廿里の戦い

1569年(永禄12年)10月1日、武田軍と北条軍の戦い

武田軍と北条軍の戦いは、武田信玄による、北条氏の主城である小田原城攻撃の前哨戦です。

この時の一連の戦いを契機に、北条氏照は、滝山から元八王子に城を移したと言われてます。

戦いの様子を、『武蔵名勝図会』植田もうしん著、片山みち夫校訂、慶友社出版より引用します。

“鳥取(とどり)古戦場 戸取とも書く。今は十々里と書くなり。

鳥取河原合戦とも、また戸取山合戦とも出たり。

武田実記云 信玄入道は小山田左衛門尉信茂を呼びて我今度北条氏康が居城小田原を攻めんと欲するゆえ汝は郡内より直ちに武州へ発向し、八王子へ打って出 北条陸奥守が城を攻め崩すべし。

我滝山にて出会せんとて、永禄12年(1569年)8月24日 甲府の館を発馬し給う。

碓氷峠えお打ち越えて、武蔵国鉢形、松山、川越を経て道々の枝城に足をとどめず、或は民屋を追補して 在々所々を放火(文中略す)それより府中へ懸かり蠅島に信玄陣をすえ給う。

ここに、小山田信茂は信玄の仰せに従って、同9月20日 おのれが相備えの上野原の加藤丹後守を相伴わんと岩殿を門出し、同晦日与瀬、小原に宿陣し、翌10月1日 暁天に小仏峠を打ち越えて駒木野にぞ打ち出たり。”

ー引用休憩ー

下の絵は、『新編武蔵風土記稿』江戸時代原本の挿絵を、模写および着色したものです。

『新編武蔵風土記稿』では、この絵を挟んで、廿里原古戦場の説明をしています。

江戸時代後期の、この地域の様子を良く伝えてくれる写実性の高い絵だと判断できますので、物語の挿絵としてご覧ください。

ただし、この戦いの時には、甲州街道はまだありませんでした。

右上より時計周り(小仏峠、戸取山、首塚、幡主塚、下長房村、新地、甲州街道、原宿、川原ノ宿、高尾山)

ー引用再開ー

“然るに、滝山勢は武田勢が定めて槍原か大菩薩を越えて来るらんと思い居たるに、案に反して小仏峠より寄せ来る由を告げれば、氏照の老臣横地監物吉晴、近藤出羽介は逞兵300余騎、雑兵2,00余人を相従えて、9月晦日の夜に打ち立って、犬目村の原へ出て、戸取山は究キョウの要害なれば、この原に陣取って敵を難所に引き入れ1人も残さず討ち捕るべきと馬煙を立て進み出て戸取山へぞ馳せ向かいける。

小山田は兼ねて敵を思う図に引き入れけんと駒木野より川原の宿まで打ち下し、200余騎を5手に分けて備えさせ物見を遣わし見せしむるに、敵兵既に戸取山のあなた7,8町程近付きけりと。

「時分はよきぞ。ものども」とて、おのれが旗本を戸取山へ押し上げて山上に備えたり。

滝山勢これを見て、戸取山へ攻め上らんと相近けば、山上より鉄砲を放ち、弓を射掛けること雨脚の如し。

されど、事ともせずに山際へ攻め寄せるところ小山田が先手は戸取山の右の方より押し出し、火砲を打ち掛け打ち掛け攻め立つる。

滝山勢は驚き騒いで、左右の敵に気を失い、手術既につきて砲弓は曾って的中せず、北条勢の旗の手乱れて色めき立つを信茂は得たりやとて、また40騎の1備えを味方の右 滝山勢の左、山際に附けて、敵の後へ懸からんと、雁行に連らねて押し廻わすところに、横地鑑物、近藤出羽介これお見て「敵は味方の後に廻るぞ、味方の人数をも前後に分けよ」と下知すれども、左右より透き間なく打ち立てる鉄砲に北条勢は乱れ立ちて、4方の敵に途を失いて騒動するを、又、小山田が3の備えは味方の左の方の沢へ下り、滝山勢も馬手へ懸けて戦うに、北条勢は術を失いて八方へ敗走するを、追いかけ追いかけ討ち取りける。

中にも、氏照の良士金指平左衛門尉、野村源兵衛尉は踏み留って討死す。

小山田は戦い勝ちて、首を得ること251級なり。

戸取山に首塚を築いて、金指、野村両氏が首を大将信玄の実検に備えんと、兼ねて約したる蠅島の本陣へ向かわんと本道へ懸かり、戸取山より椚田原へ出て、それより横山村を経て蠅島の方へぞ赴きける。”

ー引用おわりー

この物語は、江戸時代になってから書かれたものと考えられます。

物語に出てくる「川原の宿」という地名は、江戸時代以前には無かったのです。

この物語の出所に「武田実記」とありますが、「武田実記」という書物が見つかりません。


この本の著者、植田もうしんも編纂に参加している同時期の『新編武蔵風土記稿』や、すぐ後の『新編相模国風土記稿」では、『甲陽軍鑑』を引用しながらこの時の一連の様子を書いています。


「武田実記」とは、この「甲陽軍鑑」のことではないかと思ったのですが、私の調べてみた「甲陽軍艦」教育社新書版では、省略されているのか、この物語に当たる部分が見あたりません。

もう少し、調べて行きたいと思います。

(その後『武田三代軍記』という本があることを知り、半年ががりで一部を見ることができました。巻の十三にほぼ同じ記述がみられました。)


蠅島(はえじま)という地名が出てきますが、拝島(はいじま)のことです。

また、槍原と出ていますが、檜原(ヒノハラ)のことではないか?と思われます。

檜原村から浅間尾根を越えて上野原へぬける道(古甲州街道)が中世からあり、この時代には武田勢への防衛として檜原城(城主平山氏)が築かれていました。


犬目、滝山などの地名は、歴史トップページ掲載の正保時代の絵図が参考になると思います。


また、この戦いの小山田側の軍勢を、『新編武蔵風土記稿』は、騎馬200騎を含め900あまりと記しています。

この戦いの後、武田軍は、滝山に在った氏照の城を包囲、さらに小田原城を攻めます。

ろう城作戦にでた北条側に対し、武田信玄は、城を攻める代わりに

城下を焼き払います。

10月6日に小田原から撤収を開始し、帰路、10月8日に津久井の三増峠で小田原攻撃、最大の戦「三増合戦」がかわされ、甲州に戻っています。

三増合戦では、北条側死者3,269級(首の数、甲陽軍鑑)、武田側死者900人強といわれています。


この三増合戦の様子は、『新編相模国風土記稿』が、上記教育社版『甲陽軍鑑』より詳しい話を載せています。

また、小川良一氏が『多摩のあゆみ』17号の「三増合戦考」で、この戦いの背景を含めた詳しい記事を書かれています。

また、旧暦の10月初旬は、新暦で、おおよそ11月中旬から下旬にあたります。

信越地域が冬に入る時期です。武田信玄は、背後の上杉勢が動きにくくなるを考えた上で、この戦をおこなったようです。

挿絵の補足説明


絵に「首塚」と書かれていま すが、この戦いの時の物といわれています。「元八王子シロヤマ」は、この一連の戦いの後、北条氏照が滝山城から、ここに城を移した[八王子]城址です。

小仏峠も、この戦いの後から、警備されるようになったと、言われています。