高天原より国家平定の霊剣フツノミタマの投下を受けた〔参照:『大系本 日本書紀 上』「神武天皇 卽位前紀戊午年六月」〕数か月のちの物語である。
○ 吉野の山中を進軍した神武天皇(神日本磐余彦天皇・神倭伊波礼毗古命)は、菟田の地からヤマトの軍勢を遠望していた。その一帯は大軍の充満した様子から、「磐余」と呼ばれるようになる。磐余野の西の方「葛城」との境に近い「畝傍山」の東南に造営された橿原宮で、神武天皇は即位した。日本書紀から、その場面を抜粋する。
[原文] 九月甲子朔戊辰、天皇陟彼菟田高倉山之巓、瞻望域中。時國見丘上則有八十梟帥。〔梟帥、此云多稽屡。〕 又於女坂置女軍、男坂置男軍。墨坂置焃炭。其女坂、男坂、墨坂之號、由此而起也。復有兄磯城軍、布滿於磐余邑。〔磯、此云志。〕
[訓み下し文] 九月の甲子の朔戊辰に、天皇、彼の菟田の高倉山の巓に陟りて、域の中を瞻望りたまふ。時に、國見丘の上に則ち八十梟帥〔梟帥、此をば多稽屡と云ふ。〕有り。又女坂に女軍を置き、男坂に男軍を置く。墨坂に焃炭を置けり。其の女坂・男坂・墨坂の號は、此に由りて起れり。復兄磯城の軍有りて、磐余邑に布き滿めり。〔磯、此をば志と云ふ。〕
ふりがな文) ながづきのきのえねのついたちつちのえたつのひに、すめらみこと、かのうだのたかくらやまのいただきにのぼりて、くにのうちをおせりたまふ。ときに、くにみのをかのうへにすなはちやそたける〔たける、これをばたけるといふ。〕あり。まためさかにめのいくさをおき、をさかにをのいくさをおく。すみさかにおこしずみをおけり。そのめさか・をさか・すみさかのなは、これによりておこれり。またえしきのいくさありて、いはれのむらにしきいはめり。〔し、これをばしといふ。〕
(頭注) 以下二〇二頁一二行まで、大和平定の話の第二段。いよいよ大和平野に入るべく、国見丘の八十梟帥、磐余の兄磯城・弟磯城との戦を前にして天神地祇をまつる。この祭りの話は記には見えない。
高倉山
奈良県宇陀郡大宇陀町守道にある山。大宇陀町松山の東南方にあり、標高約四四〇メートル、展望がよい。近世の検地帳に、この山の東西山麓に高倉の地名のあることを伝えている。
国見丘
古来諸説があるが、確実に比定すべき地がない。字陀郡大宇陀町と桜井市との間にある経ヶ塚山は、高倉山の西にあたってよく見える所なので、地理にはあう。国見丘の名を伝えていないが、国見をする丘の意味の普通名詞ともとれる。
女坂
通証に「在宇陀郡宮奥村西、界十市郡」とある。今、大宇陀町上宮奥付近か。
男坂
通証に「在宇陀郡半坂村西、界城上郡」とある。今、大字陀町半阪付近か。
墨坂
奈良県宇陀郡榛原町西方の坂で、大和中央部と伊勢を結ぶ要路上にある。崇神九年三月条に墨坂神・大坂神を祭るといい、雄略七年七月条分注に菟田墨坂神があり、天武元年七月条にも墨坂の地が見える。
磐余邑
➝補注3-一。
〔以上『大系本 日本書紀 上』「神武天皇 卽位前紀戊午年九月」 (pp. 198-199) 〕
➝「補注 3 巻第三 神武天皇」
神日本磐余彦天皇
神日本磐余彦天皇は、記に神倭伊波礼毗古命とある。神日本は美称。磐余は大和の地名。奈良県磯城郡桜井町・安倍村・香久山村付近(今、奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地)で、桜井町谷には磐余山がある。大和の平野部から宇陀の山地部に入る咽喉の位置にある。
〔以上『大系本 日本書紀 上』「補注 3 巻第三 神武天皇」 (p. 576) 〕
上の引用文(補注3-一)に、「磐余」は現在の「奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地」とある。また「磐余山」があるという。
○ その〝磐余山〟がある場所を調べてみた。桜井市谷に鎮座する〈石寸山口神社〉が、式内社の「石村山口神社」であるかもしれないと論じられたなかで、〝磐余山〟のことも言及されていた。その一部を引用する。
【所在】
〔A〕 石寸山口神社 櫻井市大字谷五〇二番地
〔B〕 山口神社 櫻井市高田、舊十市郡池上鄕
【論社考證】
ことにA社の方は用明天皇の磐餘雙槻宮の地と考へられてをり、その南の山はコモ山といふが、また磐餘山とも稱されてをり、A社を式内社と考へてよいやうにも考へられる。しかし、『磯城郡誌』『大和志料』はいづれも本社をA社とすることは否定してをり、A社を式内社と斷定することもできない。「イハレ」の地が櫻井市中部から橿原市東南部にわたる地域と考へられ、その地に續く山塊 ―― 多武峰山塊をも含むとすることは十分考へられるところであり、B社を式内社と考へる餘地も存するから今日ではいづれを式内社と斷ずることは困難といはざるを得ない。
〔(堀井純二)『式内社調査報告 3 』 (p.912, p.913) 〕
―― 一説に、この場合の「寸」は「村」を省略した字体であるともいわれていることを、追記しておこう。
さてここで、A社とB社のいずれが式内社であるか、という結論は保留されているけれど、〈石寸山口神社〉の南にある山が〝磐余山〟だということは、前段階(前提の段階)ですでに結論が出ている。
それに従えば、〝磐余山〟は〈石寸山口神社〉の南の〝コモ山〟のことである。2 万 5 千分の 1 の地形図に山頂の記号(三角点)が記されている個所だと特定できる。その三角点のすぐ南に「桜井小学校」がある。
調べてみたら、その基準点(三角点)の名称は〝桜井公園〟で、標高は 126.42 m であった。
前のページ(箸墓古墳:日輪の祭壇)で、神武天皇陵は畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)といわれるように、畝傍山の北東部に位置するのだけれども、その場所が定まったのは、ペリー来航の 10 年後にあたる幕末期、文久三年( 1863 年)だったのだということを書いた。
神武天皇陵の場所決定のいきさつは、各種文献に詳細があるけれども、ここで、その頃に整備された第四代までの天皇陵について、外池昇氏の『検証 天皇陵』を引用しつつ、その他のページも参考に簡単に紹介しておこう。
○ まずは「文久の修陵」に関する資料と「橿原神宮」の鎮座についての引用文から。
『文久山陵図(ぶんきゅうさんりょうず)』
文久二年(一八六二)閏[うるう]八月の宇都宮[うつのみや]藩主戸田忠恕[とだただゆき]による「山陵修補[さんりょうしゅうほ]の建白[けんぱく]」に端を発する文久の修陵における山陵の絵図。朝廷の御用絵師鶴澤探眞[つるさわたんしん]によって描かれた。
文久の修陵は、今日の宮内庁による陵墓管理の原形を形作ったものと位置づけられるが、それに至るまでには各天皇陵に巨額の費用をかけての大掛かりな普請が繰り広げられた。『文久山陵図』はその大規模な普請以前の様子を「荒蕪[こうぶ]」図として、普請が完成した後の様子を「成功[せいこう]」図として両者を対比させているのが特徴的である。本書に掲げた『文久山陵図』のうち「荒蕪」図と「成功」図をともに載せた例を一覧すれば、文久の修陵における普請で何がなされたかが一目瞭然である。墳丘は整備され、鳥居をしつらえた拝所が新設され、陵全体が天皇による祭祀の対象、つまり侵すべからざる聖域とされたのである。
〔『検証 天皇陵』 (p.30) 〕
明治二十三年(一八九〇)四月には、神武天皇陵の隣地に神武天皇・同皇后媛蹈鞴五十鈴媛命を祭神とする橿原神宮[かしはらじんぐう]が鎮座し、昭和十五年(一九四〇)の紀元二六〇〇年に至るまで神武天皇陵は拡張・整備が続けられた。
〔同上 (pp.34-36) 〕
文久の修陵では、文久三年 (1963) に、神武天皇陵が定められた。同じく文久の修陵で、第三代安寧天皇陵と、第四代懿徳天皇陵が修補されている。
明治十一年 (1878) に、第二代綏靖天皇陵が定められた。
いずれも〝畝傍山〟にある。それぞれの所在地をリスト形式で書けば、次の通り。
神武天皇が即位した「橿原宮」も畝傍山にあったと伝承される。―― 古事記には「畝火の白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」〔『大系本 古事記』(p. 161) 〕とある。この「白檮原」について『大系本 日本書紀 上』の頭注 (p. 213) に解説があって、「先年の発掘によって、この地に昔白檮の林のあったことが確認された」と記されている。
○ 万葉集に「橿原の日知の御世」と、歌われている。万葉の時代から「聖」は「日知り」のことであった。
❶ 天皇のことをさす。
「玉だすき畝傍[ウネビ]の山の橿原の日知[ひじり]の御世ゆ」(万二九)
「掛けまくも畏き飛鳥の浄御原の宮に大八洲知ろしめしし聖[ひじり]の天皇命」(九詔)
「茜[アカネ]さし天[アマ]照る国の日の宮の聖[ひじり]の御子ぞ」(続後紀嘉祥二年)
❷ 聖人君子。すぐれた人や仙人などをさす。
「酒の名を聖[ひじり]とおほせしいにしへの大き聖[ひじり]の言[コト]のよろしさ」(万三三九)
【考】 ヒは日、シリは領知する意のシルの名詞形であろう。日を知る者の意で天皇をさす。「聖」の字に応ずる訓としても用いられた。
〔『時代別 国語大辞典 上代編』 (pp. 610-611) 〕
―― 万葉集(二九)の歌についての解説を注釈本で参照してみよう。
玉たすき 畝傍の山の
橿原の 聖[ひじり]の御世ゆ〔或ハ云フ 宮ゆ〕
あれましし 神のことごと
栂[つが]の木の いやつぎつぎに
天の下 知らしめししを〔或ハ云フ めしける〕
天[そら]にみつ 大和をおきて
…………
【口譯】 畝傍の山の橿原の地にましました、英明な神武の御世より〔或ハ云フ、宮より〕 お生れになつた歷代の天皇方が、つぎつぎに天の下を治めてをられたのを、〔或ハ云フ、治めてをられた〕 大和の地をさしおいて、~~。
【訓釋】 ~~。
橿原の聖の御世ゆ ―― 橿原は畝傍山の東南麓、今の橿原市畝傍町のあたり。神武紀に「觀夫畝傍山東南橿原地者、蓋國之奥最中墺[モナカ]區乎。可治之[ミヤコツクルベシ]」とある。古事記には「坐畝火之白檮原宮治天下也」とある。「ひじり」の語については考に「日知てふ言は、先月讀命は夜之食[オス]國を知しめせと有に對て、日之食國を知ますは大日[ヒル]女の命也、これよりして天つ日嗣しろしをす御孫の命を日知と申奉れり、」とあるが、全註釋には「ヒジリは、日知と書いてあるのが語義であつて、日を知る人の謂なるべく、古代、農耕の上に曆日を知る人を尊んで言つた語と考へられる。曆のことをヒヨミといふは、日を數へる義であり、月のことをツクヨミといふも、月數を數へる義であつて、共に農耕の生活から來た語であり、日知も同樣の造語であらう。しかしながら漢字の入り來るに及んで、その聖の字の訓として用ゐられ、聖の字の意味に習合した。」とあるに從ふべきであらう。~~。
〔『萬葉集注釋』卷第一 二九 (p.253, p.255) 〕
○ 今回は、神武天皇の皇后のことも、最後に触れておきたい。
[原文] 九月壬午朔乙巳、納媛蹈韛五十鈴媛命、以爲正妃。
辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮。是歲爲天皇元年。尊正妃爲皇后。
[訓み下し文] 九月の壬午の朔乙巳(二十四日)に、媛蹈韛五十鈴媛命を納れて、正妃としたまふ。
辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に卽帝位す。是歲を天皇の元年とす。正妃を尊びて皇后としたまふ。
(ふりがな文) ながづきのみづのえうまのついたちきのとのみのひに、ひめたたらいすずひめのみことをめしいれて、むかひめとしたまふ。
かのとのとりのとしのはるむつきのかのえたつのついたちのひに、すめらみこと、かしはらのみやにあまつひつぎしろしめす。ことしをすめらみことのはじめのとしとす。むかひめをたふとびてきさきとしたまふ。
〔『大系本 日本書紀 上』「神武天皇 卽位前紀庚申年九月-元年正月」 (p. 213) 〕
―― 上の引用文では省いたけれど、神武天皇の正妃は、「事代主神(ことしろぬしのかみ)」の子である。事代主神は、国譲りの神話に登場する、オホクニヌシ〔大己貴神(おほあなむちのかみ)〕の息子だ。
ここで再確認すべきは、いわゆる出雲神話によればオホクニヌシのサキミタマ・クシミタマ(幸魂・奇魂)は、オホモノヌシであって、つまり古事記に「御諸山(三輪山)の山の上に坐[ま]す神」と記述されている神に同じ、ということだ。
三輪山の山頂に坐す神オホモノヌシは、オホクニヌシのミタマ、なのである。
そして、第二代綏靖天皇の母は「媛蹈鞴五十鈴媛命」と、日本書紀に書かれている。つまりそれは、〈神に坐す(ミワニマス)〉オホクニヌシの神の子孫でもある、ということなのだ。
以下、引用・参照文献の情報