纒向石塚古墳: 立春の祭祀遺跡

三輪山・大神神社


○ 大神神社(おおみわじんじゃ)には、有名な〝三ツ鳥居〟がある。大神神社編集の一般向け資料『大神神社 〈増補第三版〉』〔中山和敬、2013 年 12 月 25 日、学生社発行〕からその概要を引用したあとで、説明に添えられた境内図を転載させていただき、その配置等の理解の助けとしたい。


『大神神社 〈増補第三版〉』 「一〇 三ツ鳥居」より〕

(p. 144)

山を神体とし、本殿のないことで有名な大神神社の建造物で、古来「一社の神秘なり」と伝えられてきたものは「三ツ鳥居」である。全国に鳥居は多いが、この独特の形をした三ツ鳥居は大神神社だけのものである。……。

拝殿と御棚 まず、参拝者がぬかずく現在の「拝殿」は、その棟札にも見られるように、寛文四年(一六六四)徳川四代将軍家綱の造営にかかり、大和国高取藩主植村右衛門家吉の奉行によって再建されたものである。

(p. 148)

三ツ鳥居と瑞垣[みずがき] 拝殿正中の奥、つまり拝殿とお山との境に有名な三ツ鳥居がある。昭和二十八年十一月十四日に重文に指定されている。指定書には「木造三ツ鳥居附瑞垣・左右延長一六間(約二九㍍)」と記されている。

(pp. 150-151)

この三ツ鳥居は、明神形式の鳥居の両側に、やや小型の脇鳥居が組合わされ、本柱二本、脇柱二本はいずれも丸柱の掘立式で、柱根の土中には、それぞれ東西に一本の根械(ねかせ)が設けられている。また本鳥居には厚板の内開式御扉が取り付けられ、石の唐居敷が据えられ、また両方の脇鳥居には扉がなく、瑞垣と同形式の透塀で塞[ふさ]がれており、まことに奇異な感をうける。文字通り独特の鳥居形式であり、通称三輪鳥居といわれる所以でもある。

いま、三ツ鳥居の主要寸法をあげると、

  • 中央の間 八尺(約二・四二㍍)
  • 高さ(敷石より笠木上端まで) 一五・三尺(約四・六三㍍)
  • 両脇の間(柱真) 七尺(約二・一二㍍)
  • 高さ(敷石上端より笠木上端まで) 九・一尺(約二・七㍍)


〔下の図は『大神神社 〈増補第三版〉』 「一〇 三ツ鳥居」(p. 154) 〕大神神社境内の主要建物配置図

―― 上に転載した図の、上のほうが東である。

〝三ツ鳥居〟および〝拝殿〟は、ほぼ真東を向いて〝禁足地〟に面していることがわかる。

現在までに確認した大神神社の位置は「北緯 34.52877 度、東経 135.853 度」であり、三輪山の山頂は「北緯 34.53518 度、東経 135.86722 度」なので、この数字に従うなら神社からは北向きに 25 度程度の角度がなければ、山頂の方向を拝することにはならない。

では、鳥居の正面には何があるかというと、禁足地であり、その向こうから〈春分の日の出〉が昇り来るはずなのである。―― そしてさらには〝三ツ鳥居〟の中央の鳥居が〈春分の日の出〉に対応しているとするなら、左の鳥居は〈夏至の日の出〉、右の鳥居は〈冬至の日の出〉に対応しているということができるだろう。

つまり、大神神社は「日輪」に正対しているということができる。これは三輪山の山頂にあるという〈神坐日向神社〉の名称にも合致するようだ。


実はこの考え方は、すでに 45 年前に示されている。前回の最後にも触れた、小川光三『大和の原像』〔大和書房、1973 年 1 月 25 日 (p. 110) 〕では、この祭祀形態が、図を添えて解説されているのだ。


鏡作神社 / 纒向石塚古墳


三輪山の山頂を東南東の方角 19.82 度〔補正計算を加えた角度は 23.75 度〕に見るのが、磯城郡田原本町八尾816に鎮座する〈鏡作坐天照御魂神社〉―― 通称「鏡作神社」である。

繰り返しとなるがこの地域の北緯は約 34.5 度であり、前回も利用した国立天文台編集の『理科年表』によれば、北緯 34 度の立冬と立春の日の出は、南に 19.2 度の角度をもつ位置からとなる。

実は「鏡作神社」は近く ―― 方角としては北北西 ―― にもう一社あって、そちらは磯城郡三宅町石見650に鎮座する。この二社は道路地図上の直線距離を定規で測ってみると 1.5 ㎞ も離れていない。

石見の鏡作神社から桜井市太田253‐1の「纒向石塚古墳」へは東南東に 28.5 度の方角となっている。また、その延長した先には「三輪山の南側の峰 標高 326m 地点」があって、それは東南東に 29.04 度の方角なのだ。纒向石塚古墳から三輪山の南側の峰 標高 326m 地点へは、東南東に 29.97 度である。状況的に距離の短いほうが、角度が大きいとわかる。考えてみれば、山頂に近い位置で見ると、太陽が姿を見せるのはそれなりに日が高く昇ってからとなるので、山が近ければ冬の日の出も南側へとずれていくこととなるだろうけど、そういうことが関係するかどうかはわからない。

再度『理科年表』を参照しよう。北緯 34 度の冬至の日の出は、南に 28.0 度の角度をもつ位置からとなる。


※ 小川光三氏の『大和の原像』に掲載されている図「三輪山を頂点とする巨大な正三角形」(p. 40) では、夏至の日の出を望む〝神武天皇陵から三輪山の山頂に向かうライン〟とともに、〝石見の鏡作神社から三輪山の山頂に向かうライン〟が冬至の日の出の観測ラインとして、東南東に 30 度の角度で図示されている。また〝石見の鏡作神社から神武天皇陵に向かうライン〟のちょうど中央にあるのが、「多神社」である。多神社は、三輪山の山頂とほぼ同じ緯度にあり、多神社と三輪山頂を結ぶラインで正三角形を二分することになる。

ようするに多神社は三輪山頂を真東に見る位置に建てられている。それは春分の日の朝日を拝する場所なのだ。


○ 小川光三氏の著作から該当の記述を引用させていただこう。


『大和の原像』「三輪山の曙光」(pp. 39-40) 〕

日の出の山三輪山に昇る新年の朝日を拝む位置を設定するとすれば、山頂より冬至の太陽の出る方角、東南東三〇度の線を山頂から逆に求めることによって得られるわけだが、地図上の三輪山頂からこの方角、西北西三〇度を求めて線を引くと田原本[たわらもと]町石見[いわみ]の鏡作[かがみづくり]神社に至った。だがここでもまた大変面白いことは、この社の真南が又々先の多神社に当り、先の大きな三角形とシンメトリックに全く同形の三角形が出来ることである。この二つの大三角形を合せると、三輪山頂を東の頂点として大和平野に南北に並ぶ三個の斎きの場を西の底辺とした、角辺八・六キロにも及ぶ巨大な正三角形が現出するのである(図 ③)。では次にこの鏡作神社を尋ねてみたい。

鏡作りの名を持つ神社は、この石見の社のほかに図に示した如くほぼ固まって三座あり、この内で最も大きな本社格の社は、ここから約一キロ東南の田原本町八尾にある式内大社鏡作神社、正式には「鏡作坐天照御魂[かがみつくりにいますあまてるみたま]神社」である。このほか同町小坂にある鏡作麻気[まけ]神社と同町宮古にある鏡作伊多[いた]神社はともに延喜式内に名をとどめる古社であるが、かんじんの石見の社は延喜式にはその名を止めていない。しかしこの社の名前が正式には八尾の社と同じ鏡作坐天照御魂神社であることや、祭神も全く同じ三座であり(小坂・宮古の社は各一座)、距離もさほど遠くないことながから考えて、この石見の社は元来八尾の社と同一社ではなかったかと思うのである。こう考えると先の三角点から見て、もともと石見にあった鏡作社が何かの都合で八尾に遷座して、もとの社地を尊んで小祠を止めたものとして良いのではあるまいか。~~。


―― この文中にある(図 ③)が、「三輪山を頂点とする巨大な正三角形」と題された図で、正三角形のもうひとつの頂点をなす石見の「鏡作神社」の近隣に、「鏡作神社(八尾)」「鏡作麻気神社」「鏡作伊多神社」が配置されているものである。

下の配置図は、東を上にして描かれた(図 ③)を、北が上になるように 90 度回転させ、その概略を示したものだ。右側に掲げた数値表を見れば、〝B, C, D〟 の東経は、ほぼ一致していることがわかるだろう。

この配置図もまた正三角形で表現しているが角度は地図の下に設けた選択ボックスで確かめてみてほしい。

角度計算の初期設定は、〝神武天皇陵から三輪山の山頂へのライン〟としているけれど、この三角形の〝 C から A へのライン〟と重なって、〝神武天皇陵から初瀬山の山頂へのライン〟も、あまり変わらない角度なのである。


(「名称」の頭にある数字等は、一覧表を作る際の便宜に設けたもので、特に意味はありません。)

※ 三輪山を東の頂点とする、三角形の各辺の長さは、

各辺とも約 8.34 キロメートルであることが、計算上の値として得られる。

※ グーグルマップの距離測定サービスでの値を参照したところ、

それよりも若干長くて、各辺とも 8.4 キロメートル前後であった。


※ いずれにせよ、各辺の長さはかなりの精度で、同じであることに変わりはない。


  • 北に、磯城郡三宅町石見の、鏡作神社
  • 南に、橿原市大久保町の、神武天皇陵
  • 東側に、桜井市三輪にある、三輪山の山頂

このラインを結ぶ三角形は、見た目と同様、測定上もほぼ正三角形であるといえよう。

―― 次に、以下のことを再確認しておこう。


〇 纒向石塚古墳を基準点として、三輪山の山頂を望む方向が「立春」、三輪山の南側の峰(標高 326 m 地点)を望む方向が「冬至」の朝日にあたると、『神社と古代王権祭祀《新装版》』(p. 12) に書いてあった。

ここでまたまた『理科年表』を参照すれば、北緯 34 度の


立春・立冬の日の出は、南に 19.2 度

冬至の日の出は、南に 28.0 度


の角度をもつ、位置からとなっている。

次に用意したサンプルページの計算では、〔東西方向の長さに対して、cos35° ≒ 0.819152 の〕補正計算を加えない値が、それぞれ、


〈纒向石塚古墳〉から見る〈三輪山の山頂〉(立春・立冬)の日の出は、南に 19.68 度

〈纒向石塚古墳〉から見る〈三輪山の南側の峰〉(冬至)の日の出は、南に 29.97 度


の角度をもつ結果となっている。これは、参照数値と非常に近い値といえるだろう。


○ 大和岩雄氏の『神社と古代王権祭祀《新装版》』には、鏡作神社についての詳しい記述もあるので、上記の件も含め、以下に参照しておきたい。


『神社と古代王権祭祀《新装版》』「他田坐天照御魂(おさだにますあまてるみたま)神社」より〕

(p. 8)

太田の地から見る日の出の位置は、立春・立冬は三輪山々頂付近、春分・秋分は巻向山々頂付近、立秋・立夏は一本松付近(「一本松」と二万五千分の一の地図に記されているが、今は松はなく地名だけである。人の住まない峰の地名は、標識としての松があったことによるものであろう)、冬至は三輪山の南傾斜の隆起点(二万五千分の一の地図に標高点三二六メートルとある)付近、夏至は龍王山々頂付近である。

このように、太田堂久保の他田坐天照御魂神社の地は、山と太陽の位置関係を巨大な自然のカレンダーとして観測できる「日読み」の地である。

(p. 12)

一方、石塚から見た立春の朝日は三輪山の山頂から昇るが、石塚の中軸線は、図のように山頂に向いている。これらの事実からみて、石塚は「日読み」の構築物であることが推測できる。ちなみに、石塚の中軸線を延長すれば、八尾の鏡作坐天照御魂神社に至る。

石塚が箸墓[はしはか]古墳と関連した構築物であることは、多くの考古学者によって指摘されている。箸墓も含めて、当社の位置は広義の纏向遺跡の地といえるが、発生期の巨大前方後円墳を築造した権力者たちが、中国文明に無縁であったとは考えられない。そのことは、古墳の出土品からも証される。

(p. 13)

中国の暦法では、冬至は暦元といって暦法上の重要な基点であり、秦の時代までは冬至正月であったが、前漢の武帝の元封七年(紀元前一〇四)に太初元年と改め、立春正月にした。立春を正月とする思想が、いまわれわれの使っている二十四節気である。~~。この立春正月の暦法にもとづいて、石塚の中軸線は三輪山々頂に向けられたと推測されるが、くびれ部にわざわざ柱を立てたのは、やはり冬至が日祀りの原点として強く意識されていたからであろう。

~~。

「冬至」「夏至」は、右端と左端の位置から朝日が昇る日をいう。~~。冬至の日は、朝日が右の極限から昇る日であった。とすれば、その日に三輪山々頂から昇る朝日を拝する地は、重要な観測点、つまり「マツリゴト」の場であった。それが、次の項で述べる石見の鏡作坐天照御魂神社の位置である。

この天照御魂神社の位置に対して、他田の天照御魂神社は、立春とその前後に三輪山々頂から昇る朝日を拝する位置にある。当社はおそらく、日祀部の設置に伴って、立春の「マツリゴト」の場として創建されたのであろう。

〔以上『神社と古代王権祭祀《新装版》』「他田坐天照御魂(おさだにますあまてるみたま)神社」より〕

―― 上の引用文中では明らかでないけれどもここに転載させていただいた〈纒向石塚古墳〉の図について補足するなら、『日本の神々 4 』(p. 79) では、同じ図に「石塚古墳復原図(『天照大神と前方後円墳の謎』六興出版)」と説明文がついている。

いずれにせよ、上記引用文からも、この〈纒向石塚古墳〉は墓ではなく、祭祀用の構築物であったことが予想される。そして文中には〝鏡作坐天照御魂神社(八尾)-纒向石塚古墳-三輪山の山頂〟を結ぶ線は、ほぼ一直線上にあって、〈纒向石塚古墳〉の中心軸はそれに沿って設定されており、それは「立春・立冬」の朝日の昇る方角だと記されているのだ。


『神社と古代王権祭祀《新装版》』「鏡作坐天照御魂(かがみつくりにますあまてるみたま)神社」より〕

(p. 15)

「日読み」の地としての鏡作神社 鏡作坐天照御魂神社は、奈良県磯城[しき]郡田原本町八尾と、磯城郡三宅町石見にある。両地は、いずれも古代の城下[しきのしも]郡に属していた。『延喜式』神名帳では一座(大。月次新嘗)であり、この一座は八尾の鏡作神社の主祭神天照国照彦火照命に比定されているが、所在地の特殊性からみて、石見の鏡作神社の存在を無視することはできない。

この両社も、太田の他田坐天照御魂神社と同じく「日読み」の地にある。~~、八尾の社地から見て、ほぼ立春・立冬の日に、朝日は三輪山々頂から昇り、夕日は二上山の雄岳・雌岳の間の鞍部に落ちる。同様に、春分・秋分の朝日は龍王山々頂、夕日は標高点二一四メートルの山頂、立夏・立秋の朝日は標高点四三四・六メートルの山頂、夕日は信貴[しぎ]山々頂という関係になる。山名のわからない山は、国土地理院の地図の標高点で示したが、山名のはっきりしている三輪山・龍王山・二上山・信貴山は、いずれも大和国の人々が霊山と仰ぐ山々である。

これに対して、石見の地は、冬至・夏至の「日読み」の地であろう。そこから見ると、朝日は冬至に三輪山々頂、夏至に高峯山々頂から昇り、夕日は冬至に二上山鞍部、春分・秋分に明神山々頂、夏至に十三峠へ沈む(「山頂」と書いたが、現代人の「科学」的視点から厳密にいえば「山頂付近」である。だが、ここでは古代人の「祭祀」的視点から述べる)。

石見の鏡作神社の南方、石見地域に入る場所に石見遺跡がある。~~。

(p. 17)

この石見遺跡と鏡作神社の関係には誰もふれていないが、それは太田の他田坐天照御魂神社と、石塚をふくむ纏向遺跡との関係と同じであろう。石見遺跡も単なる治水・農耕祭祀遺跡でなく、「日読み」の祭祀遺跡と考えられる。

石見遺跡は五世紀後半のものであり、伊勢の王権祭祀の始まりも五世紀後半とみられている。おそらくこの時期に、中国の「天」の思想にもとづく「日知り」による「日読み」の祭祀が始まったのであろう。

しかし、中国の暦や天の思想を「日知り」としての古代王権の権力者が利用する以前から、倭人の「春耕秋収」のための「日読み」は行なわれていた。そのことは、石見の鏡作神社と三輪山々頂を結ぶ線上にある、弥生時代の代表的遺跡、唐古・鍵遺跡の出土物からもいえる。

鍵遺跡の弥生時代後期の祭祀用円形土壙(径約一メートル)から、土製の鶏の頭部が、他の祭祀用土器と一緒に出土している。鶏は日の出を予告する鳥だが、私は、この祭祀土壙の近くから三輪山々頂の冬至の日の出が拝せることを、昭和五十七年の冬至の日に確認した(当日は雨だったが、そ前日と翌日に、三輪山々頂から昇る朝日を見た)。三輪山々頂を冬至の日の出方位とする祭祀遺跡から、鶏の頭部が出土しているのは、弥生人の農耕祭祀の一面を語っている。「日読み」は祭祀であり、「日知り(聖)」にとっては「マツリゴト」であった。

石見遺跡では、鍵遺跡の祭祀と同じ冬至の祭を寺川の川辺で行なったのであろう。もちろん、石見遺跡のほうが三世紀以上も後だから、弥生人の「ムラ」の祭の「日読み」が「クニ」の祭になっている点はちがう。だが、祭祀の方法が旧習を伝えていることは、石見遺跡から出土した長さ約一メートルの鳥形木製品(四点)からもいえる。ちなみに、太田の石塚の周濠からも、他の祭祀用土器と共に、鶏形木製品が出土している。

「日読み」といっても、八尾と石見の鏡作神社については、三輪山々頂から昇る立春と冬至の朝日を拝する地にあることが重要である。

「日読み」とは農耕儀礼であり、農政であり、マツリゴトそのものである。太陽祭祀、つまり鏡作や他田の日祀りは、種まきなどの時期を知り、一粒を万倍にするマツリゴトなのである。~~。

〔以上『神社と古代王権祭祀《新装版》』「鏡作坐天照御魂(かがみつくりにますあまてるみたま)神社」より〕


● ここで、引用文中の次の角度を計算してみたい。


『神社と古代王権祭祀《新装版》』「他田坐天照御魂神社」(p. 8) 〕

太田の地から見る日の出の位置は、立春・立冬は三輪山々頂付近、春分・秋分は巻向山々頂付近、立秋・立夏は一本松付近(「一本松」と二万五千分の一の地図に記されているが、今は松はなく地名だけである。人の住まない峰の地名は、標識としての松があったことによるものであろう)、冬至は三輪山の南傾斜の隆起点(二万五千分の一の地図に標高点三二六メートルとある)付近、夏至は龍王山々頂付近である。


● 他田坐天照御魂神社から望む 朝日の角度


(夏至などの節気のあとの数値は 北緯 34° の日出入方位 / またカッコ内の数値は緯度による補正計算なしの値)


  • 夏至 + 29.3 °
  • ⇒ + 28.15 ° ( + 23.66 ° ) 龍王山
  • 立夏・立秋 + 20.5 °
  • ⇒ + 19.22 ° ( + 15.93 ° ) 一本松
  • 春分・秋分 + 0.6 °
  • ⇒ - 6.06 ° ( - 4.97 ° ) 巻向山
  • 立春・立冬 - 19.2 °
  • ⇒ - 25.33 ° ( - 21.19 ° ) 三輪山
  • 冬至 - 28.0 °
  • ⇒ - 37.87 ° ( - 32.5 ° ) 三輪山の南側の峰


ところで小川光三氏の『大和の原像』(p. 195) によれば、有名な〈箸墓古墳〉は、中心軸がいわゆる「斎槻岳」―― 標高 409 m の「穴師」基準点あたり ―― に向けて設定されている。そのラインをさらに延長していくと、桜井市笠にある「笠山荒神社北側 標高 503 m 地点」に到達する。


○ ここで、さらに『大和の原像』(p. 127) を参照するなら、


桜井文化叢書によると、「穴師塚(笠)・穴師神社はもとここにあったともいう」〔『大和の原像』(p. 127) 〕


と、書かれているのだ。すなわち、一説としてだけれど「笠」の地に〈穴師神社〉があったという。

そこは、〈都祁の国〉の入口に位置する。

小川光三氏はその少しあとで、都祁について考察するにあたって、「圜丘・方丘」という節 (p. 156) を設けているが、そこではまず、三国志の「魏書」にある〝景初元年(二三七)の条〟が紹介されている。


郊の字を辞書に求めると、天地のまつりの名とあって、古[むかし]は天子が冬至の日に天を南郊に、夏至には地を北郊に祀り、郊が都の外にあったので郊外の名が出たとある。夏至と冬至の祀りのことは二至の祀といい、記事の最後に二至の祀を南北の郊に於てす、とあるのがこれに当る。〔『大和の原像』(p. 156) 〕


―― このあとの記述で、天を祀る祭壇は丸く、地を祀る祭壇は四角だったと説明されている。円丘と方丘は、この場合、冬至と夏至の祭壇を意味するのだ。


そして纒向石塚古墳も箸墓古墳も、前方後円墳の形をしている。こうなればもう、見た目からしても、おそらくは冬至と夏至の祭壇と無関係ではなかろうと思われる次第なのである。


古墳の形状については、山陰地方に多い「四隅突出型」の墳丘墓というものもあって、

情報の多彩さに、いまのところ、圧倒されている次第 ――。


バックアップ・ページ