歴史

初沢という地名について

1402年「花沢(華沢)」、1720年「初沢」

江戸時代の『新編武蔵風土記稿(1810年~1828年)』に上椚田村の字名としててきます。

さらに、この本に呼び名の由来として、高乗寺の項に

昔この地を花澤と呼びしよし。山間渓流ありて花木水草自ら春夏の花に富みけるをもて名けしからんに、その語路ちかきにより、いつしか訛り唱えて初澤とはなるべし。” とあり

『武蔵名勝図会(1820年)』の上椚田村についての説明のなかに

“上椚田の内、川原の宿、原宿、案内、初沢、狭間などと号する5ヶ所は各1ヶ村にて、その内また小名あり。このゆえに、別に上椚田という地あるに非ず。上椚田は惣号なり。……” とあり

高乗寺の説明のなかに

“高乗寺 上椚田の内、初沢というところにあり、住古は華沢といいしが中古より初沢という由。竜雲山と号す。……” とあり


“開基、長井大膳太夫高乗応永壬午年(1402年)7月25日己刻逝す。

高乗寺殿大海道公大禅定門・花沢院殿窓月貞公大禅 定尼。……

内室の法号は地名の華沢を用いしなり。……” とあり

『石川日記(1720年~)』の享保5年(1720年)4月22日の記述に

晴天 休初沢へ出” とあり

石仏の台座には以下のように刻まれていました。

“女人講中初沢村……寛延元戊辰(1748 年)” 

こ のように、1720年にはすでに初沢の名が見られ、花(華) 沢の名はさらに古くから使われてきた地名のようです。

明治時代の西洋式地図

明治時代。 この地域最古の西洋式地図

八王子郷土資料館所蔵

明治21年測量、明治25年に印刷・出版された大日本帝国陸地測量部発行の1/20,000の地図の一部です(八王子郷土資料館所蔵)。

この地域の西洋式地図としては、最も古い地図です。私の調べた範囲では、残っているのは八王子郷土資料館だけのようです。国土地理院にも有りませんでした。ただ、この地域は、明治22年には、上椚田村と上長房村が合併し「浅川村」となっています。

しかし、「浅川村」になった後でも、「上椚田」「上長房」の名称の方が、戦後までよく使われ続けていました。

明治時代の西洋式地図

この時代、まだ高尾駅、みころも公園は存在しません。位置を示しました。みころも公園の現在池の部分には、田の記号がみえます。


この地図から解るのは

  • 桑の栽培が大変盛んだったこと

  • 昔の地名

  • 高めの平地には人が住んでいなかったこと

  • 昔の道の様子

などでしょうか。


また、江戸時代後期もほぼこの地図のような状況だったと推定されます。

江戸時代とあきらかに違う点は

  • 明治21年に大垂水峠(おおだるみとうげ)越えの甲州街道が出来ていること

  • 地図中央上部の上椚田村と書いてある部分下 「川原ノ宿」 付近の甲州街道は甲州道中分間延絵図(1789~1800年)には、道中央に用水が流れているのですが明治の地図には道両端に寄っていること

などです。

現在地図(国土地理院)

上の明治時代の地図と見比べられます。

上の地図の中央上部に上椚田村と書いてありま すが、この上椚田村が初沢の属していた村です。

江戸時代の上椚田村の様子を、新編武蔵風土記稿より引用してみます。

多摩郡之十四の下 由井領 上椚田村

“上椚田村は 郡の西 武相の界にあり。 横山庄に属す。

江戸日本橋を距ること 十二里に余れり。

村名の起る故を尋ぬるに、古へ 村内水田の中に 椚の老ありしゆえに此村名起こりしと云。

今 その跡 下椚田村の内、小名大牧といふ所の水田の中に塚あり。

これ椚の植し所なりと云。

この辺は界域もことに広し。されは 上下二村にわかちたれど猶当村の地いと広大なるを以て、三分して 案内 川原ノ宿 原宿の別ちあり。

西の方は 山村にて谷間に民戸あり。

左右は険阻の山々にて、次第に東の方に至り 打ひらけたる平地なり。

民家三百三十四煙。所々に散在す。

土地の開ビャクは 詳ならす。

検地は慶長年間、青木内匠矢ヶ崎七郎右衛門等 改めしなるべけれども

そのかみの水帳伝はらざれば、 たしかなることを知らずと云う。

其後 寛文6年、曽根五郎佐衛門か検地を始めとして

享保17年、筧播磨守、明和3年、伊奈備前守

安永5年、伊奈半左衛門等たたせり。

古より 御料所にて、今は 小野田右衛門が御代官所なり。

土性は 真土黒土砂利交はれり。

陸田多くして、水田は十か一に当たるべし。

用水は 谷々より漏出する小流を引そそく。

沃く水旱共に 患いあり。

村民等 耕作の余力に、 菰莚を織り 或は 枯木を拾ひ採て是を近郷に出す。

女は 養蚕紡績を業とし、太織縞などを おり出す。

又 案内の地よりは、材木を出し、また薪炭等を出す。

山間なれは 猪鹿もつとも多しと云。

村内に甲州街道掛りて、東の方散田村より 西は駒木野 小仏宿に達す。

村内に掛ること一里許。道幅 三間より五間に至る。

又 一條あり。北の方上長房村より、村内 小名案内を経て

西南の方 相州津久井懸千木良村に達す。行程二里余。

谷間険阻にし、行路最も難所なり。口留番所有て 猥りに通行を許さす。

又 鎌倉街道と云あり。小名原宿の南裏を一條せり。

北の方下長房村より、南の方下椚田村に達す。

ここは 天正の比、八王子城より 相州鎌倉への古道なりと。

村内を経ること五町はかり。”

長くなりましたが、様子がよく解るとおもいます。

下の絵は、葛飾北斎の描いた江戸時代の養蚕・紡績の様子です。

葛飾北斎『絵本庭訓往来』

葛飾北斎『絵本庭訓往来』江戸時代の刊行本より

※注)この地域の様子と言うことではありません

この絵も、葛飾北斎の描いた江戸時代の農業(収穫)の様子です。

葛飾北斎『北斎漫画三篇』

葛飾北斎『北斎漫画三篇』江戸時代の刊行本より。

彩色絵図

甲州道中分間延絵図

『甲州道中分間延絵図(1789~1800年)』(一部分)

上椚田村の内、川原ノ宿および初沢が描かれた部分です。

上椚田村と書かれた左わきの小さい文字が、「大光寺」です。

江戸時代前期の村

江戸時代前期の村

『新編武蔵風土記稿』明治17年元版より

正保時代(1644年~1648年)の上椚田村を含む八王子地域の村の様子です。

上の図と同じ地域の昭和5年の様子

昭和5年鉄道補入『東京』20万分の1の地図

大日本帝国陸地測量部発行

大正3年製版 昭和5年鉄道補入『東京』20万分の1の地図(1部分)

この地図は、地元の高尾名店街に入っている古書店「高尾文雅堂」で入手したものですが、すでに昭和5年には、カラー印刷の地図が作られていたのですね。

※2020年1月31日閉店

また、正保の地図をこの上に重ねる(縮寸が違うため正保側を縮小するかこの図を拡大する必要があります)と、意外とおおまかですが各地域が重なります。

正保の地図もなかなかのものですね。

『新編武蔵風土記稿』明治17年版の挿絵「下長房村」

『新編武蔵風土記稿』明治17年版の挿絵

左端に下長房村と書いてありますが、川の右手・3分の1が下長房村です。

川の左手には、上椚田村の東より約半分が描かれていています。下長房村の文字右手の家並が字原宿で、右下の竹林に囲まれた家並が字新地、現在の東浅川町にあたります。左上・雲の下が、字川原ノ宿で現在の高尾町です。

この絵には、難が2か所あります。

  1. 甲州街道と畑の間の土手

この絵のような段差は、江戸時代の元絵、地形からみて考えられません。江戸時代の元絵では、土手は盛り土状態で街道と畑は、水平に描かれています。

  1. 川の流れ

昔は、この付近では流れが普段潜流してしまい、見えませんでした。このことは、同書の文章、古地図(下の地図も含め)から確認できます。

上の絵と同じ地域の明治21年測量地図を、下に載せました。

(上図は、フォトレタッチソフトで修正してあります)
明治25年出版『大日本帝国陸地測量部の地図』

明治21年測量、明治25年出版『大日本帝国陸地測量部の地図』(一部分)

八王子郷土資料館所蔵

浅川地区(上椚田、上長房)の新旧地名対照表、旧地名図は、こちらへ

また、浅川地区の旧字名は、各地域の町内会がその名前を現在に伝えています。

ただ、旧字名が町名として残ったのは、初沢だけとなってしまいました。

昭和初期の上椚田・川原ノ宿 (現在:高尾町)

昭和52年高尾飲料組合発行『高尾飲料組合50周年記念誌』

昭和52年高尾飲料組合発行『高尾飲料組合50周年記念誌』(非売品)より転載

浅川町となったのは、昭和2年ですので、それ以降の様子となります。

この写真は、高尾山を扱った絵葉書類の1枚と思われます。

昭和9年の高尾駅

昭和9年の高尾駅

現在も変わらずに残されている高尾駅北口です。京王高尾線が開通するまで南側・初沢町側には出入口はありませんでした(写真から絵にしてみました)。

昭和11年の様子

八王子景勝図絵「八王子案内」

八王子景勝図絵「八王子案内」(一部分)

八王子郷土資料館所蔵

この絵の見所は

  • 東浅川(宮廷)駅のあること

  • 御陵線(昭和20年1月廃線、京王高尾線の基となる)が走っていること

  • 「ハイキングコース」という洋語がつかわれていること

などでしょうか。

絵だけでは、はっきりしないのですが、この時期甲州街道をチンチン電車が走っています。

浅川小学校や城山の位置が、すこしズレてしまっているようですね。

昭和10年代の写真

昭和10年代に撮影「金毘羅山東中腹より東方向・淺川小学校」

昭和10年代前半に、金毘羅山東中腹より東方向・淺川小学校を写した写真

浅川小学校は、明治6年からの歴史をもっていますが、この場所での開校 は昭和4年です。この時期の名称は、(東京府南多摩郡)浅川尋常高等小学校です。この小学校が昭和6年に調べた地域のデータが残っています。これによりますと初沢には、男93人、女84人、計177人、世帯で35戸が生活していました。

この地域の大まかな歴史

縄文時代

南に接する狭間町の峰開戸(現在、八王子実践学園のグラウンド)と言われた場所で発掘調査がおこなわれ、縄文中・後期の居住跡、土器などが見つかっています。

弥生時代

何も解っていません。

平安末期から鎌倉時代初期

横山党の一族、椚田氏が支配していたと考えられます。

鎌倉時代初期から室町時代

横山党が滅亡し、その後を、大江広元の一族で長井姓を名のる人が支配していだようで す。

戦国時代

1,500年頃、この地域より南側を扇谷上杉氏、その配下に長井氏が北側に山内上杉氏、配下に大石氏がいて、対立状態にあった時期があるようです。その後1,510年頃より、後北条の支配下にはいります。

桃山時代

北条氏が滅び、徳川家康の支配下に入ります。

江戸時代

江戸幕府の直轄地となります。

明治時代

明治4年から明治26年3月31日まで、神奈川県に属し、同年4月1日より東京府に入ります。

附録: 「八王子」について

下の絵は、近江日吉山王社(おうみひえさんのうやしろ)、江戸時代の様子です。

この絵は、「八王子」の大まかな意味を直感的に理解するのに役に立つ絵ではないでしょうか。

近江日吉山王社、江戸時代の様子

「伊勢参宮名所図 会」という本を見ていて、たまたま見つけた絵です。

比叡山の東山麓坂本(滋賀県大津市)に、現在は「日吉大社」としてあります。2,000年以上の歴史を持つといわれ、山王社の総本山です。

この「山王七社」の一つが、「八王子」です。(「子安」は、「山王七社」の一つではありません。八王子市にも同名の町があるため朱記しました。)山王七社は、大宮、二の宮、三の宮、八王子、十禅師、客人宮(まろうどのみや)、聖真子(しょうしんし)と書かれています。

また、絵右下の「下八王子」は、摂属(せつぞく)十四社の一つになっています。

この本は、「八王子」について下記のように説明をしています。

“八王子 僧形(そうぎょう、意味:僧のすが た)。

垂迹国狭土尊(すいじゃく くにさつちの みこと)、本地千手観音(ほんぢ せんじゅ かんのん)。

崇神天皇(すじんてんのう)即位元年の鎮座にして八百万神大祖元気(やほよろずかみだいそげんき)の神なり。

小比叡(こひえ)の東金(ひがしこがね)の巖(いわお)のかたわらに八人の皇子を引率(いんそつ)して天降(あまくだり)あるゆえに八王子という。”

一般に、「八王子」 は、牛頭天王(ごづてんのう)の八人の子供(王子)と説明されます。

この絵と解説文は、「近江名所図会」にも、同じものが掲載されています。

絵は、大正9年大日本名所図会刊行会発行の『伊勢参宮名所図会』を使用。

その他歴史紹介

※注)浅川旧字名、八王子案内全図、廿里の戦い、地誌類の絵は、町外へ踏み出しています。