「イエスの先駆者」

マルコによる福音書6章14-29節

霊降臨後第7主日の説教

イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

●ヨハネとヘロデ

 今日の福音書には、ヘロデが洗礼者ヨハネを殺すという陰惨な事件が記されています。このヘロデは、幼子イエスを殺そうとしたヘロデ大王ではなく、その子供にあたるヘロデ・アンティパスという人です。彼は 兄弟たちとユダヤをそれぞれの領地に分けて治めていて、彼はガリラヤ地方の領主でした。

 また、彼に殺された洗礼者ヨハネは、ィエス様より半年早く生まれた人で、神様から「救い主の先駆者」としてイスラエルの人々に遣わされたのです。彼は神の言葉を人々に告げる預言者でしたが、それまでのイスラエルの預言者と違うのは、「救い主がすぐに来る」ということを人々に知らせ、救い主を迎えるための洗礼を授けたことです。

 ヨハネは預言者として、神の道から外れた民衆や支配者をいさめました。彼はヘロデの行いも非難しました。それはヘロデが、自分の兄弟フィリポの妻のヘロディアを誘惑して、自分の妻としたからです。旧約聖書は、自分の兄弟が生きている時に、その妻を娶ってはならない、と命じています(レビ記一八:一六)。ヘロデのしていることは神の掟に反することでした。民を治める者が、神の掟に違反することは、彼のもとにいる民全体に悪い影響を与えます。それで洗礼者ヨハネは、王を公然と非難したのです。しかし、ヘロデは、悔い改めるどころか、自分にとって不都合なことをいうヨハネを捕らえて、牢に入れてしまったのです。

 しかし、その一方でヘロデはヨハネが正しい人であることを知っていたので、悩みながらも彼の教えを喜んで聞いていた、と今日の聖書には書かれています。

 ところが、王の誕生祝いの時に、彼が奪ったヘロディアの連れ子であるサロメという娘が踊りを披露しました。それは、そこにいた高官や将軍たちに喜ばれました。気をよくしたヘロデは、サロメに「欲しいものを何でも与えよう。」と言いました。娘が母ヘロディアに相談すると、かねてからヨハネを憎んでいたヘロディアは、ヨハネの首を求めるように娘に告げました。聖書は、「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた」(六:二六,二七)と記しています。

 ヘロデは初めからヨハネを殺すことなど考えていませんでした。しかし、自分の虚栄心のために、神の言葉を告げたヨハネを殺すという大罪を犯したのです。

●神の声を聞く時

 今日の福音書の記事はわたしたちに何を教えているのでしょう。第一に、罪は、自分の目には小さく見えても、悔い改めかければ、それは雪だるまのように大きくなってゆく、ということです。ヘロデはまず、律法に違反する罪を犯しました。次にそれを指摘した預言者ヨハネを投獄しました。

ヘロデよりも一千年前にイスラエルの王であったダビデは、部下の妻を奪い取り、夫を戦いの最前戦に送って戦死させるという恐ろしい罪を犯しました。ナタンという預言者がそのことを責めた時、ダビデはすぐにその罪を認め、悔い改めたのです。そのように王が預言者の言葉を受け入れて罪を悔い改める、という事は旧約聖書を見てもまれなことです。ほとんどの場合、預言者によって自分の悪を指摘された王は、その預言者を捕らえたり殺したりしたのです。聖書は、「善のみ行って罪を犯さないような人間は/この地上にはいない。い」と語っています(コヘレト七章二十節)。大切なことは罪に気付いた時、またと気付かされた時、その罪を悔い改めることです。ヘロデは獄中のヨハネの教えを聞いて、悩んでいました。しかし悔改めることはできなかったのです。そしてついにヨハネの殺害を命じてしまったのです。

 しかし彼はそれで安心したのではありません。イエス様のうわさを聞いた時、特にイエス様が目覚しい奇跡を行っていることを聞いた時、彼は「自分が殺したヨハネがイエスとなって復活したのだ」と思ったのです。「神に逆らう者に平和はない」(イザヤ四八:二二)とあるように、ヘロデには心の平安がありませんでした。

しかし彼にはまだ救いの道が閉ざされたわけではありません.神はダビデの罪を赦しました。またキリスト者を迫害しに、死に追いやっていたパウロも赦しました。イエス様はヨハネのように人々の罪を指摘しましたが、罪を指摘するだけでなく、罪を認めて悔いる人を赦赦し、受け入れてくださいました。イエス様は警察官として来られたのではなく、罪を癒す医者として来られたのです。どんなにひどい罪人であっても、イエス様は受け入れてくださり、新しく生きる力を与えてくださるのです。

 しかしルカ福音書十三章の終りには、ヘロデがイエス様を殺そうとしていたことが書かれています。このように、罪の行き着く先は、自分の罪を指摘する者は、最終的には神の子を殺そうとする、抹殺しようとする罪にまで至ります。

●ヘロデのパン種

このヘロデのような恐ろしい罪は、今でもこの世の独裁者が行っています。でもそうした罪は一握りの独裁者にだけのものでしょうか。マルコ福音書八章一五節でイエス様は弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒めたことが書かれています。別の箇所では「ファリサイ派の人々のパン種とサドカイ派のパン種を警戒しなさい」という言葉になっています。ファリサイ派のパン種というのは、「自分は正しい」というプライドによってイエス様を拒む罪です。またヘロデのパン種またサドカイ派のパン種とは、自分の地位や利益、また罪の欲望のために、イエス様を遠ざけようとする罪です。これらの人間の罪のよってキリストは殺されました。

イエス様がそのように弟子たちに語ったということは、わたしたちにも語られている、という事です。パン種にはイースト菌が混ざっていて、それを練った粉に入れると、練った粉全体に広がります。人間の罪もパン種のように、わたしたちの心に植え付けられ、繁殖し、心を腐敗させ、自分だけでなく、他の人にも影響を与えます。そしてその罪の最終的な結果は、わたしたちの罪を赦してくださる唯一のお方であるキリストを遠ざけ、嫌い、消し去ろうとする罪にわたしたちを至らせます。

旧約聖書の中に、過ぎ越しの後の一週の間、家の中からパン種を取り除く「除酵祭」という祭りのことが記されています。その意味がイエス様によって教えられたのです。古いパン種を取り除くのは、イエス様がわたしを救って下さり、新しくしてくださったからです。わたしたちはすでに救いをいただいた者としてその救いを失うことがないように、悪いパン種を捜し、取り除くのです。なぜならそれを放置しておくと、それはヘロデの罪のように、膨らんでゆくからです。

わたしたちは今日のお話をわたしとは違う、酷い悪人の話しだと受け取ったはならないと思います。わたしたちの中にも取り除かなければならない、パン種があります。わたしたちがこのように神の前に出て、自分の思い、言葉、そして行いを省みるのは、大切な時、そして幸いな時です。わたしとイエスの間を引き離すパン種を取り除く時だからです。わたしたちが神様の前にそれを言い表す時、神様はわたしたちを赦し、キリストと共に生きる者としてくださるのです。

イエス様は、ご自分の先駆者であったヨハネが殺された時、御自分も同じ道をたどることを知っておられました。しかしエス様はご自分も殺されることを承知の上で来てくださいました。それはご自分の命によってわたしたちのすべての罪を赦してくださるためでした。このイエス様の御愛にとどまり続けたいと思います。イエス様はご自分のもとに来る人を決して追い返すことはしない、と約束されておられるのです。

「癒されること、生かされること」

マルコによる福音書5章21-41節

霊降臨後第5主日の説教

 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。1そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

●ヤイロの娘と長血の女

先週の日課には、イエス様が弟子たちと一緒に船に乗り、湖の向こう岸に行かれたことが書かれていました。今日の聖書には、向こう岸から戻ってきたイエス様のところに大勢の群集が集まって来たことが書かれています。その人々の中に、切実な思いでイエス様のところに来た人がいました。会堂長のヤイロという人で、彼の十二歳になる娘が死にかけていたのです。会堂長はユダヤ人の会堂を管理する人であり、人々から信頼され、尊敬される人がその働きを任されていました。しかし人々に尊敬されているヤイロでも、死にかけている娘を救うことはできませんでした。ヤイロに残された道は、どんな病も癒してくれるという評判のイエス・キリストのもとに行くことでした。

イエス様はヤイロの願いに応えてヤイロの家に向いました。イエス様を囲んでいた群衆もイエス様と一緒に行動しました。その群集の中に、十二年間も出血が止まらない、という病気にかかっていた女性がいました。これは女性の病気で、出血している女性は、律法では汚れた者とされて人前に出たり、他の人に接触したりすることは許されていませんでした。普通の社会生活ができかったのです。

こうした「汚れの規定」は、おそらく女性が出血している時や出産後など、体に負担がかかっていて、感染症にかかりやすい時に、女性の体を保護するための規定であったと思います。それを「汚れ」という強い言葉で規則にしていたのです。

しかし、出血が止まらなければ、体は弱ってゆくでしょうし、また汚れた者として、いつまでも社会生活をすることができません。この女性は、医者にかかって全財産を使い果たしても、病気は良くなるどころかかえって悪くなる一方でした。ずっと貧血の状態で、顔色も悪かったことでしょう。

この女性もイエス様に望みをかけました。イエス様の服にでも触れば、きっと癒されると思ったのです。でも、普通の人にさえ触れないのに、神聖な人に触ったなら、どんな厳しい罰を受けるか分りません。それで気づかれないように、群衆に紛れて、イエス様に近づき、後ろからこっそりイエス様の服に触れたのです。そのとき、この女性は、出血が止まって病気が癒されたことを知ったのです。

●病の癒しと罪の赦し

この女性が触れた時、イエス様は、ご自分の内から力が出て行ったことを知って、「わたしの服に触れたのはだれか」と言って周りを見回しました。弟子たちは、「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」と言いましたがイエス様は、ご自分に触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられました。女性は恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話しました。するとイエス様はこの女性に、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と優しく語られたのです。「「安心して行きなさい」という言葉は、「平和の内に行きなさい」という言葉です。

この女性は、自分の身に起きたことを人々の前でありのままに話すことによって、彼女がイエス様によって癒されたことが公にされ、この女性は自分の人生を取り戻すことができました。また、イエス様がご自分に触れたことをとがめていないことも知ったのです。もしイエス様の言葉を聞かなければ、「わたしはしてはならないことをしてしまった」という罪の意識を、生涯持ち続けることになったでしょう。

ここでわたしたちに示されていることは、わたしたちも罪という汚れを持ちながらも、信仰によってイエス様のところに行くことができ、イエス様に触れることができる、ということです。イエス様はそれによって汚されるどころか、ご自分が持っておられる清さと義によってわたしたちの罪を赦して下さり、神様との平和の内に生きる者としてくださるのです

イエス様は自分に触った人が誰かを知らなかったのでしょうか。イエス様はここで、女性が自分からイエス様に触れたことを打ち明けるのを待っておられたのです。それは、彼女が進んでキリストへの信仰を告白する時、キリストに覚えられ、イエス様の祝福の内に生きる者とされるからです。彼女が自分から名乗りでなければ病気はい止まれても、キリストとの関わりは一時的なものに過ぎなくなります。しかし彼女が名乗り出たことによって、キリストも彼女を永遠に御心に刻んでくださったのです。

ローマの信徒への手紙十章十節に、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」と記されているように、あたしたちが信仰を公けに表わす時、キリストもわたしたちを覚えてくださり、ゆるぎない関わりを持ってくださるのです。

●タリタ・クム

イエス様がまだ話していた時、ヤイロの家から使いが来て「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と言いました。イエス様がこの女性を見つけようとして手間取ってしまい、ヤイロの家に着くのが遅れたのかもしれません。しかしイエス様にとっては、人々から重んじられているヤイロだけでなく、名もしれない貧しい女性も大切な存在だったのです。そしてイエス様の到着が遅れたことで、イエス様は病気を癒すだけではなく死の力に勝つことができる方であることが明らかにされたのです。イエス様は少女のところに行き、「タリタ・クム」と言って少女の手を取って起こされました。「タリタ・クム」は「少女よ、起きなさい」という意味のアラム語です。すると少女は立ち上がって歩き出しました。

このようにイエス様が死から生き返らせたのはす限られた人々でした。また、たとえ生き返っても、それはまたいずれ死ぬベき命を回復したにすぎません。イエス様が死者を生き返らせたことはもっと大切なことを示す「しるし」です。それはイエス様が、わたしたちに永遠の命、復活の命を与えることができる方であることを示す「しるし」なのです。なぜなら、死者を生き返らせる力がなければ、永遠の命や復活の命を与えることはできないからです。

イエス様が語った「タリタ・クム」と言葉は「少女よ、起きなさい」という意味ですが、この「起き上がる」という言葉は復活」をあらわす言葉です。イエス様はここで、ご自分は復活の命を与えるお方であることを示されたのです。

人は、死は自然の現象で避けられないものだと考えます。そしてそれはあきらめるしかないことであると思っています。しかし、自分の愛する家族、時に幼い子どもが死によって失われようとしているとき、死はすべての人の定めである、と悟りすましていることはできません。そして死を前にしては親の愛も、力も無力です。命の創造者である神だけが人を生かすことができるのです。わたしたちは、ヤイロのように信仰によってイエス様を自分の人生に招き入れる人は、たとえ死んでも生きる命をいただくのです。

わたしたちは「イエス様。わたしの愛する人はもう死んでしまいました。もう手遅れです」という必要はありません。イエス様は「恐れてならない。ただ信じなさい」と語りかけるのです。イエス様の力は時間にも支配されないのです。

今日の福音書は、わたしたちが、罪びとを受け入れ、死の力から救うために来られた神の子を信仰によって受け入れることの大切さを教えています。わたしたちも今日、信仰によってこのイエス様に近づき、イエス様に触れ、赦しと4救いをいただきましょう。そしてイエス様を迎えたヤイロのように、命の主であるイエス様をわたしたちの人生の中にお迎えしたいと思います。

「風と波を静める方」

マルコによる福音書4章35-41節

霊降臨後第4主日の説教

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

●嵐の中の教会

先週は、イエス様が大勢の人々に神の国についてお話をされた、という箇所を学びました。その時イエス様は舟の中から岸にいる人々に語っておられたのです。夕方になるとイエス様は弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われました。イエス様が行こうとしていたのはゲラサという異邦人の土地です。この先を読みますとそこには悪霊に取りつかれた人がいました。イエス様はそのようなところにも行って、神様の国を伝えようとされたのです。そこで弟子たちはイエス様と一緒に湖の向こう岸を目指して舟をこぎ出したのです。

ところが、突然の嵐が襲いかかりました。ガリラヤの湖は周りを山で囲まれていて、夕方になると、山から冷たい空気が湖に吹き降ろし、激しい嵐になることがあるそうです。この時イエス様と一緒にいた弟子たちの内、少なくとも四人の漁師がいました。しかし湖に慣れている漁師でさえも恐れるような嵐だったのです。

弟子たちは「向こう岸へ渡ろう」というイエス様の御声に従って湖に漕ぎ出した時にこのような恐ろしい嵐に出会ったのです。 

旧約聖書の時代から、海の中には破壊的な働きをする生き物がいると考えられていて、同じように、この世にも神に逆らう力が働いていると考えたのです。そしてその上を進む舟は教会を表しています。教会はイエス様のみ言葉に従い、イエス様のお働きに仕えるためにこの世という海の上を進んでゆくのです。イエス様を信じる生活とは、自分の幸せのために自分のところにイエス様をとどめておくことではありません。わたしたちを救うために今も働いていられるイエス様のお働きに従う生活のことです。

先週は、神の国は、最初はからし種のように小さくても成長し、大きな木となり、大きな国となる、というイエス様の教えを聞きました。しかし神様の国、イエス様の国は決して何の問題もなく広がってゆくということではありません。イエス様に従い、イエス様と一緒に神様のみ言葉を伝える働きをする時、わたしたちはこの世の海の中で嵐に出会うことがあります。人がイエス様に従って行こうとするときに家族や親戚の風当たりが強くなることがあります。また時代によっては国家による迫害が起きます。忠実にイエス様に従っている人々はその時大きな恐れと困難さを経験します。そしてそのような困難の中では、教会は嵐の海の小舟のように小さく弱い存在に見えるのです。

●風と波を静める方

 嵐に直面した弟子たちは、慌てふためいて「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言って、舟の中で眠っていたイエス様を起こしました。イエス様は起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われると、風はやみ、すっかり凪になった、と書かれています。

風や波はわたしたち人間が支配することができないものです。神様は天地を造られた時、大空と陸地と海にそれぞれ名前をつけられました。大空を天とよび、渇いたところを地と名付け、水の集まったところを海と名付けました。名前をつける、ということは、それを治め、支配するということです。その後アダムはすべての動物に名前をつけました。それは人間がすべての動物を支配する、ということです。また親が子供に名前をつけることも、親がその子を治めることを表しています。しかし空や海や大地は神様が名付けたのです。それは、それらは神様にしかコントロールできない、ということです。台風や津波、地震は空と海と陸地が起こするものですから、どんなに科学が発達しても台風を止めたり地震を予知したりするとはできないのです。

しかし、イエス様が風や波を従わせたということは、イエス様が神様と同じ力を持っておられた、ということを示しています。イエス・キリストはこの世のどんな力にも支配されず、かえってすべての力の上にある方だということなのです。

わたしたちはイエス・キリストを信じます」と信仰の告白をします。それはキリストが神である、と告白している、という事です。日本語ではわかりにくいのですが、聖書では、神に対する信仰という言葉には必ず英語の「イン」にあたる前置詞を付けます。それは「わたしは神であるあなたに信頼し、わたしのすべてをあなたに委ねます」という信仰です。わたしたちはイエス様がすべての力の上に立っておられる方、この世のすべての力や支配の上におられる方であることを固く信じなければならないのです。

イエス様は弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言われました。これは「なぜそんなに怖がるのか」という言葉です。「なぜそんなに、神への信頼を失うほどに恐れるのか」ということです。確かに恐ろしいことに出会って少しも恐れないでいることは難しいことでしょう。しかしイエス様への信仰を失うほどに恐れてはならないのです。

●世に勝つ信仰

ヨハネの第一の手紙5章5節にこのような言葉があります。 「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではないか。」

イエスを神の子と信じる信仰はなぜ大切なのでしょうか。それは真実な方であり、またこの世を治めるキリストに従う時、わたしたちはこの世の悪に負けないで、正しい道、命の道を歩む力を与えられるからです。

岐阜県の八百津町出身の外交官であった杉原千畝という方は、六千人のユダヤ人に命のビザを発給した人として知られています。彼が日本政府の命令に逆らってユダヤ人にビザを発給したのは、彼が日本の政府以上に権威のある方を敬っていたからです。彼はロシア正教の洗礼を受けたクリスチャンでした。後に杉原さんはこう語っています。「わたしに頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければわたしは神に背く」。

彼は日本の政府以上に高い所におられる方を敬っており、その方に従ったのです。そして正義の道を選んだのです。イエスを神の子と信じる人は、神からの力と勇気を与えられ、神に逆らおうとするこの世の力に勝つことができるのです。

「世に勝つ」という時それは、信仰者は災いにも苦しみにも会わないという事ではありません。思いがけない苦しみ、試練に出会っても、それに飲み込まれることのない力と平安をキリストから与えられる、ということです。

わたしを導いてくださった池田政一牧師は、先の戦争の時に特別高等警察、すなわち「特高」によって1943年4月6日未明に逮捕され、一年半を獄中で過ごしました。当時池田牧師はキリストの再臨を強調する教会に所属していて、天皇を最高の権威として国民を従わせようとしていた国家から治安維持法違反の罪で訴えられたのです。しかし,池田牧師は逮捕された時「自分でも驚くほど平静であった」と記しています。

これはキリストによってすべてに打ち勝つ平安を与えられた数えきれない例の一つです。今のわたしにそのような力も平安もないかもしれません。しかし、あらゆる力に勝つ力と平安を与えてくださる方を呼ぶことが出来ます。

パウロはフィリピ音信徒への手紙4章6節7節でこう語りかけています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とキリストに叱られたような弱い弟子の叫びに応えて起き上がってくださったキリストは、ご自分に信頼し、従う人々の祈りに応えて、人知をはるかに越えた平安によって守ってくださるのです。

「神の国の成長」

マルコによる福音書4章26-34節

霊降臨後第4主日の説教

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

●成長させてくださるのは神

イエス様は、当時の人々が日常目にしていた農業や自然界を通して、神の国とはどのようなものかを教えました。イエス様はこう語っておられます。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ぶものである。」

イエス様はこの前の箇所で、種とはキリストの言葉であると教えています。(4:14)土が実を結ぶのはそこに種があるからで、種がなければ土は実を結ぶことが出来ません。「土はひとりでに実を結ぶ」という「ひとりでに」とは、「アウトマテ」というギリシャ語で、オートマチック、つまり自動的にという意味です。実を結ぶという働きはすべて種の働きです。種の中に命があるように、キリストの言葉にも命があり、それを受け入れる人に実を結ばせます。  

わたしたちが結ぶ実とは神の愛と恵みを喜ぶ心から生まれる自発的な愛の行いです。その実とは善い生き方、善い行いの実です。そこでは人間の行いは役に立ちません。善い行いは善い心から生まれます。わたしたちは行いで心を変えることはできないのです。それはイエス様の言葉だけが実現できることです。

しかし、み言葉を聞いたらすぐにいい人に変わるのではありません。そこには決まったプロセスがあります。キリストの言葉を深く心に受け入れる時、先ずその言葉を理解するようになります。たとえば、イエス様は「あなたの敵を愛しなさい」と教えました。それはわたしたちの生まれつきの想いに反していますが、よく考えると、確かに自分に良くしてくれる人だけを愛するのは、本当の愛とは言えないということに気づきます。それに神様はわたしたちが神に対立していた時、神に敵であった時でさえ、食べ物を与え、太陽を照らし、雨を降らせてくださいました。そして今、愛する御子によってわたしたちを赦し、受け入れてくださいました。イエス様の教えはいつも神様の愛を土台として語られています。イエス様の言葉を聞いて本当にその通りだと悟ると、今度は「神様、どうかわたしを変えてください」と祈り求める心が生れます。そしてそのように求める心に聖霊が働いて善い実を結ばせてくださるのです。コロサイの信徒への手紙3章16節に「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」ろ教えられています。わたしたちにできることはみ言葉を受け入れ、み言葉が育つようにそれを心に深く受け入れることです。

やがて収穫の時が来ます。神を愛して実を結んでいる人々が、生きている人も世を去った人もすべて眠りから覚め、神のもとに収穫される時が来ます。その時まで、キリストの言葉を豊かに心に宿したいと思います。

●小さく見えても

 イエス様は続いて「からし種のたとえ」を語りました。一人一人の中での神の国の成長ということから、この世界の中での神の国の成長について教えておられます。

からし種は、どの種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、三メートルから四メートルもの高さになるということです。ふつうは大きな種から大きなものができて、小さな種から小さなものができると考えてしまうのですが、ここでイエス様は一番小さいものが最も大きなものになる、という不思議さを語っておられます。

神様はいつも小さな始まりから大きなことを実現されます。神様はまずアブラハムを選びました。アブラハムはすでに年を取っていて子どもはいませんでした。しかし神様はこのアブラハムに、「あなたを大いなる国民とする」と約束されたのです。

神様はまた、イエス様を立てられました。イエス様は、当時の小国のユダヤ、その中でも田舎のガリラヤの出身で、高い身分でもなく、その働きもたったの三年半でした。しかもその最後は人間として最も惨めな十字架での死でした。

しかし、人間的には小さく見えても、イエス様は永遠の神の言葉の内に歩まれたのです。そしてイエス様の国は地上のどの国よりも大きくなりました。人間が力によって建てた国はどんなに栄えたとしても、やがて消えてゆきますが、神の御国は終わることがありません。なぜならそれは人間の力によってではなく、永遠の神の言葉によって建てられた国だからです。

 アメリカのシカゴ大学の図書館にナポレオンの遺書が収められています。彼はこのように記しています。「わたしは、今セントヘレナの島につながれている。一体誰が、今日わたしのために戦って死んでくれるだろうか。誰が、わたしのことを思ってくれているだろうか。わたしのために、死力を尽くしてくれる者が今あるだろうか。・・・・これが、大ナポレオンと崇められたわたしの最後である。

イエス・キリストの永遠の支配と、大ナポレオンと呼ばれたわたしの間には、大きな深い隔たりがある。キリストは愛され、キリストは礼拝され、キリストへの信仰と献身は、全世界を包んでいる。 これを、死んでしまったキリストと呼ぶことが出来ようか。

イエス・キリストは、永遠の生ける神であることの証明である。

わたしナポレオンは、力の上に帝国を築こうとして失敗した。

イエス・キリストは、愛の上に彼の王国を打ち立てている。」 

●神の言葉の確かさに生きる

神の国は世界に広がっています。でも人の目には相変わらず小さく弱く見えるのではないでしょうか。この世界の中では、神の国よりも、大国の力が多く見え、わたしたちの生活の中でもこの世の動きや目の前のことで、目が塞がれて神の国はちいさなものに過ぎなくなっているのではないでしょうか。

イザヤ書42章にこのように書かれています。「彼(キリスト)は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。」教会は一度に何万人も動員してキャンペーンを行ったり、宣伝をしたりすることはしまません。

ニケヤ信条では「唯一の教会を信じます」と告白します。ローマ・カトリックの時代は、地上の教会は一つの組織でなければならないと考えていました。また王であるキリストの権力を地上でも持たなければならないとしていました。それに対してルターは、教会が一つであることは見ることではなく、信じるべきことである、と言いました。教会は様々な教派に分かれていますから、それぞれの地域では小さな群れに見えます。しかしわたしたちは、自分の目先だけを見るだけではなく、目を広い世界に向ける事が大切です。

もう一つの大切なことは、目に見える大きさや偉大さではなく、そこに神の永遠の言葉あるかどうかを見ることです。神様の言葉だけが未来を見通し、すべてを実現させる力を持っているからです。語った事を必ず実現させる神の言葉に信頼し、信仰の目を通して神の確かな未来を見てゆくのです。っして滅びてゆく世界ではなく、いつまでも残る唯一のもの、神の御国を求めて行きたいと思います。

イエス様は、小さなからしの種を「蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」と教えました。空の鳥が巣をつくる、とは、神の国はこの世の人々にとって役立つものとなる、ということを教えています。教会は世界に広がっても、脅威を与えるものではなく、有益なものとなるということです。病院も福祉の働きも教会から生まれました。大きいことが良いのではなく、それが世界にとっても良いものであることが大切です。

わたしたちはやがて消える人間の力、またこの世の力でなく、すべてを実現させる神の言葉に信頼を置きたいと思います。やがて神の国が目に見えるようにあらわれる時、共に喜び合うことができるように、これからも兄弟姉妹たちと共に、永遠に残る神の国の内に生きてゆきたいと思います。

「新しいアダム」

マルコによる福音書3章20-35節

霊降臨後第3主日の説教

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

●悪霊の追放

福音書にはイエス様が悪霊を追い出だされた事がいくつも書かれています。イエス様は同じ力を弟子たちにも授けた事が二章に書かれています。

現代の日本では悪霊に取り憑かれた人を見ることは殆どありませんが、以前、タイにボランティアに行った大学生から、タイでは悪霊に取り憑かれた人がいることを聞きました。しかしタイは仏教国であり、仏教では「霊」の存在を考えていないので、悪霊を追いだすことができず、クリスチャンたちが悪霊を追いだす働きをしているとのことでした。それで少数派であってもキリスト教は尊敬されている、ということでした。

人が悪霊により憑かれると、その人を悪霊から解放することはとても困難です。ですからイエス様がたった一言で悪霊を追いだされた事は、イエス様が悪霊に打ち勝つ神の力を持っておられることを示すものでした。

しかし、そのようなイエス様の働きを見たイエス様の反対者たちは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ってけなしたのです。「ベルゼブル」とは「蠅の王」という意味だそうです。「あの男は悪霊の頭、すなわちサタンの力で悪霊を追いだしているのだ」、とけなしたのです。

これに対してイエス様は、「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」と答えました。

ここでイエス様が言われている「強い人」とはサタン、すなわち悪魔のことです。この世でサタンより強い者はいません。しかしもっと強い者が来てその人の家に押し入り、その強い人を縛り上げます。これはイエス様が悪魔の支配する世界に来られて、悪魔を無力にし、それまで悪魔が使っていた家財道具、すなわち悪魔に利用されていた人々を今度はイエス様がご自分のものにする、ということです。パウロはローテの信徒への手紙六章十三節から十四節にかけてこう勧めています。

「・・・五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。」    

ここでの道具」という言葉は「武器」という言葉です。これからはあなた自身を神の武器として献げなさい」というのです。悪霊は有無を言わせず人間を支配しますが、聖霊はそうではありません。わたしたちが自分から神の道具としてささげることを教え、そのように願う者を導いてくださるのです。

●聖霊を冒涜する罪

イエス様は、ご自分を批判した人たちにこう言いました。「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

イエス様の家族のように、イエス様のことを心配して、その働きをやめさせようとしたり、イエス様のことが理解できないために批判したりすることは、赦されない罪ではありません。それは無知のためにしていることだからです。しかし、目の前で人が悪霊の支配から解放され、人間性を回復しているのを見て、「あれは悪霊の仕業だ」と言い張るのは、もはや無知や誤解ではなく、悪意によるものです。それはイザヤ五章二十節にあるように、「善を悪と言い、光を闇とする」ことであり、あえて不真実と偽りの道を選ぶことなのです。

わたしたちは今も人間を善い者に造りかえてくださるイエス様の働き、聖霊の働きを見ることができます。以前、「親分はイエス様」という映画を見たことがありますが、暴力団にいた人が改心して、素晴らしい人間になり、今度は喜んで神のために仕える人になる、ということが数多く起きています。そのようなことは、キリスト以外の力でできるでしょうか。

教会の歴史の影の部分を見てキリスト教を批判する人々もいます。キリストには罪がありませんが、キリストを信じる人間には罪があります。教会が犯してきたたくさんの過ちがあり、罪があります。しかしある神学者は、「確かに教会の歴史には負の部分も多くある。しかし、もしこの世界にキリスト教が存在しなかったら、この世界ははるかに悪くなっていたであろう」と語っています。キリスト教がなければこの世界に人権も民主主義もありませんでした。病院も福祉施設も教会の働きからはじまりました。

聖書のイエス様を見て、またこの世界に広がっているイエス様の働きを見て、素直に評価できる人、公正な目で見ることができる人、そしてイエス様に人間を超えた力を見て、イエス様のもとに来る人は幸いな人です。

●イエスの家族となる

今日の旧約聖書の日課、創世記三章には、悪魔の誘惑に負けた最初の人間に対して、神様が救い主を送る、という予告をされたことが書かれています。三章十五節で神は、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」と告げました。これは「最初の福音」と呼ばれている言葉です。

この救い主は「女の子孫」として来られます。イエス様の父は神であり、人間の親は母親だけだからです。

そしてイエス様が悪霊に勝たれたことは、イエス様が悪魔に勝つことができる方であることを示しています。

パウロはキリストを第二のアダム、新しいアダムと呼んでいます。わたしたちは第一のアダムから命を受け継いでいますが、罪と死も受け継いでいます。しかし、キリストに結ばれてあふれる義と命を受けているのです。ですからキリストは「新しいアダム」と呼ばれます。

イエス様が来られたのは、罪を犯して神から離れてしまったわたしたちを悪魔の手から取り戻し、神に愛される子ども、神の家族としてくださるためでした。

今日の福音書の後半で、イエス様に、「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と告げた人に対して、イエス様は、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われました。「神の御心を行う人」とは、イエス様のもとに来て、イエス様の足元に座り、イエス様の言葉に耳を傾けている、そのことを指しているのです。

ヨハネ福音書六章で、ある人が「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と聞くと、イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」とお答えになったことが記されています(ヨハネ六:二八,二九)。どんなに自分は正しい人間だ」と思っても、悪魔に勝てる人はいません。そんなわたしたちに神様は大切な独り子を与えてくださったのです。イエス様に神の訪れを見て、イエス様のもとに行き、イエス様の言葉を喜んで聞くこと、それが神の御心を行うことであり、神の業なのです。そしてそのようにイエス様を受け入れる人は神の子とされ、神の家族とされるのです。

「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と言ったイエス様は、決してマリアや兄弟たちを愛さない、冷たい方ではありませんでした。イエス様が復活された後、イエス様の母も兄弟もイエス様を信じ、地上の一時の関係ではなく、永遠の神の家族とされたのです。キリストはそのために家族を離れて、神の働きに身を献げられたのです。

それはわたしたちにとっても同じです。わたしたちはイエス様を信じていない自分の家族と別の道を歩んでいるように見えるかも知れません。しかしわたしたちが主の愛のもとにいる事は、わたしたちの愛する人々もわたしたちと共に主の愛の中にいるという事なのです。わたしたちをこよなく愛しておられるイエス様は、わたしたちの愛する人々も必ずみ心にとめてくださるからです。このイエス様の愛に信頼を置き、イエス様のお働きに仕えてゆきたいと思います。

「霊によって生まれる」

 ヨハネによる福音書3章1-17節

三位一体主日の説教

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいないそして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

●イエスとニコデモ

今日の福音書にはニコデモという人のことが書かれています。この人はユダヤ人たちの議員でした。ユダヤ人の議員は全国で七十人だけですから、たいへんなエリートです。また、ニコデモは神様の掟を厳しく守るファリサイ派というグループの人でした。

このニコデモが、夜イエス様を訪ねました。なぜわざわざ夜訪ねたと書かれているのでしょうか。イエス様はその時ユダヤ人の指導者たちから悪く思われていました。このヨハネ福音書の二章には、イエス様が神殿から鳩や羊を売る人たちを追い出したことが書かれています。ユダヤ人たちは自分たちを批判するイエス様を憎んでいたのです。しかしその人々の中で、ニコデモはイエス様を尊敬していました。そしてイエス様にお会いして教えを受けたいと思っていました。しかしイエス様のところに行ったことが分かると他の議員たちに「お前はイエスの味方か」と言って攻撃されてしまいます。それでニコデモは人目につかないように、夜イエス様を訪ねたのです。ニコデモは、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」と挨拶しました。「「ラビ」とは先生、という意味です。

このニコデモの挨拶をよそに、イエス様は、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」とお答えになったのです。なぜイエス様はいきなりそんなことを言われたのでしょうか。イエス様は、ニコデモが何を求めてご自分のところに来たのかが分かっておられたのです。ニコデモはイエス様に「どうしたら神の国に入ることができるのでしょうか」ということを聞きに来たのです。神の国を見ること、神の国に入ること、それはユダヤ人にとって最も大事なことでした。ニコデモは真剣にそのことを考えていた人でした。そしてそのために神様の掟を熱心に守り、行っていたのです。周りから見れば、彼こそ最も神の国に近い人であるように見えたことでしょ。しかしそれでもkレには自分が神の国に行ける」という確信を持つことができなかったのです。

●新しく生まれる

しかし、イエス様はニコデモに、こういうことを実行すれば神の国に入れる、とは教えませんでした。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」、と言われたのです。この「新たに」という言葉には「上から」という意味もあります。人は上から、つまり神様によって新しく生まれなければ神の国に入ることはできないならない、とイエス様はニコデモに語ったのです。

イエス様は「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」と言いました。聖書の「肉」という言葉は、「生まれつきの人間」という意味です。生まれつきの人間は、どんなに努力してもよい行いを励んでも、神様に喜ばれる人にはなれません。人間は良い人間となろうと努力しても、その結果、他の人よりも自分が立派だと誇る気持ちがでてきます。また、生まれつきの人間は神への愛ではなく、主人の顔色をうかがう奴隷にように恐れを持っているので、心から神を愛することができないのです。イエス様は、そのような人間の生まれつきの力ではなく、上から、神から与えられる霊によって新しく生まれ、神の国に入ることができるのだ、と教えられたのです。

「霊によって生まれる」ということが理解できないニコデモにこう言いました

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

聖書では霊と風は同じ言葉です。風は目に見えませんが。風が吹く音や、風にそよぐ木立の様子を見れば風が吹いていることわかります。同じように、神の霊も目に見えませんし、人間の頭でそのすべてを理解することはできませんが、霊が働いた結果を見ることはできます。

パウロは、ローマの信徒への手紙八章で「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」と言っています。

「アッバ」というのは「お父ちゃん」とか、「パパ」と子供が父親を親しく呼ぶ言葉です。これはイエス様だけが神様に対して呼びかけた言葉です。神の霊を受けると、わたしたちは神の子として新しく生まれ、イエス様と同じように神を「愛するお父さん」と呼ぶことは、聖霊の働きの結果なのです。

人が神の霊によって新しくされることは、すでに旧約聖書で神様が約束しておられたことでした。エゼキエル書十一章十九節には

「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。」と書かれています。

●神の霊を受ける人

では、神の霊をどのようにして受けるのでしょうか。イエス様はニコデモに、「風は思いのままに吹く」と言っています。これは、風が気まぐれに吹く、というように聞こえますが、風、すなわち霊は自分の意志に従って吹く」という意味です。昔の文語訳聖書では、「風は己(おの)が好む所に吹く」と訳されています。風は決して気まぐれに吹くのではなく、一定の法則に従って吹いています。風は気圧の高い所から低いところに吹きます。神の霊もまた高い所から低いところに吹くのです。すなわち、神の前にヘリくだった人に向かうのです。神は低きに降る神である、と旧約聖書に記されています。そしてわたしたちが心を低くされるのは、イエス・キリストの十字架を見上げる時です。

今日の福音書の日課には、「聖書の中の聖書」と呼ばれる言葉が記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という言葉です。ここで「神がその独り子をお与えになった」とある言葉は「引き渡された」という言葉です。神様は大切な独り子の命をわたしたちの罪を赦すために、罪びとであるかのように十字架の死に引き渡されたのです。

また、「世を愛された」とある「世」とは、神に逆らっている悪い世界のことです。そしてわたしもその「世」の中のひとりなのです。神の前で自分の正しさし、神を遠ざけ、神を愛することができないのがわたしたちです。しかし神はそのようなわたしたちのために、独り子を与えてくださったのです。わたしたちがこのキリスト、十字架につけられたキリストを仰ぎ、このキリストがわたしのために与えられたのだと信じる人に神の霊が注がれ、神を愛する心、神様をお父さんと呼ぶ霊が与えられるのです。

夜キリストを訪ねたニコデモは、その後どうなったのでしょうか。彼はその後もキリストの弟子であることを告白っすることはできませんでした。彼はユダヤの議員として、キリストを死に定めるという決議にも同席しなければなりませんでした。そして恐らくキリストの死も見届けたことでしょう。しかし自分の弱さを思い知らされたニコデモが見たのは自分を十字架につけた人々を呪うイエス様の姿ではなく、人間のすべての憎しみと敵意を受け止めているキリストの愛の姿でした。それは神だけが持つ愛でした。わたしたちはそのような赦しがなければ決して自分の罪や弱さを認めることができないのです。

ニコデモはイエス様が死なれた後、すぐにたくさんの香料をもってイエス様の葬りに加わりました。それは、「わたしはイエスの弟子である」という告白でした。彼は聖霊によってキリストへの信仰を表わす勇気を与えられたのです。

わたしたちも今、聖霊によって、神を愛する父と呼ぶ者にされています。そのことを何よりも感謝したいと思います。そしてこれからもキリストを見上げ、聖霊が与えてくださる愛と力と熱意を祈り求めて、大切なキリストの働きに仕えてゆきたいと思います。

「主の霊が降るとき」

使徒言行録2章1—21節

聖霊降臨祭の説教

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。

『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、

若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。

すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。

血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、

月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。

●神の霊が降る

この世界にはなぜ多くの言葉があるのでしょうか。旧約聖書に「バベルの塔」の話が記されています。昔、シヌアルというところに住んでいた人々は石と漆喰のかわりに、焼きれんがとアスファルトを建築資材として使うようになりました。技術革新によって、より高い建物を造ることが可能になったのです。この時言葉は一つでした。人々は、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言いました。彼らのしたことは力を合わせて大きな都市国家を造ろうとしたのです。それは人々に、地の上に広がるようにと命じた神の意志に反抗することでした。シヌアルの人々のしようとしたことは自然環境にとっても脅威となります。もともと緑の豊かなこの地方は、れんがを焼くために森を伐採したため、雨が降らなくなり、砂漠になってしまったのです。

神様はシヌアルの人々の言語を乱し、多くの人が一つところに集まらないようにされました。それで今、多くの言語がある理由だというのです。

今日は、聖霊すなわち神様の霊がイエス様を信じる人々に降(くだ)った記念の日曜日です。バベルの塔に対して、聖霊降臨の出来事は「バベルからの回復」と考えることができます。

第一に、それは人間が神に近づくのではなく、神が降って来られたからです。聖霊が降った時、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とありますが、この「とどまる」という言葉には「座る」とか「住む」という意味があります。聖霊が一人一人の上に降ったということは、人が神様と結ばれた、ということです。これはわたしたち人間にとって最も恵まれたことではないでしょうか。

人間はバベルの人々のように、昔から自分の努力や知識によって神に近づこうとました。しかしどんなにわたしたちが自分の知恵や力や正しさを誇っても決して神に近づくことはできません。それどころかわたしたちはエデンの園のアダムとエバのように、神が近づいてきたなら、恐れて逃げ出すことしかできない者なのです。

●人と人とが結ばれる

聖霊はどのような人々に宿ってくださったのでしょうか。聖霊が降った時、弟子たちは「一つになって集まって」いたと書かれています。これはバベルの人々が心を一つにしたのとは違っています。キリストが十字架で死なれる前、弟子たちの心は決して一つではありませんでした。弟子たちは最後の晩餐の席でも、誰が一番偉いのかということで争っていました。彼らの心の中には、自分の働きや地位を主張し、それらがあるからえらいのだと考えていたのです。でもイエス様が逮捕されたとき、彼らの忠実さも、熱心さも打ち砕かれてしまいました。誰一人イエス様に従うことができなかったのです。

しかし、そのように自分の弱さを思い知った弟子たちに復活したイエスが変わらない愛をもって出会ってくださったのです。弟子たちはそのとき初めて、じぶんたちがイエス様を支えていたのではなく、イエス様が弱い自分たちを赦し、愛し、支えていてくださったことを知ったのです。このキリストの愛の中で弟子たちの心は本当に一つにされていたのです。そしてその弟子たちの上に聖霊が降ったのです。その聖霊によって、弟子たちは心だけでなく、一つの神の霊を受けて、本当に一つにされたのです。

イザヤ書57章15節で、「(神様は)打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる。」と書かれています。

今も、キリストの愛を受け取る人は誰でも神の霊を受け、神に結ばれます。そして一つの聖霊を共に受けた 人々もお互いに一つにされるのです。そしてここに本当の一致と平和の土台があります。

教会には、育った環境が違う様々な人が集まっていますが、キリストの愛を喜ぶ心は一つです。世界の教会は組織を統一しようとはしません。歴史や伝統の違いを持ちながら、聖霊に結ばれて一つの教会とされています。

また教会には外国の方がお見えになることがありまです。言葉の違いによってコミュ二ケーションが十分に取れなくても、お互いの心がキリストによって結ばれ、同じ霊に生かされていることを感じます。これもバベルからの回復」ということができます。

●新しい言葉を語る

それではわたしたちの内に聖霊がおられることをどのようにして知ることができるのでしょうか。今日の日課の最後にあるように、「イエスはわたしの主です」と言い表す人は、誰でも聖霊を受けているのです。なぜなら「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(コリント12:3)と書かれているからです。イエス様を主と告白している人は聖霊を受けているのです。聖霊の神様はわたしたちに働きかけて下さり、キリストへの信仰に導いてくださるのです。

しかし、聖霊のお働きはそこで終わるのではありません。聖霊が注がれる目的は、先週学んだように、わたしたちをキリストの証人とするためです。

聖霊が最初に降ったとき、激しい風が吹くような音が聞こえました。「風」は「霊」と同じ言葉です。神の霊は幽霊のようなものではなく、世界を創造した方であり、突風のように力をもっています。聖霊を受けた弟子たちは、迫害にも負けない勇気を与えられてキリストの救いを述べ伝えました。

 また、聖霊は「炎のような舌」のかたちをとって降りました。「舌」は「語る」ことに関係しています。聖霊は弟子たちに異国の言葉を語る能力を与えました。五旬祭の時、外国で生まれ育ったユダヤ人たちがエルサレムに来ていました。弟子たちが自分たちの国の言葉で語るのを聞いて驚いた彼らは言いました。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」(二:八)。

 弟子たちにそのような目覚しい能力が与えられたのは、イエス様が、ご自分の福音は使徒たちの時代に世界に広がる、と告げておられたからです(使徒1:8)。何年もかけて外国語を学ぶ余裕はなかったのです。初代教会の爆発的な広がりは、聖霊の働きなしには考えられません。

 現代のわたしたちにはこのようなことは起きていません。しかし聖霊を受けた人はあらゆる国の人々に届く言葉を語るのです。「生まれ故郷の言葉」とは、わたしたちの共通のルーツである神の言葉であり、すべての国の人々の心に響く言葉であるとも言えます。

わたしたちは今日、新たに聖霊を受けるためにこうして集まっています。聖霊はわたしたちに様々な力を与えてくれますが、今日はその中でも、「新しい言葉を語る」ということを覚えたいと思うのです。聖霊によってわたしたちに力が与えられ、愛に燃える心が与えられ、誰に対してもふさわしく語る知恵を与えられることを祈り求めたいと思います。イザヤ書50章4節に、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え 疲れた人を励ますように 言葉を呼び覚ましてくださる」とあるように、日常の何気ない会話の中でも、キリストの愛に生かされている者として語りたいと思います。天の方向がわからずにさまよっている人々に、天の父の愛が伝わるような言葉を語る者にさせていただきたいと思います。

「天に昇ったキリスト」

ルカによる福音書24章44-53節

主の昇天主日の説教

イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。 

●わたしたちの本国は天にある

今日はイエス様の昇天を覚える日です。イエス様は復活してから四十日目に天に昇りました。イエス様の昇天は、わたしたちにとってどのような意義があるのでしょうか。

イエス様の昇天は、たしたちに新しい人生の目標を与えてくれます。イエス様の復活と昇天は、イエス様ご自身のためだけに起きたことではありません。イエス様は永遠の命を持っておられる方であり、世の初めから父なる神と共に栄光の内におられた方ですから、イエス様ご自身のためには復活も昇天も必要ありませんでした。イエス様が死から復活,天に昇られたことは、イエス様に結ばれているわたしたちも、イエス様と共に復活し、イエス様と共に天に上げられるということを示しているのです。

使徒パウロはエフェソの信徒への手紙二章四節以下でこう語っています。

「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、・・・キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」

ここでパウロは、神様がキリストと共にわたしたちを復活させ、キリストと共に天の王座に着かせてくださった、と教えています。そして「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」と語っています。イエス様を信じる人は誰でも、イエス様に結ばれ、天の国に行き、イエス様と共に天の座に座るという最高のゴールを、将来ではなく今与えられているのです。

使徒パウロはコロサイの信徒への手紙三章三節以下でこう言っています。

「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」

わたしたちの新しい体と命とは、すでに天に備えられているというのです。

イエス様によって与えられるこの栄光を知らないなら、わたしたちの人生は死に向かうだけの虚無的なものになってしまいます。最も良い時は過去の若い日々にあり、歳を重ねると、失われてゆくものしかありません。しかしイエス・キリストの昇天は、わたしたちに永遠の希望を与えてくれるのです。キリストにある人々の人生は、すでに天に備えられている栄光に近づいて行く、大切な、価値ある一日、一日となるのです。

●神のご計画を教えるイエス様

イエス様の昇天の最大の目的は、天から聖霊を送るためでした。イエス様が天に昇られたことは、弟子たちから遠く離れてしまったように見えますが、本当はイエス様は聖霊を通して、わたしたちがいつ、どこにいようとも、近くにいてくださる方となられたのです。

しかし、イエス様が聖霊を送ってくださるのは、わたしたちのためだけではなく、世界に関わる神様のお働きにわたしたちが仕えるためでした。天に帰る前に、イエス様は弟子たちにその大切な使命を弟子たちにお与えになったのです。そしてその使命を果たす力を与える聖霊を送るために天に昇られたのです。

復活したイエス様は弟子たちに、(旧約)聖書に記されている神のご計画について教えました。その計画とは

、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」というものです。イエス様は聖書の中心的な内容を、このように簡潔に教えてくださったのです。そしてイエス様が話された前の半分、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」ということはすでに実現しました。わたしたちのための救いの働きが完成したのです。次は「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」という聖書の言葉が。弟子たちの働きを通して実現する、とイエス様は教えたのです。このように、聖書全体はキリストによる救いの実現と、その救いが全世界に伝えられることを予告しているのです。

それでは、キリストの救いが全世界に伝えられることは旧約聖書のどこにあるのでしょうか。今日は一箇所だけ引用しますが、詩編 二十二篇二十八節と三十節にはこのようにあります。

「地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。・・・わたしの魂は必ず命を得 子孫は神に仕え 主のことを来るべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう。」

ここでイエス・キリストはダビデの口を通して、ご自分が受ける苦難と勝利を語っておられるのです。キリストは復活し、その子孫、すなわち彼の命を受けた人々は、主が成し遂げてくださった救いを来るべき世に語り伝える、と言っているのです。また、「み許に立ち帰り」という言葉は「悔い改める」という意味です。キリストによる赦しが実現したので、人々は自分の罪を認め、喜んで神に帰ることができるのです。

●キリストの証人となる

 ィエス様の死と復活による救いが実現したように、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と言われたことも必ず実現するのです。 まだわずかな弟子たちしかいなかった時に、キリストが、「わたしの福音は世界に宣べ伝えられる」と言われたことは、驚くべきことです。また、この福音書が書かれた時代を見ても、教会は厳しい迫害の中に置かれていました。しかし今日、イエス様が告げられたように、キリストの福音は世界に伝えられています。

イエス様は弟子たちに「あなたがたはこれらのことの証人となる」(二四:四八)と告げました。キリストの弟子たちは迫害に耐えてキリストを伝えましたが、それは彼らの力ではなく、キリストが父のもとから送ってくださった聖霊の力によるものでした。

 「あなたがたはこれらのことの証人となる」というキリストの言葉は、当時の弟子たちにだけでなく、教会全体に語られた言葉であり、わたしたちにも語られている言葉でもあります。イエス様を信じている皆さんが今ここにおられるということが、イエス様を証ししているのです。

 わたしたちは、教会の働きを通して神の言葉を伝えています。しかし皆が神の言葉を語るのではありません。またそれぞれの生活の場でも、他人に宗教の押し売りをすることはできません。でもわたしたちが聖霊によって愛や喜びや平和をいただき、それを通してキリストを示すことはできます。

しばしば、「教会は神の国の大使館であり、クリスチャンは神の国の大使である」と言われます。最近では自治体やその働きをアピールする人を大使と言う意味の「アンバサダー」と呼んでいます。その役割の一つは、自分の国を紹介し、理解してもらうことです。大使は本国から派遣されて外国に住んでいます。わたしたちも、本国はすでに天にありますが、今は神の国を代表する大使としてこの世界に派遣され、この世界で生活しているのです。わたしが神の国の大使として遣わされていることを心に留めて、「どうかわたしたちがその務めをたすことができるように、あなたの霊を与えて下さい」と祈りながら、キリストの証人として歩んでゆきたいと思います。

「イエスはまことのぶどうの木」

ヨハネによる福音書15章1-8節

復活節第5主日

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 15:07あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 

●わたしはまことのぶどうの木

イエス様は、「わたしはまことのぶどうの木」と言われました。この「まこと」とは「真理」という言葉で、聖書では「影」に対する「本体」という意味を持っています。イエス様は同じヨハネ福音書一章九節では「まことの光」と呼ばれています。わたしたちが毎朝朝の光を浴びる時、世の光であるイエス様を思います。

また、ヨハネ六章では、イエス様はご自分のことをまことの食物」と言っておられます。日々の食事をいただくとき、わたしたちは永遠の命を与えるまことの食物であるイエス様を憶えるのです。

同じように、地上にあるぶどうの木もイエス様のことを指し示しています。わたしが生まれた山梨県では、ぶどう畑を身近に見ることができました。日本では生食用のぶどうはぶどう棚で育てますが、そのぶどう棚を見ると、一本のぶどうの木が、驚くほど遠くまで枝を広げ、たくさんの実がなっているのを見ることができます。イエス様につながる教会は今、全世界に広がっています。しかしどんなに広く広がっていても、イエス様を信じる人々は、一本の木であるイエス様につながっている一つの教会、一つの群れなのです。

 イエス様は今日の福音書の中で「実を結ぶ」ことについて語っておられます。ぶどうの木が植えられるのは実を得るためです。このぶどうの「実」とは何のことでしょうか。それはガラテヤ人の信徒への手紙五章にあるとおり、神の霊によって生まれる愛、喜び、平和という実です。パウロは別のところで、「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛である。この中で最も偉大なものは愛である」、と言っています。人間は神の恵みを喜び、神を愛するように造られました。そして、神の子どもとして、「神は愛である」と言われている、その神に似た者となることを求められています。それが「実を結ぶ」という事です。

ぶどうの木や枝はねじまがっていますので、それで家を建てることはできませんし、つまようじ一本さえ作れません。ぶどうの枝や葉そのものには価値はなく、ただ実を結ぶことに価値があるのです。

多くの人は、この世界でできるだけ豊かな生活をし、またある人はこの世に名を残すような大きな働きをすること人生の目的にしています。それらは決して不必要なことではありません。しかし、たとえこの世で偉大に見えることをした人でも、神の子らしく生きる、という実を結ばなければ、その人の業績は何も残らないのです。イエス様は「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と語っておられます。世の終りには、わたしたちのすべての仕事は火によって試される、と聖書は語っています。(1コリント3:10-15)わたしたちは、いつまでも残るものを人生の目的として定めなければなりません。

●わたしにつながっていなさい

それでは、神様に喜ばれる実を結ぶためにわたしたちは何をしたらよいでしょうか。実を結ぶための力や出発点はどこにあるのでしょうか。それは、良い人間になろうと、自分で努力することではありません。パウロという人は、自分の努力や行いによって善い人間でなることを目指していましたが、自分の内面に気付いた時、「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます」(ローマ7:21)語っています。生まれつきの人間は神への愛がなく、恐れがあるだけです。

しかし、イエス様はこの世でただひとり神の御心にかなう道を歩まれ、父なる神によって復活の命を受けられたのです。つまり、この世で良い実を結ばれたのは人となられた神の子イエス・キリストだけなのです。イエス様はその命でわたしたちの罪をすべて償ってくださり、またその命でわたしたちを養ってくださるのです。このイエス様を受け入れることが、わたしたちにできる最上の業なのです。

イエス様は、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言っておられます。この「つながる」という言葉は、「とどまる」という意味もありますし、「滞在する、宿 泊する」という意味もあります。イエス様は今日の日課の後の十五章九節では、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と語っておられます。枝がぶどうの木につながっているなら、自ずと実を結ぶように、キリストの愛の内にとどまっているなら実を結ぶことができるのです。

また、イエス様は、「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(15:7)、と言っておられます。イエス様にとどまる、ということは、イエス様の言葉がわたしの内にとどまっている、ということです。イエス様はご自分を信じるわたしたちに完全な愛と赦しを与えると約束されました。またその愛にふさわしく、お互いの関係において神の愛をあらわしてゆくということです。わたしたちはイエス様の言葉から愛と赦しの言葉を聞くとともに、互いに愛し合いなさいというイエス様の願いも聞きます。これらのイエス様の言葉を心にとどめる人々の祈りはかなえられます。それはその人々が自分勝手に祈るのではなく、イエス様の意志に従い、イエス様の心に沿って祈るからです。

●わたしもあなたがたにつながっている

このように、キリストの愛の内に生きる時、すなわちキリストにつながっている時、その人は必ず実を結びます。

ここで確認しておきたいことは、今日の一五章二節の、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」という言葉です。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝は…」とありますから、「イエス様につながっていても実を結ばないこともあるのか」と思ってしまいます。しかしこの二節の「わたしにつながっていながら」という言葉は「わたしの内にいる」という言葉です。つまり、キリスト教の国の中にいても、神のぶどう園であり、キリストの体である教会の中にいながら、イエス様の赦しと愛に生かされるのではなく、自分の真面目さや自分の働きを誇る人、それによって兄弟を裁き、愛さない人のことです。そういう人はいつか群れから出てしまいます。イエス様は二節で、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と言っています。それは自分から背を向けたように見えますが、それは神様がその人をぶどう園かた取り除かれた、ということなのです。

 最後に、イエス様が今日の日課の四節で、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と言われた言葉を憶えたいと思います。それは、わたしたちがイエス様につながろうとするなら、イエス様はわたしよりもっと強い力でわたしをつながってくださる、ということです。

 強い風が吹く湖の上をイエス様と同じように歩こうとしたペトロは、風を見て恐ろしくなり、溺れかけました。イエス様はペトロの差し出した腕をつかみ、引き上げたのです。イエス様は真実な方ですから、ご自分を愛し、信頼する者を決して見捨てることはありません。「わたしはイエス様と結ばれて生きてゆきます」、と告白したその日から、わたしたちの方からイエス様を捨てない限り、イエス様はわたしたちを決して見捨てることはないのです。いつかはわたしたちは自分の力では何もできなくなる時が来るかも知れません。しかし、それでもイエス様はわたしたちとつながっていてくださり、最後まで実を結ばせてくださるのです。

このイエス様に信頼して、「実を結ぶ者にしてください」と願いながら、今日もイエス様のもとに行きたいと思います。

「わたしたちの羊飼い」

ヨハネによる福音書10章 11-18節

復活節第4主日の説教

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

●わたしたちの飼い

今日の福音書は、わたしたちがよく知っている「良い羊飼い」のお話です。旧約聖書には羊と羊飼いのことがいくつも書かれています。そして神様とイスラエルの関係を羊飼いと羊の関係として教えています。

羊は羊飼いなしには生きてゆけない動物です。羊は食べ物である草や。飲み水のある場所に自分で行くことが出来ません。また羊の毛は生え変わらないので、毛を刈ってくれる人間が必要です。野生の山羊はいますが、野生の羊というものはいないのです。

同じように、人間にも羊飼いが必要です。羊が羊飼いの声に導かれるように、わたしたちを正しく導いてくださる方が必要なのです。わたしたちは皆アダムとエバの子孫です。それは、すべての人は本当に大切な神様との関係を求めないで、自分たちの目に良く見えるものに向かってしまう、ということです。自分では幸せを求めているつもりで、神から離れて道に迷ってしまうのです。

羊と羊飼いが同じでないように、人間の羊飼いは人間ではなく、神様です。神様はイスラエルの国の政治的指導者や宗教指導者たちをご自分の代理として、羊飼いの務めを託したのです。しかしその務めを託された人々は、神に忠実ではなく、羊たち、すなわち自分たちに委ねられた人々を大切にしませんでした。イエス様が言われるように、彼らは「雇人」であって、羊の所有者である神様のように、羊を命をかけて守る気がなかったのです。

エゼキエル書34章には、神ご自身が自分の羊の世話をする、と語っておられます。11節にこう書かれています。

「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」

神ご自身が直接わたしたちの羊飼いになってくださった。それが人となられた神の子、イエス・キリストです。イエス・キリストは「わたしは失われた羊を探し出すために来た」と言われました。

●イエスは良い羊飼い

しかし、わたしたちはどのようにしてイエス・キリストがまことの羊飼いであることを知るのでしょうか。Jイエス様は今日の日課で雇人の羊飼いについて語っておられますが、前のところでは盗人や強盗のことも書かれています。こうした強盗は強盗の姿で来るのではなく、「わたしがあなたを幸せにしますよ」と言って、羊飼いのふりをしてくるのです。

わたしは、今はイエス・キリストを百パーセント信じていますが、教会に通い始めた時にはまだキリストを信じることへの恐れや不安がありました。世の中には人を食い物にする宗教も多いと思っていたからです。そこでわたしは信じるための二つの条件を考えました。二つ目の条件についてはまたの機会にお話ししますが、その一つは、「その宗教の教祖や指導者が一般の信徒と比べて、裕福な暮らしをしていたり、雲の上の生活をしていたりするなら、それは危ない」ということです。

イエスというお方はどうでしょうか。イエス様は身につけるもの以外はこの世でご自分の持ち物は何一つ持っていませんでした。そしてその着物でさえ、十字架の時にすべてはぎ取られたのです。また、イエス様は弟子たちと同じものを食べ、同じところに休まれたのです。

また、新興宗教の多くの教祖は、偉くなると人に働かせても、自分は同じように汗水流して働きません。しかしイエス様は弟子たちを伝道に送り出した時、ご自分は家で休んでいたのではなく、自らも伝道をされたのです。マタイ福音書十章はイエス様が十二弟子たちを宣教に送り出したことが書かれていますが、十一章一節で、「イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された」と書かれています。

このように、イエス様は自分のためにわたしたちを搾取しない方です。そして搾取しないばかりか、かえってわたしたちのために自分の命を捨ててくださった方なのです。羊飼いが野獣から自分の羊を命がけで守るように、イエス様はわたしたちの罪を十字架の上で背負ってくださり、わたしたちを迷いと滅びの道から、悪魔の牙から救って下さったのです。イエス様の十字架はわたしたちの罪が赦されたことを確信させてくれます。そして心から神を愛することができるようにしてくれるのです。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」わたしがこのイエス様の言葉を聞いたとき、このような方こそわたしが信頼できる方であり、すべてを委ねることができる方である、という確信が与えられたのです。

イザヤ書53章6節を読んでみましょう。

「わたしたちは羊の群れ

道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。

そのわたしたちの罪をすべて

主は彼に負わせられた」

良い羊飼いであるイエス様は、わたしたちの救いのために命を捨てて下さったのです。

●今も導く主

 しかし、イエス様がそのようにわたしたちを愛してくださり、命を捨ててくださっても、もし死なれたままであれば、わたしたちは荒野に取り残された羊のように孤立してしまいます。しかしイエス様は、十字架を前にして「わたしはあなた方を孤児のままにしておかない」と弟子たちに約束されました。そして今日の日課の18節で、「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」と語っておられます。十字架に死なれたイエス様は死の力に勝って復活し、永遠にわたしたちと共にいてくださる方となられたのです。イエス様の十字架には神の子の愛が示され、イエス様の復活には神の子の力が示されているのです。

イエス様は16節で、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」と語っておられます。「この囲いに入っていないほかの羊」とはユダヤ人ではない人たちのことです。ユダヤ人たちは信仰の伝統を守るために外国人と区別されていました。しかし復活したイエス様は、その垣根を超えて世界の人々の羊飼いとなられたのです。「その羊をも導かなければならない」と言われているように、復活されたイエス様ご自身が今も羊飼いとして、 生きて働いておられるのです。

わたしたちはどこで羊飼いであるイエス様と会うのでしょうか。

羊飼いは羊飼いの声のするところにいます。羊飼いであるイエス・キリストの声は、キリストご自身の言葉が聞かれるところ、またキリストについて語られるところにおられます。そのために教会では説教が語られますが、他にもみんなで式文を歌い、讃美歌を歌います。説教者だけでなく、みんながキリストの言葉を語っているのです。そのようにキリストの言葉、キリストについての言葉が語られ、聞かれるところに、羊飼いであるキリストがおられます。ルターは、讃美歌は会衆の説教である」と語っています。

イエス様の声を聞いて、イエス様のもとに来る人は、大人でも子どもでもイエス様の羊です。

さらに、「この囲いにいないほかの羊」とはイエス様の羊であるのに、まだイエス様から離れている人々のことでもあると思います。「その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」とイエス様は語られます。このイエス様の思いをわたしたちも受け止め、イエス様の声を届けたいと思います。教会の働きを通してみ言葉を伝え、またそれぞれの生活の中での生き方を通して、良い羊飼いであるイエス様の声を届けてゆきたいと思います。

 「復活の主との出会い」

ヨハネによる福音書20章19-31節

復活節第2主日の説教

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

●真ん中に立たれるイエス

 イエス様の墓に行ったマグダラのマリアは、復活したイエス様と出会いました。そしてそのことを男の弟子たちに伝えました。その知らせを聞いた弟子たちはその日、つまりイエス様が復活した日曜日の夕方、一つの家に集まっていました。しかし彼らはイエス様を十字架につけて殺したユダヤ人たちは、自分たちも捕えるのではないかと思い、彼らがいた家の戸にすべて鍵をかけていました。するとイエス様が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言って、手とわき腹の傷を見せたのです。「弟子たちは主を見て喜んだ」(20:30)と書かれています。十字架の痛ましい傷跡は、目の前の人物が確かにイエス様であることの確かな徴となったのです。「あなた方に平和があるように」という言葉は祝福の言葉です。復活のキリストは、人間の罪をみな引き受け、復活してわたしたちにまことの平和を与えてくださる方なのです。

 キリストが弟子たちの真ん中に立たれたことが書かれています。申命記6章15節には「あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である」と書かれています。またゼファニヤ書3章17節にも「お前の主なる神はお前のただ中におられ 勇士であって勝利を与えられる」と記されています。「ただ中」とは「真ん中」という言葉です。イエス様が彼らの真ん中に立たれた、ということは、イエス様が新しい神の民の神となられた、ということです。

マタイによる福音書18章 20節でイエス様は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と語っておられます。ここでも「その中に」というのは「真ん中に」という言葉です。イエス様は今日も主の御名によって集まっているここでわたしたちに出会ってくださいます。そして平安を与え、聖霊を与えて、わたしたちを新しくし、この世界に遣わしてくださいます。されるのです。

●トマスの疑い

しかし、その時十二弟子の一人であるトマスはそこにいませんでした。ほかの弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ったのです。ほかの弟子たちが「主を見た」と言った、とあるこの「言う」という言葉は「言い続けた」という言葉です。ほかの弟子たちはトマスに一回言っただけでなく、何度も見たことを話したのです。それでもトマスは信じようとしませんでした。

しかしそのトマスもその八日後、つまり次の日曜日にはほかの弟子たちと一緒にいました。するとそこにイエス様が来られたのです。前と同じように部屋の戸に鍵をかけていたのに、弟子たちの真ん中に立たれたのです。

イエス様はトマスに対して「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言いました。トマスはイエス様に向かって「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。 

この場面を扱っている宗教画の多くは、実際にトマスがイエス様の手、またはわき腹に指や手を差し入れている光景を描いていますが、わたしは、トマスはそうしなかったと思います。トマスは、どこまでも彼を追い求めてやまないキリストの愛に圧倒されて、そう叫んだのではないでしょうか。

さらにイエス様はトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言いました。このイエス様の言葉は「わたしを見たので信じたのか」という問いかけになっていますが、もとの言葉は、「あなたはわたしを見て信じたが、見ないで信じる人を幸いである」という言葉です。トマスも含めて、復活のイエス様に出会った弟子たちは、その目撃者として証言する務めを与えられたのです。弟子たちは、自分たちが見たことを証言し、命をかけて伝えたのです。しかし、その弟子たち以後の人々は、今度はキリストの死と復活を見た弟子たちの証言を聞いて、また弟子たちの残した証言を聞いて信じることを求められたのです。そしてそのように、「見ないで信じる人々はさらに幸いである」とイエス様は語られたのです。

●見ないで信じる人のさいわい

では、見ないで信じる人はなぜ幸いなのでしょうか。信仰」とは、聖書では「真実」とか「誠実」という意味の言葉です。わたしたちはすべての点で真実であるとは言えませんが、神を求めることにおいては誠実であるべきです。

神様はこの世界に聖書を与え、教会を建てて、求める人はだれでもご自分を見出すことができるようにしておられます。しかし世界のベストセラーである聖書を読んで理解したいと思う人々は多くありません。人々は自分の求める楽しみや利益や知識を与える本は読もうとしますが、神を求めようとはしません。

イエス様は、「心の清い人は幸いである。その人は神を見る」とキリストは教えました。ここでの「清い心」とは、二心ではない、ひたむきな心のことです。一筋に真理を求め、神を求める人は、神を見ることができる幸いな人なのです。

また、「見ないで信じる人」とはイエス・キリストの愛を信じ、神の赦しと命を受ける幸いな人々です。時々、「神がいるなら見せてほしい」という人がいます。しかし今まで信じようともしないで無視していた神が、突然目の前に現れたらどうするのでしょうか。時代劇の水戸黄門で葵の紋の印籠を見せられたら、それで一巻の終わりであり、やり直しができないのと同じです。わたしたちはいつか聖なる神の前に立たなければなりません。しかし、神はその前にイエス・キリストによって、恵みの神として出会ってくださるのです。

わたしたちはキリストを見ていなくても、聖書を通してキリストの愛を知ることができます。そしてキリストの愛は人知を超えた神の子の愛であることを知るのです。キリストの愛を知ってキリストを信じる人は、今日の終わりの聖句にあるように、永遠の命を受ける幸いな人です。

昔聞いた話ですが、沖縄がアメリカ軍に占領された時、沖縄の人々は飢えに苦しんでいました。ある若いアメリカ兵は、痩せ細った日本の少女を見て、持っていた食べ物を差しだしました。しかし少女はどんなに勧められても口に入れようとしませんでした。大人たちから、「アメリカ兵がくれる食べ物には毒が入っている」と教えられていたからです。困った兵隊はそれをちぎって食べて見せました、すると少女はようやく食べ物を口にしました。それを見たその兵隊は声を上げて泣いたということです。

愛は強制できないものであり、心を開いて受け取らなければならないものです。キリストによって示された神の愛を知り、心を開いてその愛を受け入れる人は、キリストの命に生かされる幸いな人なのです。

「復活の光」

ヨハネによる福音書20章1-18節

復活祭の説教

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。

マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

●まだ暗いうちに

イエス・キリストの復活は、人類の歴史の中で最も輝かしい出来事です。死の闇に閉ざされたこの世界に新しい命の光が輝きました。

しかし、キリストの復活の光は、最初からまばゆく輝いてのではありません。夜明け前の暗い空がすこしずつ明るさを増してゆくように、復活の光も、キリストを失い、絶望と悲しみの闇に閉ざされていた弟子たちの心を少しずつ照らし、次第に輝きを増していったのです。そして復活したイエス様が弟子たちに姿を現したのはその日の夕方でした。

キリストがこのように時間をかけ、遠回りをして弟子たちに姿をあらわしたのは、弟子たちに心の準備をさせるためでした。炭鉱の事故などで長い間暗闇の中にいた人が、白昼の光を見ると、まぶしさのために失明すると言われています。同じように、イエス様を愛していた弟子たちであっても、死んだはずのキリストが何の予告もなしに目の前に現れたら、とてつもないパニックに陥ることでしょう。キリストは弟子たちを配慮して、ご自分に会う心の準備をさせたのです。

わたしたちはこのような福音書の記録を通してキリストの復活が事実であることを知ることができます。もしキリストの復活が作り話であったなら、最初から「弟子たちはキリストに出会って喜んだ」と書くことでしょう。

このヨハネ福音書では、最初に、墓に行ったマグダラのマリアに空になった墓が示されました。あたりが少し明るくなっていたのでしょう。墓の入り口から中を見たマリアは、イエス様の体がそこにないことを知りました。マリアは驚いて、弟子のペトロともう一人、イエス様に愛されていた弟子のところに走ってゆき、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」と伝えました。この福音書ではマグダラのマリアか書かれていませんが、マグダラのマリアは「わたしたちには分かりません」と言っているので、墓に行ったのはマグダラのマリアだけではなく、他の女性もいたことが分かります。ヨハネ福音書はマグダラのマリアにその女性たちを代表させているのです。

●残された衣

マリアの知らせを受けた二人の弟子たちは、急いで墓に走ってゆきました。そして墓の中でイエス様の体を包んでいた布と頭を包んでいた覆いを見ました。そしてイエス様に愛されていた弟子はそれを「見て、信じた」、と書かれています。

三日目前の午後、死んで十字架から降ろされたイエス様の体に香料は塗られ、ミイラのように亜麻布が巻かれました。「ミイラ」という言葉は没薬の「ミルラ」から派生した言葉です。没薬を塗られ、亜麻布を巻きつけられると、たとえ息を吹き返しても自分でそれをほどくことはできません。また誰かが遺体を盗みに入ったとしても、イエス様の体から亜麻布をほどく余裕はなかったはずです。イエス様の頭に巻かれたのは顔覆いでしたが、それは丸められていました。二つの布はイエス様の体と頭に巻かれたままの形で、抜け殻のように残っていた、と解釈する人もいます。しかしはっきり言えることは、彼らが、普通ではありえないことを見たということです。

今日の旧約聖書の日課、イザヤ書二五章には次のように記されています。

「主はこの山で すべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし 死を永久に滅ぼしてくださる」(25:7,8)

死者の体に巻かれた布と頭に巻かれた覆いとは、死の力の象徴です。死は永遠にその人を縛り続けるのです。しかし二人の弟子がたものは、まさしく無力になり、空しいものとなった布と顔覆いだったのです。

こうして弟子たちが復活のキリストに出会う心の準備がまた一歩進んでいったのです。

●復活の主に出会う者

 二人の弟子たちは家に帰りました。マリアはそのまま残って

墓に向かって泣いていましたが、彼女の後ろにおられたキリストに名前を呼ばれ、その人がキリストであることを知ったのです。

マリアはイエスの足を抱き、イエス様を拝しました(マタイ28:9)。そのマリアにイエス様は、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言われました。この言葉は マリアがすがりつくことを禁じる言葉ではなく、「すがりついていてはいけない」という意味です。「今わたしは父のもとに上りつつある」というのがその理由です。ヨハネ福音書は、イエス様が父である神のもとに上られることは、復活のすぐ後に起きた、と教えています。

イエス様がここでマリアに「わたしはこれから父のもとに上る」と言われたのは、父なる神のもとから聖霊を遣わすためでした。その聖霊によって、イエス様は遠く離れていても、信じる人々に出会ってくださる方となられたのです。マリアにとっても、キリストが父のもとに行くことは、遠ざかることでなく、むしろ聖霊によってマリアの内に来られ、永遠に共にいてくださる方となる、ということなのです。

イエス様は弟子たちにご自分をあらわすための最終段階として、マリアに弟子たちへの伝言を託しました。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」これは何という恵み深い言葉でしょう。マリアがイエス様から託されたのはイエス様の愛

のメッセージでした。イエス様は今も弟子たちを兄弟と呼んでいます。そしてわたしの神はあなた方の神であり、わたしの父はあなた方の父である」と告げたのです。

このキリストの愛の言葉を聞くことが弟子たちには必要でした。なぜなら、弟子たちには、イエス様を見捨てて逃げてしまった、という後ろめたさがあり、イエス様に会うことを恐れる気持ちがありました。しかし、その弟子たちにマリアは主に出会ったことを告げ、主から託された言葉を伝えました。弟子たちはキリストの愛の言葉を聞いて、恐れが取り除かれ、喜んでキリストと出会うことができるようになったのです。

復活したキリストの口には、ご自分を見捨てた弟子たちに対する怒りの言葉は一切なく、彼らに対しる変わることのない愛の言葉だけがあったのです。イエス様の復活は、死に対する命の勝利があらわしただけでなく、罪を赦すキリストの完全な赦しがあらわされた時です。そして、その知らせを聞く人にキリストへの愛が生まれ、キリストを愛した人にキリストは出会ってくださるのです。

ここにおられる皆さんがキリストの復活を信じているのは、キリストを愛したからであり、キリストが出会ってくださったからです。そしてわたしたちの罪と死に勝ってくださったキリストを私の内に迎える時、わたしたちにも死に勝つ力と、愛する人と顔と顔を合わせて再会する希望が与えられるのです。

キリストがよみがえって、命と愛の光を照らしてくださったことを伝えることができるのは、キリストに出会った人だけです。マリアがキリストからのメッセージを託され、続いて弟子たちに託されたように、わたしたちにもこの大切なメッセージを伝える務めがキリストから与えられています。

救いと命を求めながら、罪のために神を恐れ、心を閉ざしている人々がいます。神の愛と救いのあらわれであるイエス・キリストの復活を、わたしたちはこれからも伝えてゆきたいと思います。

「あなたの王が来られる」

マルコによる福音書11章1-11節

主のエルサレム入城

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。

「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

●あなたの王が来られる

 今日は、イエス様がエルサレムの町に入城された記念の日です。その日は日曜日でした。この週の金曜日にイエス様は十字架で死なれ、三日目の日曜日に復活されたのです。

 イエス様は王としてエルサレムに入りました。それは旧約聖書で予告されていたことでした。ゼカリヤ書区章九節にはこう記されています。

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。

イザヤ書に「あなたの神は王となられた」(イザヤ52:7)とあるように、聖書は神ご自身が王となってこの世界を治めるということを予告しています。そして神であるイエス・キリストが王として来られたのです。

しかし、イエス様が普通に歩いてエルサレムに入っても、誰もィエス様が王だとは思いません。ゼカリヤが書いているように、イエス様がろばに乗って入られたこと、そして大勢の人々がイエス様の通る道に、絨毯の代わりに上着を敷き、また他の人々が木の葉を敷きました。そしてイエス様の前を後を行く人々がとが

「ホサナ。主の名によって来られる方に、

祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

と讃美したことによって、イエス様が王として来られたことがおおやけにされたのです。この讃美は詩篇118篇の言葉ですが、讃美歌として歌われていたので、人々はこの詩篇を声を合わせて歌うことができたのです。

列王記上1章には、ダビデの子ソロモンが王に即位したことが記されていますが、その時ソロモンは「らば」に乗ったと記されています。そして人々は大きな歓声を上げた。と書かれています。しかしイエス様は、らばよりも小さなろば。それも子ろばに乗られたのです。

王であるイエス様は、やがて世界を裁き、悪を滅ぼす方です。しかし、この日エルサレムに来られたイエス様は、悪人と戦うためではなく、ご自分の国に人々を招くために、誰もが恐れることなく王であるご自分のもとに近づくことができるように、小さなろばの子に乗って来られたのです。

●罪から解かれて主に仕える

 イエス様がろばをどのようにして手に入れたのかを、福音書は詳しく記しています。イエス様は、二人の弟子を遣わして、

「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。」と命じました(11:2節)。

と書かれています。ここで「つながれている」という言葉と「ほどく」という言葉が繰り返されています。マタイ福音書16章で、イエス様はペトロに、「わたしはあなたに天国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:9)と言われました。ここで「つなぐ」という言葉は「罪につなぐ」という意味です。また「ほどく」という言葉も「罪を赦す」こと、つまり罪の責任から解放する、という意味で使います。つながれていたろばの子が、その縄を解かれてイエス様を乗せるために用いられたことは、イエス様がわたしたちを罪の縄目から解放してくださり、ご自分の御用のために用いて下さる、ということを表しているのです。

マルコ福音書1章23節から25節には、イエス様が悪霊に憑かれた人に近づいたとき、悪霊が「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と叫んだ、と書かれています。するとイエス様は、「黙れ。この人から出て行け」と言われました。まだ誰もイエス様のことを理解していない時に、悪霊はイエス様のことを正しく見抜き、正しく告白したのですが、イエス様は悪霊を黙らせたのです。イエス様ご自分が罪から解き放った人にしか、ご自分を証しすることをお許しになりません。それは聖なる、高貴な務めです。イエス様はわたしたちを罪の縄目から解き、そして解かれたわたしたちを「主がお入り用なのです」と言って神様のお働きのために用いられるのです。

●「主は死につながれ」

イエス様が子ろばをご自分のもとに連れてくるためには、一言、「主がお入り用なのです」と言うだけでよかったのです。それは、すべてものの所有者であるイエス・キリストの権威を示しています。しかし、ろばとは違って、わたしたち人間には罪があります。わたしたちが罪から解き放たれるためには、そのための代価が必要でした。

マルコ福音書15章1節には、ユダヤ人によってイエス様が捕らえられ、縄で縛られてピラトに引き渡されたと記されています。そして死の縄目につながれたのです。ルターが作詞した、「主は死につながれ わが罪を解き」という讃美歌がありますが、イエス様の苦しみと死によってわたしたちは罪と死と裁きから解かれたのです。

 ろばと共にイエス様が王であることを示したのは、イエス様とともに行進した多くの人々です。今日の日課にはこのようにあります。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、

祝福があるように。

 このことを連想させる言葉が旧約聖書のイザヤ書62章11節にあります。

娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。

見よ、主のかち得られたものは御もとに従い 主の働きの実りは御前を進む。

ここで「あなたの救い」の「救い」は「エシュア」すなわち「イエス」という言葉です。そして、そのイエス様の前と後で一緒に行進していたのは、ルカ福音書によれば弟子たちの群れでした(ルカ19:37-39)。またヨハネ福音書によれば、イエス様を歓迎した人々は、イエス様がラザロをよみがえらせたこ戸を聞いて、イエス様を信じた人々でした。その人たちが、イエス様がエルサレムに来ておられることを聞いて、大喜びでイエス様を王として迎えたのです(ヨハネ12:12-18)。彼らは「主のかち得られたもの」であり、「主の働きの実りは」だったのです。彼らは羽のついたうちわを振ることも、立派なじゅうたんを道に敷くこともできませんでしたが、大切な自分の服を道に敷いて、キリストを讃え、キリストが主の御名によって来られた王であることを伝えたのです。イエス様が救い主でることを信じていたので、そのような讃美が捧げられ、また奉仕がなされたのです。

このように、イエス様が王であることを告げるために用いたのは縄を解かれたろばの子であり、イエス様を信じていた名もない人々でした。 

わたしたちも今日、このようにキリストを讃美し、キリストに仕えているのは、イエス様がわたしたちを大きな愛によって罪と死の縄目から勝ち取り、ご自分の苦しみの実りとしてくださったからです。

わたしたちはイエス様が乗った子ろばのように、この世では小さく見える存在かも知れません。でもイエス様は、まことの王であるご自分をこの世に証しし、伝えるというこの上ない尊い務めを与えてくださいました。その恵みに感謝し、これからも皆で、王であるイエス様を賛美し、イエス様と共に歩んでゆきたいと思います。

「神にゆだねる命」

ヨハネによる福音書12章20-33節

四旬節第5主日の説教

さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

●異邦人の救い主

 イエス様がメシアとして活動されたのは三年半ですが、その最後の一週間、イエス様は過ぎ越しの祭りを守るためにエルサレムにおられました。そのイエス様にお会いしたいと、何人かのギリシャ人が訪ねてきました。過ぎ越しの祭にはユダヤの神を信じる大勢の外国人も大勢来ていたのです。しかし、外国人はユダヤ人とは区別されていて、同じ場所で礼拝することはできず、「異邦人の庭」と呼ばれる場所で神に祈りました。イエス様は、そこで鳩や羊が売り買いされ、両替商が商売しているのを見て憤り、その人々や動物たちを追い出したのです。異邦人の祈りが彼らの商売によって妨げられていたからです。それはイエス様が神殿の持ち主であることを示すようなふるまいでした。ギリシャ人たちはその出来事を通してイエス様を知り、イエス様にぜひ会いたいと願ったのです。

イエス様に会おうとしたギリシャ人たちは、イエス様自身に直接会うことを遠慮して、まずギリシャの名前をもっていたフィリポに、仲介を頼んだのです。そのフィリポはアンデレという弟子に相談をして一緒にイエス様にギリシャ人のことを伝えたのです。アンデレはイエス様の最初の弟子ですから、アンデレと一緒の方がイエス様に頼みやすいと思ったのかも知れません。

イエス様は、ギリシャ人がご自分に会いに来たことを聞くと、「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言いました。「栄光を受ける時」とはヨハネ福音書ではイエス様が十字架に死なれる時のことです。普通なら外国人がイエス様にお会いしたいと言って訪ねてきたなら、いよいよイエス様の名声が世界的なものとなった、と考えるのが普通ではないでしょうか。それなのになぜ外国人の訪問がイエス様の死の時が来た、ということになるのでしょうか。それは、ギリシャ人たちがご自分を求めてきたという事の中に、ご自分がすべての民のために十字架にかかり、救いの道を開く時が来たことを悟られたからだと思います。

しかし、その死はイエス様が栄光を受ける道となります。イエス様はその死によって神様の御心を成し遂げられ、父である神から栄光を受けられたからです。

●一粒の麦として

イエス様は続いて、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言いました。わたしたちは、麦の種を蒔けばそのから芽が出て、麦の穂が成長してゆくことを知っています。そしてそれは自然のプロセスだと考えています。しかし昔の人にとって、それは奇跡でした。種は地面に埋まり、朽ちてゆきます。それは人の目には死ぬように見えますが、それによって新たな命が始まります。そして、その一粒の種は、無限に多くの種となって生き続けてゆきます。

聖書は、わたしたち人間は一人の人から始まったと教えています。そして、神によって最初に造られたその人が、罪を犯して神からは離れてしまったので、彼から生れるすべての人が、わたしたちも含めて、その罪を引き継いでいると教えています。行いによって犯す罪は、人によって大きく見えたり小さく見えたりしますが、皆、罪を犯し、その罪のために神から離れ、死ぬべき者として生まれてくるのです。

しかし、人となられた神の子は、たった一粒の聖い命の種です。そのイエス様が死なれることによって、イエス様の命は多くの人に蒔かれます。その命とは十字架に死んでわたしたちの罪を償ってくださった命です。その命は渡した太刀を神の子にしてくれる命です。そしてその命は復活の命であり、わたしたちを神の前で永遠に生かす命です。

ヨハネによる福音書10章7節でイエス様はこう言っておられます。「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。」わたしたちは神に不従順であった古いアダムの子孫ですが、イエス様だけはどこまでも神に従い、命を捨て、また命を受けました。このキリストを受け入れる時、わたしたちはキリストの命を受け継ぐ者、キリストの子孫となるのです。

旧約聖書のイザヤ書53章は、キリストについてこのように預言しています。これはキリストが来られる七百年前の預言です。

「彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。

わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。」(イザヤ書53章10,11節)

ここに預言されているように、復活されたキリストはご自分の命を受け継ぐ多くの弟子たちに会いました。そして今。イエス様を信じているわたしたちにも出会ってくださいます。

●神にゆだねる命

イエス様は、一粒の麦が地に落ちて死に、多くの実を結ぶことは、イエス様だけでなく、すべての人に当てはまる原則であると教えています。イエス様は「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と教えました。「自分の命を憎む」という言い方は、ユダヤ的表現で、人はあるものを愛すると、他のものは同じほどには愛さなくなる、ということです。

この「命」とは「ライフ」、つまりわたしたちの生活、人生のことです。自分の命を惜しんで自分の幸せのためだけに使おうとする人は神に仕えることが疎ましくなります。そのような人生は土に落ちようとしない種のように古いい命のままで終わります。しかしイエス様は、「あなた方は、命を与えてくださった神の御心を行うためにその命を使いなさい」と教えられたのです。

イエス様は「わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(12:26)と言われました。わたしたちは、イエス様と同じように、多くの人救いのために死ぬことはできませんが、ご自分の命を与えてくださったたイエス様に仕えることはできます。

 わたしが牧師になることを決心したのは、24歳の誕生日の晩にわたしの人生を振り返ったことがきっかけでした。わたしは「今晩、わたしが神の前に立つとしたら一体何を持って神の前に立てるだろうか」と考えました。「神様、わたしは親のためにも真面目に働いてきました」と言うと、神様は、「それはお前のためにしたことではないか。わたしのためにお前は何をしたのか」と問われたのです。その時、わたしには神の前に持ってゆくものが何もないことを知り、恐ろしい絶望感に襲われました。しかしその時、神が下さったイエス・キリストを受け取ったことと、そのキリストに従って行ったことはすべて残っていたのです。神にささげた命だけが実を結んでいたのです。その時、このキリストを伝える働きをしたいと思ったのです。 

イエス様は、すべてが失われてゆくわたしたちにご自分の命を与えるために来てくださいました。そしてわたしたちが神の愛の内に生きるようにしてくださったのです。このキリストの愛が伝えられるために、わたしたちは兄弟姉妹と心を一つにしてキリストに仕えてゆきたいと思います。また個人の生活においても、わたし自身の願い、満足を求めることではなく、キリストと共に神様の愛をあらわし、また伝えるために生きてゆきたいと思います。

イエス様は、イエス様のために何かを捨てる人は、来世においてだけではなく、今の世においてもその百倍を受けると約束しています。わたしはクリスチャンになると友達を失うのではないかと心配しましたが、今はここにおられる皆さんをはじめとして、クリスチャンでなかった時と比べて、何百倍もの誠実な多くの友、兄弟姉妹を与えられています。神に命を委ねることは今の人生においても、喜びと豊かさをいただく生き方なのです。

「命を得るために」

マルコによる福音書8章31-38節

四旬節第2主日の説教

法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

●イエス様に叱られたペトロ

今わたしたちが礼拝で学んでいるマルコ福音書は、全部で一六章ありますから、今日の個所で、マルコ福音書の半分が終わることになります。この前のところまでは、イエス様が語られた言葉や、イエス様がなさったたくさんの奇跡が記されています。

このようなイエス様の素晴らしい働きを見たペトロは、「あなた方はわたしを何者だというのか」というイエス様の問いかけに、弟子たちを代表して、「あなたこそメシア、キリストです」と告白したのです。

ところが、イエス様は、ここで初めてご自分が「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と弟子たちに告げたのです。

「あなたはメシアです」と告白したペトロは、このイエス様の言葉を聞いて驚き、あわてました。そして、イエス様をわきに引き寄せていさめ始めたのです。しかし、イエス様は弟子たちを見つめて「引き下がれサタン。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」とペトロを叱られたのです。

先週わたしたちは、イエス様が荒野でサタンの誘惑を受けたことを学びました。そこでイエス様を誘惑したサタンが、今度はペトロを通してイエス様に働きかけたのです。

「祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」とイエス様が語られた、「~ことになっている」という言葉は、「神によって定められている」という意味の言葉です。サタンの目的は、わたしたちの罪の償いのために苦しみを受け、死ぬ、という神様の定めからイエス様を引き離すことでした。イエス様が神から来られた方であることを示す様々な奇跡を目撃したにも関わらず、イエス様の語ることを受け入れないことは、イエス様を信じないことであり、イエス様を自分たちが期待していた政治的、軍事的メシアという考えに従わせようとするものでした。   弟子たちのリーダーであったペトロがイエス様への信仰からそれてしまうなら、イエス様に従ってきた他の弟子たちもペトロの考えに惑わされてしまいます。イエス・キリストの十字架による救いから人々を引き離すこと、それはサタンの最大の目的です。ですからイエス様は厳しい言葉でペトロを叱ったのです。

●「神のこと」、「人のこと」

イエス様がペトロに言った「あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」という言葉はいったい何を意味しているのでしょうか。

 神のこと」とキリストが語られたのは人と神との本来の関係が回復される、という事です。神は、ご自分から離れて失われているわたしたちを赦し、生かし、ご自分のものとするために御子キリストをお遣わしになったのです。

これに対して人のこと」とは、人間が自分の目的や考えに神を従わせようとすることです。たとえ「わたしは神に従っている」と主張している人であっても、神が人間に遣わしたメシアの教えに従わず、自分の民族や国家のために、敵への憎しみに駆り立てられているなら、それもまた「神のこと」を思わずに、「人のこと」を考えている生き方であると言わなければなりません。

このように、人間の生き方は、「神のこと」を求めるか、あるいは「人間のこと」を求めるかで分かれます。「幸福になるために」、「健康であるるように」、「商売が繁盛するように」、という個人的なご利益だけでなく、「世界人類が平和でありますように」というような一見崇高に見える願いであっても、まず自分自身の罪を悔い改め、神の赦しを求めないなら、やはり神の思いを祈っているのではなく、人間の思いに神を従わせようとしているのです。キリストの言葉ではなく、自分たちの願いにかなう神を求める人は、神ではなく、神になりたいと願っている悪魔を掴むことになるのです。ペトロがイエス様を自分のわきに引き寄せたように、神に従うのではなく、神を自分のわきに引き寄セ、自分に従わせようとしているからです。

●苦難の王、キリストに従う

イエス様は、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と告げました。

ここで初めて「十字架」という言葉が出てきます。イエス様は、この初めての受難の予告の中で、ご自分が殺される事を予告しましたが、「十字架」という言葉は使ってはおられません。イエス様がご自分の十字架について初めて語るのは三度目の受難予告の時です。つまりイエス様はご自分の十字架について語るよりも先に、弟子たちが、そしてわたしたちが背負うべき十字架について話されたのです。

イエス・キリストを十字架につけたのは、わたしたちの内に働いている神への背きの罪です。神を排除したいというサタンの思いに支配されているこの世が、キリストを十字架につけたのであり、わたしたちもそのような世界のひとりとして、神に呪われるべきものであったのです。

イエス様はペトロを「サタン」と呼びましたが、それはペトロがサタン、ということではありません。ペトロがサタンのために行動したとで、サタンと呼ばれたのです。私たちが神の側にではなく、サタンの側に立ってキリストの働きを妨げるなら、わたしはサタンに仕えていることになります。そしてそのような私たちこそ十字架に死すべきものです。しかし、イエス様はわたしたちを憐れみ、わたしの罪と呪いをご自分に引き受け、サタンの支配から解放してくださったのです。ですから神の意志よりも自分の思いを押し通そうとする古い自分を、日々十字架のもとに置かなければならないのです。

イエス様は、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と教えました。「自分の命」とは自分のライフ、すなわち自分の人生、生活です。それを神にささげることを惜しんでも、その命を持ち続けることはできません。罪の赦しを通して神の命を与えてくださるキリストに結ばれるためにこそ、その命は費やされなければなりません。わたしたちは神の命を求める道と、この世の命を求める道の二つを同時に歩むことはできないのです。

「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」とイエス様は語っておられます。今、この世界は混迷を深めています。戦争や自然災害など、人間の限界と無力さを思い知らされる出来事が続いています。しかし聖書は、救いは天と地を造られた神から来る(詩篇百二十一篇)と教えています。そしてイエス様に従うわたしたちは、希望をもってその時を持ち望むことができるのです。しかし、イエス様が世を治めるために来られる時、ご自分とその言葉を恥じる者をイエス様も恥じる、と言われます。ここで「恥じる」という言葉は、言い変えれば、それを「誇りとしない、尊ばない」ということです。反対に、使徒パウロが「わたしは福音を恥としない」と言う時、それは「福音を誇りとする」ということです。十字架の福音を何よりも尊いものと誇り、キリストに従ってゆくこと。それが主を待ち望むわたしたちにふさわしい生き方なのです。

「荒れ野のキリスト」

マルコによる福音書1章9-13節

四旬節第1主日の説教

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

●イエス様の試練

先週の水曜日から、教会の暦は四旬節に入りました。教会の長い歴史の中で、いつも四旬節の最初の日曜日には、イエス様が荒れ野で誘惑に会われたという福音書の箇所が読まれます。

 昔は,求道者が洗礼を受ける日は復活祭でした。そして受難節の四十日間はそのための準備にあてられました。この聖書の箇所が読まれるのも、クリスチャンとなって歩み始める人々が、心の備えをするためであったと考えられます。

 確かに、人が神様に従うときに、誘惑、試練の道を通らなければならないことがあります。それはイエス・キリストにとっても同じでした。

 今日の福音書の日課の初めに、イエス・キリストの洗礼のことが書かれています。イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、水から上ると、天が裂けて神の霊が鳩のように下った、と書かれています。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がありました。イエス様に対する父なる神様の言葉でした。わたしたち人間のために身を低くして働く道を歩み始めたイエス様に対して、イエス様の父である神は喜びの言葉を語りかけたのです。

 しかし、そのすぐ後に、「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」、と書かれています。ここで「霊」と書かれているのは神様の霊のことです。そして「送り出された」という言葉は「追いやられた」とも訳すことができる言葉です。イエス様は、ご自分の意志ではなく、父なる神様により、強いて荒れ野に追いやられたのです。そこでイエス様は断食をされ、苦しい孤独な日を過ごされただけでなく、サタンの誘惑にもさらされたのです。「あなたはわたしの愛する子」と宣言されたイエス様にとって、そのすぐ後に、その言葉とはまったく違う、辛く厳しい状況の中に追いやられたのです。

わたしたちの試練

イエス様が受けたサタンの誘惑とは、「試み」、試練」という意味の言葉です。それは、神人を神から引き離すための試みで、わたしたちにもやってきます。人間にとって好ましく見える姿でやってくる誘惑もありますが、反対に苦しみや困難としてやってくる誘惑もあります。

サタンがこのように人を誘惑する理由は、人々が神に帰ることを最も恐れているからです。サタンという言葉には「訴える者」という意味があります。サタンは先ず人間に罪を犯させ、次に罪を犯した人間を神の前に訴えます。「あなたがわたしを滅ぼすなら、罪を犯したこの人も滅ぼすべきではないか」と訴えるのです。サタンは自分のもとにいる人々を、神の裁きから自分を守る盾にしているのです。サタンはもはやその人を訴えることはできません。しかし、キリストによる完全な罪の赦しを知った人は神に帰ります。人々が神のもとに帰ることは、サタンにとっては大切な人質を失うことなのです。ですから悪魔は、救いのわざを成し遂げようとされたキリストを最も強く攻撃し、またキリストを信じる人々を攻撃するのです。

ですから、サタンの誘惑とは、キリストを信じる人々にだけにやってきます。信じない人々にはそうする必要がないからです。

なぜ神様はそれを赦されるのでしょうか。試練の荒れ野にご自分の子どもたちを追いやるのでしょうか。わたしは旧約聖書のヨブ記にその答えがあると思います。ヨブという人は正しい人で、神様を敬っていましたが、サタンは、神に対して、「ヨブがあなたを敬っているのは心からではなく、それが彼の利益になるからです。」と言いました。サタンはわたしたちの信仰は真実ではない、と今度は信仰を否定するのです。しかし神は、「いや、彼は神を信じると利益になるから信じているのではない。心からわたしを信頼しているのだ」と答えます。神様はわたしたちの信仰が打算からではなく、心からのものであることを、試練を通して証明し、悪魔の訴えを退けようとされるのです。ペトロ第一の手紙1章7節に、

「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」と教えられている通りです。

荒れ野の恵み

今日の福音書に記されている荒れ野でのイエス様は、ご自身の経験を通して大切なことをわたしたちに示してくださっています。

マルコによる福音書は、荒れ野でのエス様の様子を「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」と短い言葉で記しています。野獣たちと一緒にいた、という事は野獣たちがイエス様に危害を加えなかった、という事です。イエス様がおられた所には、神の平和があったのです。そしてイエス様はその平和に守られていたのです。

聖書の中にも、そしてわたしたちの近くにもこのようなキリストの平安に守られた人々が数多くいます。

ある牧師が話してくれたこおとですが、会員の一人が、深刻なガンに罹り、入院しました。その牧師はどういう言葉をかけたらよいのか悩みながら見舞いに行きましたが、その人は先生、わたしは今とても平安ですから心配なさらないでください」と言ったので、かえってとても励まされたという事です。

フィリピの信徒への手紙四章六節に

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

神様はどんな恐れにも飲み込まれることがない、人知を超える神の平和を与えて守ってくださるのです。そして神が与えて下さる慰めを知り、他の人々慰める人とされるのです。

第二に、「そして天使たちは仕えていた」と記されています。、イエスがおられるところに神の助けがあったことを教えています。イエス様は、神に従う人々を天使が支えていてくれる、ということをここで示して下さいました。

ヘブライ人への手紙の一章の終りに

「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」と教えられています。聖書には悪魔よりも天使の方がずっと多く登場します。ルターは「我々はもっと天使について多く語るべきである」と言っています。

個人的なことになりますが、わたしが牧師になる時に神様にお願いしたことの一つは、病気や事故で、日曜日の礼拝の務めができなくなることのないようにしてください、という事でした。その願いはかなえられ、牧師として働いた四〇年近くの間、病気や事故で日曜日の務めを休むことは一度もありませんでした。

しかし、危うい時もありました。交通事故で怪我をしたことも幾度かありましたが、事故が起きた時、いつも思わぬ助けを下さる人が現れて、迅速な治療を受けることができたのです。

最初に試練を受けられたイエス様が教えてくださったことは、荒れ野とは、そして試練の時とは、神様がいない所、神様が遠く離れている場所ではなく、むしろ神様が最も近くおられて、わたしたちを守り、助けてくださる場所である、ということです。荒れ野のイエス様に注がれていた神様の恵みは、イエス様に結ばれて生きているわたしたちにも注がれています。その神様に信頼して、これからも神様に従う歩みを続けてゆきたいと思います。

「栄光の主の道」

マルコによる福音書9章2-9節

主の変容主日の説教

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

●栄光に輝くキリスト

今日の福音書の日課は、「六日ののち」という言葉で始まっています。これは「中六日おいて」という意味で、「一週間目に」ということです。一週間前に、シモン・ペトロはイエス様に対して、「あなたはメシアです」と信仰を言い表しました。するとイエス様は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(八:三一)、と記されています。

これを聞いた弟子たちは動揺しました。彼らは当時のユダヤ人たちと同じように、メシアとは昔のダビデ王のように強い力でユダヤをイスラエルの敵をから解放してくれる人だと考えていたのです。ですからイエス様が殺されるなどということは、到底受け入れられませんでした。イエス様は苦難を受け、殺されるだけではなく、「三日の後に復活する」と言っておられますが、弟子たちにとっては、死んだらすべてが終わりだったのです。イエス様がそんなことを言い出せば、せっかくイエス様に従ってきた人々も離れてしまいます。それでペトロは「先生、そんなことを言ってはいけません」とイエス様をいさめたのです。

しかし、イエス様はそのペトロを「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(8:33)と叱ったのです。

それからずっと弟子たちの間には重苦しい空気が漂っていたと思います。そして一週間が経ち、イエス様はペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人を連れて高い山に登りました。そこでイエス様はこの三人の弟子に、ご自分の栄光の姿をあらわしたのです。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」(9:2,3)と書かれています。

これまでイエス様は人々のために驚くような奇跡を数多く行ってきました。しかし、この山の上での出来事は、奇跡というよりは、弟子たちに対して、イエス様はどんな方なのか、ということがはっきりと示された出来事であった、ということができます。光り輝くイエス様の姿は、イエス様が初めから神の栄光の内におられた方であることを示しています。わたしたちがニケア信条でイエス様を「光の光、まことの神のまことの神」と告白している通りです。

●「これはわたしの愛する子」

この世光り輝くイエス様のそばに、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた、とあります。この二人がイエス様と一緒にいるのを見たペトロは、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。

この山上の変貌」と呼ばれる出来事は、マタイの福音書にもルカの福音書にも記されています。しかしこのマルコ福音書は、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」と記して、弟子たちの「恐れ」ということを強調しています。弟子たちは光り輝くイエス様の姿を見て、喜んだというよりも、むしろ「恐れていた」のです。

出エジプト記三十三章には、神様がモーセにご自分の栄光を示されたことが書かれています。神様はモーセにこう言いました。

「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである。」

聖書は、「罪を持つ人間が神を見たなら必ず死ぬ」と教えています。罪のあるわたしたちは神の光に耐えることができないのです。しかし、神様はモーセに

「見よ、わたしのかたわらに一つの所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。 そしてわたしが手をのけるとき、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見ないであろう」

と告げたのです。

この「岩」はキリストを指しています。そしてわたしたちはこのキリストという岩の裂け目から、すなわち裂かれたわき腹の傷の中からしか神を見ることができないのです。

イエス様が、本来の神の姿ではなく、わたしたちと同じ人間の姿になられたからこそ、人々は神の御子であるイエス様に会うことができたのです。そしてわたしたちをかばって十字架の上で死んでくださったそのイエス様のみ傷に包まれて、わたしたちは初めて神様を見ることができ、神様と出会うことができるのです。

神の子であるイエス様が来られた目的は、イスラエルの救いのためだけではありません。ご自分の十字架を通して、すべての人を神のもとに招くためだったのです。

●「これに聞け」

ペトロがイエス様に向かって「三人のために仮小屋を三つ建てましょう」と言った時、父なる神様は「これはわたしの愛する子、これに聞け」と言われました。それは、第一に、ご自分の苦しみと死と栄光について語られたイエス様に聞く、ということです。モーセもエリヤも偉大な人でしたが、イエス様のように「わたしの愛する子」とは呼ばれませんでした。神様の愛する子にしかできない働きをイエス様は成し遂げるために来られたのです。

そして次に、わたしたちにとって何が大切なのか、ということについて、いつもイエス様に聞いてゆくということです。わたしたちはイエス様を信じています。にもかかわらず、わたしたちは当時の弟子たちのように、自分の思いにイエス様を従わせようとすることがあります。

当時のイスラエルの人々は自分たちを圧迫しているローマ帝国を憎み、ローマを打ち破るメシアを求めていました。しかし、イエス様は「あなたの敵を愛しなさい」と教えました。わたしたちは神の敵であったときに神の愛を受けたからです。このイエス様の言葉に従わずに戦った人々は滅びてしまいました。

当時のユダヤ人だけではなく、わたしたちはイエス様に聞くことよりも、この世の栄光や繁栄を約束する人たちの言葉に聞き従うこともあります。キリスト教国と言われている国の人々であっても、キリストの教えに従うよりも、戦争に勝ち、国土が増えることを喜び、そのような成功をも垂らす指導者をキリストのごとくに崇め、心酔し、盲従したことがありましたし、今でもそうしたことが起きています。「今、わたしは誰に聞いているのか」がいつも問われているのです。わたしたちは目に見える一時的なものを求めて、キリストを離れ、神の国を失うことがあってはなりません。イエス・キリストの十字架のだけがいつまでも滅びないものを与えるのです。

わたしたちの日常生活や教会生活においても、イエス様が、兄弟を愛しなさい、赦し合いなさい、と教えておられるのに、自分の主張や正義感を優先してしまう時があります。

イエス様の教えがなければわたしたちは自分で正しいと思っても、たやすく悪の道にそれてゆきます。わたしっちはいつも、この世のすべての知恵にまさるイエス様の言葉に聞くのです。

今度の水曜日は「灰の水曜日」です。この日から日曜日を除く四十日の間、わたしたちのために苦難の道を歩まれたイエス様の歩みを、たどります。それだけ長い期間イエス様の受難を覚えるのは、それがわたしたちにとって最も大切なことだからです。この時期に、わたしたちは父なる神様とイエス様がわたしたちに与えて下さった愛の大きさを、今まで以上に知ることができるように祈り求めたいと思います。そして、このキリストの言葉にいつも聞く者となること、この世界にイエス・キリストの十字架による救いを高く掲げて生きる者となることを願い求めたいと思います。

「自由にするために」

マルコによる福音書1章21-28節

顕現後第4主日の説教

一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 01:25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

●悪霊の働き

先週はイエス様が四人の漁師を弟子にしたことを聞きました。今日の日課には、イエス様がその弟子たちと安息日にカファルナウムの会堂に入り、そこで教えられたことが記されています。

イエス様の話を聞いて、「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のたようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」とあります。当時、律法学者たちが説教する時には、「昔の偉い先生もこのように教えている」と言って、自分の教えを権威づけたのです。しかし、イエス様は「誰それがこう言っている」という言い方ではなく、「わたしはこう言う」と語ったのです。山上の説教の五章には、「昔の人はこう言っている。しかし、わたしは言っておく」というイエス様の言葉がいくつもあります。こうした言い方は、「権威ある者」すなわち神にしかできない言い方だったのです。それは人々にとって大きな驚きでした。

しかし、さらに驚くことが起こりました。イエス様が、その時会堂にいた、汚れた霊に取り付かれた人から悪霊を追い出したのです。「悪霊」とは、悪魔のもとで働いている霊的な存在の事です。悪霊は人間に取りついて、その人の心を支配します。そして自分自身や他の人を傷つけたり、理性を失った行動をさせたりします。今日の聖書の個所で、悪霊にとりつかれた人は「『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。』と叫んだ」と書かれています。この男性の中にいる悪霊がこの人の口を通して叫んだのです。

ひとたび悪霊に取りつかれると、人間の力でそれを追い出すことは不可能だったのです。しかしイエス様は「黙れ。この人から出て行け」と言っただけで、悪霊を男の人から追い出したのです。イエス様の言葉は、権威あるもののように語られただけではなく、実際にその言葉には権威があったのです。聖書では「権威」という言葉は「力」という言葉と同じ言葉ですから、イエス様の言葉には力があったのです。

●現代に働く悪霊の力

現代のわたしたちは、今日の聖書にあるような悪霊の働きを見ることはほとんどありません。しかし、だからといって悪霊が働いていないのではありません。今でも悪霊は働いています。

第一に、聖書は偶像礼拝のあるところには悪霊の働きがあると教えています。コリントの信徒への第一の手紙一〇章一九節以下には、偶像そのものには意味は無いが、偶像に供え物をすることは悪霊に捧げることなのだ、と教えています。偶像なるものが存在するのではなくて、偶像を拝むように悪霊が働いているのです。

第二に、パウロは、テモテへの第一の手紙四章で「人を惑わす霊と悪霊どもの教え」と呼び、間違った教えの背後に悪霊の働きがあることを教えています。

最近もいわゆる「カルト」と呼ばれる団体のことが話題になりました。カルトには特にキリスト教の偽物が多くあります。それはキリストの教えに価値があるからです。一円や五円硬貨の偽造をする人はいません。一番高価な五百円玉や一万円札を偽造します。悪霊は価値あるキリストの教えを破壊しようとして多くの異端を作りだすのです。

偶像礼拝にしても、カルトにしても、人がひとたびその団体の教祖や教えを信じてしまうと、社会が彼らを非難しようと、親が泣いて訴えようと、その呪縛から抜け出すことができないのです。

宗教だけでなく、無神論的な思想も人々を狂気や殺意に駆り立てます。よく、宗教戦争で多くの人が殺された、と主張する人がいますが、歴史の中で最大の大量虐殺を行った人々は、無神論的な思想を持った人、あるいは無神論的な独裁者です。ロシアの作家ドストエフスキーは、「悪霊」という本によって、無神論的無政府主義者たちの内に働いている破滅的な力を著わしています。

●自由にするために

しかし、悪霊は今まで述べた人々にだけ働いているのではありません。使徒パウロはエフェソの信徒への手紙二章で次のように語っています。「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」

この「不従順な者たちの内に今も働く霊」とは悪霊のことです。パウロは悪霊はこの世の人々を支配している、と言っているのです。

悪霊は人間を支配し、真理と命の源である神から遠ざけている悪魔のもとで働いているのです。悪魔がそのために使うのは罪です。悪魔は人に罪を犯させ、罪を犯した人間が神を遠ざけるようになり、神を嫌うようにさせます。

そのように人間を神から離している力は、普段は表に現れませんが、キリストが近づく時、悪霊はその働き始めます。カファルナウムの会堂にいた人は、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」と叫びました。同じように多くの人々は、キリストが自分を不幸にし、不自由にすると思い、恐れるのです。あるクリスチャンは、教会に行くようになった時、「なぜイエスという人はこうもずけずけとわたしの心に入り込もうとするのか。これ以上関わらないで欲しい」、と感じたそうです。

わたし自身も教会で神様のことを学び始めたとき、わたしの体が鎖に繋がれていて、わたしが神に近づこうとすると引き戻そうとする力を感じましたが。そして「お前など神に受け入れられるはずがない」という声が聞こえてきました。今まで気づかなかったけれども、わたしの意志ではない、別の力がわたしの内にいたことを知ったのです。しかし、わたしの心を縛っていたその鎖も、神の子イエス・キリストが十字架でわたしの罪のために死んでくださった、というメッセージを信じた時、砕かれたのです。

イエス・キリストは、永遠の命、無限の命を持っておられます。そしてこの命はどんなに多くの人の罪も、またどんなに大きな罪でも償うことができるのです。このイエス様の赦しを受け取っている人を、悪魔はもはや神の前に訴えることはできず、自分のもとにつなぎとめておくことも出来ないのです。

キリストを信じると不自由になる、自分が生きたいように生きることが自由だと思っている人がいると思います。しかしそれは「自己本位」というブラックホールの引力中に閉じ込められている状態であると言えます。真の自由とは、真理と命の源である神に向かって生きることです。そのためにわたしたちを解放できるのはイエスキリストだけです。

イエス様はひと言で悪霊を追い出すことができました。しかし罪の鎖によって縛られている人間をその力から解放するためには、ご自分の命を捨てなければならなったのです。

わたしたちを解放するために十字架の道を進んでくださり、神を愛することができるようにしてくださったイエス様に心から感謝し、頂いた恵みを大切にしましょう。そしてこれからもたえずイエス様の力ある言葉を聞き、イエス様の力ある言葉によって神様に従う者になってゆきたいと思います。

「神の国は近づいた」

マルコによる福音書1章14-20節

顕現後第3主日の説教

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だったイエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

●神の国は近づいた

 イエス様は人々に、「時は満ち、神の国は近づいた」と呼びかけ、宣教の働きを始めました。

「時が満ちた」とは、神様が長い間予告されていた救いの時が来た、ということです。また、「神の国」とは「神の王国」、という意味で、マタイ福音書では「天の国」という言葉が使われています。それはこの世界とわたしたちを造られた神様が支配する世界のことです。それが戸口にまで近づいた、ということです。

神の国の対語は「この世」です。それは神を受け入れようとしない今の世界のことです。わたしたち人間は神様に特別に愛されたものとして造られました。そして特別な知恵や力を与えられました。しかし、ある時から人間は神を離れ、自分の満足のために知恵や力を使うようになりました。神はこの世は神様から与えておられるものだけを求めますが、神と神の教えは好みません。そして神を遠ざけています。そのような神に対立している人間の罪が最もはっきりと現れているのがイエスキリストの十字架です。

神と敵対したまま生涯を終わることは最も不幸なことです。しかし、神を遠ざけて生きてきたわたしたちの世界に、神の国が近づきました。神の独り子が人となってこの世に来られたことによって神の国が近づいたのです。

この神の国は、正しい人、立派なことをした人が入るのではありません。自分の正しさや行いで神の国に入ることのできる人はいないからです。神の子がこの世界に人となって来られたという出来事には、神の赦しがあらわれています。ですから高ぶりを捨てて、自分の背きを認めてキリストのもとに行くことが神の国に入るための唯一の条件なのです。「悔い改め」と呼は「向きを変える」、「立ち帰る」という意味で、神に背を向ける生き方から、わたしたちを招いておられる神へと方向を変えるということです。

「悔い改めて福音を信じなさい」とあるように、この福音は信じて受け取られるべきものです。ある人々は「神が愛であるなら、なぜ信じない人も救わないのだ」と言います。しかし、聖書の教える救いとは、人間が、神を愛する、という本来の状態に帰ることなのです。ですから神を愛することなしに救いは実現しません。神の子はこの世に来られ、その生涯を通して最大限の愛と赦しをわたしたちに示してくださったのです。そしてわたしたちがその愛を受け入れるのを待っておられるのです。この方を愛し、受け入れることが天の国の国籍を持つことなのです。

●人間の漁師にしよう

神の国の福音を伝え始めたイエス様は、その働きのために弟子たちをお召しになりました。イエス様は湖で漁をしていたシモン・ペトロとその兄弟アンデレを見て、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたのです。ここではいきなり声をかけたように見えますが、先週の日課には、すでにペトロもアンデレもヨハネもイエス様に出会っていたことが書かれています。彼らはイエス様の弟子となってました。イエス様はその彼らに、「あなたがたを、魚ではなく、人間を取る漁師にしよう、と言われたのです。「二人はすぐに網を捨てて従った」と書かれています。その後、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも声をかけました。すると「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」と書かれています。

ここで注意したいのは、シモン・ペトロとアンデレが「網を捨てて従った」、という言葉です。この後の、ヤコブとヨハネの兄弟が「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して」とある「残して」という言葉も同じ「捨てる」という言葉です。しかし、この「捨てる」という言葉はもう漁の仕事をしないとか、もう親の面倒を一切見ない、ということではありません。これはユダヤ的な言い方で、「優先順位が変わる」ということを意味します。  

創世記二章で、「男は父母を離れてその妻と結ばれる」とありますが、この「離れて」、という言葉も「捨てる」という言葉です。それはそれまで最も近しい関係が、結婚すると夫婦の関係が最も強くなる、ということです。親はそこに割り込むことはできませんが、しかし親子の関係が無くなるのではありません。聖書は親を養うこと、親族を顧みることは大切な義務であると教えています。ここで彼らが網を捨てた、すなわち仕事を捨てた、父を残したということは、彼らにとって人々を神のもとに導くことが最も大切な仕事になった、ということなのです。

この世の職業はいつか退く時が来ます。家族の絆も大切ですが、永遠のものではありません。一番深い夫婦の絆でさえ、どちらも生きている間のものです。神だけがわたしたちに愛する者たちとの、死を超えた永遠の絆を与えてくださるのです。家庭や国家というものはこの世で永遠のものが伝えられ、育まれるための大切な器であると言えますが、今日の使徒書の日課の最後にあるように、この世の有様は過ぎ去ります。しかし神の国は決して滅びることはありません。

●わたしたちも神の国の働き人

 最初の四人の漁師たちに起きたことは、わたしたちにも起きたことです。わたしたちも、いつまでも滅びることがない神の国を伝えるキリストの働きに仕えるために召されているのです。

人間はキリストによって現れた神の愛を知らなければ、神に帰ることができません。そして神を知らなければ、自分の本当の価値も、生きることの意味も分らず、また死を超えた希望を持つことも出来ません。この世の海の中に沈んでいる人々に福音を伝え、神の国に生きるようにすることが、わたしたちの最も大事な使命になったのです。

イエス様に最初に召された二組の弟子たちはそれぞれ兄弟でした。神の国の働きは、兄弟としての強い絆が必要なのです。そして神様はわたしたちのも共に神の国のために働く兄弟たちを与えてくださっています。

わたしたち皆が牧師や宣教師になるのではありません。皆が神の言葉を語ることができますが、自分から聞こうとしない他人に説教する必要もありません。

ペトロの手紙三章一五節に、「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」と教えられていいます。誰かが「あなたの信仰とはどのようなものですか」と聞かれた時に、答えることができるように備えていなさい、というのです。

しかし、この社会の中で他の人々と一緒に生活しているキリスト者にしかできない働きがあります。それは愛と誠実という光を照らすことです。また、キリストに受け入れられている者として、寛容な心で人々に接することです。このような人々に信頼される生き方を通して、人々が教会の語る言葉を信頼できるようになります。ある方が「『人を見て法を説け』という言葉があるが、『人を見て法を聞け』ということも大切だ」と言いました。教えというものは、まずそれを信じて生きている人々によってそれがよい教えかどうかが判断されるからです。そして世の光としていただくために、わたしたちはここでキリストの教えを聞き、それぞれの家庭や職場や地域に遣わされてゆくのです。

キリストの福音が公けに語られる場は教会です。今日も何人もの奉仕によってこの礼拝が行われています。座って福音を聞き、賛美をしておられる方も礼拝のための働きに仕えています。皆さんの礼拝する姿や讃美の声が他の人々を励ましているのです。また兄弟姉妹が互いに祈り合い、支え合うことも神の国の大切な働きです。

宣教の働きは教会の多様な働きが一ついなって進められてゆきます。たとえ小さく見えることでも、すべての働きが必要とされているのです。これからもわたしたちは神の家族、兄弟姉妹として、心を一つにして大切な神の国の働きに仕えてゆきたいと思います。

「キリストの栄光を見る」

ヨハネによる福音書1章43-51節

顕現後第2主日の説教

その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」


●キリストの弟子となる

今日の日課には、イエス様がフィリポという人とナタナエルという人をご自分の弟子にしたことが書かれていますが、この前の箇所では、二人の弟子とシモン・ペトロが弟子になったことが書かれています。二人の弟子の内の一人はアンデレという人で、もう一人の名は書かれていませんが、おそらくこの福音書を書いたヨハネだと思われます。なぜならこの人は、自分たちがイエス様に出会った時間を、この福音書に刻銘に記しているからです。

しかし、他の福音書では、アンデレもペテロもヨハネも、湖で漁をしている時、通りかかったイエス様に招かれて弟子になったと記されています。来週の福音書の日課であるマルコ福音書一章にもそのように書かれています。

このような違いは、ペトロやアンデレやヨハネがキリストの弟子になったのは、一回だけの出来事ではなく、幾つかの段階を経て進んで行ったことを示しています。もともと洗礼者ヨハネの弟子であったアンデレとヨハネは、洗礼ヨハネに教えられてイエス様のもとに行きました。その時からイエス様の弟子として学んでいた彼らが、湖で漁をしていた時、改めて、宣教のために従う者よう、イエス様に招かれたのです。

これはわたしたちにとっても同じではないでしょうか。わたしたちがイエス様に従うという決心をしたのはいつだったでしょうか。イエス様が神の子であることを知った時でしょうか。あるいは教会の一員としてイエス様に従ってゆこう、と決心して洗礼を受けた時でしょうか。実はそうした一つ一つの出来事やいろいろな気付きを通してイエス様に対する信仰と献身の思いが深まっていったのだと思います。

聖書の「弟子」という言葉には,「継続して学ぶ者」という意味があ るそうです。わたしたちの信仰生活とは、継続してキリストに学び、継続してキリストに従ってゆく歩みであると言えます。新しい年も、さらにキリストの弟子となることを目指して歩んで行きたいと思います。

●フィリポとナタナエル

 今日の日課は、さらにフィリポとナタナエルがキリストの弟子になったことが書かれています。まずフィリポがキリストに従い、そしてフィリポは友人のナタナエルに、キリストに出合ったことを伝えました。するとナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったのです。ナザレの町があるガリラヤ地方は、かつて外国に占領され、異国の影響を受けているとして、イスラエルの中で軽蔑されていたのですが、ナザレは、他のガリラヤ人さえも軽蔑していた町でした。

しかし、ナタナエルはそのような偏見の中に閉じこもるのでなく、イエス様についての友達の証言を聞いて、自分の目で確かめるためにイエス様に会いに行ったのです。その点で彼は誠実な人でした。

 イエス様は近づいてくるナタナエルを見て、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言いました。「どうしてわたしを知っておられるのですか」と驚くナタナエルにイエスは、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われたのです。それはイエス様がナタナエルがいた場所のことを知っていたというだけではなく、彼がどういう人であるかを示す言葉です。イスラエルでは、いちじくの木の下で祈り、黙想したそうです。彼はいちじくの木の下で祈り、思い巡らし、自分とイスラエルの救いを求めていたのです。「その心に偽りがない」ということは「自分をごまかさない」ということです。イエス様は彼の無礼な言葉も知っていました。しかしイエス様は彼の欠点ではなく、彼の誠実さを認められたのです。

わたしたちもイエス様に会う前から、イエス様はわたしたちを知っておられたのです。イエス様やキリスト教に対する誤解や偏見があったにも関わらず、また罪やまた罪や欠点があるにも関わらず、道を求めるわたしたちの心を見ておられ、わたしたちをご自分のもとに招いてくださったのです。

●天が開けて 

 ナタナエルは、イエス様がご自分のことを見抜いておられることを知って、イエス様を信じました。その彼にイエス様は、「あなたはさらに偉大なことを見るであろう、天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」と言われたのです。

 「人の子」とはイエス様のことです。「神の天使たちが人の子の上に昇り降りする」という「上に」とはイエス様の頭上のことではなくて、ィス様という階段の上を天使が昇り降りするということです。

創世記二八章に、ヤコブが見た夢をことれています。ヤコブは双子の兄のエサウをだまして、長子の祝福を奪い取り、兄の怒りを逃れて、たった一人で遠い親戚の家に向かっていました。もう二度と父の家に戻れない。いったいこれからどうなるのだろう・・・。そんな絶望的な思いで旅をしていたヤコブが、石を枕に野宿をしたとき、天が開けて、頂きが天に達する階段が地上に向かって伸びており、神の天使たちがその上を昇り降りしているという夢を見たのです。そして神が彼に「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(創世記28:15)と語りかけたのです。

眠りから覚めたヤコブは、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と言いました。彼はその地をベテル、すなわち「神の家」と名づけ、希望と勇気を与えられて旅を続けたのです。

イエス様は弟子たちに、「わたしが、ヤコブが見たあの天からの階段なのだ」と言われたのです。イエス様がおられるところでは天が開かれています。そして神の使いがイエス様という階段を昇り降りしているのです。「昇る」ということが先に書かれているのは、み使いがヤコブの必要としていることを天に伝える、ということです。そして「降る」とはその報告を受けて、ヤコブに必要な助けを与えるために他の天使が遣わされる、ということです。親が子どもの気付かないところで配慮しているように、ヤコブが気付かないところで神様はヤコブを守り、支えておられたのです。

イエス様を信じているわたしたちも、まだ多くの悲しみや苦しみがあるこの世で生きています。今も戦争や自然災害で苦しむ人々を見ると胸が締め付けられる思いがします。 荒野でひとり野宿をするような思いで過ごしている人々がおり、わたしたちも同じ危険や弱さや将来への不安を抱えて生きています。

しかし、イエス様がおられるところでは天が開かれ、主が共にいてくださるのです。そして最悪であると思われる時でさえ、わたしたちに必要な支えを下さるのです。

「わたしは、決してそのように神に愛していただくのにふさわしい者ではない」と思うこともあります。しかし欠けの多いヤコブをその信仰のゆえに選び、守られた神様は、ご自分の御子を信じるわたしたちに同じ助けを与えてくださるのです。

わたしたちは、信仰というものを、天の高みを目指して昇ってゆくことととらえがちですが、イエス様という階段はわたしたちが昇るものではなく、天から地に伸びているのです。

「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見る」とイエス様が語れられた「見る」とは、目で見るということよりも、「心で見る」とか「経験」する、という意味です。この一年、神の子であるイエス様への信仰によって、「まことに主がここにいてくださった」ということを経験してゆく、そのような歩みをさせていただきたいと思います。