどのような変容が生じうるのかを議論する場としたい。

コロキウム2

ポップカルチャーの教育思想Ⅱ

 一昨年度の同名コロキウムの続篇である。今回は、企画者グループ(今回の司会者)以外の3名の方に報告をお願いした。いずれも、報告者の本来の専門とは異なった(趣味に近いかも知れない)「遊び」の色濃い内容である。古仲氏は、近年の若者の音楽聴取スタイルの変化について、音楽ライブ・フェス、YouTubeや定額制音楽サービス、SNSの活用等との関連に着目しながら考察し、さらに、コロナ禍以降、特にライブ・エンターテイメントが苦境に立たされている(例:2020年の音楽フェスの市場規模は前年比98%減)ことによる影響に関しても言及する。村松氏は、「推し」文化の倫理的可能性に焦点を当てる。特にオタク文化との違いに着目しながら、推し文化を生み出した社会構造の変化を明らかにするとともに、推しのいる生において「主体−世界」がどのように意味づけられうるのかを考察する。山本氏は、コミックマーケット(以下コミケ)という「場」に注目する。日本で最大規模の同人誌即売会たるコミケの理念として、「表現の場」としての位置づけが重視されてきたが、コロナ禍を踏まえつつ、「場」に参入する意味を、参加者の立場から問いなおす。加えて司会者からも、適宜コメントと最新の動向について若干の報告を行う予定である。コロナ禍、さらには、「オンライン/対面」という、今日の大学授業をめぐる議論も強く意識したコロキウムとなるだろう。

コロキウム3

伝達と創造

――「原爆の絵」プロジェクトを通して想起と想像を考える――

 原爆投下時を知る人びとが自らの体験を言葉にし、その言葉を手がかりとして高校生が絵を描く「次世代と描く原爆の絵」プロジェクトは、2007年から続けられている。記憶の継承がテーマとされるとき、これまで〈語る〉こと(証言)が重視されてきた。「原爆の絵」プロジェクトでは、そこに〈描く〉という活動が加わって、複雑なコミュニケーションがなされている。それはいったいどのような経験なのだろうか。また、このプロジェクトに参加している高校性はよく「証言者さんの手になって描く」と表現している。そこには〈共同翻訳〉的な姿勢が見受けられるように思われる。だが、その際の〈共同翻訳〉とはどのような経験なのだろうか。

 本コロキウムでは、まず「原爆の絵」プロジェクトに参加した高校生と卒業生の感想に耳を傾けたい。前半部では、高校性とOGが、「原爆の絵」プロジェクトの基本特徴について、また生徒が制作した絵についての場面説明と制作過程、またプロジェクト参加時の感想などを報告していただく。コロキウムの後半部では、以上のような前半部の内容を受けて、各報告者が報告し、コメンテーターが感想を述べる。その後、伝達とは何か、創造とは何か、想起と想像の関係はどのように考えられるのか、言語と非言語の表象や表現がかかわるときの経験性とはどのようなものか、などの論点をめぐって、高校性、卒業生、報告者、コメンテーターとともに考えたい。

▶本コロキウムは下記の通り実施いたします。

【オンデマンド配信】

動画1(およそ60分を予定): ここでは、「原爆の絵」プロジェクトに参加した高校生と卒業生の感想に耳を傾けたい。前半部では、高校性とOGが、「原爆の絵」プロジェクトの基本特徴について、また生徒が制作した絵についての場面説明と制作過程(打合せの模様など)について、それらにまつわる資料(スケッチ、エスキース、収集資料、制作過程写真など)の紹介も交えて報告を行っていただく。

動画2(およそ90分を予定): ここでは、動画1の内容を起点として、語ることと描くこと、想起と想像の間を考える。伝達することに入り込む創造という側面について、各報告者とコメンテーターが対話を試みる。

*関連資料を大会サイトにアップさせていただく予定です。

*本コロキウムでは、Webライブディスカッションはありません。

コロキウム4

日本学術会議と教育思想史研究

 日本学術会議が第 25 期新規会員候補として推薦した 105 名のうち、一部の候補者が内閣総理大臣によって任命されないという事態が発生した。本学会はこれに対して任命 見送りの十分な根拠の明示と任命見送りの撤回を求める緊急声明を、発表した(2020年10月6日)。以上を受けて、本コロキウムでは、教育思想史研究者が今回の一連の事態をどのように受け止めているか、日本学術会議の活動に関わっている学会員を含めて、率直な意見交換の場を持つために企画された。学問と政治の関係、日本の学術の今後において日本学術会議が果たすべき役割とそこでの教育思想史研究の立ち位置等について、広く議論をしていきたい。