箸墓古墳:日輪の祭壇

箸墓古墳の中心軸と夕月岳


今回も、小川光三氏の『大和の原像』の参照から始まるのだけど、「箸墓復元想定図(附:日の出の方向)」(p. 195) には、箸墓古墳の中心軸の向きは「至斎槻岳」―― 東西線に対しては 22 度 ―― と、書かれている。これは箸墓古墳の築造時、夕月岳いわゆる穴師山 ―― 基準点名「穴師」標高 409 m 地点 ―― に向けて設計されたという推察につながるものだ。

古代の祭祀および建造技術者は、意図的にそれを行なったのか。それともたまたま、そうなったということなのか。そのどちらでもありうる。

この角度について調べていると、北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』(pp. 159-160) では、22.3 度と示され、〝夕月岳 409 m ピーク〟に向かうラインとは〝 0.1 度の誤差〟をもつと、文章と表によって記述されていることがわかった。

―― この文献の記述も、鳥取県立図書館の司書のかたがたの協力によって、見つけることができたのだということをここに補足しておきたい。


○ さて、北條芳隆氏の『古墳の方位と太陽』の 159 ページには、次のように書かれている。


箸墓古墳の軸線と弓月岳 409 m ピークは 0.1° (6′) の誤差をもち、西山古墳の軸線と高橋山 704 m ピークは 0.4° (24′) の誤差をもつ。これが資料の実態であるから、この誤差ゆえに私の主張する事実関係には厳密さが伴わないとの批判もありうることである。しかしこの程度の誤差は許容される範囲内だと私は判断するが、そのいっぽうで、纒向石塚古墳の場合には検討が必要である。その前方部は三輪山山頂を向くと判断できるか否かであるが、本古墳にたいする私の築造企画復元案では、3.2° の振れ幅をもって三輪山山頂方向に軸線を向けることになり、それを意味のある事実とみなすか単なる偶然とみなすべきかの判断は微妙である。

〔『古墳の方位と太陽』「第 5 章 大和東南部古墳群」(p. 159) 〕


―― 実はこれまでは、おおよそ 1,500 年前の歴史について検証するということから、角度の 1 度未満は誤差の範囲内として、あまり気にしていなかった。

それで、桜井市周辺の、検証する地域的には〈神武天皇陵〉(N 34.49751) で北緯 34 度 30 分あたりから始まるにもかかわらず、東西線にかかわる長さの修正値も、cos35° ≒ 0.819152 の数値を用いてきたのである。

北緯 35 度というのは、当初に、おおよそ西日本全体をカバーする北緯線として、想定したものだ。

しかしながら、ここで 0.1 度の誤差が問題なのかどうかが、議論されている。

今後はこの議論を踏まえたうえで、〈箸墓古墳〉の中軸線 22.3 度の数値を使わせていただきたく思うので、そういう次第で、これからは、奈良県桜井市の周辺地域の北緯線としては 34.55 度と想定を改めたい。

北緯 34.55 度というのは天理市にある〈景行天皇陵〉(N 34.55071) のあたりの数値となる。夏至の観測ラインは、これから、北東方向に延びていく予定なのである。


―― 今後は、cos34.55° ≒ 0.8236316 の数値を用いることになる。


ちなみに、上の修正値 (JavaScript の値では 0.823631592193872) を用いた修正版の計算式で、「箸墓古墳-弓月岳」のラインの角度は、22.38° であった。テスト版の地図上の線では、〝箸墓古墳の中軸線〟として引いた 22.3° のラインに、ほぼ重なっているように見える。


それと、これも修正値を書いておかなければならないだろう。


● 修正版の計算式で、〝三輪山を東の頂点とする正三角形〟の数値は、次に示す値となった。


(新) ラインの座標 角度 水平距離

  • 神武天皇陵 - 三輪山の山頂 29.99 ° 8.374 ㎞
  • 鏡作神社 石見 - 三輪山の山頂 29.74 ° 8.371 ㎞
  • 神武天皇陵 - 鏡作神社 石見 90.11 ° 8.338 ㎞


● どれほどの誤差が生じるものなのか、参考のために、以前の計算式による値も書いておこう。


(旧) ラインの座標 角度 水平距離

  • 神武天皇陵 - 三輪山の山頂 30.12 ° 8.340 ㎞
  • 鏡作神社 石見 - 三輪山の山頂 29.87 ° 8.337 ㎞
  • 神武天皇陵 - 鏡作神社 石見 90.11 ° 8.338 ㎞


神武天皇陵についての いち考察


―― その神武天皇陵は、畝傍山東北陵という名称があるように、畝傍山の北東部に位置するのだけれども、その場所が定まったのは、そう古い話ではない。

江戸時代、ペリー来航の 10 年後にあたる幕末期、文久三年( 1863 年)に神武陵の場所はようやく決定されたのだという。

つまりその幕末期以降に、かなり近代的な技術を伴った、築造工事が行なわれたのである。


『大系本 古事記』を見れば、137 歳で亡くなって、「御陵在畝火山之北方白檮尾上也。」(p.166)

――「御陵(みはか)は畝火山の北の方の白檮(かし)の尾の上に在り。」と記されている。


『大系本 日本書紀(上)』では 127 歳で亡くなり「葬畝傍山東北陵。」(p.217)

――「畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのみさざき)に葬(はぶ)りまつる。」とある。


各種文献によればしかしながら、というわけだ。そののち年ふるにつれ、7 世紀ごろにはあったかもしれない神武天皇陵も、中世には確かな所在地がわからなくなったらしいのだ。


幕末の危機の時代に、この正三角形が、設定された。

偶然なのか、入念な測量がなされた上でなのか。

偶然にせよ、意図的にせよ、どちらにしてもなんだか凄い。


―― もしこれが〝意図的な正三角形〟だとするなら、


三輪山と石見の鏡作神社を結ぶラインを設定基準のひとつとして、神武天皇陵の場所は定められたことになる。

⇒ 修正版: 角度を計算するサンプルページ(場所の一覧表付き)


ここで〈箸墓古墳〉の 22.3 度のラインを〈夕月岳〉からさらに延長するなら、桜井市笠の〈笠山荒神社〉の南側の谷に鎮座する〈天満神社〉が、そのライン付近にあることがわかる。若干のズレは認められる。〈天満神社〉に向かう〈箸墓古墳〉からの角度の計算値は、22.03 度であった。


○ 『奈良県史』にこの神社の記事があったので、その全文を引用しておきたい。


天満神社 (笠字カサヤマ二四一〇)

笠山荒神へ登る道の北側入口に鎮座する旧指定村社で、菅原道真を祀る。社伝によると建長八年(一二五六)竹林寺の執行膝円の創祀と伝える。本殿は流造・桧皮葺で朱塗。

境内社は滝蔵神社(滝蔵権現)と琴平神社(大物主命)と愛宕神社(火産美大神)と皇大神社(天照皇太神)。境内の石臼に貞享二年(一六八五)御供田東 寄進山田氏の刻銘がある。

例祭は十月二十五日。

〔『奈良県史』 「第五巻 神社」 (p. 353)〕


箸墓古墳の 中軸線 22.3 度の 学術的意味合い


ここで、あらためて〈箸墓古墳〉の中軸線が示す方角について何らかの学術的な意味が認められるのかどうか、少しだけ考えてみたい。

これを太陽と関連づけて、日の出の方向が一致する頃に、何かしらの行事が行なわれるのだろうという推察までは容易な話だ。

では、それは何月何日なのだろうか。ここでは簡便のために、現代のカレンダーでその日を特定してみよう。

桜井市周辺で、日の出が東北東に、22~23 度の角度になる日付がわかる方法をインターネットで探してみた。


幸いなことに、海上保安庁のホームページに、「日出没・正中時刻及び方位角・高度角計算」を計算してくれるページが用意してあった。


http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KOHO/automail/sun_form3.html

そのページの選択肢で、「奈良市」を選び、今年の 5 月にカレンダーを設定すれば、該当の角度が含まれていた。結果の一部を、ここに引用すれば、次のようである。


解 説

: 出没・・太陽、月の場合は上辺が地平線に接する瞬間

: 方位・・真北を0度とし、東回りに測った角度(単位°)

5 月の日付 と 方位(日 出)

  • 8 ( 69°)
  • 9 (68°)
  • 10 ( 68°)
  • 11 (68°)
  • 12 (67°)
  • 13 (67°)
  • 14 (67°)
  • 15 (66°)


この結果から、おおよそ 5 月 10 日頃からの、数日間であることがわかる。

しかしながら桜井市は盆地なので、水平線から朝日が昇ることはない。―― だからこれよりも少しだけ時間が経過した、太陽の高度が高くなった時間帯に、日の出は確認できるだろう。

高くなるにつれ、朝日は少しずつ南へと移動していくので、つまりはもう少し夏至に近い日が、実際には該当するはずだ、と予想できることとなる。

ようするに、現代のカレンダーには五月中旬頃にその日が書き込めるはずだ、というわけだ。

では、五月の中旬に、そのあたりで何があるかというとこれもインターネット上の情報で、奈良県のホームページなどでも、「田植えの始まる時期」だということが、確認できるのである。

そういう次第で、おおまかな話としてだけれども、〝箸墓は五穀豊穣の祭祀に用いられていたのではないか〟という課題が、机上の推論の結果、提案できることとなる。


○ 今回の最後に、長くなるけれど、こういう研究分野に対する専門家の対応の例を、先にも参照した『古墳の方位と太陽』から、引用させていただきたい。


『古墳の方位と太陽』 「第 4 章 風水と火山信仰」より


1.(1)過去の遺跡と身近な現象

(p. 103)

いいかえるとこれら山裾に建てられた神社とは、背後の山並をご神体の在処にみたて、そこに祈りを捧げ祭祀を執りおこなう遙拝所としての性格をもっていた可能性を多分に秘めており、本殿の場合には背後の山からご神体を降臨させる意図を伴ったとみるべきである。こうした性格の遙拝所や本殿が背景の火山や山の峰に軸線を向けて建てられるのは当然の現象だとみてよい。


1.(2)専門的研究者の回避姿勢

(pp. 103-104)

しかしながら弥生・古墳時代研究者の大多数は、たとえば古墳と背後の山との関係を検討したがらない。この種の課題設定それ自体を奇異だと受け止める研究者が多いのが実情である。吉野ヶ里遺跡と雲仙普賢岳との関係に対する学界の冷淡な反応も、そうした姿勢の延長線上にある。

では専門的考古学研究者の間にこうした回避姿勢が顕著な理由はどこにあるのだろうか。私の経験に照らして考察するなら、おそらく次の 3 点に集約されると思われる。

その第一は技術的な制約である。遺跡の位置を地図に落とし込んだうえで正面観や軸線の様相を検討しようとしても、20 世紀の段階では精度の高い分析が保証される環境にはなかった。たとえば広く利用されている 2 万 5000 分一縮尺の地図では、遺跡の位置についても周囲の山並との関係を検討するさいにも地図中に手書きで書き込む作業が不可欠となり、精度が低すぎて詳細な分析など不可能だったのである。

いいかえれば位置情報を的確に処理し解析する環境下ではなかった段階で、仮に古墳と背後の山との関係を主張してみたり、遺跡の中心軸線がはるかかなたの火山に向けられている旨の主張を展開したりしてみても、それを客観的な手法によって検証するすべはないに等しかったわけである。だから主張の正否にたいする判断は当面のところ不能だとして棚上げされる。そうした状況が長らくつづいたので、未だに回避される傾向をぬぐえないのであろう。

また第二の理由は、私たちが日常的になじんでいるはずの宗教行為を参照することへの拒否感だと推測される。物事は客観的に捉えなければ科学的とはいえない。だとすれば身近に接する神社や山岳信仰の様相が仮にそうだからといって、過去からそうだったなどとは保証できないし立証も困難である。つまり参照すべき類似例を現在の日常に求める行為は危険である。時空を隔てたアナロジーでしかなく、それは科学性に反する。歴史主義ないし実証主義とも抵触する。こうした拒絶反応である。

さらに学問において極力排除すべきは神秘性への傾倒であるが、神社や山岳信仰は神秘主義もしくはオカルティズムの凝集である。合理的精神の対極にある存在であって、それを合理的ないし科学的に説明しようとすれば相当な事前準備が必要で、強い覚悟が求められる。しかしそれを当面の課題に据えるだけの余裕がない。安心して依拠しうる先行研究があるならそれを参照することもできようが、そのような著作も不在である。だから二の足を踏むことになる。

つまり事前の準備が整わないまま山岳信仰と古墳とを対峙させる行為に足を踏み入れたとすれば、古墳にたいしても同質の神秘主義を投影させる結果に陥りかねない。仮にそうなったとしたら研究者自身が科学性を放棄したと同じに映る。いいかえれば神秘的な現象への眼差し自体が非科学性と直結する危険性をはらむので、極力回避したいという自己防衛反応が生まれるのである。そのためこの種の研究はアマチュア考古学者の独壇場となる。

さらに第三の理由は、第一と第二の理由を混ぜたところから生じる感覚的な拒否反応であろう。端的にいえば、このようなテーマは専門的な訓練を受けていない素人的なそれであって、検討作業も遺跡や古墳間に線引きをおこなうだけだから分析に深みがない。仮に遺跡や古墳の軸線を延長したところに特定の山がそびえていたり、他の遺跡や神社の場所と重なるような現象に直面したり、といった場面があったとしても、たんなる偶然の結果であることを排除できない。

ようするに不毛な作業であるとの判断が先に立ち、こうした問題と向き合う方向性を避けるのである。…………


1.(3)本章の課題

(p. 105)

告白するが、このテーマに足を踏み入れさえしなければ、私自身も同様の拒絶感を抱きつづけていたはずだとの確信がある。そのため第三の理由が専門的考古学研究者に強く作用することはよくわかる。たとえば神社や特定の山々を結ぶ〝聖なる三角形〟説はアマチュア考古学者によって古くから喧伝されてきた。最近では伊勢神宮―平城京―出雲大社が一直線上にあることに注目する研究もある(1)。こうした主張に対し、それを〝オカルト考古学〟だと処断する感性から私自身も完全には抜け出せていない。

しかしながらストーンヘンジへの研究史を参照したとき、こうした専門家筋からの予断に満ちた拒絶反応や棚上げ姿勢こそが議論の進展を阻むものであったことを学ばされ、自省してもいる。~~。

(p. 106)

このような学史を学んだ現在、私はこれまでの自己認識を変更し、予見に委ねてレッテル貼りをおこなう前に、ともかく事実関係を自分の眼で検証してみることに重点を置いている。さらにこの種のテーマに関しては、アマチュア考古学者の著作に学ぶべきところも少なくないと思う。

ではどのような方向性で対峙するなら現状を打開できるのか。この問いについては、あくまでも客観的な事実を淡々と積み重ねることを通じてしか議論を活性化する途はないのであろうと考えている。帰納法的に事実関係を積み上げて説得を試みる方向性だといえようか。


2.(1)箸墓古墳と弓月岳

(p. 106)

奈良県桜井市にある箸墓古墳は最古最大の前方後円墳として著名であり、私もこの古墳を対象にして墳丘築造企画論への適用を試み「箸墓類型」を提唱したことがある(北條 1986)。~~。

(p. 107)

その結果、現在では、本古墳の主軸線は東北東にそびえる弓月岳(嶽)409.3 m ピークに向けられている、との見解に到達している。1983 年に大和岩雄が最初に指摘した事実関係なのだが、私の作業結果もそれを追認したことになる(大和 1983 参照)。

(p. 108)

① 築造企画論に即した墳丘主軸の確定 このデータは墳丘測量図に方眼を重ねることで導かれる。その結果、真北からの角度は 67°42′ となった。仮に正方位の方眼地割りを事前におこない、12 進法に即した角度出しだったと仮定すれば、12 : 5(真東に 12 単位分のところで北に 5 単位分をとれば実現される角度の割り出し)となる。

② 方位の示準先候補地の踏査 2009 年と 2011 年に弓月岳の現地を訪れ GPS 観測を実施し、先の主軸方位との対応関係を点検した。三角点の地点を弓月岳山頂とみなしてよければ、また箸墓古墳後円部の中心点を私の計測値に求めることが妥当だとの判断が許容されるなら、時点における方位の誤差は 0°12′(GPS 観測点でそれぞれに生じる測定誤差は ±3 m )となる。


(1) 現早稲田大学の法制史学者である水林彪が、その著『記紀神話と王権の祭り』(水林 2001)にもとづき、同様の主張を展開したことで新聞記事にも取り上げられ話題となった。〈Google Earth〉 を利用すれば簡単に検証可能であるが、緯度・経度の値を秒単位までは絞り込まない範囲での計測結果としてなら、事実だといってもさしつかえないことがわかる。問題はその計測法と角度の割り出しである。表をもちいた同緯度地点の割り出しは可能だとして、どの経路をとれば正確な距離を計測できるのか、伊勢神宮―平城京間の値を入手することは不可能ではなく、じっさいに伊勢神宮―三輪山間の計測については NHK の番組も組まれた経緯がある。問題は大極殿―出雲大社間である。現時点で私には適切な妙案が思いつかないために保留している。


引用・参考文献

  • 北條芳隆 1986「墳丘に表示された前方後円墳の定式とその評価 ―成立期の畿内と吉備の対比から―」『考古学研究』第 32 巻 4 号
  • 大和岩雄 1983『天照大神と前方後円墳の謎』六興出版
  • 水林 彪 2001『記紀神話と王権の祭り(新訂版)』岩波書店

〔以上『古墳の方位と太陽』 「第 4 章 風水と火山信仰」より〕


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