夏至と冬至:天神への祭祀

箸墓古墳・天神社・天神山


○ 先に触れた小川光三氏の『大和の原像』では、図 ㉑「三角形を示す祭祀遺跡跡と三輪山をかこむ三ヶ所の斎場」(p. 120) の説明のなかで、箸墓古墳を西の頂点として形成される直角三角形のことが語られている。

旧初瀬山ともされている「天神山」〔北緯 34.53917 度、東経 135.91493 度〕が、桜井市初瀬にある。

そのほぼ真西に「箸墓古墳」〔北緯 34.53929 度、東経 135.84125 度〕が、桜井市箸中にある。

ふたつの座標をつなぐラインの角度は、西に向かって 0.11 度の傾斜をもつ。つまり箸墓古墳のほうが天神山よりも若干北にあって、その南北の差異をここで計算してみれば、北緯は 1 度あたり約 111 ㎞ の距離が発生することになるので、


34.53929 - 34.53917 = 0.00012 (°)

111 ㎞ × 0.00012 = 111 m × 0.12 = 13.32 m


となって、座標上の南北の誤差は、長さに換算して約 13.3 メートルということになる。両者の東西の距離は、約 6.7 キロメートルなので、これはまず真西といっていいだろう。それがつまりは西に向かって 0.11 度の傾斜ということなのだ。


また、天神山のほぼ真北には「天神社」〔北緯 34.57365 度、東経 135.91587 度〕が、桜井市小夫にある。

その、天神山から天神社への角度は、北に 88.72 度である。こちらは真北に対して 1 度強の誤差だ。


ここで箸墓古墳から天神社への角度を計算すると、東北東に 29.34 度となって、全体としては見事なまでに、30 度に傾いた斜辺をもつ直角三角形を形成することが認められる。

  • 箸墓古墳
  • 天神社
  • 天神山

上に提示された三者では、天神山以外は人工の構造物だ。そして先の〝三輪山を東の頂点とする正三角形〟を思いだすなら、箸墓古墳と天神山のラインを中心軸として、天神社の反対の側に〈もうひとつの人工の構造物〉が予想できるだろう。

もしその予測が現実になったとしたら、〝三輪山を東の頂点とする正三角形〟とは反対向きの、〈もうひとつの巨大な正三角形〉が形作られることになる。

―― というわけで、天神山から天神社への距離を天神山を起点として南側に向け移動したあたりに目印を置いて、マップをズームすると、次の神社があった。


天神山のほぼ真南には「威徳天神社」〔北緯 34.50448 度、東経 135.91614 度〕が、宇陀市大宇陀麻生田にある。天神山から威徳天神社への角度は、南に 88.36 度だった。


さらに、箸墓古墳から威徳天神社への角度を計算すると、東南東に 29.57 度となって、こちらもこれまた見事な、下向きにほぼ 30 度に傾いた斜辺をもつ直角三角形を形成することがわかる。

こうして、次の四点の座標をつないだ四角形は、地図上では、かなりの程度で正三角形に見えるのである。

  • 箸墓古墳
  • 天神社
  • 天神山
  • 威徳天神社

この〝箸墓古墳を西の頂点とする正三角形〟は、〝三輪山を東の頂点とする正三角形〟よりも、夏至と冬至の日に朝日の昇る角度に近く設定されているようだ。箸墓古墳からの角度は、それぞれ 30 度よりも浅いので、三角形の辺の長さに多少の違いが発生している。

すなわち計算すると、南北の辺は約 7.7 ㎞ なのだが、それ以外の辺は約 7.8 ㎞ なので、地図上でも若干は二等辺三角形に見えなくもない。

⇒ 角度を計算するサンプルページ(場所の一覧表付き)


―― 北の〈天神社〉に較べて、南の〈威徳天神社〉に関する記事は、近年はあまり注目されてなかったらしくほとんど見つからなかった。


○ 昭和 34 年 (1959) 発行の『大宇陀町史』〔大宇陀町史刊行会発行〕に「威徳王神社」として簡単な記録があった。あわせて平成元年 (1989) の『奈良県史』〔奈良県史編集委員会編集、名著出版発行〕も、参照しておこう。


威徳王神社(麻生田) 祭神、菅原道真公。境内地一、四五八坪。例祭、陰居三月一六日。由緒詳かでない。境内地に接続する後背部に古墳・石廓の開口があり、付近になお数基の古墳が散在する。境内社、天照皇大神社 祭神、天照皇大神。由緒不詳。

『大宇陀町史』 (pp. 619-620)〕


威徳王神社

  • 麻生田字東谷垣内三三一
  • 菅原道真
  • 村社
  • 天照皇大神社(天照皇大神)

『奈良県史』 「第五巻 神社」 第 2 章 神社一覧 16 宇陀郡 2、大宇陀町(神戸地区) (p. 199)〕


天神社 (小夫字神前田三一四七)

小夫集落の中央、斎宮山の麓に鎮座する旧指定村社で、天照大神・天児屋根命・菅原道真を祀る。本殿は流造・桧皮葺・朱塗の三間社。~~。当社に大般若経六〇〇巻と十六善神画像を所蔵するが、後者の軸に「小夫村神宮寺」の墨書がある。例祭十月二十三日。

『奈良県史』 「第五巻 神社」 第 3 章 神社解説 4 桜井市 (p. 352)〕


箸墓 と〝親魏倭王〟卑弥呼


箸墓古墳は前方後円墳なのだけれど、以前はそんなに古い時代のものとは想定されていなかったらしい。―― が、2009 年 5 月 29 日の新聞でその築造年代についての研究成果が報道された。放射性炭素年代測定による調査結果を国立歴史民俗博物館が発表したもので、それによれば西暦 240~260 年となっている。

小川光三氏の『大和の原像』で紹介されていたその時代の記事、『三国志』の「魏書」明帝の景初元年は、西暦で 237 年にあたる。それは東夷伝に〝親魏倭王〟という記録が残された時代なのだ。


○ 次に、その「魏書」より明帝の景初元年の記事と、有名な〝魏志倭人伝〟の景初二年の記述を、日本語訳の文献で引用したい。


『正史 三国志 1』 「魏書 Ⅰ」

明帝紀 第三 (pp. 264-265)

〔一〕『魏書』に掲載されている詔勅にいう、「思うに、帝王は天命を受けると、天地を奉戴し、よって神明への敬意を明らかにし、先祖を尊崇して祭り、よって功績と徳行をはっきりさせないものはいない。それがゆえに、前の時代の規則はすでに記されており、禘郊[ていこう]祖宗 (55) の礼の制度が完備しているのである。昔、漢王朝の初め、秦が学問を滅ぼしたあとをうけ継いで、不完全な資料を採集して、天地の祭の制度をととのえた。甘泉における后土神[こうどしん](大地の神)の祭、雍宮[ようきゅう]における五時[ごじ](白・青・黄・赤・黒の五帝の祭場)の祭以下、天地の神々の祭場・順位の多くは、経典の中にあらわれないものであった。これがために制度は一定せず、あれこれと変わり、四百年あまりを経過して、禘の祭は廃止されてしまった。また古代において〔王朝が代ると〕あらためて設立すべき祭(すなわち禘郊祖宗)のうちに、欠如したままとなっているものもあった。曹氏の血統は、有虞氏(舜)から出ているゆえ、いま円形の丘(円は天を示す)に祭る場合、始祖の舜を配祀[はいし]し、円丘に祭る天の神を皇皇帝天[こうこうていてん]とよぶ。方形の丘(方は地を示す)に祭る大地の神を皇皇后地[こうこうこうち]とよび、舜の妃の伊氏を配祀する。天に対する郊の祭でまつる神を皇天の神とよび、太祖武皇帝(曹操)を配祀する。地に対する郊の祭でまつる神を皇地の祇[かみ]とよび、武宣后を配祀する。亡父高祖文皇帝(曹丕)を明堂において祖宗の祭としてまつり、上帝に配祀する。」晋の泰始二年になって、円丘・方丘の夏至と冬至に行なわれる祭祀を、南郊・北郊における祭祀に合併した。

(55) 『礼記』祭法に、「七代の更[あらた]めて立つる所の者は禘郊祖宗のみ。その余は変ぜざる所なり」とあり、その鄭注に、「禘は昊天を円丘に祭るをいい、郊は上帝を南郊に祭るをいい、祖宗は祖先を明堂に祭るをいう」とある。


『正史 三国志 4』 「魏書 Ⅳ」

烏丸鮮卑東夷伝 第三十

(p. 469)

倭人[わひと]は、帯方郡の東南の大海の中におり、山がちな島の上にそれぞれの国邑[こくゆう]を定めている。もともと百余国があって、漢の時代に中国へ朝見に来たものがあった。現在、使者や通訳の往来のある国が三十国ある。

(p. 474)

その国では、もともと男子が王位についていたが、そうした状態が七、八十年もつづいたあと、〔漢の霊帝の光和年間に〕倭の国々に戦乱がおこって、多年にわたり互いの戦闘が続いた。そこで国々は共同して一人の女子を王に立てた。その者は卑弥呼[ひみこ]と呼ばれ、鬼神崇拝の祭祀者として、人々の心をつかんだ。彼女はかなりの年齢になっても、夫はなく、その弟が国の統治を輔佐した。……

(pp. 475-476)

景初二年(二三八)六月、倭の女王は、大夫の難升米[なそめ]らを帯方郡に遣わし、天子に朝見して献上物をささげたいと願い出た。帯方大守の劉夏[りゅうか]は役人と兵士をつけて京都[みやこ]まで案内させた。その年の十二月、倭の女王へのねぎらいの詔書[みことのり]が下された、「親魏倭王の卑弥呼に制詔[みことのり]を下す。帯方太守の劉夏が使者をつけて汝[なんじ]の大夫の難升米、副使の都市牛利[たしごり]を護衛し、汝の献上物、男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布[はんぷ]二匹二丈を奉じてやってきた。汝ははるか遠い土地におるにもかかわらず、使者を遣[おく]り献上物をよこした。これこそ汝の忠孝の情のあらわれであり、私は汝の衷情に心を動かされた。いま汝を親魏倭王となし、金印紫綬[しじゅ]を仮授するが、その印綬は封印して帯方太守に託し、代って汝に仮授させる。汝の種族のものたちを鎮め安んじ、孝順に努めるように。…… 加えてとくに汝に紺地句文[こうもん]の錦三匹、細班華[さいはんか]の罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀二ふり、銅鏡百枚、真珠と鉛丹[えんたん]おのおの五十斤ずつを下賜し、みな箱に入れ封印して難升米と牛利に託し、持ちかえって目録とともに汝に授けさせる。

(p. 477)

卑弥呼が死ぬと、大規模に冢[つか]が築かれた。その直径は百余歩。……


○ 上の引用文中で「魏書」景初元年の記事が参照している『晋書』の記事についても、『大和の原像』で触れてあった。ここで『晋書』の記事を原文で参照すれば以下の記述となる。


『晋書』 「晉書卷三」 (p. 26)

帝紀第三 武帝(五五頁)

十一月己卯、倭人來獻方物。?圜丘、方丘於南、北郊、二至之祀合於二郊。


○ 日本書紀の「神功皇后紀」に、関連する記述内容がある。


『大系本 日本書紀 上』「神功皇后 攝政六十六年」 (pp. 360-361)

[原文] 六十六年。〔是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云、武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。〕

[訓み下し文] 六十六年。〔是年、晉の武帝の泰初の二年なり。晉の起居の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、譯を重ねて貢獻せしむといふ。〕

(ふりがな文) 六十六年。(ことし、しんのぶていのたいしょのにねんなり。しんのききょのちゅうにいはく、ぶていのたいしょのにねんのじゅうがつに、わのじょおう、をさをかさねてこうけんせしむといふ。)


起居注 (頭注より)

起居注は、中国で天子の言行ならびに勲功を記した、日記体の政治上の記録。従って歴朝に起居注があった。隋書、経籍志には晋代についても晋泰始起居注二十巻(李軌撰)ほか二十一部をあげ、日本国見在書目録の起居注家には晋起居注三十巻をあげている。なお晋書にも類似の記事はあり、武帝紀には「泰始二年(二六六)、十一月己卯、倭人来献方物」といい、同四夷伝の倭人条にも「泰始、初遣使重訳入貢」としるしてある。三種を比べて、入貢の主体を倭女王とするのは本条だけであるが、この倭女王は、おそらく、魏志、倭人伝に、卑弥呼が死亡の後、一たん立てた男王が廃され、ついで立った「卑弥呼宗女壹(臺の誤りか)与、年十三」にあたると考えられている。ただ書紀は、この倭女王も卑弥呼その人と考えたのであろうとおもわれ、そこで、卑弥呼すなわち神功皇后とみなしていた書紀は、皇后の死をこの年のあとにおくこととしたのであろう。


〈箸墓古墳〉の中心軸 ―― 中軸線 ―― の方向については、

前方後円墳の〝祭祀〟にかかわる主題として、論議を呼んでいるようだ。

〝墓〟というよりも、〝祭祀遺跡〟だともいわれる。


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