「主よ、今こそ」

ルカによる福音書2章22-40節

降誕節第1主日の説教

さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。

●「主よ、今こそ」

わたしは教会に通いはじめる前に、孔子の論語を読んでいた時があります。その中で心に残っているいくつかの内、「朝(あした)に道を聞かば夕に死すとも可なり」という言葉があります。朝、人生の真理を知ることができたなら、その日の夕べに死んでもよい」という言葉です。孔子は神のように祀られてきましたが、本当は人生の道を求める求道者でありました。そして孔子がこのように語ったということは、「わたしはまだその道を見出してはない」ということです。

しかし、今日の福音書には、「今こそわたしは安らかに死ぬことができる」と言った人のことが記されています。それはエルサレムの神殿の境内で、幼子のイエス様に出会ったシメオンという人です。聖書は、「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」と記しています。「イスラエルの慰め」という言葉は、イザヤ書四〇章を思い起こさせます。一節、二節にこのように書かれています。

「慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。

エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。」

イザヤが語ったイスラエル、あるいはエルサレムの慰めとは、救い主が来て民が贖われ、その罪の報いから解放されることです。旧約時代の人々は、青書が記しているその約束を信じる信仰によって救われたのです。しかし、今やその約束された方が来られ、人々がすでに来られた救い主を信じる新しい時代が始まりました。そしてシメオンはその約束とその実現という二つの時代をまたいだ人で生きた人であると言えます。

彼はキリストに出合う前から、神の約束の言葉を信じ、その約束が実現する日を待ち望んでいました。そしてそのような彼に神の霊がとどまっていて、「救い主に出会うまであなたは死なない」と告げられていました。聖書は、彼が高齢であったとは記されていませんが、ここでの「去らせる」という言葉には「解放する」という意味がありますから、シメオンにとって生きることが重荷になっていたとも考えることができます。わたしたちは、長生きすることは幸せだと考えますが、それは同時に、身近な愛する人との別れも多く経験するということです。シメオンは「今こそわたしはこの辛い定めから解放される」と言ったように聞こえます。

●「安らかに去らせてくださいます」

しかし、彼が神から聞いていたことは、ただ人生の苦しみから解放されるということではなく、「お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます」とあるように、「平安の内に去ることができる」ということでした。それは彼がその目で主の救いを見たからです。彼は救い主を見、そしてその腕にキリストを抱くことによって神からの平安を受け、もうこれで何も悔いもなく、恐れもない」と言うことができたのです。

シメオンのこの言葉は、すべての人が語るべき言葉であると言えます。なぜなら、もしキリストがいなければ、わたしたち人生は神の前に不完全なものでしかないからです。

わたしは二十歳で洗礼を受け、二十三歳の誕生日に牧師になる決心をしました。それは、その日の夕方、わたしの人生を振り返って、「今晩もし死んだとしたら、わたしはいったい何を持って神の前に立つことができるだろうか」、と考えたからです。わたしはわたしの家族を大切にしてきたかもしれない、と思いましたが、神様は「それはお前のためにしたことではないか。わたしのためにお前は何をしたのか」と問われたのです。

確かに、家族を大事にする、同胞を大事にするということは大切ですが、それは本能的な愛であって、動物でもそうしています。しかし、わたしは人として神に喜ばれることは何一つも残していないこととに気づき、恐ろしく空しい気持ちになりました。

しかし、その時、神がわたしに下さったキリストだけが残っていることに気づいたのです。キリストを受け取ったこと、そしてキリストに結ばれて行ったわざだけは朽ちないものとして残っていることに気づいたのです。そしてわたしはキリストを人々に伝える働きをしたい、と思ったのです。

「主よ、いまこそ」というシメオンの言葉は、若い人にとっても大切です。「わたしはまだ若いし、明日がある」と思ってはなりません。それも傲りの一つです。わたしたちは明日のことも分からない身なのです。ですから今日という日に、神が下さった救い、イエス・キリストを受け取らなければならないのです。

シメオンはこの幼子イエスについて、「異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と言っています。最近の中東紛争から、クリスチャンの中には、わたしたちが礼拝で唱える「み民イスラエルの栄光です」という言葉に抵抗を感じている人もいます。しかし、この「栄光」,「誉れ」とは、イエス・キリストのことです。イエス様は神の栄光を受けられなくなっているわたしたちに、神が与えてくださった栄光なのです。キリストのおられるところには罪の赦しと神の祝福、永遠の命があるのです。

●キリストを抱いて

 占めアンだけでなく、求める人は誰でもキリストを胸に抱くことができます。シメオンがキリストに出合ったのは神殿の境内でした。ヨセフとマリアは、長子として生まれたイエス様を聖別していただくためにそこに来たのです。ヨセフとマリアがそのためにささげたのは牛や羊ではなく、鳩でした。それは貧しい人たちの献げ物でした。もしヨセフやマリアが高い身分の人で、大勢のお供を従えているような人であったなら、初対面のシメオンが幼子を抱くことはできなかったでしょう。しかし身分の低い羊飼いたちがキリストと出会ったように、キリストは、望む人すべてが近づき、受け取り、胸に抱く事ができる方なのです。

わたしたちも、道を求めていた時、神様はわたしたちを心にとめてくださり、シメオンが導かれたようにキリストのもとに導いてくださいました。そして今、シメオンと同じようにキリストを胸に抱いています。そして神を讃美しています。

しかしながら、シメオンは自分だけが安らかに去ることだけを願っていたのではありません。彼はこの幼子が果たす役割について預言し、それをエルサレムの人々に伝えたのです。もう一人、同じ時にイエス様に出会ったアンナという女預言もそうでした。彼女も幼子イエスのもとに近づいて来て「神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」のです。

歳を取れば何もすることがない、というのではなく、シメオンやアンナのように、神を讃え、救い主の光がすべての人を照らすために祈り、そのために仕えるという最も大切な働きが与えられているのです。年老いてなお、喜びを表しながら生きることができる人は決して多くはないのです。

今日は今年一年の最後の礼拝日です。この日に今日の福音書が読まれることはとても意義深いことと言えます。日本では一年の終りに人生の終わりを思う習慣がありました。大晦日には除夜の鐘がひびきますが、そこには、すべてのものは必ず消えてゆく、という教えが込められています。聖書もそのように教えていますが、それだけでなく、すべてのものが滅びゆく中で、「滅びないものは何か」を教えています。すべてのものは消え去っても、永遠の愛をもって共にいてくださるイエス・キリストを教えているのです。

今日の日課は、「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」という言葉で終わっています。クリスチャンの歩みは、自分がますます小さくなり、内におられるキリストがますます大きくなってゆく歩みです。わたしの内のキリストがますます輝き、強く働いてくださるように、またその喜びがますます大きくなるようにと願いながら、新しい年を迎えたいと思います。

「主が共におられる」

ルカによる福音書1章26-38節

待降節第4主日の説教

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

●おめでとう、恵まれた方

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」ナザレの村に住んでいたマリアに天使が現れて、このようにあいさつをしました。天使はなぜマリアに「おめでとう、恵まれた方」とあいさつしたのでしょうか。多くの人は、マリアが救い主の母として選ばれたからだと考えるかもしれません。マリアは「神の母」と呼ばれ、世界中の教会から称賛されているからです。

しかし、天使が続いて、「主があなたと共におられる。」と言ったように、「主が共におられる」ということが「恵まれている」ということなのです。

マリアは天使が去った後、マリアは天使が話した親族のエリザベトに会うために、急いでエルサレムの郊外にある祭司の村に行きました。マリアを出迎えたエリザベトは、「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」と言いましたが、その後で、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ1:45)と言ったのです。つまりマリアが幸いなのは、マリアが神の言葉が真実であることを信じたからだ、と言っているのです。天使がマリアに現れた時には、まだマリアはイエス様を宿していませんでした。しかし神の言葉を信じていたマリアと共に、すでに主が共におられたのです。

 マリアはどうしてそのような神の言葉への信仰を持つことができたのでしょうか。それはマリアが聖書の言葉に親しんでいたからです。この後に記されている「マリアの賛歌」には旧約聖書のサムエル記にあるサムエルの母ハンナの祈りが反映しています(サムエル記上2:1-8)。 

マリアは「おとめが身ごもって男の子を産む」というイザヤの預言も聞いていたことでしょうまたブラハムの妻であったサラに神の約束通りイサクが生まれたことも知っていました。自分が子を宿すという天使の言葉をサラが信じなかったとき、天使はサラに「主に不可能なことがあろうか」(創世記18:14)と言いました。ですから天使がマリアに「神にできないことは何一つない」(1:37)と言った時に、それらのことを思い出して、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言うことができたのです。

もしマリアが、「そんなことを言われても困ります。誰かほかの人を当たってみてください」と言ったらどうなったでしょうか。神様は決して人を見誤ることはありません。マリアの信仰を知っておられ、マリアが必ず信じることを知ったうえでマリアのもとに天使を遣わしたのです。そして神の御子を産み、育てるという大切な務めを与えたのです。

●本当の幸い

「主が共におられる」というこの「幸い」はマリアだけのものではありません。マリアと同じように、神の言葉を信じる人には、神がその人と共におられるからです。

 ルカによる福音書11章27節には、イエス様のお話に感激したある女性が、イエス様に向かって「あなたの母となった人は何と幸いでしょうか」と叫んだことが記されています。しかしイエス様は「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」と答えられました。この「守る」という言葉は「実行する」という意味ではなくて、自分に語られている神の言葉を大切なものとして「キープする」という意味です。イエス様は、キリストの母となること以上に、神の言葉を聞いてそれをしっかりと受け止め、大切にする人が幸いである、と教えられたのです。

今のわたしたちに与えられている大切な神の言葉は、「神の子が人となられてこの世に来られた」というメッセージです。この世界には、唯一の神は信じるが、神に子供はいないし、いたとしても、神が人となるはずがないし、まして十字架で死ぬことなどありえない」という人々が多くいます。その言葉は一見すると神を敬っているように見えますが、実は「神にそんなことができるはずがない」と、神の力や愛を制限しているのです。それはその人が、神が本当におられ、この世界に来られ、また自分に近づいてくることを拒んでいるということです。また時が来れば必ず実現する全能の神の言葉に信頼しようとしないのです。

これに対してイエスを神の子と信じる人は、人知を超えたキリストの愛を知ってキリストを敬う人々であり、またその御子をくださった神の愛と力を信じている人々です。そしてそれを神の言葉である聖書によって確信している人々です。このような信仰がなければ、神を敬っているとは決して言えないのです。マリアの場合と同じように、そのような人々のもとにキリストは来られ、その人の内に永遠にとどまってくださるという永遠の幸いを与えてくださるのです。

●マリアを背負っていたイエス

しかし、天使のあいさつを受けた時からマリアの生涯は苦難に満ちたものとなりました。マリアにはこのときヨセフという婚約者がいました。マリアが、自分の子どもではない子を妊娠していることをヨセフが知ったなら、どんなことになるのでしょうか。マリアは初めから大きな困難の中に投げ込まれようとしていました。

 イエス様が誕生してからも、マリアには試練が続きました。マタイによる福音書を読みますと、当時のユダヤの王ヘロデは、キリストが生まれた事を聞いて幼子イエスを探し出し、殺そうとしたのです。

また、故郷のナザレに帰り、ようやく育て上げたイエスは、神の働きのためにマリアを残して家を出てしまいました。最後に、マリアはわが子を十字架というむごい刑によって失うという、母親としてもっとも辛い経験をするのです。

しかし、神様はその一つ一つの苦しみからマリアを救い出してくださいました。マリアの妊娠を婚約者のヨセフが知ったとき彼にも天使があらわれて、マリアの生む子は神の御子であることをヨセフに告げてくれました。ヘロデの迫害の時も天使に導かれてエジプトに安全に逃れることができました。

そして、イエスの死から三日後には、死に勝ったイエスがマリアに現れてくださったのです。マリアは地上での母親というだけでなく、イエス・キリストと神の家族として結ばれ、永遠にキリストと共に生きる者とされたのです。

こうして見ますと、母であるマリアがイエスを守り、そのために苦難と悲しみとを背負ったように見えますが、実はマリアに宿った幼子イエスがマリアを守り、背負っていたのだということが分かります。イザヤ書9章5節に、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる」

とあるように、イエス様は幼子であっても、「力ある神」としてマリアを守っておられたのです。

神様は、イエス・キリストに信頼する人が、決して苦しいことに会わないとは約束しておられません。神様を信じる人にも悲しいこと、苦しいことが起きます。いや、むしろマリアのように神様を信じて生きているからこそ経験する苦しみも悩みもあります。そんな時、「わたしは神様のためにこんなに尽くして苦労している」と感じるかもしれません。しかし振り返って見ますと、わたしたちを見出して下さり、神を信じて生きる希望を与え、わたしを神から引き離すすべての悪から守って下さったのは、神がわたしに下さったイエス・キリストであった、ということが分かってきます。わたしがキリストを背負ってきたのではなく、キリストがわたしをずっと背負って下さっていたのだ、ということが分かります。

 「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられます。」今日この天使のあいさつは、今日、ここで神様の言葉を信じる一人ひとりにも語られています。この挨拶の言葉を私たちも受けて、これからもキリストと共に生きてゆきたいと思います。

 

「あなたがたの知らない救い主」


ヨハネによる福音書1章:6-8,19-28節


節待降節第3主日の説教

 

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。

主の道をまっすぐにせよ』と。」

遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 

●『主の道をまっすぐにせよ」

 先週の礼拝に続いて、今日の日課も洗礼者ヨハネについて記しています。ある人が、「洗礼者ヨハネの役割は、人々に対して『気を付け』という号令をかけることである」と言いました。日本でも、先生が教室の入り口に来ると、学級委員が「起立」と号令をかけます。それはこれから教えてくれる先生を、敬意をもって迎える、ということです。ヨハネは、神が約束されていた救い主がすでに来られていることを告げ、敬意をもってこのお方を迎えるように人々に呼びかけたのです。

今日の日課の19節には、エルサレムのユダヤ人たちが、使いをヨハネのところに送ったことが記されています。「エルサレムのユダヤ人たち」とはイスラエルの指導者たちのことです。

遣わされた人たちは洗礼者ヨハネに「あなたは、どなたですか」と尋ねました。その問いに対して洗礼者ヨハネは、「わたしはメシアではない」と答えました。遣わされた人たちは、「ではあなたはエリヤですか」と聞きました。しかしヨハネは「違う」と言いました。

当時の人々はメシアが来る前にエリヤ本人が来ると考えていましたが、洗礼者ヨハネはエリヤ本人ではありません。聖書には生まれ変わり」という考えがないからです。

しかし、マタイ福音書では、イエス様は、「もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである。」(マタイ11:14)と言っておられます。ヨハネの言葉を聞いて受け入れるなら、洗礼者ヨハネはキリストが来られる前に神から遣わされる新しいエリヤであることが分かる、とイエス様は教えられたのです。

ヨハのもとに遣わされた人々は、さらに「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねました。「あの預言者」とは申命記章でモーセが預言した、もう一人の預言者のことです。申命記の終わりには、モーセについて「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった」と記されています。ですからモーセがその到来を予告した「あの預言者」とは、モーセに匹敵する預言者、すなわちメシアのことであると考えられていなのです。しかしそれにもヨハネは、「違う」と答えました。

遣わされた人々は、自分が誰かを言わないヨハネの態度にしびれを切らして、「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」(1:22)と聞きました、ヨハネは、イザヤ書四〇章の言葉を引用して「わたしは『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声である」と答えました。洗礼者ヨハネは「わたしは声である」と言ったのです。声は神様からのメッセージを伝えますが、それを伝え終わると消えてしまいます。大切なのは、その声によって伝えられたメッセージを聞くことです。

●あなた方の知らない方

エルサレムから使いを送ったユダヤ人たちや、彼らに遣わされた人々の過ちは、「声」であるヨハネの資格や身分に注意を向けて、彼が語る言葉を聞こうとしなかったことです。洗礼者ヨハネのもとに行かなかったエルサレムのユダヤ人たちは、キリストのもとにもゆこうとしませんでした。

現代でもキリスト教について語り、イエスについて語っている人々がいます。多くの人は、それらの意見を聞いて、自分は神やキリストのことを知っていると思っています。しかし大切なことは、他の誰かから手短に答えを得ようとするのではなく、わたし自身がキリストのもとに行き、キリストの人格に触れることなのです。

洗礼者ヨハネはイエス・キリストについてこう言いました。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」

この「あなた方の知らない方」とは、遠回しに神を指しています。神は人知を超えた方、わたしたちの知識の及ばない方であり、見ることも触れることもできない方だからです。御子イエス・キリストはこの神と等しい方なのです。

エルサレムのユダヤ人たちは、自分たちの持っている知識の枠の中で、洗礼者ヨハネはどのような人物かを評価しようとしました。それは自分の持っている光で神を探そうとするようなものです。今日の福音書には、洗礼者ヨハネは、「光について証しをするため」に来た人である、と記されています。そしてヨハネに聞く人はヨハネが指し示したキリストにも聞きます。自分の知識や考えでキリストを評価するのではなく、自分の知識や知恵を超えた方、わたしたちの知らない方、すなわち神の光に照らされるのです。

しかし、また洗礼者ヨハネは、そのような方が、あなた方の中におられる、と言いました。

旧約聖書は、世の終わりに栄光を持ってこられ、世を裁き、力をもって治めるメシア、すなわちキリストが来ることを予告しています。しかし、キリストはその前に今、まず罪を赦す方として来られ、人々の中におられるのです。

わたしたちが神の光を恐れるのは罪があるからです。しかし光である方は、裁くためではなく、赦し、救うために来られたのです。人となられたイエス・キリストには、人々を威圧し、恐れさせるものはまったくありませんでした。かえって、ご自分のもとに来るどのような罪びとも共にいることができたのです。この方において神と人間の間の平和が実現しているのです。

●キリストはわたしたちの中におられる

わたしたちは、今イエス・キリストを信じていて、キリストを知っています。しかし、同時にイエス・キリストは、わたしたちが「もうすっかり分かってしまった」と言えるような方ではありません。

みなさんの中にはもう何十年も毎週礼拝に参加している方々がおられます。千回、三千回も礼拝をして、イエス・キリストについて聞いておられます。しかし、「もう聞き飽きた」という方はいないと思います。それはイエス様が与えてくださる恵みに終わりがないからです。わたしたちはキリストを知っていますが、知り尽くしてはいません。

このヨハネ福音書一章の一六節には次のように書かれています。

「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」

キリストを新しく知り、キリストの尽きることのない恵みをいつも新しく知ってゆくことがわたしたちの信仰生活です。

最初に、「敬意をもってキリストを迎えるために起立する」ということを話しました。わたしたちの礼拝では福音書の朗読の時、また主の祈りや聖餐の設定辞の時に起立します。それはキリストの言葉が神の言葉であるから、というだけではなく、キリストの言葉が語られる時、キリストがそこに来てくださるからです。礼拝において最も大切なことがそこにあります。神の子であるキリストがわたしたちの真ん中に来られ、聖霊による平安と喜びと新しい心を与えてくださるのです。

イエス様は、マタイによる福音書一八章二〇節で、弟子たちに、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と約束してくださいました。ここでの「その中に」という言葉も「真ん中に」という意味です。わたしたちの真ん中におられるキリストは、キリストの言葉を喜んで聞く人すべての人と共にいて、人知を超えた平安を与えてくださいます。

キリストはわたしたちが見慣れているこの教会の中に、見慣れている兄弟姉妹の集まりの真ん中に今おられます。そしていつも新しくわたしたちに出会ってくださいます。知恵や知識の乏しいわたしにも、ご自分のことを教えてくださるのです。

教会の暦の新しい一年の初めにあたって、新しい心でイエス・キリストをお迎えしたいと思います。そしてわたしたちの真ん中におられ、新しく恵みを与えてくださるイエス様に出会ってゆきたいと思います。

「主の道を備える」

マルコによる福音書1章1-8節

-待降節第2主日の説教-

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。 れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

●荒れ野に出て

今日の福音書の日課には、イエス・キリストの先駆者となった洗礼者ヨハネのことが書かれています。洗礼者ヨハネは荒野で生活し、荒野で神の言葉を伝えました。そこに多くの人々が彼のもとにやって来ました。「ユダヤの全地方とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けた」と書かれています。

 なぜヨハネは荒野で神様の言葉を語ったのでしょうか。それは人が厳しい自然の中に身を置くとき、町の中や普段の生活の中では見えなくなっている大切な事が見えてくるからではないでしょうか。

今日のイザヤ書の日課の中にこういう言葉がありました。「肉なる者はみな草に等しい。この民は草に等しい。」

イスラエルを旅行した時、荒地に咲く花がドライフラワーになっているのを見ました。朝に生えて咲いた花が、日中の熱い風に吹かれると、午後にはそのままの姿でドライフラワーになっているのです。人間というものはそれほどはかないものだという事です。荒野の中で人間の弱さ、はかなさが見えてきます。そして、永遠に変わらないものは何かを考えるようになります。

永遠に変わらないものとは神の言葉です。人間のはかなさを語ったイザヤは続いてこう言っています。「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」

今は情報があふれている時代であり、欲しい知識はすぐに得られます。人々は自分の興味があることや自分の利益になる情報を求めています。ですからついテレビをつけたり、スマホを気にしたりします。。しかし自分にとって興味があり、 特になる情報が最も大切なものであるとは限りません。どんなにたくさんの知識があっても、それによって人生の真の目的を知ることはできないからです。わたしたちが聞かなければならないのは、わたしたちを造られた神の言葉です。

聖書の時代、イスラエルの人々にとって荒れ野に行くことは、エジプトを出てから神と共に歩んだ時代を思い起こし、最も大切な神の言葉に心を向けるためでした。わたしたちが今日、この教会に来て礼拝をするのは、わたしたちにとって最も大切な情報であり、永遠に変わることのない神の言葉を聞くためです。

●神の子、イエス・キリストの福音

それでは、神の言葉の中心は何でしょうか。それは今日のマルコによる福音書の最初に、「神の子イエス・キリストの福音」です。神の言葉である聖書は膨大な書物ですが、その中心は単純です。聖書は、救いのためにこの世界に来られた神の子について教えているのです。それが福音と呼ばれるものです。今日のイザヤ書も福音を意味するよい知らせという言葉を使っています。それはあなたたちの神が来られる、というメッセージです(40:9,10)。

教会の最もシンプルな信仰告白は、「イエスは主です」という告白、あるいは「イエスは神の子です」というものです。どちらも同じ意味を持った告白です。「主」という言葉は神を表す言葉だからです。信仰とは、神が人となって来られた、という福音を受け入れる、ということです。

神が見える人となってこの世に来られることは、神ご自身が語っていることです。イザヤ書の9章5節はクリスマスに読まれる箇所ですが、そこには「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と唱えられる」と記されています。ダビデの子孫としてベツレヘムに生まれたみどりごは、「力ある神」と呼ばれる方なのです。洗礼者ヨハネは、この神の約束が実現する時が来た。だからそれぞれ主を迎える準備をしなさい、と人々に宣べ伝えたのです

神の子がイエスという一人の人になられたことを信じることがなぜ大切なのでしょうか。それは、そのように信じたとき、わたしたちは生ける神を受け入れているからです。「神は信じるが、神が人となることなどありえない」と言うことは、神にはそんなことができるはずがないし、することもない」と言って神の子が人となられたことを否定することは、生きておられ、わたしたちの世界に来られ、わたしたちの人生に関わってこられる神を否定することなのです。

神が人となられ、しかも弱い幼子として来られたことの中に、神と人間との平和があります。人間が決して見ることも触れることも出来ない聖なる神の子が、イエスという実在の人間、弱い体を持つわたしたちの一員となられたことの中に、神との和解と出会いがあるのです。ですから神の子がイエスという実在の人として来られたことを信じる人は、自分の人生に平和と和解、赦しを与えてくださる神を受け入れているのです。

●主の道を整える

 神が身近な方となって来られた、というこの福音を、なぜ人間はなかなか信じようとしないのでしょうか。人がキリストを遠ざけているのは、人間の中にある罪の力です。わたしたちは無意識ではあっても、自分の内にある罪を感じています。何も言わない、何もできない偶像なら受け入れても、すべてを知っておられる神は遠ざけているのです。そして神は人間の世界に来ることを認めることができないのです。

 洗礼者ヨハネの働きは、主の道を整え、その道筋をまっすぐにすることでした。そのために彼は人々の罪を指摘しました。そして罪の告白を促しました。それは彼らに罪の刑罰を言い渡すためではありません。今日の日課で。洗礼者ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と書かれています。罪を認めてそれを言い表し、洗礼を受けることは、罪を赦してくださり、わたしの神となってくださる方を迎えるためです。神の子は罪を赦すことができる方です。わたしたちが罪を認め、神が定められた洗礼を受ける時、わたしたちに近づいて来られる救い主への道を整え、まっすぐにしているのです。

「わたしは健康です。病気などありません」と言い張る人に医者は近づくことができません。わたしたちは一人一人、自分は罪の赦し、神との平和を必要としているのだろうか、ということを考える必要があります。

わたしたちも以前は罪のためにキリストを遠ざけていましたが、十字架の上でわたしたちの罪を完全に背負われたキリストを見上げて、素直に自分の罪を言いあらわす者とされたのです。

 ヨハネは、「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と言いました。わたしたちは自分の力で自分を変えることはできません。しかし神の子であるイエス・キリストは、罪を赦し、さらに聖霊を与えて、わたしたが神の子として生きる心を与えてくださるのです。大切なことはこのキリストを迎えることです。

わたしたちはすでに洗礼を受け、キリストをお迎えしました。しかし、時が経つにつれて、いつの間にかわたしたちの主を迎える道が閉ざされ、また荒れた道になってしまっているかもしれません。待降節は、やがて再び来られ、世界を治めるキリストに目を向ける時です。そのキリストを迎えるために、わたしたちは今日、改めてキリストを迎える道を整えるのです。教会の新しい一年の初めにあたって、新しい心で、「主の道をまっすぐにしなさい」と呼びかけるヨハネの声に耳を傾けたいと思います。

「この最も小さい者」

マタイによる福音書25章31-46節

聖霊降臨後第最終主日(永遠の王キリスト)

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかった。こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

●小さい者の内にいるキリスト

今日のお話の中で、イエス様が語られた「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という言葉は、トルストイの民話集の中の「靴屋のマルチン」という話によって、わたしたちになじみ深い言葉になっています。

ある日、独り暮らしのマルチンに、イエス・キリストが「わたしは明日あなたの家に行く」と告げます。翌朝マルチンは部屋を暖めてキリストを待ちますが、彼が出会ったのは、雪かきで疲れていたステパノ爺さん、寒さに凍えている親子、リンゴを盗んで責められている少年でした。マルチンは彼らを助け、親切にもてなします。しかし、その日キリストは現れませんでした。その夜キリストは、マルチンが親切にした人たちの姿で現れ、彼らがご自分であったことを告げました。彼が聖書を読むと、そこには「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」という言葉がありました。

インドのカルカッタで死に瀕している人々の世話をしたマザーテレサのように、このキリストの言葉に動かされて社会的弱者のために働いた多くの人々がいます。その働きは尊いものです。聖書は「あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と教えているからです。わたしたちもその教えを実行するように努めなければなりません。

しかし、イエス様が語られた「この最も小さい者」という言葉を社会的弱者のことと考えるにはいくつかの難点があります。まず、マタイ福音書の中で、イエス様が「わたしの兄弟」と呼ぶのはイエス様を信じる人々に対してだけです。また、聖書は人が救われるのはキリストを信じる信仰によるのであり、善行すなわち良い行いによるのではない、と教えています。

またわたしがいつあなたを助けたでしょうか」と驚いている人々は、このキリストの言葉を知らなかった人々です。

さらにわたしたちが社会的な弱者を「小さい者」と呼んでいいのか、という問題もあります。そこで今日、あらためて「最も小さい者」とは誰を指すのか、ということについて考えてみたいと思います。

●「キリストの兄弟である「小さい人」

ここで思い出していただきたいのは、今年七月の第一日曜日の日課になっていたマタイ福音書一〇章でイエス様が語られた言葉です。

一〇章には、イエス様が十二人を使徒として初めてユダヤの町や村に派遣したことが書かれています。イエス様は使徒たちの派遣にあたって、いろいろな注意やアドバイスをお与えになりました。その中には、弟子たちがキリストの名のゆえに迫害を受けることも予告されています。そして、最後まで困難に耐えて、自分をキリストの仲間であると告白するようにと教えています。 

しかし、それらのアドバイスや注意の後に、イエス様が語られた最後の言葉は、励ましと慰めの言葉でした。イエス様は弟子たちに、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」(一〇:四〇)と言われ、また、「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(一〇:四二)と告げました。イエス様が語られた「この小さな者」とはそこにいた弟子たちのことなのです。ユダヤでは教師に学んでいる「弟子」のことを「小さな者」と呼んでいたのです。

イエス様は、今度は弟子たちをユダヤだけでなく、全世界に遣わそうとされています。二四章でイエス様は、ご自分の弟子たちが苦難を受けること、そしてその苦難の中でキリストの福音が全世界に伝えられてゆくことを教えています。

イエス様は、ご自分の証人としてこの世界に残してゆく弟子たちに対して、ご自分がもう一度この世界に帰って来られることを教え、その時まで忠実であるようにと、様々な警告や忠告をお与えになりました。その忠告や警告が先週まで見てきたように二五章に記されています。今日の日課はその忠告や警告に続いて語られた最後の言葉です。そしてその言葉は、先ほどの一〇章と同じように、警告の言葉ではなく、励ましと慰めの言葉でした。イエス様は弟子たちに、「これからあなたがたはこの世でわたしの名のために苦難を受けることになる。宿もなく、飢え渇きを経験し、また投獄させされるかもしれない。その時、わたしの弟子であるということであなた方を助ける人々もいるが、助けない人たちもいるであろう。しかし、それは人々がこのわたしに対して行っていることなのだ。わたしはわたしの弟子であるために経験するあなた方の喜びも苦しみも、すべてわたしものものとして受け取っているのだ」と語っておられるのです。

一〇章の最後でイエス様が「この小さな者」と言われた言葉が、ご自分の弟子たちのことを指していたように、今日の個所でもイエス様が語った「この最も小さい者たち」とはイエス様の前にいる弟子たちのことだったのです。

●イエスと弟子たちはひとつ

イエス様は、「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められる」(二五:三一,三二)と語りました。死んだ人々も復活させられ、その裁きの座に立たされます。死も神の裁きから逃れる道にはならないのです。しかし、全世界の生きている人々と死んだ人々とがすべて集まることができる場所はこの地上にはありません。それは古い世界が滅び去ったのち、新しい天地が創造されるまでの中間で行われます。そのとき問われるのは、神が全世界の王として立てられた王であるキリストに対してどうふるまったのか、ということです。王であるキリストを敬ったのか、敬わなかったのか。ということです。「わたしはクリスチャンであり、イエス様を尊敬していました」と口で言ったとしても、イエス様の名を背負って働いていた人々を助けないということは、彼を遣わしたイエス様を敬っても愛してもいない、ということになるのです。つまり、ここでは口先の信仰ではなく、目に見えるイエス様の弟子、兄弟の扱いによってイエス様を愛し、敬っているか、いないかが判定されるということなのです。そしてイエス・キリストへの愛と、イエス・キリストへの無関心の中間はないのです。人々はこの世に逆らってもキリストに与(くみ)するのか、あるいはこの世に与してキリストの働き人を無視するかのどちらかを選んでいるのです。

わたしが洗礼を受けた牧師は、戦時中警察に拘留されました。教会は解散させられ、信徒はちりぢりになりました。子どもと共に家に残った牧師夫人が町に出ると、道で出会った教会員に顔を背けられることもあったそうです。しかしそんな中で、獄中の牧師に差し入れを届けてくれた二十歳そこそこの娘さんもいたとのことです。警察署に差し入れを持ってくれば牧師の仲間であることが分かってしまいます。それにも関わらず、留置場をたずねてくれたことで、牧師はても大きな慰めを与えられたそうです。

しかし、イエスの名を背負って生きている人は伝道者だけではありません。初代教会では、キリスト者はすべて「クリストフォロス」、すなわちキリストを背負う者」と呼ばれました。パウロがまだサウルという名前だったとき、クリスチャンたちを迫害していました。ある時天からの光が彼を打倒し「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」というイエス・キリストの声が聞こえました(使徒八:四)。サウロはキリストの体である教会を迫害することによってイエス・キリストご自身を迫害していたのです。 

ここにいるわたしたちも、この世に置かれているキリストの証人の一人ひとりです。自分はイエス様を信じる人たちの中でも弱く、小さい者であり、ペトロなどとは比較もできない者だ、だと思っている人がいるかもしれません。しかしイエス様は「わたしの偉大な弟子にしたのは」と言わずに、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」と言ってくださるのです。 

イエス様はわたしたちを立てて、ご自分の名前を背負って生きる者としてくださり、わたしたちがそのために経験する喜びも苦しみも、人々からの尊敬も無関心も、好意や敵意も、すべてご自分のものとして受け取っておられるのです。それほどイエス様はわたしたちと一つになっておられるのです。

イエス様が天に帰られたのは、イエス様がわたしたちから遠く離れてしまった、ということではありません。むしろ聖霊を通して、わたしたちがどこにいても、どんなときにも栄光の王として共にいてくださるためなのです。ですからわたしたちは決してイエス様の名前を恥じることがあってはなりません。むしろ、どんな時もキリストの僕として自分自身をあらわしながら(二コリント五:四)歩んでゆきたいと思います。また、一緒にキリストの名前を背負って生きている兄弟姉妹を大切にし、お互いに支え合い、励まし合いながら主の働きに仕えてゆきたいと思います。

「目を覚まして」

マタイによる福音書25章1-13節

-聖霊降臨後第23主日-

 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

●「終わり」を考える

 今年もあと三週間で教会の暦が終わり、12月の第一日曜日から待降節が始まります。教会暦の終わりには世の終わりに来られるイエス・キリストが覚えられます。待降節もクリスマスの準備のための時だけではなく、世の終わりに来られるキリストを覚える時です。その待望の中で、わたしたちはすでに来られたイエス様を覚えるのです。そして再び来られるイエス様こそわたしたちの人生のゴールなのです。

 車で道を走っている人が、どこへ行くのですか」と聞かれて、「わかりません、と答える人はいないと思います。しかし、多くの人は自分が最終的にどこに行こうとしているのか、わからずに毎日を生きているのではないでしょうか。

何年も前から「終活」ということが語られるようになりました。自分の終わりに備えて、墓のことを考えるとか、遺言を書くということが大切だと言われます。しかし、本当の「終活」とは、わたしたちが最後にどこに行くのか、ということを考え、そのために備えることではないでしょうか。ところが人生は死という闇で終わるので、その先のことを考えることができないのです。しかし、わたしたちはイエス・キリストの十字架と復活の福音によって、死から先の世界を見通すことができるようになりました。キリストはご自分が受けた苦しみによって、わたしたちが神様の前に恐れなく立つことができるようにしてくださったのです。またキリストの復活によって死に打ち勝つ神の命に生きる希望が与えられています。

この世界は人間の罪のために悪がはびこり、争いが絶えません。また自然界も滅びの下に置かれ、多くの自然災害に襲われています。しかし、神がキリストによってこの世界を治める時、すべては新しくされる、と聖書は告げています。わたしたちはそのゴールを待ち望んで、この地上でキリストに仕えて生きるのです。人生には入学や就職などの途中経過のゴールがあります。そのために人は競争します。しかし、神が与えてくださるゴーㇽには人数制限はありませんし、能力のある人だけが入るのでもありません。今日のイエス様の例えは、イエス様を迎えるために何が大切かをわたしたちに教えています。

●「ともし火」とは何か

イエス様は、ご自分が世の終わりにが来られる時を婚礼にたとえておられます。ユダヤの結婚式は夜に行われました。夕暮れ時に花婿は友人と一緒に自分の家を出て花嫁の家に迎えに行きます。花嫁の家には花嫁の友人のおとめたちが待っています。花婿が花嫁の家に近づくと、花婿の友人が「花婿だ。迎えに出なさい」と声をかけます。すると花嫁は友人たちと一緒にランプを手にとって花婿の家に向ってゆくのです。ともし火をつけて迎えることが、花嫁の友達が花婿を出迎え、宴会に加わるための絶対条件でした。

しかしイエス様の今日のお話では、十人のおとめの内、五人は愚かで、十分な油を用意しておらず、目を覚ました時は油が無くなりかけていました。あわてて店に油を買いに行き、その後で花婿の家についた時には、すでに門は閉ざされていました。遅れて来たおとめたちに,主人は「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない」と告げました。

ところで、聖書には結婚式のたとえがいくつもありますが、そこには花婿や招待客、花嫁の友人などは書かれていますが、花嫁については殆ど書かれていません。しかし、聖書では花嫁は誰かははっきりしています。それはキリストの教会です。世の終わりに花婿であるキリストは花嫁である教会を迎えに来てくださるのです。ですから、婚宴の譬えでは、招待されている人々の群れが同時に花嫁であり、またともし火をもって花婿を出迎えるおとめたちも同時に花嫁なのです。

花嫁にとって最も大切なことは、キリストへの愛、キリストへの誠実さ持ち続ける、ということです。それが「ともし火をともし続ける、ということです。

イエス様が語られた五人の賢いおとめと五人の愚かなおとめは、クリスチャンとそうでない人々のことではなく、クリスチャンに向けて語られたお話であることに注意しなければなりません。ある時まではキリストを愛していたけれども、いつの間にか、目の前のこと、この世のことがより大事になって、イエス様への初めの愛が消えてしまう、ということが起きるかもしれません。愚かなおとめたちに主人が言った、「あなたたちを知らない」という言葉は、「わたしとあなたたちとは関わりがない」という意味です。そして関わりを断ち切るのはイエス様ではなく、人間の方なのです。

イエス様は、ルカによる福音書十八章八節で、「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」と心配をされています。また、マタイ福音書二四章一二節で、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。」と語っておられます。これはイエス様への愛のことです。イエス様は多くの人々が神なしで生きている暗い時代の中でも、わたしたちがイエス様への信仰と愛の光を持ち続けることを願っておられるのです 。

●賢さと愚かさ

今日のイエス様は賢い人と愚かな人とはどんな意味で教えられたのでしょうか。マタイ福音書の山上の説教の最後にも「岩の上に家を建てた賢い人と、砂の上に家を建てた愚かな人」のお話があります。イエス様が教える「賢い人」とは、教養がある、知識がある人、ということではありません。賢い人とは、何が最も大事なことかをわきまえ、そのための備えを怠たらない人のことです。土台にかけるお金を惜しんで、その分立派な家を建てても、大風や洪水で全財産や命を失うなら、それは賢い判断とは言えません。

同じように、油を十分準備しなかったおとめたちも、余分な油を買うことを惜しんだのかもしれません。それは得をしたように見えますが、もっと大切なものを失ってしまったのです。

 わたしは世の終わりの時についてお話してきましたが、世の終わりとは世界の終わりの時だけではなく、わたしの人生の終わりの時も、わたしにとっての世の終わりです。そしてその終わりはいつ来るかわかりません。それは明日かもしれないし、今日かもしれません。

今日の使徒書にはイエス様が来られる前に世を去った人たちのことについて書かれています。初代教会の人々は、天に昇ったイエス様がすぐに戻ってくると考えていました。その時に生きていなければ救われないと考えていたのです。しかし待っていたイエス様はなかなか来ず、兄弟姉妹たちが次々に死んでゆくので、大変悲しんでいたのです。そこでパウロは、たとえ眠っていたとしても、主が来られる時、彼らは目覚めて主のもとに迎えられるのだ、と教えているのです。

今日のイエス様の譬えでも、愚かなおとめだけではなく、賢いおとめたちも「花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。」と書かれています。大切なことは、最後まで信仰を保ち、霊的な眠りに陥ることなく、キリストを愛する者として生き抜くことです。多くの人が神様のことなど考えないで生きている暗い時代の中でも、その闇の中で常に霊の目を覚まし、信仰の灯、キリストへの愛の灯を燃やし続けなさい、というのです。それは自分が持っている光をキリストに見出していただくためです。それと同時に、この信仰の光を輝かせることは、世の人々にキリストを伝えるための奉仕でもあるのです。

信仰の火、愛のともし火の油は聖霊です。それはわたしの中にはありません。イエス・キリストの福音を聞くことによってわたしたちに注がれます。そして今その店はまだ開いています。これからもこうして恵みの福音を聞き、イエス様をお迎えするともし火をますます輝かせていただきたいと思います。

「一番大事な掟」

マタイによる福音書22章34-46節

-聖霊降臨後第22主日-

ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。

『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』

このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。


●あなたの神、主を愛しなさい 

今日の個所は、十字架の死が二日後に迫っていたイエス様に向けられた最後の質問です。質問したのはファリサイ派の人たちで、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」というものでした。

旧約聖書には、十戒を初めとして、数多くの律法があります。全部で六百十三もの戒めがあるということです。その中で「何々してはいけない」という禁止の掟が三百六十五あり、「何々しなさい」という積極的な掟が残りの二百四十八あるということです。当然それらの戒めには、より重要な戒めとそうでないものがあります。たとえば「畑に二種類の種を蒔いてはいけない」という掟がありますが、その掟よりも「殺してはない」という戒めの方が言うまでもなくより重い戒めです。

イエス様はファリサイ派の人々の質問に対して「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」とお答えになりました。

最初の「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」という戒めは申命記六章にあります。神を愛することはなぜ大切なのでしょうか。それが神が人間をお造りになった目的だからです。人間だけが神の愛と恵みに対し、愛によって応えるように造られています。ここに人間を他の動物よりもはるかに価値あるものにしている土台があります。このことを見失ってしまうと、人間は他の動物よりも頭が良いけれども同じ動物に過ぎなくなってしまい、人間の本当の価値が見えなくなってしまうのです。「人間は偶然に生まれ、猿から進化した生き物に過ぎない」と教えられている現代社会の中で、自分の本当の価値を見失ってる人々が多くいるのではないでしょうか。

実はこの「神を愛しなさい」という戒めが最も大切な戒めであることはイエス様に質問したファリサイ派の人々もよく知っていたのです。ユダヤの人々はこの戒めを最も大切な掟と考えていました。これを紙に書いて小さな箱に入、それを戸口の柱につけて、家に出入りするたびにその箱に触って、この戒めを思い出していたのです。

●あなたの隣人を愛しなさい

ではファリサイ派の人々は答えが分かっていてなぜイエス様に「どの戒めが大切か」と質問したのでしょうか。ファリサイ派の学者たちはイエス様を「試そうとして」この質問をしたと書かれています。この「試す」という言葉はイエス様にどれだけ律法の知識があるかを試す、ということではなく、イエス様を罠にかけるための質問だったのです。ファリサイ派の人々は神の掟を守らない人々を「地の民」と呼んで軽蔑していました。そしてそのことをイエス様からたびたび批判されていました。ですからイエス様が、「神を愛することが最も大切な戒めである」と答えたら、今度は、「では、なぜあなたは神から離れている罪びとと付き合うのか」、と問いただすことができました。

しかし、イエス様は続いて「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と答えられました。これはレビ記一九章にある戒めです。

ちょうど十字架の縦の棒が立てられて、そこに横木がつけられるように、神を愛するという戒めが最初にあって、自分のように隣人を愛する、という戒めが次に来ます。順序の違いはあっても、イエス様は第二の戒めも同じに重要である、と言われたのです。

「神を愛しなさい」という掟を守る人は、神が望まれることを行うはずです。神が求めることとは「自分を愛するように隣人を愛する」ということです。そしてこの二つは十戒の前半と後半をそれぞれにまとめている言葉です。モーセの十戒の中心は、神を愛することと隣人を愛することなのです。神を本当に愛しているなら、隣人を自分のように愛しなさい、という生き方をしているはずなのです。

新約聖書のヨハネの第一の手紙(4:20) にも「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」と教えられています。ファリサイ派の人々は、口では「神を愛している」と言っていましたが、律法を守らない、また人間が作りだした儀式を自分たちと同じように守っていない同胞を見くだしていたのです。ですからこの二つを並べたイエス様の言葉は,ファリサイ派の人々にとって手痛い一撃となったのです。

●キリストがくださる愛

このように、イエス様は最も大切な戒めを教えてくださいました。しかし問題は、この最も大切な掟を「わたしは守っている」と言える人がいるのか、ということです。聖書はこの掟を完全に守った、たった一人の人のことを記しています。それは人となられた神の子、イエス・キリストです。

イエス様はファリサイ派の人々の質問に答えた後、今度はご自分の方から質問されました。イエス様は、「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」と質問しました。ファリサイ派の人々は「ダビデの子です。」と答えました。救い主はダビデの子孫から生まれる、と預言されているからです。しかしイエスはは、「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。」と問い返されたのです。詩篇百十編でダビデはあ、彼の「主」に対して「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵を あなたの足もとに屈服させるときまで」と語られたことを記しています。キリストよりも一千年前にいたダビデは、当時の最高権力者でした。そのダビデが、メシアを「わたしの子」ではなく、「わたしの主」と呼んだのです。このように「主なる神が語りかけたダビデの主」がキリストなのです。

このメシアの王座は、地上にではなく、天にある、ということをこの詩篇は語っています。イエス様の時代のユダヤ人たちは、メシアは偉大なダビデ王の子なのだから、ダビデのように強い武力によってユダヤの国を救ってくれる方であると考えていました。

確かにダビデは優れた信仰の持ち主であり、偉大な王でしたが、聖書ははっきりと、彼もまた神の赦しを必要とする罪人であったことを記しています。このダビデに対してイエス・キリストはどうだったでしょうか。人々はイエス・キリストに何の罪も見出すことができませんでした。偉大な力を持っていたのに、誰ひとり傷つけることはありませんでした。その力を自分のためではなく、ただ人を助けるためだけに使ったのです。そしてキリストは敵の傷さえ癒し、また彼らのために祈ったのです。このキリストこそ心を尽くして神を愛し、自分を愛するよう隣人を愛された方です。

ファリサイ派の人々はイエス様を「先生」と呼びました。しかしイエス様は神様の掟を教える単なる律法の教師ではありません。律法を守ることを要求するモーセではなく、わたしたちの心の中に神への愛を与えてくださるという、新しい契約を結んでくださる方なのです。イエス様は、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(ヨハネ15:4)と語りましたが、これは神にしか語れない言葉です。

 わたしたちは、自分で自分の心を変えることはできません。それができるのは主なるキリストです。キリストは、この二日後の十字架の死によって、わたしたちと神の間にあった罪の壁を取り去り、わたしたちの心に神への愛を芽生えさせてくださいました。そして天から聖霊を送り、わたしたちを日毎に造り変えてくださるのです。

旧約聖書の最後の預言者マラキは、「あなたたちが待望している主は 突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者 見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」(3:1b)と預言しました。その主が、この時、神殿におられたのです。わたしたちは喜んでこの主を心の内にお迎えいたしましょう。

「神のものは神に」

マタイによる福音書22章15-22節

-聖霊降臨後第21主日-

それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

●悪意からの質問

マタイ福音書二一書と二二章には、イエス様とイエス様に対立した人々との議論がいくつか記されています。これはイエス様の地上の生涯の最後の一週間の内、火曜日、水曜日にかけて行われたものです。イエス様を快く思っていなかったユダヤの指導者たちは、イエス様を非難する口実を見つけようとして、質問や議論を仕掛けてきたのです。その一つが、   

今日の「皇帝への税金」についての議論でした。

ファリサイ派の人々は、イエス様に質問するふりをして、イエス様の言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談していたのです。

彼らはまずイエス様に対して「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」と、最大の讃辞を送りました。ある人が、「キリストは敵によって最もほめられた」と語りましたが、実際にキリストの敵対者の言ったことはその通りであって、彼らもそれを認めざるを得なかったのです。しかし、そうした賞賛にもかかわらず,彼らはキリストを敵視し、何とかして陥れようとしていたのであり、そこに彼らの偽善があったのです。

彼らは、「カイザルに税金を納めるのは律法にかなっているでしょうか」とたずねました。議論をしかけたのはファリサイ派の人々とヘロデ派の人々でした。ファリサイ派は、ユダヤの独立を願っていた当時の民衆を代表していました。当時のユダヤはローマ帝国に占領されていましたが、自分たちは誇り高い神の選民だと考えていたユダヤ人たちにとって、異邦人の支配者であるローマ皇帝に税金を納める事は屈辱的なことでした。ですからここでイエス様が、「皇帝に税金を納めなさい」と答えたなら、それを民衆に知らせ、「イエスはユダヤの国を裏切る者だ」と非難しようとしたのです。

一方、ヘロデ派の人々は、自分たちの領主であるヘロデ家をユダヤの王の地位につかせようと運動していました。そのために彼らは王位を指す目てくれるローマ皇帝に積極的に協力「していたのです。ですからもしイエス様がここで「カイザルに税金を納めなくてもよい」と言えば、このヘロデ党の人々は、「イエスは公然とローマに反逆した」と言って訴えたことでしょう。

「敵の敵は味方」と言いますが、普段は反目し合っていたファリサイ派とヘロデの党の人々は、この時イエスという共通の敵に対して手を結んだのです。

●カイザルのものはカイザルに

 イエス様は、御自分を陥れようとする彼らの悪意に気づいていました。そして彼らに「税金に納めるお金を見せなさい。」と言いました。彼らが持ってきたデナリ銀貨を見せて「これは、だれの肖像と銘か」と言うと、彼らは「皇帝のものです」と答えました。銀貨に皇帝の肖像が刻まれているということは、この貨幣は皇帝の所有である、ということです。イエス様は、「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と答えられたのです。

この「返しなさい」という言葉は「積極的に納めなさい」という意味を持つ言葉です。当時ユダヤの国はローマの貨幣を使っていました。それはローマの政治のもとにいるということですから、税金を納めるのは当然な事だ、と言われたのです。

神様は、罪に落ちたこの世界が、無秩序と混乱に陥らないために国家や政府を立てておられる、というのが聖書の教えです。もし国や政府がなければ、道路や橋、水道や下水道も使えないでしょう。また犯罪者を取り締まることも出来ず、わたしたちは今のような暮らしはできないはずです。ですから国民の生活を守る国や自治体に税金を納めるのは当然の義務であり、さらにはそうした指導者を立てておられる神様への義務でもあるのです。

今日の旧約聖書の日課には、ペルシャの王のキュロスのことが書かれています。神様はこの異国の王を使ってバビロンの捕囚となっていたイスラエルを解放する、と予告されたのです。聖書の神様は全世界の支配者であり、時には外国の王を動かして、イスラエルを罰したり救ったりするお方です。ですからたとえ神を信じない異教の王であっても、それは神がご自分の僕として立てた人々である、というのが聖書の考え方です。イエス様はここで皇帝のものは皇帝に返し、義務を果たしなさいと教えられたのです。

 最近話題になっている宗教団体は「この世の政府は神から離れたサタンの政府だから、嘘をついても税金を払わなくてもよい」と内々に教えます。またもう一つの団体は、聖書に「人を裁くな」、とか「殺してはならない」と命じられているから、裁判官や警察などの働きを含む公務員になってはならない、と教えます。しかしそんな彼らも、火事になれば消防署に頼り、犯罪被害に遭えば警察に頼っているのです。ペトロは、その手紙の中で「あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。」と教えています。クリスチャンは神の国に国籍を与えられていますが、今生きているこの地上の国においても誠実な市民でなければならないのです。

●神のものは神に

しかし、イエス様は「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言っただけでなく、言葉を続けて「神のものは神に返しなさい」と言われました。ローマに従う事は神に従う事に反する、ということではありません。ローマに対しては税金を納め、神に対しても納めるべきものを納めなさい、と言われたのです。

それでは「神のもの」とは何でしょうか。聖書は、わたしたち人間は神によって造られ、神に似せて、神にかたどって造られた、と教えています。神の刻印が押されているのです。ですからわたしたちは神のものなのです。

 しかし、この「神の「かたち」とは、わたしたちの外側の形ではなく、神と同じように意志を与えられ、神の言葉に聞き、自発的に神を愛し従うことができるという、人間だけが持っている特別な性質のことです。

キリスト者は、時に悪い国家権力によって圧迫され、迫害されることもあります。しかしキリストがそうされたように、主張べきことは主張しも、力によって仕返しすることはしないで、どんな時にも、他の人が決して奪うことができない神への愛と、正しい良心を守らなければならないのです。神はそのようなものとしてわたしたちを造られたからで、神のみ前に、神への愛と正しい良心を保つことが「神のものを神に返す」ということなのです。口ではイエス様をほめながら、内心ではイエス様を憎んでいた人々の偽善は、彼らが正しい良心を捨てて神から離れていたことを示しています。

イエス様は山上の説教で「心の清い人々は幸いである、その人は神を見る」と言われました。心の清い人」とは「混じりけのない心」、「二心でない人」のことです。ファリサイ派の人々は自分では神に献身している、と思っていましたが、その心は神から離れていました。ファリサイ派の人たちだけでなく、わたしたちもまた神から遠く離れていました。イエス様が語られた、あの失われた銀貨のように、神の手を離れ、自分の価値や存在の意味を見失っていたのです。

イエス様は、この二日後に十字架にかけられました。それは何のためだったでしょうか。それはわたしたちの内にあって、わたしたちを神から遠ざけている罪の意識から解放し、わたしたちを恐れなく神の前に立たせてくださるためでした。イエス・キリストは、傷も染みもない子羊として、わたしたちのために屠られ、その血によって一切の罪を覆ってくださったのです。わたしたちはこのキリスという道を通って、神の前に立ち、神に身をゆだねることができるのです。そして神の完全な赦しのもとで、日々良心を洗い清められて、一人の祭司として神に近づくのです。 

キリストこそ、わたしたちを神の手の中に返してくださった方です。わたしたちを神のものとしてくださったキリストの恵みの内を、これからも歩んで行きたいと思います。

「天国の婚宴」

マタイによる福音書20章1-14節

-聖霊降臨後第20主日-

イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

●王子の婚宴

 これまでイエス様は、天の国を労働者たちが働くぶどう園に例えて教えられました。それらのたとえから、人間は神様のお働きに仕えるために造られた、ということを学ぶことができます。しかし、今日の日課でイエス様は、「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」と語っています。天の国、すなわち神の国は祝いと喜びの世界であるというのです。

わたしの牧師だった方が「福音書で語られている結婚式のたとえには花婿や招待されたひとたちのことは書かれているが、花嫁のことは書かれていない。実は婚宴の例えでは、招待された人々がまた花嫁でもあるのです」と教えてくれました。旧約聖書には、神が、ご自分のお選びになったイスラエルの国を妻とされることが書かれています。イザヤ書62章5節には「若者がおとめをめとるように あなたを再建される方があなたをめとり 花婿が花嫁を喜びとするように あなたの神はあなたを喜びとされる。」と予告されています。長い歴史の中で多くの過ちを犯したイスラエルを、神は再び愛する妻として迎えてくださる、というのです。洗礼者ヨハネ自分自身のことを花嫁を迎える花婿の介添え金である、と言っています(ヨハネ3:29)。ここで花婿」と呼ばれているのはキリストのことです。

しかし、そのように予告されていたイスラエルに神の王子であるキリストがイスラエルに来て紹介され、天の国への招きを伝えたとき、人々はどのような反応を見せたのでしょうか。

イエス様の譬えでは、最初に使いを送った時は、誰も来ませんでした。王は二回目に使者を送って「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」と、丁重に招待します。決して権力をふるうのではなく、招かれた人たちが喜んで、自発的に来ることを期待したのです。 その後の五節、六節には、「しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ」、と書かれています。信じがたいことですが、これがイスラエルで起きたことでした。畑仕事や商売は大事な仕事ですが、王子の婚宴という一度限りの重要な招待のためには、明日に延ばすこともできたはずです。王は決して急に招待したのではありません。何日も前から予告し、招いていたのです。しかし人々はそれを無視したのです。

●招きにふさわしくない者

イエス様がベツレヘムで生まれた時、ユダヤの人々は誰もイエス様のもとに行こうとしませんでした。キリストが来ることが予告されていたのに、喜んでそこに行く人はいなかったのです。わたしたちにもそれは起こりうることです。ある時、神の愛を知って喜んでも、いつの間にか目の前の暮らしの方が大事になってしまい、神様が生活の中に介入することを拒むようになってしまうことが起こります。イスラエルに安息日が定められたのは、一番大切な神との交わり、神がやがて与えてくださる永遠の安息を覚えるためでした。また、わたしたちがこうして日曜日に集まるのも、イエス様がわたしたちを天の国に招いてくださったと言う、一番大事なことを覚えるためです。

たとえ話の中で、イエス様はもっと深刻なことを語っておられます。「また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」というのです。彼らは王の丁重さを王の弱さと考えて見くびったのです。

イスラエルも、はるか昔から招かれていたのに応じませんでした。イスラエルの指導者たちは、自分たちの地位を脅かすキリストの存在を認めることができず、キリストを殺したのです。弟子たちはその後も迫害を受けながらキリストの死と復活による罪の赦しの福音をと伝えました。しかしイスラエルはそれを受け入れませんでした。イエス様が、「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」と語ったように、イエス様の死から四十年後の紀元七十年に、エルサレムの町はローマの軍隊によって完全に破壊され、イスラエルは国を失ってしまったのです。

この後、王は家来たちに、「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」と命じました。「町の大通り」とは、町の境にあって、他の地方、他の国につながっている交差点のことです。そこにはユダヤ人以外の人々もいました。イスラエルは招かれていたのに神様の招きに応じませんでした。スラエルは招かれていたのに神様の招きに応じませんでした。彼らは王の丁重さを王の弱さと考えて見くびったのです。。彼らは神様はイスラエル以外の別の国々から天国のパーテイに人々を招待されたのです。

 また家来たち月が、「善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」と書かれています。神様はあらかじめ招待されていた人々ではなく、神から遠く離れていると思われていた人々を神の国に招かれたのです。イスラエルだけではなく、黙示録21章に書かれているように、世界にあるキリストの教会がキリストの花嫁とされたのです。そして今もこの世界に対してその婚礼への招きが続けられているのです。

●礼服を着なかった客

しかし、イエス様のお話はここで終わっていません。婚宴の部屋がいっぱいになった時、王様が客を見ようとして入ってきました。そして招かれた人たちの中に礼服を着ていない人を見つけたのです。王様はその人に、「友よ、なぜあなたはなぜ礼服を着てないのか」と尋ねると、その人は黙っていました。そこで王はこの人の手足を縛って外の暗闇にほうりだしてしまうようにと命じたのです。

 王の婚宴に招かれた人々は道で出会ってそのまま連れてこられたのですから、家に戻って着替える時間はなかったはずです。なぜ   

王様はそんなことを言ったのでしょう。実は王が人々を招待するときには王が礼服を用意したのです。ですから道で出会って招待を受けてもそのまま披露宴に行く事ができたのです。礼服を着なかった人がその理由を問われても黙っていたのは、言い訳ができなかったからです。礼服が準備できなかったからではなく、王が与えてくれる礼服を意図的に着ようとしなかったからです。

この人が礼服を着るのを拒んだ理由はわかりませんが、もしかしたらこの人は立派な服を着ていたので、周りの乞食のような連中と一緒にされたくない、という思いがあったのかもしれません。

  それではわたしたちにとっての礼服、天の国の婚宴に臨むための礼服とは何でしょうか。それはわたしのために死んでくださり、わたしのすべての罪を覆ってくださったイエス・キリストです。ガラテヤ書3章27節には、「イエス・キリストに結ばれる洗礼を受けたあなたがたはみなキリストを着たのである」と書かれています。王の使いたちが連れてきた人々の中には善い人も悪い人もいました。どんな人でも無条件で招かれたのです。同じように、わたしたちを神様の国にふさわしくするのはわたしの行いや正しさではなく、「キリストを着る」とパウロが表現しているように、王である神が与えてくださったイエス・キリストという救いの衣なのです。

自分の正しさを誇る人は必ず兄弟を見下し、裁くようになります。そしてそれは何よりも、神様が愛する独り子の苦しみと死という最大の犠牲を払って与えてくださった救いの衣を無視するという、最大の非礼、最大の背きになるのです。そして実際にこのような人々が、パウロが異邦人の世界に福音を伝えた時、教会の中に入り込んできたのです。

 イエス様は、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と呼びかけられました。それは「神の前での自分の罪を認めて、神が与えてくださった救いの衣を受け取りなさい」ということです。この着物は生きた着物であり、それをまとう人を神の愛で暖め、わたしたちの心を日々新たにしてくれるのです。 

わたしたちは神の国にふさわしい者ではありませんでしたが、神のお招きを受け、キリストという救いの着物をいただいてここにいます。わたしたちはお互いに神の尊い招きを受けたことを感謝し、共に助け合いながらその恵みに応えて歩んで行きたいと思います。

「後で考え直して」

マタイによる福音書21章23-32節

-聖霊降臨後第18主日-

イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

●何の権威で

イエス様が神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが来て「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と言ったことが書かれています。

イエス様はこの二日前に、ろばに乗ってエルサレムに入り、次の日に神殿の境内で商売をしている人々を追い出しました。また境内にいた目が見えない人や足の不自由な人を癒やしました。そして人々に教えを説いていたのです。イエス様に質問した祭司長や長老たちは、こうしたイエス様の行動のすべてについて、一体誰の権威のもとに行っているのか、と問いただしたのです。

祭司長や長老たちは、イスラエルの宗教や政治に関わる人々で、その身分は厳格な審査を経て与えられたものです。しかしイエス様にはそのような資格や肩書はありません。

この質問に対してイエス様は、「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのもの、すなわち神からのものか、それとも、人からのもの、すなわちヨハネの考えによるものか。」と逆に質問をしたのです。

この「ヨハネ」とは、イエス様が登場する前に、人々に悔い改めを説き、悔い改めのしるしとしての洗礼を授けていた人です。この質問を受けた祭司長や長老たちは、ひそひそと話し合いました。彼らは、「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」

祭司長や長老たちは多く民衆が悔い改めの洗礼を受けるためにヨハネのもとに行くのを見ても、彼ら自身、行ってヨハネの説教を聞こうとしませんでした。それはヨハネもまたこの世の権威とは無縁の人だったからです。そのような者の話を聞き、悔い改めの洗礼を受けることは彼らのプライドが許さなかったのです。しかし、かといって公然と「ヨハネの洗礼は権威がない」とも言えなかったのです。そんなことを言えばヨハネを信じている民衆の怒りをかうからです。それで「わからない」と答えました。するとイエス様は「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」とお答えになったのです。

●「信仰」は「真実」から始まる

イエス様がそのように言われたのは、彼らが自分たちにとって不都合なことについて真実か真実でないかの判断を避けていたからです。そのような人に対して真実を話しても、それは無駄なことです。

ヨハネによる福音書7章17節で、「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」と語っておられます。「この方」とは父なる神様のことです。「わたしは神様の心を行いたい」と真実な思いで真理を求める人なら、イエス様の言葉を聞いて、イエス様が自分勝手に教えているのか、あるいは神様から受けたことを語っているのか分かるはずだ、と言っておられるのです。

聖書の「信仰」という言葉は「真実」という意味です。ヘブライ語では「アーメン」という言葉に通じています。神が示された真実に対して、自分の都合や好みによって心を閉ざすのではなく、真実なものを真実なものとして受け入れることが「信仰」です。

反対に「不信仰」とは、自分にとって都合の悪いことについては、それが真実ものかどうかの判断を避けてしまう、ということ、つまり「不真実」ということです。

祭司長たちは神殿から多くの利益を受けていました。また長老たちは人々からの尊敬を受けていました。彼らはイエスの権威を認めることで、それらを失うことを恐れていました。そのような心は光に照らされることを無意識に恐れます。

不信仰は決して小さな罪ではありません。なぜならそれは今日登場している祭司長、長老たちのように、キリストを殺そうとする考えや行動につながっているからです。悔い改めることをしないで、光のように心を照らす神の言葉を拒む人は、その言葉を語る人を恐れ、憎みます。そして相手がこの世の権力を持たないのを良いことに、あらゆる口実を設けて抹殺しようとするのです。神は罪人を救いますが、不信仰な者、すなわち不真実なものは救わないのです。

●父の心にかなう人

しかし、イエス様はここで祭司長や長老たちを突き放さないで、彼らが考え直すために、たとえ話をされました。それは父親からぶどう園で働くように頼まれた二人の息子の話です。最初に頼まれた兄は、「いやです」と断りましたが、後で考え直してぶどう園に行きました。そのあとで頼まれた弟息子は「行きます」と色よい返事をしましたが、実際にはゆきませんでした。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」とイエス様は聞いていた人たちに尋ねましたが、これは誰が聞いてもはっきりしています。祭司長、長老たちは「兄の方です。」と答えました。

するとイエス様は、「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」と言いました。

当時罪びとと呼ばれていた人々は、このたとえの中の兄のように、初めは神に背く生活をしていましたが、後になってヨハネを信じ、またヨハネが紹介したキリストのもとに来たのです。しかし、口先で「行きます」と答えた弟のように、外面的な宗教儀式を行うことで神に従っていると思い込んでいたユダヤの指導達は、神様が予告し。遣わしたヨハネを信じることも、ヨハネが救い主として紹介したイエス・キリストを信じようとしなかったのです。それで彼らの従順が見せかけのものであったことが明らかにされたのです。イエス様は彼らのそのような見せかけの服従を指摘し、悔い改めを促したのです。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」というイエス様の道は、彼らが考え直す余地がまだ残されていることを示しています。

 しかし、イエス様が彼らに語った悔い改めとは、何かを「行う」ことではなく、「信じる」ということでした。イエス様は祭司長たちや長老たちにこう言っています。「ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税6:28-29

人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

このようにイエス様は、信じる、信じないということを問題にしています。

イエス様はある時、人々から「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問われた時、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業であるヨハネと答えました。(ヨハネ6:28,29)神の喜ぶ生き方をするためには、心が変わらなければなりません。しかしそれができるのは神だけです。神が遣わされた人を信じ、その言葉を聞く時、その言葉がわたしたちの心を新しくするのです。

今日の旧約聖書の日課であるエゼキエル書18章31節で神は、「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ」と語りました。その神は、同じエゼキエル書の36章26節で、「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」と約束しています。

イエス様はこの数日後に十字架で死なれました。それはわたしたちの罪をとり除き、遠くにいるわたしたちにも神の霊を注いでくださるためでした。

良心のやましさを感じるとき、わたしたちはイエス様から逃げるのではなく、イエス様のもとに逃げ込むのです。イエス様はわたしたち受け入れてくださり、これまでの罪を裁くのではなく、新しい心に造り替えてくださるのです。

天国の労働者

マタイによる福音書20章1-16節

-聖霊降臨後第1主日-

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。 2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。 3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。 6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。 8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 11それで、受け取ると、主人に不平を言った。 12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

●神の働きに召されたわたしたち

聖書にはぶどうの話がよく出てきます。ぶどうは夏に収穫しますが、熟しすぎるとすぐに実が落ちてしまうので、できるだけ早く収穫しなければなりません。それでたくさんの働き手が必要になります。

イエス様は天の国をぶどう園にたとえてお話になりました。

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った」。 

「天の国」とは神様の国のことです。神様も収穫のために人々を集められるのです。教会は神様のお働きに仕えるために神様によって呼ばれた人々の集まりです。

多くの日本人は、神とは人間を救い、幸せにしてくれる存在であると思っていますから、人間はもともと神の働きに仕えるために造られた、という聖書の考え方がなかなか理解できません。しかし聖書では、神の救いと召し、永遠の命と神に仕えることとは別の事ではなく、いつも一つの事なのです。

ヨハネによる福音書4章36節でイエス様は、「刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」と語っておられます。神様はキリストの福音によって人々を刈り入れ、永遠の命に至る実を集める働きにわたしたちを召されました。それは一方では「わたしたちが救いを受けて神の国の民とされてている」ということなのです。

神様の働きにはいろいろな人々が参加しています。イエス様のたとえ話では、ぶどう園で朝早くから働いた人々、そして九時から働いた人々、午後一二時、そして午後三時に雇われた人、そして夕方の五時に雇われた人のことをお話しされました。当時も、日本の山谷や釜ヶ崎のように、その日の仕事先を求める人々が集まる場所があったのでしょう。

朝早くからぶどう園で働いた人たちは一日一デナリの賃金をもらう約束で主人に雇われました。でも仕事が終わって賃金をもらうときに一番最後に来て働いた人が一デナリもらったのです。朝早くから働いた人はそれを見て、一時間しか働かなった人が一デナリもらったのだから、自分たちはきっとその何倍ももらえるに違いない、と思いました。ところが自分の番になってもらったのは、同じ一デナリだったので、「これは不公平ではないか」と腹を立てたのです。そしてぶどう園の主人に、「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは』と文句を言いました。すると主人はその人に答えて、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と答えたのです。

●恵みの世界で働くわたしたち

この世では、長い時間働いた人、たくさん働いた人がより多くの報酬を得るのが常識です。しかし神の国はこの世とは違います。神様は人間の心をご覧になります。その人がどれだけ感謝し、喜んで神に仕えているのか、という内側をご覧になるのです。夕方一時間しか働かなかった人は、決して怠けていたのではありません。歳を取っていたのか、それとも体が弱そうに見えたのか、誰もその人を雇ってくれなかったのです。「このまま空しく一日が終わるのか」と失望していたかもしれません。ですからようやく雇ってもらったとき、たとえ一時間であっても心を込めて働いたことと思います。憐れみ深い主人は、この人に他の人と同じように払ってあげたい」と思ったのです。同じように神様も憐れみ深い方であり、また働きの長さや量だけでなく、その人の心もご覧になるのです。

イエス様のたとえの中で、ぶどう園の主人が「出かけて行った」、とか「行った」という言葉が五回も出てきます。労働者たちがぶどう園の働きに呼ばれたのは、主人が出かけて行って彼らを招いたからでした。それは朝早く雇われた人も同じです。労働者たちはまったく受け身だったのです。。ぶどう園の主人が彼に声をかけなければ、彼も一日中立ち続けてたいたことでしょう。同じように、わたしたちが神の国の働きに招かれたのも、神様がわたしたちを探し、見つけ出し、招いてくださったからでした。

ヨハネによる福音書六章四十四節でイエス様は

「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる」

と語っておられます。

このような神の国の働きへの招きは、キリストによる赦しが前提となっています。わたしたちは自分の働きや行いによっては決して天の国に入ることはできません。わたしたちがキリストに招かれたのは、罪の赦しを受けたからです。そのことが分かって、自分の働きを誇ることなく、感謝してキリストに仕えることが大切なのです。

さらに忘れてならないことは、わたしたちが働くことができる能力も健康も、わたし自身が作ったものではなく、神から与えられた賜物である、ということです。ですから神を知っている人ている人は自分を他の人と比較して誇ったり、他の人を見下すようなとはしません。

●後の者が先になる

今日のイエス様のお話は、ペトロがイエスに「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と訊ねたことへの答え、また警告としてイエス様が語られたものです。イエス様はこの話の締めくくりとして

「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」と言いました。

イエス様の働きのために精一杯仕えることは良いことであり、大切なことす。しかし神様の恵みや赦しよりも人間の働きが価値のあるものと考えるようになり、自分の働きを誇って他の人を見下げるなら、その人は先の者のように見えても、神の前では後の者とされてしまいます。

反対に、働いた時間は短く、働きはなくても、自分を招いてくださったキリストの恵みを深く感謝しているなら、その人は「後の者」のように見えても、「先の者」とされるのです。

イエス様と一緒に十字架につけられた強盗の一人は、最後の最後に救われた人、つまり午後の五時に来た人だと思います。彼は十字架で死ぬ前にイエス様を信じ、イエス様から「あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と宣言されました。この強盗は、何もしなかったように見えます。しかし彼は、どんな罪人であっても、働きのない人でも、信仰によって救ってくださるイエス様の恵みを表すという、誰よりも大きな働きをしたのです。そしてこの人は他の誰よりも先にパラダイスに入ったのです。

憐み深い神様は、わたしたちが弱って多くのことができなくなっても、決して解雇することはなさいません。わたしたちが神の愛に感謝し、神を愛して行うことは、どんなに小さく見えようとも、それは神様の目から見れば大きなわざとなるのです。

ある若い女性が洗礼を受けたとき、教会の人たちから、何が受洗を決心するきっかけとなったのかと尋ねました。するとその女性は、「礼拝の時、わたしの前に高齢のご婦人が座っていました。その人の背中を見ているうちに、『わたしもこの方のようになりたい』と思ったのです」と答えたそうです。

わたしたちはすべての奉仕に先立ってキリストの福音を聞きます。それは神がどれほど大きな愛でわたしたちを天の国に招いてくださったのかを覚えるためです。そしてその恵みに感謝し、同じ主の愛によって召された人々と一緒に、喜びをもって主の働きに仕えるのです。

「赦しに生きる」

マタイによる福音書18章21-35節

-聖霊降臨後第16主日-

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

●仲間を赦さなかった家来

先週の福音書でイエス様は、兄弟があなたに対して罪を犯したとき、その兄弟を恨むのではなく、彼が立ち直るように愛の心をもって忠告しなさい、と教られました。その教えを聞いていたペトロは、そうするためには赦しの心が必要だと考えました。それでイエス様に、「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と質問したのです。日本でも「仏の顔も三度」と言いますが、この時代のユダヤの律法学者たちも「兄弟の罪を三度まで赦すべきである」と教えていたようです。ペトロはそれを二倍にしてさらに一回足して、「七回までですか」と問いかけたのです。

しかしイエス様は、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」とお答えになりました。イエス様が言われた「七の七十倍まで」ということは「四百九十回まで赦しなさい」、ということではありません。何回までなら赦す、というのは心のどこかに赦さない気持ちがあります。イエス様は「限りなく赦しなさい」と教えられたのです。

 そしてイエス様は一つのたとえ話をされました。ある主君がいて、その家来が一万タラントンの借金をした、というのです一タラントンは一デナリの六千倍ですから一万タラントンは六千万デナリ、一デナリは労働者一日分の賃金だといわれています。仮にそれを一万円としますと、その六千万倍は円に直すと六千億円という途方もない金額になります。

 王はこの家来に、自分も妻も子供も、そして持ち物も全部売って返済するように命じました。しかし、「どうか待ってください」とひれ伏して願うこの家来を王は憐れに思い、すべてを帳消しにしてあげたのです。

 ところがこの家来は王に赦されて帰る途中で、百デナリを貸している仲間に出会いました。百デナリというと先ほどの計算では百万円です。大きな額ですが、決して返せない金額ではありません。しかし家来は仲間の首を絞めて借金を返すように迫り、待ってくれと頼むその仲間を牢に入れてしまったのです。このことが主君に報告され、それを聞いて怒った主君はこの赦さなかった家来をすっかり返済するまで牢に閉じ込めたのです。

●わたしたちの負債を赦された神

 聖書では人間の「罪」のことを「負債」と言っています。それは人間に対してだけではなく、神様に対する負債です。人間は、たくさんの恵みを下さる神を愛し、神様が望まれる生き方をするようにと造られました。しかしわたしたちは人生の歩みの中で、すべきではないことをし、またしなければならないことを怠ってきました。こうしたことは過去に戻ってやりなおすことができない神様への負債となります。そして借金のある人がお金を借りた相手に会うのを避けるように、人は神様を避けるようになったのです。しかし神を避けていても、僕が主君の前に出たように、神の前に出て、人生の総決算をしなければならない時が来るのです。

 このような人間の世界に、神様はイエス様を送ってくださいました。父である神様は御子をこの世界に遣わせば、憎しみを受けて殺されることが分かっていましたし、イエス様にもそのことが分かっていました。しかし神様は御子の死によって、わたしたちの罪の負債をご自分で支払ってくださったのです。

たとえ話の中で、主君が家来の負債を赦した、ということは主君自身がその負債を負った、ということです。神様もわたしたちの罪のために、罪のない御子の死という、大きな代価を払ってくださいました。イエス様も最後の晩餐の席で、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われました。イエス様はご自分の血によってわたしたちの罪の負債を帳消しにしてくださったのです。コロサイの信徒への手紙二章に「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」と書かれています。

神様は過去の罪を赦してくださっただけでなく、今も赦し続けてくださっています。わたしたちは、礼拝で罪の懺悔をしますが、それは神様がわたしたちを何度でも赦してくださるからです。わたしたちは弱く、何度も過ちを繰り返しますが、「七を七十倍するまで赦しなさい」とお命じになったイエス様ご自身が、何度でも赦してくださるので、わたしたちは罪を悔い改め、何度でも立ち上がって新しく生きることができるのです。

●赦されて生きる

今日のイエス様のたとえ話はハッピー・エンドではありません。自分が赦されているのに、仲間を赦さなかった家来は、主君によってその赦しを取り消されてしまったのです。この家来は仲間を訴えて牢に閉じ込めることで、主君から大事な家来を奪ったのです。わたしたちも人を赦さないことで、その人をキリストから遠ざけてしまいます。それはその人の主人であるキリストをもっとも悲しませることです。

またこの家来は、仲間に貸していたお金を自分のお金だと思いこんでいました。しかし彼が貸していたそのお金は、本来は主君に返すべき主君のお金だったのです。

わたしたちも、「わたしが赦してあげるのだ」と考えがちですが、神様の赦しを信じているわたしたちにとっては、兄弟や隣人を赦すことは、「わたしの自由」ではなく、「当然の義務」なのです。  

わたしたちが神様の赦しをいただくのは、神様の愛に感謝し神様を愛するようになるためです。ですから、わたしたちが人を赦さないことは、神様に感謝していないことであり、神の赦しを本当には受け取っていないということなのです。

イエス様は、「あなたがたのち一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」と言っておられます。

うわべだけではなく、「心から」赦すということはとても難しいことに思われます。しかし神様はわたしたちがキリストの赦しに心を向けて祈る時、人を赦す力を与えてくださるのです。

何年か前に、静岡県の磐田市に住む方から「生きる力、赦す力」という題の小冊子が教会に送られてきました。その方は高校二年の時に車にはねられて頸椎を損傷し、完全四肢麻痺となり、人工呼吸器をつけなくては自分で息もできない身体となってしまいました。加害者は保険に入っていなくて治療のためのお金も出ませんでした。彼は好きな野球ができなくなった事に絶望し、加害者を恨み、生きる希望を失い、死にたいとも思いました。その時に部活の先輩から聖書を教えてもらい、イエス・キリストと出会いました。彼が聖書から最初に学んだのは「悪霊の存在」と「無条件の赦し」でした。それまでは加害者を憎み、恨み、殺してやりたいと思っていました。しかしイエス様を受け入れ、聖霊を受けて、相手を赦すことが出来たというのです。相手の人も苦しくて死ぬことも考えていました。しかし赦されて苦しみから救われ、その人もクリスチャンになり、今では一緒に聖書を学んでいる、という証しでした。

わたしはこれを読んで、「神様は本当にこのような奇跡を起こすことができる方なのだ」と感動しました。

わたしたちもイエス様の大きな赦しを知った者として、「どうかわたしを、兄弟や隣人を心から赦し、愛する者にしてください」と祈りましょう。

教会はイエス・キリストの赦しによって結ばれている人々の集まりであり、「赦しの共同体」です。言葉でキリストの赦しを伝えるだけでなく、互いの愛と赦しによる一致によってキリストの愛をあらわすのです。これからもキリストの赦しの中に生き、またわたしたちも兄弟や隣人に対する赦しに生きることができるように祈りましょう。

「愛は覆う」

マタイによる福音書18章15-20節

-聖霊降臨後第14主日の説教-

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。

それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

●キリストの赦しの上に立つ教会

 先週の礼拝説教ではエス様が弟子たちにご自分がエルサレムで苦難を受けて殺され、そして三日目に復活する、と告げられたことを学びました。 また、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」といさめたペトロが、イエス様から「引き下がれサタン。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と叱られたことも聞きました。

ペトロをはじめ、弟子たちはだれ一人としてイエス様の言葉を理解することがまったくできなかったのです。それはいったいなぜでしょうか。この時代のイスラエルはローマに支配されていましたが、人々はその状態を受け入れることができず、「神はキリストを遣わして、敵を打ち破り、この恥ずべき状態からわれわれを救って下さる」という期待をもっていました。ですからイエス様が殺されるなどということは「あってはならない」ことだったのです。弟子たちは、自分たちローマから救われなければならないと考えていましたが、先ず自分自身の罪から救われなければならないとは考えていませんでした。

イエス・キリストの教えが理解できないのは、人間が悪というものを他人に見ることができるけれども、自分に見ることが難しいからです。世の中で犯罪が行われると、わたしは彼らを批判し、裁く立場に立ちます。戦争や争いが起きると、それを悲しみ、自分たちは平和を愛する側にいる、と考えます。しかし聖書はわたしたち人間を決してそのようには見ていません。聖書は、すべての人が腐敗し、神を求めず、平和の道を知らない、と教えています。(ローマ3:10⊸18)

悪を悪として否定し、平和を尊ぶことは間違っていません。しかし他人とくらべることで「わたしは正しい」と思い込んで、悔い改めも、神の赦しや憐れみも自分には必要ではないと思っていると、すべての人の贖いのために命を捨ててくださったキリストの救いを理解することができないのです。

クリスチャンとは、キリストの死がわたしのための死であった、と信じる人です。そしてキリストの教会は、お互いに受け入れ合い、赦し合うことを通して、ひとり一人がキリストの赦しの中で生きてゆく人々の群れなのです。

イエス様はご自分の教会を、十字架の赦しと復活の力という土台の上に建てられました。そしてその教会のあるべき姿をここで教えておられえるのです。

●兄弟が罪を犯したなら

イエス様は先ず、「兄弟があなたに対して罪を犯すなら、行って二人だけの所で忠告しなさい」と教えました。イエス様がここで語られている罪とは、「あの人はわたしのことを無視した」というような個人的なことではありません。ここでの罪とは明らか長居を与えている、はっきりとした罪のことです。

教会は互いに愛し合う群れですが、「愛」とは兄弟の悪を見てみないふりをしてあげることではありません。誰が見ても間違ったことをしているなら、その人はイエス様に従う道から離れて危険な道に向かっているのです。

イエス様は「あなたに対して罪を犯したなら」と言っておられます。そのようなことが起きた時、「行って二人だけのところで忠告しなさい」とイエス様は教えておられます。この世では「あいつのほうから来て謝るべきだ」と言うのではないでしょうか。こしかしエス様は、「あなたの方から兄弟のところに行きなさい」と言われます。神様はわたしたちが神様に背いて生きていた時、神様はご自分の方から和解のためにイエス様をこの世に送ってくださいましたました。このようなイエス様のお働きがなければわたしたちはいつまでも神様から離れていた事でしょう。

 またイエス様は「二人だけの所で」と言われます。他の人に兄弟の悪口を言いふらすのではなくて、「二人だけで」というのです。そしていうことを聞いてくれなかったら他に一人か二人を連れて、証人としなさい、それでもだめだったら教会の役員に相談しなさいと教えています。ここには相手の罪がなるべくほかの人に知られないように相手をかばう姿勢があります。

コリント第一の手紙の一三章に「愛はすべてを忍び」とありますが、このすべてを忍び、という言葉は「覆う、カバーする」という言葉です。本当の愛は、相手に正しい人であって欲しいと願うものです。ですから罪の傷から癒されるように、相手を包み、立ち直るように助けるのです。自分の体で覆っていてくださり、癒し続けてくださっているのです。イエス様の愛と赦しに包まれているわたしたちも、またお互いに愛によってかばい合うのです。

わたしたちはなぜ互いに罪を覆い合うのか。それはわたしたちが神の家族とされているからです。わたしたちはもし自分の子供が万引きをしたことが分かったら、「みなさん、うちの子は万引きをしました」などと他の人にいいふらすことは決してしないはずです。本人をいさめ、一緒に謝罪に行き、子供が立ち直るように導くのではないでしょうか。それは自分の家族だからです。そしてわたしたちもお同じキリストの血を受け、キリストの地に結ばれて神の家族として生きています。

●イエス様と共に祈る

イエス様は「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」と教えておられます。誰の目にも悪いと思われる罪を教会は放ってはおきません。罪はその人を滅ぼすだけでなく、教会にも悪い影響を与えるからです。ですから誰かが罪を犯しているなら、真剣にその罪から離れるように説得するのです。そしてすべての手を尽くして悔い改めることがなかったら、その人が悔い改めるまで、聖餐から遠ざけるのです。悔い改めなければあなたはキリストから離れ、滅びますよ、と宣告するのです。イエス様はその人を「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」と言われました。しかしそれはその人のことを見捨てなさい、ということではありません。イエス様は取税人や罪人を見捨てはしませんでした。悔い改めて帰ることを待っておられたのです。

わたしたちの説得がうまくゆかなくて、相手が心を変えようとしないなら、その人は滅びればよいというのではありません。わたしたちはどこまでもその人の救いをあきらめてはならないのです。

イエス様はとても心強い言葉を今日の日課の最後に語っておられます。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

人間の力が尽きた時、あきらめるしかない時、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる、というのです。わたしたち人間には人の心を変える事が出来ません。そのために一生懸命説得しても、涙を流して訴えても、罪に縛られた心は変わらない。しかしそれで終わりではないのです。最後の手段としての祈りが与えられています。イエス様は誰が救われるでしょうか、と聞いた弟子たちに、「人にできないことも神にはできる、神には何でもできないことはないからだ。」と言われました。罪を宣告した相手であっても、その人のために祈るなら、神様が働いてくだるというのです。なぜならわたしたちがこころを合わせて祈る時、その真ん中にイエス様がおられて一緒に祈って居て下さるからです。このイエス様の言葉に従って、これからもイエス様のもとに来た人々がひとり」も滅びないで天の国に行けるように助け合い、心を合わせて祈ってゆきたいと思います。

「岩の上の教会」

マタイによる福音書16章 13-20節

聖霊降臨後第13主日の説教

16:13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 16:14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 16:15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16:16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 16:17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 16:18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 16:19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 16:20それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

●ピリポ・カイザリアで(神が与えた告白)

イエス様は弟子たちとフィリポ・カイサリアというところに行きました。そこはイスラエルの北にある町で、ギリシャ世界に近く、イスラエルの中にありながら、ギリシャ神話の神々を祀る大きな神殿がありました。また「フィリポ・カイザリヤという名は、この地方の領主であったフィリポがこの町をくれたローマ皇帝、つまりカイザルに感謝してつけた名前です。この町ではそのローマ皇帝礼拝が行われていたとのことです。

そのような所でイエス様は弟子たちに向かって、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねました。「人の子」とはイエス様がご自分を指すときに使われた言葉です。

このイエス様の質問に対して、弟子たちは、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と答えました。

洗礼者ヨハネはイエス様を人々に紹介した人です。このヨハネは人々に尊敬されていましたが、この時はもうガリラヤの領主であったヘロデによって殺されていました。人々はイエス様はそのヨハネの生まれ変わりではないか、と考えていたのです。また、神の言葉を伝える預言者の生まれ変わりではないか」と言う人々もいました。

するとイエス様は、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」とお尋ねになりました。するとシモン・ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのです。

ペトロの告白を聞いたイエス様はペトロに対して「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と言われました。ペトロがイエス様をこのように告白したのは、彼の探求の結果ではなくて、キリストの父である神がペトロにあらわしてくださったからだ」とおっしゃったのです。

現代もイエス様の誕生を記念するクリスマスは世界中で祝われえます。しかし、イエス様が人となられた神の御子であると信じて自分の人生の内側に迎え入れている人は多くありません。罪を持つ人間は、本当の神が自分に近づき、関わることを恐れているからです。しかし、ある時、わたしたちは恐れることなくイエス様を人となられた神の御子であると信じて告白できるようになります。それは目が見えなかった人が見えるようにされることと同じで、神の働きなしには起こりえないことです。

父なる神様は人となられた御子を通してご自分がどんな方かをお示しになりました。このイエス・キリストを受け入れる人はキリストを遣わされた神を受け入れる人です。ですからイエス様はペトロに「あなたは幸いだ」と言われたのです。

●あなたはペトロ(岩とされた人)

イエス様は、ご自分をメシアと告白したシモンに「あなたはペトロである」と言いました。「ペトロ」とはギリシャ語で「岩」という意味です。そしてイエス様は「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」と言われました。

岩というのは、動かないもの、長い年月が経っても変わらずに残るものというイメージがあります。でも聖書を読んでいる方なら、ペトロが本当に岩のような人なのかと首を傾げるのではないでしょうか。二週間前の福音書には、ペテロが湖の上を歩いたイエス様を見て、「わたしもそちらへ行かせてください」とお願いし、波の上を歩いたとき、風と波を見て恐ろしくなり、溺れかけた、と書かれていました。

また、イエス様が捕らえられたとき、「わたしは死んでもあなたについてゆきます」と言っていたペトロは「お前はイエスの仲間だ」と言われて、三度までもイエス様を知らないと言ったのです。ですからペトロは決して岩のような人、何があっても動じない人ではなかったのです。

聖書ではもともと神、またキリストが「岩」と呼ばれています。

ペトロが岩であるのはペトロ自身の強さではなく、ペトロが信じたキリストが決して変わることのない、また動くことのない岩だからです。ペトロは何度も失敗し、また恐れ、動揺しました。しかし、どんなときにも変わることのないキリストの愛と力に支えられていたのです。そして次第に彼自身も不動の人となっていったのです。

わたしたちは小さい時から「自分さえしっかりしていれば」と考えてきました。しかし、どんなに立派に見える家でもそれが砂上の楼閣であるなら人生の風や波によって倒れてしまいます。自分がしっかりすること以上に大切なことは、強い力で支えてくださる、岩であるキリストに支えられて生きることです。

●岩の上の教会(教会に召されたわたしたち)

わたしたちはペトロと同じように、キリストという変わることのない救いの岩の上に生かされていることを感謝したいと思います。ペテロがこの告白をしたとき、隆盛を誇っていたギリシャの神々やローマ皇帝を今拝んでいる人が一人でもいるでしょうか。

また、わたしたちはキリストの言葉という確かな人生の道しるべを与えられ、その言葉によって悪から守られ、その言葉によって子どもたちを育てることができました。

しかし、わたしたちはこのようなわたしたちの救いのためだけではなく、キリストの大切なお働きのために召されている、ということも忘れないようにしたいと思います。パウロの手紙には、救われた、という言葉よりも「召された」という言葉の方が多く使われている、ということを聞いたことがあります。わたしの救いのための信仰ということだけ考えていると、生活が平穏無事になった時、教会生活から遠ざかってしまうことがあります。教会生活を続け、しっかりとイエス様に結ばれるためには「わたしたちは主の家となるために召された、ということを覚えることが必要です。

イエス様はペトロに「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と言われました。イエス様を信じたペトロ、そして他の弟子たちは教会の土台となりました。わたしたちはこの使徒たちという土台の上に建てられる教会として集められているのです。

イエス様はペトロに、「陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と語りました。

教会は罪の赦しを宣言する権能を与えられています。それは教会が罪を赦す権威を持つキリストと結ばれているからです。教会は人々がキリストを通して神と出会う地上で唯一の場所です。そしてまたこの世で教会だけが正しく神の言葉を伝えることができます。それは教会の中に神の聖霊が働いておられるからです。

ペトロはその手紙の中で、「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。」(1ペトロ2:4,5)と記しています。わたしたちは力を合わせて、神と人が出会う教会を建て上げるために召されています。

昔、イスラエルに行った時、バスの中から外を見ていると、遠くに羊の群れが見えました。しかしよく見るとそれは羊ではなくて、草の上に散らばっていた白い石でした。それを見た時、わたしもあの野原に散らばっている石のようなものだけれども、神様の家を造るために使われているのだ、ということを強く感じました。イスラエルでは石はありふれたものです。しかしありふれた石であっても神の家に使われるとそれは聖なるものになります。キリスト者が聖徒と呼ばれるのは、神様の聖なる目的のために召されたからです。

若い時は仕事が生きがいだとか、子育てが生きがいだと言いますが、子育てが終わり、また仕事をやめると生きがいを失います。しかしわたしたちはいつまでも失われず、朽ちないもののために生きることができる幸いをいただいています。わたしたちを召して下さったキリストのみ旨に応えて、これからもお互いに力を合わせてキリストの尊いお働きに仕えてゆきたいと思います。

「ただ主の愛によって」

マタイによる福音書15章 21-28節

聖霊降臨後第12主日の説教

21イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。 22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。 23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」 24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。 25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。 26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」 28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

●キリストの沈黙と拒絶

 今日の福音書には、イエス様が「ティルスとシドン地方に行かれた」と書かれています。このティルスとシドンは今のレバノンの地にあった町です。この国の人々は偶像を拝む異邦人でした。イエス様はそのような所に足を踏み入れたのです。

するとそこに幼い娘が悪霊に取りつかれている一人の女性がやってきました。悪霊に取り憑かれると人間性を失い、自分で自分の体を傷つけます。母親として、娘のそのような姿は見るに耐えなかったでしょう。彼女はたまたま自分たちの住んでいるところにやってきたイエス様のことを聞いて、キリストのもとに駆けつけたのです。そして「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫びました。

マルコによる福音書三章には、「ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。」書かれています。イエス様の評判はすでにこの地方にも広まっていたので、この女性はイエス様がきっと娘を癒してくれると信じてやってきたのです。

しかし、この女性が必死に願っても、肝心のイエス様は「何もお答えにならなかった」と書かれています。弟子たちは、あまりにもこの女性がうるさいので、イエス様に「主よ、この女を追い払ってください」と願います。「追い払ってください」という言葉は「解放してください」という意味ですから、弟子たちは「この女の要求を聞いてあげて帰らせてください」と、とりなしたのです。

するとイエス様は、「わたしはイスラエルの家の失われた羊たち以外には遣わされていない」と言いました。イエス様は、「わたしの働きはイスラエルの範囲に限られている」と言われたのです。この女性はそれにもめげずに、イエスの前にひれ伏して、「主よ、どうかお助けください」と願いました。するとイエス様は決定的な言葉をこの女性に投げかけました。イエス様は、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と答えたのです。これも女性の希望を打ち砕く言葉ではないでしょうか。イエス様はこの女性に「あなたにはイスラエルの人々が受けとる恵みを受け取る資格がない」と言ったのです。するとこの女性は、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と答えました。イエス様は女性のその答えに感心して、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言いました。そのとき、娘の病気はいやされたのです。

●救いはイスラエルから

 この女性の「立派な信仰」とはいったいどのような信仰だったのでしょうか。第一に、この女性のイエス様に対する信仰は揺るぐことがありませんでした。自分が聞いていた、イエス・キリストの良い評判、すなわちイエスという方は、すべての人に恵み深い方である、ということを疑うことはなかったのです。

 第二に、この女性は自分を否定するようなイエス様の沈黙や拒絶に聞こえる言葉をすべて受け入れたのです。

イエス様は、「わたしはイスラエルの民のためにだけ遣わされている」と言いました。神から離れ、神についての正しい知識を失ってしまった人類の中から、神様は一つの国を選びました。それがイスラエルです。神はイスラエルの人々に、世界を造られた唯一の神であるご自分を知らせました。それまで人間は神の言葉や神の教えを聞くことはなく、神をただ人間の利益のためのものと考えていました。しかし神はイスラエルにみ言葉を与えて、人間が神様の御心を知り、正しく神を敬う道を教えたのです。イスラエルを通して世界の国は救い主を知り、祝福を受けるように定められていたのです。そうしなければキリスト教もご利益宗教の一つになってしまいます。

しかし、イエス様にとってそれはご自分が天に帰られた後に起きることでした。それまではイエス様の働きはイスラエルのために注がれたのです。イエス様は弟子たちにも、「異邦人の道に行くな」(マタイ10:5)と言っておられます。そしてご自分もその言葉を守ろうとされたのです。

こうしたことを聞くと人々は「神は人間を差別すべきではない。イスラエルだけが特別ではない、みんなに同じようにすべきだ」と、神がとられる方法を批判するのです。しかし、このカナンの女性は、イエス様の語ったこれらの言葉をすべて受け入れたのです。「神の言葉を聞こうとしないで、神の下さるものだけを求めているあなたがた異邦人は、神の子どもではなく、犬である」と言われたイエス様の言葉さえも「主よ、ごもっともです」と受け入れたのです。そして自分には神の民と同じように受け入れられる資格はないことを認めたのです。

しかし、そのように自分を低くしてイエス様の言葉をそのまま受け入れた時に、その言葉の中にある恵みを見出したのです。

●ただ憐れみによって

 キリストは異邦人の女性に、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」といいました。しかしイエス様はここでは「犬」ではなく、「子犬」という言葉を使っています。それは野良犬ではなく、家の中にいて可愛がられているペットです。女性は自分を拒んでいるように聞こえるイエス様の言葉の中に救いを見つけたのです。そして「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と答えました。

また、この女性は、キリストの恵みはパン屑ひとかけらであっても十分な救いを与えてくれると信じたのです。このように神の恵みと力を信じるその信仰が偉大である、とイエス様はこの女性の信仰をほめられたのです。

 神の言葉、キリストの言葉は、罪のあるわたしたちにはとても厳しく思えます。しかしその言葉をこの女性のように「主よ、その通りです。」と受け入れる時、聖書が語るもう一つの言葉、「キリスト・イエスは罪びとを救うために来られた」という言葉をわたしに語られた喜ばしい言葉として聞くことができるのです。

確かにイスラエルの人はまことの神を知り、その掟も知っていました。しかし、彼らは間違った道を歩んでいました。今日の福音書の前には、自分たちの作った掟や儀式を守っていることを誇り、自分の行いで神の国に入れると考えていた人々のことが書かれています。彼らは自分たちの正しさを認めようとしないキリストを憎んだのでいました。しかし人間が神の民とされるという恵みは、決して人間の小さな行いで買えるものではありません。イスラエルの人々は自分たちの業を誇ることで、自分たちを選んでくれた神の恵みと憐れみを忘れてしまったのです。 

イエス様はこうした人々との長い論争から離れて異国の地に来られました。そこにこの女性がやって来たことは偶然のことに見えますが、イエス様にとって偶然の出会いというものはありません。イエス様はこの女性のことも、この女性の優れた信仰も最初から見抜いておられたと思います。そしてイスラエルの国に見られなかったこの女性の立派な信仰を弟子たちに示したのだと思います。

わたしたちもこの日本という国に生まれ、本当の神を知らずに過ごし、この世の習慣に倣い、朽ちてゆくものだけを求めていました。しかし神様は神から遠く離れていたのに、わたしたちの心のうめきや叫びを聞いてくださり、イエス・キリストという命の糧を与えてくださったのです。わたしたちには自分の働きや立派さでこのような贈物を受けることは決してできなかったのに、ただ神の憐れみ、キリストの憐れみによって神の民とされたのです。    

「ハレルヤ」という言葉は「主を誇る」という意味です。自分を誇るのではなく、人の思いをはるかに越えた神の憐れみを力を讃えることが、立派な信仰、大きな信仰です。わたしたちはこれからもカナンの女性が教えてくれたそのような信仰に生きてゆきたいと思います。

「人を生かすもの」

ヨハネによる福音書5章19-26節

-召天者記念礼拝の説教-

そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。

●命を与える神

本日は、わたしたちに先立って神のもとに召された方々を覚える礼拝をしています。しかし教会での礼拝は、いつも神の言葉を聞くことが中心ですから、今日はわ人間の命と死について聖書が語っていることを聞いてゆきたいと思います。

多くの人は、死は自然なことであると考えています。この世界を見れば、すべて秩序のあるものはその秩序を失い、すべての命あるものは死に向かっているからです。その反対の流れはありません。仏教ではこれを「無常」と呼んでいます。

では、最初の秩序や命はどのようして生まれたのでしょうか。これは「無常」という考えでは説明できません。聖書は、理性と命を持つ神が、この世界とその中にあるすべての生き物を創造したと告げています。ギリシャ語で「宇宙」のことを「コスモス」と言いますが、これは「秩序」という意味です。この世界とその中にあるものは、すべて神の知恵と力によって秩序をもって造られたのです。単なる偶然の重なりでは、このような世界や命は決して生まれません。

わたしたち人間も神によって造られました。しかし、人間は他の生き物とは違ったものとして造られました。第一に、人間はすべての造られたものの上に置かれました。第二に、人間は神の言葉を聞いて、それに自分から進んで応えるように造られたのです。すなわち意志と理性とが与えられたのです。  

今日読まれた創世記二章にあるように、神は人間に、喜びを与える様々な食べ物をお与えになりました。しかし神は人間に一つの戒めを与えたのです。神は命の木と善悪を知る木を示し、善悪を知る木からは取って食べないようにと命じました。そして「取って食べると必ず死ぬ」と警告したのです。神は、たった一つの戒めを与えることで、人間が神を敬い、神の領域を守ることをお求めになったのです。こうして「善悪を知る木」は、人間に自分たちの特別な地位を示すものとなったのです。

しかし、神の言葉に聞いて生きるように造られた人間は、神の言葉を捨て、食べてはならないと命じられた木から取って食べたのです。そしてその時に罪と死が人間を支配するようになった、と聖書は教えているのです。神から知恵を与えられた人間が、罪に支配されたまま長く生きることは、この世界にとって危険なことだからです。

●神から離れた人間

このように、聖書は死というものを、自然の出来事ではなく、神の言葉を捨て、神から離れた結果であると教えています。人間だけではなく、人間の下に置かれているすべての生き物や自然界も滅びの中に置かれました。神から離れた人間にとって、この世界は安住の地ではなくなったのです。

人間が神から離れた直後は、人間はまだ寿命が長く、千年近く生きたことが聖書に記されています。しかしノアの洪水の前に、神は人間の寿命を短くされました。創世記六章三節にこう書かれています。

「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。

近年は医学の進歩や生活環境の向上によって、人間の寿命はずいぶん延びてきました。昨年の四月、それまで存命中の最高齢者であった日本の田中カネという方が百十九才で世を去りました。またその後の最高齢者であったフランスの女性は、今年一月に百十八才で世を去りました。その前にも百十九歳や百十七歳まで生きた方はいますが、百二十歳の誕生日を迎える人はいませんでした。唯一の例外として、百二十二歳まで生きたフランスの女性がいますが、こちらの記録については不確かさがあるということです。今から三千五百年前に、聖書が人間の寿命の限界をはっきりと示していることは驚くべきことです。

しかしその聖書は、神が新しい命、永遠の命を与えることができる方であると教えています。神様は罪を犯した人間が生きるための労苦を背負い、やがて死に至ることを宣言されました。しかし同時に神は、将来人間を罪と死の力から解放する救い主を与えることを予告されました。そしてその約束は時代がたつにつれて次第に詳しくなってゆきました。神がなされた救いの約束を記しているのが旧約聖書です。

●神の子の声を聞く時

人間は神の言葉を聞いて生きるように造られた、と言いました。しかし神から離れた人間は神の言葉を聞こうとしなくなりました。何も語らない偶像の神は安心して拝みますが、本当の神、人間の心のすべてを見ておられる神、そしてわたしたちに語りかける神は避けているのです。

しかし神はそのような人間の世界にご自分の独り子を送ってくださいました。その方がイエス・キリストです。キリストは神にしかできない業を行いました。またキリストは罪を犯したことがない正しい方でした。しかしどんなにひどい罪人でも、キリストはご自分のもとに招かれたのです。

今日の福音書5章24節で、キリストはこう語っています。

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

英語でも、ギリシャ語でも、「信じる」という言葉が神について用いられる時には必ず「イン」という前置詞をつけます。キリストを信じる、ということは、キリストに信頼を置き、キリストに身を委ねることなのです。

ノアの箱舟のことを思い出してください。洪水は箱舟に押し寄せましたが、中にいるノアとその家族は守られたのです。そして箱舟は彼らを洪水後の新しい世界に運んだのです。同じように、イエス・キリストを信じる人は、キリストの中にいるのです。神の子はわたしたちをかばうために十字架の刑罰を受けて死なれました。しかし、神に完全に従ったキリストを死の力は滅ぼすことができませんでした。キリストは十字架の死から三日目に死人の中から復活したのです。このキリストが「わたしのもとに来なさい」と、わたしたちを招いておられるのです。

人間は神の言葉に応答するときに生きるのです。罪を犯したわたしたちに神がキリストを通して語られる言葉は、禁止の言葉でも裁きの言葉でもありません。それは赦しと恵みの言葉です。

続いてキリストは25節でこう語っています。

「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」

ここでキリストが言われている「死んだ者」とは誰のことでしょうか。神は最初の人間にこう言われました。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

この神の言葉はそのまま訳せば「それを取って食べる日に必ず死ぬ」という言葉です。しかし実際にこれを食べたアダムとその妻はすぐには死にませんでした。しかし彼らはその時、神から切り離され「霊的な死」を迎えたのです。イエス様が「死んだ者たち」と言われたのは、たとえ今生きているように見えても、神から離れ、霊的に死んでいる人々のことなのです。木や花が根元から切り取られた時、それは必ず枯れてゆくのと同じです。最初に霊的な死があり、次いで肉体の死が訪れます。しかし、キリストの言葉を聞き、死の力に打ち勝ったキリストに結ばれているなら、体は死んでも、霊は神の命を持っているのです。この新しい命を持つ人は、将来新しい体に復活する、とキリストは宣言されています。

「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」。

イエス・キリストはご自分の命をかけてこの言葉を語ってくださいました。今日、わたしたちは、キリストの言葉を聞き、それを受け入れ、キリストにあって眠っている方々と共に、神の命に生きてゆきたいと思います。そして、神が約束してくださる復活の希望を仰いで歩んでゆきたいと思います。

「見出された宝」

 マタイによる福音書13章31-33、44-52節    

聖霊降臨後第9主日の説教

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

●隠された宝

先週までわたしたちは、麦の種や畑に関わるイエス様のたとえ話によって神の国の教えを学びました。今日の日課では、いくつかの新たなたとえによって、神の国について教えられています。この中から今日は44節から46節までを取り上げたいと思います。

イエス様は「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている」と話し始めました。この言葉は、以前の口語訳では「天の国は畑に隠された宝のようなものである」となっていて、こちらの方が原文に近い翻訳になっています。つまり天国は畑に隠されている「宝」のようである、というのです。

古代のイスラエルは北と南の大国に挟まれていて、しばしば戦争の舞台になりました。中近東には古くから銀行がありましたが、戦争が起きれば銀行も安全ではないので、自分の財産を貴金属や宝石に換え、土の中に埋めて隠しておく人もいました。しかし誰にもそのありかを教えなかったので、その人が死ぬと宝はそのまま土の中に眠り続けたのです。今日のたとえ話は、その宝物が偶然に見つかった、というお話です。

イエス様は、続いてこう言われました。

「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」

この宝を掘り当てた人は自分のものではない畑で働く小作人でした。彼は偶然、一生かかっても手に入れることができない宝を掘り当てたのです。

わたしたちにとって、この宝とは神の御子イエス・キリストです。イエス・キリストがおられるところに天の国、すなわち神の国があるからです。

ルターはよく 「キリストを持つ」という言い方をしました。イエス・キリストは父である神がわたしたちに与えてくださった贈り物であり、宝物です。キリストの内には、わたしたちを天の国にふさわしい者とする罪の赦しと永遠の命があります。そして神の子であるキリストを持つ人は、キリストと共に神の子とされるのです。

また、キリストの中には将来だけでなく、この世を生きるわたしたちにとっての知恵と知識の宝があります。キリストはわたしたちに神の御心を教えてくださり、正しい道に導いてくださるからです。

宝が畑に隠されているように、キリストは今も多くに人の目に隠されています。人々の目は、キリストは普通の人間であり、しかも十字架で死んだイエス、という人しか見えません。キリストの栄光は受肉と苦難の内に隠されています。しかしわたしたちは目を開かれ、神の子であるキリストの栄光を見ているのです。

●思いがけない宝

イエス・キリストによって与えられる天の国は、思いがけない宝です。なぜならそれはわたしたちの期待や想像をはるかに超えたものです。キリストに出会うまでは、わたしたちにとって人生とは、やがて土に帰る時まで、労苦し、消えゆくこの世のつかの間の楽しみを求めるだけのものでした。しかしキリストに出会った時、人生の意味は一変したのです。

コリントの信徒への第一の手紙2章9節にはこのように書かれています。

「しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、 神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた。」

この宝を掘り当てた人は、偶然、一生かかっても手に入れることができない宝を掘り当てたのです。おなじように、天の国もわたしたちの努力や働きにとっては到底手に入れることができません。キリストの時代のユダヤ人たちは、天の国は神の戒めを守り抜いた人だけが入ることができると考えていました。しかし天の国は人間の働きではなく、イエス・キリストによって与えられるのです。

たとえの中で、この宝を見つけた小作人は、それを埋め戻して大喜びで家に帰り、全財産を売り払ってその畑を買い取ります。宝は土地の所有者のものですから、黙って持ち出せば窃盗ですが、土地の所有者になれば違法ではありません。

「持ち物をすっかり売り払って」という言葉は、自分の生活のすべてをかけて、自分の人生のすべてをかけて、ということではないでしょうか。創世記の創世記には、エサウという人が、長子の特権を一杯のスープと引き換えに弟のヤコブに譲ったことが書かれています。長子の特権とは、神から与えられた祝福の約束を、一族を代表して、引き継ぐという特権です。しかしエサウにとってそれは価値のないものでした。むしろ目の前にあるこの世のものの方が大切だったのです。

わたしたちは自分の力では天の国を受け継ぐことができません。しかし、この宝を何よりも大切にして、そのために自分の生活と人生のすべてをかけることはできるのです。

●高価な真珠

隠された宝のたとえ話の後で、イエス様はもうひとつのたとえ話をされました。

「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している」(マタイ13:45)。

ます。口語訳では、「また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。」となっています。さきほどは「天の国」は「宝」という言葉に結びついていましたが、このたとえでは「天の国」は「真珠」ではなく、それを探している「商人」に結びつけられています。

この「真珠を探す商人」とはだれのことでしょうか。それはご自分にとって尊い真珠である人々、神を愛する人々を探し求めておられる神様です。「高価な真珠」とあるのは「美しい」という意味の言葉です。また、「それを一つ見つけると」とあるように「高価な真珠」は、たった一つの真珠です。たとえ何億の人々がいようと、神様の目にはご自分を愛する一人ひとりが大切な「オンリーワン」なのです。そして「わたしの目にあなたは価高く、貴い」(イザヤ43:4)と言って下さるのです。

また、「見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」とあるように、神様は天においてわたしたちを見出しておられ、わたしたちをご自分のものとするために御子を遣わしてくださったのです。そして、見つけたものを買い取るために出て来られたのです。

商人は出て行って持ち物をすっかり売り払い、真珠を買いました。神様はご自分にとってすべてである独り子の命を代価として、わたしたちを罪と死の手から「買い取って」くださったのです。それはわたしたちを永遠にご自分のものとするためでした。ペトロの手紙1章18節以下にこう書かれています。

「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」

わたしたちがこのキリストの愛を受け取っているなら、わたしたち一人ひとりも神様にとって、かけがえのない高価な真珠なのです。

農夫が畑に隠された宝を見つけたのは偶然でした。わたしたちがイエス様に出会ったのも偶然のように思えます。しかし神様の側ではそうではありません。この救いは永遠の昔から神様が計画され、父と子と聖霊の神様によって実現したものです。畑に隠された宝と、高価な真珠を探す商人の話は、わたしたちの救いという一つの出来事を人間の側と神の側から見たものなのです。

わたしたちは、尊い代価によってわたしたちを勝ち取って下さった神様に心から感謝し、生涯、この恵みの内を歩みたいと思います。

「信頼と忍耐」

マタイによる福音書13章24-30、36-43節

-聖霊降臨後第8主日の説教ー

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。 イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。」

●毒麦のたとえ

先週わたしたちはイエス様が話された「種まきのたとえ」を聞きました。使徒パウロが、「あなたがたは神の畑である」(1コリント3:9)と語ったように、わたしたちは神のみ言葉の種を受けて実を結ぶために召されています。

同時に、み言葉を受けたわたしたちは、神の国のために働く「働き人」でもあります。そのわたしたちにイエス様は、神の国とはどのようなものであるかを、いくつかのたとえによって教えておられるのです。

イエス様はこう言われました。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。」

  イエス様は後で弟子たちにこの譬えの解説をして、「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界であり、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔」である、と教えられました。

 神の国の種は、最初に人の子すなわちイエス様によって蒔かれ、後に教会によって世界に蒔かれました。蒔かれた種によって神の子たちが生まれ、成長してゆきました。しかし、そこに敵が来て、悪い種を蒔き、悪い者たちを生じさせ、地上の教会に混乱をもたらしたのです。

イエス様は、それは敵である悪魔の仕業であると教えておられます。悪魔は人間に対する神様の救いの御働きを妨げようとします。イエス様はマタイ福音書24章14節で、「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」と弟子たちに語っています。キリストの福音が全世界に伝えられた時に終わりの日が来て、神の正しい裁きが行われます。その時に悪魔は滅ぼされます。悪魔は終わりの時、裁きの時が来ないように、福音を伝える教会の働きを妨げるのです。

 悪悪の働きの一つは、「偽りの教え」の種を蒔くことです。教会が宣教の働きを始めると、すぐに迫害が起りました。しかしそれでも教会は成長してゆきました。すると今度は教会の外ではなく、教会の内側で、間違ったことを教える人々が現れました。

この例えに出てくる「毒麦」は、初めのうちは普通の麦によく似ています。しかし成長すると違いが出てきます。そして毒麦はその名の通り有害なものです。同じように「偽りの教え」も、一見キリストの教え、聖書の教えと同じように見えます。しかし似ていても、毒麦と麦はまったく別物であるように、それはキリストから来たものではなく、悪魔から来たものであり、悪を行わせるのです。

●刈り入れまで待ちなさい

それでは、もしも教会の中で間違った教えを広めようとする人が現れたらどうすればよいのでしょうか。わたしたちが知らないところではなく、知っているところで、また、他のどこかではなく、神の言葉が語られなければならない教会で偽りの教えが語られているなら、それを放っておいてはなりません。その間違いを指摘し、正しい教えに立ちかえるように戒めなければなりません。それでもなおその行いをやめないなら、会員としての資格を認めない、という措置を行います。

ところが、教会が政治的な力を持っていた中世では、異端と宣告された人を教会の法律で罰し、死刑にさえすることがありました。しかし今日のたとえの中でイエス様はこう話しておられます。「僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

神の国の成長は、どこまでもみ言葉の働きによるものであり、決して人間の権威や武力によるのではありません。

ルターは、「異端の親玉は悔い改めない」と言っています。異端を始める人は自分で嘘を作り出して人をだますからです。悪魔も最初から嘘をついているので悔い改めることはありません。しかし、その嘘に惑わされた人は、誤りに気づいてキリストに立ち返る余地が残っているのです。ですからわたしたちは使徒たちがそのために祈り、語り続けたように、あらゆる機会に真理を伝え続けるのです。

ヤコブの手紙5章9節から20節に、このように教えられています。

「わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、 罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。」

●神への信頼と忍耐によって

教会には偽りの教えの問題だけではなく、不和の種を蒔き、混乱や分裂を引き起こす人々が生まれます。熱心に見えても、他の人を攻撃したり、分裂を引き起こしたりします。自分は正義の側にいると思って兄弟を裁き、また躓かせる人もいます。その人の心は、愛ではなく敵意や悪意に支配されています。それもまた悪魔から出たものです。ヨハネの第一の手紙3章10節に、「兄弟を愛さない者は悪魔から生まれた者です」とあるとおりです。

もしその人によって明らかな不正や不法が行われているなら、それは必ずただされなければなりませんが、自分が正しいと思っている人を変えるのは難しいことです。使徒たちの手紙を読むと、彼らもまたそのような問題に直面していたことが分かります。パウロはコリント教会のある人々から受け入れられなかった、という経験をしています。コリントの教会には分派があり、別の人を指導者としてパウロを拒む人々もいました。そんな時、パウロは権力をふるって、「これはわたしが始めた教会だからあなた方は出て行きなさい」とは言いませんでした。パウロは手紙によって、すなわち言葉によって彼らを諭したのです。

イエス様が教えられたように、無理に毒麦を引き抜こうとすると、根が絡まっている良い麦も一緒に抜いてしまいます。悪い人を排除しようとすると、その人に惑わされている、本当は悪くない人々も一緒に排除してしまうのです。

 確かにキリストの教会は、殺伐としたこの世界にあって「オアシス」であると言えます。しかしそこでも様々な問題が起きます。地上の教会には悪人もおり、不信仰な者もいます。本当の教会の姿はわたしたちの目には隠されています。ですからわたしたちは悪い麦を抜き取ることに熱心になるのではなく、むしろ一本の麦を大切にされる神様の熱心に従うべきです。目には見えなくても、み言葉が語られているところには必ず教会が存在しています。ですからわたしたちはみ言葉の力に信頼し、み言葉をいつも聞き続け、また伝え続けてゆくのです。

イエス様は、「畑は世界のことである」、と教えています。個々の教会だけではなく、世界の中にも様々な争いや悩みが起こります。今、「わたしはキリスト教徒だ」と自認している一国の指導者が、残酷な侵略戦争を続けています。わたしたちはこのことに対して無力さを感じています。しかしイエス様は今日の日課の終わりで、必ず刈り入れの時、神による完全な裁きの時が到来することを告げておられます。イエス様の語った言葉はすべて実現しています。そしてこれからのことも必ず実現するのです。そこにわたしたちの希望と力の源があります。

農夫たちは、実りの時、刈り入れの時が必ず来ることを知っているので、夏の暑さの中でも冬の寒さの中でも忍耐して働き続けます。わたしたちも神への信頼と忍耐をもって、み言葉の働きを続けてゆきたいと思います。

「実を結ぶ人生」

マタイによる福音書13章19,18-23節

聖霊降臨後第7主日の説教

その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

●実を結ぶ人生

イエス様は、集まった群衆に「種まきのたとえ」を話されました。お話を終えてから、イエス様は弟子たちにたとえ話の説明をされ、麦の種は神の言葉であり、種が播かれる土地とは、神の言葉を聞く人間のことであると教えられました。

人間が土地や土にたとえられるのは意外なことではありません。旧約聖書では人間を表わす言葉は、「アダム」ですが、それは「土」という言葉から作られた言葉です。人間は土の塵から造られたからです。人間の体を作っている成分はすべて土の中にあります。そして他の動物も同じように土から造られました。

しかし、同じ土から造られていても、人間は特別なものとして造られています。それは、人間には霊が与えられ、神様の言葉を聞くことができるように、そしてその言葉に応えることができるように造られた、ということです。そして人間は神の言葉を受け入れる時に命を見て与えられるのです。

ところが、最初の人間が神の言葉を無視したために、すべての人が神から離れてしまったと聖書には書かれています。神様は神に背いたアダムに、「お前は自分が造られた土の塵に返る」と宣告しました。知恵を持つ人間が神から離れているのは危険なことだからです。

しかし神様はアダムに対して、やがて救い主が来ることを告げました。 そしてその約束通り、神様はイエス様を送ってくださいました。イエス様は人となられた神様の独り子です。尊い神の子がわたしたちと同じ人間となってこの世界に来てくださったことの中に、神様の大きな愛と、赦しが示されています。イエス様の言葉は、わたしたちと神様を再び結び合わせてくれる命の言葉なのです。

人間はこの世でどんなに富み、栄えたとしても、必ず土の塵に返ります。土だけでは命を生み出すことはできません。土には命はないからです。しかし種の中に命があるように、キリストの言葉にも命があります。それは地上の言葉ではなく、天から語られることばです。神の言葉は神の霊と共に働いて、それを受け入れる人に命を与え、天の倉に穫り入れられる永遠の実を結ばせるのです。

ペトロの手紙一の手紙 1章23節に

「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」とあります。天の国の言葉を受けいれる人は、土から生まれて土に帰る人生ではなく、神の言葉によって新しく生まれ、神の子どもとして生きる命を与えられるのです。

●み言葉をどう聞くのか

しかし、神の言葉を聞くすべての人は実を結ぶのではありません。御言葉を聞いた人によって、実を結んだり結ばなかったりすると、イエス様は教えられました。

イエス様の時代の畑仕事は今ほどていねいではありませんでした。ミレーの絵に「種を蒔く人」という作品がありますが、その絵では、種まく人は遠くまで種が蒔かれるように、力いっぱい種をまきます。その後で鋤で土を耕し、種に土をかぶせるのです。

イエス様は、ある種は道端に落ちた、と言いました。それは畑の中を通っているあぜ道です。そこは後で耕されませんから、種は土の中に入らず地上に残されます。するとすぐに鳥が来てその種を食べてしまいます。イエス様はたとえの説明の中で、「道端に蒔かれたものというのは、み言葉を聞いても悟らない人のことである」と教えておられます。「悟らない」とは、聞いた言葉の意味を知ろうとしないということです。その人にとって、神の言葉は価値のないものです。だからキリストの言葉を聞いてもそれは心にとどまらずに、悪い者、すなわち悪魔が来て二度と思い出せないようにそれを奪ってしまうのです。自分にとって面白いことだけや、この世の利益になることだけを求める人は、キリストの言葉を知ろうとはしません。

使徒パウロがギリシャのアテネでキリストの福音を語ったとき、そこにいた多くの人々は「その話はまた後で聞くことにする」といってその場から立ち去りました。しかし彼らにはその後二度とみ言葉を聞くチャンスはめぐってこなかったのです。

またある種は土の薄い石地の土地に落ちました。上には土がかぶさっていますが、すぐ下が岩ですから根を深く張ることが出来ません。ですから日が昇るとすぐに枯れてしまいました。イエス様は、これは「み言葉を聞いてはじめは喜んで受け入れるけれども、心の深く受け入れていないので、艱難や迫害が起きるとすぐに躓いてしまう人のことだ、と説明されています。太陽の光は作物を成長させます。同じように神様のみ言葉を深く守っている人にとって困難や迫害は信仰を強めるのです。でも浅い心でみ言葉を受け取っている人は困難や迫害に耐えることができないのです。

別の種は茨の中に落ちました。麦も成長しますが、茨も生い茂って麦を覆って成長を妨げてしまいます。それは、み言葉を聞くけれども、次第に神の言葉よりもこの世の煩いや富に心がふさがれてしまう人のことです。「この世の煩い」は、「生活の思い」という言葉です。わたしたちの生活そのものは人生の目的ではありません。人生問い器の中で、永遠に残る実を結ぶことを目的としなければなりません。

●み言葉を聞いて悟る人

最後にイエス様は良い土地に落ちた種のことを語っておられます。よい土地とは、み言葉を聞いて悟る人であり、そのような人はある者は百倍、ある者は六十倍、ある者は三十倍の実を結ぶ、と言われています。このような人はみ言葉を聞くだけではなく、それが自分にとってどんなに大きな価値をもっているかを理解します。そしてすべてにまさってみ言葉を大切にします。そうすると、神の御言葉はその人の中で成長し、根を張り、実を結びます。その人に神様を愛する愛が生れ、他の人に対する良い行いの実を結びます。

イエス様のこのお話には二つの目的があると思います。一つは、これからみ言葉を伝える弟子たちへの励ましです。神様の言葉が語られる時、それが受け入れられなかったり、信じたはずの人が途中で信仰を失ったりすることもあります。しかし、良い心で御言葉を受け止める人も必ずいるのです。イエス様ご自身も人々から受け入れられない時もありましたが、その働きを続けられました。ですからわたしたちも神様のみ言葉の力に信頼して、み言葉を伝える働きをやめてはいけないのです。

また、このたとえ話は、何よりもわたしたちに対する教訓です。わたしたちはどのような土地なのでしょうか。道端や石地の土地、茨の根がある土地でしょうか。それとも四番目のよい土地なのでしょうか。わたしが四つの内のどの土地なのか、それは初めから決まっているのでしょうか。そうではありません。イエス様はルカによる福音書8章18節で、「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。」と言っておられます。わたしたちがイエス様の言葉を聞くだけでなく、それを何よりも大事なものと悟り、み言葉を守り続けるなら、わたしたちは実を結ぶ良い土地になっているのです。

しかし、今は良い土地のように見えても、途中でキリストの言葉を大切なものと思わなくなってしまうかもしれません。ですからわたしたちは一度きりではなく、生涯にわたってキリストの言葉を大切にし、絶えずみ言葉を聞き続けるのです。

同じ話を記しているルカ福音書8章には、「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」と書かれています。「御言葉を守る」と聞くと、「御言葉を行う」という、というようにとらえがちですが、この「守る」という言葉は「奪われないように守り続ける」という意味です。み言葉を何よりも大切なものとして守り続ける人の中で、み言葉の種は成長します。そして神様への愛が生れます、また、わたしを愛してくださっている神のみ心に従いたい、という思いが生れます。そしてそこから神と人とに愛される良い生き方が生れます。それはわたしたちの力ではなく、神の言葉の中にある命によるのです。わたしたちはこれからも、この豊かな実りを与える神の言葉、イエス・キリストの言葉を何よりも大事な宝物として守ってゆきましょう。

「わたしのもとに来なさい」

マタイによる福音書11章16-19、25-30節

聖霊降臨後第6主日の説教

「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。 『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

●笛吹けど踊らず

わたしたちは四週間にわたって、イエス様からこの世に遣わされたわたしたちの宣教の働きについての教えを聞いてきました。イエス様は弟子たちに、「『神の国は近づいた』と宣べ伝えない」と教えられました。それは、神の国が、人となられた神の御子によってわたしたちのすぐ近くにまで来ているということです。

 しかし、そのような神様の招きをすべての人が喜んで受け入れたのではありません。今日の福音書の日課の初めには、遣わされた弟子たちの言葉を受け入れようとしなかった人々のことが記されています。イエス様はこう言われました。

「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』」

 この「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。」という言葉は「笛吹けど踊らず」という諺として日本でも使われていますが、日本では、「一生懸命音頭をとっても、調子を合わせてくれない、少しも協調してくれない」という意味で使われます。でもイエス様が語られたもとの意味は、子どもが遊びで、「陽気なお祝いの笛を吹くから踊ってくれ、次は悲しい歌を歌うので泣いてくれ」と注文を付け、その通りにしてくれないと不平を言っている、そういう身勝手な態度を指摘する言葉なのです。

洗礼者ヨハネが来て、当時の退廃していた人々の生活を戒め、ヨハネ自身、厳格な生活をしているのを見て、人々は「あれは悪霊にとりつかれているのだ」と言い、今度はイエス様が来て罪びとや取税人たちを飲み食いしていると、「あれは大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と批判しました。つまり悔い改めて信じないために、神が遣わした人に対して自分勝手な注文をつけたのです。いまでも、「教会の人は真面目過ぎて、わたしとは合わない」と言っていた同じ人が、教会の落ち度を見つけると、「これだからキリスト教は信じられない」と言ったりします。

イエス様は「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」と言われました。当時の人々の中にも、イエス様の教えと働きを見て、また分け隔てのない愛と救いを見て、イエス様を信じた人々もいました。今でもイエス様の人格は誰も批判ができないほど完全であり、清さと愛が輝いています。わたしたちの知恵がイエス様を照らすのではありません。わたしたちがイエス様の聖なる光と愛の光に照らされなければならないのです。

●わたしのもとに来なさい

イエス様は人々がイエス様のもとに来ようとしないことを嘆いたのではなく、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」と、父なる神の知恵を讃美したのです。

もし神様が人間の知恵や知識で分かるとするなら、教会は自分の頭の良さを自慢する人の集まりになってしまうことでしょう。しかし神様は決して人間の「研究対象」ではありません。神様に対するその人の姿勢が高慢であるなら、神様は人その人に対してご自分を隠してしまうのです。そして幼子のような人、低い心の人にご自分を現されるのです。イザヤ書57章15節以下で神様はこのように告げています。  

「高く、あがめられて、永遠にいまし その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ

打ち砕かれた心の人に命を得させる」

神様は砕かれた心の人、へりくだった人にご自分を現し、一緒に住み、命を与えてくださるのです。

では神様はどのようにご自分を現わしたのでしょうか。神はイエス・キリストを通してご自分をお示しになったのです。イエス・キリストを見れば神が見える、神が分かるようにしてくださったのです。そしてキリストのことが分かる人は、やはり心の低い人であり、そのような人にキリストはご自分を現し、またご自分と共におられる父なる神を示してくださるのです。小さな子どもにイエス・キリストの話をして、「イエス様は神様の子どもですよ」と教えると子どもは素直に信じます。そして「イエス様大好き!」と言います。素直な目でキリストを見ることができるのです。

イエス・キリストは、人びとが信じなかったのは伝道の失敗であったと言われたのではなく、むしろ人間の高ぶりのために神の恵みが見えなくなっている、と教えられたのです。

しかし、イエス様はそのような中でも必ず招きに応えてご自分のもとに来る人々がいることを知っておられました。そして、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(11:28)と呼びかけられたのです。

イエス様のこの招きの言葉はもとの言葉では「わたしのもとに来なさい。だれでも重荷を負う者は休ませてあげよう。」となっていて、最初に「わたしのもとに来なさい」とありますから、この招きはすべての人に語られているのです。そしてここには場所や時代の限定はありません。現代の日本に生きるわたしたちにも向けられている言葉です。ですからこのイエス様の言葉は神様だけが語ることのできる言葉なのです。

●「わたしに学びなさい」

しかし、すべての人が招かれていても、イエス様のもとに来るのは、疲れている人、重荷を負っている人々です。ここで「疲れた者、重荷を負う者」とは直接的には、当時の宗教家たちが義務づけていた多くの宗教儀式や規則に苦しんでいた人々のことです。また広い意味では、自分の弱さを知る人、罪の重荷に魂の疲れを覚えている人々のことです。

イエス様はわたしたちから重荷を取り除き、休みを与えてくださいます。人となられたキリストはわたしたちの罪を赦す方であり、わたしたちはキリストのもとにすべての罪の重荷を降ろすことが許されているのです。

イエス様はさらに「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われました。魂の安息は、罪の重荷を降ろしたわたしたちが、新しく神の道を歩む時に与えられます。イエス様は「わたしの軛を負ってわたしに学びなさい」と言われました。イエス様の軛を負う、とは「イエス様の弟子になる」ということです。そしてわたしたちがイエス様に学ぶのは、イエス様の柔和さと謙遜です。罪のない方であるにも関わらず、人となられたイエス様は、柔和さと謙遜においてわたしたちの模範となられたのです。ですからわたしたちはイエス様に学ぶのです。それが人間にとって神に出会う最も大切な道です。

先週、大垣教会でルーテル学院大学の教授をお招きして、「人生の円熟期をどう過ごすか」という題で、高齢期についての講演をしていただきました。とても有益な講演でした。お話を聞いてわたしが感じたことは、高齢化という、人間にはマイナスに思えることも、今日のイエス様の言葉-神の前に柔和さと謙虚さを学ぶ-という視点で捉えるなら、人生で一番大切な時になるのではないか、ということでした。

キリスト者の間でよく知られた「最上の業」という詩があります。その抜粋を読みます。

「・・・若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、

人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。老いの重荷は神の賜物・・・。」

イエス様がわたしたちに求められることは、「何をせよ」ではなく、「柔和で謙虚な者になりなさい」ということです。それは神とともに歩むための最上の業であり、また弱くても年を取っても歩くことができる易しい道なのです。イエス様が招いてくださるその道を、イエス様と一緒に歩んでゆきましょう。

「本当の平和」

マタイによる福音書10章24-39節

聖霊降臨後第4主日の説教

弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。

人をその父に、

娘を母に、

嫁をしゅうとめに。

こうして、自分の家族の者が敵となる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」


●人々を恐れるな

わたしたちは先週の礼拝で、イエス様が弟子たちを宣教に遣わされたことを学びました。イエス・キリストの到来によって神の国は近づきました。キリストの言葉を聞き、その恵みの業を見て信じる人は、誰でも神の国に生きる者とされるのです。

しかし、イエス様は弟子たちに思いがけないことを告げました。神の国の到来を伝える弟子たちが、激しい反対と迫害を受ける、と告げられたのです。弟子たちの言葉を聞いて、喜んでイエス・キリストを信じる人々もいました。しかしその反対にキリストを憎む人々も数多くいたのです。すでにイエス様ご自身が反対を受けていたからです。特に、当時の宗教的指導者たちは、イエスが自分たちの権威を否定し、自分たちから民衆の尊敬を奪っていると思っていたのです。そして「イエスが人々から悪霊を追いだしているのは、悪霊の頭であるベルゼブルの力を使っているからだ」と誹謗中傷したのです。

イエス様は、「あなた方の先生であるわたしが悪く言われているのなら、わたしの弟子であるあなたがたが誉められるということはあり得ない。同じように悪く言われ、反対を受けることを覚悟していなさい」と教えられたのです。前もって言っておくことで、弟子たちが苦難を受けても決してつまずくことがないように心の準備をさせたのです。

イエス様は弟子たちに、「人々を恐れるな」と言い、四つのことを語りました。第一に、「わたしがあなた方に話したことを公けに宣べ伝えなさい。決して沈黙してはならない」と教えました。第二に、「人間を恐れないで、神を恐れなさい」と言われました。そして第三に「人々の前でわたしの仲間であると言い表しなさい」と命じました。イエス様は「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(32節)と語っておられます。

命の危険さえあるとき、わたしたちはそのような力を持つことができるでしょうか。しかし、キリストは妥協の余地なく弟子たちにそう語っていますし、またわたしたちにもそう語っているのです。

●キリストの力によって

キリストのこれらの言葉を聞いて、わたしはキリストの一番弟子のペトロを思い出します。ぺトロはイエス様が捕らえられた時、イエス様が尋問されている大祭司の家の庭に潜入しました。そこで人々から「お前はイエスの仲間ではないか」と言われて、思わず「わたしはその人のことは知らない」と言ってしまったのです。しかも三度にわたって「イエスなど知らない」と否定したのです。三度目に彼が否定した時、縄で縛られたイエスが大祭司の家から出てきてペトロを見つめました。「ペトロは外に出て激しく泣いた」と書かれています。彼は人々の前で「イエスなど知らない」と言ってしまったのです。

しかしイエス様はペトロを見捨てませんでした。十字架で死んで復活したとき、ペトロに対して変わらない愛を示されたのです。やがて弟子たちに神の霊が降(くだ)った時、ペトロは力強くイエス・キリストを宣べ伝えました。権力者たちは彼をやめさせようとしましたが、ペトロは「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使徒四:一九,二〇)と言いました。かつてはキリストを知らない、と言ったペトロは、神の霊によって不動の人とされたのです。

わたしたちもペトロと同じように弱い者です。イエス様は「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」(10:16)と言っておられます。しかしクリスチャンはこの世の中に置き去りにされているのではありません。羊飼いであるイエス・キリストが一緒にいてくださるのです。ペトロがキリストを「知らない」と言ったことは、人は自分の力だけでは決して弟子としての道を歩めないことを教えているのです。

わたしを導いてくださった牧師は、戦争中に一年半留置所に入れられました。キリスト教は「敵性宗教」とみなされていたのです。逮捕の日、早朝に戸を叩かれた時、「ついに来るべき時が来た」と思ったそうです。そして手記には「その時、わたしの心は自分でも驚くほど平安であった」と記しています。当時迫害のために教会を離れた人々も多くいました。しかし、どんなときにも、キリストに信頼し、キリストに従うことを選び取るなら、キリストは人知を超えた平安によってわたしたちを守って下さるのです。使徒言行録に描かれている弟子たちの姿は、共にいるキリストによって強くされた弟子たちの姿を示しているのです。

●偽りの平和と真の平和

第四番目に、イエス様は親しい人々との分裂を恐れないことを教えておられます。三四節以下でイエス様は「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」(一〇:三四-三六)と語っておられます。

キリストに従おうとするとき、それまで最も近しい関係にあった家族が、キリストに従うことの最も大きな妨げになることがあります。そのような時イエス様は、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」と言われるのです。

イエス様は父母を敬うことを教えています。神の戒めである十戒がそう命じているからです。しかしその戒めに先立って、「あなた方はわたし以外の何ものも神としてはならない」と命じているのです。すなわち、すべてにまさって神を愛しなさい」と命じているのです。人はみな神のものであり、神のもとで尊いものとされ、また神を愛するとき正しい歩みができるのです。神はキリストを遣わし、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と宣言されたのです。

しかし、誰かがこのキリストに従おうとするとき、「家の宗教と違う」とか、「世間と違う」というような反対が起きることがあります。その教えが正しいかどうかではなく、「家庭の平和や一致が損なわれるから」という理由で反対するのです。しかし、それは人が人を支配し、神から遠ざける「偽りの平和」です。イエス様はそのような「偽りの平和」の絆を断ち切るための剣を投げ込むために来られたのです。それは神のもとで、すべての人が大切にされる本当の平和を実現するためでした。

イエス様ご自身がこのような家族の問題を経験されました。イエス様は三〇歳でメシアとしての働きを始めました。兄弟たちが家を支えるようになるまで、イエス様は働いておられたのです。しかし、イエス様が家を出て活動を始めた時、母親のマリアも兄弟たちもイエス様を連れ戻しに来たのです。イエス様は母親も兄弟たちも愛しておられました。しかしわたしたちのためにご自分の家族から離れ、父である神のみ心に従い、ご自身の命をささげてくだいました。それは、わたしたちを清めて神様の子ども、神の家族にしてくださるためでした。

母マリアも兄弟たちも、イエス様が復活したのち、イエス様の弟子となったのです。そして他の多くの人々と共に神の子、神の家族となったのです。わたしたちも人を恐れずに神に従うなら、一時の分裂は本当の平和の実現へと繋がってゆくのです。イエス様から離れてすべてを得ようとするならすべてを失います。しかしすべてを捨ててイエス様に従うならすべてを得るのです。

ですからわたしたちもイエス様に倣いましょう。わたしたちがなによりも神を敬い、イエス様に従い抜く時、神様は必ずわたしたちの愛する家族もみ心にとめていてくださるからです。

「羊飼いの声を届けよう」

マタイによる福音書9章35-10章8節

聖霊降臨後第3主日の説教

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。 37そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。    

十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。 

●飼い主のいない羊

イエス様は町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」と今日の福音書の初めに書かれています。そのイエス様は「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」のです。羊にとって羊飼いはいなくてはならない存在です。野生の山羊はいますが、野生の羊はいません。羊飼いがいなければすぐに道に迷います。そして飢え、傷つき、弱り果ててしまうのです。イエス様はそのように、羊飼いのいない羊のような人々の姿を見て深く憐れまれたのです。この「憐れむ」という言葉は、自分のお腹が痛むほどの強い同情をあらわす言葉です。

イエス様は10章6節で弟子たちに「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と言っておられます。イスラエルの国は神様が羊飼いでした。そして神様は羊飼いの働きを国の指導者や宗教の指導者に任せたのです。でも羊の世話を任された指導者たちは神様の羊を大切にしませんでした。生活の苦しい人がいましたし、宗教家は勝手に掟や儀式を作り、それを守れない人は「罪びと」として見放していたのです。それで神様は、やがて神様ご自身が羊飼いとして来られるということを予告されたのです。イエス様は命をかけて羊を守り、また大切に世話をしてくださる「良い羊飼い」としてこの世に来られたのです。

まことの羊飼いを必要としているのは、今の日本も同じです。「オペレーション ワールド」という団体が、世界の若者の意識調査をした結果、日本では若者の85%が「自分の存在の意味や、生きる目的が分からない」と答えたそうです。また11%の青年が、自分は生まれない方がよかった」と答えたそうです。これはとても深刻な状況です。

神様から離れると、人間は人生の目的や自分の本当の価値を見失います。いじめにあって、自分には生きる価値がないと思い、死を選ぶ子どもたちがいます。しかしそんな時、その子どもが、「わたしが人からどう見られようと、わたしの価値は変わらない。イエスは命を捨てるほどにわたしを愛してくださり、今も生きて、わたしの羊飼いとして共にいてくださる」と言うことができたなら、強く生きてゆくことができるのです。宣教とは、このまことの羊飼いの声を伝え、羊飼いのもとに人々を導く働きです。

●神の国の働き人

イエス様は一緒にご自分の働きをしてくれる人々を必要としていました。それで弟子たちに、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と言いました。

ここでイエス様が言われた、「収穫のための働き人」とは、神様の言葉を教える伝道者、すなわち牧師、宣教師のことだと考えることもできます。しかしまた、この「働き人」とは、イエス様に招かれたすべての人々のことでもあります。

ペトロの手紙2章9節にこうあります。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」ここでペトロはすべての信徒に対して、「あなたがたが広く伝えるためなのです。」と言っています。限られた人だけではなく、キリストという羊飼いに出会ったすべて人が、その救いを伝える働き人になるのです。その働きは、はじめはイスラエルに限られていましたが、イエス様の復活の後、世界に広がってゆきました。そしてここにいるわたしたちも羊飼いであるキリストに出会っているのです。

わたしたちは、わたしたちを見つけ出してくださり、命の道に導いてくださったイエス様に感謝します。そして、わたしたちがイエス様と同じ思いになれるように、イエス様の働き人になることができますように、と祈るのです。礼拝の中で説教を聞いた後に行う献金は、「このわたし自身をあなたの御用のためにお使いください」という祈りをあらわしています。そして弟子たちが遣わされたように、わたしたちも礼拝の終わりにこの世界に遣わされるのです。

●神の民の働き

 それでは、わたしたちがイエス様から受けている務めとは具体的にはどのようなことでしょうか。今日の日課ではイエス様は弟子たちに二つのことを命じておられます。

第一に、イエス様は弟子たちに、何伝えるべき言葉をお教えになりました。イエス様は、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」と言われました。「天の国」とは「神の国」という意味です。そして「近づいた」という言葉は「すぐ近くまで来ている」という意味です。ある英語の聖書では「AT IN HAND」つまり「手が届くところまで近づいている」と訳しています。迷った羊は自分の力で飼い主のもとに戻ることはできません。でも神の子であり、羊飼いであるイエス様がこの世界に来られました。誰でもイエス様に神様の愛と力を見て、「イエス様は神の子である」と信じる人は、まことの羊飼いと出会っているのです。

それでは、わたしたちはどのようにして人々にイエス様のことを語るのでしょうか。どのようにして神様の救いを伝えるのでしょうか。わたしは、この説教壇から信徒として神様の言葉を語る人が増えて欲しいと願っていますが、それでもみんなが説教をするのではありません。しかし、礼拝で喜びと感謝があふれる讃美の声を通して、また礼拝式文を歌ったり唱えたりすることを通しても神様の言葉が語られ、伝えているのです。ルターは「讃美歌は会衆の説教である」と言いました。つまり礼拝ではみんながお互いに神の言葉を語っているのです。

また、教会に人々を誘う人、送り迎えをしてくださる人、教会をきれいにしてくださる人、受付をする人、オルガンを弾いてくださる方など、みんなで神様の言葉を伝えているのです。

第二に、イエス様は弟子たちに、何を語るか、ということと共に、何を行うかも教えました。イエス様は「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」とお命じになりました。イエス様が弟子たちにそのような奇跡を行う力を与えたのは、彼らの語る言葉が確かに神の言葉であることを示すためでした。またもう一つの目的は、それによって神様の憐れみをあらわすものでした。イエス様の奇跡は例外なく人々を助けるために行われたのです。イエス様自身も言葉で教えるとともに、苦しんでいる人々を癒されました。クリスチャンも見返りを求めない本当の愛によって神の愛をあらわすのです。

教会は長い歴史の中で、弱い立場にある人々のために様々な働きをしてきました。そしてその働きによって、神の愛が言葉だけではなく、行いによっても示されたのです。わたしたちはこれからも地域のために、人々のためにできることを一緒に考えてゆきたいと思います。

また、わたしたちが一人ひとり遣わされた場所でも、イエス様の愛をあらわしてゆきたいと思います。イエス様がわたしを受け入れてくださったように、わたしたちも人を受け入れ、イエス様がわたしを赦してくださったように、人を赦す者になりたいと思います。

聖書の教えを学ぶ人は、初めのうちはよくわかりませんが、それを信じている人たちの善い行いを見て、それは正しい教えに違いない、と信頼するのではないでしょうか。

そのような愛はイエス様からいただくものです。この礼拝でわたしに与えられているイエス様の愛と救いを覚え、イエス様からの力をいただいて遣わされてゆきましょう。

「神の賜物」

マタイによる福音書9章9-13節

聖霊降臨後第2主日の説教

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従ったイエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

●マタイを招いたキリスト

今日の福音書に登場するマタイは、新約聖書の最初にあるマタイ福音書を書いた人ですが、もとはユダヤの人々から税金を集める徴税人でした。当時のユダヤでは、徴税人は罪びとであり、決して神の国に入れない人だと見なされていました。というのは、徴税人はユダヤ人を支配していたローマのために、あるいはそのローマに従っているユダヤの領主たちのために同胞から税金を集めていたからです。ユダヤ人は異邦人を「汚れた者」と考えていましたから、異邦人のもとで働きら税を集める徴税人も汚れた者であるとみなしていたのです。

しかし、聖書は徴税人の仕事そのものが悪であるとは教えていません。問題は 徴税人が規定以上に税金を取り立てて、私腹を肥やしていたことです。どうせ同胞から悪く言われるなら、儲けなければ割に合わない、と考えたのかもしれません。それで徴税人はいっそう人々から嫌われていたのです。

イエス様は通りがかりに、このマタイが収税所に座っているのをごらんになりました。そして「わたしに従いなさい」と言われたのです。イエス様の声を聞いたマタイは立ち上がってイエスに従ってゆきました。

この後、イエス様はその家で食事をしていたと記されています。これはマタイの家と考えることができます。マタイは徴税人の仲間を集めて、彼らにもイエス様に会って欲しいと願い、食事会を開いたのです。しかし、そこに一緒にいたファリサイ派の人々はこれを見て弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言ったのです。彼らは、正しい人は悪い人とは決して付き合わないはずだ、と考えていました。一緒に食事をするということは互いに仲間であることを意味したのです。イエス様は

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」とお答えになりました。

●神への愛が生まれる時

このイエス様の言葉の中で、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と言われた言葉について考えてみたいと思います。ここでイエス様が「憐れみ」と言われた言葉は「ヘセド」というヘブライ語で、「真実な愛」を意味します。イエス様は旧約聖書のホセア書6章6節の言葉を引用されたのですが、先ほど読んでいただいた聖書では、ここは「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない」となっています。神様はイスラエルの人々に、自分を誇るようないけにえや外面的な儀式よりも、先ず心からご自分を愛することを求められたのです。

それでは神様への愛はどのようにして生まれるのでしょうか。それはマタイのように、自分がただ神の憐れみと恵みによって招かれたことを知る時です。ホセアは、イスラエルの人々に、「あなたがたを、エジプトでの惨めな奴隷状態から救い出してくださったあなたがたの主の愛を覚え、あなたがたも心から神を愛しなさい」と教えたのです。イスラエルの人々が救い出されたのは自分たちの正しさや努力ではなく、神様の憐れみと力によるものでした。そのことを忘れると、弱い人たちへの愛も失います。

マタイは自分が神の恵みによって赦され、救われたことを知っていました。彼は収税所に座っていましたが、「座る」いう言葉は、そこに滞在する、とか住む、という意味もあります。マタイは自分の今の状態に悩みながらも、その中にどっぷりと浸かっていて、自分ではそこから抜け出すことができなかったのです。イエス様はそのマタイを見かけました。この見かけた、という言葉も、たまたま目にしたということではなく、「よく見る、目を注ぐ、理解する」という意味を持つ言葉です。イエス様は徴税人マタイが、自分では気づいていないかも知れないけれども、心の奥底でうめいているマタイの姿を見抜かれたのです。そしてイエス様はそのようなマタイに、「わたしに従いなさい」と声をかけられたのです。

イエス様から声をかけられたマタイは「立ち上がってイエスに従った」とありますが、この「立ち上がる」という言葉はルカ福音書の放蕩息子が「そこを立って父のもとに向かった」という言葉と同じです。それは新しい生き方への方向転換を表わす言葉です。また「復活」する、という意味もあります。マタイは、自分で古い生活の中から立ち上がることはできませんでした。イエス様の言葉が彼を立ち上がらせ、彼をイエス様と共に生きる新しい人生、新しい命に生きる者にしたのです。

マタイの名前は、他の福音書では「レビ」という名前になってい

ます。それがもともとの名前でした。しかしイエス様に召された時、彼は名前を「主(神)の賜物」という意味のマタイに変えたのです。マタイはその名前によって、救いは神様からの賜物であることを覚え続け、またそのことを人々に証したのです。

●神の賜物

神の賜物によって救われたのは、マタイだけでなく、わたしたちも同じです。エフェソの信徒への手紙2章8節で、パウロはこう記しています。「事実、あなた方は、恵みにより、信仰によって救われました。このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。」

マタイに起きたことは、またわたしたちにも起きたことです。

わたしは、わたしが神を求めてキリストにたどり着いたのだと長い間思っていました。しかし、ある時から、わたしは自分の意志では教会に足を運ぶことはなかったと思うようになりました。教会は自分のような人間が行くところではないと思っていたからです。しかし、マタイの心をご覧になったイエス様は、自分の生きる道を探し求めていたわたしの心を見てくださり、偶然と見えるような出会いを通してわたしをご自分のもとに引き寄せて下さったのです。わたしたちは自分の力ではなく、ただ神からの賜物として救いをいただいたのです。

わたしたちが神様の賜物によって救われていることは、今も変わりません。わたしたちはイエス様が「これを行いなさい」と言われた聖餐を大切にしています。が、聖餐は正しい人を招くためではなく、罪の赦しと癒しを必要としている人のために与えられる賜物なのです。詩篇130篇に、「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです」とあります。イエス様は最初の時だけご自分を与えて赦してくださっただけではなく、今もご自分を与え続け、生かし、癒していてくださるのです。聖餐式のことをユーカリスト、「感謝」と呼びますが、わたしたちはここで神の賜物が今も与えられていることを覚えるのです。神様の赦しと愛に感謝している人は、他の人々にも広い心で接することができます。そして神様を愛する心から生まれる奉仕も神様に喜ばれるものとなります。

「賜物」という言葉は、神様から与えられている救いと共に、才能や、持ち物のことも表します。徴税人であったマタイは、記録する能力を、福音書を書くために用いました。わたしたちも一人ひとりに神様からの賜物が与えられています。それを用いてマタイのように神様の恵みを伝えてゆくためです。わたしたちはこれからも神様からの賜物によって救われたことを感謝し、与えられている賜物を神と人のために生かしてゆけるように祈り求めたいと思います。

「聖霊の水」

ヨハネによる福音書7章37-39節

聖霊降臨日の説教

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

●渇いている人間

祭の終わりの大事な日に、イエス様は叫んで言われました。「だれでも渇いている人はわたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いている通り、その人の内から活きた水が川となって流れ出るようになる。」 

この祭りとは「仮庵(かりいお)の祭」のことです。仮庵は、仮の庵、つまり仮の住まいという意味です。昔イスラエルの国はエジプトの奴隷の生活から解放され、約束の地を目指して旅をしました。その間、彼らはテントで生活をしました。約束の地に入ったのち、イスラエルの人々は、神様が困難な旅を支えてくださったことをこの祭によって記念したのです。

荒野の生活で特に大切なのは水です。神様は荒野の旅をしていたイスラエルの人々に水を与えてくださったのです。人々はそのことを思い出して、祭の最後の大事な日に、ギホンの泉から水を汲んで神殿の祭壇の土台に注ぎ、神様が穀物の実りのために雨を降らせてくださるようにと祈ったのです。

イエス様は祭りのその大切な日に「わたしこそあなたがたに水を与える者だ」と大声で叫ばれたのです。神聖な神殿の中でそのように大声で叫ぶことは、それだけでて殺されかねないほど危険なことだったと言われています。でもイエス様は命がけでそう叫ばれたのです。それは魂の渇きによって誰一人滅びないようにと願っていたからです。

人間は、心の渇き、魂の渇きを、物質的なものやこの世での成功などで得ることはできません。日本は以前に比べれば経済的発展は減速していますが、それでもいまだに国内総生産、すなわちGDPは世界で第三位です。しかし国民の「幸福度」では137ケ国の中で47位だそうです。これは先日、日本で開かれたG7の中では最下位です。さらに深刻なのは、ユニセフで調査した子どもたちの幸福度です。日本の子どもの身体的な幸福度は一位です。つまり体の健康面では日本の子どもたちは世界で最も恵まれています。しかし生活満足度が高い子どもの割合や自殺率などを計算した「精神的幸福度」は38の先進国の中で37位でした。このことから、人間の心の満足や幸福感は体の健康や物質だけでは満たされないということが分かると思います。子どもたちの心も渇いているのです。

●活きた水

7章39節に、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」と書かれています。イエス様が与えてくださる活きた水とは聖霊、つまり神様の霊のことである、とヨハネはここで告げているのです。

人間が他の動物とは違うのは「霊」を持っているということです。この「霊」は人間に霊をお与えになった神様との交わりによって潤され、生かされるのです。ここに人間の価値の根源があります。そしてこの神様とのつながりがなければ、わたしたちは霊的な命が渇いてしまうのです。

わたしたちにとって大切なことは、命の水のもとである神様と結ばれることです。しかし人間は神様に帰る力を失ってしまいました。自分の罪のために、神を愛することができなくなり、神の顔を避けて生きるようになってしまったのです。イエス・キリストはわたしたちが神の霊によって生きることができるためにこの世界に来てくださいました。イエス様がしてくださったことは、ご自分の苦難と死によってわたしたちの罪を取りのぞいてくださり、その赦しを通して聖霊という命の水を与えてくださる、ということでした。

今日の日課の最後、7章39節の後半に「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」と書かれています。イエス様が「栄光を受ける」とは十字架におかかりになる、ということです。

旧約聖書の出エジプト記17章には、荒野を旅していたイスラルの人々は、飲む水がなくなった時、神に信頼して祈り求めることをしないで、モーセに怒りを向けたことが記されています。神はモーセに命じて、ホレブの地にある岩を杖で打つように命じました。モ―セがそのようにすると、岩が砕けて水が流れ出したのです。これはわたしたちの岩であるイエス・キリストが十字架の上で砕かれることによって、命の水が与えられることを示しています。

ヨハネによる福音書19章には、イエス様のわき腹が槍で突かれた時、そこから血と水が流れ出た、と記されています。

一度十字架で死なれたキリストは、もう二度と打たれることはありません。復活し、今も生きておられ、いつでもご自分のもとに来る人々に命の水を与えてくださるのです。

●わたしたちからあふれ出る水

イエス様は「渇いている人はだれでも、わたしのところに来

て飲みなさい」と言われました。自分に誇ることができるようなものや立派な行いがなくても、キリストのもとに来るすべての人がこの水を受けることができるのです。罪の赦しも、聖霊もすべて人間の働きの報酬ではなく、賜物として与えられるのです。イザヤ書55章1節に、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。」とある通りです。

イスラエルの人々が荒野の旅の中で、渇きに直面したように、わたしたちも人生の旅の中で、渇きを経験します。人生が思い通りにならないような時、イスラエルの人々のように不平を口にし、苦々しい心になることがあります。しかしわたしたちが心の渇きを覚える時、わたしたちが行くのは他のどこかの場所ではありません。その死と復活によって「わたしの主、わたしの神」となってくださったキリストのもとにゆくのです。

イエス様は「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から活きた水が川となって流れ出るようになる。」と言われたのです。「活きた水」とは湧水や小川のように音を立て、動いている」水です。それは清らかで、人に癒しを与える流れです。イエス様が与えてくださる命の水はそれを受ける人の中にとどまるのではなく、愛や喜び、平安の川となってその人から流れ出すのです。

大垣教会に大脇直美さんという方がいました。彼女は9歳の時に小児性のリウマチを患い、体の成長も止まり、全身の筋肉が衰え、学校にも行けなくなりました。12歳の時、西濃に障がいを持った方のために施設を造ろうとしていたボーマン宣教師が彼女のことを知り、家に引きこもっていた直美さんが日中あゆみの家で過ごせるようにしました。そこで直美さんはイエス・キリストに出会い、神の愛を知ったのです。それからは近隣の小学校や中学校に招かれて、生徒たちに車いすで講演をしました。生きることの大切さや、困難の中でも喜びをもって生きることができるということを多くの子どもたちに伝えたのです。また通信教育で大学検定も受け、英語検定の一級を取り、海外の方とも交流し、家で塾を開いて近所の子供たちを教えていました。

直美さんは闘病生活の末、17年前に47歳で天に召されましたが、イエス様に出会って、自分が生きる力を与えられただけでなく、その喜びを一人でも多くの人たち、特に子どもたちに伝えるために生きたのです。姉妹の家では毎月家庭集会が開かれていましたが、直美さんを励まそうとしたわたしたちの方が、かえって大きな喜びと平安を彼女から受けていたのです。わたしは神の靈に生かされている人の奇跡を見たように思いました。

わたしたちにも同じ霊が与えられています。キリストから受けている愛や喜び、希望が、わたしからこの世界にあふれ出ることを願い、活きた水の源であるキリストのもとに行きましょう。

「天におられるキリスト」

ルカによる福音書24章44-53節

主の昇天主日の説教

イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。 

●神のご計画を教えるイエス様

今日の福音書の日課は、イエス様が復活した日の夕方、弟子たちに現れたということから始まり、天に昇られた時のことまでが書かれています。一日の内に起きたように書かれていますが、同じルカが書いた使徒言行録では、イエス様は復活してから40日目に天に昇ったと書いてあります。ですから今日の福音書のお話は、その40日間のことをひとまとめにして書いているのです。

イエス様に出会った弟子たちは、十字架で死んだはずのイエス様が、自分たちの前にいることを理解できませんでした。イエス様はそのような弟子たちに、「あなたがたはわたしを見て驚いているが、このことはモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事なのだ」と語ったのです。「モーセの律法と預言者の書と詩編」とは、旧約聖書のことです。つまり、いま起きていることは、すでに神様が聖書という書物を通して予告されていたことなのだ、と教えられたのです。

その予告の内容は、「メシア(キリスト)は苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということです。 旧約聖書は長くて難しい本のように見えますが、イエス様はその内容をこのように簡単に教えてくださったのです。そしてイエス様が説明された前の半分、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」ということが今、弟子たちの前で実現したのです。  

神の子である救い主が、わたしたちの罪を背負って死なれたということ、そして復活したということは、わたしたち人間にとって、最も重要なメッセージです。なぜなら、このメッセージを聞いてキリストを受け入れる人は、キリストと結ばれ、キリストの死によって罪を取り除かれ、また復活のキリストに結ばれて新しい命を与えられるからです。これがイエス・キリストの福音」と呼ばれるものです。使徒パウロもコリントの信徒への手紙15章で同じように教えています。

「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、4 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである」(1コリント13:3-5)。

人類にとって最も大切なこのメッセージは人間が考え出したものではありません。パウロが「聖書に書いてあるとおり」と繰り返しているように、人間が罪を犯して神から離れたその時から、神様が何千年もかけて予告された事であり、聖書に記され、いま世界に伝えられていることなのです。

●わたしたちのゴール

さて、わたしたちのために死んでくださり、また復活されたイエス様は天に昇ってゆかれました。今日はこのイエス様の昇天を覚える日曜日です。弟子たちの目の前で起きたイエス・キリストの昇天は、二つの大切な目的を持っています。

その第一は、イエス様の昇天は、わたしたちの人生のゴールを示している、ということです。イエス様の死と復活と昇天は、イエス様ご自身のために起きたことではありません。イエス様は永遠の命を持っておられる方であり、世の初めから父なる神と共に栄光の内におられた方です。ですからイエス様ご自身のためには復活も昇天も必要ありません。

神の子が人となられてわたしたちと同じ体を持たれ、その体で復活し、天に上げられたということは、イエス様に結ばれているわたしたち人間も、イエス様と共に復活し、イエス様と共に天に上げられるということを示しているのです。使徒パウロはエフェソの信徒への手紙2章4節以下でこう語っています。

「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、・・・キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」

ここでパウロは、神様がキリストと共にわたしたちを復活させ、キリストと共に天の王座に着かせて下さった、と教えています。そして「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」と語っています。誰も自分を誇ることはできません。わたしの罪のために死んでくださったイエス様、そして復活していまもおられる神の子イエス様を信じる人は、だれでもイエス様に結ばれ、イエス様と共に天の座に座るという最高のゴールをすでに与えられているのです。

wたしたちが人生のゴールをこの世の中に見ようとするなら、それは必ず死によって消えてしまいます。また、わたしたちは明日、自分がどうなるのかも分かりません。ですから今日、わたしたちはそのゴールに入っていなければならないのです。パウロは、コロサイの信徒への手紙の三章で、こう語っています。

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」

神様はキリストによってわたしたちに最大の栄光を与えてくださいます。そしてこの栄光は一部の人に対してだけ与えられるものではありません。最後まで忠実にイエス・キリストに結ばれて生きるすべての人に与えられるのです。

●キリストの証人となる

 イエス様が天に昇られたことの二つ目の目的は、弟子たちが世界に福音を伝えるために、神のもとから聖霊を送ることです。

イエス様の死と復活による救いはすでに実現しました。そして「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と言われたことも必ず実現するのです。イエス様が約束された聖霊を弟子たちに注がれた時、弟子たちは力に満ちて福音を世界に伝えていったのです。

イエス様は、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と言われました。この「罪の赦しを得させる悔い改め」という言葉は「罪の赦しへと向かう悔い改め」とも訳すことができます。悔い改めとは「神様の方に心の向きを変える」ということですが、それは神様の赦しを知る時に実現します。神様の愛と赦しを知る時、人は心から喜んで神様に帰ることができるからです。

イエス様は弟子たちに「あなたがたはこれらのことの証人となる」(24:48)と告げました。ここで「証人となる」という言葉は、正確に言えば、「あなたがたはこれらのことの証人である」という言葉です。イエス様を信じている人は、もうイエス様の証人とされているのです。そしてこれは今のわたしたちも同じです。

わたしたちは、イエス様を信じて人生のゴールに入れていただいている、と言って、ただ天を仰いでいるだけではありません。神様が大切な独り子を死に渡してまで、わたしたちを愛し、わたしたちを救おうとされた御業を、一人でも多くの人が受けとるように、イエス様のお働きに仕えてゆこうと願うのです。また、そのようにイエス様のお働きに仕えることは、わたしたちがイエス様の救いの大切さを忘れないためにも大切なことなのです。

わたしたちは、教会の礼拝や伝道の働きを通して神の言葉を伝えています。イエス様の死と復活によって実現した救いを正しく伝えることができるのは、聖霊を受けている教会だけだからです。しかしそれは説教する人だけではなく、こうして神様の恵みを喜びにあふれて賛美している皆さんも、ここでイエス様の証人となっているのです。

教会が神の言葉を伝えることは大切ですが、わたしたちのそれぞれの生活の場では他人に無理に宗教の押し売りをすることはできません。でもわたしたちが教会生活をしていること、神の言葉を大切にしていることを隠さずに示すことはできます。そしてキリストから受けている愛や赦し、すべての人を受け入れる広い心、そして希望に生かされている喜びを表すことはできます。そして、それもわたしたちの力ではなく、聖霊の力と働きによってできることなのです。

天に昇られたイエス様が、再びわたしたちを迎えに来られる時まで、忠実にイエス様からの使命に仕えてゆきたいと思います。わたしたちは礼拝を通して上からの力をいただき、イエス様による神様の愛と救いを伝えてゆきたいと思います。

「共にいてくださるキリスト」

ヨハネによる福音書14章15-21節

復活節第6主日の説教

14:15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

●「別の弁護者」

 今日の福音書は先週の続きで、イエス様が地上で過ごした最後の時に弟子たちと語られた言葉が記されています。弟子たちはイエス様が自分たちのついて行けないところに行かれる、と言われたことに、恐れと不安を感じていました。その弟子たちに対して、イエス様は

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(14:16)

と教えられたのです。

 この「弁護者」とは「そばに呼び出された者」という意味で、ある人を弁護するために呼び出された人のことです。イエス様が「別の弁護者」と言われたのは、イエス様ご自身が弁護者だからです。弟子たちは律法学者たちから「洗わない手で食事をしている」とか「安息日に麦の穂を摘んで食べた」などと非難されました。そんな時は必ずイエス様が弟子たちをかばい、弁護されたのです。イエス様は同じように弟子たちのために語ってくれる別の弁護者を送ると約束されたのです。

 しかし、この「別の弁護者」はさらに積極的にキリストを証しする弟子たちのためにも弁護してくださるのです。弟子たちは、その教えのために、最高法院や総督、また王の前に引き立てられます。彼らにも証しするためです。マルコによる福音書13章11節で、イエス様はこう語っておられます。

 「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」

 使徒言行録を読むと、まさしく聖霊が弟子たちに、だれも反論できない知恵を与えていることが分かります。

 またイエス様は、「この方は、真理の霊である。」(14:17)と言っておられます。真理の霊とは聖霊のことです。聖霊はわたしたちに「わたしは真理である」と語られたイエス・キリストを知るように、またその方を証しできるように導いてくれる方な¥¥¥¥

 英霊を受けた弟子たちの働きを記した「使徒言行録」を見ると、「無学な者たち」と見られていた弟子たちが、知恵に満ちて、大胆にキリストを宣べ伝えていった様子がよくわかります。

●わたしの内におられるキリスト

 イエス様は続いてご自分のことについて語っておられます。  

 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(14:18)。また、「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(14:20)と語りました。先ほどは弁護者であり真理の霊である聖霊が「あなたがたの内にいる」といわれたのですが、ここではイエス様が弟子たちの内に来られる、というのです。つまり、聖霊について語られていることがそのままイエス様についても語られているのです。聖霊が弟子たちの内におられる、ということはイエス様が弟子たちの内におられるということと同じことなのです。

イエス様は「あなたがたのところに戻って来る。」と言われましたが、それはイエス様が目に見えるお姿で来られる世の終わりの時のことではなく、弟子たちに聖霊が送られる時に起きることなのです。

 イエス様は確かに復活され、生きておられることを弟子たちに示されました。しかしそのイエス様は父なる神のもとに行かれ、、これからは聖霊を通してイエス様を信じるあらゆる時代の人々、あらゆる国の人々に出会ってくださるのです。ですからイエス様が父のもとに行くことは、弟子たちから、またわたしたちから遠くなることではなく、反対に、最も近くにいてくださる方、一人一人と共にいてくださる方になられる、ということです。

この世でわたしたちと同じように体をもって生活をされ、わたしたちの弱さを知っておられるイエス様が一緒にいてくださることは大きな慰めです。  

イエス様は、「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。」(14:19)と言われましたが、イエス様を見る、ということは、肉の目で見ることではありません。イエス様の時代に実際にイエス様を見ても信じない人たちもいました。イエス様を見るとは、イエス様がわたしの内におられ、わたしたちに必要な導き、気付き、平安、慰めを与えていてくださるということを知ることなのです。

 最近は「寄り添う」という言葉がよく使われます。しかし人間が困っている人に二四時間寄り添うことは不可能です。本当に寄り添うことができるのは復活し、聖霊を通してわたしの内にいて下さるイエス様だけです。罪の赦しを与え、命を与えてくださる方として、生きている時も、死ぬときも、いつも一緒にいてくださいます。わたしの内におられるイエス様は、どんなものによってもわたしから引き離されることはないのです。

●イエスの掟を守る人

イエス様は今日の日課の最初に、

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。」(14:15,16)と言っておられますし、日課の最後でも

「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

と教えておられます。

「イエス様の掟」とはどんな掟なのでしょうか。それはすでに一三章三四節で「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と教えられている掟です。

臨終の床にいる親が、子どもたちを呼び寄せて最後に残す言葉は、「お互いに仲良くしなさい、助け合いなさい」ということではないでしょうか。同じように、イエス様が世に残してゆく弟子たちに望まれたことも、「互いに愛し合いなさい」という言葉でした。キリストはご自分の愛を知った人々がその愛を互いの間でもあらわすことを求められたのです。

ヨハネがこの福音書を書いたのは、教会がユダヤ人からもローマ人からも迫害を受けている時代でした。ユダヤ人はイエス・キリストを信じた者を自分たちの社会から締め出したのです。信徒たちはそのような人たちを神の家族として支えたのです。

現代に生きるわたしたちも、この世の力の中で、お互いの信仰を励まし合い、仕え合う愛を必要としています。 

コロナ・ウイルスの蔓延で、教会でも顔と顔とを会わせる集まりができなくなり、それを補う方法としてオンラインの礼拝などが行われました。それは仕事や会議などでも役立ちますが、キリスト者同士がお互いに支え合うためには、共に集うことが必要です。家にいてパソコンやスマートフォンで恵みを受け取るだけではなく、神の家族として支え合う人々が本当のキリスト者なのです。   

わたしたちは、わたしをお愛してくださったイエス様にそのお返しすることはできません。しかしイエス様が大切にしておられる兄弟たちに仕えることによって、その愛に応えることはできるのです。

自分のことだけを考えるなら、教会の集いに出かけることがおっくうになることもありますが、こうしてキリストの御名によって集まることで、他の兄弟は励ましを受けます。そして、こうして集まることで、力を合わせて誰かのための働きもできるのです。

イエス様がわたしたち一人ひとりに与えてくださった愛を覚え、わたしたちもお互いを大切にしてゆくとき、神様は喜んでそこに聖霊を豊かにお与えくださり、キリストはますますはっきりとご自分を現してくださるのです。どうかこれからもそのような交わりを持ち続けてゆきましょう。

「良い羊飼い」

 ヨハネによる福音書10章1-10節

復活節第4主日の説教

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

●イエスは救いに至る門

イエス様は今日の日課の初めで、「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。」と語っておられます。

「羊の囲い」というのは、羊の持ち主が住んでいる家に接している、塀で囲まれた中庭のことです。このイエス様のたとえでは、それは神様が守っていてくださる神の国をあらわしています。しかし、この神の国は死んだ後に入るところではありません。わたしたちは生きている時に神の国に入り、神の守りの中で生活してゆくのです。

イエス様は、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」と言いました。イエス様はなぜ神の国の門なのでしょうか。

それは、神様が前もって予告された救い主はイエス・キリストだけだからです。神は聖書によって、この救い主を送ることを予告しています。しかしエス様の時代には、殆どの人が聖書を持ってはいなかったので、イエス様は神の子にしかできない奇跡によってご自分が神から来られた方であることを人々にお示しになったのです。

また、イエス様が神の国への門であるのは、神の子であるイエス様が、その命をわたしたちの罪のための代価としてくださったからです。イエス様は、わたしたちの罪を清めて、神を愛する者、神の国にふさわしい者としてくださったのです。

このイエス・キリストという門を通る人は、神の国に入ることができます。イエス様は別のところでは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:16)と言っておられます。

しかし、この門は大きくて立派に飾り立てられ、多くの人がそこから入りたいと願うような門ではありません。それは狭い門です。この門は十字架につけられたイエス・キリストという門で、自分の罪を認め、身を低くしてそこを通る人だけが入ることのできる門です。多くの人はその門を通りたいとは思いません。しかし、イエス・キリストの十字架に神の御子の深い愛を見て、キリストに頼る人は、この神の国の門を通っているのです。

神の国は、わたしたちの努力や正しさでは入ることはできません。十字架の上でわたしたちのすべての罪を償ってくださったイエス・キリストという門を通らなければならないのです。

●偽りの羊飼い

イエス様は、「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」と告げています。

イエス・キリストが来られた時,[わたしは神の名によって人々を導く」と言いながら、人々に重荷を負わせ、苦しめていた指導者たちがいました。イエス様がこのお話をされたのは、生まれつき目が見えない人を見えるようにした時のことです。ファリサイ派の人々は、目の見えない人を見えるようにするという、イエス様の素晴らしい働きを見たのに、イエス様を「安息日を汚(けが)す者」と非難し、また、目が見えるようになった人を、彼らにとって「不都合な者」としてユダヤ人の共同体から追放したのです。ここでイエス様はそのような人々に向ってこのたとえを語っておられるのです。

ご自分を神から来た者として認めようとしない人、イエス様という門を通らない人は、囲いを乗り越える者であり、強盗である、と教えられたのです。

またイエス様は、「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。」とも言いました。イエス・キリストが来られる前のイスラエルの国には、多くの偽キリストがあらわれ、イスラエルを解放すると約束し、彼に従った人々を暴動に巻き込み、最後には滅ぼしてしまったのです。

イエス様の後にも、イエス様の羊を滅ぼそうとする人たちがいましたし、今の時代にも偽預言者がいます。イエス様は、終わりの時には、多くの偽キリストがあらわれる、と予告しています。そのような人々は神が遣わされた人々ではなく、悪魔が送り込んだ者たちです。

こうした偽の羊飼いにとって、羊は自分のものではないので、世話をすることや養うことはしません。かえって自分の欲望のために利用し、搾取するのです。ですから、偽のキリストを見分ける鍵は、「その人は、自分に頼るすべての人、小さい人、弱い人、貧しい人を、みな同じように大切にしているか」、ということです。わたしたちは、彼らがどのような行いの実を結んでいるのかを見て、彼らを見分けるのです。

●良い羊飼いイエス

 イエス様は続いて「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と言っておられます。ここからイエス様は門である、という話から、イエス様は良い羊飼いである、というお話に移っています。

イエス様が、「わたしは門である」と言われ、また、イエス様がその門を通る「羊飼いである」と言われていることは、理解しにくく、混乱してしまいます。

 しかし、イエス様が門であり、また良い羊飼いである、ということは両方とも真実です。門というものは動かないものです。神の国に入る門は永遠に変わらない救いの門です。しかし、イエス様は神の国の門、天国の門として、じっとしておられるだけではありません。また、「あなたは自分の力でここまで来なさい」と言っておられるのでもありません。ご自分の苦しみによって天の門を開いてくださったイエス様は、復活し、わたしたちの羊飼いとして働いておられるのです。

イエス様は良い羊飼いです。神を離れて迷っていたわたしたちを見つけ出し、命をかけて救い、み言葉を通してわたしたちを命の道に導き、またわたしたちの魂を養ってくださいます。イエス様は小さな子羊を懐に抱き、また弱った羊を担いでゆかれる方です。わたしたちが年老いて弱くなっても、一緒にいてくださるのです。そして詩篇23篇の終わりでダビデが言っているように、イエス様はわたしたちを、生涯、永遠の神の家で生きる者としてくださるのです。

 イエス様は、10章4節で、「羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る」。ほかの者たちの声を知らないからである。」と告げています。

ここにいるわたしたちも、イエス様という羊飼いの声を聞いたのです。そしてわたしたちはすでに神の国にいますが、まだこの世界にもいます。それは、わたしたちがこの良い羊飼いの声を伝えるためです。いまイエス様の羊となっている人々にも、そしてほかの人々にも、羊飼いの声を伝えるのです。言葉でも伝えますが、わたしたち自身を通して伝えることも大切です。わたしたちを大切にしていてくださるイエス様と同じ心で生きる時、良い羊飼いの声を伝えているのです。

わたしは自分の経験からそのことを学びました。わたしはクリスチャンになる前に、キリスト教を名乗る団体の人から幾度か声をかけられたことがあります。でも、その人たちの声を聞く度に、「これはわたしの羊飼いの声ではない」と感じました。なぜそう感じたのでしょうか。わたしは小学生の時に教会学校に通っていましたが、教会学校の教師は、わたしを大切にしてくれたのです。それほど真面目ではなく、生意気なことを言い、悪ふざけしたこともあったと思います。子どもですから面倒をかけるだけで、何の貢献もできませんでした。しかしその教師は、子どものわたしを粗末にしないで、一人の人間として大切にしてくれたのです。わたしは後になって、「わたしはあの時に、わたしの羊飼いの声を聞いていたのだ」ということが分かりました。だから偽りの羊飼いの声も分かった のです。

恵み深いイエス様の声を聞いているわたしたちは、これからも教会の働きを通して、またわたしたち自身を通して、良い羊飼いであるイエス様の声を伝えてゆきたいと思います。

「復活の主との出会い」

ルカによる福音書24章13-34節

復活節第3主日の説教

ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

●ひとりも滅びないために

 今日のルカによる福音書の日課には、イエス様が復活された日の夕方のことが記されています。イエス様の二人の弟子が、エルサレムの都を出て、エマオという村に向かっていました。エマオはエルサレムから60スタディオン、約11キロのところにある町です。

 この二人の弟子は、一人はクレオパという人で、もう一人の方はわかっていません。クレオパの妻であると考える人もいますが、ここでは無名です。

彼らは、メシアと信じていたイエス様が十字架につけられ、死んでしまったので、深く失望していました。もうエルサレムにいる意味はなくなり、荷物をまとめて自分たちの出身地であるエマオの村に帰ろうとしていたのです。

彼らはこの数日間に起きたことについてお互いに議論していました。二人が語り合い、論じ合っているとイエス様が近づいて来られたのです。でも二人の目は遮られていて、その人がイエス様だとは気づかなかったのです。

 イエス様がこの二人に近づかれたのは、彼らをご自分のもとに導き返すためでした。イエス様は、ヨハネによる福音書6章39節でこう言われています。「わたしの父の御心は、父がわたしに与えてくださった人たちが一人も滅びないで永遠の命を得ることである」。

この「一人も滅びないで」という言葉は、「ひとりも失われないで」ということです。また、イエス様が五千人にパンを与えて、「残ったパンくずが無駄にならないように集めなさい」と言われた「無駄にならないように」という言葉も同じ言葉で、「失われないように」、「滅びないように」という言葉です。

イエス様は、使徒ではない、名前さえ記されていない弟子たちも、またパン屑にすぎないような小さなこのわたしも、ご自分への信仰から離れて永遠に失われてしまうことがないように働いてくださり、御国に集めてくださるのです。

わたしたちは時々、イエス様のために活躍した弟子たちや、今でも立派な働きをしているキリスト者たちと比べて、自分がそれほど価値のない者だと感じてします時があります。しかし、イエス様にとっては決してそのようなことはないのです。  

イエス様は十二人の弟子たちよりも先に、一人は名前も記されていない弟子たちに出会われたのです。イエス様にとってはご自分を信じる人はご自分の羊であり、大切な一人なのです。わたしたちは名前さえ記されていない一人の弟子にわたしを重ね、イエス様が、今日わたしたち一人ひとりを大事にしてくださることを覚えたいと思います。

●復活の主との出会い

イエス様は二人の弟子たちに近づき、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と二人に尋ねました。ここでの二人の弟子たちとイエス様のやり取りはとてもユーモラスです。クレオパが「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」と、当の本人に言っているからです。

クレオパは、イエス様が偉大な預言者であったにもかかわらず、イスラエルの指導者たちによって十字架で殺されたこと、しかし今朝、婦人たちがイエス様の墓に行くと、墓が空になっていて、そこに天使が現れ、婦人たちに、「あの方は復活された」と告げたことを、見知らぬ同行者に話しました。

この弟子たちはすべての情報を持っていたのです。知識としては十字架のこと、復活のことを聞いていたのです。でも、ほかの弟子たちと同じように、彼らにはその意味がまったく分かりませんでした。

 イエス様は、「ああ、物分りが悪く、心が鈍く、預言者達が説いたすべてのことを信じられない者たちよ、キリストは必ずこれらの苦しみを受けて、その栄光に入るはずだったではないか」。と言って、モーセとすべての預言者から初めて聖書全体にわたって解き明かされたのです。その中心はキリストの受難と死、そして復活という「恵みの言葉」だったのです。

 二人の弟子たちは聖書を解き明かしてくださる見知らぬ旅人の言葉を聞いて、心が燃えるのを感じました。エマオの村についた二人は、「もっとこの人と一緒にいたい、もっとお話を聞きたい」と思いました。それでこの人を無理に引き止めたのです。

夕食の時、イエス様はパンを取り、感謝の祈りを唱え、パンを裂いて彼らに渡されました。その時に弟子たちの目が開かれ、今まで一緒にいた人がイエス様だったとわかったのです。  

●どこでキリストに出会うのか

エマオへの道で二人の弟子に起きたことを通して、わたしたちは、どこで、どのようにしてキリストに出会うのか、ということを教えられます。

見知らぬ旅人の姿で弟子たちに近づいたイエス様は、メシアの死と復活とその意味について聖書から説き明かされました。それらがすべて神によって約束されていた「救いの出来事」であったことを教えられたのです。

そして彼らの家でパンを裂き、弟子たちにお与えになりました。これはイエス様が十字架にかけられる前、食事の席で新しい契約を結ばれ、このように行いなさい」と言われと時の光景です。このようにしてキリストは二人の弟子たちにご自分を現したのです。

ルターは、「(神が)見えるというのは、み言葉とみわざにおいてである。み言葉とみわざのないところで神を自分のものにしようと望んではならない」(卓上語録)と語っています。

神様はイエス・キリストをわたしの罪のために死に渡されました。そして復活させ、わたしたちが罪を赦された者としてキリストと共に生きるようにしてくださいました。

また、キリストはその恵みを聖餐を通してわたしたちに与えてくださるのです。聖餐は、わたしたちの功績によらないで、一方的に、何の差別もなく、信じて受け取る人すべてに与えられる確かな賜物です。それは今わたしたちのために行われ、わたしたちが与かることのできるキリストのみわざであり働きです。

このような御言葉とみわざなしに、わたしたちはキリストを見ることはできません。もし見たとしても、それはわたしたちにとって「裁き」にほかなりません。なぜならこの福音と恵みのみわざがない所では、わたしたちは神とキリストの前に有罪であり、神とキリストに喜んで出会うことはできないからです。

また、このみことばとみわざがないところでキリストに近づこうとする人は、不完全な人間の知恵や力に頼って間違った道に向かいます。キリストの福音から離れている人々の教えは、どれもキリストの十字架による赦しと復活の福音を人々から遠ざけ、また洗礼や聖餐の恵みを遠ざけているのです。キリストが、その恵みの言葉と恵みのみわざにおいてご自分を現すまでは、人間の目は罪に遮られて、決してキリストを見ることはできないのです。

「エマオへの道」は、わたしたちにも与えられています。共にキリストの言葉を聞き、恵みの糧に与かるという道です。語っている人はキリストのようには見えなくても、その言葉を通してわたしに近づき、働きかけてくださるのです。また聖餐を渡してくれる人はキリストのようには見えなくても、そこにはキリストが食卓の主人としておられ、渡されるパンを通して、わたしの外にではなく、わたしの内に来てくださるのです。

キリストと出会ったこの二人は、喜びに満たされてエルサレムに戻りました。「主は生きておられる」ということを伝えるためです。同じように、わたしたちもキリストに出会い、その喜びと感謝を、わたしたちの言葉や行いと通してこの世界に伝えてゆくのです。

「見ないで信じる人の幸い」

ヨハネによる福音書20章19-31節

復活節第2主日の説教

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 

さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」     

このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためである。

●復活の体に残った傷跡

 先週の復活祭では、イエス様が復活された日曜日の朝の出来事についてお話ししました。今日の福音書は、その同じ日の夜に起きた事が書かれています。よみがえったイエス様に出会った婦人たちの話を聞いた弟子たちは、一つの部屋に集まっていました。彼らはユダヤ人を恐れて家の戸をみな閉めていました。するとイエス様が弟子たちの真ん中に立たれたのです。復活されたイエス様は弟子たちが触ることができる体でした。しかしそのイエス様が閉ざされた部屋の中に入られたということは、復活のイエス様は、何にも妨げられることなく、望むところに行くことができるということを示しています。たとえわたしたちが病気で集中治療室に入れられ、「誰も面会できません」という時でもイエス様だけは共にいてくださるのです。

イエス様は弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われ、「手とわき腹とをお見せになった」のです。「弟子たちは、主を見て喜んだ」と書かれています。

新しい体、栄光の体に復活されたイエス様に、なお十字架の生々しい傷跡が残っているのは不思議なことです。しかし、その傷は、目の前にいる方が、まぎれもなく十字架で死なれたイエス様であるという、何よりも確かな証拠となったのです。

数十年前に、中国にいた多くの日本人残留孤児が、親をたずねて日本に来たことがありました。その時、親子であることの確かな証拠になったのは、孤児たちの体に残っていた「傷跡」でした。小さい時、怪我をしてできた不幸な傷跡の記憶は、やがて親子の再会という喜びを与えるしるしとなったのです。

イエス様の体に十字架の傷跡が残っていた、ということは、イエス様がわたしたちの罪のために死んでくださったそのしるしが、今も残っている、ということです。復活したイエス様が、手を上げて弟子たちを祝福された時も、その傷は残っていました。消えないイエス様の十字架の傷跡は、今もイエス様が変わることなくわたしたちの罪を赦し続けておられることを示しているのです。

●信じ信じなかったス

イエス様が弟子たちに現れたその晩、十二弟子の一人であるトマスはそこにいませんでした。ほかの弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ったのです。

ヨハネ福音書には、他にもトマスの言葉が記されています。11章でイエス様が危険を冒してラザロのもとに行こうとした時、トマスは、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言ったのです。彼はイエス様に対して忠実であり、強い信念をもっていたようですが、同時に自分の信念にとらわれていました。その後でキリストがラザロを復活させたことを見たはずなのに、キリストご自身が復活したと聞いたとき、彼の心は自分の考えや信念に縛られていて、他の弟子たちの言葉に心を開くことができなかったのです。

聖書は、決してわたしたちにやみくもに信じることを求めません。信じるために疑ってみる、また確かめてみることは大切です。ヘブライ人への手紙11章にあるように、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」。

また使徒言行録17章には次のような記事があります。

《ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。 そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った》(使徒17:11,12)

べレアの町のユダヤ人たちはパウロが伝えた福音を最初から否定しないで、そのとおりかどうか、つまり(旧約)聖書が本当にそれを予告しているのかを調べたのです。

しかし、そのように、本当にその通りか探求しようしないで、初めから「決して信じない」と決め込んでしまうことが「不信仰」なのです。

そのトマスも八日後、つまり次の日曜日には、ほかの弟子たちと一緒にいました。するとそこにイエス様が現れたのです。一週間前と同じように部屋の戸に鍵をかけていたのに、弟子たちの真ん中に立たれたのです。イエス様はトマスに、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 と言いました。イエス様はトマスが言ったことを知っておられたのです。トマスは思わず、イエス様に「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。 

●見ないで信じる人の幸い

イエス様は、続いてトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われました。このイエス様の言葉は、「見て信じたトマスの信仰は不完全で、見ないで信じる信仰の方が大切だ。」というように聞こえます。しかし、もともとの言葉は、「あなたはわたしを見て信じた。見ないで信じる人は幸いである」という言葉です。

 トマスも含めて、復活のイエス様を見た弟子たちは、その目撃者としての証言をする務めを与えられたのです。十字架の死から復活したイエス様に出会った弟子たちは、自分たちが見たことをその通りに証言しました。

しかし、その弟子たち以後の人々は、キリストの死と復活を見た弟子たちの証言を聞いて、また弟子たちの残した証言を聞いて信じることを求められたのです。そしてそのように、見ないで信じる人々はさらに幸いである、とイエス様は語られたのです。

では、なぜ「見ないのに信じる人は、幸い」なのでしょうか。聖書が用いている「信仰」という言葉は、「誠実」とか「真実」という言葉です。わたしの牧師だった方は、「信仰とは神の真実に対する人間の真実な応答のことです」と教えてくれました。神はご自分を真実に求めようとする人にご自分を現す方です。しかし、神を求めようとしない人に神が見えるように現れたら、それは「認めざるを得ない」ということであって、決して真実に神を求めた結果ではなく、「信仰」と呼べるものではありません。神はわたしたちが自発的に、心から神の真実を受け入れるために、「普通の人々」を通してわたしたちに語りかけてくださるのです。

また、ここですべての人に信じることが求められている「神の真実」とは、「十字架に死なれ、復活したキリスト」です。天地を造られた神は、わたしたちのために独り子を与え、その死によってわたしの罪をすべて赦してくださいました。そして、復活によってキリストの死が神の子の死であったことが明らかにされたのです。

どんなに優れた人であっても罪と死の力に勝つことはできません。わたしたちの罪をすべて背負い、復活されたイエス・キリストを受け入れる時、わたしたちは恵みの神と出会うのです。

キリストの死と復活の証人となったすべての弟子たちは、迫害され、投獄され、また殺されようとも、決してその証言を変えることはなかったのです。わたしたちはそのような証言を「嘘」だと言えるでしょうか。また、このキリストの出来事は、神が旧約聖書の中でずっと予告されてきたことであり、わたしたちは聖書によってそれを確認できるのです。

罪のないキリストを憎んで十字架に追いやったのは、真実よりも自分の都合や利益を優先した人々でした。しかし、自分の誇りや欲や好みに従うのではなく、真実な心でキリストを見るなら、その人はキリストにあらわされた神の真実を知り、神を愛する人となるのです。そして、そのようにキリストを受け入れた人は、今日の聖書の最後にあるように、キリストにある永遠の命を受けている幸いな人々なのです。

「主はよみがえられた」

マタイによる福音書28章1-10節

復活祭の説教

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

●死への勝利

 今日読みました、マタイによる福音書が伝えている復活の出来事は、とても力強い印象を与えます。週の初めの日、婦人たちが墓を見に行くと、大きな地震が起こり、主の天使が天から降って近寄り、墓の入り口をふさいでいた大きな石をわきへ転がして、その上に座りました。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かったのです。墓を警備していた番兵たちは、「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」(4節)と記されています。

 しかしイエス様の墓に行った婦人たちはそのような恐怖を味わうことはなかったのです。なぜなら他の三つの福音書によれば、婦人たちが墓に到着した時、墓はすでに開かれていたからです。そして、番兵たちが完全に無力にされていたので、婦人たちは禁じられていた墓に入ることができたのです。

 主の天使は婦人たちにも現れましたが、それは恐怖を与えるためではなく、キリストの復活という喜ばしい知らせを伝えるためでした。天使たちは婦人たちに「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と告げました。そしてキリストの遺体が置かれていた場所を見せたのです。

死んだはずのキリストが復活したことは、あまりにも輝かしくまぶしい光です。天使は婦人たちや弟子たちのために、復活のキリストに出会うための心の備えをさせたのです。とりわけ、キリストが以前から「(わたしは)三日目に復活することになっている」(マタイ16:21)と言われた言葉を思い起こさせ、キリストの復活が前もって定められていたことであることを教えたのです。

わたしたちは当時の婦人たちや弟子たちのように、空になった墓やその中にあった布を見ることはできません。しかし聖書を通して、わたしたちも、キリストの復活は神が前もって計画されていた確かな出来事であることが分かるのです。

先日の受苦日の礼拝ではイザヤ書53章が読まれました。53章10節には次のように記されています。

「彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。」

自分を償いの供え物とすることは人の罪を負って殺されるということです。しかしそれによって彼は自分の命を受け継ぐ人々に出会うことを聖書は七百年前から告げているのです。また続いて、

「主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。」

とあります。イエス・キリストは神の御心を成し遂げる永遠の支配者として今も生きておられるのです。

●神の愛と命のあらわれ

しかし、今日の福音書は、復活の圧倒的な力にもかかわらず、復活したキリストはなお愛をもって人々を招く方であることを証ししています。

それは復活したキリストが婦人たちに語られた言葉に現れています。婦人たちに現れた天使は「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」と告げました。しかしその直後に婦人たちに現れたキリストは、「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」と告げました。天使たちは「弟子たちに」と言ったのに対して、キリストは「わたしの兄弟たちに」と言っています。それは何と恵み深い言葉でしょうか。この時ペトロや他の弟子たちは、「自分たちは大事な先生を見捨ててしまった。主はわたしたちのことを恨んで死んでゆかれたに違いない」と思っていたことでしょう。そんな弟子たちが、婦人たちから「イエス様が復活された」と聞いたとしても、決して喜ぶことはできませんでした。しかしイエス・キリストは、ここで弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ばれたのです。

イエス様からの言づてを聞いた弟子たちは、その一言で恐れが消し去られたのではないでしょうか。さらに「ガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」という言葉も、イエス様がなおも弟子たちを必要とされていることを示しています。

復活したキリストの口から、弟子たちを責める言葉が一つもなかっただけではなく、驚くべきことに、ご自分を十字架につけた人々を責める言葉も一切ありませんでした。また復讐し、罰することもありませんでした。墓を守っていた番兵たちも恐ろしさのあまり「死人のように」なりましたが、実際には死にませんでした。なぜなら、イエス・キリストはすべての人の罪のために死なれたからです。そしてすべての人がその愛を知るために復活されたからです。それは「十字架と復活」という恵みの出来事を通して、すべての人を神と和解させるためでした。復活したキリストが責めたのは人間の罪ではありません。この神の愛と力による救いに心を閉ざす不信仰だけを責められたのです。

イエス様は弟子たちが弱かったとしても、彼らの中にあるご自分への愛を知っておられ、弟子たちを捨てないばかりか、「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。キリストは今でも、ご自分を愛するわたしたちを「わたしの兄弟たち」と呼んでくださいます。「兄弟」とは、身内として守り、支え合う関係です。キリストは小さく弱い者であっても、ご自分を受け入れ、ご自分を愛する人々の兄弟となってくださるのです。そしてご自分の尊い血によってわたしたちの罪の負債を支払い、死の力から救い出してくださるのです。

●復活の光の中で 

イエス・キリストの復活は週の初めの日の出来事でした。この日に、死に対する勝利がキリストによって示され、またキリストの愛の光が輝いたのです。

聖書によれは、世界で最初の週のはじめの日は天地創造の第一日目でした。この日に何があったのでしょうか。この日、まだ地はかたちなく、むなしく、闇が淵の面を覆っていたのです。そこに向かって神が「光あれ」と言われると、闇を切り裂いて光が地を照らしたのです。

わたしは、キリストに出会う前のわたしも、この最初の地球のようであったと思います。神から離れていたために、自分が何のために存在しているのか分からず、「かたちなく、むなしい」思いでいました。また、死という闇が世界を覆っていて、いっそう人生を空しいものにしていました。しかし、混沌とした世界に光が照らされ、その光の中で世界が創造されたように、イエス・キリストによってこの世界に、またわたしの人生に光が照らされたのです。

イエス・キリストの復活は、キリストの愛の光が照らされた時です。わたしたちはこの愛によって、神を拒む闇の世界から、神の愛の内に生きるようにされました。

また、神はイエス・キリストによって、死の力に打ち勝つ命の希望という光を照らしてくださいました。ヨハネ福音書1章4節に「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」とあります。死の闇に包まれた人生、また世界に、命の希望の光が照らされたのです。

復活したキリストの光の中で、わたしたちは正しい生き方ができます。もし復活がなければ、この世がすべてであり、限られた命をできるだけ楽しく、豊かに過ごすことだけが人生の目的になります。しかし、神の愛を知り、死に勝つ復活の命という賜物を知っている人は、たとえこの世で損をしたとしても、永遠の命にふさわしい道、神が望まれる生き方を選ぶのです。

この世界のすべての人に、十字架の死から復活したイエス・キリストの救いの光が照らされるために、わたしたちは力を尽くしてこの知らせを伝えてゆきたいと思います。

「良い友イエス」

ヨハネによる福音書11章1~45節

四旬節第5主日の説教

(抜粋 一一:一七-四五)

さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 1人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 1すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。 

●ラザロとイエス

今日の福音書はイエス様がラザロを復活させた、というお話です。このラザロはイエス様に愛されていた人でした。ラザロの姉妹たちはイエス様に、「あなたの愛する者が病気です」と伝えています。そしてイエス様は11節で、ラザロのことを「わたしたちの友」と呼んでいます。しかし今日の福音書の前の方を見ますと、イエス様がラザロのもとに行くのは、ご自分を憎んでいるユダヤの指導者たちのいる所に戻る、ということであり、命の危険を伴うことでした。8節で、弟子たちはイエス様に「先生、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」 と言っています。弟子たちも、ユダヤに戻るためには死を覚悟しなければならない、と思ったほどです。それでもイエス様は命をかけてこのラザロを生かすためにエルサレムに行かれたのです。

これほどイエス様に愛されたラザロという人は一体どんな人だったのでしょうか。実はラザロのことはここにしか出てきません。その姉妹であるマルタとマリアの事はルカ福音書の10章にイエス様をもてなした、と書かれています。またこのヨハネ福音書の12章では、マリアが高価なナルドの香油をイエス様の足に注いだ、という事が書かれています。

 けれども彼女たちの兄弟であるラザロのことは、病気になって死んだというここにしか出てきません。彼が話したこと、また行った事は聖書の中にひとつも書かれていないのです。とても不思議ではないでしょうか。

●イエスを迎えたラザロ

先ほどマルタやマリアがイエス様をもてなした、といいましたが、そこにもラザロのことは書かれていません。それは不自然なことです。ユダヤやアラブ世界では、客をもてなすのは男性の役割でした。女の人が客を接待するのは、はしたないこととされていたのです。アブラハムが主のみ使いをもてなした時も、妻のサラは後ろの天幕にいました。

 それで当然このベタニアの家でもラザロがイエス様を接待するはずなのです。それができないのは、おそらくラザロは家の働きは姉妹たちにまかせなければならないほど病弱であったということではないでしょうか。しかし、身体は動かないにしても、この家で唯一人の男性であるラザロがイエス様を尊敬し、愛していなかったなら、マルタもマリアもイエス様をもてなす事はできなかったはずなのです。でもそれができたのは、マルタとマリアの男兄弟であるラザロの意志があったからではなかったでしょうか。

イエス様と弟子たちがエルサレムに行った時はラザロの家に泊まったと考えられます、自分の家を持たず、落ち着く場所を持たなかったイエス様にとって彼らのもてなしはどれほど大きな慰めになったことでしょうか。

 ラザロがしたことは、イエス様を愛し、尊敬し、自分の家に迎えた、ということです。そして実はそれこそがもっとも大切な事なのです。父なる神様はわたしたちのために最愛の独り子を送ってくださいました。神様がもっとも喜ばれる事は、ご自分の大切な独り子をわたしたちが感謝と尊敬をもって受け入れる事です。この世界で人間の罪をあがない、悪魔の力から人を解放し、そして死に勝つことができる方は、神の子であるイエス・キリストお一人です。このキリストを迎えることなしに、どんなに立派なことをしても、大きな働きをなしてもそれは神様が求める業とはならないのです。  

ヨハネ福音書6章には、ユダヤ人たちがイエス様に、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねた時、イエスが「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 とお答えになったことが記されています(ヨハネ6:28,29)。

また、ヨハネの黙示録3章20節には、復活のキリストが次のように語っている箇所があります。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」

 誰でもキリストの声を聞いて心の戸を開けるなら、キリストはその人の中に来られます。そして食事を共にする、と言われるのです。食事を共にする、ということは命を共にする家族であり、友であるということのしるしです。キリストに対してわたしたちの心の扉を開き、わたしたちの人生という家にお迎えし、キリストに住んでいただくなら、キリストもわたしたちの友となり、また兄弟となってくださるのです。

●共に泣くイエス

 33節で、イエス様がご自分を出迎えたマリアと他のユダヤ人に会った時、「彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮」されたことが記されています。イエス様が「憤りを覚え」たことは38節にも記されていますが、それは決して人々の「不信仰」に対する怒りではなく、人間をかくも深い悲しみと切望に追いやっている死の力と、その背後にある悪の力に対する憤りなのです。

それはイエス様がマルタやマリアと一緒に涙を流されたことで分かります。イエス様はご自分がこの後すぐにラロを復活させることを知っていました。それにもかかわらず涙を流されたのです。それはイエス様が決して傍観者ではなく、ラザロの姉妹であったマルタやマリアと同じ気持ちになられたということです。「イエスは涙を流された。」この言葉は英語の聖書ではたった二文字で、聖書の中では最も短い聖句ですが、最も恵み深い聖句であるということができます。

 イエス様がラザロのためにエルサレムに戻ったことは、イエス様にとって命を危険にさらすことであったと言いましたが、実際に、ラザロを死から復活させたイエス様は、そのことによって十字架の死に近づかれました。

ヨハネ福音書15章で、イエス様は「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と語られましたが、その言葉の通りにご自分の友ラザロのために命を捨てられたのです。

しかしイエス様はラザロのためだけでなく、ラザロと同じようにイエス様を愛し、イエス様を自分の人生の内に迎え入れるすべての人の友となってくださるのです。ラザロのように弱い人であっても、目立たない人であっても、イエス様は「友」と呼んでくださるのです。

イエス様が十字架の道を歩まれたのは、わたしたちの罪を取り除き、復活して、わたしたちの永遠の友となってくださるためでした。ラザロの復活はそのことの前触れでした。

この世の中のどのような強い絆も、死を超えて続くことはできません。しかしイエス様は永遠に共にいてくださるまことの友なのです。わたしたちはこのイエス様を仲立ちとして、愛する人々と死を超えて共にいることができるのです。

友という関係は、片方の好意だけでは成立しません。相手の愛情にこちらも応える時に成立します。わたしたちのためにイエス様が示してくださった最大の愛を、「わたしのための愛」として感謝して受け取りましょう。

わたしたちがこうして礼拝することができ、またイエス様のために奉仕ができることは感謝なことです。こうしたことはわたしたちがイエス様をお迎えする大切な道ですが、いつかは体が弱って礼拝に行くこともできなるかもしれません。しかし何もできなくなって病床にあるとしても、イエス様を心に迎えることはできます。そしてイエス様にとってはそれが最も大切で喜ばしいことなのです。ですからわたしたちは人生の時々に応じて、自分にできる仕方で、いつもイエス様を迎え続けてゆきたいと思います。

「見えるようになるために」

ヨハネによる福音書9章1-41節

四旬節第4主日の説教

(抜粋 24-41節)

さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

●見えない人の目を開く

今日の福音書は、イエス様が生まれつき目の見えない人を見かけられたことから始まっています。弟子たちはイエス様に「先生、この人が生まれつき目の見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と質問しました。

日本でも以前は、生まれつきの障がいは、その人が前世で悪いことをしたのだ」とか、「親や先祖が悪いことをしたからだ、というように言われてきました。今から52年前、西濃地方で、大垣ルーテル教会が障がいを負っている方々のための働きを始めた時、地域の人たちから、「障がいは先祖の悪い因縁によるものだから、その人たちを助けると、助けた人に悪いことが起きる」と言われたそうです。

しかしイエス様は弟子たちの質問に対して「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と答えられ、この人の目を開かれたのです。

ところが話はそれで終わりませんでした。この人の目を見えるようにしたのがどんな人かということに関心を持った人々は、目が見えるようになったこの人をファリサイ派の宗教指導者たちのところに連れて行ったのです。

ファリサイ派の人々はイエス様に対する反感を持っていました。それは彼らが大事にしていた安息日の規則をイエス様が守っていないと考えたからです。

ヨハネ福音5章でも、38年の間、病気で歩くことができなかった人をイエス様が癒しましたことが記されていますが、それは安息日のことでした。

見えない人の目を開くためにイエス様は唾で泥をこねてその人の目に塗りました。これは左官の仕事をすることであって、安息日には禁じられていました。また、命の危険が迫っていないような病気を治すことも仕事をすることで、安息日には禁じられていたのです。

しかし、そのような安息日の規則は聖書にはないものです。むしろ安息日には重荷を負っている人からその重荷を取り去って、安息を与えてあげるべきでした。イエス様は安息日にふさわしいことをされたのですが、ユダヤ人たちは自分では正しいことを行っている、と思いながら、かえって安息日に反することをしていたのです。また自分たちの正しさを誇り、生まれつき目の見えなかった人を「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言って、彼をユダヤ人の共同体から追放してしまったのです。

●わたしたちを見えなくしているもの

しかしファリサイ派の人々は目を開かれた人の証言によって、確かにイエス様が見えない人の目をみえるようにしたことを認めないわけにはゆかなかったのです。

旧約聖書のイザヤ書35章には、メシアが来る時、見えない人の目が開かれ、歩けない人が歩くようになるということ予告されています。旧約聖書にも多くの奇跡が記されていますが、見えない人が見えるようになったという奇跡はありません。しかし今、人々の前でその奇跡がイエス様によって行われたのです。それにもかかわらず、ファリサイ派の人々はイエス様を信じようとはしませんでした。

目が開かれた人は素直にイエス様を信じました。彼は開かれた目でキリストを見たのです。イエス様はその時、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」と言いました。それを聞いていたファリサイ派の人たちが「我々も見えないということか」と言うと、イエス様は「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と答えました。

ここでイエス様が言われた「見える」ということは、「知っている」という意味です。それは「わたしには物事が見えていて、何が正しいかを知っている。誰からも教えられる必要はない」という高ぶった心をあらわす言葉です。そのような心が物事を素直に見ることを妨げたのです。

「自分には知識がある。正しいこと知っている」と主張し、素直に物事を見ようとしないことで陥る最大の災いは、神が遣わしてくださった救い主が見えなくなってしまう、ということです。

もしイエス様がこの世の権威をまとって来られたなら、ファリサイ派の人々も信じたかもしれません。しかしそのような外側の姿はキリストの本質を示してはいません。大切なことは、イエス様が何を教え、何をされたのか、ということです。  

わたしたちはイエス様がなさった奇跡を直接的には見ていませんが、イエス様が人々をどのように変え、また世界をどのように変えたのかを見ています。キリストは最も罪深い者を正しい人に変え、最も重い障がいを負った人を最も影響力を持つ人に変えています。そのような業はキリスト以外にはできないことです。しかしユダヤ人やファリサイ派が自分たちを誇ってキリストの業を素直に認めなかったように、わたしたちも空しく自分を誇るなら、大切なものを見失います。日本人はインターネットやスマートフォンなどの先端技術は積極的に受け入れても、宗教となると「日本には日本の神がある」と言って、自分たちの誇りを大事にしがちです。

イエス・キリストは、人々がその正しさを見て、その光を受け入れるか、それとも自分の正しさや誇りのゆえに遠ざけてしまうかの「試金石」です。イエス様が「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。」と言われた「裁き」とは、「最後の審判」のことではありません。世の光として来られた方を拒み、神から離れた闇の世界にとどまろうとすること、それがすでにさばきとなっているのです(ヨハネ3:19)。

●「目を開いてください」

神様の癒しと救いを目の前にしたとき、自分の正しさを主張し、自分の罪を認めようとしないなら、すなわち悔い改めようとしないなら、その心はかたくなになり、心の目はますます見えなくなります。わたしたちが光の中を歩むためには、常に悔い改める事が必要です。

イエス様が、見えなかった人の目を開くためになさったことはとても不思議です。イエス様は最初にこの人の目に泥を塗りました。そして「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われたのです。最初から洗うのではなくて、まず泥を塗ったのです。泥を塗られるということは、ますます見えない姿にされることのように思われます。

同じように、わたしたちもイエス様によって目を開いていただくためには、まず自分が見えない者であることを認めなければならないのです。その時、聖霊の水によって、わたしたちの霊の目が開かれるのです。

わたしたちはこれからも「目を開いてください」と祈ります。それは第一に、イエス様に開いていただいたわたしたちの霊の目が、再びふさがれてしまうことがないためです。

また、わたしたちが「目を開いてください」と祈るのは、神様の御心をはっきりと知るためです。わたしたちが、何が正しいかを本当に理解し、納得したとき、初めてそれを実行できるからです。わたしたちが礼拝式文の「懴悔の祈り」の中で「主と、主のみ旨についてのまことの知識を与え、日ごとにみ心を明らかに示してください」と祈るのはそのためです。

また、わたしたちは神様が下さった愛と恵みの豊かさに対しても、さらに目を開いていただきたいと思います。

 エフェソの信徒への手紙1章で、パウロはこう教えています。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」

この四旬節の時、わたしたちのために独り子をくださった神様の愛、十字架にその命をささげてくださったイエス様の真実をはっきりと見ることができるように、そしてさらに大きな感謝と喜びをもって神に仕えることができるために、心の目を開いていただきたいと思います。

「キリストの渇き」

ヨハネによる福音書4章1-26節

四旬節第3主日の説教

 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、 ――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである―― ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。 しかし、サマリアを通らねばならなかった。 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

●サマリアに行ったキリスト

今日の福音書には「サマリア」という地名が何度も出てきます。サマリアという町は、もともと北イスラエルの首都だった町です。紀元前九百二十年ごろ、イスラエルの国は二つの部族からなる南ユダ王国と、十の部族からなる北イスラエル王国に分裂しました。南のユダ王国にはエルサレムの神殿がありましたが、北イスラエル王国には神殿がありませんでした。そこで北イスラエルの王は、国民がエルサレムに行かないように、自分の領土内に別の神殿を造ったのです。しかし、それは「わたしが指定された場所で礼拝しなさい」という神様の言葉に背くことでした(申命記12:1-14)。

また、ユダ王国を治めた王の中には信仰深い王がいたのですが、北スラエルの王たちはほとんどが神から離れて悪い政治を行いました。そのためイスラエル王国は二百年続いた後にアッシリアに滅ぼされたのです。アッスリアの王は混合政策を取りました。つまりアッシリアの国民とイスラエルの国民を結婚させたのです。そればかりかアッスリアの人々が拝んでいた偶像をイスラエルに持ち込んだのです。

イエス様の時代には、北イスラエルの子孫たちはサマリアの地方に住んでいました。ユダ王国の人々、つまりユダヤ人は、サマリア人を、異邦人の血が混じり、また偶像に汚された人々であるとして軽蔑していたのです。

イエス様と弟子たちはこのサマリアを通過しなければなりませんでした。旅に疲れたイエス様は、ヤコブの井戸の傍らで休んでおられました。そこで一人のサマリアの女性と出会ったのです。

イエス様はこの女性に「水を飲ませてください」と言いましたが、サマリアの女性は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言いました。「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。」とその理由が書かれていますが、交際しないという聖書の言葉は「一緒に使わない」という意味の言葉です。器などを一緒に使うと、相手と仲間であることになってしまうからです。

また、この女性はイエス様に対して「サマリアの女のわたしに」と言っていますが、当時女性は尊敬されず、信心深いユダヤ人は見知らぬ女性と話すことはしませんでした。

イエス様はこのサマリアの女性に、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」と語られました。「生きた水」という言葉は、直接的には溜水のことではなく、動いている水、泉のように湧き出し、川のように流れている水を意味しています。イエス様はそれを霊的な意味で語られたのですが、サマリアの女性は、そんな水があるなら「その水をください」と願ったのです。

●神を離れた人間の渇き

するとイエス様はこの女性に「あなたの夫を連れてきなさい」と言いました。すると女性は「わたしには夫はいません」と答えました。イエスは「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」と言われたのです。

この女性は正午ごろの暑い時に井戸に水を汲みに来ていました。普通は夕方涼しくなってから水汲みをします。この女性はサマリアの人たちからも悪く思われていて、誰とも会いたくなかったのです。

イエス様がこの女性にこのようなことを語られたのは、この女性の罪を暴くためではありません。この女性の魂の渇きに気づかせ、命の水を与えようとされたのです。彼女は夫によって自分の心が満たそうとしましたが、やがてそれは失望に終わりました。それで別の人と結婚しましたが、それも失望に終わったのです。そしていつの間にか五人も夫を変えていたのです。

 人は水がないと数日で死ぬといわれています。体の渇きは水を飲めば潤されますが、霊の渇きはこの世のものでは満たされないのです。お金や財産をどんなにたくさん持っていたとしても魂の渇きや癒されません。名声を得ても、それで魂の渇きは癒されません。また人間の愛によっても霊は満たされないのです。なぜなら人間は神様の霊によって本当の潤いを得るように造られているからです。

むかし、「くれない族」という言葉が流行りました。「あの人は少しもわたしのことを考えてくれない、愛してくれない」という不満を持つ人々のことです。また心が渇いていると、ただ自分の喜び、楽しみだけを考える自分中心の生き方になり、他者との関係も壊れて行くのです。世の中で起きている様々な犯罪もまた、この世のもので心の渇きを癒やそうとすることから生まれているといえます。

 このように、神様から離れて、心の渇きを覚えていたのは、サマリアの女性だけではありません。神様は預言者エレミヤを通して、ユダの人々にこう言いました。

「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて 無用の水溜めを掘った。水をためることのできない こわれた水溜めを」(エレミヤ2:13)。

命の水の源である神から離れ、この世が与える水で魂の渇きを癒そうとし、霊的な死に向かっている、それが人間の姿なのです。

●命の水を与えるために

シカルの井戸で渇きを覚えられたイエス様は、後に十字架の上で「わたしは渇く」と言われました。イエス様がご自分の肉体的な苦しみについて語られたのは、この言葉だけでした。十字架の刑罰は、手足に打たれた傷の痛みよりも、そのために高熱が出て、渇きを覚える、その渇きの方が苦しいといわれています。

キリストの苦難を予告している詩編22篇には、十字架上でイエス様が発した七つの言葉の三つが予告されていますが、その一つはこの「死の渇き」についての言葉です。

「口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く。」(詩22:16)。

イエス様はなぜ十字架の上でそのような激しい渇きを経験されなければならなかったのでしょうか。それは神様とわたしたちの間にある罪を完全に取り除くため、そしてご自分を通して「神の霊」という命の水を与えてくださるためでした。人間の体の渇きが苦しいものであるなら、神から離れた霊が最後に経験する渇きはどれほどのものでしょうか。イエス様はその渇きからわたしたちを救ってくださるために、十字架の上で死の渇きを味わわれたのです。

今日の旧約聖書の日課には、モーセが荒野で岩を打って民のために水を出したことが記されています。パウロはコリントの信徒への第一の手紙上10章で、「この岩こそキリストだったのです」と語っています。岩を打ったモーセの杖は神の裁きを表しています。わたしたちの岩であるイエス様も十字架で打たれ、砕かれました。それは御自分が打ち砕かれることによって命の水を与えてくださるためでした。

また、イエス様は身を低くしてサマリアの女性に出会ったように、イエス様は最も低い罪人の姿となりました。それはわたしたちすべてのためでした。どんなに神から遠いと思われている人でも出会うことのできる姿になられたのです。

サマリアの女性は、イエス様が救い主であると知った時、大切な水がめを置いて大喜びでサマリアの人々にイエス様を伝えました。彼女は生き返り、また人々に潤いをもたらす人になったのです。 

わたしたちも、わたしたちに代わって死の渇きを味わってくださったイエス様の愛を受け取り、イエス様を通して与えられる命の水を受けたいと思います。この世のものではなく、何よりもイエスイエス様の与えて下さる霊の水によって満たされ、生かされてゆきましょう。そして、この命の水を与える方のお働きに仕えてゆきたいと思います。

「主を仰いで生きよ」

ヨハネによる福音書3章1-17節

四旬節第2主日の説教

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

●イエス様とニコデモの対話

 今日の福音書の日課は、イエス様とニコデモの対話から始まっています。ニコデモと言う人はファリサイ派の人であり、またユダヤ議会の一員でした。彼はイエス様の行う様々なしるし、すなわち奇跡を見て、イエス様は神が遣わされた偉大な教師であると考えていました。しかし、すでにイエス様に対するユダヤ議会の反感が生まれていたので、ニコデモは人目をはばかり、夜ひそかにイエス様を訪ねたのです。

 イエス様はニコデモのあいさつをよそに、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言いました。人間の心の中を見ることができるイエス様は、ニコデモがどんな問いを持ってご自分のもとに来たのかを知っていて、単刀直入にその問いに答えられたのです。

ニコデモは、人はどうしたら神の国を見ることができるのか、すなわちどうすれば神の国に入る事ができるのか、ということをキリストに尋ねようとしていたのです。それは「人はどうすれば「永遠の命」を得ることができるのか」という問いと同じです。

ユダヤ人にとって、神の国に入ること、永遠の命を得ることは最も大切な人生の目的でした。神の国に入るということは、その人が神によしとされ、神に受け入れられる、ということだからです。反対に、神の国に入れない、ということは、その人の生が神によって否定される、ということだからです。

聖書は「死」というものを決して「自然現象」である、とは教えていません。死は人間の罪の結果として起きるものであり、人間だけでなく、この世界も滅びの中に置かれてしまった、と教えているのです。しかし神のみ心にかなう人には命が与えられる、とも聖書は教えています。

ニコデモは神に受け入れられるために、神の戒めを厳格に守り、正しい道を歩もうと努めました。彼は全ユダヤ人の中から選ばれた七十人からなる最高議会の一員ですから、人々の尊敬に値する人物であったことが分かります。

しかしニコデモには「わたしはきっと神の国に入ることができる」という確信がありませんでした。ですからこの問題について、イエス様に聞いてみようと思ったのです。

●霊によって生まれた者

 ニコデモは、イエス様が語られた、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」という言葉にとまどいました。しかし、ここでイエス様が語られた「新しく生まれる」という言葉は「上から生まれる」という意味です。それは「神によって生まれる」ということなのです。

イエス様は、「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」(3:6)とニコデモに語っています。聖書では「肉」という言葉は、生まれつきの人間性を指す言葉です。この古い人間性に基づいてどんな善い行いをしようとしても、それによって神の国に入ることはできない、とイエス様は断言されたのです。

 わたしたちは、人から後ろ指をさされるようなことをしないで、できる限り正しく生きようとしますが、心の中に沸き起こる怒りや、傲慢、妬み、欲望をなくすことはできません。わたしたちはその罪を抑えなければなりませんが、それで罪が消えるということではありません。

 キリストはどのような人々によって十字架に追いやられたのでしょうか。それは、神を知らないならず者ではなく、「長老、祭司長、律法学者たち」によってでした。これは先ほどお話した最高議会を構成していた人々、すなわちユダヤ人の中から選りすぐられた最良の人々でした。この人々によって、キリストは罪がないにもかかわらずひどい扱いを受けて殺されたのです。

 どんなに立派に見えても古い人から永遠の命は生まれません。人間の修行や努力ではなく、人間の内に神による新しい創造が起きなければならないのです。

 今日の旧約聖書の日課、そして使徒書の日課では、アブラハムの信仰について教えています。年をとっていたアブラハム、子どもを産むことができなかった妻のサラに与えられた約束は、「あなたは多くの国民の父となる」と言うものでした。それはアブラハムたちが持っていた能力ではなく、人間の可能性を超えた神の働きによるものでした。それは、わたしたちにおいても、「神は、罪のために死ぬべきものとなったわたしの内に、新しい命を与えてくださる」ということを教えているのです。コリントの信徒への第二の手紙五章一七節で、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と語られている通りです。そこにはもう人間の誇りはなく、神への感謝があるだけです。

●主を仰いで救いを得よ

イエス様は、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(3:8)と語っています。この「風」は「霊」と同じ言葉です。人は神の霊によって新しく生まれるのです。

この「神の霊」という「風」は「思いのままに吹く」と、イエス様が語られた時、それは「気ままに吹く」、と言うように聞こえます。しかしこれは「その意図するところに吹く」という言葉で、決して気まぐれに、と言う意味ではありません。

わたしたちは今では気象学の知識によって、「風が吹く法則」というものを知っています。それは、「風は気圧の高い所から低いところに吹く」という法則です。聖霊という風も、高ぶる人にではなく、へりくだる人に向かって吹きます。イザヤ書57章15節にこうあります。

「・・・わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる。」

それでは、わたしたちはどのようにしてへりくだり、神の命を受けるのでしょうか。それはわたしたちがイエス・キリストの十字架のもとに来て、十字架の上のキリストを仰ぐ時です。わたしたちはそこに、神の子を十字架につけたこの世の罪、またその世の一人であるわたしの罪を見るのです。そして神の前に心を砕かれるのです。

しかし、もしイエス・キリストの十字架が、わたしの罪びととしての姿を示すためだけのものであれば,わたしたちはだれひとり十字架を仰ぎ続けることはできません。イエス・キリストの十字架は、わたしたちの罪を示すだけではなく、その罪を進んでご自分の身に引き受けられた神の子の姿を示しているのです。

イエス様は、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(3:14,15)と告げておられます。神の前での謙遜とは、自分の内に永遠の命を得る力がないことを認めるとともに、わたしの罪を負って下さった神の御子を通して赦しと命を与えてくださるという、全能の神の真実な言葉を信じる、ということです。神の使いがアブラハムの妻サラや乙女マリアに語ったように、「神にはできないことは何一つない」からです。

わたしたちはキリストの十字架を見上げてこう祈りましょう。 「神様。わたしの中には救いと命を生み出す力はありません。わたしにあるのは滅びだけです。しかしあなたはわたしの罪を御子のものとして下さり、御子の命を与えると約束しておられます。どうかそのお言葉どおりこの身になりますように」。

その時、神の霊が注がれ、あなたの中に、神を「愛する父」と呼ぶ、新しい命が生まれるのです。

「地の果てのすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ。」(イザヤ45:22)

わたしたちはこれからも十字架のキリストを仰ぎましょう。そこに示された神の真実に応えることだけを神はわたしたちに求めておられるからです。

「荒野の誘惑」

マタイによる福音書4章1-11節

四旬節第1主日の説教

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

●悪魔に敗れたアダム

今日の旧約聖書の日課では、最初の人間であったアダムとその妻が、蛇の誘惑に負けたことが書かれています。

創世記の一章、二章を読むと、神様が人間に対して多くの恩恵を与えてくださったことがよくわかります。神様は人間に心と理性を与え、また他の造られたものを治める力もお与えになりました。神様は人間をエデンの園に置きましたが、そこには神様が植えられた様々な色美しい、またおいしい実をつける果樹がありました。神様は人間に、どの木からも自由に食べなさい、と言われたのです。

しかし神様はただ一つのことを禁止されました。神様は園の中央に二本の木を生えさせられました。一つは命の木、もう一つは善悪の知識の木です。神様はそのうちの一つ、善悪の木からは取って食べてはならない、と命じられたのです。 

なぜ神様は人間に対して、背く危険のある戒めを与えたのでしょうか。それは、人間は他の被造物と違って、機械的に、また無意識に神に従うのではなく、自分から進んで神様に従うように造られたからです。神様は人間が神から命じられた、たった一つのことを守ることで神様と人間の境を守らせたのです。人間はその神様の言葉に応えて生きる人格的存在として造られたのです。

人間がその木を見る時、自分が特別なものとして造られていることを覚えなければならなかったのです。また「園の中央にある一番大切なものが禁じられている」と考えることはできません。園の中央には食べても良い「命の木」も植えられていたからです。

しかしそこに蛇が登場します。蛇は「野の生き物」と書かれていますから、蛇イコール悪魔ではなく、蛇は悪魔の道具として使われたのではないかと思うのです。蛇は人間に近づき、神様が人間に不当な制約を課していると、人間の味方であるかのように装って神の戒めに背かせたのです。

全人類の頭(かしら)であったアダムが悪魔の誘惑に負けたことにより、その子孫はすべてアダムの性質を受け継ぐようになりました。すなわち、すべての善いものを与えてくださる神を愛し、敬うのでなく、常に自分の都合や欲望を中心に生きる者になってしまったのです。そしてそのような自己中心の生き方は他の人との関係も破壊するようになったのです。

わたしたちは人前では正しい者のようにふるまっていても、自分の内にある悪い思いを知っています。ですから無力な偶像は気軽に拝むことはできても、まことの神は遠ざけています。神の言葉を聞こうとしないで、神から与えられた知恵や力をひたすら自分のために使って生きるようになったのです。

●悪魔と戦うキリスト

悪魔の最大の目的は、人間に罪を犯させ、神から離してしまうことでした。悪魔は自分に対する神の裁きを恐れて、人間に罪を犯させ、自分の支配の内に置き、神の裁きを逃れるための「盾」としたのです。「わたしを裁くなら、同じ罪を犯した人間も裁くべきではないか」と訴えるのです。しかし神様は、人間をもう一度神様のもとするために、救い主を送ってくださいました。それが人となられた神の子、イエス・キリストです。 

イエス・キリストは人間と同じ姿になりました。人間と同じということは、飢えの辛さを知り、痛い思いも苦しい思いもされる、ということです。人間の感覚に働きかけてくる誘惑も経験される、ということです。イエス様はそのような人間の立場において悪魔と戦うために、神の霊によって荒野に向かわせられたのです。

悪魔は、荒野で飢えを覚えていたイエス様に、目の前の石をパンにかえたらどうか、と持ちかけました。それはメシアの働きのために与えられている力を自分のために使ったらどうか、という誘惑でした。でもイエス様はアダムとは違いました。イエス様は悪魔に対して「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と、自分の思いよりも神の言葉を優先されたのです。

また悪魔は、自分が本当に神の子で、どんなときにも神様が守ってくださるかどうか、試してみたらどうか、と持ちかけました。それは、たとえしるしを見なくても、神様はご自分に従う者を守ってくださる、という神への信頼を失わせるための誘惑でした。

 そして三つ目の誘惑は「あなたを世界の王にしてあげよう」という誘惑でした。そうなればこの世のすべての人があなたに服従するでしょう。それはメシアとなる近道ではないか、という誘惑です。しかしイエス様はその誘惑も退けました。イエス様はただひとり、人間の歴史が始まって以来、誰も勝つことができなかった悪魔の誘惑を退けられたのです。

しかしこの戦いはイエス様の生涯にわたる、もっと大きな誘惑、また試練との戦いの始まりでした。

●新しいアダム、イエス・キリスト

イエス様はなぜ厳しい悪魔の試練に会われたのでしょうか。イエス様をこの世に遣わされた父なる神様の御心は、イエス様があらゆる誘惑と試練に打ち勝って、十字架への道を歩み、そこで神様に完全に従い抜いた体と命を、わたしたちのためにささげる、ということだったからです。その救いを受け入れた人は悪魔の支配から自由になります。悪魔はそのことが分かっていて、あらゆる場面で、その苦しい道を選ばないようにと、イエス様に対して働き続けたのです。

「もし神の子なら」という悪魔の言葉が繰り返されていますが、のちに十字架の上で苦しむイエス様に向かって人々が「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(マタイ二七:四〇)と嘲りました。極限まで苦しんでいたイエス様にとって、この言葉は最も厳しい最後の誘惑の言葉でした。悪魔は何としてもキリストを十字架から降ろしたかったのです。しかしイエス様は最後まで父なる神様の御心に従い抜かれたのです。

イエス・キリストは、神への不従順によって全人類を罪に陥れたアダムに対して、悪魔に打ち勝った新しいアダムです。そして、この新しいアダムを信仰によって受け入れる人は、古いアダムに結ばれているだけでなく、十字架の上でわたしたちのすべての罪を飲み込み、そして新しい命に復活された新しいアダム、イエス・キリストに結ばれるのです。今日の使徒書の日課であるローマの信徒への手紙5章19節に、「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。」と述べられているとおりです。

わたしたちの地上の歩みはなお続いています。悪魔の誘惑や試練は神から離れている人ではなく、神様を信じ、神様に従おうとする人にやってきます。すでに神から離れている人を誘惑する必要はないからです。

悪魔は、あらゆるこの世の好ましいものと引き換えに、キリストから離れるようにわたしたちを誘います。また反対に厳しい試練によってわたしたちを神から引き離そうとするのです。ですからわたしたちは絶えず「誘惑に陥らせないでください」と祈らなければなりません。勝利者であるキリストを見上げ、キリストがみ言葉によって誘惑に気付かせ、またそれに打ち勝つ力を与えてくださるように祈りたいと思います。

「キリストの変容」

マタイによる福音書17章1-9節

主の変容主日の説教

六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

●主の山に上ろう

今日の福音書は「六日ののち」という言葉で始まっています。ルカによる 福音書では「八日目に」とあります。これは数え方が違うからで、「一週間後」ということです。

では一週間前には何があったのでしょうか。フィリポ・カイザリヤの町で、ペトロがイエス様に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と、信仰を告白したのです。するとイエス様は、「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と弟子たちに打ち明け始められたのです。

弟子たちはその言葉に衝撃を受けました。ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」とイエス様をいさめました。イエス様はそのペトロを「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者だ」と叱ったのです。

 それからずっと弟子たちは重苦しい空気の中にいました。一週間が経ち、イエス様はペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人を連れて高い山に登りました。すると山の上でイエス様の顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなったのです。それはイエス様に対して「あなたは生ける神の子キリストです。」と告白したペトロの信仰が正しいことを示すものでした。

この出来事はイエス様が苦しみを受け、殺される、という言葉に驚き、おびえていた弟子たちにとって、どんなに励ましとなったことでしょうか。

弟子たちと同じように、わたしたちも時々神様のお考えが分からなくなってしまい、悩むことがあります。しかし神様はわたしたちの疑いや悩みや疑問に必ず答えてくださいます。

旧約聖書の詩篇七三篇には、アサフと言う人が、「なぜ神を侮る人々が栄え、わたしはこのように苦しんでいるのか」と、この世の不条理を嘆いた言葉が記されています。そして、「ついに、わたしは神の聖所を訪れ 彼らの行く末を見分けた」と記されています。彼は神の聖所で、それまで見えなかった将来を見る信仰を与えられたのです。

わたしたちにとっての「聖所」、また「高い山」とは「礼拝」です。この世での一週間の歩みの中で、様々な問題にぶつかり、疑いや迷いに陥っても、わたしたちはここでイエス様によって目を開かれ、新たな力を受けてまたこの世に遣わされてゆくのです。

●イエスは神の愛する子

弟子たちが見ていると、光輝くイエス様のそばにモーセとエリヤが現れ、イエス様と語り合ったのです。モーセはイスラエルをエジプトから救い出し、シナイ山で神からの律法を受け取った人です。エリヤも神の奇跡によって悪い王と対決した英雄的な人物です。イスラエルの人々が最も尊敬するこの二人がイエス様と一緒にいるのを見た弟子たちは、この素晴らしい光景がいつまでも続くようにと願いました。それでペトロはイエスとモーセとエリヤのために、ここに仮小屋を三つ作りましょう、と言ったのです。

ところがペトロがそう言っているうちに、光り輝く雲が彼らを覆いました。そして雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という神様の声が聞こえたのです。 

神様はイエス様を「愛する子」と呼びました。モーセとエリヤは優れた人々でしたが、「神の子」とは呼ばれていません。彼らは、やがてこの世に遣わそうとされていた救い主を予告する務めを神様から与えられた神の僕たちです。その救い主とはペトロが告白したように、「生ける神の子」であるイエス・キリスト」なのです。

イエス・キリストの働きは、神に愛された御子にしかできない働きでした。それは神の子の命、すなわち罪がなく、限りなく尊い命をわたしたちの罪の償いとしてくださり、それによってわたしたちを神の国に導いてくださる、という働きです。 

この一週間前にイエス様が予告された通り、イエス様は人間の敵意を受け、殺されるためにこの世に来られたのです。しかし受難を予告したイエス様は、その死から三日後の復活についても告げました。イエス様は三日目に復活し、ご自分の死が神の子の死であったことを明らかにされたのです。

このように、救いを成し遂げることができるのは、栄光に満ちた神の御子イエス・キリストだけであり、決してキリストをモーセやエリヤと同列においてはならないのです。また、ご自分の苦難と死を予告されたイエス様の言葉が、どれほど人間の思いに反していても、神様が「これに聞け」と命じられ たイエス・キリストの言葉を最も大切にしなければならないのです。イエス様を信じるといいながら、イエス様の言葉を受け入れないで、十字架と復活による救いを否定してはならないのです。

●わたしたちに触れてくださる神

さて、「これはわたしの愛する子」と言う神の声を聞いた弟子たちは喜んだでしょうか。いいえ、その反対に弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、「非常に恐れた」のです。

「神がいるなら見せて欲しい」などと言う人もいますが、聖書は「神を見た者は死ぬ」と語っています(出エジプト記33:20)。罪を持つ人間は神の光に耐えられないからです。預言者イザヤも神殿で神の栄光に接した時、「災いだ。わたしは滅ぼされる」(イザヤ6:4)と言ったのです。

イエス・キリストの神としての栄光も同じです。黙示録1章17節には、より大いなるキリストの輝きを見た弟子のヨハネが、キリストの「足もとに倒れて、死んだようになった。」と記されています。

しかし、イエス様は神の声を聞いて恐れ、地にひれ伏している弟子たちに近づき、彼らに手を触れて「起きなさい。恐れることはない。」 と言われたのです。

 福音書にはイエス様の「近づく」、「手を触れる」という行為や「起きなさい」、「恐れるな」という言葉がいくつも記されています。それらはイエス様のお働きを示す特徴的な言葉です。

旧約聖書では、罪びとは聖なる物に触れることはできませんでした。まして神ご自身に触れることなど決してできません。聖さと罪とは相容れないからです。しかし人となられたイエス様は、ご自分を信じる人々に手を触れてくださったのです。それは、わたしたちと同じ肉体をまとわれたイエス様において人の罪が負われているからです。人となられたイエス様は、わたしたちを赦し、神の前に恐れなく立たせてくださる方なのです。 

イエス様が語られた「起きなさい」という言葉には「復活しなさい」と言う意味もあります。

イエス様は今日もわたしたちに近づき、触れてくださいます。とりわけ、聖餐式はイエス様がわたしたちに触れ、罪を赦してくださる時です。そして「新しい命、復活の命を受け、恐れずに生きてゆきなさい。」と語ってくださる時なのです。

今日、これからいただく聖餐を通し、赦しと命と平安を与えるために近づいて来られるイエス様に触れていただきましょう。

イエス様の歩みは、この山上での変貌から、苦難の歩みへと向かいます。今年の四旬節も、イエス様がわたしたちのためにして下さった救いの御業を、いっそうの驚きと感謝をもって思い起こす時にしたいと思います。そして神さまへの愛と御子への愛が深められるよことを願いながら過ごしたいと思います。

「律法の中心は愛」

マタイによる福音書5章21-37節

顕現後第6主日の説教

 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」 

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。 0しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。

地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

●思いと言葉と行いによって犯す罪

今日のイエス様の教えから学ぶことは、わたしたちは行いによる罪だけでなく、わたしたちの言葉において、また思いにおいて犯す罪も問われ、また裁かれるということです。

ユダヤ人たちは十戒の「殺してはならない」という戒めをよく知っていましたが、イエス様は、「兄弟に対して腹を立てる者は誰でも裁きを受ける」、と教えたのです。

しかし、イエス様はここで旧約聖書にはない、まったく新しいことを語られたのではありません。たとえば、レビ記19章17節には「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。」と命じられています。また十戒の最後は「隣人の家、隣人の妻、隣人の家畜をむさぼってはならない」という掟ですが、「むさぼる」というのは「他者のことも考えないほど欲する」という心の状態です。このように旧約聖書は人間の心の在り方まで戒めています。イエス様は、ともすると外面的に受け取られていた聖書の戒めの本当の意味を教えられたのです。

現代のわたしたちも、「罪を犯す」とは人殺しとか窃盗のような、形に現れた犯罪のことと考えがちです。しかし犯罪は手や足が勝手に動いてしてしまうことではありません。わたしたちの心の中にある怒り、憎しみ、悪い欲望から始まります。悪や不正に対して怒りを覚えることは罪ではありません。ここでの「怒り」とは自分に不都合なことをした兄弟に対して、罪から救うために愛をもって関わるのではなく、腹をたて、恨み続けることです。

またイエス様は「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」とも語っています。「愚か者」という言葉は「空しい」、とか「価値がないという意味です。相手に「お前は価値のない人間だ」と言うことよってわたしたちは兄弟、つまり本来助け合って生きてゆかなければならない人を傷つけるだけでなく、その人を造られた神をも侮辱しているのです。 

わたしたちはしばしば「どうして人間は戦争という愚かなことをするのだろう」とか「どうしてこの世から犯罪が無くならないのだろう」と考えます。しかし戦争や犯罪は他者に対する怒りや欲望、人間軽視の心から生まれるものです。それこそ罪の源であり、罪そのものなのです。ですから「罪のない人はいません。すべての人が悔い改めなければならないのです。

●神と和解しなさい

イエス様はわたしたちの根深い罪の現実を示しておられますが、それはわたしたちを神との和解に導くためです。今日の聖書の中でイエス様は、「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」 と語っておられます。

このイエス様の言葉は「もし、そういうことになったなら」というように聞こえますが、これは仮定の話ではなくて、「あなたを訴える人とできるだけ早く和解をしなさい。あなたが道の途中にいる間に」という言い方です。このイエス様の言葉を聞いている人々、そしてわたしたちもみな、神様から罪を訴えられているのです。今まで犯してきた罪、今も犯している罪、兄弟に対して怒るという罪、おごり高ぶって神を侮る罪のゆえに受ける裁きに向かって歩んでいる。それがわたしたちの人生だというのです。

しかし神様はわたしたちを訴えておられるだけではなく、わたしたちと和解しようとされています。神様は御子であるイエス様を送ってくださいました。それは言葉の上での赦しだけでなく、わたしたちが犯した罪の代償を実際に支払ってくださったのです。コリントの信徒への手紙二の5章19節にこう語られています。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」

今、わたしたちがこうして生かされているのは、わたしたちが神による和解の福音を聞いて、それに応えるためです。ですからイエス様が言われるように、早く、まだ間に合ううちに、この和解を受けなければならないのです。自分の命が明日どうなるかは誰にも分らないからです。パウロは続けてこう言います。「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」

今日わたしたちはこの和解の福音を聞き、自分の罪を認め、その和解を感謝して受け取るのです。

●律法の中心は愛

今日最後に覚えたいことは、神の和解をいただいたわたしたちは罪の誘惑に負けてそれを失ってはならないということです。イエス様は続く二七節以下でこう教えておられます。

「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

ある時、リビングバイブルの英語版を読んだとき、「誘惑」という言葉を「ルアー」という言葉で表現している箇所がありました。「ルアー」という言葉は、「誘惑」とか「おびき寄せる」という意味の言葉ですが、釣りに使う擬似餌のことでもあります。魚にとっては、おいしい餌に見えるものに釣り針がついていて、魚がそれを飲み込むと、もうその釣り針から逃れることはできません。罪の誘惑も同じように、わたしたちにとって好ましいものに見えても、わたしたちをキリストから引き離し、悪魔のもとにとらえてしまう恐ろしい罠になります。ですからイエス様は「たとえあなたにとって右目のように、また右手のように大事に思えても、それがあなたに罪を犯させ、あなたを神からから引き離すなら、それを切り捨ててしまいなさい」と教えているのです。

人が悔い改めるなら、神様はどんな罪でも赦してくださいます。それでわたしたちは、その気になればいつもでも悔い改めることができると思い、悔い改めをしないなら、罪は悔い改めることができないところまでわたしたちをキリストから遠ざけてしまうことがあるのです。

イエス様はこのように罪のもたらす深刻な結果について語っておられますが、わたしたちがイエス様を捨てない限り、イエス様もわたしたちを決して見捨てません。またイエス様は決してわたしたちに律法の重いくびきを負わせてようとしているのではありません。悔い改めるわたしたちの罪を何度でも赦し続けてくださり、また聖霊を与えて、わたしたちの心に神と兄弟姉妹、そして隣人を愛する心を育てていてくださるのです。「愛」は隣人にとって不利益になることはしないで、最善のこと、益となることをしたいと願います。ですから愛は律法の中心であり、律法を完成するものです。教会讃美歌365番に「愛なるみ神にうごかされて、愛する心は内に育つ」とありますが、神様はキリストによって示された愛の内にわたしたちを招いてくださり、その愛の中でわたしたちを育ててくださるのです。神との和解のためにご自分をささげてくださったキリストの愛に包まれていることをいつも思い起こし、私たちの内にも愛が生まれることを祈り求めたいと思います。

「地の塩、世の光」

マタイによる福音書5章13-20節

顕現後第5主日の説教

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

●「あなたがたは地の塩」

山上の説教で、先週の箇所に続いてイエス様が語られたのは、「あなたがたは地の塩である」という言葉でした。

古代から塩は貴重なものとされてきました。給料をあらわすサラリーという言葉は、ラテン語で「塩」という意味の「サラリウム」に由来します。塩は賃金として使われていたのです。 

塩は調味料としても重要ですが、それ以上に、人間でも動物でも塩がなければ生きられない、ということで貴重なのです。

 また、塩は食べ物が腐らないようにします。イエス様が、あなたがたは地の塩である、といわれるとき、それは「あなたがたは『地』すなわちこの世界の腐敗を防ぐ大事な働きをしているのだ]と言っておられるのです。     

聖書は、生まれつきの人間性を「肉」と呼んでいます。人間性というものはいつも真実や公正よりも自分の欲望に傾き、腐ってしまうものです。よく「権力は人を腐敗させる」と言われますが、そうではなく、わたしたち人間がもともと持っている本性が権力を持つことによって表に現れてくるのです。

それではイエス様の弟子たちに塩味をつけるものは何でしょうか。それは人間の中にあるものではなく、外から、神の世界から来るものであり、キリストを通して語られる神の言葉です。

塩味を含めて、味には五種類あると言われています。甘味、酸味、苦味、旨味、塩味です。そして塩味以外の味はすべて自然の食べ物の中にあります。甘味、酸味、苦味、旨味は果物や野菜からとることができます。しかし塩味だけは自然の食材の中にはありません。塩味は食材の外から味付けられなければならないのです。同じように、イエス様の弟子たちに塩味をつけるのも人間世界の外から語られる神の言葉です。

教会は歴史の中で多くの間違いを犯しました。しかしイエス様のみ言葉に生きた人々によって、この世が間違った考えに支配され、腐ってしまうことがないように守られてきたことも事実です。

イエス様の恵みを知った人は、天の父である神を愛する者となり、神に忠実に生きる者でありたいと思います。目に見えない神に対し真実なものでありたいと願います。いつの時代にもイエス様の言葉に従い、正しい良心に従って生きた人々がいたのです。神様を愛するキリスト者が神の言葉に生かされ、家庭や社会にいて正しく行動することで、家庭や社会が守られてゆくのです。

●「あなたかたは世の光」

またイエス様は「あなたがたは世の光である」と語られました。

イエス様の時代のイスラエルの家は、窓が小さくて部屋の中ではランプをともさないと暗かったそうです。この「家」とは人間が住む「世界」をあらわす言葉でもあります。

イエス様はヨハネ福音書で、「わたしは世の光である」と語られています(ヨハネ8:12)。この世界は神からの光を避け、罪という闇に覆われています。わたしたちはこの世界の中で天の方向が分からずにさまよっていました。イエス様はそのような世界に来られ、神様の恵みを見えるようにあらわしてくださいました。ですからイエス様の光に照らされたわたしたちも神の恵みの光を輝かすのです。

イエス様は「ともし火をともして枡の下におくものがいるだろうか」と言われました。そんなことをすれば火は消えてしまいます。同じようにわたしたちも人を恐れて光としての責任を果たさないなら、やがて信仰の火は消えてしまいます。

わたしたちは押し付けがましく「わたしはキリスト者です」と言いふらす必要はありません。しかし、わたしたちがキリストに従う者であることを告白すべき時に、それを隠すようなことがあってはなりません。

またわたしたちは神様からの一方的な愛と恵みに生かされていることを知った者として生きなければなりません。神様への感謝を言葉でも表し、行いでも表わすのです。

イエス様は「あなた方の立派な行いを見て」と言われましたが、この「立派な」という言葉には、「良い」、という意味とともに「美しい」とか、「魅力的な」という意味もあります。キリスト者の行いは、御子を与えてくださった神様への感謝と愛が原動力になっています。ここから、困窮している人々のために報いを求めないで仕えるという無償の愛の業が生まれるのです。

そして、このように光を人々の前に輝かすのは、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」とイエス様は教えられました。キリスト者の善い行いとは、人々が「あの人が信じている方はきっと善い方に違いない」と、わたしたちの上におられる方を見あげるような生き方のことです。キリスト者のそのような行動こそ、神がどのような方なのかをもっともよく語り、示すものです。暗闇に迷っていた人々はそれを見て、神がおられる天の方向を知ることができるのです。

●地の塩、世の光として生きる

イエス様はキリスト者の務めを「地の塩」、「世の光」という二つのたとえで話されました。この二つは対照的です。塩は食べ物の中に入り、見えなくなることでその役割を果たします。同じようにキリスト者も社会の一員として、他の人々の中に溶け込んで生活をしています。この世から孤立していたら「地の塩」としての働きはできません。

しかし、わたしたちは「世の光」でもあります。光と闇とは決して混じり合うことはありません。人を恐れて自分がキリストに属するものであることを決して隠してはならないのです。イエス様は、わたしたちと全く同じ、普通の人として、すべての人とせしました。同時に神の御心を語ることにおいては決してこの世のどんな力にも妥協しなかったのです。

今日の日課の最後のところで、イエス様は「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と言われています。これは正しい行いの数や量について語っておられるのではなく、その「質」の違いについて語っておられるのです。

キリスト者の義さとは、自分よりも悪い人を批判し、共に生きることを拒むようなファリサイ派の義しさとは違います。自分の正しさに頼り、それを誇る人ではなく、神の赦しと憐れみを受け、心から神を愛する者として生かされている人こそ、神の国にふさわしい者であるとイエス様は教えられたのです。

イエス様に出会い、イエス様を受け入れたわたしたちは天の国に迎えていただいています。でもわたしたちがなおこの世界で生かされているのは、イエス様からいただいている「地の塩、世の光」としての務めを果たすためなのです。

イエス様はここで「あなたがたは地の塩である、世の光である」と言っておられます。つまり、「わたしと一緒にいるあなたがた、わたしの言葉を聞いているあなたがたは、すでに地の塩、世の光なのだ」と言われているのです。わたしたちは自分の力ではなく、イエス様の語ってくださるみ言葉を聞き、またイエス様の愛に照らされて世の光とされるのです。

現代の日本では、キリストの光はとても小さく見えます、しかし光は小さくても、闇の中では必要なものです。むしろや網が深ければ深いほど、小さな光はなくてはならない光、天の方向が分からずに守っている人々に、神への道を照らす大切な光なのです。わたしたち一人ひとりは小さくても、この世界では大切な光です。わたしたちがこの世になくてはならない地の塩、世の光として歩むことができるように、これからも神様の恵みの言葉を聞き続けてゆきたいと思います。

「天の国憲章」

マタイによる福音書5章1-12節

顕現後第4主日の説教

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

●「群衆」と「弟子」の間

 今日読みました福音書の日課は、「山上の説教」と呼ばれ、五章から七章にわたってイエス様の教えが語られている説教集の冒頭の部分です。この個所は「八つの幸い」について語られていますので、昔から「八福の教え」とも呼ばれてきました。

 イスラエルに旅行するクリスチャンたちは、必ずと言ってよいほど、この山上の説教が語られたとされる場所を訪れます。そこはガリラヤ湖を見下ろす山の上で、「山上の説教の教会」と呼ばれる八角形の美しい教会堂があります。その中に入りますと、八つの壁にこの八つの幸いについてのキリストの言葉がひとつずつ、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語で記されています。

しかしわたしが 感銘を受けたのは、湖の近くのカファルナウムの町からこの山上の説教の教会にバスで移動した時でした。湖から山への道は思ったより長いつづら折りの道でした。その時考えたのは、「この山道を登ってまでイエス様の後を追ってきた人々は、それだけ切実にイエス様の話を聞きたいと思っていた人たちではないか」ということでした。

五章一節に、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」とあります。

今日の日課の前、四章の終わりには、イエス様がガリラヤ中を回って、諸会堂で教えたこと、多くの人を癒したこと、そして大勢の群衆が来てイエスに従ったことが記されています。イエス様が身近で行われる奇跡を見て、その話を聴きたいと思う人は多くいたことでしょう。しかしイエス様の後について山道を行く人は限られていたと思います。

イエス様の周りにいた「群衆」は、山の上では「弟子たち」に変わっています。この「群衆」と「弟子」の違いは、労苦をいとわずイエス様の言葉を聞きたいと願っているか、イエス様の言葉なしには生きられないと思っているか、ということにあると思うのです。イエス様を囲んでそのみ言葉に聞き入っている人々を指して、イエス様は「ここにわたしの母、兄弟がいる」(マルコ3:33)と宣言されるのです。またイエス様は、この山上の説教の中で、共にいる人々に「あなた方の天の父」という言葉を何度も語っておられます。キリストの言葉を聞く人、キリストの言葉を大切にする人が「神の御心を行う人」であり、「神の子」と呼ばれる人々なのです。

●「天の国憲章」

 今日の説教題を、「天の国憲章」としました。それはこの山上の説教が「神の国のマグナカルタ」すなわち神の国の大憲章」と呼ばれてきたからです。「憲章」とはその国の基本的な理念をあらわすものです。イエス様はここで、「天の国の国民はこのような人々であり、このような心で生きる人々である」と宣言をされているのです。

 イエス様は第一に、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と宣言されました。この「幸い」とは「祝福されている」という言葉で、神からの祝福を受けている、という意味です。その祝福とは天の国をいただくということです。それは単に、「死んだ後で天国に行く」ということだけではありません。聖書での「天の国」とは「神の国」をいい換えた言葉です。「天の国を受ける」とは、今すでに神の国の国民とされ、神の祝福の内に生かされている、ということなのです。

それではなぜ「心の貧しい人」が祝福されるのでしょうか。わたしたちの世界では反対に「心が豊かになること」が幸せである、と考えています。人々はそのために教育を受け、経済的な豊かさを求めています。しかし、財産、教養、知識など人間が持つどのような豊かさも、わたしたちを神のもとに導くことはできません。そうしたものは決して無用だとは言えませんが、わたしたちは往々にしてそれらが自分を豊かに知ると思い込み、それだけを追い求め、最も大切な神との関係を求めようとしないのです。

放蕩息子が父親を思い出したのは、彼が極度に貧しくなった時でした。財産のあるなしにかかわらず、また教養のあるなしにかかわらず、自分が神なしには決して心を満たすことができず、真の平安を持つことができたい者である、という自分の貧しさを知ることが大切なのです。

 二番目の幸いな人は「悲しんでいる人」です。これもわたしたち人間の考えとは正反対の教えです。誰だって悲しむよりは喜び、笑って暮らしたいと思うからです。しかし多くの場合、人間は深い悲しみの中で神だけが与えることができる慰めを見出すのです。しかしそれは「不幸に合わなければ神に出会えない」ということではありません。たとえ今わたしが平穏に暮らしていても、この世界には多くの悲しみがあります。自分だけ幸せであればよいと思うのではなく、その悲しみを自分の悲しみとして、神に救いと助けを祈るのがキリスト者の務めです。イエス様も「悲しみの人」戸呼ばれました(イザヤ53:3「口語訳」)。神の御子は人となられ、わたしたちの悲しみや痛みをご自分のものとして受け止めてくださったのです。ですからわたしたちもこの世界の悲しみを自分の悲しみとして神に助けを祈りたいと思います。その時、神様は必ず御国をこの世界に実現してくださる、という本当の慰めを与えられるのです。

●「柔和な人、義に飢え渇く人」

 イエス様は「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」と宣言されました。神の国の国民は「柔和な人」です。今の世界では、自分の知恵や地位を武器にして権利を主張し、人と争う人がいます。しかしイエス様は、神に従う人は柔和で忍耐強い人であると教えます。

 創世記にはアブラハムがロトに家畜を飼う土地を選ばせたことが記されています。ロトの叔父であるアブラハムは目上の立場でしたが、先ずロトに土地を選ばせたのです。神はロトと別れたアブラハムに現れ、「あなたに見渡す限りの土地を与えよう」と約束されました(創世記13:14)。また、アブラハムの子イサクも、苦労して掘った井戸の所有権を土地の人が主張した時、そこを離れて別のところに井戸を掘りました。当時は地境というものがはっきりしていなかったのです。しかしそこも奪われ、イサクは三度にわたって井戸を掘りました。その時神はイサクに現れ、彼を祝福されたのです(26:24)。 

イサクのように、世の利害のために力をふるって争うよりも、柔和で忍耐強く生きる人を神は祝福し、喜んで神の国を受け継がせてくださるのです。

 四番目にイエス様は、「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」とい宣言されました。イエス様のところに喜んでいった人々は自分たちが罪人であることを知っていた人たちでした。自分は正しい、と思っていた人々はイエス様のところに行っても、自分たちが評価されないばかりか、かえって隠された罪を指摘されて、怒ってイエス様のもとを離れました。またイエス様と一緒にいる罪びとたちと一緒にされたくない、という思いもありました。しかしイエス様は「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マタイ9:13)と語られました。イエス様は人間の心の中を見通すことができる方ですが、自分の正しさを主張する人以外の人に対して「お前の心の中は罪で満ちている」とは一度も言われませんでした。イエス様はそれを承知でこの世界に来られ、わたしたちと出会ってくださるのです。

 わたしは教会の中で生きることはとても幸せなことだと思っています。もし教会が「正しい人の集まり」でなければならないとしたら、わたしたちはみな偽善者となり、自分を正しく見せようとし、また兄弟たちの悪いことを指摘し、批判し合うことでしょう。しかし神の国の国民は自分の罪を知り、神に憐れみを求める人々です。その時人々はイエス様自身を赦しと命を与える命の糧として受け取るのです。

 今日は八つの幸いの内の四つをお話ししました。わたしたちもこのイエス様の言葉を心に抱き、これからも神の国の民としてふさわしい歩みを続けてゆきたいと思います。

「キリストの召し」

マタイによる福音書4章12-23節

顕現後第3主日の説教

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

「ゼブルンの地とナフタリの地、

湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、

異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、

死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

●闇に輝く光

 今日の日課は、今までは前半と後半の弟子たちの召命の二つの部分に分けて、二回の礼拝で説教されていました。二箇所が一つになることで長くなりますが、イエス様がどのような目的でペトロたちを弟子に招いたのかということが、よく理解できると思います。

 ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたエス様は、ヨハネが捕えられたことを聞いて、ガリラヤに退かれたと記されています。ヘロデは自分の違法な結婚をとがめたヨハネを牢に入れました。それは現代の権力者が、自分を批判する人を投獄するのと同じです。

 イエス様がそのことを聞いて「ガリラヤに退かれた」という書き方は、イエス様が自分の身に同じ危険が及ばないところに行かれた、と受け取ってしまいますが、この「退かれた」という言葉は「帰る」という言葉です。そしてガリラヤはヨハネを投獄したヘロデの領地です。つまりイエス様はヘロデの領地ではなかった南のユダ地方から、ヘロデの支配下にある北のガリラヤ地方に危険を承知の上で戻ったのです。

 それはなぜでしょうか。一つには、ヨハネと言う偉大な指導者が捕らえられて絶望している人々に神の言葉を語り、希望を与えるためでした。

 しかしさらに大きな理由は、今日の日課のイザヤ書にあるように、「異邦人の地、暗黒の地」と呼ばれていたガリラヤ地方に、真っ先に福音の光を照らすためでした。イスラエルの北にあるガリラヤはアッシリアに占領された歴史があり、異教の影響を受けていました。またキリストの時代にも、境を接している国からギリシャやローマの宗教や文化の影響を受けていました。

 多くの人に神の言葉を語ろうとするなら、ユダヤの宗教の本拠地であるエルサレムで宣教し、そこで多くの奇跡を行えばよい、と普通なら考えますが、イエス様はそうではなく、最も暗い所、霊的な光を必要としている人々に、真っ先に光を照らそうと考えられたのです。

 わたしたちの日本福音ルーテル教会は今年で宣教開始から一三〇年を迎えますが、最初の宣教地として選んだのが佐賀という土地でした。宣教が困難と言われていた保守的な町をあえて宣教開始の地としたのです。そこにはガリラヤで宣教を始めたイエス様に倣おうとする思いがありました。

●キリストの召し

 闇の中を歩む人々に光を照らす働きを始めたイエス様は、一緒にその働きを行う弟子を召されました。最初に弟子として招かれたのが、ガリラヤ湖で漁師をしていたペトロとアンデレの兄弟です。イエス様は彼らに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。 すると「二人はすぐに網を捨てて従った。」と書かれています。 

次にイエス様はヤコブとヨハネの兄弟も声をかけました。 するとこの二人も「すぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」と書かれています。

キリストに呼ばれた彼らが、大事な仕事の道具である網や舟を残して従ったことから、これは宣教のために献身した専門的な伝道者についての話のように見えます。しかしここではまたすべてのキリスト者の召しについて語られているのです。ヤコブとヨハネの兄弟たちが「舟と父を残してイエスに従った。」、とありますが、この「残して」という言葉も網を「捨てる」と同じ言葉です。これは文字通り仕事も親も捨てる、という意味ではなく、「その人にとって大切なものの順序が変わる」ということです。今までは家族を養う仕事が一番大事だった。しかしイエス様に出会ってからは、イエス様のお働きに仕えることが最も大切なものになった、ということなのです。それはイエス様と共に「人間を取る漁師」としての働きです。ここでの「取る」という言葉は、「生かす」という意味があります。神から難れ、この世の海の中に沈んでいる人々に福音の光を照らし、神の世界に救い上げるのです。その務めを、わたしたちもキリストから求められているのです。 

わたしたち日本人には、「宗教は人間のためにあるもの、人間の願いをかなえ、幸せにしてくれるもの」という考え方が根深くあります。しかし聖書が教える「救い」とはそのようなものではありません。聖書が教える救いは、神と人間とが本来の関係に戻る、ということです。

神様が最初に人間を造られた時、神様は人間に命を与え、この地上を治め、すべての造られたものを治めるという使命を与えました。「命」には「命令、使命」という意味もあります。命を受けることは使命を受けることなのです。しかし人間は神から離れ、死ぬべきものとなってしまいました。神様はキリストを遣わし、キリストを通して救いと命を与え、人間がもう一度神様が与えた使命に生きるようにされたのです。神がキリストを通してわたしたちに与えた新しい使命は、キリストと共に「すべての造られたものに福音を伝えなさい」(マルコ16:15)という務めです。キリストに救われて命を受けた者は、誰もが同時にこの主の召しを受けているのです。聖書には、キリスト者について、「救われる」という言葉よりも、この「召される」という言葉の方が多く用いられているyのです。

●キリストの体として

 イエス様はイスラエルの中の最も暗い所から宣教を始められた、とお話ししましたが、今の日本はどうでしょうか。確かに日本は先進国と呼ばれ、教育においても、科学技術においても進んでいます。しかし霊的にはとても暗いのではないでしょうか。昨年から統一協会の問題がマスコミで大きく取り上げられています。「霊感商法」が行われているのはこの日本だけです。それは日本人の精神的な土壌が強く作用をしているからです。

 明治の時代に日本に住んでいたラフカディオ・ハーンという人が「神国日本」という本を書きました。神国すなわち神の国の「神」とは死者のことです。ラフカディオ・ハーンは、日本という国は「死者に支配されている」という事実に驚きました。「先祖を敬う」という文化は日本以外の国にもあります。しかし日本では、先祖を祀らないと祟りがある」と考えます。先祖に毎日食事を供えるという習慣もそこから来ています。それは昔から続いている習慣なのだから続けなければならない、と深く考えずにその考えを親から子へと伝えています。しかしそのような根深い死者崇拝を背景として霊感商法が多くの家庭を苦しめているのです。

霊的な暗さはそれだけではありません。子どもたちは、親の愛を受けていても、永遠の命の希望を与えてくださる神の愛を知りません。先進国38カ国の中で日本の子どもたちの精神的幸福度はワースト2位だそうです。子どもたちも神の愛の光を必要としているのです。

このように考えると、今の日本こそまさに、「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民」と呼ばれる地であるといえます。イエス様はそのような社会に光を照らし、本当の希望を与えようとされています。そしてわたしたちをその働きに招いておられるのです。

今日の福音書の日課の最後に、イエス様がなさったお働きの内容が記されています。

「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」

ここで「諸会堂で教え」とるのは教会の教育的な働きです。また「御国の福音を宣べ伝え」とありますが、これは福音宣教です。礼拝で福音が公けに語られるために皆さんが奉仕をされ,礼拝に参加しています。説教壇に立つ人だけでなく、そこでわたしたちは一つとなって福音を語っているのです。また「民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」とありますが、これは社会に神様の無償の愛を示す働きです。このようなそれぞれの働きが、神の光を世に照らすための働きとなるのです。わたしたちは今年もそれぞれに与えられている賜物を使い、イエス様の体として、イエス様の働きに仕える群れとして歩んでゆきたいと思います。

「見よ、神の子羊」

ヨハネによる福音書1章29-42節

顕現後第2主日の説教

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

●「見よ、神の子羊」

 今日の福音書の日課で、最初に名前が出てくる洗礼者ヨハネは、キリストが来ることを予告して人々にキリストに会うための心備えをさせた人です。彼は自分の方にやってくるイエス様を見ると、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と言いました。

彼はこの少し前のところで、「わたしは荒れ野で『主の道をまっすぐにせよ』と叫ぶ声である」と語っています。キリストは「イスラエルの主」として来られる方だというのです.また別の福音書では、キリストは手に箕をもって麦と殻をふるい分け、殻を消えない火で焼かれる方、すなわち裁き主である、と告げています。

 しかし、初めてイエス様を迎えたヨハネは、イエス様を「神の子羊」と呼んでいます。それは、この言葉にキリストの働きについての最も大切なことが語られているからです。

 「神の子羊」という言葉を聞いて、皆さんは何を思い出すでしようか。

まず、出エジプト記に書かれている過ぎ越しの子羊のことを思い出すのではないでしょうか。イスラエルの人々がエジプトの奴隷になっていた時、神様はイスラエルの人々を解放するために、エジプト中の長子に死の裁きを下したのです。しかしイスラエルの人々もエジプトにいますから、エジプト人と一緒に裁きにあわないように、神はモーセに命じて、それぞれの家に一頭の子羊を用意させました。神様がエジプトに審判を下す日に、イスラエルの人々はその子羊を屠り、その血をそれぞれの家の入口のかもいと柱に塗りました。夜になって主の天使がエジプト中に裁きを行いましたが、羊の血が塗ってあるイスラエルの人々の家には裁きの使いは入りませんでした。それは子羊の血を見て、「この家ではすでにさばきが終わっている」とみなしたからです。死の使いがイスラエルの家の前を過ぎ越していったので、この日を「過越の日」と呼んで祝うようになりました。この日はイエラエルにとって最も大切な日となりました。そして皆さんもご存じのとおり、それから約千二百年後の過ぎ越しの日に、エス様は十字架にかけられ、死なれたのです。

 また、キリストが生まれる七百年前のイザヤ書には、民の罪を背負って死ぬ「主の僕」のことが書かれています。53章6節から8節にこう書かかれています。

 「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。」

 羊は毛を刈られる時も、また屠られる時も、鳴きわめくことはないそうです。そのような従順な性質が、いけにえにふさわしいとされたのです。

 それはイエス様においても同じでした。もしイエス様が十字架の苦しみの中で、一瞬たりとも後悔し、助かろうとしたら、わたしたちの救いは実現しなかったでしょう。しかしイエス様は、父なる神への従順のゆえに、そしてわたしたちへの愛のゆえに、最後まで苦しみを受けられたのです。

●「神である子羊」

 洗礼者ヨハネが、このイエス様を「神の子羊」と呼んだ時、それは、人間の側で備えた子羊ではなく、神様がわたしたちのために備えてくださった犠牲の子羊である、という意味があるでしょう。しかし、この「神の子羊」という言葉は「神である子羊」と読むこともできます。

 使徒言行録二〇章には、パウロがエルサレムに最後の旅をしようとしていた時、エフェソの長老たちを集めて語った言葉が記されています。パウロは28節でこう語っています。

「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」

 ここで、「神が御子の血で」と書かれている言葉は、新しい聖書協会共同訳では「神がご自身の血で・・・」となっています。もともとはこちらの言葉でしたが、「神の血」という言葉は,あまりにも生々しく、また人間の思いを越えているので、「神が御子の血で」というように「御子」という言葉を加えたのです。

しかし、わたしたちはイエス・キリストを「子なる神」と信じています。キリストは神ご自身であり、キリストの血は「神の血」なのです。

洗礼者ヨハネもイエス様が神であることを証ししています。彼はこう告げています。

「わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった・・・」(1:30,31)。

このヨハネの言葉は、そのままにとるなら事実に反しています。ヨハネの家とイエス様の家は親族どうしで、マリアはヨハネの両親の家に滞在したこともあり、お互いによく知っているのです。彼らはヨハネがイエス様の先駆者として生まれたことも知っていました。そしてヨハネはイエス様より半年早く生まれています。ですからヨハネが、「この方はわたしよりも先におられた」と言うのは人間として生まれた時のことではなく、イエス様が世の始まり前から居られた方である、ということをあらわしています。また「わたしはこの方を知らなかった」ということも、面識がなかった、ということではなく、「わたしたちには測り知ることができない方、人知を超えた方」という意味なのです。

このようにヨハネは、控え目な言い方で、イエス様が人間を超えた方であると語っているのです。キリストはまさしく「神である子羊として世に来られた方なのです。

●礼拝される子羊

神がわたしたちのために犠牲の子羊となり、その血を流された・・・。これはわたしたちの思い超えた話です。しかしそれはわたしたちが信じ、受け取らなければならない、最も大切な事実なのです。

わたしは一五年ほど前、フィンランドの信徒宣教師のご夫妻と一緒に働いたことがあります。その夫人の方が、ある家庭集会でこのヨハネによる福音書1章29節について語ってくれました。

「イエス様は、『世の罪』を負いました。わたしたちの罪が小さく見えても、それは世の罪なのです。しかし、またわたしたちの罪がどれほど大きくても、世の罪を背負われたイエス様は、わたしの罪をすべて背負い、取り除いてくださるのです。」

わたしはその言葉が深く心に響きました。確かにここでの「世の罪」は単数であり、あれやこれやの多くの罪のことではありません。この「世の罪」は「このわたしの罪」でもあるのです。

今、世界には争いがあり、紛争があります。酷いことをしている独裁者たちを見ると、「神様はなぜあのような悪人を早く罰しないのだろう」と思ってしまいます。しかし、忘れてならないのは、このわたしのうちにも同じ罪の根があり、それはキリストを十字架につけた「世の罪」と一つである、ということです。しかし、父なる神様は憐れみをもってわたしたちに忍耐され、最も大切な御子の血によって、すなわち神ご自身の尊い血によってわたしたちの罪を取り除いてくださったのです。わたしたちはこの血を家の戸口にではなく、わたしたち一人ひとりの内に受け取るのです。

黙示録5章11節に、「また、わたしは見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」とあります。6章には、その子羊が世を裁かれることが書かれています。しかし今、このあらゆる権威と栄光を受けるべき方、世を裁く方が、わたしたちの罪をすべて取り除く神の子羊として与えられているのです。

イエス様を指して「見よ、神の子羊だ」と言ったヨハネの証言を、人類にとって、またこのわたしにとって最も大切な言葉として受け取りたいと思います。そして神様とイエス様の、人知を超えたその愛の高さ、広さ、深さをさらに知る者になりたいと思います。今日、これからいただく聖餐も、深い感謝をもって受け取りたいと思います。


「イエスの洗礼、私の洗礼」

マタイによる福音書3章13~17節

主の洗礼日の説教

そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

●神が定めた洗礼

今日の福音書には、イエス様が初めて人々の前に現れ、ヨルダン川で洗礼を受けたことが書かれています。福音書にはそれまでのイエス様については多く書かれてはいません。なぜでしょうか。それはイエス様が他の人々とまったく同じように生活されたからではないでしょうか。貧しさや労働の苦しさ、家族の病気や愛する人を失った時の悲しみなど、わたしたち人間とまったく同じ経験をされたのだと思います。イエス様はすべての点でわたしたちと同じになり、わたしたちの弱さや苦しみを知っていてくださる方、同情することができる方になられたのです。

今日の福音書の中でも、イエス様は人々と同じ姿で現れました。このときたくさんの人々が洗礼者ヨハネから洗礼を受けていましたが、イエス様も他の人たちと同じようにヨハネから洗礼を受けようとしたのです。

ヨハネはイエス様が聖なる方だということが分かりました。それで、あわててイエス様に「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と言いました。するとイエス様は「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と答えられたのです。

この「正しいことを行う」とはどのような意味でしょうか。これは洗礼を受けるということです。洗礼は神様が定められ、命じられたものです。結婚を例にあげると、確かに互いに愛しており、信頼していることが大切です。しかし国によって定められている手続きをしなければ、正式に夫婦とは認められません。どの国であっても、夫婦と認められるためには必ずその国が定めた法的な手続きが必要です。同じように、洗礼も神様がお定めになった大切な手続きなのです。

イエス様がヨハネから洗礼を受けた第一の理由は、誰もが洗礼を大切にするためです。イエス様でさえ、洗礼を受けたのですから、誰も「わたしには洗礼は必要ない」と言える人はいないはずです。このようにイエス様はわたしたちに模範を示されたのです。

洗礼は、救いが人間の行いによらないことを教えています。洗礼を「受ける」という受け身の出来事であって人間の誇りはそこにはありません。この神の定めた手段を無視して、神への別の道を人間が作ることはできないのです。

●キリストと結ばれる洗礼

しかし、それでも「なぜ神のみ子であり、罪を持たなかったイエス様が罪のある人のようにヨハネから洗礼を受けられたのか」という疑問が残ります。

イエス様が洗礼をお受けになったのは、自分の罪を認めて洗礼を受ける人と一つになってくださるためです。わたしたちが罪を悔い改めて新しい心で神様に従ってゆこうと決心することは大切なことです。しかしわたしたちの悔い改めや決心は完全とは言えません。しかし、罪を悔い改めて洗礼の受けようとしている人々の中におられたイエス様は、洗礼を受ける時から弱いわたしたちと一緒にいてくださるのです。不完全なわたしたちをかばっていてくださるのです。洗礼を受けるということは、このようにイエス様と結ばれ、イエス様と一つにされるということです。

イエス様に結ばれるということは、先週もお話したとおり、イエス様の内で生きるということです。使徒パウロは、ガラテヤの信徒への手紙3章26節、27節で、

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」

と教えています。ここで「信仰により、キリスト・イエスに結ばれて」という言葉は、キリストの内へと信じる」という言葉です。キリストを信じて洗礼を受ける人はキリストの中に入り、キリストという着物を着ているのです。洗礼を受ける時、父なる神様はわたしたちを聖い御子の中に見てくださり、御子を通して見てくださるのです。イエス・キリストこそ、神様が木の葉の着物に代えてアダムとエバに着せてくださったあの皮の衣であり、またノアとその家族を神の裁きの洪水から救った箱船です。その中に入る者は救われ、新しい世界に導かれるのです。

このように、洗礼はイエス様と結ばれることですが、もう一つ大切なことがあります。それは洗礼はイエス様のからだである教会、すなわち神の家族の一員となる時でもあるということです。先ほどのガラテヤの信徒への手紙の続きでパウロは「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」と言っています。わたしたちがキリストの内で生きるということの具体的な姿は「教会の中で生きてゆく」ということです。病気や様々な理由で教会の集いに来れない方々もいます。しかし、だからと言ってその方々は教会の外にいるのではありません。わたしたちが家にいる時も教会の中にいるのです。そしていつも支え合い、助け合ってゆくのです

●イエス様に包まれて生きる

 今日の日課の終わりの方に、イエス様が洗礼を受けて水から上がると、すぐに神の霊が鳩のようにイエス様の上に降ったとが書かれています。そして

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

という神様の言葉が聞こえました。それは今日読んでいただいたたイザヤ書の預言にある言葉です。イザヤ書42章1節に

「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」

とあります。

またその後の2節から3節に、「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく・・・」という言葉があります。

それは実エス様と言う方は大声で街頭演説をして自分を宣伝することをしない、柔和で謙遜な方であるということです。

次に書かれている「葦」は、水辺に生えている竹のような草ですが、その葦に傷がつくとすぐにポキンと折れてしまいます。そイエス様は傷ついた葦のようなわたしたちの心、もうわたしみたいなものはだめだ、と自分で思ってしまうような時でも、心がくじけないように手を添え、再び立ち上がらせてくださる方です。それは「イエス様を知らない」と言ってしまい、激しく泣いたペトロに対するイエス様の姿を見ればよく分かります。イエス様はペトロに「お前は失格だ」と言わすに、彼をやさしく立ち直らせてくださったのです。

また、「暗くなってゆく灯心」というのは、くすぶって火が消えそうになっているランプの芯のことです。もしそうなればいったん火を消して、芯をととのえてから新しく火をつけた方が早いのです。しかしイエス様はちゃんと燃えることができないでくすぶっているわたしたちの心の火、信仰の火が消えないように両手でかばっていてくださるお方です。そしてもう一度明るく輝くようにしてくださるのです。そしてこのような人こそ、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神様は宣言されたのです。

先週はイエス様の素晴らしいみ名について聞きましたが、わたしたちをそのみ名に結びつけるのが洗礼です。

 礼拝堂にはいつも洗礼盤が置いてあります。これはわたしたちが洗礼を思い出すためです。洗礼のときからイエス様が一緒にいてくださる。そして今もわたしを守り、支え、生かしていてくださる、そのことを思い出すためです。そしてこれからもイエスの救いを覚え、その中で生き、またイエス様の言葉によって日々養われてゆくためです。

今年もわたしたちと一緒にいてくださる救い主イエス・キリストと共に歩む一年でありますように。

「その名はイエス」

ルカによる福音書2章15~21節

主の命名日の説教

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

●示されたイエスの名

みなさん。新年おめでとうございます。新しい年の初めの日を、教会は「主の命名日」として礼拝してきました。ユダヤでは、男の子が生まれて八日目に割礼を受けることが律法に定められており、またその日に名前を付けました。12月25日のクリスマスから八日目は1月1日ですから、この日が主イエスの命名日となったのです。

一年の最初の日が主の命名日になったのは偶然のことですが、それでもそれには大切な意味があると思います。それは、第一に、このイエスの名に、わたしたちにとって最も大切なことが示されているからです。

「イエス」という名は、天使がイエス様の誕生の前に父ヨセフに告げた名前で、「神の救い」という意味です。この名前は、天使が語ったように「ご自分の民を罪から救う」という働きをあらわしています。父なる神は、この方によってわたしたちの罪を赦し、永遠の命を与えると約束してくださいました。イエス様は人となり、わたしたちの代わりに罪の裁きを受けました。人間の罪は実際の歴史の中で犯されたので、罪の代償も現実の歴史の中で払われなければならないからです。

また、イエス・キリストは個人を救うだけではなく、やがてこの世界を正義をもって治めて下さる方です。この神の救いを伝えることが、聖書が書かれた目的であり、この神の救いを受け取るためにわたしたちは生かされ、この救いが伝えられるために世界はなお存在しているのです。「イエス・神の救い」という名前は、このようにわたしたちにとって一番大事なものを示しているのです。

この世に大切なものは多くありますが、わたしたちを永遠に救い、生かすのはこの名だけです。わたしたちは今日、この方を見上げ、そのみ名を心に刻むのです。 

イエスは神のみ子であり、最も偉大な方ですが、わたしたちにとって、とても親しい方です。この世では、地位の高い人には尊称や称号がつけられます。日本では今でも天皇の本名を公けの場で呼び捨てにしたら大問題になることでしょう。また多くの宗教の開祖や教祖も尊称や立派な法名で呼ばれます。そのように地位の高い人には決して気軽に近づけません。わたしたちからは遠い存在です。しかし、わたしたちは偉大な神のみ子を何の尊称をつけないで、親しみをこめて「イエス」と呼ぶことができるのです。誰よりも偉大なイエス・キリストは、また誰よりも謙遜で柔和な方です。最初にイエス様のもとに招かれたのは、当時もっとも社会的地位の低い羊飼いたちでした。それは誰でもキリストに出会うことができることを教えているのです。神様は、わたしたちが神の子を「敬して遠ざける」のではなく、親しく「イエス」と呼んで、いつもイエス様と共に歩むことを求めておられるのです。ですから今年も喜びをもってイエス様の名を呼び、イエス様と共に歩んでゆきたいと思います。

●神が付けた名

イエス様の名のもとに生きることは、最も確かなことです。なぜなら、イエスという名の名付け親は神であり、イエスの名に込められた神の意志は必ず実現するからです。

わたしたち人間も自分の子どもに期待や願いを込めて名をつけます。しかし、必ずしもその期待や願いどおりにならないこともあります。ルカ福音書に「ザアカイ」という徴税人のことが書かれています。ザアカイという名は「清い」という意味で、日本では「清」という名がそれに当たるしょう。ザアカイの親は、この子が神の前に清い人になるようにという願いを込めてその名前を付けたのと思います。しかしザアカイは名前通りの人にはならず、人々に嫌われる欲張りな徴税人になってしまいました。しかしイエス様に出会った時、彼はイエス様によって変えられ、本当に清い人となったのです。

昔から「一年の計は元旦にあり」と言います。一年の初めの日に目標を掲げ、計画を立てることは良いことです。しかし、わたしたちの人生は不確かであり、願いや期待はあっても、今年がどんな年になるのか、明日どんなことが起きるのかわかりません。しかしただ一つ確かなことがあります。それは神がこのイエスにおいてなさろうとしていることは、すべて実現する、ということです。ですから、わたしたちはわたしたちの人生をこの「神の確かさ」、すなわちイエスの名という土台の上に築いて行くのです。そしてこのように一年の初めの日にイエスの名を掲げることはとても大事なことなのです。 

●み名の中で生きる

それでは、わたしたちがイエスの名によって生きるということはどういうことなのでしょうか。

旧約聖書の中には、人間が天使や神の名をたずねるという話が何度か出てきます。それは、人が神の名を知ると、その神の名を使って他の人を支配できると考えられていたからだ、という説明を神学校の授業で聞いたことがあります。また、神の名を数多く繰り返し唱える祈りもあります。それらは異教的な考えであり、「神の名をみだりに唱える」ということの例です。

しかしわたしたちはそのようにイエスの名を用いません。イエスの名はわたしたちが呪文のように使うものではありません。先週の日課のヨハネ福音書1章(12節)に、「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」とあります。ここでの「言」とは世の初めからおられたキリストのことです。そして「その名を信じる」という言葉は、「その名の中へと信じる」という言葉です。「名」というものは、その名の持ち主のすべてをあらわすものです。その人の行いや言葉、つまりその人の働きのすべてを表わしています。 わたしたちがイエスの名を信じる、ということは、そのお働きを知り、その救いの内に生き、またイエス様の教えにとどまって生きる、ということなのです。

 わたしたちが今日、新しい年の初めにイエス様の名を記念するのは、この年もイエス様の名の中に、その御業とみ教えの中で生きてゆくという決意を新たにするということです。わたしたちには、これまでの人生で染みついた古い思い、自分では正しく見えても、神の御心とは異なる考え方があるかも知れません。しかし、わたしたちは自分の力で自分を新しくすることはできません。神の霊と共に働くキリストの言葉がわたしたちを新しくするのです。

「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」というヨハネ15章5節のイエス様の言葉は「わたしの内にとどまっているならば・・・」という言葉です。イエス様にとどまるということは、イエス様の愛の中で生き、イエス様の言葉によって常に新しくされてゆくということです。

ここでイエスの名によって生きた二人の例を紹介したいと思います。そのひとりは宗教改革者ルターです。ルターの著作を読むと、その文章の最初に「イエス」と書かれているものがあります。おそらくそれは、彼はこれから書くことがイエスの御心のもとで進められるように、という祈りであり、またイエスの助けによってこのわざを支えてください、という祈りだったのかもしれません。彼はいつもイエスによってその働きが導かれ、守られることを願っていたのです。

もう一人はそのルターを深く尊敬していた音楽家のバッハです。彼が書いた楽譜の頭には、ラテン語で「イエスよ、助けたまえ」と書かれています。そして楽譜の最後には、「S・D・G」という文字を記しました。それは、「ただ神に栄光あれ」という言葉の頭文字です。彼もまた、神の栄光をあらわす働きは、イエスの助けなしにはなしえない、と考えていたのです。そしてルターの著作もバッハの音楽も、人々に神の恵みを語り続ける宝となっています。

わたしたち一人ひとりにも、今、ここで、わたしだけにできる神の恵みの表わし方、神の栄光の表わし方があります。ですからわたしたちもこの年のはじめにイエスの名を心に記しましょう。そして神が示してくださったこの素晴らしいみ名のもとで、喜びと力をいただいて歩んでゆきましょう。