一〇八七
(あなしがは かはなみたちぬ まきむくの ゆつきがたけに くもゐたつらし)
一〇八八
(あしひきの やまがはのせの なるなへに ゆつきがたけに くもたちわたる)
右二首柿本朝臣人麻呂之歌集出
〔『万葉集 本文篇』(p. 152) 〕
地名の「あなし」は日本書紀に「穴磯邑」と記録されている。穴師の地を通過して「初瀬川(大和川)」に合流する「纒向川(巻向川)」は「穴師川」ともいわれる。
○ 日本書紀で、「穴磯邑」は垂仁紀に登場する。〈アナシ〉とはそもそも何か?
[原文] 時天皇聞是言、則仰中臣連祖探湯主、而卜之。誰人以令祭大倭大神。卽渟名城稚姬命食卜焉。因以命渟名城稚姬命、定神地於穴磯邑、祠於大市長岡岬。
(頭注)
穴磯邑
大和国城下郡の地。延喜神名式に穴師坐兵主神社のある所。今、奈良県桜井市穴師。
[訓み下し文] 時に天皇、是の言を聞しめして、則ち中臣連の祖探湯主に仰せて、卜ふ。誰人を以て大倭大神を祭らしめむと。卽ち渟名城稚姬命、卜に食へり。因りて渟名城稚姬命に命せて、神地を穴磯邑に定め、大市の長岡岬を祠ひまつる。
(ふりがな文) ときにすめらみこと、このみことをきこしめして、すなはちなかとみのむらじのおやくかぬしにみことおほせて、うらふ。たれをもてやまとのおほかみをまつらしめむと。すなはちぬなきわかひめのみこと、うらにあへり。よりてぬなきわかひめのみことにみことおほせて、かむどころをあなしのむらにさだめ、おほちのながをかのさきをいはひまつる。
〔日本古典文学大系 67『日本書紀 上』(pp. 270-271) 〕
The End of Takechan
① 芝居茶屋の使用人で、茶屋の主人の代わりに劇場内の見物席の割り当てをする役の者。穴役。……
② 汲み取り口などから忍び入る盗人をいう、盗人仲間の隠語。
① 兵庫県姫路市飾磨(しかま)区、市川河口の阿成(あなせ)付近の古称で、穴師神社所属の民戸が多かったため呼ばれた。古く穴師(穴旡・穴無)郷が置かれた。
② 大阪府泉大津市我孫子(あびこ)付近の旧称。泉穴師神社がある。痛脚(あなし)。……
③ 奈良県桜井市の地名。垂仁、景行両天皇の皇居があったところ。巻向山に発し、三輪山の北を流れる痛足川(あなしがわ=巻向川)がある。痛背(あなせ)。……
「あなぜ」に同じ。《季・冬》……
「あなぜ」に同じ。 *一目玉鉾(1689)四「二柱の神の御子蛭児(ひるこ)と申せし今戎(ゑびす)とぞあがめける、北西穴師(アナシ)風に汐掛りよし」
[方言]
❶ 北西の風。 島根県隠岐島 725 八束郡 844 山口県豊浦郡 844 愛媛県 840 越智郡 844
❼ 冬の季節風。 島根県仁多郡 725
西北の風が吹いて、雨雪などを催す気配をいうか。……
奈良県桜井市穴師にある神社。旧県社。祭神は兵主神、若御魂(わかみたま)神、大兵主神。垂仁天皇二年の創祀と伝える。大和五社の一つ。大兵主神社。穴瀬明神。
〔『日本国語大辞典 第二版』 第一巻 (p. 461) 〕
「かぜ(風)」の古語。他の語と複合して用いた。「嵐(あらし)」「旋風(つむじ)」「風巻(しまき)」「級長戸(しなと)」など。
[語源説]
⑴ 風の吹く音から〔日本語源=賀茂百樹〕。
⑵ 風の別称チの転〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。
〔『日本国語大辞典 第二版』 第六巻 (p. 427) 〕
The End of Takechan
㉕ 炭焼き窯に空気を入れること。 新潟県岩船郡 366 和歌山県日高郡「あらしをおふ時が大切だ」054 《あらしかけ》 山形県 139
㉖ 炭焼き窯の穴。通風口。 《あらせ》 岡山県真庭郡 747 《あらしまど〔あらし窓〕》 青森県上北郡 082 《あらしぐち〔あらし口〕・あらせぐち》 高知県土佐郡 866
〔『日本方言大辞典』(p. 115) 〕
○ 上記、方言辞典の記述の典拠となった原資料で、確認できたものをひとまずここに記録しておこう。
炭焼きの時の風を入れる。
〔新潟県の郷土と民俗『高志路』(通巻 第 221 号)(p. 2) 〕
嵐窓、炭やき竈の後方の煙出し口、これの開閉によりて燒加減を調節するのである。
〔中市謙三/著『野邊地方言集』(p. 6) 〕
炭 燒
まず、この村で単にカマと呼べば炭窯をさして言ったもので、窯のある場所をカマトコと言い、窯の底に当る部分をシキと呼んでいて、最初の窯を造ることをカマウチあるいは「ドバを打つ」と言っている。
シキの周囲に石と土あるいは土のみで腰を築く。これをヘリあるいはドイと言い、石のものを石ドイ土で造るものをシメドイと呼んでいる。ドイを築かず山の斜面を切拔いて造る窯の様式を普通キリヌキというが、これは現在見受けられない。ドイが出来上るとこれに沿うてドイギという三尺余の炭材を立て、ナカスと言って周囲から順次中高にドイの内一ぱいに間隙なく立てならべ、この上に小[こ]タンバという五六寸の木片を動かぬように一面に立て、さらにその上に小タンバより少し長めの木片すなわち大タンバをならべ、これに藁か柴かを載せ、最後に赤土を厚く盛って「天井上げ」と呼んでカケヤ(大木槌)で强くたたきつけ、さらにその上を木ゴテで固め上げる。
ドイの一方に窯の口があり、口の両側には柱石を立てその上にヒタイ(額)石を渡す。この口は点火後土でふさぎ、その下方のみを少し開けて窯外の風の通うようにしておく。これをアラセグチあるいはアラシグチと呼んでいる。
窯の大きいものは奥行一丈、横一丈一尺五寸、製炭量三十五俵程度、小さいものは奥行六尺横八尺、製炭量十二俵程度のものである。天井には窯の奥の端に当る所に煙道を開き、これを普通にケドあるいはお大師(孔)、弘法(孔)などと呼んでいる。このケドの他に補助煙道として底より天井にまでぬき出ている煙道、すなわち底バイが後方左右に一つづつ、天井にのみ開いた煙道すなわち天バイが窯口に近く左右に一つづつある。窯の形の口に至って尖っているものにはキツネグチ(狐口)の名称がある。
〔桂井和雄/著『土佐山民俗誌』(pp. 157-158) 〕
○ 鳥取県の方言も、一応、関連項目を調べてみた。
〔地〕= 地域
鳥 鳥取市
米 米子市
境 境港市
倉 倉吉市
岩 岩美郡
八 八頭郡
気 気高郡
東 東伯郡
西 西伯郡
日 日野郡
北西の風。夏や冬に沖から吹く風。
〔地〕米・境
南風。夏の涼風。
〔地〕岩・八・東
〔森下喜一/編『鳥取県方言辞典』(p. 19, p. 42, p. 46) 〕
―― これらの資料から、「あなし」と「あらし」は、そもそもは同義語であって「新しい風・あらたな風」を「アラシ」と呼び、それが転訛して「アナシ」となったとも考えられるのである。
またいつの時代も、〝新しさ〟に内在する〝破壊をもたらす荒々しさ〟が必然として、表面化してくることもあったろう。すなわち古来「アラ」は「新」でありかつ「荒」でもあったと、推察が可能なのだ。そして、そのひとつの象徴が、日本神話でスサノヲという神に結晶したとしても不自然ではない。
では、穴師坐兵主神社(あなしにますひょうすじんじゃ)の鎮座する「穴師」には、どのような意味合いが含まれるのであろうか。どうやら、諸説あるようなのだが。
The End of Takechan
三輪山頂の、ほぼ真北に夕月岳があるけれど、かつてはそこに穴師坐兵主神社があったともいわれる。
―― 冒頭に引用した万葉集の、
痛足河 河浪立奴 巻目之 由槻我高仁 雲居立良志
(あなしがは かはなみたちぬ まきむくの ゆつきがたけに くもゐたつらし)
に歌われた、「痛足河(あなしがわ)」と「巻目(まきむく)」から展開する「由槻我高(ゆつきがたけ)」の所在地は一説に、三輪山の北の方角ではなく、三輪山の東北東に位置する初瀬山との間にある巻向山の山中だとも唱えられていたようなのだけれども、現在は基準点名「穴師」の三角点が設定されているすなわち「穴師山」の山頂を〈夕月岳〉とするのが正しいように思われる。
そんなこんなで「あなし」の名称とともに「ゆつきがたけ」の場所について現在の定説・通説がどうなっているのか、いろいろ調べてみたのだけれど、結局のところよくわからなかったので、とりあえず検証に使用した資料の内容を以下に列挙しておくこととしたい。
○ まずは、式内社調査報告書から参照する。
(梅田義彥)
(p. 562)
【社名】 延喜式神名帳九條家本には、「穴師」に「アナシ」の訓があり、同金剛寺本・吉田家本には、「アナシノ」と訓があり、かつ金剛寺本には、〔名神大。月次新嘗。〕 とあつて相嘗がないが、延喜四時祭式下、相嘗祭七十一座のうちには、穴師社が見えてゐるから、金剛寺本は、これを脱したのであらう。「アナシニマスヒヤウズノカミノヤシロ」と訓むベきである。〔祭神〕の項參照。
【所在】 櫻井市穴師[あなせ]町一、〇六五(もと磯城郡穴師村→同郡纒向村大字穴師一、〇六五)に鎭座(穴師坐兵主神社明細帳)。國鐵櫻井線纒向驛より東方二キロメートル、卷向山麓、卷向川の北側に位置する。この地は、和名抄にいふ大和國城上郡大市鄕に屬する。穴師は、一に穴磯・痛足とも書く(日本書紀、萬葉集)。卷向山は卽ち穴師山で、山中より發する卷向川は穴師川(痛足川)ともいはれ、西流して初瀬川(大和川)に入る。〔由緒〕の項に詳述すやうに、當社の今の鎭座地は、もと「138 穴師大兵主神社」の鎭座地で、當社はこれへ合祀されたものであるが、その卷向山中の舊址は、平野山であるとの說もあるが、詳らかにしがたい(志賀剛『式內社の硏究第二卷』)。
【祭神】 兵主神を祭る(穴師坐兵主神社明細帳)。「穴師」は地名、名義については諸說紛々、一に强風のことであるといふ。「兵主」は、『史記封禪書』に「兵主、祠蚩尤」とあつて、軍戰を司る神である。この語をもつて我が國の軍神を稱したものであるが、これには歸化族の關與が考ヘられるとともに、その斥すところは、けだし、八千矛神(八千戈神)・葦原色許男神(葦原醜男)と稱せられた大國主神であらう。有名な近江國野洲郡の兵主神社(式內社、元県社)も大己貴命を祀つてゐる。……
(p. 563)
【由緒】 社傳によれば、垂仁天皇二年の鎭座といふ(穴師坐兵主神社明細帳)。天平二年(七三〇)神戶の租稻一、四三六束をもつて、神祭、神嘗酒料に充てられ(『正倉院文書』)、大同元年(八〇六)大和・和泉・播磨の地で五十二戶を神封に充てられた(『新抄格勅符抄』)。…… もと當社は、上下二社に分れ、卷向山中に在つた上社が穴師坐兵主神社、下社が穴師大兵主神社であつたが、應仁の頃、上社が燒失したので、これを下社に合祀した。またその頃、同じく卷向山中に在つた卷向坐若御魂神社も下社に合祀せられた。すなはち穴師大兵主神社に合祀せられたのである。……
(梅田義彥)
(p. 640)
【社名】 延喜式神名帳九條家本・同吉田家本にはいづれも訓を缺く。同金剛寺本には、「兵主」に「ヒヤウスノ」の傍訓がある。けだし「アナシノオホヒヤウズノカミノヤシロ」といふべきである。
【所在】 和名抄にいふ城上郡大市鄕の內。……
【祭神】 「兵主神」は、「120 穴師坐兵主神社」で述べたやうに、軍神としての大國主神を斥すと考へられ、この「大兵主神」は、けだし同神の祖神素戔嗚尊をいふのであらう(穴師坐兵主神社明細帳の末社<相殿>大兵主神社の項には、祭神を「大兵主神」と記す)。さればこそ穴師坐兵主神社を穴師上社、當社を穴師下社といつて、親緣ある兩社とせられたのであらう(『特選神名牒』參照)。『大和志料』には、天鈿女命を祭るとしてゐるが妄說である。
【由緒】 當社の鎭座年代は詳らかでない。……
〔『式内社調査報告 3 』より〕
○ 上記引用文中に「卷向山は卽ち穴師山で、山中より發する卷向川は穴師川(痛足川)とも」いわれるとあるのだが、この他にも ―― 三輪山麓から穴師坐兵主神社が祀られている現在の地域「穴師」について ――『大神神社史』に論述されているので、次にその個所から参照したい。
( ※『大神神社史』第一章のタイトルは、目次では「神体山信仰の考古学的背景」となっている。)一、神体山三輪山
(p. 7)
一方、この角閃斑糲岩中に含まれるチタン鉄鉱や磁鉄鉱の結晶体は、他の母岩の風化の中で独り残って黒色の粒状となって、山麓土壤中に散在し、ときには流水に流されて比重の重さから一ケ所に集結して砂鉄状になって発見される。いわゆる漂沙鉱床であって、これを集め硅砂と熔解すると、砂鉄と同じく製鉄を行なうことが可能である。硅砂は花崗岩中の石英砂が、初瀬川、巻向川の河床に層状に堆積しているからその採集は容易である。この事実が、おそらく、三輪山麓の弥生文化期遺蹟から、製鉄用のタタラの火口や、タタラ壁が多く発見されて、この地で鉄精煉が行なわれたことが実証される、その鉄精煉の原料となったものと想像される。弥生時代から古墳時代にかけて、この付近は古代文化の一拠点があり、それが四世紀の世に言われる三輪王朝に成長したものとすれば、その原動力の一には、この三輪山麓の鉄工業の発達があったことが想われ、中世の金屋鍛冶にまで及ぶ極めて重要な事実を暗示するのである。三輪山の祭神大物主神は、三輪山の水に関連して蛇神であり、農業神であるとされる反面、この神を八千矛神とよんで武神であるとも信じるのは、三輪の地の持つ鉄文化との関連が考えられてよいのではなかろうか。
穴師・金屋
(p. 576)
穴師は桜井市大字。三輪山北方、溪谷に立地する。式内社大兵主神社の鎮座地である。保延六年(一一四〇)の吉野山金峰山寺梵鐘銘にも、「大和国式上郡内穴師庄」と刻んでいる。
「兵主」の名を冠した神社は、式内社では大和国以外に和泉・三河・近江・但馬など、約二〇社を数える。兵主の語は『史記』にもみえ、外国の神、すなわち漢名であるともいわれている。しかし、日本固有の神でも、雨師神・竜神というように「兵主」も漢名であってもよく、わが国固有の武神で、軍人・兵庫の関係者によって鎮祭された守護神とする説が有力である。
(pp. 577-578)
大兵主神社二社の祭神は、大国主命・天富貴命・建御名方命・広田大明神で、すべて軍神的性格をもった出雲系の神である。出雲も砂鉄の産地として著名であり、製鉄・鍛刀の盛んな国で、簸川[ひのかは]の霊剣(草薙剣)説話はその事実を裏書している。すなわち、大和の穴師は、鋳金の技術にすぐれ、穴師部が居を占め、武器の神・兵主の神を祀った。
穴師川上流、俗称「ドロコ」に廃坑があり、今なお「カネホリバ」とよんでいる。明治四一年の陸地測量部地図にも鉱山の記号を付し、事実、穴師神社付近に廃坑が残っていて、明治末年には石英が盛んに採掘されたという。「口[くち]の白山」・「奥の白山」の地名が示すように、巨晶花崗岩が多く、石英から磁器(電気用)を製造し、大正年間、工場には数十人の労働者がつとめていたといわれる。
後、渡来系の技術者の文化を摂取した結果、外来的武神名「兵主」が社名として用いられるようになった。三輪山の東南には出雲の村名が遺存し、金屋村には鋳金技術に熟達した人々の居住していたことが考えられる(奥野彦六著『律令制古代法』)。
なお、アナセ(東南の風)の吹く地域の称呼とする説もあり、毎年九月一日(二一〇日)には同区民が風の神、竜田神社に参拝するという遺習がある。沖繩県にも南風原[はえばる]、東風[こちんだ]平などの村名があり、前者は南風、後者は東風の吹く地である。また、穴師は三方が丘陵に囲繞された地域を指す形状地名となす説もある。つまり、穴に伏すという谷間集落で、北葛城郡香芝町大字穴虫も同義の地名であろうか。『続日本紀』天平一五年(七四三)九月の条、および永禄五年『臥雲日件録』にも「大坂沙」(金剛砂)の産地であることを記している。
〔『大神神社史』より〕
◉ 昭和 11 年 (1936) は今年 2018 年の 80 年以上前なのだがその年に発行された、勝井純著『日本の歷史の根源』という本があって、その序説にこう述べられている。
長谷[はせ]こそは日本神話の發源地であり、日本歷史の根源なのである。
つまりこの書では日本神話ないしは日本の歴史上の文化というか記録の発祥の地を、奈良県の桜井市にある長谷寺近辺と前提して論が進められるということになる。で、その論述中で「穴師塚」に関する記録、考察などはとても参考になったのである。
○ この本のタイトルは、目次では「日本歷史の根源」となっているのだけれども、題字その他の文章中では「日本の歷史の根源」となっている。以下『日本の歴史の根源』と表記する。
下の図は、その口絵写真の一枚である。
口絵写真「穴師塚(穴師坐兵主神社の舊鎭座地)」
〔『日本の歴史の根源』より 口絵 (p. 45) 〕
長谷[はせ]こそは日本神話の發源地であり、日本歷史の根源なのである。それ故に長谷[はせ]の土地さえ明になれば、日本の上古史も明かとなり、古の笠縫邑[かさぬひのむら]の位置及び同地に天照大神を祀[まつ]らせられた理由等の如きも亦自然明瞭[しぜんめいれう]となるのである。だから長谷[はせ]の硏究は、即ち我國の上古史の硏究であり、其神秘を、其謎[なぞ]を解き得る鍵[かぎ]であらねばならぬ。
穴師の社に就いては、
大和志料
穴師坐兵主神社、纒向村大宇穴師ニアリ。…… 但、從來穴神社ト稱スルモノニ兩社アリ、一ハ上社[カミノヤシロ]ト稱シ、本弓槻嶽[モトユヅキガダケ]ニアリ、志ニ之ヲ以テ穴師大兵主社トスルハ誤レリ。弓槻ノ上社ハ即チ名神大社ノ穴師坐兵主神社ナリ、一ハ下社[シモノヤシロ]ト稱シ、今ノ穴師坐兵主神社ノ地ニ在リシモノ、是即チ穴師大兵主神ナリ。然ルニ應仁ノ亂ニ弓槻ノ上社〔卽チ穴師坐兵主神社〕燒失後、其ノ神體ヲ下社ナル大兵主社ノ相殿ニ遷[うつ]シ祀リシヨリ遂ニ下社ヲ穴師坐兵主神社ト稱シ來リ以テ、現今ノ如クナレルモノナリ。……
…………
…… 古來の諸說孰れも、上の社即ち穴師坐兵主神社は、最初現在の鎭座地の東方に聳ゆる和歌で有名な弓槻[ゆづき]嶽に鎭座されたのであるとし、大和志料は、纒向山の峰を弓槻嶽と稱し、長谷山に連なつてゐるから、長谷の弓槻嶽とも古歌に詠まれてゐるのである。南を檜原山と云ひ、三輪山[みわやま]に連なつてゐるので、三輪の檜原とも云はれてゐる。そして纒向山の西の小山は珠城[たまき]山で、北は穴師山であると云ひ、山邊郡誌は、
弓月嶽〔一名引槻〕舊跡幽考、大和名所圖會ハ纒向山ト云ヒ、八雲御抄ハ初瀬ナリト云ヘドモ恐ラクハ誤ナラン。本大字(山邊郡丹波市町大字藤井)ノ古帳ニ龍王山即チ十市山ノ南ヲ弓月ト云ヘリ。
…………
等と記してゐる。何れも、弓槻嶽一帶の高地が古の長谷の地域內[ちゐきない]であることを知らざるが故に、かうした說を立てたもので、弓槻嶽は二つある譯ではなく、山邊郡誌云ふところの山邊郡丹波市町大字藤井の龍王山の南に連なる山の峰である。……
弓槻嶽は磯城郡上之鄕村大字笠の荒神山に連なつてゐる。所謂山續きである。位置、大和平野を西近く脚下に俯瞰[ふかん]し、東眞正面に金ケ平、眞平、中岳の三山を仰望し得る景勝の地である。
上之鄕大字笠の穴師塚は、荒神山の西約數町の地點にあつて、磐境の跡歷然[れきぜん]として現存してゐる。其の西の山の側面に、古から土地の人達が月の輪と稱してゐるものが、時に現はれ、時に消滅する。それは、直徑約十數間、時には直徑約數間位の、時に依つて大小を異にするが、圓形を描[えが]いて、其の場所だけが薄黑くなり、時々移動するのである。かうした現象は此處だけではなく、同村大字白木の地內である中岳附近の西に向つた山の側面にも現はれる。これは大字笠の月の輪よりも稍々大きい。
…………
穴師坐兵主神社の祭神は、旣記の如く素戔嗚尊であることは確實だから、此の神の磐座[いはくら]の所在地なるが故に嵐「アラシ」の宮と稱へたのを、後、轉訛[てんくわ]して「アナシ」と呼ばれ、これにあつるに穴師の文字を以てしたために遂に、天鈿女命の神話と結びついて、本末を轉倒するに至つたのであらうと想像される。……
右の月の輪の現はるゝ山に、「タニハ塚」或は「タンバ塚」と稱する處がある。さながら圓墳のやうな形狀で、大字笠には昔から、
「笠[かさ]が立たねば丹波塚堀りやれ」
と、唱つてゐる民謠がある。……
〔『日本の歴史の根源』(p. 2, p. 456, pp. 469-471, pp. 474-475) 〕
※ 勝井純氏の『日本の歴史の根源』の口絵 45 ページに掲載された写真は三点あって、ページ最上部に〝磯城郡上之郷村大字笠〟の標題のもと、上段に「弓槻ケ嶽の千畳敷」、中断に「穴師塚」、そして下段には「丹波塚」の写真が配置されている。これらの写真の撮影場所は、本文の 498 ページと 499 ページの間に綴じ込まれた「磯城郡上之鄕村 大字笠平面圖」に記載がある。
―― ここで確認事項として、
ということが、上記引用文の記述内容から理解できることを、注記しておこう。つまりは「穴師塚」と「丹波塚」は東西に並んで位置することがわかるのである。
そういう撮影ポイントを「磯城郡上之鄕村 大字笠平面圖」に求めると、図の左側下方に「ヨコマクラ」の記載があって、その地域の東と西に「寫眞撮影地」のマークがつけられていることが確認できる。それは、この「ヨコマクラ」のあたりに「穴師塚」があるのではなかろうかという、ひとつの可能性を示唆する。
ところで、国土地理院の
で検索した、
笠山荒神社北側の三角点座標 (34.570085, 135.887044) 基準点名「藤井」標高 540.85 m 地点を、
上で確認すると、住所データとして〝奈良県天理市上仁興町(付近の住所。正確な所属を示すとは限らない。)〟と表示される。―― のであるが。
(URL : http://meta01.library.pref.nara.jp/opac/repository/repo/search/300/?lang=0&cate_schema=300&mode=0&codeno=3 )
で、絵図検索にて「陸地測量部地図」と入力すると「大和平野條里図」がヒットする。それをクリックして、複数に分割して表示された画像の左列の上から二番目の図を選択し拡大してみると、地図の右の欄外に「白石」と表記されている少し下のあたりなのであるが、地図内に〝上之郷村〟と書かれた文字が見え、さらには少し小さな字で、その東北方面に〝笠〟および〝庄中〟と記されおり、反対側の北西には〝藤井〟の表示がある。そしてその〝藤井〟から、北東に辿っていくと、〝539.7〟の数字が確認できる。
おそらくはこの数字の場所が、基準点名「藤井」標高 540.85 m 地点、を示しているものと思われる。
さて、上記の〝上之郷村〟という地域の名は地図上に右から書かれており、ようするに書かれた字の一番左は〝村〟なのだけれど、〝村〟の文字のちょうど左側に〝500〟と〝510〟の数字が書かれているのが容易に見て取れるのである。
―― さらにその〝510〟の数字から、等高線の間を南南西に辿っていけば、もうひとつの〝500〟という数字を発見できるのだがその〝510〟から〝500〟に下っていく斜面が、『奈良県史跡名勝天然記念物調査抄報 第五輯』に報告が収録されている、末永雅雄氏の調査になる「磯城郡上之郷村大字笠字横枕 火葬墳墓」遺跡の発掘現場に該当すると推察されるのである。
● ここで、「横枕火葬墓群」発見の記録を参照しておこう。
出土 昭和九年
調査經過
標高約五百-五百十米の位置にあり、小丘陵が起伏して全くの山村である。四十度前後の南面傾斜地の開墾に際していろいろの方法で埋めた火葬墳を検出した。その最初は昭和九年一月上旬、私が現地を検したのは三月十九日であつた。……
〔『奈良縣史跡名勝天然記念物調査抄報 第五輯』(p. 19) 〕
◎ この報告書の本文の前ページ (p. 18) に、等高線の描かれた地図が掲載されていて、標高 500 m から 510 m に向かう斜面の途中に ⚫ 印が東西に並んでふたつ記入されており、西側が「調査墳墓」で東のものは「木炭槨式墳墓」と記されている。
―― この付近の、標高 500.5 m 地点の座標 (34.556720, 135.884930) を「横枕 火葬墳墓」と仮定しよう。
The End of Takechan
◉ ヨコマクラというキーワードから、「横枕火葬墓群」の北東の山の峰 ―― すなわち標高約 510 メートル地点の山頂 ―― が「穴師塚」ではないかと、いまのところ考察の流れが展開しつつある感じなんだけれど、ちょっとまった、実はそうではなく「穴師塚」は「横枕」の西の峰であるとする、
「ふうん、横枕の先の方やと穴師塚やな」
と語られた、古くから上之郷の笠地区に住む人の言葉が記録された文献があるのだ。
―― これは「穴師塚」特定のための、決定的なひと言ではないか。その言葉の前後の文脈を参照すべしである。
○ 引用文中に登場する「 B 点の山頂」の、「 B 点」の語は 121 ページで説明されていて、〝箸墓古墳とその東北東およそ 30 度の地点にある天神社とを結ぶライン〟の「その丁度中間点に竜王山頂に近い中腹の小山( B 点)が当っている」と語られる、山頂部のことである。
父神(おやがみ)の社
三輪山の西北麓、山の辺の道に面して静かにたたずまう車谷の里を後に、三輪山と穴師の山の間に向って車を馳せると、穴師の谷川を右に左にと取りながら上[かみ]の郷へと続く道を遡[さかのぼ]ることとなる。やがて行く手の右側を覆っていた三輪山の原始林がとだえ、雑木林の巻向山の山裾[すそ]と穴師の渓流の間をさらに進み、再び川を渡るとすぐ左手、竜王山の方角に向うかなり急な林道が目についた。しばらくはためらっていたが、思い切って車首を突き入れると急坂となり、そのうちズルズルというスリップの音とともに車は動かなくなってしまった。「トラックかジープでないと無理ですな」、などと話しかけて来る同行の Y 君にカメラを持たせて歩き出すと、ほどなく林道の終点に着き、あとは地図をたよりに細い山道を進む。だが始めは細いと思った山道が、実は意外と道巾のある良い道であるのにすぐ気がついてた。…… この道の跡が、すぐ右手に見える B 点の山頂を取り巻くようにゆるやかにめぐりながら、次第に高くなっているのだが、この道の先はすっかり荒れているので、仕方なく途中から細い急な近道をとって山頂に向うことにした。
頂上部はおよそ六、七十メートルはあろうか、ゆるやかに東から西へと高くなったかなり広い台地である。…… 参道らしい道の跡、ゆるやかで広い頂上部、このあたりでは、この山頂部のみが長い間植林もせず放置されていたのも、何かの伝承のあることを示すのではないだろうか。またこの地から望む三輪山の美しいたたずまいや、すぐ横に竜王山がそびえ立っていることなど、祭祀の場所としても格好と思える。そこで、この山頂一帯を領有している、上の郷の笠区を訪れることにした。
このあたりには、現在大兵主神社に合祀されている「若御魂[わかみむすび]神社」があったという伝承がある。……
…………
以前に面識のあった元区長の N 氏を訪れると、私の目差すあたりの山中に詳しいという T 翁を紹介された。幸い在宅中の翁は突然の申し出に快く応じて、座敷に広げた地図に私が指差す地点をしばらく見守っていたが、「ふうん、横枕[よこまくら]の先の方やと穴師塚やな」。低いがはっきりした声でそう言い切った。地図を覗き込んでいた同行の O 君が、思わずニヤッとして私の顔を見上げたが、私は期待していた言葉とはいえ、こうはっきりと開かされると思わずハッとして翁の口元を見詰めた。しばらくして再び口を開いた翁は、この山の南山麓に「都谷[みやこだに]」の地名がありこれは穴師社のあったことに由来すること、そこに小祠があってこの山の方角を拝むようになっていたこと、元檜原は都谷のあたりらしいこと、更にこの山の東方約六百メートルに横枕という所があり、ここから石帯・和同開珎のつまった壺、そのほか多数の土器類・骨壺等が出土したことなどをゆっくりした口調で話してくれた。これで B 点には穴師上社(兵主神社)の父神という若御魂社があったらしいことがほぼ明らかにすることが出来たわけだが、考えてみると、御食津神の父神という伝承はまことに奇妙ではないか。これが何を意味し、何に由来するのかという手がかりは全く無く、大兵主神社にその伝承について尋ねてみたが、ただそのように伝えられているというのみで、古文書がすべて散逸した今は詳しいことがわからぬとのことであった。父神というのは、新宮[にいみや]に対する本宮[もとみや]の意味なのか、単なる奥の院的なものなのかは不明である。だが、もし前者の意味があるとすれば、この上の郷一帯に注目する必要がある。
〔小川光三/著『大和の原像』(pp. 126-127, pp. 128-130) 〕
―― 小川光三氏は 129 ページに描かれた地図では上の郷の笠区の、西方向の地点に「⛬ 横枕遺跡」と記しさらにその西となる、「 B 点の山頂」としていた個所には「⛩ 巻向坐若御魂神社跡」と記入している。文章に記述された内容から、つまりはこの「⛩ 巻向坐若御魂神社跡」が土地の人の語った「穴師塚」なのだと知れる。
● ここで「横枕 火葬墳墓」を A 地点として、その座標は (34.556720, 135.884930)
● さらに「巻向坐若御魂神社跡」を B 地点として、座標を (34.556459, 135.877737)
と設定すれば、A 地点は角度にして 2.52 度、 B 地点よりも北にあって、
○ A - B 間の 〔水平〕 距離 0.659 ㎞ と、計算された。
(※「バックアップ・ページ」の計算式参照)
◉ こうして今回は、この「巻向坐若御魂神社跡」の座標を「穴師塚」であると、みなしておきたい。
―― この地域の参考地図と、もうひとつの数値の計算結果を次に示す。
穴師塚は、箸墓古墳から東北東に約 30 度で天神社に向かうライン上の、おおよその中間点にあることが、地図上で確認できる。計算上は〝箸墓古墳-穴師塚〟の水平距離は〝3.846 ㎞〟であるので、〝箸墓古墳-天神社〟の水平距離〝7.824 ㎞〟の、約半分の距離になるといってよいだろう。
また一方で、横枕の火葬墳墓は、龍王山から東南東、約 30 度で天神山に向かうライン上に、ほぼ位置する。
(表示された初期状態の地図はごちゃごちゃしているので適宜拡大して参照してほしい)
○ ここで、地名辞典の記述を参照しておこう。垂仁紀(日本書紀)に記録のある「穴磯邑」が現在の「穴師(奈良県桜井市)」であることが述べられているのだが、同じく垂仁紀で語られた〝十の品部〟のうち「大穴磯部」が、まずこの地名に関連して言及される。「大穴磯部」については今後に改めてふれたい。
三輪山北西麓、大和川支流纏向 まきむく 川右岸に位置する。垂仁天皇が五十瓊敷皇子に与えた 10 個の品部の 1 つに「大穴磯部」があり(垂仁紀 39 年 10 月条)、穴を掘り採鉱に従事する部民を意味したとされる。おそらく穴師も同様で、鍛冶の技術に長じた穴磯部が当地に居住し兵主の神や矛を神格化して祀ったことにちなむか。穴師川(纏向川または巻向川)上流の字ドロコに廃坑があり、俗称をカネホリバと称する。アナセ(南東の風)の吹く地域の称呼とする説、三方が丘陵に囲まれた地域を指す形状地名説などもある(地名伝承論)。なお穴師大兵主神社の社伝に地名起源説話が見え、神体は下社の天鈿女命とともに鈴の矛なので兵主神といい、天鈿女命がはじめて笛を作りこれを吹いたので、その鎮座地を穴師と称するとある(大倭神社註進状裏書所引斎部氏家牒/大和志料下)。なお「万葉集」には「痛背の河」(643) 、「痛足の川」(1087) として穴師川が、「穴師の山」として穴師山が見える。
〔古代〕穴師 大和期から見える地名。垂仁天皇は渟名城稚姫命に命じて大倭大神の神地を「穴磯邑」に定めたとある(垂仁紀 25 年 3 月丙申条)。「延喜式」神名上の城上郡 35 座のうちに「穴師坐兵主神社」と「穴師大兵主神社」が見え、現在の桜井市穴師に比定される。穴師山麓、穴師川の北岸に鎮座する。……
桜井市穴師字宮浦にある神社。旧県社。当社は「延喜式」の神名上に見える穴師坐兵主神社・穴師大兵主神社・巻向坐若御魂神社の 3 社を合祀したもので、穴師神社はその総称である。当社はもと上社と下社に分かれ、下社が穴師大兵主神社で現在地に鎮座、上社は穴師坐兵主神社で巻向山中にあったが、応仁の乱の頃に焼失したので、御神体を下社に合祀し、同時に同じく山中に鎮座していた巻向坐若御魂神社も下社に合祀されたという(穴師坐兵主神社明細帳・大和志料)。現社殿 3 棟の中央社殿が穴師坐兵主神社、左殿が穴師大兵主神社、右殿が巻向坐若御魂神社。穴師坐兵主神社はもと巻向山(穴師山)にあり、垂仁天皇 2 年に鎮祭されたと伝える(穴師坐兵主神社明細帳)。名神大社。祭神については、御食津神説(釈日本紀)、素蓋嗚命説(度会延経:神名帳考証)、天富貴命・建御名方命説(元要記)、大倭大国魂神説(神祇志料)、伊豆戈命説(大神分身類社抄並附尾)があるが、「穴師坐兵主神社明細帳」では兵主神を祀るとする。兵主神は、猛威をふるう風神が、暴風雨神の性格をもつ中国の兵主神に似ていることから、おそらく風神であったといわれる。天平 2 年穴師の神戸に租穀 1,436 束が定められ(正倉院文書大倭国正税帳/寧遺)、大同元年に 42 戸の神封(大和・和泉・播磨地域)が与えられ(新抄格勅符抄)、貞観元年には従五位上に昇叙されている(三代実録)。平安中期頃から春日社の末社となったらしい。当社左殿の末社穴師大兵主神社は式内社で、祭神は大兵主神。本来巻向山中にあった穴師坐兵主神社がこの地に移され、いつの頃からか主客が入れ替わって今に至る。また右殿の末社巻向坐若御魂神社も式内社で、祭神については、稚産霊神(桜井市史)・巻向稚魂神(明細帳)・和久産巣日命(神社覈録・神祇志料)・日本武尊(穴師社日記)など諸説がある。天平 2 年巻向神戸に租穀 86 束が定められ(正倉院文書大倭国正税帳/寧遺)、大同元年神封 2 戸が与えられ(新抄格勅符抄)、貞観元年従五位上に昇叙された(三代実録)。この神社も穴師坐兵主神社と同じく応仁の乱の兵火で焼失し、穴師大兵主神社に合祀されたという。例祭は 4 月 8 日、風鎮祭 8 月 8 日。 2 月 13 日の御田植祭では、狂言式の田植行事が行われる。参道の脇に野見宿禰と当麻蹶速を祀る相撲神社があり、両者が相撲をした旧跡(字カタヤケシ)であると伝える。
〔『角川日本地名大辞典』 29 奈良県 (p. 95, p. 96) 〕
―― 引用文に見られるように地名辞典でも、「穴師坐兵主神社はもと巻向山(穴師山)にあり」と記されている。
この「穴師山」は先にも述べたように、現在は三角点が設定されている〈基準点名「穴師」標高 409m 地点〉と推定されるが、また、同じく巻向山中にあり応仁の乱の頃に焼失したと伝えられる巻向坐若御魂神社のかつての所在地は、小川光三氏の『大和の原像』で語られた内容をもとに結論づけた「穴師塚」のある場所なのであろうと思われるのである。
○ 最後に次の論稿を参照して、あらたに、風神「龍田大神」の考察へとつなげたい。
(大和岩雄)
兵主神蚩尤と兵主神の祭祀時期 兵主という名は、漢の高祖が兵を挙げたとき、蚩尤[しゆう]を祀って勝利を祈ったことに由来する。兵主神の蚩尤について、貝塚茂樹は「神々の誕生」(『貝塚茂樹著作集・第五巻』)で、次のように述べている。
蚩尤は八十一人、またある伝説によると七十二人の兄弟の一人で、みな獣の身体で人の言葉を解するという半獣半人の怪物団の一人であった。秦漢以後の伝説によると、彼の両鬢は逆立ち、剣の切先のように鋭く、頭のまん中には角が生えていた。これで頭突きをかませるのが彼の得意であったが、角力では誰も相手になるものがなかったという。(中略)
この大家族の生活ぶり、ことにその食生活は一風変っていた。世の常の人の食べるような穀物・野菜・魚肉はいっさい何も食べないで、ただ砂と石、ある説によると鉄石をくっていたという。いったいどんな歯と胃腸とをもった鉄人、いや鉄獣であったのだろうか。どんな事実をもとにして、こんな荒唐無稽な伝説を語ったのであろうか。中国の古代の系譜集である『世本』のなかには「蚩尤が兵つまり武器を創造した」と書いてある。盛んに新鋭の武器を製造し、その武力によって中国を制覇したともいわれる。たぶんこの砂を食物にしたという伝説は、彼らの部族が砂鉄を材料とし、これを精錬して兵器を鍛造するのを職業にしていたことを擬人化したのであろう。(中略)
秦漢のころには、物凄い形相をした蚩尤の肖像画が、五月の節句にかける鐘鳩[しょうき]の掛物のように民間に普及していた。蚩尤は鬼を退治した鐘鳩と同様、悪魔をはらう守護神と観念されていたのであろう。
兵主神は砂と石、鉄石を食べていたというから、この神は鉄にかかわる氏族が祀っていたと考えられる。吉野裕も、貝塚茂樹の兵主神蚩尤に関する文章を引用して、「〈穴師兵主神〉とは武器製造の鍛冶屋の神」とみる(『風土記世界と鉄王神話』)。
…………
「アナシ」の語義についての二つの見解 ところで、このように穴師神が兵主神と習合したのは、穴師の神が単なる山の神でなくて、蚩尤と同じく鉄とかかわるからである。
香取秀真は、「金石文に現はれたる鋳師の本貫」(「考古学雑誌」二七巻一号)で、「穴師と云ふのは、部族の名前の中にも僅かに出て来ますし、土地の名前としては大和、和泉、播磨、武蔵などに残って居ります。全体、穴師とはどう云ふことかと云ひますと、(中略)穴を掘ってそこから何か採り出す。即ち金属を採掘する部族ではないかと思ふ。(中略)私は武器をつくる材料を提供する部族と想像するので、穴を掘って鉱物を出す人達を穴磯部[アナシベ]と云ったものと見てよかろうと思ひます」と書いているが、池田末則も、穴磯(師)部が居を定めて「武器の神、兵主の神を祀った」(『大神神社史』)とみる。
また大宮守誠は「穴師及び兵主社に就いて」(「歴史地理」七三巻七号)で、「私は穴師の称の起りは先づ砂鉄の採掘にあると考へる。尤もその後発達して鉄鉱その他の金属鉱を採掘するに於ても、尚採鉱者は穴師と呼ばれたであろうが、先づかう考へて差し支へないものと思ふ。(中略)その兵主神と関連する所似は、穴師の徒が鉄と共に明け暮れし、鉄に於て、鋭利なる兵器を以て最とする故に、鉄の霊即ち武器-利器の霊を彼等の守護神として斎祀し、のち兵主神なる漢名を以て称せらるゝに至ったものと思はれる」と述べている。……
樋口清之は「神体山信仰の考古学的背景」(『大神神社史』)で、三輪山の「角閃斑粝岩中に含まれるチタン鉄鉱や磁鉄鉱の結晶体は、……」と書き、池田末則も「…… 明治四一年の陸地測量部地図にも鉱山の記号を付し、事実、穴師神社付近に廃坑が残っていて、明治末年には石英が盛んに採掘されたという」(同前)と述べている。
さらに谷川健一も、「乾(健治)氏によれば、穴師には鉱山として掘られた穴が三つあるという。またこのあたりには製粉用の水車があった。それは巻向川の砂鉄を選出し破砕するためのものであったか、と乾氏は推量している。『天智紀』九年の条に『是歳[ことし]、水碓[みずうす]を造りて冶鉄[かねわか]す』とある。水車によって石臼で鉄鉱石をつきくだいたことを指すのであるが、それを思わせるように、そこには車谷という地名も残っている」と、『青銅の神の足跡』で書いている。
「車谷」の地名については、すでに大宮守誠が前記の論文で、天智紀の記事を引用して「鉄鉱の砕岩に使用せられた水車」の「車」の意味ではないかと推測しているが、…… 砂鉄状の土の採集以外に、水車を使って砕岩もしたのではないだろうか。三輪山の岩は露出しているが、石英の採掘には穴を掘る必要がある。吉野裕は「アナシ」は「〈アナ〉に特別に起源がある」として、「アナシとは金師であり産鉄族の一称呼であったと私は考えてはいる」(同前)と述べ、谷川健一も、「『垂仁紀』に大穴磯部[あなしべ]の名が出てくるのをみても、穴師ということばは、岩穴の中に入って鉄鉱石や砂鉄を掘る人たちを指したにちがいない」(同前)と書く。
このように「アナシ」を「穴を掘る人」「穴に入る人」と解する香取秀真・池田末則・大宮守誠・吉野裕・谷川健一などの説に対して、風の吹くところとみる説がある。
柳田国男は「風位考」(『定本柳田国男・二十巻』)で、「アナジ」「アナセ」が西北(乾・戍亥)風、東南(巽・辰已)風をいう言葉であることから、「大和で有名な纒向の穴師山は、もと風の神を祭った山であるらしい。(中略)大和の穴師山の地形を見た人は、あそこが風神の本拠であった理由を、ほぼ想像することが出来ると思ふ、即ち真直ぐに通った渓の突当り、二列の連丘とちゃうど直角に、附近に秀でた大きな山があれば、山に吹当る色々の風が、多くは方向を転じて水筋に沿うて吹下す。是が大和国原に於て此山を風の源の如く、信ずるに至った原因では無かったか」と述べて、「屢々[しばしば]荒い風を吹起す山である故に、之を穴師の山と呼ぶことになり、或ひは又
まきむくのあなしの山に雲ゐれば雨ぞ降るちふ帰りこわがせ
といふ歌の如く、山の雲の起居を見て天候を卜する習はしにもなったことゝ察せられる」と書いている。
志賀剛は「穴師と日置」(「神道史研究」七ノ五)で、「アナシの語は風の名として中世の文献に見え、夫木集に『あなしふく』の歌があり、八雲御抄に『あなしはいぬゐ也』と見え、中臣祓義解に『戌亥は風神の座す所なり』とある。現今でも中国、四国方面では、冬季に西北から来る寒い風をアナゼ又はアナセといって、特に漁民は恐れている。柳田国男氏はアナジ、アナゼはアナシで多くは西北風を意味するが、しかし稀には風向が異なってもアナシと云ふ地方があると云はれた。関口武氏は統計の結果西北風以外は一〇パーセント位であると証明された。右を綜合して考へると、アナシは一般にはアラシ(嵐)の古語であるやうに思はれる。音韻学上タナラ相通の一方則があるからナ行-ラ行の交替が可能である。即ち西日本の風は西北風が強いから、これにアラシ即ちアナシと命名したのがアナシと訛ったに過ぎないと思ふ」と述べている。
そして、「大和の穴師には私は数回出かけて実地調査をしたのであるが、村の家は二階でも余り高くなく何れも丘に隠れて風を防いでゐる。弓月岳の中腹にある今の兵主神社のあるところも風が強く、お祭の主なるものは二百十日に近い頃行はれた風鎮祭であったといふ。水には事欠かないが風には困ると村人も神主も話された。伊賀の穴石神社は河合村字石川にあって北からの河合川の谷風又は西の田圃を吹いて来る風を防ぐ意味があるらしい。(以上実査)伊勢の穴師神社は櫛田村の佐奈谷の支谷神坂村にあり、北風の強い所であるらしい。若狭の阿奈志神社は小浜市の東の国富村にある。この村は南に開いたポケット地帯で広い田圃がありその北の山麓奈胡に式社がある。この附近は二百十日頃の南東からの台風、即ち若狭風のコースに当るからこの村で風神を祀ったのであろう。(報告)右によってアナシ神社はほぼ風の強いところにあることが判る」と書き、「鉱山の穴師(かかる語はない)ではなく」「アナシ神社は風神を祀る」と結論し、日置部を火招[ひおぎ]部、穴磯部を風招[かぜおぎ]部とみる。
すなわち、穴磯部を、フイゴ(タタラ)の風を祀る冶金に従事した部とみて、「風招部」とするのであるが、私もアナシの神は単なる風神ではないと思う。柳田国男は、農民にとっては「特に吹いて欲しいと思ふ風」はないから、アナシ神を「風害を防ぐ」神(「風位考」)とみる。たしかに、池田末則が「毎年九月一日(二一〇日)には同区民が風の神、竜田神社に参拝するという遺習」(『大神神社史』)があると書くように、穴師・巻向の里の農民は風鎮祭を行なっている。しかし、穴師神社の氏子がわざわざ龍田大社に参拝するということは、この氏神が風鎮の龍田大社とちがった性格をもっているためであろう。鉄を食う蚩尤[しゆう](兵主)の神を祀る人々にとっては、「アナシ」は必要な風であった。鉄滓が特に風の強いこの地から出土するのは、西北風を利用した野ダタラがあったためであろう。野ダタラにとってアナシの風は吹いてほしい風である。
山の神が春に山から里へ降りて田の神になり、秋に山へ戻るように、春は山から風が吹き、秋から冬にかけては山へ西南の風が吹く。その場所に穴師坐兵主神社・穴師大兵主神社がある。斎槻岳(弓月岳)の神が田の神として里に降りてくるのを祀るのが穴師・纒向の里の農民たちなら、兵主神を祀るのは、山のカネアナやタタラのそばに住む、いわゆる「産鉄族」の人たちであったろう。
〔『日本の神々』第四巻 大和 (pp. 93-94, pp. 95-99) 〕
―― 特に印象に残った記述があった。引用文の、最後あたりにある考察に、なにやら興味を引かれたのだった。
池田末則が「毎年九月一日(二一〇日)には同区民が風の神、竜田神社に参拝するという遺習」(『大神神社史』)があると書くように、穴師・巻向の里の農民は風鎮祭を行なっている。しかし、穴師神社の氏子がわざわざ龍田大社に参拝するということは、この氏神が風鎮の龍田大社とちがった性格をもっているためであろう。
たしかに、それぞれの神社で祭祀されているそれぞれの神(神々)の性格が多少なりとも異なるのでなければ、神社の氏子がわざわざ他の神社へ参拝するという風習は、説明が困難であろうと思われる。
奈良県生駒郡三郷町にある龍田大社のサイト
にある
「龍田大社についてさらに詳しく」と書いてある箇所をクリックすれば、
天御柱大神(あめのみはしらのおおかみ)(別名:志那都比古神(しなつひこのかみ))
国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ)(別名:志那都比売神(しなつひめのかみ))
と、記載されている。
ここに、別名としてあげられた神々は、 古事記「神々の生成」の段に、
(つぎにかぜのかみ、なはしなつひこのかみをうみ)とあり、 日本書紀「神代上 第五段」〔一書第六〕には、
(いざなきのみことののたまはく、「わがうめるくに、ただあさぎりのみありて、かをりみてるかな」とのたまひて、すなはちふきはらふいき、かみとなる。みなをしなとべのみこととまうす。またはしなつひこのみこととまうす。これ、かぜのかみなり。)
と記録された、〈級長津彦命(志那都比古神)〉および〈級長戸辺命〉とそれぞれ同一神と各種文献に説かれており、また国語辞典に「級長戸(しなと)」とあるごとく、「風神」であることは古事記と日本書紀に共通しているのである。
以下、引用文献の情報