初めての方へ・・まずは気軽に扉をたたいてください。

キリスト教を勉強したい方

何よりも神の御言葉である「聖書」を知ることです。礼拝でもキリスト教は学べます。「聖書から学ぶ会」もありますし、「初めての方」には牧師から直接やさしく個人的に学ぶこともできます。

礼拝について

礼拝は、「あなたは大切な人」と言ってくださる神様に出会えるところです。

礼拝出席者は、一同で賛美歌を歌い、喜びと感謝を表します。ルターによれば、「讃美歌は会衆が行う説教」であり、礼拝を豊かにする役割を持っています。

また、礼拝では、牧師が分かり易く神様の言葉(聖書)を説明しますので、その都度、神様の愛に触れることができ、感謝し、祈りを共に捧げます。

信仰について

キリスト教では、「イエス・キリストを信じる」ことを「信仰」と言います。この信仰は、人間が自分の力で持てるものではなく、神様のお働きによってのみ、持つことが出来るものです。神様の言葉(聖書)に触れることを通して、あなたの中で神様の力が働き、イエス・キリストを信じる信仰が育てられていきます。

聖書のメッセージ

「十字架を通り過ぎる人、とどまる人」

そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい。」(マタイによる福音書27章39-40節)


 イエス・キリストの十字架は丘の上にではなく、多くの人々が行き交う通り沿いに立てられました。十字架刑はロ-マの国に反逆する者への見せしめだったので、多くの人の目に留まるようにしたのです。

聖書は、そこ通りかかった人々が「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」と言ってののしったことが記されています。

しかしその一方でイエスの十字架のすぐ近くにとどまっていた人々ももいました。それはイエスと共に十字架にかけられた二人の強盗でした。彼らにはイエスのそばにとどまる以外の道はなかったのです。初めの内は二人ともイエスをののしっていましたが(マタイ27:44)、一人は途中で考えを変えました。イエスは罪のない方であることに気付いたのです。それで、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのです。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えました。(ルカ23:42,43)

またイエスの十字架のもとにはローマの百人隊長がいました。彼は職務上イエスの十字架のもとにとどまっていたのですが、イエスの最後を見て、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。(マルコ15:39)

確かに、通りすがりにイエスの十字架を見たなら、あるいは遠くから眺めただけなら、それは愚かなものです。神の子、救い主が十字架で死ぬことなどありえないと思うからです。

しかし、十字架の下にとどまり、十字架の上から聞こえてくるイエスの言葉を聞く時、人々の心に変化が起きます。キリストの人知をはるかに超えた愛と赦しを知るからです。

今もわたしたちはキリストの十字架を記している福音書を通して十字架のキリストのもとに行くことができます。そしてキリストの愛と赦しが、このわたしの上にも注がれていることを知るのです。

聖書のメッセージ

「三位一体の神」

「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・・」

(マタイによる福音書28:19)


父と子と聖霊の神

聖書は神が唯一であることを教えていますが、同時に旧約聖書の中で、神はご自分のことをしばしば「我々」と呼んでおられます。新約聖書においては、イエス・キリストはさらに明確に、神は父と子(キリスト)と聖霊の一なる神であることを教えました。例を上げれば、キリストは「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と命じました。ここでの「名」は単数形です。


三位一体の神は愛の神

三位一体の神は孤独の神ではなく、愛の神です。なぜなら永遠の昔から愛による交わりをもっておられたからです。そしてキリストが「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」(ヨハネ17:24)と祈られたように、三位一体の神は、その愛の交わりの中にわたしたちも入れてくださるというのです。


近付いてくださる神様

三位一体の神は人間に近づき、働きかけてくださる神です。神から離れた人間は、自分では神に帰ることができなくなりました。父なる神は独り子を人として遣わし、罪の赦しによる救いを完成してくださったのです。そして聖霊をわたしたちの内に与え、神の子としてくださるのです。わたしたちにできることは、この神の救いを信じ、受け取ることです。

「神を信じる」と言いながら聖書の三位一体の神を否定する人々は、自分の行いや知識によって神に近づくように教えます。そのような誤った教えから守られ、正しい信仰を保つために、使徒信条には三位一体の神への信仰が明記され、多くのキリスト教会の信仰の規範として受け継がれてきたのです。

三位一体の神を人間の理性で理解することは困難ですが、それを表す一例は「光の三原色」です。白く見える太陽の光は、赤、青、緑の三つの色が重なったものです。

聖書のメッセージ

「命のパン」

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。(ヨハネによる福音書6章35節」

 ある人が、「わたしたちが決して退屈しないものがある。それは食事だ」と言いました。確かに三度三度の食事はもう飽きた、という人はいません。 食事はそれ自体が喜びです。そして食物は命を養い・活動ずる力を与えてくれます。動物の多くは草食で、草さえ食べていれば生きて行けます。しかし人間だけは米やパン、野菜や果物、肉類など、豊かな食生活を送っています。食事をするたびに、このような食物で人間に喜びを与えてくださる神の愛を憶えます。

しかし聖書は、人間には体のための食べ物だけでなく、霊の食べ物が必要であると教えています。人間の霊、魂は体だけの食べ物では決して満たされないからです。

 聖書では食べ物を現す時、「パン」という言葉を使います。そして、このパンという言葉には、食べ物だけでなく、人間が生活する上で必要なすべてのものを含まれています。衣服や住む家、健康、そしてともに生きる家族も大切です。しかしこうしたものがどれほど豊かであっても、人間の心は満たされません。

国連のユニセフが行った調査では、先進国38か国の中で、日本の子どもの栄養や医療などの身体的な幸福度は第一位でした。ところが精神的な幸福度、活きて居て幸せだ、と思える心の幸福度は37位で先進国の中で最下位に近いのです。日本の子どもは魂のパンを必要としています。

 イエス・キリストは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言っておられます。わたしたちの霊を満たし、潤すものは、この世の物ではなく、命のパンであるわたしなのだ、と言っておられるのです。

聖書のメッセージ

「最初の讃美歌」

モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。

主に向かってわたしは歌おう。

主は大いなる威光を現し 馬と乗り手を海に投げ込まれた。

ミリアムは彼らの音頭を取って歌った。

出エジプト記 15章1節、21節

聖書が音楽について最初に記しているのは、創世記4章21節です。カインの子孫ユバルは、琴と笛を奏でる人となりました。音楽には、憂鬱な心を癒す力があります。ユバルは、神から離れた人間の憂いを音楽で癒そうとしたのでしょう。

また、讃美歌が最初に歌われたのは、出エジプト記15章です。エジプトを出立したイスラエルの民はエジプトの軍隊に追われましたが、イスラエルの民は海の中にできた道を通って対岸に逃れ、後を追ってきたエジプトの軍勢は戻ってきた水に沈んで滅びたのです。その救いを喜び、神を讃えた歌が最初の讃美歌になりました。

イエス・キリストが復活したのは、過ぎ越しの子羊が殺されてから三日目であり、イスラエルの人々がエジプトの支配から完全に解放された記念の日日でした。

今年の復活祭に読まれる旧約聖書の日課は、イスラエルが過去にエジプトから解放されたことではなく、将来、最後で最大の敵である死から解放してくださる救い主を予告し、その救いを讃美しています。

主はこの山で すべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい 御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。

その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。

教会の礼拝は、御子の死と復活によって神が成し遂げてくださった救いを覚え、人々と共に喜びと感謝をもって歌い、神を讃える時なのです。

聖書のメッセージ

「兵に告ぐ」

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコによる福音書1章14節)

今週の月曜日は2月26日でした。1936年に起きた2.26事件から88年目にあたる日です。2.26事件とは、皇道派と呼ばれていた陸軍の青年将校が約1500名の兵をひきつれて、政府要人など9名を惨殺したクーデター未遂事件です。

天皇の賛同を得られると考えていた青年将校たちの期待に反し、昭和天皇は反乱軍として鎮圧を命じました。鎮圧に先立ち、戒厳司令管は「兵に告ぐ」という言葉で始まるラジオ放送を通して、兵隊たちに原隊への復帰を呼びかけました。

「兵に告ぐ」

敕命が發せられたのである。既に天皇陛下の御命令が發せられたのである。

お前達は上官の命令を正しいものと信じて絶對服從をして、誠心誠意活動して來たのであろうが、既に天皇陛下の御命令によって お前達は皆原隊に復歸せよと仰せられたのである。此上お前達が飽くまでも抵抗したならば、それは敕命に反抗することとなり逆賊とならなければならない。正しいことをしてゐると信じてゐたのに、それが間違って居ったと知ったならば、徒らに今迄の行がゝりや、義理上からいつまでも反抗的態度をとって天皇陛下にそむき奉り、逆賊としての汚名を永久に受ける樣なことがあってはならない。

今からでも決して遲くはないから直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復歸する樣にせよ。そうしたら今迄の罪も許されるのである。(以下省略)

兵隊たちは上官の命令に従って暗殺に加担しましたが、この通告は、原隊に復帰するならその罪は赦される、と明言しています。

兵に告げられた「勅令」は、キリストの呼びかけに似ています。

この世は神の恩恵の中にありながら、神を受け入れず、神に敵対し、正しい人々を迫害してきました。そして、わたしたちもこの世にいて神に敵対していました。

そのような世界に、神の勅令を伝えるためにキリストは来られたのです。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」ここで「悔い改め」とは、神に背を向ける生き方から神へと向きを変えることです。そして「福音」とは、自分の背きを認めて神に向かう者を神は赦し、受け入れてくださる、という宣言なのです。

聖書のメッセージ

「反対を受けるしるし」

シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」

 (ルカによる福音書2章34,35節)

」刑事コロンボ」という長く続いたテレビ番組がありました。コロンボはイタリア系の殺人課刑事で、よれよれのコートをまとい、自家用車もポンコツです。まだ正体を知られていない犯人は、風采が上がらない、また上司に頭が上がらないコロンボに会うと、彼を見下げ、油断して馬脚を現してしまいます。

つまり、犯人はコロンボを上から目線で見積もっているつもりでも、反対にそれによって自分自身が見積もられてしまうのです。

冒頭の聖句は、神殿で幼子イエスを連れたマリアとヨセフに出会ったシメオが、イエスを腕に抱いて語った預言の言葉です。。

「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています・・・多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」

聖書を読むと、イエスの目覚しい奇跡を見、またその人格に接してイエスを信じた人々もいましたが、またこの世の権威とは無縁のイエスを見て、見下す人々もいました。また、自分の心の内を見抜くイエスを嫌った人々、イエスによって自分の誉れや地位を失うことを恐れた人々によってイエスは死に追いやられたのです。

このように、イエスという人物について見聞きするとき、イエスの内に神の愛と聖さと正しさを見て取り、イエスを愛し敬う人は、それによってイエスの父である神を愛する人であることが明らかになり、反対に、「わたしは神を敬っている」と自負していても、イエスを退けることで、本当はその人が神を敬ってはいないことが明らかにされるのです。このように、イエスの前に立つ時、そのイエスをどう見積もるかによって、それまで見えなかった人々の思いが明らかにされてゆくのです。

聖書のメッセージ

「飼い葉おけのしるし」

「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」 (ㇽかによる福音書2章10,11節) 

キリストがダビデの町ベツレヘムに生まれた夜、主の使いが野にいた羊飼いたちに現れ、救い主を見つけるための目印を羊飼いたちに示しました。ベツレヘムは小さな町でしたが、それでも赤ちゃんは何人もいたと思います。でも、産着ではなく、あり合わせの布にくるまれて飼い葉桶の中に寝かされている赤ちゃんは二人といないはずです。み告げを受けた羊飼いたちはベツレヘムへと急ぎ、そこでマリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てました。

なぜ神様は御子のご降誕を最初に羊飼いたちに知らせたのでしょう。ユダヤ人の父祖たちも羊を飼っていましたが、キリストが生まれた時代には、厳しい羊飼いの仕事は嫌がられ、羊飼いたちも蔑まれていました。動物の世話をしていた彼らは会堂で行われている礼拝にも毎週は参加できませんでした。また動物と接している彼らは不潔な者とみられ、また無学で字も読めない人たちとみられていました。裁判の時には羊飼いの証言は認められませんでした。そのような人々に真っ先にキリストの誕生が告げられたのは、神様が「すべての人」のために救い主を与えてくださったことを示すためでした。

野宿をしていた羊飼いたちの体には羊のにおいが染みついて、清潔ではありませんでした。もし救い主が王宮や高い身分の家に生まれたなら、羊飼いたちはその家に入ることができなかったことでしょう。たとえ普通の家であってもそのまま入ることはためらわれたはずです。しかし幼子として生まれたキリストは羊飼いがそのまま出入りできる家畜部屋の飼い葉桶の中に、柔和な幼子として寝かされていたのです。

天使が羊飼いに示した飼い葉桶の「しるし」とは、救い主を発見するためのしるしであっただけでなく、「救い主はあなた方が恐れずに、はばかることなく出会う方である」ということのしるしでもあったのです。貴い神の御子は飼い葉桶の中に寝かされ、蔑まれていた羊飼いたちも喜んで出会える方となられたのです。

「わたしは神から遠く離れている」と感じている人でも、羊飼いたちのように神の招きに応えて、キリストを受け入れるなら、その人はこの御子によってまことの神に出会い、神との平和が与えられているのです。

聖書のメッセージ

「キリストの再臨」

「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」(マタイによる福音書24章29、30節) 

救いの御業を終えて天に帰ったイエス様は、世の終わりに再び来られる、と弟子たちに告げました。イエス様は低い姿でお生まれになり、世の終わりに栄光の姿で再び来られます。しかし『「その日、その時は誰も知らない」とイエス様は言っていますから、「世の終りはすでに来ている」と教える人々は偽りを語っています。またイエス様が「『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない」「25:23)と教えているように、キリストは誰かに教えてもらわなければ気付かないような姿で来るのではなく、天の雲に乗って」とあるように、誰の目にも明らかな、神の子でなければできない方法と姿で現れるのです。それはにわかに信じがたいことかも知れません。しかし、イエス様の誕生とその生涯を、聖書はすべて予告しており、そのすべてが正確に実現しています。ですから将来のことも確かに起きると確信できるのです。

 しかし、イエス・キリストが超自然的な姿で来られるにしても、可視的な姿である以上、それは地上のある場所に限定されています。それなのになぜキリストは、「地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」と語られたのでしょうか。丸い地球の裏側にいる人々がどうして再臨のキリストを見ることはできるのでしょうか。

ルカによる福音書17章23、24節でキリストは、「『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。」と教えています。

稲妻は電流の光であり、電流は光と同じ速さで、一瞬で世界のどこにでも届きます。今は世界の75%の人がスマートフォンを持っていて、世界で起きていることをリアルタイムで見ています。昔は予想もできなかったことが今は可能になっているのです。

聖書のメッセージ

「被造物としての謙遜」

「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」(マタイ21:43)

聖書は、わたしたちにとって決して分かりやすい書物ではありません。特に旧約聖書を読む人は、そこに記されている神を、恐ろしく、理不尽に感さえします。

その一例は、神が、奴隷にされていたイスラエルの民をエジプトからカナンの地に連れ戻したとき、神の命令によってイスラエルがそこにいた先住民たちを滅ぼしたことです。これを読む人は「これは一方的な侵略ではないか」と言うのです。

人びとがこうした聖書の記述に躓くのは、神に対して、ある前提を持っているからだと思います。それは「神は人間を幸せにするべきもの」という考えです。特に日本人は、宗教というものを、人間を救い、幸せにするはずのもの」ととらえていますから、人間の罪に対して怒り、人間を滅ぼす神を受け入れることが難しいのです。

しかし、「神は人間を幸せにするべき者」という考えは、推し進めると、「神は人間がどんな生き方をしようと、罰するべきではない、という考えに至ります。そしてそれは「神に造られた人間の責任」を問おうとはしない、人間本位の神理解となります。

イスラエルがナンの地に帰還して先住民を滅ぼすことは、その四百年以上前にアブラハムに対して神が予告していますが(創世記15章)、それはカナンの地に悪が満ちていたためでした。その時にはまだ悪が満ちていなかったので、滅ぼさずにいたのです。

この時代のカナン人たちは人間を犠牲として捧げ、「また「定礎犠牲」と言って家を建てる際、幼児を人柱として埋めていたことが遺跡の発掘によって明らかにされています。神はそのような恐ろしい悪を容認されず、その習慣がイスラエルに浸透しないようにカナンの民を滅ぼして、その土地をイスラエルに与えたのです。もし人間の罪悪が裁かれなかったなら、現在の世界はもっと悲惨なものになっていたことでしょう。

しかし、こうしたことは決してイスラエルにへの「えこひいき」ではありませんでした。カナンの地に住んだイスラエルも、罪を犯した結果、バビロニアの捕囚となり、また後に神の子キリストを拒み、殺した後、40年間の神の忍耐の末、ローマに滅ぼされ、国を失ったのです。

しかし、現代の人間は、自分たちが行う戦争を、この時と同じよう、に神の名のもとに行うことはできません。なぜなら、聖書にあるような神の命令は、そこにはないからです。

聖書の教える救いとは、人間が神との正しい関係に戻ることと結びついています。「神はわたしたちがどんな生き方をしようと、決して不幸にすべきではない」という思い上がりを捨て、神に造られた者としての恐れを持ち、神が実を結ぶためにお与えくださったキリストの命を受け取りたいと思います。

聖書のメッセージ

「動物と人間の創造」

「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」(使徒言行録17:26)

神による天地創造を記録している創世記1章を読むと、動物と人間の創造の違いに気づかされます。

まず植物と動物の創造に先立って二日目に大気と水、三日目に大地と植物が創造されました。大気中にある窒素や酸素は生物の形成と維持のために必要です。土の中にある炭素、鉄分、カルシウムなども体に必要なものです。植物はこれから創造される動物や人間のための食料となります。

第五日目に魚や鳥類が創造されました。《神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ」》(1:20)。魚や鳥は最初から「群れ」として造られました。しかし神はこれらのものがさらに増え、地に満ちるようにと祝福しています(1:22)。

 このことは六日目の動物の創造についても同じことが言えます。「神は言われた。『地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。』」(1:24)と書かれていますが、ここでも最初に一つがいが創造された、とは書かれていません。

 しかし同じ六日目に創造された人間については、「男と女とに創造された」と書かれています(1:27)。創世記2章ではさらに詳しく人間の創造が記されていて、まず「一人の人」が造られ、彼から女が創造された、とされています。

地球上にどれほど多くの人、多くの国、民族、多様な人種がいようと、「すべての人は一人の人から生まれた」という聖書の言葉は、人間の平等や世界の平和について考えるうえで、とても大事なことではないでしょうか。

聖書のメッセージ

「マイムマイム」

「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む」イザヤ書12章3節

日本人にも親しまれているイスラエルのフォークダンス「マイムマイム」は、旧約聖書イザヤ書12章3節の「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む」という言葉をそのまま引用しています。「マイム」とはヘブライ語で「水」のことです。

この歌は人々が荒れ地で泉を見つけた時の喜びを歌ったもの、と説明されますが「救いの泉から水を汲む」のですから、それは宗教的な意味を持つ「水」であり、心と魂の渇きをいやす水を意味しています。

人は食べ物がなくても何週間も生きることができますが、三日間水を飲まなければ死んでしまうといわれています。体と同じように、私たちの心や魂にとっても水が必要です。ある人にとってその水は「経済的に豊かな生活」であり、ある人にとっては「他の人からの愛情」であるかもしれません。

しかしそうしたこの世のものでは私たちの魂の渇きは決して癒されないのです。

イエス・キリストは旅の途中で、井戸の傍らでサマリヤ人の女性に出会いました。イエスはこの女性の魂の渇きを見抜きました。そして女性にこう言いました。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

(ヨハネ四章一三-一四節)

イエスが言われた「この水」とは「この世の水」であり、物質や人間が与えてくれる一時の潤いです。しかしこの世の水は魂には届きませんし、その渇きをいやすことはできません。イエス・キリストは私たちと神の間にある罪を取り去ってくださり、神の霊という真の水によって私たちの渇きをいやしてくださる方なのです。

「救いの泉」の「救い」は「イエシュア(ヘブライ語のイエス)」ですから「喜びをもってイエスの泉から水を汲む」とも読むことができます。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7章37-38節)

聖書のメッセージ

「親の罪、先祖の罪」

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:3)。

日本では、先祖の罪、親の罪が子孫や子どもに負わされる、という考えが古くからあります。昨年来、社会問題としてマスコミに取り上げられてイル「霊感商法」も、先祖の「因縁」や「祟り」という人々の考えを利用して行われてきました。しかし聖書はそのような考えを完全に否定します。よく知られているのは冒頭に記した、生まれがつき目が見えない人について語られたイエス・キリストの言葉です。

 旧約聖書のエセキエル書でも、次のように教えられています。

罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。」(18:20)。

しかし、一見すると、そのような考え方と食い違うような記述もあります。出エジプト記20章で神はこう宣言しています。

「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(20:5,6)。

この言葉は、子や子孫が親の罪、先祖の罪を負わされる」という意味に思われますが、そうではありません。古代イスラエルでは三世代、四世代が家族として生活するのは普通のことでした。もし一族の家長が神に対して不遜な者であり、神を愛さず、畏れも敬いもしなかったなら、その影響は一緒に暮らしている子や孫たちにも影響を与えます。家長のふるまいを見て、そのような生き方に倣い、同じように不遜な者となり、神の道を離れるなら、その人は自分自身の身に災いを招きます。それは親の罪を負うことではなく、自分の結果である災いを刈り取っているのです。なぜなら、不遜な親の生き方を見て反面教師とし、神を敬う道を歩む人もいるからです。列王記や歴代誌など、イスラエルの代々の王たちの記録を見ると、悪い王の子たちも多くの場合悪い王になっていますが、それは決して不可抗力な運命ではありません。悪い王の子が良い王であったり、良い王の子が悪い王になったりしているからです。

聖書は、子が親の罪を背負って生まれることはないと断言します。しかし罪は自分の家族や子孫に深刻な影響を与えることを教え、警告しているのです。

聖書のメッセージ

「宣教と迫害」

そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。・・・そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイによる福音書24:9,4) 

 今週の礼拝の日課であるマタイ福音書10章には、キリストの弟子たちが宣教に遣わされる時に受ける「迫害」について記されています。キリストは「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。」と語っていますが、これが語られた当時はまだわずかな弟子たちしかいなかったことを考えるなら、驚くべき宣言です。実際にキリスト教ほど地域、人種、文化の違いを超えて世界に広がっている宗教はありません。

キリストは別の箇所で、「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13:31,32)と教えました。しかし神の国は地上的権力によって人々を支配する国ではありません。しかし、キリストは、ご自分の弟子たちが世の終わりまで多くの迫害を受けることを予告しておられるからです。

教会が地上的なキリストの王国を築こうとした時代もありました。しかし神の国は権力やご利益によって広められるのではなく、キリストがそうされたように、むしろ弱く見える人々が語る言葉によって伝えられるのです。それで弟子たちはキリストを嫌う支配者や人々によって迫害されるのです。

教会の歴史の中で多くの迫害がありました。そしてキリストが予告された通り、今も多くの国でキリスト者たちが迫害を受け、苦しめられています。わたしたちはそのような人々を耐えず覚え、彼らのために祈りたいと思います。

聖書のメッセージ

「キリストの昇天」

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。(使徒言行録 1:8,9)

 四つの福音書の中で、キリストが天に上げられたことを記しているのはマルコ福音書とルカ福音書だけです。しかしマタイやヨハネもキリストの昇天を語っているのです。マタイ28:18,19ではこう記しています。

《イエスは近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」》

旧約聖書のダニエル書によれは、天と地の一切の権能を授かる」のはメシアの昇天の時です。(ダニエル7:13,14)

またヨハネ福音書20章17節では、復活したキリストはマグダラのマリアにこう語っています。

《イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」》

このように、マタイやヨハネによると、キリストは復活直後に昇天しています。一方ルカでは、キリストは復活後40日にわたって弟子たちに現れ、食事を共にし、ご自分が確かに復活されたことを示されました。しかし、その間キリストはどこかの宿に宿泊しておられた、ということではありません。すでに神のもとに行かれた方として弟子たちに出会っておられたのです。

ルカが記している(見える)昇天の出来事は、弟子たちがキリストの復活を確認するための期間が終わり、キリストは完全に神の世界に移られ、これからは聖霊による世界宣教の時代が始まるという「区切りの時」を、弟子たちに示すために起きたことでした。40日の後、キリストは父である神のもとに帰り、ただちに見えなくなることもあり得たのです。しかし、それでは、弟子たちはキリストがどこに行かれたのかを確かに知ることはできません。ですから「昇天」という本来は見えない出来事を、神はあえて見えるように示してくださったのです。

弟子たちの目の前で天に上げられたキリストは、雲に包まれてその姿が見えなくなりました。聖書では「雲」は神の臨在の場とされています。目に見えない神は雲の中から人々に語ります(出24:16、マタイ17:5)。キリストが雲に包まれて見えなくなった、ということは、キリストが宇宙のどこかに行かれたのではなく、神の次元に移られたことを示しているのです。

聖書のメッセージ

受難の詳しい記録は復活の証拠

 聖書を読んでいると不思議に思うことがあります。特に受難週の期節を迎える時、「なぜ福音書はキリストの復活よりも受難をより長く記しているのか」という疑問を感じます。例えばマタイ福音書は復活のことは28章だけで、それも20節しかありません。しかし受難の記事は26章、27章の二つの章に記録されており、それも、それぞれ75節、66節と、とても長いのです。普通に考えるなら、キリストの悲惨な苦しみと死について延々と記すよりも、復活の喜ばしい出来事の方をより多く伝えたいと思うのではないでしょうか。

それは、福音書を書いた弟子たちが、イエス・キリストの復活という光の中で、キリストの受難を見たからです。もしキリストの復活という出来事がなかったとしたら、キリストの苦難と死は、弟子たちにとって決して思い出したくない事でした。イエス・キリストにかけていた自分たちの期待は絶望に終わりました。しかも、たとえ死んでもキリストに従うと誓っていたペトロはキリストを知らないと言い、他の弟子たちもキリストを見捨てて逃げてしまったのです。もしキリストの復活という事実がなければ、弟子たちは一日も早く、この悪夢のような辛く、恥ずかしい出来事を忘れてしまいたいと思ったことでしょう。

しかし、彼らが復活のキリストに出会ったとき、このすべての出来事は、神様の計画とおりに実現したものであることを悟りました。そして受難のキリストの言葉や行いのすべてが、自分たちを罪から救うためのキリストの愛を示していたことを悟ったのです。恐ろしい闇のように思った受難が、復活の光に照らされた時、すべて恵みの出来事であったことを悟ったのです。それで弟子たちは感謝にあふれてキリストの受難をあますところなく伝えようとしたのです。このように、キリストの苦難の詳しい記録こそ、キリストが復活したことの証拠なのです。

英語圏ではキリストの受苦日は「Good Friday」と呼ばれます。「魔の金曜日」ではなく「善き金曜日」なのです。復活の光に照らされる時、この日は私たちにとって最も恵みあふれる最高に「善き日」となるのです。

 聖書のメッセージ

神のSDGs~食物と水と空気

最近よく耳にする「SDGs」は、「持続可能な開発目標」のことだそうです。環境や資源を守りながら永続的な発展を目指す世界的な取り組みが始まっています。

しかし、「SDGs」をはじめから行っているのは、この世界を創造された神です。神はこの地球の生命にとって、とりわけわたしたち人間の生命のために最も必要なものを持続可能な方法で与えておられます。

生命の存続のために必要なものの一つは食糧です。創世記1章29,30節には「神は言われた。見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」と記されています。神が人間や動物に与えた食料は無限に「再生産」されるもの、すなわち「生物」です。もし食料が石油や石炭のように有限なものであれば、地上の生命はそれを消費し尽くし、とうの昔に絶滅していたことでしょう。しかし食物連鎖により、食物は常に供給されるのです。

また、生命に不可欠な水も、循環することによって水質を保っています。聖書は水の循環について次のように記しています。「川はみな海に注ぐが海は満ちることなく どの川も、繰り返しその道程を流れる」(コヘレトⅠ:7)「雲がもし雨で満ちるならば、地にそれを注ぐ」(コヘレト11:3)、「天に高殿を設け 地の上に大空を据え 海の水を呼び集め 地の面に注がれる方。その御名は主」(アモス9:6)このように循環によって、汚れた水は再びきれいな水になって地上に注がれるのです。このような水の循環が科学的に認識されるようになったのは17世紀になってからだそうですが、その2000年前に、聖書はそれを語っています。

また、やはり生命にとって不可欠な空気も再生されています。人間や動物は酸素を吸って炭酸ガスを排出しますが、植物は反対に炭酸ガスを吸収し、酸素を排出します。このような相互依存的なシステムは別々の時期にではなく、創世記が語るように、同時に造られなければなりません。

このように、神はわたしたちにとって最も必要なものを「持続可能」な方法ではじめから与え下さっています。ちなみに音楽家のバッハは、自身が作曲した譜面に「SDG]と記しています。それは「ただ神に栄光を」と言うラテン語の頭文字です。わたしたちがSDGsに取り組むにあたって、偉大な知恵によってわたしたちを生かしてくださる神の栄光を讃え、神に感謝することから始めたいと思います。

聖書のメッセージ 「創世記1章1節」 

「初めに、神は天地を創造された。」創世記1章1節

聖書の冒頭のこの言葉は、実に荘厳で偉大な言葉です。この言葉を受け入れるか否かで、わたしたちの人生観は180度変わります。わたしたちが神によって創造されたのなら、わたしたちは神の意志により、目的をもって造られた、ということになります。反対に、わたしたちが神の意志によってではなく、偶然に発生したものであると考えるなら、わたしたちの人生には意味や目的はないことになります。「偶然」とは意味や目的がないということだからです。

また、「創造された」という動詞は単数形ですから、この世界は一人の神によって創造されたことになります。宇宙の法則が統一されているのは、この世界がただひとりの神によって創造されたからです。神によってすべてのものは造られたのですから、この神以外のもの、すなわち被造物である目に見えるものを「神」とすることは愚かしいことであることがわかります。

この創世記一章一節の言葉は科学的にも正しいものです。物理学では、「時間」が存在するためには「空間」と「物質」の存在が必要であるとされています。すなわち、天「空間」と「地(物質)」が造られて、「初めに」とあるように時間というものが始まったのです。

また、宇宙物理学者たちは、「宇宙が始まる前には何があったのだろう」と頭をひねっています。聖書は、初めに大いなる力を持つ神がおられた、と告げています。宇宙にあるすべての物質はエネルギー(力)からできており、その膨大な力の源は神です。それはイザヤ書40章26節に書かれている通りです。

「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。

それらを数えて、引き出された方

それぞれの名を呼ばれる方の

力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない」

聖書は、この力ある神が、あなたとどのような関係を結んでくださる方なのかを伝えている書物なのです。

聖書のメッセージ 

「霊、魂、体」 

新約聖書のテサロニケの信徒への手紙5章23節には、使徒パウロのこのような挨拶の言葉があります。「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」

ここでパウロは、人間を「霊」と「魂」と「体」の三つの部分に分けています。第一の「体」は誰からも見えるものであり、体を見ることによってその人についての多くの情報を得ることが出来ます。

二番目の「魂」は、聖書では「精神」、すなわち感情や理性、意思をあらわす言葉として用います。「魂」は「体」と違って誰にでも見えるものではありません。その人の精神、つまりその人の性格や知性、考えは、その人と話をしたり、付き合ったりすることで分かってきます。

第三の「霊」は人間の一番奥底にあるもので、人間には簡単にはかり知ることができません。人の霊は神だけが見極める事が出来る部分であり、神は人の霊に宿ると言われています。  

人間の体も、魂も、健康であることは大切です。しかし健康な体を持つ人が必ずしも健全な魂、つまり健全な精神を持つとは限らないように、すぐれた知性や才能を持っている人が、霊においても優れているとは言えません。むしろ多くの場合、健康で美しい体を持ち、優れた知性と健全な精神を持つ人が、霊においては貧しい、ということがあるのです。なぜなら人間の深みを見られる神にとって「優れた霊の人」とは、神の前に自分を低くし、また自分の罪を素直に認めてへり下っている人のことだからです。たとえ体や心に障がいを持っていても、霊においては優れている人もいるのです。

旧約聖書イザヤ書には次のような神のことばが記されています。

「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる。(イザヤ書57:15)

聖書のメッセージ 

「ベツレヘム・もう一つの物語」

イエス・キリストが生まれたベツレヘムで起きたもう一つの物語が、旧約聖書のルツ記に記されています。キリストが生まれる千百年ほど前、飢饉を逃れてベツレヘムから二人の息子を連れて異邦の地モアブに行った夫婦がいました。しかしモアブの地で妻のナオミは夫と死別し、二人の息子たちもモアブ人の妻を残して死にました。傷心のナオミはベツレヘムに帰ることを決心し、嫁たちに自分の家に帰るように説得しましたが、嫁ルツだけは姑のナオミに従ってゆくと言い張ります。ルツはナオミと、ナオミの信じるイスラエルの神を敬っていたのです。ナオミと共にベツレヘムに行ったルツは、ナオミを養うために落穂ひろいに行きました。ルツが偶然入った畑はナオミの親戚であるベツレヘムの有力者ボアズの畑でした。ルツの懸命な働きぶりを見たボアズは、彼女が姑を愛してベツレヘムに一緒に来たモアブの女ルツであることを知り、僕に命じてルツが多くの落ち穂を拾うことができるようにさせました。ルツが持ち帰った落穂の量に驚いた姑は、ルツが入った畑が親族のボアズの畑であることを知りました。少し時が経った時、ナオミは、ボアズに親族としてルツとナオミの家をあがなってくれるように、ルツに申し入れさせたのです。この「あがない」とは、自分の親族の家を絶やさないための責任を果たすということです。ボアズにとってそれはルツを妻にするということでした。彼はルツの願いを受け入れ、正当な手続きを経てルツを妻に迎えました。そしてこのボアズとルツからオべドが生まれ、オべドからエッサイが生まれ、エッサイからダビデが生まれました。そして千年後にダビデの子孫としてキリストが生まれたのです。ルツの物語はやがてベツレヘムで生まれる方が、異邦人の信仰者を自分の身内として受け入れ、あがない、永遠に養ってくださることを予告しているのです。神の御子は、わたしたちの兄弟となるために、わたしたちをあがなう方となるために人となられたのです。 

聖書のメッセージ 

「空の空、空の空」

旧約聖書の「コヘレトの言葉」の冒頭は、驚くほど東洋の思想に似通っています。「コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが すべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり 永遠に耐えるのは大地。日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。」(1:2-5)

以前の口語訳聖書では2節は「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。」と訳されています。

ここには「空」の思想や、「永劫回帰」の思想があるように見え、私たち日本人も親近感を覚えます。しかし、「コヘレトの言葉」は、この世界が虚無であるということだけを伝えようとしているのではありません。地上にあるもの、太陽の下にあるものの虚しさを詠いながら、永遠に変わらないもの、すなわち太陽の上にあるものを指し示しているのです。

3章11節に「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」とある通り、人間ははかないこの世にあって精いっぱい自分の務めを果たしながら、いつまでも存続するものを神のもとに見出し、それを目指して生きてゆくのです。

また、1章4,5節の「永遠に耐えるのは大地。日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。」という言葉も「永劫回帰」を語っているのではありません。「永遠に耐えるのは大地」とある「永遠」は、必ずしも「無時間的な永遠」だけを表すだけではなく、「昔」、「太古」など、長い時間を表わす場合にも使われる言葉です。つまり自然界が永らえる時間に比べて、あまりにも短い人生のはかなさをあらわしているのです。聖書には、現在の世界が永遠に存続するという考えはありません。

聖書のメッセージ 

「ハルマゲドン」(2)

前回、ハルマゲドンは「世界最終戦争」のことであるという考えに対して、聖書は人間どうしの争いによる世界の終わりを教えてはいない、ということを記しました。「ハツマゲドン」という地名がどこを指すかは明確ではありません。「ハルマゲドン」は「メギドの山」という意味で、一般的な解釈ではイスラエルのエスドラエロン平原にある「メギド」の地を指すと考えられています。ここは古代からいくつもの戦いが行われた場所です。しかし実際のメギドには丘(テル)はありますが、山(ハル)はないと言うことです。黙示録を書いたヨハネは、その歴史を念頭においてこの名前を象徴として用いているのかもしれません。黙示録は象徴を通して将来の神の業を告げる書物であり、この書のある部分だけを字義通りにとらえる解釈をすると、様々な誤った解釈が生まれてしまいます。多くの異端の教えは黙示録の偏った解釈から造りだされています。

聖書には多くの預言が記され、また成就しています。その多くは実現して初めて理解できるものです。聖書預言の目的は、わたしたちが神のことばである聖書を信頼し、その中心であるイエス・キリストとその約束を信じるためです。そしてキリストはわたしたちが終わりの時代にあってどのように歩むべきかを教えておられます。世の終わりがいつ来るか、どこで戦争が起きるかということを詮索するよりも、むしろキリストへの信仰と、主の業に励むことに集中したいと思います。

聖書のメッセージ 

「ハルマゲドン」(1)

最近、ロシアの元大統領が、「西欧諸国がこれ以上ロシアに対する挑発を続けるなら、核戦争によって世の終わりを迎えるであろう」と言ってヨハネの黙示録9章18節を引用しました。三十年前にはオウム真理教の教祖が、「聖書の預言する世界最終戦争『ハルマゲドン』が近づいている」と言って人々の不安を煽りました。

確かに、世界には地上を何度も滅ぼすほど大量の核爆弾が存在していますから、「世界の終わりは核戦争によって起きるのでは」と心配するのも無理はありません。しかし、「黙示録は世界最終戦争を預言しており、それがハルマゲドンだ」と言う人々は、聖書を正しく理解していません。

黙示録の中には「人間どうしが戦った」という記述は一つもありません。「ハルマゲドン」という言葉が登場する箇所でも、《第六の天使が、その鉢の中身を大きな川、ユーフラテスに注ぐと、川の水がかれて、日の出る方角から来る王たちの道ができた。 ・・・それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。 汚れた霊どもは、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所に、王たちを集めた。》(黙示録16:12,15,16)と書かれているだけで、そのあと戦いが始まったとは書かれていません。

黙示録が人間どうしの戦いを記していないのは「神の知恵」です。もし黙示録に戦争の記述があれば、「聖書が教える世の終わりは必ず来なければならない。それは戦争によってもたらされるのだから、それは必要な戦いだ」と主張する人たちが必ず現れるからであり、聖書はそれを防いでいるのです。

黙示録が予告する「世の終わり」はどこまでもこの世の力を超えた神の業であって、人間の手によるものではありません。

聖書のメッセージ

 危険な「自己証言」

世界の宗教においてもそうですが、特に日本の新興宗教は、教祖の自己証言を土台にしたものが多くあります。「わたしは神からこういう啓示を受けた」とか、「わたしはこういう霊言を聞いた」、「わたしはあの人と霊界で交信した」といった具合です。しかし、聖書ではそのような自己証言は無効とされます。それを知るのは本人だけであり、他の人はそれを確認することができないからです。

キリストはこう語られています。「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。」(ヨハネ福音書5:31、32)

またキリストは「わたしは、人間による証しは受けない。」(ヨハネ5:34)とも言っておられます。人間は共謀して偽の救い主を作り上げることができるからです。

キリスト者がイエス・キリストは救い主である、と信じるのは「本人がそういったから」、とか「みんながそう言っているから」ということではなく、神が昔から救い主の生まれる場所、時期、そしてメシアの業績について予告しておられるからです。

旧約聖書はシルエットのようにキリストを予告しています。新約聖書のキリストの光に照らして旧約聖書を読む時、神が確かに数千年も前からキリストについて証言しておられたことが分かるのです。このように、自己証言や人間の証言ではなく、神ご自身の証言を持っているのが本当の救い主なのです。時間を超えて未来を予告できるのは永遠の神だけだからです。

わたしたちは不確かな人間の言葉ではなく、聖書という確かな土台の上に自分の人生を建て上げなければならないのです。


聖書のメッセージ 

「偽預言者を警戒しなさい」

 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。」(マタイによる福音書7章15-18節)

今、ある宗教団体のことがマスコミで大きく取り上げられています。この団体は、最初は聖書を使って教えますが、正しく教えず、様々な偽りを混ぜて教えます。

初めて聖書を学ぼうとする人は、それが正しい教えか、間違った教えか分かりません。その団体の教えが正しいか、間違っているかを知るためには、その団体の教えに従っている人たちが、どのような行いをしているのかを見なければなりません。教えを学ぶ前に、その教え(木)から生まれる行動(実)を見るのです。もしその教えを信じている人々が、偽りを語り、社会悪を行っているなら、その団体の教えも偽りです。「つる」を延ばす茨は、外観はぶどうの木に似ていても、その実はぶどうとはまったくの別物です。

しかし、問題はその団体が正体を隠して人々に近づく、ということです。これは、社会の批判を受けている団体であることを隠し、さらに身近な人々が忠告できないようにするためです。つまり「悪い実」を隠すのです。また一見するとすばらしく見える様々な活動を行っていますが、それは人を食い物にする強欲な狼の正体を隠す「隠れみの」なのです。

団体の中にいる人々の中には、「教団の幹部が悪いのであって、教えは正しい」と考えている人々もいます。しかし、キリストが教えたように、「良い木が悪い実を結ぶことは決してない」ことに早く気づいて欲しいと思います。

聖書のメッセージ 

「クリスチャン」という呼び名

 「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」(使徒言行録11章26b節)

ユダヤの国から始まったキリスト教は、やがて異邦人世界(ユダヤ人以外の国)にも広がってゆきました。地中海沿いのアンティオキアというギリシャ人の都市にも、多くのキリストを信じる人々が生まれました。アンティオキアは、当時の世界三番目の大都市であり、繁栄していましたが、道徳的に退廃していました。そこで生活していたキリスト教徒たちは、異質な集団に見えたことでしょう。その町で、弟子たちがはじめて「キリスト者(クリスチャン)」と呼ばれるようになったのです。

しかし、この「クリスチャン」という呼び名は「キリストの輩(やから)」、「キリストに属している連中」という意味の蔑称であり、仇名(あだな)だったのです。日本でキリスト教徒が「耶蘇(やそ)」と呼ばれていたようなものです。

しかし、キリスト教徒たちは、この呼び名を自分たちの名として受け入れ、用いるようになったのです。

日本語にも、「キリスト教徒」、「キリスト教信者」という言い方がありますが、「クリスチャン=キリスト者」という呼び名は、もっと直接的で、生き生きとしたキリストとの関係をあらわしています。初めは蔑称であった「クリスチャン」という言葉は、キリストに属し、キリストのものとされ、キリストの愛に包まれ、キリストの命に生きている人々のことを簡潔に言いあらわす、すばらしい呼び名となったのです。

聖書のメッセージ

「貧しい人々は、幸いである」

(ルカによる福音書6章20節)


  この言葉は、イエス・キリストの「平地の説教」と呼ばれる一連の教えの冒頭の言葉です。キリストが語ったこの教えは、この世の価値観とは全く異なるものです。多くの人は、貧しいことは不幸であって、富むことが幸せであると考えているからです。

 聖書は決して富むことが罪悪であるとは教えてはいません。しかし、富むことには大きな誘惑と危険があることをキリストは指摘されます。人は富を得るとき、その富に信頼するようになり、神に信頼して従うことを忘れるからです。 また富というものはどんなに多く持っていても、決して人を満足させないばかりか、ますます人を貪欲にし、貧しい人々への同情けや憐れみを失わせます。「富と海水は、たくさん飲めば飲むほど渇きを与える」と昔から言われている通りです。 反対に、貧しい人々は心を低くされ、神に信頼を置くようになります。また貧しさの中で他者の困窮に対して同情の心を持つようになります。

 人々が求める地位や権力についても同じことが言えます。権力や地位は、本当の権威を持っておられる神の前に、その人を高慢なものにしてしまうのです。

 この世の富や地位は決して人間を満足させることはありません。むしろ本当の幸福や命、平安を与えることのできる神を遠ざけてしまい、神の命を永遠に失わせる罠となりやすいのです。 キリストが、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタイ16:26)と教えておられる通りです。


聖書のメッセージ

「神は死んだ」?

 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたし はここで飢え死にしそうだ。(ルカによる福音書15章17節)

ニューヨークの地下鉄の壁に「神は死んだ!」と落書きされていました。すると翌日その横に、「そしてあなたも死ぬ!」と書かれていたそうです。

イエス・キリストが語った「放蕩息子のたとえ話」の中で、弟息子は父親がまだ生きているのに自分の相続する財産の分け前を求めました。この息子にとって大切なのは父親の持つ財産であって、父親については、生きていようが死んでいようが関係ない、むしろ近くにいない方が気ままに暮らせると思っていたのです。それで財産を分けてもらった息子は、すぐにそれをお金に代えて、父親の目の届かない遠い国に旅立ったのです。ここで父親が弟息子の自由にさせたのは驚くべきことです。父親は息子の意志を力づくで変えようとはしなかったのです。

やがて息子は財産を使い果たし、空腹で死にそうになった時、父親のことを思い出しました。そして父を悲しませたことを悔い、父親のもとに帰ったのです。

この息子と同じように、またニューヨークでの地下鉄の落書きのように、私たちの心の中で神が死んでいるなら、そして神との関わりを絶っているなら、私たちも失われ、死ぬものとなっています。しかし私たちが神のふところに帰るなら、私たちは生きることができるのです。神は生命とすべての善い物の源だからです。