白翁会 について-笠原白翁の業績
白翁会は、旧福井医科大学医学部医学科、看護科(1978年-2003年、看護科設置1997年)、福井大学医学部(2004年から現在)の同窓会組織です。白翁の名称は、江戸後期の福井の医師、笠原白翁に由来します。白翁は高い死亡率の天然痘を防ぐため、牛痘を苦労して福井に持ち込み、めっちゃ医者(めっちゃは、福井弁であばた、天然痘を蔑む語)と呼ばれながらも、多くの命を救ったのです。白翁の名は白神に由来します。白神(ハクシン)はラテン語のハクシーネ(ワクチン、註1)の宛字です(1,2)。福井で医学を学んだ同窓生は、白翁の精神を受け継ぎ、目の前の患者を救うために、情報を得、研鑽を積み、実践によりその使命を全うし世界に伍していくことを誇りにその同窓会に白翁の名を冠しています。
さて、笠原白翁(良策)の人生はどのようなものであったのでしょうか。福井大学の教養課程で学んだ郷土医史学の講義を思い出してみましょう(註2)。
笠原白翁の諱(いみな、実名)は良といい、字(あざな)は子馬、通称は良策といいました。白翁の号は万延元年(1860年、51歳時)に隠居(あるいは休息)以降、使用したと考えられています(3)。笠原良策(白翁)は1809年(文化6年)に足羽郡(現福井市)深見村に生まれました(1,4,5)。 深見村は福井市東郷地区の南側にある山沿いの集落です。現在も深見町として存続していますが、笠原家の生家はないようです。もともとは農家であったようですが、父親、笠原竜(龍)斎(りゅうさい)が漢方の町医として生計をたてていました(註3)。良策は15歳の時に、漢方医としての勉学を福井藩の医学校、済世館で始めます(1823年、文政6年, 2)。済世館は福井市医師会の前身です(6)。21歳になり、江戸に出て古医方を磯野公道(いそのこうどう)から学び(1829年、文政12年)、24歳で福井城下木田中町で医業を始めます(1832年、天保3年)。当時、土着の感染症となっていた天然痘はしばしば流行をおこし、多くの人々、特に幼児が亡くなるのを目の辺りにします(7,8, 註4)。天保時代は飢饉がしばしば発生し、貧しく体力のないものから病魔に倒れていったことでしょう。すぐれた文学はありありとその情景を私たちの目の前に映し出してくれます。
― 福井の町では、天然痘の流行が一層激しさを加え、路上には間断なく棺をのせた大八車が、乾いた車輪の音を立てて走った。町角で大八車同士が衝突して棺から死体が路上にころがり出たという事故も起こった。大八車は、町の中を明里処刑場の方向に走り、いつもは馬も車も人も通らない雑草のしげるせまい道は、車の輪と人のわらじにふみしだかれ赤土の露出した道になっていた。処刑場の裏手では、昼も夜も絶えることなく煙が幾筋も立ちのぼっていた。―(新潮文庫 雪の花 吉村昭著、引用)
木田中町で開業していた良策の前を、足羽山のふもとの火葬場所に遺体を載せた大八車が多数往きかったことは想像に難くありません。28歳の時、疲れた心身を(加賀市)山中温泉に湯治に向かわせます(1836年、天保7年、註5)。そこで大聖寺藩医、大武了玄(おおたけりょうげん)と出会います(5-9)。彼から蘭学の進歩の様を聞いた良策は、その習得を志し自らの医院を廃し、京都の日野鼎哉(ていさい)に入門します。32歳の事でした(1840年、天保11年)。1年後、福井藩に帰った後も人々は天然痘の脅威にさらされていました。漢方医たちは「牛の糞を黒焼きにし、それを粉末にして服用すべし。その糞は白、黒、茶の体毛をもった牛のものが適している」と御触れを出したり、あるいは赤い褌でお札を奉納し神仏に祈ることが人々に出来うることでした。天然痘を擬神化した疱瘡神はサルや犬、赤い色を嫌うという迷信もあり、高山の有名なおみあげ『さるぼぼ(赤いサルの赤ん坊)』や『赤べこ(牛)の置物』は天然痘に対するお守りです。38歳の時に清の書物、『引痘略』 (邱浩川撰、1831年)を読み、牛痘のことを知りました(1846年、弘化3年、註6)。福井藩に天然痘のワクチン、牛痘の輸入を願い出ます(1,4,8,9)。しかしながら、鎖国中の当時、外国のものは国禁、願状を役所に提出しても役人は自分に災禍が及ぶことを怖れ、途中で握りつぶし、藩主松平春嶽まで届くはずもありません。『飢餓、戦争と疫病は国家の三大難事であり、中でも疫病はもっとも国力を弱めるものである』と何度も役人に取り合いましたが、なしのつぶてでした。良策は福井藩医の半井仲庵(なからいちゅうあん)を通じて、江戸在の春嶽の右腕、中根雪江(なかねせっこう、註7)に助言を求め、ついに清から牛痘の入手の許可を得たのでした。苦節3年、1849年(嘉永2年)のことでした。藩の命を得た良策は、私財を果たして長崎に牛痘を受け取りにいきます。京都の師匠、日野鼎哉の邸を訪れたところ、佐賀鍋島藩楢林宗健(ならばやしそうけん、註8)が成功させていたモーニッケの痘苗が届いていることを知ります(註9)。残念ながら、届いた8苗のうち7苗はすでに失活していました。もっとも状態がよくないと思われた最後の1苗を医師仲間の子に接種したところ、奇跡的に痂皮をつくったのでした。京都で150名余りの幼児に接種し、大阪の緒方洪庵にも分苗し、さて福井に持ち帰ることにします。牛痘は幼児の腕に1週間ごとに接種し、植え継ぐしか方法はありません。4組の親子に相当の金銭を支払い、福井行きを決断します。良策は41歳になっていました。京都を現在の歴で1月2日に発ち、大津、米原を経由し北陸街道を北上する、それは決死行でした。
「たとへわれ、いのちしぬとも、死なましき、人は死なさぬ、道ひらきせん」(註10)
-1月の栃の木峠は2mもの積雪があり、木の本の村人は、しばし逗留するように良策一行を諭した。良策は県境の栃の木峠30km余の山道を一日で踏破する予定だった。ここでいたずらに日数をかけてしまえばせっかくの幼児に植え継いだ苗が絶えてしまう。幼児を背負った男たちとその母にとって、冬の山道の危険は十分考えられたが、死力をつくしても栃の木峠を越えると決断した。早朝暗いうちに出発し、山に入ると傾斜はさらに急になり、雪の中に一行はうずくまり進めなくなった。その上猛吹雪となって、視界はまったく閉ざされた。顔に雪がたたきつけてきて、息もできない。元気だった幼児の泣き声も弱くなり、強風の中、お互いの声もかき消された。良策は先頭に立ち、雪の中を泳ぐように、崩れるように一歩づつ雪道を踏み固めながら一行を進ませた。峠の峰にようやくたどりついたが、下りは深い谷間を縫うような入り組んだ道である。垂直に切り立った断崖からは雪塊が落下してくる上に、積雪で道も判然としない。峠の向こうは福井藩領内である。遂に良策は牛痘をもち帰ることができるのだ。しかし、最も怖れていた時がきた。谷間は日が没するのが早い。一息ごとに暗闇が深くなり、行く手は闇の中に完全に没した。激しい疲労と後悔で、視界がぼやけてきた。死んではならぬ。死んではならぬ、自らに言い聞かせ、大八車に乗せられた幼児の屍を運ぶ母親の気も狂わんばかりのあの故郷の情景を思い出した。種痘をした幼児を絶対に連れ帰るのだ、彼もまた絶叫していた。体力も気力も尽き死を悟ったそのときに、暗闇から火の玉がゆらりゆらりと遠方から近づいてくるのが見えた。これが死神の鬼火かと観念した。奇蹟であった。それは先発した男の依頼を受けた今庄虎杖村(いたどりむら)の長が、若い二人の男に命じ、迎えにこさせた松明の火であった-(10,11)。
良策は浜町(現在の中央3丁目)の自宅横に種痘所を作りました。死力を尽くして持ち込んだ痘苗でしたが、藩内では漢方医の反対や迷信で牛痘はまったく広まりません。子供に牛の角が生えるとか、病魔をわざわざ入れると天然痘で死ぬと蔑まれ、医業も赤貧に瀕しました。庶民にもよくわかるように『牛痘問答』(1850年)、医家向けに『牛痘鑑法』を記し啓蒙普及に努めましたが、藩医の反対はすさまじく、江戸では蘭医学禁止令(1849年)までだされる世相でした(12, 13)。植え継ぐ幼児が見つからず牛痘が絶えてしまいそうになる状況にも、都度都度見舞われました。牛痘が広まらない窮状を、激烈な役人批判文にしたため江戸の上級役人に提出しました。身分制度の厳しい世の中、妻に『私の命の引き換えで運んだ牛痘である。今庄で一度は死んだ身、死罪も結構、笠原家に処分が下されることは必至』と諭し覚悟を決めました。江戸では種痘の予防効果が知られはじめていました。神田にお玉ヶ池種痘所(註11)も開設されました。松平春嶽は、藩医に対して、すべからく良策に協力するよう命じ、下江戸町(現在の春山1丁目)に福井藩の除痘館が設置されました。福井の庶民に対する種痘所は、お玉が池種痘所開設よりも8年も前のことであり、福井藩の先見の明の高さが窺えます。良策は3年間で6595人余りの小児に接種しました。天然痘が流行りはじめると、100名を超える幼児が門前に並びました。断らざるを得ないものも出ました。遠方在方困窮の者、両親無き小児は除痘館まで来ることもできない、無益な幼児の死を避けなければならないと説き(3)、村ごとに牛痘を伝えていく村次伝苗で領内に着実に普及するシステムを作ろうと試みました(14)。種痘を受けたものの三国港の小役人鷲田楢右衛門の子供が発痘することなく、その数週間後、周辺に天然痘が流行し亡くなっています。良策はその1例の失敗から、発痘しないものは速やかに再接種するように厳命しています。
良策が残した記録に『白神用往来留』と呼ばれる手紙や願書の控えがあります。8分冊にもわたる詳細な資料で、白翁自身が『白神記』と名づけたものが残っています(3)。牛痘をどこの村で何人に接種し、その結果、痂皮、膿ができているか、などの現在のカルテのような記載や海岸部の越廼村蒲生地区への出張や、鯖江、大野、大聖寺、金沢、富山などの譲渡が記録されています。資料を読みますと、苦労し手に入れた牛痘の出所が、春嶽を通じて幕府の命を受けた厳密な管理がされたものでなく、佐賀藩市中に出回っていたものであることが日野鼎哉の弟子から知らされ、悶々としていることも窺えます。「たとえそうであっても、越前一派の真苗は明快の至」と半井仲庵に励まされ、生涯牛痘の普及接種に励みました。
明治維新後、東京に移住し1880年(明治13年8月23日)72歳で麹町の同郷の岩佐病院でその生涯を閉じたのでした(1)。亡骸は遺書の通り、大安禅寺の山中墓所に歌人で国学者、親友の橘曙覧と隣合わせに葬られています。
医学部図書館に福井県医学資料コーナーに関連文献があります。私もこれを書くためにいくつか書籍を読みましたが、彼の医師としての使命感と苦難に打ち勝つ粘り強さ、そして実行力、医学に対する慧眼は特筆すべきものです。当時の種痘の導入は日本医学の最先端であり、いち早く漢方医学から蘭学へのパラダイムシフトに白翁は気づいていたのではないでしょうか。それは問題意識を持ち日々精進していた賜物であり、加賀山中で偶然、蘭医学者に出会ったことも、科学におけるセレンビリティといってよいものでしょう。準備をしている人にチャンスが訪れるという金言がここでも活きています。白翁の人生のエピソードすべてが、よき医療人たれと、私に語りかけてくるようでした。われわれ福井大学の学徒にとって、白翁はこの地の大先輩であり、その名を生涯心の中に刻み、同志として同窓会のアイデンティティを強くすべきだと思いました。福井県人は奥手で引っ込み思案と言われます。私にとって白翁は、黄熱病ウイルスの実態を無視し、それをスピロヘータと盲信した野口英世よりもずっと学問的で先駆の眼を有した医学者に映ります(15)。映画チアダンもよいのですが、だれか才能のある会員の方が映像化してほしいと思います。
私は1964年生まれで種痘を受けた世代です。肩に醜い瘢が残っています。日本では1976年を境に行われていないので、45歳より若い会員は種痘の瘢はなじみがないでしょう。1980年にWHOより天然痘撲滅宣言がでていますので、微生物学の授業でも少ししか触れないかもしれません。人類から天然痘がなくなっても藩の市井の人々の幸福に生涯をかけた白翁の業績は色あせることはありません。現代も次々と新しい問題が起きています。笠原白翁が生きていれば、現代の藩医学校、福井大学医学部同窓会になんと訓示をいただけるでしょうか?『お前ら、楽すんなま』と言うでしょうか。
註1 英国のジェンナーが1798年に牛痘に罹患した乳搾りの女中は天然痘にかからないこと、牛痘を子どもに接種すると天然痘に罹患しないことを「Inquiry」のタイトルで自費出版した。ワクチンはラテン語の牛、Vacca に由来するのはこのためである。
註2 旧福井医科大学の教養課程では、岩治勇一先生による医史学の講義があり、ヒポクラテスに始まり、杉田玄白、笠原白翁の業績を全在校生が学んだ。現在はゲノム科学・微生物学の定清直教授が講義、生体と微生物(医学科)・生体反応論Ⅰ(看護学科)で白翁の業績を紹介している。
註3 江戸時代の医師は免許制度もなく(佐賀藩の1851年開始の佐賀藩医業 免札姓名簿 を除く)、師匠に許されればだれでも医業を開くことはできた。村医、町医、藩医、幕医、儒医、御典医など、職階により名称が異なる。一般に藩医以上は世襲が多く、武士と同様に名字帯刀が許された。村医、町医は農民、商人からも成れるが、漢方医であり文献を読むために四書五経を修めるほどの才覚は必要であった。
註4 天然痘は江戸時代に何度も自然流行をきたしていた。天然痘の天然は自然流行という意味である。空気感染をきたし、微生物の概念のなかった江戸時代では疫病は悪鬼神の仕業と考えられたもの無理はない。江戸時代の未痘児の死亡率は75%であり、妊婦と幼児の死亡率が特に高かったとされている。
註5 天保7年の飢饉は有名で、いわゆる天保の飢饉である。3100万人と推定されていた当時の日本人のうち150万人が死亡したとされている。福井弁でいう、てんぽな(すごい、びっくりするような)というのは天保7からきているという説もある(16)。
註6 「引痘略」、1831年、清の医家、邱浩川撰の著作。西洋の牛痘の知識に加え、清国の医学知識を加えたものを出版した。これの和訳出版は蘭医学禁止の影響もあってか幕府から不許可になっている(1850年、13)。白翁は引痘略を和約解説した『引痘新法全書』(佐賀藩医牧春堂著、1846年)を読んだという説もある(5)。
註7 松平春嶽は11歳で福井藩主に就任した。中根雪江は春嶽の教育係であった。藩士の俸録半減3年と藩主の出費5年削減を行い、由利公正、橋本佐内と財政改革を進めた。福井県三国町宿浦に明治になってからの閑居跡がある。
註8 楢林宗健と日野鼎哉はシーボルトの開いた鳴滝塾で学んだ同門、兄弟弟子である(2)。江戸末期の医学者が互いに切磋琢磨し、情報交換している様子が眼に浮かぶ。
註9 オランダ商館医モーニッケが持ち込んだものは東インド会社があったインドネシアのバタビア(現在のジャカルタ)からの痂皮(カサブタ)である。シーボルトも漿(液体)の状態の牛痘を持ち込んだが免疫を得ることができなかった。長期の航海で失活、腐敗したものと思われる。
註10 「たとへわれ、いのちしぬとも、死なましき、人は死なさぬ、道ひらきせん」、 白翁自身が読んだ歌。現代意訳は、自分は死んでも、死ななくてもいい人は絶対死なさないようにしたい、そういう道を開きたい(10)。
註11 1858年、伊東玄朴らによって開設された神田の「お玉ヶ池種痘所」は東京大学医学部発祥の地とされている。
参考文献
1)岩治勇一 笠原白翁 朝日日本歴史人物辞典https://kotobank.jp/word/笠原白翁-106498
2)大阪市中央区南医師会ホームページ 日本医事史抄 江戸時代III http://www.osaka-minami-med.or.jp/
3)福井県医師会 白神記 -白神用往来留- 笠原白翁著 福井県医師会編, 1997
4)福井市東郷幼・小学校ホームページ 笠原白翁 http://www.fukui-city.ed.jp/togo-e/tougoushoukai.html
5)大井田隆 福井県—福井県における公衆衛生の先駆者,笠原白翁 公衆衛生 52巻 1988年
6)福井市医師会 済世館小史 復刻版 1971
7) 吉村昭 雪の花 新潮文庫 1988
8) 白崎昭一郎「杉田玄白と笠原白翁」『由利公正生誕180年記念・笠原白翁生誕200年記念 歴史講座講演録』福井市・歴史のみえるまちづくり協会編 2010
9) 福井市立郷土歴史博物館 ホームページ 笠原白翁http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/gakko/for_students/bakumatsu/hakuou.html
10) 笠原白翁 戦兢録 1809-1880
11)北井隆平 雪の花と戦兢録を読んで 創作 白翁会ホームページ 2019
12)蘭書翻訳取締令 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
13)松木明知『魯西亜牛痘全書』安政版の出版の経緯について 日本医史学雑誌 1999 401-411
14)伴五十嗣郎 笠原白翁の種痘普及活動(I)、(II)実学史研究 思文閣出版1985
15)渡辺順一 遠き落日 角川文庫 1979
16)天保の大飢饉 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
原稿を校閲いただきました定清直先生、法木左近先生に深謝いたします。
柳沢芙美子先生(福井県文書館)より学問的見地から本稿に対し、ご意見をいただき修正いたしました。深謝いたします。
2019年4月20日 北井隆平 記載
福井新聞 (2019.06.24)に取り上げられました。本多会長とHISTRIP(学生サークル代表)のコメントが載っています。史実に基づき、一日で長浜市から今庄町まで踏破しました。3人の子供を連れて、二日分の食料(おにぎり4つ)というところまでこだわり再現しました。苦労を追体験し、白翁の精神を心に刻み込みました。
読売新聞 (2020.02.19)に掲載されました。
北陸大紀行・小説の舞台の「雪の花」が、福井、石川、富山の各県版に掲載されました。今回は黒川先生の「白翁プロジェクト」が取り上げられています。栃ノ木峠を越えてもたらされた医師の志が今も生きているという趣旨がわかりやすく伝わってきます。
また、本多徳行会長(医1期)と北井隆平先生(医5期)、黒川哲司先生(医8期)が大安禅寺に眠る白翁の墓前に手を合わせました。
福井大学医学部同窓会白翁会会歌(福井医科大学学歌)
作詞 伊藤 柏翠 作曲 古関 裕而(昭和60年完成)
一、越の沃野を潤して
大九頭竜の行くごとく
濁世に病める人々を広く
救わん理想もて
医の道高く炬火をあぐ
おゝ我等 福井医大
二、遠く神農草をはみ
近く白翁メスを取る
洋東西の学深く真理を
追って行くところ
青春熱き血のたぎる
おゝ我等 福井医大
三、水仙雪に花ひらき
青松月の風に鳴る
白山四季に見守りて楽土に
病無きを期し
杏林愛に芳しき
おゝ我等 福井医大