國重奨学給付金の思い
5期生 北井隆平
我々5期生は 1984 年に福井医科大学に入学した仲間である。50音別に並んだクラスでカ 行の学生は多かったが、北井と國重は席も近かかった。当時の医学生も大多数は裕福な家庭の出が多く、言葉の使い方、その所作から、なんとなく私たちとは違うなあと心に澱が 積もった。
私より3年学年上の國重君は大阪弁丸出しでガサツ、当時小太りでパンパンに 膨れた四肢体躯はクッシング病?と言いたくなる風貌であった。聞けば入学までにずいぶ んと時間がかかった事、学費を全部自分で工面していること、両親や親族に一切頼れない ことなどいろいろと話した。彼ほどの困難はなかったが、私も経済的には苦労したので、 お互いさまざまな相談をした。
大学2年になり、いよいよ学費の支弁が困難になったとき、 彼女が福井に来て糟糠の妻をしてくれるという。学生のノリで解剖学の野条教授を借り出 し、披露宴を行い、二人で生活をすることになった。関西で教員をしていた奥さんを福井 に連れてくるのだが、福井県の教育採用はかなり難しいことがわかった。私の親戚が加賀 市で顔の広い方であったので、頼み込み石川県の教育関係の仕事を紹介してもらった。加 賀市に居を構え、大学にはそこから通学するという生活が始まった。友人皆で荷物を運ん で、安アパートがエレクトーンでさらに狭くなったところで闇鍋をつついたのも懐かしい。 家庭教師のバイトや部活で疲れた体には限界もあったようで、車を大破させ、自身も顔面 裂傷で緊急入院したことも、今、大人になって考えると、相当やばい綱渡りをしたものだ と思う。
我々の付き合いや記憶も卒業後、時間がたつにつれて、薄く遠くなるのは仕方がない。世の中に facebook という勝手に昔の友達を探してくれるものが出現した。3年前に懐かしい 名前を見つけ、彼の住む大阪で酒を飲み昔話で盛り上がり、加賀市の友人を訪ね、感謝の 食事会をする旅を計画した。お互い少しの余裕が出来て、生活を送った町も違った風景に 見えた。
そんな彼から昨年末に今度はガンの告白である。専門外でもおおよその見当はつく。気丈には振舞っているが、落胆は明らかであった。余命の話、若い頃の思い出を語る内に、お 互いある考えが思いついた。貧したあの頃、育英会奨学金だけでは足りずに、掲示板の奨 学金募集のポスターを見入り、同級生に見つからないように学費免除の相談に学生課を訪 ね、惨めな思いをしたことを話した。私は書類が期限に間に合うように飲食店のバイト後 に8号線を金沢まで往復したこともあった。信号無視(きわどいタイミング)でパトカー に深夜止められ、30分以上、罰金も払えない事情を話したこともあった。パトカーの後部座席に座らされ、絶対にダメだという若い機動隊警官に、最後は父親世代のもう一人の 警官から放免してもらったことも今は感謝である。
合宿だ、海外視察と長期休暇のたびに イベントを組める学生もいるが、そんなときこそ稼ぎ時と、塾講師や飲食店の深夜バイト に励んでいた我々もまた医学生の実相である。 そんな中、國重君はゼロから医師になり、ゼロから自分の城を作り、自分で働いたお金を 寄付してくれたのである。これから医学生として勉学に励む未来の後輩の君に、彼の半生 の物語を読んで、そしてまた本学の伝統を繋いでいってほしい。
(以下は本人が白翁会(福井大学医学部同窓会)理事会へのメールを、北井が加筆した 平 成 29 年 12 月 31 日発信分)
生後 1 週間で孤児院玄関前にバスケットに入れられ置き去りされた私は、中学まで施設で成長した。高校生活では、無理を言って住居だけそのまま施設で住まわせて頂いた。生活費と学費一切 は自分で新聞配達や自転車屋のバイトで捻出し卒業した。高校以後は、大阪の下町で道路のアスファルト砕きやダム工事の力仕事をしていた。たいていの種類の水商売や土建や借金の取り立てや数十種類の日給払いのバイトを掛け持ちでした。その当時の住居は一泊 150 円の 3 段ベッド、 劣悪な環境でした。1 番困ったのは保険証がないこと。数回大量吐血して医者にもかかれず。死ぬか思いました。
天涯孤独の私は、何に関しても医者になるまで保証人がいなくて困りました。親が両方ともいないことは産まれてから当然なんで辛くなかったけど、小学生時代に 1 番イヤだったことは運動会などでした。昼食時間に、校庭で家族みんなでおにぎりを食べている一方で、私は校舎裏で三角座りして菓子パンをかじってた。涙が止まらんかった。家庭不和の家なき子のドラマは必ず最後はハッピーエンドで終わる。嘘つきだと思った。じゃあ僕は何でなん?それでも医師に なる夢は捨てなかった。 さて、福井に受かるのに 4 年遅れました。アタマ悪いのも勿論理由ですが、、、。例えば、新聞配 達。朝夕各 300 部配り、昼過ぎからオリコミ入れて、それ以外にも集金業務。夜伺ったら、主人いないから夜 1 時に来てって。いけばダンナが灰皿投げつけて、カネなんか有るけー!、しかし AM3 時には専売店に。つまり、まとまって受験勉強するヒマがない。物理的にも無い。さらに給料 6 万がいろいろ引かれて 45000 円。家賃 8000 円、築後 60 年共同トイレフロ無し。食費 1 万円無かった。人間不思議なもので、今日晩メシ、どないして食おう毎日思てたら勉強に身に入るはずがない。一週間、食パンの耳 30 円だけの時も。勉強すればするほど、お金入らない。お金儲けしたら勉強してない。ジレンマでした。衣食足りて礼節を知るってレベルより遥かに低く、衣食住足りて初めて勉強できる。心身ともに思い知りました 20 代に。
さて、こんなんでしたから 4 浪の春まで偏差値軒並み 30 台。4浪の夏には 70 台をキープしZ会も何度か全国1位にもなりました。この一年やってダメなら北新地のワインバーの店長が約束されていました。1 年間ホントに死ぬ気で机にしがみついた、食費は極限まで削って。水商売か、医学部か二者択一でした。
合格して友人達から掻き集めた入学金 10 万円、握って学生課にハラ割って相談した。成績落ち たら即退学でしたが、身寄りの無い私は日本育英会では万一医師になれなければ返すアテが無い。一か八かで難関の特待生に応募しました。申請書類の収入欄はもちろん 0 円です。学生課の方のアドバイスで嘆願書を書きました。確か便箋 30 枚くらい。ココロのたけをかきました。1 週間くらいかかって。 これが私の経緯です。
コピーするお金も無く北井君や同級生達の応援もあって無事ストレートで卒業できました。周囲に感謝すること。これは今でも私の信条です。間違えて国家が私を医師にしてくれたのです。 入学式の学長先生の祝辞。 「君達医学生を医師にするのに年間で662万円かかる。君達が講義サボって彼女とウツツ抜かすのも一日 2 万円。一生懸命勉強しても 1 日 2 万円。君達に国民の血税が使われていることを忘れないでくれたまえ。」と。今までの入学してから 34 年間、1 日も忘れたことはありません。社会に奉仕すること。
昨日 12/30 で 19 年に渡る私の医療法人が消滅しました。今は医師免許こそありますがただのプータローの私。私のような医学生の助けになればと温めてきた思いを実現する日が来た。私の後輩達のために。
最後に
食道癌末期で半年後の生存率が実際いかがかを腹割って主治医に聞いたら、1〜5%。そんな折に同じく苦労された親友の北井隆平に相談したら彼のアドバイスが母校への奨学金でした。医学生時代から温めてきた思いに彼が僕のスイッチを入れた。毎日転移先の癌の神経浸潤で痛くて 痛くて(全脊椎メタ)麻薬二種も効かず、食道完全閉塞で唾液を 10 分おきに吐きに行かなアカンで 今も立ってうつらうつら。寝ると着物がすれて。焼け火箸を常に押し当てられてる。癌だけが麻薬使って良い理由を、医師やのに初めて思い知りました。
後はよろしく。