2026年の礼拝メッセージ(斉藤幸二牧師)
2026年の礼拝メッセージ(斉藤幸二牧師)
復活節第4主日の説教
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 門から入る者が羊飼いである。 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
●イエスは救いに至る門
今日の福音書の日課は、「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。」というイエス様の言葉から始まっています。そして七節では、「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。」と語られました。
ィスラエルの国では、旧約聖書の時代から政治的な指導者や宗教的な指導者は「羊飼い」に例えられていました。人々を羊の群れのように導き、養う務めを神から与えられていたからです。イエス様はこの時、特に自分たちが宗教的指導者であると自認していたファリサイ派の人々にこれらを語ったのです。イエス様は彼らに、人々を導く羊飼いは、門であるわたしを通って、羊の囲いに入らなければならない。わたしという門を通らないで羊に近づく者は、羊を滅ぼす者たちである、と言われたのです。このことが語られたのは、イエス様が、生まれつき目が見えない人の目を開いた時です。ファリサイ派の人々は、「イエスという男は、安息日を守らなかったからか神から来た人ではない」と決めつけました。そして、イエス様を神から来た方だと言った、前には目が見えなかった人を、ユダヤ人の会堂から追い出したのです。彼らがしたことはまさしく、羊を導くのではなく、滅ぼすことでした。
人々を教え導く者が、イエスという門を通らなければならない理由は、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」とイエス様が言われた通り、イエス様が人間を罪と滅びから守り、命を与えるために神が遣わされた救い主だからです。このイエス様という門を唯一の救いの道と認め、身をかがめてこの門を通る者だけが神の羊、すなわち神の民を導く資格があるのです。その反対に、このキリストという門を無視し,のところから羊に近づく者は、自分の利益のために羊を奪う者たちなのです。
イエス様はマタイによる福音書二三章でこうした宗教家たちを、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」と、厳しい言葉で非難しています。
●イ良い羊飼いであるイエス様
イエス様は、ご自分が、神の民という羊を導く者が必ず通らなければならない門である、と語っておられます。しかし、今日の日課の最後の一〇節では、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と語っておられます。ここから後の方は、イエス様ご自身が「善い羊飼い」である、というテーマへと変わって行きます。つまり、「門」であるイエス様から「善い羊飼い」であるイエス様に変わっているのです。
イエス様は神の国の門ですが、門とは動かないものです。しかし、イエス・キリストという天国の門は、はるかかなたの天上にあって、人々がそこにたどり着くのをじっと待っている方ではありません。イエス様は、わたしたちの世界に来られ、神のもとから迷い出ているわたしたちを捜し求め、ご自分に信頼するすべての人に、天の門を開いてくださる方なのです。
旧約聖書の創世記二八章に、ヤコブが見た夢のことが書かれています。兄のエサウをだましてその恨みをかい、遠く離れた親戚のもとに逃げて行ったヤコブは、野宿していた所で一つの夢を見ました。「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり降ったり昇ったりしていた。」というのです。夢から覚めたヤコブは、「これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」と言いました。ヤコブが見た階段は、「地から天に」ではなく、「天から地に」向かって伸びていた階段でした。だからヤコブはあの会談の上に天の門がある、と言わずに、ヤコブがいた所が「天の門だ」と言ったのです。ヨハネ一小五一節を見ると、イエス様は、ナタナエルという人に、あのヤコブが夢で見た階段は、ご自分のことであると告げておられます。
また、キリストが十字架につけられた時、隣には強盗を働いた人も十字架につけられていました。イエス様はご自分を信じた強盗に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言いました。イエス様は十字架にかけられる人のような最も低い所に身を置かれ、天の門を開いてくださったのです。
●善い羊飼いの声を伝えよう
このように、門であるイエス様を通るということは、ただ単にイエス・キリストという権威を認めるというだけではなく、善い羊飼いという門であるイエス様のお働きを尊び、正しく伝えるということです。そして自らもそのイエス様の御心に倣ってゆく、ということなのです。
今の時代にも、キリストの名を使いながら、救われるための条件として高額な献金をさせ、病気が治ると言って、高額な商品を売りつけることがありました。また、ある団体は救われるためには伝道をし、様々な規則を守らなければならないと教えています。イエス・キリストは「お金を取って病気を治してあげなさい」と教えたでしょうか。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。 と教えたのです(マタイ一〇:八)。また、救われるために何らかの貢献をしなければならないとしたら、あの子十字架の上の強盗は救われたでしょうか。キリストの名を騙り、キリストの教えやキリストの働きと違うこと教える者はみな盗人であり、強盗なのです。
イエス・キリストは自分のために人を搾取する方ではありません。むしろ反対に、 わたしたちを生かすために、ご自分の命を捨ててくださった方なのです。イエス様は、今も生きておられ、同じ愛と、死に勝つ力によって、わたしたちと共にいてくださるのです。
わたしたちは今もキリストをこの世に伝えていますが、その時に大事なことは、わたしたちの教会がそのキリストの救いを正しく伝えることと、また、教会の働きにおいても、交わりにおいても、キリストの恵みを受けている者にふさわしい生き方をすることです。 キリストを信じている弱い人、小さく見られがちな人が大切にされ、またお互いに受け入れ合い、支え合うことによってキリストの愛に生きる者の姿を現すことです。そのような教会は善い羊飼いであるキリストの声を人々に届けているのです。
イエス様は、四節で、「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」と語っておられます。わたしは自分の経験からそのことを学びました。クリスチャンになる前に、キリスト教を名乗る団体の人から幾度か声をかけられたことがあります。でも、その人たちの声を聞く度に、「これはわたしの羊飼いの声ではない」と感じました。なぜそう感じたのでしょうか。わたしは小学生の時に教会学校に通っていましたが、教会学校の教師は、わたしを大切にしてくれたのです。それほど真面目ではなく、悪ふざけしたこともあったと思います。子どもですから面倒をかけるだけで、何の貢献もできませんでした。しかしその教師は、子どものわたしを粗末にしないで、一人の人間として大切にしてくれたのです。後になって、「わたしはあの時に、わたしの羊飼いの声を聞いていたのだ」と悟りました。だから偽りの羊飼いの声も分かった のです。
今はAI、すなわち人工知能でそれなりの説教も作れる時代です。またさまざまな媒体を通して、キリストの声を届けることができます。しかし人がキリストに出会い、キリストに結ばれるのは、キリストに従い、キリストの命に生かされている教会においてです。そしてそのような教会は人工知能では作れないのです。
恵み深い羊飼いの声を聞いているわたしたちは、これからも教会を通して、善い羊飼いであるイエス様の声を伝えてゆきたいと思います。
復活節第3主日の説教
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
●ひとりも滅びないために
今日のルカによる福音書の日課は、「ちょうどこの日」という言葉から始まっています。それはイエス様が復活された日のことでした。イエス様の二人の弟子が、エルサレムの都を出て、エマオという村に向かっていました。エマオはエルサレムから60スタディオン、約11キロのところにある村です。
彼らの一人はクレオパという人で、もう一人の名前は分かっていません。クレオパの妻であると考える人もいますが、ここでは無名です。彼らは、メシアと信じていたイエス様が十字架につけられ、殺されてしまったので、深く失望していました。もうエルサレムにいる意味はなくなり、荷物をまとめて自分たちの郷里に帰ろうとしていたのです。
彼らはこの数日間に起きたことについてお互いに議論していました。二人が語り合い、論じ合っていると、イエス様が近づいて来られたのです。でも二人の目は遮られていて、その人がイエス様だとは気づかなかったのです。
イエス様がこの二人に近づかれたのは、彼らをご自分のもとに導き返すためでした。イエス様は、ヨハネによる福音書6章39節でこう言われています。「わたしの父の御心は、父がわたしに与えてくださった人たちが一人も滅びないで永遠の命を得ることである」。
この「一人も滅びないで」という言葉は、「一人も失われないで」ということです。イエス様は、使徒ではない弟子たちも、ご自分から離れて失われてしまうことがないように追い求めてくださり、御国に集めてくださるのです。
イエス様は、二人の弟子たちに、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と尋ねました。ここでの二人の弟子たちとイエス様のやり取りはとてもユーモラスです。クレオパが「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」と、当の本人に言っているからです。クレオパは、この見知らぬ同行者が過越しの祭のためにエルサレムに来ていた巡礼者の一人だと思ったのです。そして、「私たちが話していたのはナザレのイエスのことです。この方は業にも言葉にも力ある預言者でした。しかし祭司長達たちが死刑にするために引渡し、十字架につけてしまったのです。今日で三日目になりますが、今朝、私たちの仲間の婦人が私たちを驚かせました。墓に行ったらイエス様の遺体が見あたらなかったのです。そして天使が現れてあの方は復活されたと告げたそうです。仲間の者たちが何人か墓に行きましたが婦人達の言ったとおりでした」と説明しました。
この弟子たちはすべての情報を持っていたのです。イエス様の十字架のこと、復活した、という女性たちの証言を聞いていたのです。でもほかの弟子たちと同じように、彼らはそれらの出来事の意味はまったく理解できず、混乱するだけでした。
●復活の主と出会う道
イエス様は、「ああ、物分りが悪く、心が鈍く、預言者達が説いたすべてのことを信じられない者たちよ、キリストは必ずこれらの苦しみを受けて、その栄光に入るはずだったではないか」。と言って、モーセとすべての預言者から初めて聖書全体にわたって解き明かされたのです。イエス様が、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と言って旧約聖書を解き明かしてくださった時、心が燃えるのを感じました。
二人の弟子に起きたことを通して、わたしたちは、どこで、どのようにしてキリストに出会うのか、ということを教えられます。見知らぬ旅人の姿で弟子たちに近づいたイエス様は、メシアの死と復活が、神によって定められていた「救いの出来事」であるたことを聖書から教えられたのです。イエス様は、キリストによる赦しのための苦難、そして復活、ということを中心として聖書をと解き明かされたのです。それは今も同じです。キリストを中心にしなければ、聖書、特に旧約聖書は暗い本です。しかし、イエス・キリスㇳの十字架と復活を聖書の中心とするとき、聖書は明るく照らされます。そしてわたしたちに喜びを与える書物になるのです。
教会は、キリストとその救いのお働きを中心として聖書が語られるところです。ここで聖書の言葉を聞くとき、イエス様がここにいてくださるのです。
一行がエマオに着いたとき、その旅人はなおも先に行かれようとしました。弟子たちは、「そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めた」と書かれています。聖書は「通り過ぎる神」について語っています。創世記一九章には、ロトという人が、旅人の姿をした二人のみ使いを、強いて自分の家に泊めた頃が書かれています。そして、このみ使いによってソドムの町の滅亡から救われたのです。エマオに着いた二人の弟子たちも、自分たちに神の言葉を語ってくれた旅人ともっと一緒にいたいと願いました。神様、そしてイエス様は裁きの時以外は決してわたしたちの人生や心の中に強引に踏み込むことはなさいません。わたしと共にいてください、と切に願い求める人のところにとどまってくださるのです。
●絶望から希望へ
イエス様と弟子たちが食事の席に着いたちはイエス様に主人の働きを委ねたのです。その時、彼らの目が開かれて、今まで一緒にいた人がイエス様であることを悟ったのです。イエス様の姿は見えなくなりましたが、「主は生きておられる」という喜びが彼らの心に溢れました。
ここにいる皆さ皆さんも、御言葉を聞き、イエス様を大切な方として自分の心の中心に迎えたとき、「イエス様は復活された」ということを悟ることができました。
わたしは、クリスチャンの方々に、あなたはいつ、どのようなきっかけでイエス様の復活を信じましたかと聞きました。多くの方は「いつの間にか信じていた」と答えられます。キリストの復活を信じる、ということは、わたしたちの探求の結果というよりも、イエス様を大切な方としてお迎えしたとき、イエス様ご自身が、わたしたちの心の目を開いてくださったからだと思うのです。ローマの信徒への手紙十章九節に、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」とありますが、それは復活の信仰がイエス様によって与えられたものだからです。
終わりに、復活のイエス様に出会った直後の弟子たちの行動を見たいと思います。二人は、すぐに二時間半もかかる道、暗くなりかけた道を、エルサレムに向かって引き返しました。それは絶望と混乱の思いで下ってきた時とまったく対照的です。彼らは、イエス様が生きておられる、という喜びにあふれていました。そして「一刻も早く他の兄弟たちに今起きたことを伝えたい」、という思いでいっぱいでした。それもまたわたしたちの姿でもありました。わたしたちも、もしキリストの復活を知らなかったら、人生のたそがれから人生の夜の闇に向かって歩いてゆく人生です。年齢を重ねると共に多くのものを失い、希望も失われてゆきます。しかし、イエス・キリストの復活を信じた時、わたしたちの歩みは死の闇に向かって行く歩みではなく、天のエルサレムに向かう喜びの歩みとなります。そして、この二人のようにキリストの救い、そして命を伝えたい、という新しい使命に生きる者とされます。エマオから仲間のもとに向かった弟子たちのように、他の兄弟たちとともに集まって、信仰を分かち合うことは大切なことです。そしてさらに、生きる目的や希望を見失っている方々に、命の光が照らされるように、共に祈ることも大切なことです。
これからもわたしたちの心がキリストの復活の喜びに満たされるように、また、復活のキリストが、多くの人の光となるために生きる者としてくださるように、祈り求めてゆきたいと思います。
復活祭の説教
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
●復活―神の愛と赦しの光
今日の説教に、「復活の光」という題をつけました。「復活の光」とは、どのような光でしょうか。
第一に、それは神の愛と赦しの光です。わたしたちは、神様の愛と赦しの光が、十字架の上に輝いていることを知っています。しかし、もし復活ということが起きなかったなら、わたしたちはキリストの死が本当に罪の赦しのためだったのか、その赦しが本当に実現したのか、確かめることはできなかったのです。
イエス様は弟子たちと一緒におられたとき、「人の子」、つまりイエス様は、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た…」(マタイ二十:二十八)と言われました。また、十字架にかけられる前の晩には、弟子たちにぶどう酒を渡して、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ二十六:二十八)と言われました。
しかし、イエス様が十字架の上で死なれたとき、弟子たちは「イエス様の救いが実現した、わたしたちの罪は赦された」と思ったでしょうか。弟子たちには到底そのように思うことはできませんでした。たあまりにもひどい仕打ちを受けて、最後にはイエス様はその赦しを取り消したかもしれません。それに、弟子たち自身も、イエス様に向かって、「わたしたちは最後まであなたについて突行きます」と言いながら、逃げ去ってしまったのです。先生はどれほどわたしたに失望したことだろうか。」弟子たちはそんな苦しい思いでいたのです。
しかし、イエス様が死から復活したことによって、イエス様の死は普通の人間の死ではなく、神の子の死であったことが分かったのです。永遠の命を持つ神の子は、多くの人のすべての罪、過去、現在、未来のすべての罪を償うことができるのだ、ということが分かったのです。
また、墓に行った婦人たちに出会ったイエス様は、「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」と言ったのです。「あなた方の兄弟たち」ではなく、「わたしの兄弟たち」と言われたのです。この言葉を婦人たちから聞いた弟子たちは、どれほど安心したことでしょうか。イエス様は生きておられる。そしてわたしたちを変わることなく愛しておられる」ということが分かったのです。
このように、復活の光の中で、イエス様の十字架が本当に赦しを与えてくださるためであり、その約束は変わらなかったことが分かったのです。イエス様の十字架と復活は切り離すことができないものなのです。
●復活―命の光の現れ
第二に、イエス・キリストの復活は、神がキリストを通して与えて下さる「永遠の命の光」です。
多くの人は、死者の復活という奇跡など、信じられない、と言います。その人たちは、今、自分が生きていることは当たり前のこのように思っています。しかし、本当は、今わたしたちが生きていることも奇跡なのです。
現代の科学では、この宇宙に命が生まれることは限りなくゼロに近いとされています。ここの宇宙には二兆もの銀河があると言われており、その銀河一つ一つに一つに、太陽のような恒星が数千億個もあるそうです。また、科学者はこの宇宙が百四十億年続いていると考えています。しかし。こ宇宙がどれほど広くても、長い時間がたっていても、生命は生まれないという結論になります。それで、現代の科学者が考えていることは、この宇宙のほかに無数の宇宙があれば、もしかしたら命が生まれる運の良い宇宙がるかもしれない。その無数の宇宙の中の特別な宇宙が、わたしたちのいる宇宙なのだ、というのです。それだけ命とは奇跡的な者なのです。
聖書は、命は決して偶然にできたのではなく、偉大な知恵と力を持つ神によって」創造されたのだと教えています。そして、命の創造者である神は、尽きることがない命も与えることができる方なのです。
しかし、わたしたちは神によって死に定められたのです。それは、神を愛し、神と共に生きるはずの人間が、神から離れ、神の御心ではなく、自分の思いに従って生きるようになり、この世界に害を与える者になってしまったからです。創世記六章には、神様によって人間の寿命は長く生きても百二十歳まで、と定められたことが書かれています。
しかし、神様は罪と死から救ってくださる救い主を与えると約束して下さいました。神が与えて下さった、御子イエス・キリストは、罪のないご自分の命を捧げて下さり、わたしたちの罪をすべて償ってくださいました。そして、父なる神は、キリストを復活させました。それは、元の古い体に生き返ったということではありません。イエス様は、栄光の体、死ぬことも朽ちることもない新しい体に復活したのです。そして、イエス様を「わたしの主」として受け入れる人は、十字架で罪を償ってくださったイエス様と結ばれて罪を赦され、また復活したイエス様と結ばれるのです。
●「ガリラヤで会おう」
イエス様は復活され、この世界に神の愛の光、神の命の光を照らしてくださいました。それは週の初めの日、日曜日のことでした。それでは、世界で最初の日曜日には何があったでしょうか。最初の日曜日は、天地創造の第一日です。創造の初め、地はかたちなく、むなしく、闇が淵の面を覆っていた、と書かれています。そ神が、「光あれ」と言われると、闇を切り裂いて光が地を照らしたのです。そして、その光の中で世界が創造されていったのです。
わたしは、キリストに出会う前のわたしも、この最初の地球のようであったと思います。自分が何のために存在しているのか分からず、「かたちなく、むなしい」状態でした。さらに、「死」という闇が世界を覆っていて、いっそう人生を空しいものにしていました。しかし、混沌としたわたしの心にキリストの光が照らされ、わたしの人生はまったく新しいものになりました。意味があり、希望があるものになったのです。
しかし、この世界には、今も多くの人が命の光が届かない、闇の中にいます。神を見失い、死の力に勝つことができない,という虚無感の中にいます。
イエス様は、弟子たちに「ガリラヤへ行くように」と告げました。ガリラヤは、弟子たちがイエス様と出会い、イエス様と共に、神の国の福音を伝える働きを始めた所です。イエス様がガリラヤで宣教を始めたことについて、マタイによる福音書では、「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」マタイ四章一六節)」と記されています。
マタイによる福音書は、この後、弟子イたちがガリラヤで復活おイエス様と出会い、イエス様を礼拝し、イエス様から世界に遣わされたことを記しています。ガリラヤは、全世界に福音の光を照らしてゆく新たな始まりの場所になりました。
わたしたちも、この礼拝でイエス様に会い、ここから神様の愛と命の光を伝える者として、それぞれの生活の場に出てゆきます。
わたしたちの社会にも、わたしたちを生かす神の愛と赦しの光、また死の闇に勝つ復活の光が照らされなければならないのです。神の福音が公に語られ続けるために、こうして教会で奉仕することは大事なことです。神の言葉なしには、この光は照らされないからです。 また、その光はわたしたちの生活の中で示すことができます。言葉でキリストの光を伝えることはしなくても、神の愛と赦しの光、命の希望の光に照らされた者として歩み、その光を指し示すことができます。
これからも、神の愛の光、命の光を照らしていただき、また、わたしたちをキリストの使いとしてください、と祈りましょう。
枝の主日の説教
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
●万物の所有者
イエス様は、十字架にかけられる週の最初の日、日曜日にろばに乗ってエルサレムの都に入りました。今日がその記念の日です。イエス様は、その五日後の金曜日に十字架につけられ、そして次の日曜日の朝に復活されました。
この最後のエルサレム訪問の時、イエス様は王としてろばに乗り、エルサレムの町に入られたのです。今日の福音書の日課のはじめのほうには、イエス様がどのようにしてご自分がお乗りになるろばを手に入れたのかが書かれています。
エルサレムに入る前、ある村に近づいた時、イエス様は二人の弟子を遣わしました。二人の弟子を遣わされたのは、彼らが、これから起きることの証人となるためでした。イエス様はその二人の弟子に「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」と言われました。
「主がお入り用なのです」という言葉は、「それらの主がお入り用なのです」という言い方です。つまり、「そのろばたちの主がお入り用なのです。」という意味です。これはイエス様が万物の主権者であり、所有者であることを示しています。コロサイ人への手紙には、「万物はキリストによって、キリストのために造られた」と書かれています。(コロサイ一:一六)。イエス様はすべてのものの主であり、望むままにすべてを支配することができる方なのです。
それでは、万物の所有者であるキリストは、この日、なぜ小さな子ろばに乗ってエルサレムに王として入られたのでしょうか。望むものを何でも手に入れることができるイエス様は、立派な馬も手に入れることができたはずです。さらには何千もの軍隊でさえ従わせることもできたと思います。その方(ほう)が、はるかに王様らしく見えるのではないでしょうか。
しかし、イエス様は馬ではなく、ろばを使われました。しかも小さな子ろばを使われたのです。
●イエスの柔和な姿
旧約聖書のゼカリヤ書九章に、この日のことが預言されています。
「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」
ろばに乗るイエス様の姿は、イエス様が柔和な王であることを示しています。ろばは温和な動物です。馬はうかつに近寄ることができませんが、小さな子ろばには、誰もが近づくことができます。神を愛し、心から讃えることは恐怖からは生まれません。イエス様は確かに王なのですが、人を恐れさせ、力で服従させる方でもなく、誰もが恐れなくかづくことができる柔和な方として来られたのです。
また、この「柔和」という言葉は、「苦しめられている」という意味の言葉です。「荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」と書かれていますが、ろばが荷物を背負わされ、黙々と歩くように、この五日、イエス様はわたしたちの罪をご自分の重荷とされ、十字を背負ってゴルゴタまで歩んでくださったのです。
イエス様の時代よりも七百年前に書かれたイザヤ書五十三章に、このように記されています。
「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。」
イエス様の時代に限らず、人間の支配者は、戦争の時、自分のために国民を犠牲にします。しかし、イエス様が王としてなさったことは、その反対でした。罪と死の力に捕らわれていたわたしたちを解放するために、わたしたちの罪の責任をすべて背負って死んで下さったのです。この世の王は人間を罪と死の力から救うことはできません。しかし、イエス様は罪を持たないその体にわたしたちの罪を引き受け、わたしたちのすべての罪かを赦し、また、罪の結果である裁きと死から救ってくださったのです。このイエス様をわたしの王とするとき、わたしたちは罪と死の支配の中から、王であるイエス様の恵みの支配のもとに移され、神の民として生きることができるのです。このような方こそわたしたちの喜ぶべきまことの王ではないでしょうか。
●イエス様を王として
今日の福音書には、イエス様を王として喜び、讃美した人々のことが記されています。八節以下に次のように記されています。
「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。「そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
よく、「『イエス様ばんざい』と言って歓迎した人々が、その週の金曜日には『十字架につけろ』と叫んだ」と解説されることがありますが、しかし、ここでイエス様を王として讃えた人々は、ルカ福音書によればイエス様の弟子たち弟子たちでした。(ルカ一九:三七)。
イザヤ書の六二章一二節には、この時の出来事を予見している言葉が記されています。
「見よ、主は地の果てにまで布告される。娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。」
ここで「あなたの救い」と記されている「救い」という言葉はヘブライ語で「エシュア」つまり「イエス」です。「見よ、あなたのイエスが進んで来る。」そして、「主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。」 というのです。それは
イエス様が勝ち取られた人々、その働きの実りである人々がイエスの後先を進んでいる、ということです。その言葉の通りに、イエス様がエルサレムに入城されたとき、「イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ」(マタイ二一:九)のです。
彼らは自分たちの王であり、救いであるイエス様を讃美せずにはいられませんでした。イエス様の力、イエス様の恵みの業を見たからです。そしてイエス様こそ神が約束しておられたダビデの子、救い主であると告白し、讃美したのです。
イエス様とともに歩んだ人々は、エルサレム全体から見れば小さな群れであり、ローマの軍隊が警戒するほどの大群衆ではありませんでした。また、弟子たちがイエス様のために道に敷いたしゅろの葉や彼らの上着も高価なものではありませんでしたが、彼らは喜んでイエス様が王であり、救い主であることを言葉と奉仕によって示したのです。
イエス様がこの時、いつもの巡礼の時のように普通に歩いてエルサレムの町に入ったなら、誰もイエス様が王であることに気づかなかったことでしょう。しかし、イエス様と共に歩み、イエス様を讃えた人々によって、イエス様が王であることがエルサレムの町全体に伝えられたのです。
イエス様は、今もわたしたちと共に進んで行かれます。小さなろばを用い、またご自分を信じた人々を必要とされたように、今もイエス様を喜び、心からイエス様を賛美するわたしたちを必要とされ、用いておられます。
わたしたちは、エルサレム入城の時の弟子たちが知らなかったことを知っています。それは、イエス様がこののち、わたしたちの罪を背負いぬき、また復活されたことです。そして今も生きて永遠にわたしたちの王になってくださったことです。世界中で、イエス様によって勝ち取られた人々が、王であるイエス様を讃えてイエス様を告げ知らせています。わたしたちもこの最も尊い働きに仕えることができるのは幸いなことです。小さな者の賛美も奉仕も、イエス様はご自分のために用いてくださいます。これからもイエス様を喜び讃えながら、イエス様と共に歩んでゆきましょう。
四旬節第5主日の説教
ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。 イエスは涙を流された。 36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
●イエスとラザロ
今日の福音書は、イエス様がラザロを復活させたというお話です。ラザロの姉妹たちは、イエス様に、「あなたの愛する者が病気です」と伝えています。イエス様はこの時、ラザロが住んでいたベタニアから、歩いて一日かかるところにおられました。しかし、イエス様は、ラザロの病気のことを聞いても、なお二日間そこにとどまっておられました。それはイエス様に考えがあったからです。イエス様はこう言っておられます。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」先週の日課で、イエス様は生まれつき目が見えない人について、それは「神の業がこの人に現れるためである」と言いました。ここでもイエス様は、ラザロを通して、イエス様を遣わされた神の栄光があらわれる、と言われました。
わたしたちも、祈っても思い通りにならないことがあります。でもそんな時、失望すべきではありません。イエス様は、わたしたちの思いを超えて、神の栄光をあらわしてくださるからです。二日経って、イエス様は弟子たちに、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」と言われましたが、イエス様はラザロがすでに死んだことを知っておられたのです。ラザロを起こす、とは、ラザロを復活させる、ということでした。
イエス様がラザロを復活させたのは、死後四日たってからでした。イエス様はそれままでも、ナインの町の寡婦の息子やヤイロの娘など、死んだ人を復活させています。しかし、それは死んでから間もない時でした。ですからラザロの復活は特別です。それは、たとえどれだけ時間が経っても、イエス様はご自分の愛する者を復活させてくださる、ということを教えています。イエス様は、将来この世に戻って来られ、イエス様を愛するすべての人を復活させてくださるのです。ラザロの復活は、もとの命に戻ることですが、将来の復活はイエス様の復活と同じ栄光の体、永遠の命への復活です。
●イエスを迎えたラザロ
ベタニアの村は、エルサレムに近く、一五スタディオンほどであった、とありますが、約三キロの距離です。イエス様がラザロのもとに行くことは、ご自分を憎んでいるユダヤの指導者たちのいる所に戻る、ということであり、命の危険を伴うことでした。弟子たちはイエス様に、「先生、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」 と言っています。弟子たちも、ユダヤに戻るためには死を覚悟しなければならない、と思ったほどです。実際に、今日の日課に続く個所で、ラザロが復活した後、それを知ったユダヤ人の指導者たちは、これ以上あの男を生かしておくわけにはゆかない、とイエス様を殺す相談を始めています。それでもイエス様は命をかけてこのラザロを生かすためにエルサレムに行かれたのです。
では、これほどイエス様に愛されたラザロという人は一体どんな人だったのでしょうか。実はラザロのことはここにしか出てきません。その姉妹であるマルタとマリアの事は、ルカ福音書の十章に、彼女たちがイエス様をもてなしたことが書かれています。また、このヨハネ福音書の一二章には、マリアが高価なナルドの香油をイエス様の足に注いだ、という事が書かれています。
しかし、彼女たちの兄弟であるラザロについては、彼が話したこと、また行った事はひとつも書かれていません。それはとても不思議ではないでしょうか。マルタやマリアがイエス様をもてなした、といいましたが、そこにもラザロのことは書かれていません。それも不自然なことです。ユダヤやアラブ世界では、客をもてなすのは男性の役割でした。女性が客を接待するのは、はしたないこととされていたのです。 それで、当然このベタニアの家でもラザロがイエス様を接待するはずなのです。そうしなかったのは、おそらくラザロが病弱であったということではないでしょうか。しかし、身体は動かないにしても、この家で唯一人の男性であるラザロがイエス様を尊敬していなかったなら、マルタもマリアもイエス様をもてなす事はできなかったはずなのです。それができたのは、ラザロの意志があったからではなかったでしょうか。イエス様と弟子たちがエルサレムに行った時は、ラザロの家に泊まったと考えられます。イエス様はベタニアの家から、毎日エルサレムの神殿に通って、そこで人々に語られたのです。イエス様は、「狐にはあなたあり、鳥には巣がある。しかし人の子にはまくらする所がない」と言われました。それは、ヨハネ一章十一節に、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」とあるように、イエス様に反対し、イエス様を遠ざける人が多かったからです。ラザロ、マルタ、マリアの家は、イエス様にどれほど大きな安らぎを与えたことでしょうか。
●友であるイエス
ラザロがしたことは、イエス様を愛し、尊敬し、自分の家に迎えた、ということです。そして、それこそがもっとも大切な事です。父なる神様は、わたしたちのために最愛の独り子を送ってくださいました。神様がもっとも喜ばれる事は、神が遣わしてくださった方を、わたしたちが感謝と尊敬をもって受け入れる事です。キリストを迎えることなしに、どんなに立派なことをしても、大きな働きをなしてもそれは神様が求める業にはならないのです。
また、黙示録三章二十節で、復活のキリストはこう語っておられます。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」
誰でもキリストの声を聞いて心の戸を開けるなら、キリストはその人の中に来られます。そして食事を共にする、と言われるのです。食事を共にする、ということは命を共にする家族であり、友であるということのしるしです。キリストに対してわたしたちの心の扉を開き、わたしたちの人生という家にお迎えるなら、キリストもわたしたちの友となり、また兄弟となってくださるのです。
イエス様はラザロのことを『私たちの友』といいました。ヨハネ福音書十五章で、イエス様は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と語られましたが、その言葉の通りにご自分の友ラザロのために命を捨てられたのです。しかし、イエス様はラザロのためだけでなく、ラザロと同じようにイエス様を愛し、イエス様を受け入れるすべての人の友となってくださるのです。ラザロのように弱い人であっても、目立たない人であっても、イエス様は「友」と呼んでくださるのです。友という関係は、片方の好意だけでは成立しません。相手の愛情にこちらも応える時に成立します。イエス様が示してくださった愛を、「わたしへの愛」として感謝して受け入れる時、わたしたちもイエス様の友となります。イエス様の大きな愛に比べれば、わたしにできることは小さなことです。それでもイエス様は、わたしたちがご自分を受け入れることを何よりも喜んでくださり、その奉仕を受け取ってくださいます。わたしたちがこうして礼拝することができ、またイエス様のために奉仕ができることは感謝なことです。こうしたことはわたしたちがイエス様に仕えるいために大切なことですが、いつかは体が弱って思うような働きができなくなるかもしれません。しかし、たとえ病床にあるとしても、イエス様を心に迎えることはできます。そしてイエス様にとってはそれが最も喜ばしいことなのです。ですからわたしたちは人生の時々に応じて、自分にできる仕方で、いつもイエス様を迎え続けてゆきたいと思います。そしてまた、イエス様に、「友」と呼ばれているお互いを大切にしてゆきたいと思います。
四旬節第4主日の説教
1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 5わたしは、世にいる間、世の光である。」 6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 7そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。 8近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。 9「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。 10そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 11彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」 12人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。 14イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。 15そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」 16ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。 17そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。
18それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、 19尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」 20両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。 21しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」 22両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。 23両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
24さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」 25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」 26すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」 27彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」 28そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。 29我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」 30彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。 31神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。 32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。 33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」 34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」 37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、 39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。 41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
●見えない人の目を開く
今日の福音書には、イエス様が生まれつき目の見えない人を見かけられたことが記されています。弟子たちはイエス様に「先生、この人が生まれつき目の見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と質問しました。イエス様は弟子たちの質問に対して、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と答えられました。
日本でも、生まれつきの障がいや説明のできない不幸を、「その人が前世で悪いことをしたからだ」とか、「その人の先祖が悪いことをしたからだ」というように考えてきました。
「悪い種をまけば悪い実を刈り取る」という教えは聖書にもあります。しかし、そのような考えをすべての出来事にあてはめることはできません。
イエス様は、人間には克服できない闇のように思える出来事であっても、それを光に変えることができる神の力強い御業があることを教えたのです。
このイエス様の言葉に、どれほど多くの人が励まされ、新しく、力強く生きる人へと変えられてきたことでしょうか。
イエス様は地面に唾をし、土をこね、それを見えない人の目に塗りました。そして、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言いました。この人がその通りにすると、目が見えるようになったのです。
ところが話はそれで終わりませんでした。この人の目を見えるようにしたのがどんな人かということに関心を持った人々は、目が見えるようになったこの人をファリサイ派の宗教指導者たちのところに連れて行ったのです。
ファリサイ派の人々はイエス様に対する反感を持っていました。それは彼らが大事にしていた安息日の規則をイエス様が守っていないと考えたからです。見えない人の目を開くためにイエス様は唾をしましたが、ファリサイ派の人たちにとっては、それは安息日にしてはならないことでした。さらにイエス様は泥をこねて見えない人の目に塗りました。これは左官の仕事をすることであって、やはり安息日には禁じられていました。また命の危険が迫っていないような病気を治すことも仕事をすることで、安息日には禁じられていたのです。
しかし、そのような安息日の規則は聖書にはありません。むしろ安息日には、重荷を負っている人からその重荷を取り去って、安息を与えてあげるべきでした。イエス様は安息日にふさわしいことをされたのですが、ユダヤ人たちは自分では正しいことを行っている、と思いながら、かえって安息日に反することをしていたのです。彼らは「我々は、神がモーセに語られたことは知っている」と言いましたが、本当には知らなかったのです。
●わたしたちを見えなくしているもの
また、ユダヤ人たちはイエス様が見えない人の目を見えるようにしたことを聞いても、素直にそれを認めることができませんでした。イザヤ書三十五章には、メシアが来られる時、見えない人の目が開かれるということが書かれています。旧約聖書には多くの奇跡が記されていますが、見えない人が見えるようになったという奇跡はありません。しかも、イエス様は生まれつき見えなかった人の目を開いたのです。ファリサイ派の人々は目が開かれた人を呼んでいろいろと尋問し、また彼の両親も呼んで調べました。そして本当にイエス様が、生まれつき見えなかった人の目を開いたことを知ったのです。しかし、それにもかかわらず、彼らはイエス様を神から来た人とは認めませんでした。そればかりか、目を癒してもらった人を外に追い出しました。これは、ユダヤ人の共同体から締め出した、つまり村八分にしたということです。
ファリサイ派の人々の心の目は、自分たちは神様のことを知っている、そして自分たちはその神様の前に正し者だという思いによってふさがれていたのです。
イエス様はユダヤ人から追放されたこの人に会いました。そして、目を開かれた人は、素直にイエス様を信じました。彼は開かれた目でキリストを見たのです。イエス様はその時、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」と言いました。
ルターは、「同じ太陽の光に照らされても、蝋は溶けるが、粘土は固まる」と言いました。世の光であるキリストが近づいてくる時、喜んでその光を受け入れる人と、反対に自分の正しさや誇りのために、心を頑なにする人に分れるのです。「わたしは見えている」、「わたしは正しい」と言って、わたしの罪を背負って下さったキリストを拒む時、わたしたちは自分だけで神の裁きの前に立つという道を選んでいるのです。
わたしたちも、実は生れつき見えない者でした。生まれつき神を知っている人はいません。自分がどこら来てどこに行くのか、という大事なことも知りませんでした。そして死の闇の中にいたのです。
しかし、世の光であるキリストが来られました。そして罪によってふさがれていたわたしの心の目を開いて下さり、神と、神が遣わしてくださった救い主を知ることができたのです。
●「見えない」ところからの出発
わたしたちはキリストを・通して一番大切なことに目を開かれました。しかし、聖書は、わたしたちが、これからもキリストに照らされて歩んでゆくように勧めています。
わたしはいくつかの教会で、自分が正しいと主張して、兄弟を裁き、結局自分から教会の交わりを断ってしまう人を見てきました。自分が正しいと思っているので、自分が多くの罪を赦され、今も赦されている、ということが見えなくなってしまうのです。キリスト者とは。自分が正しいと思っている人のことではなく、自分が赦されていることを知っている人のことであり、生涯その赦しの中に生きる人のことです。また、わたしたちはキリストにある豊かな富と栄光に目を開かれてゆきたいと思います。エフェソの信徒への手紙一章で、パウロはこう教えています。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」
わたしは、これまでの人生を振りかえって、イエス・キリストという宝よりも、宝を入れる器の方を大事にしてこなかったか、ということを思わされています。暮らしの快適さ、家族、健康、仕事など、どれも大切なもののです。しかし、それらは決して永遠のものではありません。それはこの世でキリストという宝を受けとり、また、キリストと隣人に仕えるという永遠に残るものを入れる器なのです。器はいつか壊れますが、キリストによって結んだ実は、永遠に残るのです。
イエス様は目が見えなかった人の目に泥を塗りました。そしてシロアムの池に行って洗いなさい、と言いました。シロアムとは「遣わされた者」という意味です。この「遣わされた者」とは、イエス様のことですが、イエス様によって遣わされている教会とも受け取れます。わたしたちはいつも教会で聖霊の水によって心の目を開いていただくのです。
目に泥を塗られた人はそのままでは恥ずかしくて人前で生活できません。早く洗わなければなりません。これは「マイナスからの出発」と言えます。教会に来るとき、「わたしは、よく見えている」という思いではなく、「わたしの目を開いてください。あなたの御心を知ることができるように、わたしの目を開いてください、と願い求めて、これからも心の目を開いていただきいと思います。
四旬節第2主日の説教
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
●イエスとニコデモの対話
今日の福音書の日課は、イエス様とニコデモの対話から始まっています。ニコデモと言う人はファリサイ派の人であり、またユダヤ議会の一員でした。彼はイエス様の行う様々なしるし、すなわち奇跡を見て、イエス様は神が遣わされた偉大な教師であると考えていました。しかし、すでにイエス様に対してユダヤ議会が反感を持つようになっていたので、ニコデモは他の議員に知られることを恐れて、夜ひそかにイエス様を訪ねたのです。
イエス様はニコデモのあいさつをよそに、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言いました。イエス様は、ニコデモがどんな問いを持ってご自分のもとに来たのかを知っていて、単刀直入にその問いに答えられたのです。ニコデモは、人はどうしたら神の国を見ることができるのか、すなわちどうすれば神の国に入る事ができるのか、ということをキリストに尋ねようとしていたのです。
ユダヤ人にとって、神の国に入ること、永遠の命を得ることは最も大切な人生の目的でした。なぜなら、神の国に入ること・永遠の命を得ることは、その人が神によしとされ、神に受け入れられる、ということだからです。反対に、神の国に入れない、ということは、その人の生き方が、神によって否定される、ということだからです。
ファリサイ派に属していたニコデモは、神に受け入れられるために、神の戒めを厳格に守り、正しい道を歩もうと努めていました。彼は全ユダヤ人の中から選ばれた七十人からなる最高議会の一員ですから、人々の尊敬に値する人物であったことが分かります。しかし、ニコデモには「わたしはきっと神の国に入ることができる」という確信がありませんでした。ですからこの問題について、イエス様に聞いてみようと思ったのです。
●霊によって生まれた者
ニコデモは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」というイエス様の言葉にとまどいました。しかし、ここでイエス様が語られた「新しく生まれる」という言葉は「上から生まれる」という意味もあります。それは「神によって生まれる」ということなのです。イエス様は、「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(三:六)とニコデモに語っています。聖書では、「肉」といは「生まれつきの人間」を指す言葉です。そして、「霊」とは神の霊のことです。古い人間性に基づいてどんな善い行いをしようとしても、それによって神の国に入ることはできない、人は神の働きかけによって神の国にはいることができるのだ、とイエス様は断言されたのです。
キリストは、どのような人々によって十字架の死に追いやったのでしょうか。それは。長老、律法学者、祭司長たちでした。先ほどお話したユダヤの最高議会を構成していた人々です。すなわちユダヤ人の中から選りすぐられたたった七十人でした。人格、知識、行いにおいて、宗教的地位の高さにおいて最も優れているとみなされていた人々によって、キリストは罪がなかったにもかかわらず、ひどい扱いを受けて殺されたのです。自分たちは正しく、尊敬を受けるのに値する人間だと思っていた彼らは、彼らの隠れた心の罪を照らすキリストを憎み、キリストを亡き者にしようとしたのです。
どんなに立派に見えても、古い人から永遠の命は生まれません。人間の修行や努力ではなく、人間の内に、神の霊、すなわち聖霊が与えられなければならない、とイエス様は教えられたのです。
イエス様は、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(三:八)と語りました。この「風」は「霊」という言葉と同じです。この「神の霊」という「風」が、「思いのままに吹く」と語られる時、それは「気ままに吹く」、と言うように聞こえます。しかし、これは「霊は・その意志のままに吹く」という言葉で、決して「気まぐれに吹く」と言う意味ではありません。
今では気象学の知識によって、わたしたちは「風が吹く法則」というものを知っています。風は気圧の高い所から低いところに吹きます。聖霊という風も、高ぶる人にではなく、へりくだる人に向かって吹きます。イザヤ書五七章一五節で、神はこのように語っています。
「・・・わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる。」
●主を仰いで救いを得よ
それでは、わたしたちは、どのようにしてへりくだり、神の命を受けるのでしょうか。それはわたしたちがイエス・キリストの十字架のもとに来て、十字架の上のキリストを仰ぐ時です。わたしたちはそこに、神の子を十字架につけたこの世の罪、またその世の一人であるわたしの罪を見るのです。そして神の前に心を砕かれるのです。そこには神に敵対して生きてきたわたしの罪が示されているからです。
しかし、もしイエス・キリストの十字架が、わたしの罪を示すためだけのものであるなら、わたしたちはだれひとり十字架を見続けることはできません。イエス・キリストの十字架は、わたしたちの罪を示すだけではなく、その罪を進んでご自分の身に引き受けられた神の子の姿を示しているのです。
今日の日課の中には、有名なヨハネ三章一六節の言葉があります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
「独り子をお与えになった」という言葉は、神様がクリスマスンイエス様を赤ちゃんとして与えてくださったことを思わせますが、この「与えた」という言葉は「差し出した」という意味であり、また「献げる」という意味の言葉です。ガラテヤの信徒への手紙一章四節に、「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」とありますが、この「献げてくださった」という言葉と同じです。神がその独り子を与えたということは、十字架の上に「差し出された」、また「献げてくださった」ということです。キリストの十字架は、わたしたち人間の罪の結果ですが、それ以上に、わたしたちの罪のために神が献げてくださった愛の犠牲なのです。わたしたちは、イエス・キリストの十字架を見上げる時、わたしが神様の無限の赦しの中に受け入れられていること知ります。そしてわたしたちはこの神の前でありのまま人間は、神を愛する時、生きることができるように造られています。神様はわたしたちがまだ神に背を向け、神に逆らっていた時に、の自分を差し出すことができるのです。
ご自分の最愛の独り子を十字架に渡され、わたしたちに赦しと愛を示されたのです。そしてすべての人がこの神の愛に応えて永遠の命を得るのを待っておられるのです。イザヤ四五章二二節で神はこのように語られています。
「地の果てのすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ。」
わたしたちはこれからも命を与えるイエス・キリストの十字架を仰いてゆきましょう。そこから神の愛の息吹と、新しい命を与える霊がわたしたちに注がれているのです。
四旬節第1主日の説教
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
●荒れ野の誘惑
今日の福音書は、ヨルダン川で洗礼を受けたイエス様が、荒野に導かれ、そこで四十日間の断食をされ、さらに悪魔の誘惑をお受けになったことが書かれています。
「悪魔の誘惑」という言葉は、今日の旧約聖書の日課である、人類の始祖アダムに対する誘惑を思い出させます。また、「荒野」や「四十日間」という言葉は、昔モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民が、約束の地に向かって、四十年間の旅をしたことを思い起こさせます。イエス様が荒野で受けた誘惑は、すべてイスラエルの人々が四十年間の荒野の生活の中で経験した誘惑でした。
第一に、イスラエルの人々は、旅の途中でパンが無くなった時、「神は自分たちを滅ぼすために荒野に導いたのだ」と言って神とモーセを非難したのです。しかし、神はこの不信仰な民を、天からのパンである「マナ」によって養ってくださったのです。
また、水が無くなったとき、「神は本当に我々の内にいるのか」と言って神を試みる、ということかありました。
さらにイスラエルの人々は、旅の途中で、先住民族の高度な文明と繁栄ぶりを見て、彼らが拝んでいる偶像を拝む、という背信行為をしました。そのような偶像礼拝は、イスラエルが約束された土地の住んだ後でも、繰り返し行われてきました。旧約聖書の歴史は神の民の背きの歴史です。
人類は最初の人間アダムにおいて悪魔の誘惑に負けました。また、神が選んだイスラエルの人々も、エジプトで神様の偉大な奇跡を経験したにもかかわらず、誘惑に負けてしまったのです。
ここで覚えておきたいことは、誘惑という言葉は、人間に好ましく見えることによって神から引き離すだけでなく、苦しいことによって人間を神から引き離すことも誘惑と呼ばれている、ということです。ですから「誘惑」よりも「試み」という方が理解しやすいかもしれません。悪魔は人間にとって、魅力的な者、好ましいものによって、また、その反対に、病気や貧困、苦しみ、迫害によって、神に信頼することから離そうとするのです。すべての人はこの悪魔の試みに負けてきました。アダムの罪を受け継いでいるからです。しかし、人となられた神の子は、ただ一人、悪魔の誘惑をすべて退けたのです。
●メシアとしての試練
しかし、荒野でイエス様が受けた悪魔の誘惑は、個人的なものではなく、人類の救い主としての道を歩み始めようとしているメシア=キリストに対する誘惑でもありました。人間となられたイエス様は、荒れ野での断食によって、飢えの苦しみがどのようなものかを極限まで経験されました。そのイエス様の心に悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」とささやいたのです。「戦争は飢えることへの恐怖から生まれる」と言われるように、飢えは人類にとって最も大きな問題です。悪魔はイエス様に、「人々にパンを与えて生活を保障してあげたならら、人々はこぞってあなたに従うことでしょう。」と持ちかけたのです。実際イエス様はわずか五つのパンと二匹の魚を増やして五千五人以上の人々のお腹を満たしたのです。しかし、イエス様はパンによって人々を引き寄せたのではありません。イエス様の教えを熱心に聞いていた人々が、空腹のまま帰らないように食べ物を与えたのです。パンだけでは人は人として生きることはできません。イエス様は人々が何よりもまず神の言葉を聞くことを求められたのです。
次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」と言いました。これはイエス様が持っている奇跡を行う力を使って、ご自分がメシアであることを示しなさい」という誘惑です。イエス様の時代には、メシアが来ると、神殿の屋根から飛び降りて、害を受けないことを示す」と言い伝えられていたそうです。しかし、イエス様は、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と答えました。
イエス様は様々な奇跡を行いましたが、それはすべて人々を救うための奇跡でした。イエス様は自分のために起こしたことは一度もありませんでした。また奇跡で人々が驚かせ、ご自分を信じさせようとしたこともありませんでした。
三番目に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言いました。成功者、権力者のもとに人は集まるものです。悪魔は、「もし、あなたが世界の国々を支配する権力と、この世の繁栄を持つなら、人々はあなたに従うことでしょう。それはあなたにとっても良いことではないか。そのためにわたしの助けを受けなさい、と悪魔は誘惑したのです。
「目的は手段を正当化しなかい」という言葉があります。多くの権力者が、「わたしはこの社会を良くしたいと願っている。そのために使うお金なのだから、多少の不正があっても悪くはない」と言って不正を行います。つまり良いことを行う、という名目で悪を行うのです。
●十字架の道を選んだイエス様
人となられ、人間と同じ体を持ったイエス様は、人間の苦しさ、弱さを同じように感じていました。そして、わたしたちが何によって動かされるのかも知ったのです。しかし、イエス様は悪魔が持ちかけたすべての誘惑をきっぱりと拒みました。
イエス様は、パンによって人々を引き寄せたり、奇跡を見せて人々を驚かせたり、またこの世の繁栄や権力によって人々を従わせるたりする道を否定したのです。なぜなら、そのようなもので人間を動かすことができても、人を、神を愛する者に変えることはできないからです。
ある方が、「人間の心の扉には、内側にしかノブがない」と言いました。パンを与えること、目に見える不思議なしるしを見せること、また、この世を支配する力を振るうことによって、ご外側から人の心をこじ開けようとしても、人を心から神を愛するようにすることはできないのです。罪を持つわたしたちは、神の完全な愛と赦しを見ることなしに、神を愛することはでいないのです。
この世に来られ、人間としての苦しさを経験しているイエス様に、悪魔は、苦難の道ではなく、他の道を選ぶようにと語りかけました。しかしイエス様は悪魔を退け、十字架への道を選びました。神の愛と赦しの表れであるキリストの十字架こそ、わたしたちを神のものとし、永遠に生かす唯一の道なのです。
わたしたちにも悪魔の誘惑はやってくるかもしれません。悪魔がキリストにこの世の繁栄を与えると約束したように、イエス様よいも目の前の利益や喜びの方を選び取るようにいざなう声が聞こえるかもしれません。しかし、悪魔がキリストに言わなかったことがあります。悪魔はこの世の繁栄を「永遠に与える」とは言わなかったのです。人は今の安楽で幸福な生活が、いつまでも変わらずに続くかのように考え、神を捨ててしまうのです。それが「悪魔の空しい約束です。わたしたちは洗礼の時、「悪魔とその空しい約束をことごとく退けます。」と誓いました。キリストに従う道はむなしさでは終わりません。イエス・キリストという朽ちることがない宝を持っているからです。
キリストの苦しみを憶えるこの時期に、改めてわたしたちのために人となられ、十字架の道を選び取ってくださったイエス様を覚えたいと思います。その愛に応えて、わたしたちも最後までイエス様に仕えることができるよう、祈りたいと思います。
主の変容主日の説教
六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
●六日目の出来事
今日の福音書は、「六日ののち」という言葉で始まっています。一週間前には何があったのでしょうか。フィリポ・カイザリヤの町で、ペトロがイエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と、初めて告白したのです。ペトロは他の弟子たちを代表してそう、そのように告白したのです。弟子たちはイエス様がなさった多くの奇跡を見てきました。また身近でイエス様に接してきました。そして、イエス様が神の子であり、救い主であると信じ信じたのです。
ところが、イエス様はそのように信じた弟子たちに、思いがけないことを話し始めたのです。イエス様は、「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と弟子たちに打ち明け始められたのです。
弟子たちはその言葉に衝撃を受けました。イエス様がエルサレムで王座に就くこともなく殺されてしまう、ということなど、絶対に考えることができなかったのです。つい先ほど、イエス様を「あなたは生ける神の子、キリストです」と告白したペトロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」とイエス様をいさめました。イエス様はそのペトロを「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者だ」と叱ったのです。
それからずっと、弟子たちは重苦しい空気の中にいました。一週間がたった時、イエス様は、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人を連れて高い山に登りました。他の福音書では、イエス様は山の上で祈っていた、と書かれています。祈っているうちに、イエス様の顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなったのです。
これは、イエス様に対して、「あなたは生ける神の子、キリストです。」と告白したペトロの信仰が正しいことを示すものでした。
このイエス様の栄光の姿は、弟子たちにとって、どんなに大きな励ましとなったことでしょうか。さらに弟子たちが見ていると、光輝くイエス様のそばにモーセとエリヤが現れたのです。モーセはイスラエルをエジプトから救い出した人です。エリヤも神の奇跡によってイスラエルを苦しめた悪い王と対決した人たちです。イスラエルの人々が最も尊敬するこの二人がイエス様と一緒にいるのを見た弟子たちは、この素晴らしい光景がいつまでも続くようにと願いました。それでペトロは、イエス様に、「あなたとモーセとエリヤのために、ここに仮小屋を三つ作りましょう」と言ったのです。すべての人がこの山に登って、モーセとエリヤとイエス様の栄光の姿を見たなら、必ずイエス様を信じる、と思ったからです。
●モーセとエリヤとイエス
ところが、ペトロがそう言っているうちに、光り輝く雲が彼らを覆いました。そして雲の中から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という神様の声が聞こえたのです。
神様は、弟子たちの目の前で、確かにイエス様が栄光に満ちた神の子であることを弟子たちに示されました。それと同時に、神の子であるイエス様に聞き従わなければならない、と教えられたのです。
弟子たちの目の前で輝、いているイエス様の栄光は、イエス様の姿が新しい姿に変わったのではなく、父なる神様と共におられた元の姿に戻ったと、ということです。出エジプト記には、神と語り合ったモーセの顔が、神の栄光の光を浴びて、しばらく光っていた、ということが書かれています。しかし、イエス様の光はモーセのように照らされて光るのではなく、内側から輝く光であり、モーセを照らした光です。そして神様はこの神の子の栄光を持つイエス様に聞け、と言われたのです。
弟子たちはエス様が正義のために敵と戦ってくださる救い主であると期待していました。わたしたちも時々、この弟子たちと同じように、神様は悪い人を裁いて、この世界をもっとよくしてくださるべきではないのか、と考えているのです。・
韓国の漫画に、こんなことが書かれていました。ある人が神様に言いました。神様、あなたがこの世界を本当に治めておられるのなら、なぜ多くの悪人がいるのでしょうか。なぜあなたは彼らをそのままにしておくのでしょうか。」神は答えました。よろしい。今から二四時間後に、この地球からすべての悪人を消しさろう。二四時間後になったとき、この地球にはひとりの人間ものこっていなかった、と言うお話です。
弟子たちは、雲の中から聞こえる神の声を聞いたとき、「ひれ伏し、非常に恐れた。」 と書かれています。罪のある人間は、この弟子たちのように、神の前の前に立つことは、恐れでしかないのです。聖書は、「すべての人は罪を犯したので、神の栄光を受けられなくなっている」と教えています(ローマ三:二三)。もし神様が正しい裁きを行うなら、わたしたちは誰一人として神様の前に立つことができません。そればかりか、わたしたちのすべての罪のために裁きを受けなればならないのです。
モーセやエリヤはイスラエルの人々に、罪に対する神の怒りと裁きをあらわしました。それと同時に彼らは罪から救う神からの救い主が来ることを予告したのです。そして今弟子たちの前にそのすき主が来ておられるのです。
●栄光から苦難へ
イエス様は何のために人間となられたのでしょうか。悪い人を滅ぼすことなら、モーセも神の力を受けて行いました。死んだ人をもとの体に生き返らせることなら、エリヤのような人間でもできたのです。
しかし、神の裁きをわたしたちに代わって受け、罪を赦し、命を与えることは、罪のある人間にはできません。にしかできないのです。罪のない方、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神から宣言された方だけにできることなのです。
しかし、神は死ぬことはできません。そのために神の子であるイエス様は神と共におられたその栄光を捨てて、わたしたちと同じ姿になられました。そして、わたしたちの罪の赦す」ために、十字架への道を歩まれたのです。
今日の「みことばの歌」として歌った、「主われ」を愛す」の歌詞の二番に、「わが罪のため さかえを捨てて 天より 下り、十字架につけり」とあります。これは大切なことを教えています。イエス様は、も「わたしの罪のため」に、神の子の栄光を捨てて、わたしたちの所に来てくださったのです。わたしたちはこのイエス様の愛と赦しによって、神様と出会うことができ、また心から神様を愛する者とさるのです。
今日の使徒書の日課で、ペトロはイエス様が復活した後に、山の上で起きたことを語っています。
「わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」(第一ペトロ一:一八)と証言しました。そのあとペトロは続いてこう語っています。こ
「また、私たちは、さらに確かな預言者のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」(二ペトロ一:一九 新改訳)
わたしたちは、ペトロたちと同じように、光り輝くイエス様の姿は見ていません。でもペトロは、わたしたちはもっと確かな光を持っている、と言っています。それは、イエス様のことを前もって告げている聖書の預言です。モーセやエリヤは旧約聖書を代表する人です。そして旧約聖書は、神様が遣わされる救い主を予告しているのです。旧約聖書は救い主イエス・キリストのすべてを予告しています。そして、その約束はイエス様によってその通りに実現したのです。このように遠い未来のことを予告することは、神様にしかできないことです。聖書を学びましょう。そして、イエス様の弟子として、この世界にとって最も大切なイエス様の御業を伝えてゆきましょう。人の目に弱く、愚かに見えても、イエス・キリストの十字架こそ、最も大切な神の御業、人を新しくする力です。聖書は、やがてイエス様は栄光の王として再び来られることも告げています。それまでわたしたちは、イエス・キリストの十字架の救いを、力を合わせて伝えてゆきましょう。
顕現後第4主日の説教
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
●イエスのもとに来た人々
ただいま読まれた福音書の日課は、「山上の説教」と呼ばれ、五章から七章にわたってイエス様の教えが語られている説教集の冒頭の部分です。ここには「八つの幸い」について語られていますので、昔から,「八福の教え」とも呼ばれてきました。
イスラエルに旅行するクリスチャンたちは、必ずと言ってよいほど、この山上の説教が語られたとされる場所を訪れます。そこはガリラヤ湖を見下ろす山の上で、「山上の説教の教会」と呼ばれる八角形の美しい教会堂があります。わたしがそこを訪れた時に感銘を受けたのは、湖の近くのカファルナウムの町からこの山上の説教の教会にバスで移動した時でした。湖から山への道は思ったより長いつづら折りの道でした。その時考えたのは、「カファルナウムの町からこの山道を登ってまでイエス様の後を追ってきた人々は、それだけ切実にイエス様の話を聞きたいと思っていた人たちではないか」ということでした。
今日の日課の前、四章の終わりには、イエス様がガリラヤ中を回って、諸会堂で教えたこと、多くの人を癒したこと、そして大勢の群衆が来てイエス様に従ったことが記されています。イエス様が身近で行われる奇跡を見て、その話を聴きたいと思う人は多くいたことでしょう。しかしイエス様の後について山道を行く人は限られていたと思います。しかしイエス様が何よりも願われたことは、人々がご自分の教えに耳を傾けることでした。それでイエス様は街中ではなく、山の上で教えを語られたのです。
わたしは、これまで牧師として、まだクリスチャンではない方々にもキリストについて語ることがありました。結婚式や葬儀の場では、そこにいる多くの未信者の方々に、イエス様のことを伝えたいと思って語ってきました。特に葬儀の時は、死について、また人生の意義について考えさせられる時だと思うので、キリストのことを知って欲しいと願って語ってきました。でも、そこからキリストに導かれる人は本当にまれでした。殆ど人にとって、そこで聞く聖書のメッセージは、葬儀という儀礼の一部に過ぎなかったのです。
ですから、ある人が礼拝のために教会に来るようになる、ということは奇跡的なことで、神に導かれてきたとしか思えないのです。イエス様は、ご自分の後を追って山に登ってきた人々に対して「なんと幸いなことか」と語られたのです。そして、今日イエス様は、この礼拝に集っている皆さんにも、、「幸いない人々lと語りかけておられるのです。それは、イエス様がヨハネ福音書六章で語っているように、イエス様の父である神が引き寄せてくださるのでなければ、誰もイエス様のもとに来ることはできないからです。キリストの言葉を求めてキリストのもとに来る人は、神に見出され、神に導かれている幸いな人々なのです
●本心の貧しい人、悲しむ人
イエス様は、最初に「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである」と宣言されました。なぜ「心の貧しい人」が幸いなのでしょうか。わたしたちの社会では、「心の貧しい人」という言葉は、「心の狭い人、自己中心のさもしい人」というような否定的な意味で使われます。そして、反対に「心が豊かになること」が幸せであると考えています。人々は心豊かに生きようとして、経済的にも精神的な豊かさを得ようとします。
しかし、ここでの「心の貧しい人」の「心」とは、ギリシャ語の「プネウマ」という言葉で、「霊」という意味です。「霊」は人間の一番深い所にあって、神様が宿る所です。人間の霊は、神様だけが満たすことができるのです。身体的な健康、精神的な豊かさを得ることはできたとしても、霊的に満たされることはできません。しかし、わたしたちは往々にしてそれらが自分を豊かにすると思い込み、それだけを求め、最も大切な神との関係を求めようとしないのです。神時の関係が回復されるためには、自分の霊の貧しさを知らなければなりません。
自分の心の貧しさを知る人は天の国を与えられています。その人は、神に導かれて、神が与えてくださったイエス・キリストぬ出会っているからです。「天の国」とは、言い換えれば「神の国」のことです。イエス様は神の国の王として来られました。この神の国の王であるイエス様のもとに行く人は、天の国の民とされています。それは、この世を去ってからではなく、今すでに天の国にいるのです。
二番目の「幸いな人」は、「悲しんでいる人」です。これもわたしたち人間の考えとは正反対の教えです。しかし、人間の力では決して癒されない悲しみを持つ多くの人が、イエス様のもとに導かれ、慰めを受けるのをわたしたちは見ています。
この日本で、最も多くの人に影響を与えたクリスチャンの一人に、一昨年天に召された星野富弘という方がいます。星野さんは、体育の教師でしたが、授業中事故で首から下が麻痺してしまいました。しかし最も深い悲しみの中でキリストに出会った星野さんは、筆を口にくわえて画と詩を書き、それによって、多くの人に、神にある慰めと希望とを伝えたのです。
また、自分自身は健康であり、普通の生活をしていても、この世界にある苦しみに目を向けて、悲しむ人も幸いです。わたしたちがこうして教会に集まるのは、自分のためだけでなく、兄弟たちや世界の重荷を負う人々の悲しみを覚えて、神の憐れみを祈るためでもあるのです。
●柔和な人、義に飢え渇く人
イエス様は「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」と宣言されました。この「柔和」という言葉は、抑圧された人々、虐げられている」という意味の言葉です。この世界では,権力や高い地位を持ち、人の上に立って支配する人の方が、幸いだと思っている人が多いと思います。しかし、そのような人が神に信頼し、神に従うことはありません。世界の歴史を見ても、戦争によって領土を拡大しようとした国は、一時は成功するように見えても、必ず大きな災いをこうむるのです。
アメリカで、黒人が奴隷にされていた時、その過酷な境遇の中で、彼らは神とキリストに救いを求めました。そして、神がやがて彼らに与える世界を約束されたのです。
四番目にイエス様は、「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」とい宣言されました。イエス様のところに喜んで近づいて行った人々は、自分たちが罪人であることを知っていた人たちでした。一方、「自分たちは律法を守っている「正しい者だ」、と思っていた人々は、イエス様のところに行っても、自分たちが評価されないばかりか、かえって隠された罪を指摘されて、怒ってイエス様のもとを離れました。
イエス様は、モーセが与えた律法は大事なものである、と言われました。しかし、律法は、わたしたちの心を照らし、わたしたちの罪を教えるため、そして神の赦しと救いを求めるために与えられたのです。イエス様は、「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マタイ九:一三)と語られました。神の掟のうわべを行うのではなく、その光に照らされて自分の罪を知る人たち、そして神に受け入れていただくことを求める人は、イエス様が与えて下さる罪の赦しを知り、その赦しの中で新しく生きてゆく力を与えられるのです。
今まで見て来た「幸い」は、この世で人々から求められる幸せとは正反対に見えます。しかし、この世の人々が求める幸せは決して永遠ではありません。これに対してキリストが与えてくださる喜びと平安と希望は、いつまでも消えることがありません。わたしたちが年をとっても、その喜びと希望は失われることがありません。キリストは、わたしたちが永遠に持つことができる唯一の宝であり、神の最大の恵みです。
今日は八つの幸いの内の四つをお話ししました。わたしたちもこのイエス様の言葉を心に抱き、これからも神の国にふさわしい者であり続けたいと思います.このまことの幸いである神の祝福の中を歩んでゆきたいと思います。
顕現後第3主日の説教
イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
●闇に輝く光
今日の福音書には、イエス様が、「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」と記されています。ヘロデはガリラヤ地方の領主でした。彼は自身の不法な結婚をとがめた洗礼者ヨハネを捕えて牢に入れました。それは現代の独裁者たちが、自分を批判する人を投獄するのと同じです。
イエス様がそのことを聞いて「ガリラヤに退かれた」と書かれています。これはイエス様がヘロデを避けて、遠い所に行ったように思われますが、この「退く」という言葉は「帰る」という言葉です。ガリラヤは、ヨハネを投獄したヘロデの領地です。つまり、イエス様は、ヘロデの領地ではなかった南のユダ地方から、ご自分の出身地でもあり、ヘロデの支配下にある北のガリラヤ地方に、危険を承知の上で戻ったのです。
それはなぜでしょうか。一つには、ヨハネと言う偉大な指導者が捕らえられて絶望している人々に神の言葉を語り、希望を与えるためでした。しかしさらに大きな理由は、今日の日課のイザヤ書にあるように、「異邦人の地、暗黒の地」と呼ばれていたガリラヤ地方に、福音の光を照らすためでした。
イスラエルの北にあるガリラヤは、昔アッシリアに占領された歴史があり、異教の影響を受けていました。そのような結果になったのは、この北イスラエルの人々が、自分たちの神背いて、偶像崇拝に走り、また自国の安全を守るために、主なる神に信頼するのではなく、外国との同盟に頼ろうとした不信仰の結果でした。
また、キリストの時代にも、ガリラヤ地方は、境を接している外国から、ギリシャやローマの宗教や文化の影響を受けていました。それで、宗教的,霊的に最も暗い地方であるとみなされていたのです。
イエス様が、効果的な宣教をしようとするなら、ガリラヤ地方よりも、ユダヤの宗教の本拠地であるエルサレムで宣教し、そこで多くの奇跡を行うほうがよかったと思います。しかし、イエス様はそうではなく、最も暗い所、霊的な光を必要としている人々に、真っ先に光を照らそうと考えられたのです。そさは、今日読まれましたイザヤ書の預言の成就でした。
異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
「世の光」として来られたイエス様は、その憐れみの心によって、最も暗い場所、そしてイエス様にとって危険な所から、神の光を照らす宣教の働きを始められたのです。
わたしたちの日本福音ルーテル教会は今年で宣教開始から一三三年目を迎えますが、アメリカの宣教師が、最初の宣教地として選んだのが、佐賀という土地でした。宣教が困難と言われていた保守的な町をあえて宣教開始の地としたのです。そこにはガリラヤで宣教を始めたイエス様に倣おうとする思いがありました。
●キリストの召し
闇の中を歩む人々に光を照らす働きを始めたイエス様は、一緒にその働きを行う弟子を召されました。最初に弟子として招かれたのが、ガリラヤ湖で漁師をしていたペトロとアンデレの兄弟です。イエス様は彼らに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。 すると「二人はすぐに網を捨てて従った。」と書かれています。ここでの「とる」という言葉は「獲物」という言葉ㇽ「獲る」ではなくて、ひらがなで書かれているのは、ここの言葉は「生かす」という意味を持つからです。神から離れ、この世の海の中に沈んでいる人々を、神の国へと引き上げる働きをすることです
次にイエス様はヤコブとヨハネの兄弟も声をかけました。 するとこの二人も「すぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」と書かれています。
キリストに呼ばれた彼らが、大事な仕事の道具である網や舟を残して、さらに父親まで後に残して従ったことから、これは宣教のために献身した専門的な伝道者についての話のように見えます。しかし、ここではまたすべてのキリスト者の召しについて語られているのです。ヤコブとヨハネの兄弟たちが「舟と父を残してイエスに従った」とありますが、この「残して」という言葉も、網を「捨てる」と同じ言葉です。これは、仕事とも親とも縁を切る、ということではありません。イエス様は、たとえ神様のためであろうと、親を養うという責任を放棄することは許しておられません。(マタイ十五:四-六)ここでの「捨てる」とは、「大切なものの順番が変わる」ということです。今までは家族や、家族を養う仕事が一番大事だった。しかしイエス様に出会ってからは、イエス様のお働きに仕えることが最も大切なものになった、ということなのです。それは「人間をとる漁師」としての働きです。その務めを、わたしたちもキリストから与えられているのです。
●神からの使命に生きる
イエス様が、ガリラヤ湖畔で漁師たちを弟子にしたことは、突然のことのように見えますが、これがイエス様と弟子たちの最初の出会いではありません。先週のヨハネ福音書の日課には、ペトロやアンデレ、そしてヨハネがイエス様に従う弟子になったこと書かれていました。イエス様は、すでにご自分を信じた弟子たちを宣教の働きへと招かれたのです。父なる神様も、またイエス様も、ご自分の救いを伝える宣教の働きを、必ずご自分を信じる人々に託されます。なぜなら、神の救いの言葉を伝えることができるのは、イエス様を信じて聖霊を受けた人だけだからです。聖霊によらなければ、人は神の言葉を理解することも、それを正しく語ることもできないのです。
漢字の「命」という言葉には二つの意味があります。「生命」という意味と、「使命」、また「命令」という意味です。この命と使命とは一つです。人間は神からの使命を果たすために造られました。そして命を与えられ、食べ物を与えられ、配偶者も与えられました(創世記一:二六)。キリストを信じて人も、永遠の命を受けます。そして、キリストから命を受けた人々は、キリストと共に人々を神の国に導く、という使命を受けるのです。
イエス様は、イスラエルの中でも、最も暗い場所から教えを伝え始めました。しかし、霊的な暗さの中に生きている人々は、ガリラヤに住む人々だけではありません。神から離れた、この世界そのものが闇の中にあります。わたしたちは自分の罪のために神から遠ざかり、神を受け入れませんでした。その結果、わたしたちは自分の生きる意味や目的を見失い、また神から離れている不安を埋め合わせるために、自分たちが作り出した偶像を神として拝んでいます。また、そのような人間は神からの命から離れ、死という闇の中に置かれています。この罪の闇、死の闇はわたしたち人間の知識では決して照らすことができない闇なのです。そして、そのような世界に、キリストは世の光として来て下さったのです。ですからガリラヤはこの世界そのものの姿なのです。
イエス様は、正しい教えを語り、また人々を救う神の愛と力をあらわしました。そのイエス様は、誰もが近くに行けるように、低い姿で来られました。そのために、闇の力によって命の危険にさらされました。自分が神から離れた闇の中に生きてきたことを認め、神に帰ることが「悔い改め」です。イエス様を信じる人は、もう闇の中にはいないのです。イエス様によって神のものとされたわたしたちは、今、教会という舟に乗り、この世という海に漕ぎ出し、神の言葉のみ網を降ろして、世の人々を神の国へ導くのです。
漁師の仕事は一人ではできません。同じように、宣教の働きも一人ではできません。神の言葉を語る牧師、宣教師だけでなく、その御言葉を受けて、世の光となって生きる人々によって、キリストは伝えられてゆきます。神の言葉を聞いて生きている人々が最も大切なキリストの証人なのです。
二週間後に、わたしたちの教会の総会が行われます。わたしたちはこの機会に、わたしたちに命の光を照らしてくださったイエス様の恵みを覚え、与えられた使命に生きる思いを新たにしたいと思います。
顕現後第2主日の説教
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。
●「見よ、神の小羊」
今日の福音書には、最初に洗礼者ヨハネ名前が出て来ます。彼は、この少し前のところで、「わたしは荒れ野で『主の道をまっすぐにせよ』と叫ぶ声である」と語っています。「主の道」と去るように、救い主は「イスラエルの主」としてこられるのです。しかし、今日の福音書で、ヨハネは自分の方にやって来るイエス様を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と言いました。
「神の小羊」という言葉を聞いて、皆さんは何を思い出すでしょうか。まず、出エジプト記に書かれている過ぎ越しの小羊のことを思い出すのではないでしょうか。昔、イスラエルの人々はエジプトの奴隷になっていました。エジプトの中にイスラエルの人々が増えることを恐れたエジプトの王は、生まれた男の子を全部殺したり、また人々に重い労働をさせたりして苦しめたのです。
神様はイスラエルの人々を解放するために、モーセによってエジプトに災いを与えました。初めは、ナイル川の水を血に変えるとか、かえるを大発生させる、という災いなどを起こしましたが、王はイスラエルを解放しませんでした。それで、最後にエジプト中の長子、すなわち最初に生まれた男の子に死の裁きを下すという災いを与えたのです。しかし、イスラエルの人々もエジプトにいますから、エジプト人と一緒に裁きを受けないように、神はモーセを通して、イスラエルの人々に、それぞれの家ごとに一頭の小羊を用意し、神様がエジプトに審判を下す日に、イスラエルの人々はその小羊を屠って、その血を、それぞれの家の入口のかもいと柱に塗るように命じたのです。夜になって主の天使がエジプト中に裁きを行いましたが、家の戸口に羊の血が塗ってあるイスラエルの人々の家には入りませんでした。それは小羊の血を見て、この家ではすでに裁きが住んでいる、とみなしたからです。この大打撃によって、エジプトの王はついにイスラエルに出てゆくように命じたのです。
死の使いがイスラエルの家の前を過ぎ越していったので、イスラエルの人々は毎年子の出来事を、「過越の祭り」として祝うようになりました。そして、それから約千三百年後の過ぎ越しの日に、イエス様は十字架にかけられたのです。イエス様は、イスラエルの人々だけでなく、世界の罪を取り除く神の小羊です。イエス様が、わたしたちの罪に対する神の裁きから救うために死なれたのです。
●傷のない小羊イエス
聖書では、多くの場合、罪の身代わりに羊がささげられましたが、その理由は、羊は犠牲にさえるとき、他の動物のように、鳴いたり暴れたりしないからです。イエス様が生まれる七百年前のイザヤ書には、イエス様のことが預言されています。五三章六節から八節にこう書かかれています。
「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」
イエス様は裁きを受ける時も、「わたしは無罪だ。助けてくれ」とは言いませんでした。黙って裁きを受け、進んで十字架を負われたのです。もしイエス様が十字架の苦しみの中で、一瞬でも後悔し、助かろうとしたら、わたしたちの救いは実現しなかったでしょう。
イエス様はどこまでも神様ン従順でした。人間は神に従わずに罪を犯しましたが、イエス様は、どこまでも神様に従順でした。その傷のない、完全で高価な命を、イエス様はわたしたちの罪の償いのために捧げてくださったのです。人間の身代わりとなる小羊は、傷のないものでなければなりませんでした。しかしこの世界には罪のない人費ません。しかし、神の子であるイエス様には罪の傷がありませんでした。聖書は、イエス様が語ったこと、行った多くのことを記しています。それらを見る時、わたしたちはイエス様に罪という傷を見つけることができないのです。聖書の中には、多くの素晴らしい人々のことが記されていますが、罪のない人は一人もいませんでした。神の小羊とは、人間が準備した小羊ではなく、神様が与えてくださった動物や罪のある人間ではなく、神の子である小羊、神である小羊だったのです。
●神の小羊を見上げて
わたしは十八年前に、フィンランドの信徒宣教師のご夫妻と一緒に働いたことがあります。夫人の方が、ある家庭集会でこのヨハネによる福音書一章二九節について語ってくれました。
「イエス様は、『世の罪』を負いました。わたしたちの罪が小さく見えても、それは世の罪なのです。しかし、またわたしたちの罪がどれほど大きくても、世の罪を背負われたイエス様は、それを取り除いてくださるのです。」
わたしはその言葉が深く心に響きました。今、世界には悪があり不正や争いがあります。わたしたちはよく、「神様はなぜあのような悪人を放っておかれるのだろう」と思ってしまいます。しかし、忘れてならないのは、このわたしの内にも同じ罪があります。その罪は心の中に隠れていて、表には表れていなくても、それは同じ罪なのです。しかしその罪をイエス様は取り除いてくださったのです。
罪がある人は決して神を愛することはできません。罪のある人間は神を恐れます。そして、神はいない方がよい、いてもらっては困る、と思うのです。
わたし自身も、教会に行くようになって、自分の心を照らされ、自分の罪を意識するようになりました。すると、わたしの心の中から「お前のような者を神が受け入れてくれるはずがない」という声が心の中に聞こえ、わたしの体が鉄の鎖でつながれて、神のもとに行けないように引き戻されようとしているのを感じました。しかし、神の子がわたしのために死んでくださった、その十字架を見上げたとき、その鎖が砕かれ、恐れることなく、自由に神に近づけるようになりました。そして、心から神を愛することができるようになりました。
イスラエルの人々は、彼らが正しいから裁きから救われたのではありません。小羊の血を戸口に塗ったからです。わたしたちも自分の行いや正しさによって救われるのではありません。イエス様がわたしをために死んでくださったことを受け入れる人は、イエス様の血によって罪の力から解放され、神との平和を与えられているのです。イスラエルの人々が小羊の血によって奴隷の家から解放されように、わたしたちは神の小羊であるキリストの血を家の戸口にではなく、わたしたち一人ひとりの内に受け取るのです。
神を愛する心が与えられることは、善い生き方の始まりとなります。神の小羊であるイエス様を見上げる時、そこには神との平和があり、キリストの上に天が開かれています。そこから神の霊が注がれています。それはわたしたちを神の子とし、神を愛する者としてくれる聖霊です。
昨年、日本の高校生たちが旅行で言った海外で集団万引きをした、というニュースがありました。わたしたちが善い生き方をするためには外側からの道徳や規則だけでは不完全です。盗みはいけない、悪口はいけないと教えられても、心からそれを守るのは、「神様は独り子をくださったほどにわたしを愛してくださり、赦してくださっている。この神様の愛に応えてゆきたい。と思うとき、心から善い生き方ができるのです。
この世界にはたくさんの大切な働きがありますが、人々が神様と出会い、神様から永遠の愛と喜び、そして希望をいただくための働きは最も大切ではないでしょうか。
わたしたちの罪を背負ってくださったイエス様は、復活して今もわたしたちと共におられます。この年も、神の小羊であるイエス様を見上げて、いつも新しくされてゆく一年でありたいと思います。またこのイエス様を多くの人に伝えてために祈りつつ、一緒にキリストの働きに仕えてゆきたいと思います。
主の洗礼日の説教
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
●神が定めた洗礼
今日の福音書には、イエス様が初めて人々の前に現れ、ヨルダン川で洗礼を受けたことが書かれています。福音書には、それまでのイエス様のことは多く書かれてはいません。なぜでしょうか。それはイエス様が他の人々とまったく同じように生活されたからではないでしょうか。貧しさや労働の苦しさ、家族の病気や愛する人を失った時の悲しみなど、わたしたち人間とまったく同じ経験をされたのだと思います。イエス様はすべての点でわたしたちと同じになり、わたしたちの弱さや苦しみを知っていてくださる方、同情することができる方になられたのです。
今日の福音書の中でも、イエス様は人々と同じ姿で現れました。この時、多くの人が洗礼者ヨハネから洗礼を受けていましたが、イエス様も他の人たちと同じようにヨハネから洗礼を受けようとしたのです。
洗礼者ヨハネは、イエス様が聖なる方だということが分かりました。それで、あわててイエス様に「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言いました。するとイエス様は「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と答えられたのです。この「正しいことを行う」とは、ここでは洗礼を受ける、ということです。洗礼は神様が定められ、命じられたものです。
結婚を例にあげると、夫婦として認められるためには、国によって定められている手続きを行ういつ用があります。確かに、互いに愛し合い、信頼し合うことが大切ですが、それだけでは正式に夫婦とは認められません。同じように、洗礼は神様がお定めになった大切な手続きなのです。イエス様がヨハネから洗礼を受けた第一の理由は、誰もが洗礼を大切にするためです。今でも、キリストを信じている、と言う人々の中に、「洗礼や聖餐式は単なる儀式にすぎない」と言う人々もいます。しかし、イエス様でさえ、洗礼を受けたのですから、誰も「わたしには洗礼は必要ない」と言える人はいないはずです。このようにイエス様はわたしたちに模範を示されたのです。そしてこのマタイ福音書の最後では、イエス様自身が弟子たちに、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ二十八:十九,二十)と言っておられます。キリストへの信仰を言い表し、(また28洗礼を受けること、これが神様、そしてイエス様がお定めになった救いの道なのです。
●神の恵みとしての洗礼
しかし、それでも「なぜ神のみ子であり、罪を持たなかったイエス様が罪のある人のようにヨハネから洗礼を受けられたのか」という疑問が残ります。イエス様は、自分の罪を認めて洗礼を受けようとしている人々の中におられました。そしてその人々と同じようにヨハネから洗礼を受けました。イエス様は洗礼を通してわたしたちと出会い、わたしたちと一つになってくださるのです。洗礼を受けるということは、このようにイエス様と結ばれ、イエス様と一つにされるということです。
使徒パウロは、ガラテヤの信徒への手紙3章二六節、二七節で、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」と教えています。
わたしたちは、キリストを信じて洗礼を受ける時、神の子とされます。それは神がわたしたちに与えてくださる最大の恵みです。このように、わたしたちが神の恵みを受ける道は二つあります。一つは、わたしたちが神の子として生まれる洗礼で、もう一つは神の子とされたわたしたちがキリストの命と赦しを受け続けてゆく聖餐式です。洗礼は水という物質を使い、聖餐式はパンとぶどう酒、またはぶどうジュースという物質を使います。このように、わたしたちが見ることができ、触れることができるものを通して神が救いと恵みを与えてくださる儀式のことを「聖礼典」と呼びます。そしてまさしくそれは恵みの手段、恵みの道です。
もし水やパンやぶどう酒を使う恵みの道がなかったら、わたしたちはどこでキリストと出会うことができるでしょうか。確かに、罪を悔いる心も大切です。聖書を学び、理解することも必要です。また、「わたしはこれから神様を信じ、キリストに従ってゆく決意も大切です。でも、救いがそうしたわたしたち人間の側の努力や決心によって得られるとするなら、わたしたちはいつも自分の信仰が確かなのか心配しなくてはなりません。
しかし、神の恵みを受けるということは、そのようなわたしたちの弱さや不確かさに関係なく、わたしたちの肌に触れる水のように、またわたしたちの喉に入るパンのように、確かなものなのです。洗礼を「受ける」また「聖餐を受ける」ということは、人間の力ではなく、信じるすべての人々に、恵みとして与えられることを示しているのです。
●キリストに結ばれる洗礼
今日の日課の終わりの方に、イエス様が洗礼を受けて水から上がると、すぐに神の霊が鳩のようにイエス様の上に降った、と書かれています。そして「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神様の言葉が聞こえました。イエス様は、「わたしは罪がない特別な者だ、他の者とは違うのだ」とは言わないで、自分の罪を認めて洗礼を受ける人々と一つになられたのです。神は、「このような者こそ、わたしの愛する子、わたしの心にかなう救い主である」と宣言されたのです。
また、この神の言葉は、今日読んでいただいたたイザヤ書の預言にある言葉です。イザヤ書42章一節に「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」とあります。またその後の二節から三節に、「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく・・・」という言葉があります。それは、神が遣わす僕は、大声で街頭演説をして自分を宣伝することをしない、柔和で謙遜な方であるということです。また、水辺に生えている「葦」は、傷がつくとすぐに折れてしまいます。そイエス様は傷ついた葦のようなわたしたちが、くじけないように手を添えて支えてくださる方です。また、「暗くなってゆく灯心」というのは、くすぶって火が消えそうになっているランプの芯のことです。もしそうなればいったん火を消して、芯をととのえてから新しく火をつけた方が早いのです。しかし、イエス様は燃えることができないでくすぶっているわたしたちの心の火、信仰の火が消えないように両手でかばっていてくださり、もう一度明るく輝くようにしてくださるのです。先ほどのパウロの言葉に、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」とありましたが、洗礼は、いつもわたしたちを包み、守ってくださるイエス様と結びつけるものなのです。
今日、主の洗礼の記念の日に、あらためて、キリストの名による洗礼は、わたしとキリストを結ぶことを新たに思い起こしましょう。そして、洗礼の時からイエス様の愛に包まれていることを思い出しましょう。わたしたちが自分の弱さを嘆く時も、洗礼の時からいつまでも共にいて支えてくださるという約束は変わることがありません。ですから、弱さを覚える時、いつも主イエスの名を呼び求め、すべての重荷を主にゆだねて歩んでゆきましょう。