2022年の礼拝メッセージ(齋藤牧師)

「まことの光」

ヨハネによる福音書1章1-14節

降誕日の説教

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

●闇の中に輝く光

 皆さん。主のご降誕おめでとうございます。

クリスマスのイメージは、「暗闇に輝く光」ではないでしょうか。クリスマスの四週間前になると、クリスマス・ツリーに灯りがともされます。わたしたちの教会でも四週間前にツリーを飾り付けました。また、ルカ福音書には、イエス様がお生まれになった晩に野原で羊の番をしていた羊飼いたちに天使があらわれ、「主の栄光が周りを照らした」と記されています。また、マタイ福音書は、東の国の博士たちは、ユダヤの空に輝く星を見て、救い主に会に行ったことが書かれています。

クリスマスがそのようなイメージを持っているのは、クリスマスがこの世の光としてお生まれになったイエス・キリストの誕生を喜び祝う日だからです。

今日の福音書はイエス・キリストを「まことの光」と呼んでいます。まことの、という言葉は「本当の光」という意味です。この世界には様々な光があります。太陽や月や星の光、ろうそくの火、電気の光があって、わたしたちはその光の中で生活しています。 

また科学や知識の光もあります。そうした光も無知や迷信という闇を照らしてくれます。しかし、こうした様々な光は、「まことの光」を指差しているものです。

しかし、この世にある光がどんなに輝いても照らすことができない闇があります。それは第一に「罪」という闇です。どんなに科学が進み、知識が増えても、わたしたち人間は罪と悪を征服することはできません。

聖書が書かれているギリシャ語では、「罪」は「的外れ」という言葉で表現されます。わたしたちは人間は神によって造られ、神を愛する者として造られました。神は今もわたしたちに毎日良いものを与えてくださっています。しかしわたしたちは、神が与えてくださるものは求めても、神様自身は、けむたい存在、いて欲しくない存在と考えているのです。神に向かって生きるように造られた人間がその的を外れてしまっているのです。

神から離れることは本当の光を失うということです。本当の正しさというもとが分からなくなり、自分の不完全な考えに従います。

今、ロシアの侵攻による戦争が続いています。わたしたちはそれを見て、「恐ろしいことをしている」と思っていますが、わたしたちの国も昔はほとんどの人が、自分たちの国が戦って大きい国になることが良いことであり、正義だと考えていたのです。

第二に、本当の光から離れると、何のために生きているのか、人生の本当の目的が分からなくなります。そして最後に、神から離れると、命のもとである神から離れ、死という闇の中に生きることになります。神から離れた人間がいつまでも生きるなら、世界は取り返しのつかないことになると神は考えられたのです。

●世に来たまことの光

このように、わたしたち人間は、まことの光から離れた闇の中にいます。本当の正しさを見失い、生きる意味が分からず、死の闇に包まれて生きています。

しかし、そのようなこの世界に、まことの光である神の御子イエス・キリストが来てくださ居ました。わたしたちは自分の力で光を見つけることはできませんでした。しかしわたしたちを造ってくださった方のほうからがわたしたちのところに来てくださったのです。

人間となられたイエス・キリストはわたしたちが見ることのできる光となりました。イエス・キリストが来られた時、世界は新しい光に照らされました。キリストは、その時代には低く見られていた女性や子どもを大切にされました。貧しい人も弱い人も、人々に見捨てられていた人もご自分のもとに招いたのです。こうしたキリストの歩みと教えは世界の道徳を変えました。そして今でもキリストはこの世界の道徳の光であり続けています。

しかしイエス・キリストは道徳の指導者として来られただけではありません。イエス・キリストは救い主として来られ、わたしたちの罪を赦す愛の光を照らして下さったのです。 

イエス様は、光を嫌うこの世界に来られる時、必ず人々の敵意を受けることを承知していました。そして光を嫌う人間の手によって十字架の死に追いやられました。しかしイエス様は、ご自分の死は、わたしたちの罪を代わって償ってくださるための死であると教えられたのです。わたしたちは十字架のイエス様に、命をかけて愛してくださる神の光を見るのです。そして、この赦しによって、恐れなく神に近づく者とされるのです。

しかしイエス・キリストは死んだままだったのでしょうか。イエス様が死んだとき弟子たちはすべてが終わったと思いました。しかし驚くべきことが起こりました。キリストは墓を破って復活したのです。弟子たちは、初めはまったく信じられませんでしたが、復活したキリストに出会って、本当に復活したことを知ったのです。キリストは命の源であり、人間に死に勝つ命を与えることができる方であることを示されました。こうしてキリストは死の闇に勝つ命の光となられたのです。イエス・キリストはこう言っておられます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。

●命の光を迎えよう

 今日の福音書の箇所の九節以下には次のように書かれています。

「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」

光はご自分の民であるユダヤの国で生まれました。しかし一部の人を除いて、ユダヤの人々は光を受け入れませんでした。彼らは強い武力で敵を滅ぼしてくれる救い主を求めていたからです。

聖書は続いて「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と告げています。

わたしたちの光である言、イエス・キリストは、神からわたしたちへの贈り物として与えられました。「贈り物」とは、代価なしに与えられるものです。立派な人やお金持ちだけに与えられるのではなく、すべての人に差し出され、どんな人でも受け取ることができる贈り物です。そして贈り物は無視したり断ったりしないで、喜んで受け取るときわたしのものになります。

神様が下さるこのイエス・キリストという贈り物を受け取ることにどんな意味があるのでしょうか。それは、神の子であるイエス・キリストを神からの贈り物としていただくとき、イエス・キリストが持っているすべてのものもわたしのものになる、ということです。

 もしある人が皆さんにクリスマスケーキをプレゼントしてくれたとします。プレゼントしてくれた人は「これをあなたに差し上げます。でもそのケーキに乗っている「いちご」だけは返して下さい」などというでしょうか。それではこれをプレゼントします、という言葉はうそになります。

キリストは神の子ですから、キリストを受け入れる人はキリストとともに、神の子としての身分が与えられるのです。また、十字架の上で成し遂げてくださった罪の償いもあなたのものになります。キリストには永遠の命、復活の命があります。その命もキリストとともにわたしたちに与えられるのです。キリストに注がれていた父なる神の愛も、わたしたちに注がれます。キリストの持つ栄光もキリストとともに与えられるのです。わたしたちは何にも勝ってこの光を大切にすべきです。この世の栄光は、いつかは薄れてゆきます。しかしイエス・キリストによって与えられる栄光は決して消えることがありません。

クリスマスに神の子イエス・キリストはこの世にお生まれになりました。しかしそれはクリスマスの始まりであり、それだけではクリスマスは完成しません。皆さんがまことの光であるキリストを皆さんの人生の中に、そして心の中に「わたしの救い主」としてお迎えするとき、本当のクリスマスが実現するのです。今日、改めて命の光であるイエス・キリストを、わたしたち一人ひとりの内に、喜んでお迎えいたしましょう。

「イエス、罪から救う方」

マタイによる福音書1章18~25節

待降節第4主日の説教

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

●もう一人の主役

「クリスマスの主役」と言えば、それはもちろんイエス様です。しかし人間の中での主役と言えば、イエス様の母となったマリアでしょう。マリアはその驚くべき信仰によって、神から遣わされた天使の言葉を受け入れ、救い主を生むという役割を果たしたのです。

しかし、忘れてはならないもう一人の主役は、マリアの夫であったヨセフです。彼はイエス様の子ども時代には聖書に登場しますが、その後は登場していません。おそらく早く死んでしまったのだろうと考えられます。また、マリアの語った言葉は聖書にいくつも記されていますが、ヨセフの語った言葉はひとつも記されていません。

このように、ヨセフは聖書ではあまり目立たない人ですが、イエス様がこの世にお生まれになるにあたって、やはりマリアと同じぐらい重要な役割を果たした人でした。

マリアが天使のお告げを受け入れてイエス様を胎内に宿したとき、マリアとヨセフは婚約をしていした。ユダヤでは、子どもの時からお互いの配偶者を父親同士が決めることが多かったそうです。二人が結婚適齢期を迎えると、結婚する二人の同意のもとに、婚約します。まだ一緒には住みませんが、それでも婚約した後の二人は夫婦としての貞操を守る義務がありました。そして婚約期間中に不貞を行った場合も、男女ともに結婚している夫婦と同じ罪に問われたのです。旧約聖書には婚約している者が姦淫を行った場合は、姦淫した相手も一緒に石打ちの刑を受けることが定められていました。マリアはそのような危険が予想されるにもかかわらず、「あなたは身ごもって男の子を産む、という天使の言葉を受け入れたのです。

しかし、それはヨセフにとって大きな試練でした。マリアの妊娠を知ったヨセフはどれほど苦しんだことでしょう。まだ何も知らないヨセフにとって、マリアが妊娠したことは、彼にとって愛する人に裏切られた苦しみとなり、また愛する人が取り返しのつかない罪を犯してしまった、という悲しみとなりました。

ヨセフはどのように行動したのでしょうか。聖書は「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」とあります。聖書では「正しい」人とは、律法を守る人、ということでした(ルカ1:6)。律法によればマリアは死に価する罪を犯したことになります。しかしヨセフはマリアが罪に問われることを望みませんでした。その一方で、ヨセフは過ちを犯したマリアを、何もなかったかのように妻に迎えるともできなかったのです。ヨセフは、時期も明瞭にしないでひそかに縁を切れば、マリアは婚約を解消されていた、ということで罪に問われないと考えたのです。

●マリアをかばったヨセフ

しかし、ヨセフはどうなるのでしょうか。彼は深い心の傷を負って生きてゆかなければなりません。またヨセフがマリアを訴えないなら、人々はマリアの子はヨセフとの婚約中にできた子で、気に入らなくなったから離縁した、と考えるかもしれません。ヨセフは冷たい身勝手な男だ、というレッテルを貼られることになります。しかしヨセフはたとえ自分が悪く思われても、また苦しんでも、マリアを守り、生かす道を選んだのです。ヨセフは正しい人でしが、その正しさは悪いことをした人を決して赦さない、という正しさではなく、自分が恥を受けても、苦しんでもマリアを救おうとする正しさだったのです。わたしたち人間は、「自分は正しい」と思うときには、正しくないと見える他人を非難し、攻撃するものです。でもヨセフの正しさは人の罪をかばうという愛に生きる正しさでした。ヨセフのこのような愛がなければ、マリアは救い主を産むことができませんでした。マリアは信仰によってイエス様を産みましたが、ヨセフはその愛によってマリアを守り、神様の救いのお働きに仕える者とされたのです。

神様は救い主を産むことをマリアに前もって知らせました。しかしヨセフにはこの出来事が神様の計画通りに起きたこと、預言されたとおりに起きたことを後から知らせたのです。ヨセフの苦しみはしばらくの間でしたが、もし神様が天使によって前もってヨセフに告げていたらヨセフは大きな悲しみや苦しみを味わうことはなかったのではないでしょうか。

なぜ神様はヨセフにそのような悩みを経験させたのでしょうか。旧約聖書には、神様の言葉を伝えた預言者たちが、個人的な体験を通して神様の悲しみや苦しみを知らされた例があります。たとえば預言者ホセアは妻に裏切られるという辛い経験をします。神様はホセアに「その妻をもう一度妻として迎え入れなさい」とお命じになりました。そのことによってホセアは、かつて契約を交わしたイスラエルに裏切られた神様がどれほどの悲しみと苦しみとを覚えておれるか、またそれにもかかわらずどれほど神の民を愛しているかを知らされたのです。

このように、預言者たちの人間的な経験を通して、目に見えない神様がどのような思いでおられるかがが示されたのです。ヨセフもそうした預言者たちと同じように神様の悲しみを経験させられたのです。

●クリスマス、神の愛の表れ

神様はヨセフを通して、神を捨てた人間に対するご自分の悲しみや苦しみを知らせただけではなく、そのような人間にこれから神様がなさろうとすることもわたしたちに示されたのです。

悩むヨセフに天使は夢を通して語りかけました。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

「イエス」とはヘブライ語で「神の救い」という意味です。そして「この子は自分の民を罪から救うからである」という罪とはだれか他人の罪ではなく、「彼らの罪から」という言葉です。

それではイエス様はどのようにしてわたしたちをお救い下さったのでしょうか。それはわたしたちの罪と恥、そして裁きを進んで背負われることによってでした。パウロは「愛はすべてを忍ぶ」(一コリント13:7)と教えました。「すべてを忍び」という言葉は「すべてを覆う」という意味です。ヨセフがマリアをかばったように、イエス様はわたしたちを愛して、わたしたちの罪と恥を背負うことによって、わたしたちをすべての罪からかばってくださったのです。

神様は正しい方ですから人間の罪を決してあいまいにはなさいません。イスラエルだけではなく、本来神様を愛するはずのわたしたちが神から離れていること、神に背いて罪を犯していることも、神様にとって大きな悲しみです。神様がそのような人間と「縁を切る」ということは、人間にとって神なき世界に行くことであり、永遠の滅びを意味するのです。しかし神様はご自分に背いていたわたしたちをかばってくださいました。

この世界の罪を背負うことは罪がある人間にはできません。マリアの胎内に宿ったのは罪のない神の子の命でした。神様はわたしたちの罪を背負って死ぬためにイエス様を人として与えてくださったのです。わたしたちはこの完全な赦しの中で神に帰り、神様と共に生きることができるのです。

このように、神の正しさは、罪を裁くだけではなく、わたしたちを救い、生かそうとしてくださる正しさです。罪人を罰することを喜ぶのではなく、イエス様の身代わりによってわたしたちを義しい者としてくださる正しさなのです。

父なる神様は、ヨセフを通して、神様がわたしたちのためになさろうとしていることを前もって示されたのです。

クリスマスを前にして、わたしたちはヨセフを通して示された神様の愛、イエス・キリストの愛を新たに心に刻みたいと思います。そしてそのご愛に応えて歩むことができますようにと祈ってゆきたいと思います。

「あなたこそキリスト」

マタイによる福音書11章2~11節

待降節第3主日の説教

ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。

『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』

と書いてあるのは、この人のことだ。 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。

●「あなたこそ来るべき方」

先週の説教で、洗礼者ヨハネについてお話ししました。彼は神であるメシアの到来を告げ、人々を悔い改めに導くことによって、救い主の道を整える働きをしたのです。

しかし、ルカによる福音書の三章には、ヨハネはキリストを紹介したあと、領主ヘロデの罪を非難したために投獄されたことが記されています。今日の福音書には、獄中のヨハネがイエス様のもとに弟子たちを遣わして、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と尋ねさせた、と記されています。

多くの解説や説教では、「洗礼者ヨハネは、メシアは悪人を裁き、滅ぼす方であると思っていたが、イエスはただ説教をし、病人を癒したりするだけで、囚われの身となっているわたしを一向に助けに来てくれない。もしかしたら彼はキリストではなかったのではないか、という不信仰に陥ってしまった」、と説明されています。

しかし、その解釈は正しくありません。それは、第一に「来るべき方は、あなたでしょうか。」という言葉は、もともと疑問文ではないからです。ここはそのまま訳せば「あなたは来るべき方です」という文章です。しかしその後の「他に誰を待つべきでしょう。」という言葉が疑問文ですから、それに合わせて前の言葉も「あなたは来るべき方ですか」と疑問形に訳されたのです。しかし聖書には確信を強調するために疑問形を用いられる場合があります。

ヨハネによる福音書六章で、多くの弟子たちがキリストの言葉に躓いて離れ去っていった、という記事があります。その時、キリストは十二弟子たちに、「あなたがたも離れて行きたいか」と言いました。するとペトロは、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。

あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハネ6:68,69)と答えたのです。ここでペトロはキリストに「わたしたちは誰のところに行けばよいのですか」と訊いたのではありません。ペトロの言葉は、「いや、わたしたちはあなた以外の誰のもとにもゆきません」という、キリストへの強い信頼を表しているのです。また、洗礼者ヨハネの言葉は「あなたは」という言葉で始まっています。そこには「あなたこそ」という確信が込められているのです。

第二に、ヨハネが弟子たちに「尋ねさせた」という言葉も、単に「言わせた」という意味の言葉です。

第三に、マタイはヨハネが、「キリストのなさったことを聞いた」と記しています。それは「イエスの働き」ではなく「キリストの働き」と記すことによって、ヨハネがイエスにキリストとしての働きを見たことを伝えているのです。ヨハネはその働き聞いて、彼のキリストに対する変わることのない信仰を伝えさせたのです。そしてそれはヨハネの弟子たちに対する証しともなったのです。

●ヨハネに対するキリストの言葉

イエス様はヨハネの弟子たちに言いました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」

 このイエス様は、本日の旧約の日課、イザヤ書三五章や、イザヤ書六一章に預言されている「メシアの日の出来事」が今起きている。あなたが聞いている通り、メシアの働きが進んでいる」とヨハネに伝えたのです。

そしてイエス様は、人々にヨハネの信仰を賞賛しました。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。」

水辺の葦が風に吹かれて一斉に同じ方向になびくように、人は世間の風潮や目に見える情勢になびいてしまうものだ。しかしヨハネはそのような人間ではない、とキリストは言われたのです。   

そして、彼こそ神が「わたしの前に使者を遣わそう」と語られた人である、と言われたのです。ヨハネがキリストに躓いていたら、彼はもはやキリストを証しする使者ではありません。ここでキリストは、何があっても変わることがないヨハネの立派な信仰を賞賛したのです。

さらにキリストはこう言われました。「わたしはっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」このキリストの言葉も、ヨハネに対する最大の讃辞です。

キリストは続いてこう言いました。「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

このキリストの言葉を、「不信仰に陥ったヨハネがここでキリストによって低く評価されている」、と解釈する人々がいます。しかし、すでにキリストはヨハネのことを「人間として最も偉大な人である」と言っているのですから、ここでヨハネを貶めているのではありません。それは、天国すなわち神の国へは、人間の德や偉大さで入るのではなく、ただキリストへの信仰によって神の子とされることによって入るからです。ここでキリストは、神の子とされることの偉大さと、人間の偉大さを比べて、神の子とされている者は人間の偉大さをはるかに超ええている、と教えておられるのです。もちろん、ヨハネは神の国に入れない」など言うことを言っておられるのではありません。

●苦難の中で貫かれる信仰

ここでヨハネの働きについてお話ししたいと思います。ヨハネは最後の預言者でした。イエス様は今日の日課の後の13節で「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。」と語っています。洗礼者ヨハネはキリストの弟子となって福音を伝えたのではなく、律法を与えたモーセの働きを最後まで果たしたのです。それは人々の罪を指摘するという働きでした。それはわたしたちが赦しを必要としていることを教えてくれる大切な役割です。これに対してキリストの働きの中心は、裁くことではなく、赦し、生かすことです。そしてそれはモーセの業よりもはるかに優れた働きです。そして、その働きはわたしたちにも与えられています。それはわたしたちが立派だからではなく、神の愛を知っており、キリストの証人とされているからです。

しかし、役割の違いあっても、ヨハネも私たちも、キリストを指し示す、ということにおいては同じです。わたしたちもヨハネと同じように、キリストを証しするという働きをしているのです。そしてわたしたちは、どんな状況にあっても、キリストへの尊敬と信頼を失わなかった洗礼者ヨハネを、わたしたちの偉大な教師としなければなりません。

使徒言行録一三章で、パウロは次のように語っています。

「その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』」(使徒13:25)。このヨハネの言葉は、彼がその宣教の初めに語った言葉と全く同じです。ヨハネは、キリストに対する確信をその働きの初めから、「生涯を終えようとするとき」まで変えなかったのです。

わたしたちは洗礼や堅信式の時、恵みの手段、すなわち神の言葉と聖餐を大切にし、キリストのからだである教会の枝として生きることを約束しました。キリストは決してご自分の方から約束を変えることはなく、ご自分の方からわたしたちを見捨てることはありません。このキリストの真実に応えて、わたしたちもヨハネのように生涯、忠実に主に従ってゆきたいと思います。

キリスト者としておあゆみの途上においても、牢獄のヨハネのように、苦しみが襲いかかる時があるかもしれません。わたしは牧師として、多くの困難や逆境の中でも変わらない信仰の内に生きた人々を見てきました。不思議なことですが、教会の中で、物事がうまくいっている人、成功している人よりも、苦難の中にあっても、信仰から来る平安によって支えられている人々から、はるかに強く信仰の持つ力というものを感じ取ってきました。洗礼者ヨハネはそのような確かな信仰の力をわたしたちに教えています。わたしたちも、絶えずキリストに結ばれ、キリストに支えられ、どんな時にも人知を超えた平安を与えてくださるキリストを指し示して生きる者でありたいと思います。

「聖霊と火の洗礼」

マタイによる福音書3章1~12節

待降節第2主日の説教

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。

「荒れ野で叫ぶ者の声がする。

『主の道を整え、

その道筋をまっすぐにせよ。』」

ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

●主の道を備える

福音書は四つありますが、どの福音書も洗礼者ヨハネのことを記しています。彼は救い主の到来を予告した最後の預言者であり、実際に来られた救い主を人々に紹介した人です。彼はその生活においては清廉潔白な人であり、相手がどんな権力者であろうと、決しておもねることなく、神の正しい裁きについて語ったのです。民衆は彼こそキリストではないかとさえ思いました。しかしヨハネは決して自分を誇ることなくことはなく、彼の後にくるキリストの偉大さを証しし、キリストの前にまったく自分を低くしたのです。

神様はいつも、このように神の御言葉に真実に従う人物を通してご自分のことを証しされ、またイエス・キリストを証しされるのです。皆さんも、教会に来るきっかけになったのは、ヨハネのように、その言葉や生活によってキリストを指し示す人と出会ったからではないでしょうか。わたしたちも、たとえ小さな者であても、キリストを指し示す生き方をさせていただきたいと思うのです。命の主であるイエス・キリストを指し示して生きる事以上に尊い働きはないからです。

この洗礼者ヨハネが人々に語ったことは、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」ということでした。それは言い換えれば「自分の罪を認め、悔い改めて主を迎えなさい」ということです。ユダヤ人たちは、「自分たちはモーセに導かれて海の中を通り、またヨルダン川の中を通った時、洗礼を受けている。だから異邦人のように悔い改めの洗礼を受ける必要はない」と考えていました。しかしヨハネは『あなたたちも一人一人悔い改めなければならない、と教えたのです。それも、「神の裁きを逃れるためにとりあえず洗礼を受けておこう」という考えではなく、心から自分の罪を悔い、今犯している罪、とりわけ隣人に対する罪を改めなさい」と教えたのです。

「悔い改め」はイエス・キリストを迎えるために、不可欠なものです。洗礼者ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々に「蝮の子らよ」という辛辣な言葉を語っています。「蝮の子」は小さくて無害に思えても、やはり蝮の性質を持っています。自部の正しさや誇り、自自分の利得を求めていたファリサイ派やサドカイ派の人々は、やがてキリストを憎み、抹殺しようとしたのです。わたしたちの心にも、同じような毒があり、キリストの十字架はわたしたちすべての人間の罪を示しているのです。わたしたちは自分の正しさを誇るのではなく、自分が罪と滅びの中にいることを認めなければなりません。神が近づかれるのは高ぶる人のところではなく、神の言葉に恐れおののく人、霊の砕かれた人、へりくだる魂のもとに来られるのです。

●いつまでも残るもの

 洗礼者ヨハネは、強烈な言葉によって、人々に神による裁きを警告しました。彼は神による裁きを「火」という言葉で示しています。10節では「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と語っています。また最後の12節では、「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」と語っています。

果物の木は実を結ぶために植えられます。また穀物も実を結ぶために植えられます。それらは枝葉を茂らせるために植えられるのではありません。聖書は、わたしたち人間も神によって実を結ぶために造られたと教えています。人は神を愛し、自分を愛するように隣人を愛するようにと造られたのです。   

しかし、わたしたち人間は、それ以外のものを人生の目的にしてきました。神がお求めになる「実を結ぶこと」ではなく、枝葉だけを伸ばし、自分の楽しみや繁栄、成功、満足だけを追い求めてきたのです。ルターは、人間の罪の本日は「自己追求である」と語っています。

こうした自己追及の姿勢は、実を結ばないという無価値な面だけではなく、その貪欲さによって他の人を苦しめるという生き方に及んでいるのです。過去の歴史の中にも、そして今も、世界の独裁的な支配者たちによって、人間の命が物以下に扱われている現実を見ます。それは鬼の所業のようにさえ思え、憤りを覚えます。しかしそうした権力とこの世での繁栄のために他者を苦しめる独裁者の姿は、わたしとは別人の姿ではありません。独裁者とはわたしたちの内側の罪が最もはっきりと外側に現れた姿なのです。わたしたちの国は、今は戦争ができない状態に置かれていますが、もし軍国主義が続いていたら、わたしたちも様々な口実をつけて弱い国に襲いかかり、自国の領土が増えてゆくのを喜んでいたのではないでしょうか。神に造られた人間としての生き方を求めようとしないで、自分の願いや欲望にだけささげるなら、わたしたちは他の人に対しても憐みの心を持たない冷酷な者となります。そしてそのような人生を選び取ってきた責任を神から問われる時が来ます。わたしたちは神の裁きの風に吹き払われ、裁きの火によって焼き払われてしまう人生ではなく、天にある神の倉に取り入れられる者、いつまでも残る実を結ぶ生き方を追い求める者でなければなりません。

 洗礼者ヨハネの授けた「悔い改めの洗礼」はそのキリストを迎えるための入り口でした。ヨハネは人々が悔い改めた低い心で出会いうために働いたのです。キリストに出会わせることがヨハネの使命だったのです。そして今もヨハネの言葉は聖書を通してこの世界に響き渡っているのです。

●聖霊と火の洗礼

しかし、わたしの内にある、この抜き去り難い「業」というべきもの、自分では決して勝つことができない罪をどうすればよいのでしょうか。洗礼者ヨハネは、救い主を「罪の赦しを与える方」として人々に紹介しました。わたしたちが行うべき第一のことは、わたしたちが自分の罪のために滅びの中にいることを認め、十字架でわたしたちのために罪を償ってくださったイエス・キリストを救い主として迎えることです。イエス・キリストを十字架に追いやった人間の罪、わたしの罪は、ただ十字架の上のキリストの赦しによってのみ赦されるのです。

第二に、このキリストによって、神に背く罪から清められてゆくことです。ヨハネは、今日の日課の3章11節で、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と告げています。この「火」とは12節の裁きの火とは違う火です。これはわたしたちの内側、魂にまで浸透する聖霊の火のことです。

旧約聖書は、神にささげられる供え物は、必ず火によって焼かれなければならないと教えています。それは、生まれつきの人間は神の前に立つことはできないということです。しかし、わたしたちは白装束に身を包み、冷たい水に浸かってみそぎをしても、わたしたちの奥底にある罪を清めることはできません。わたしたちの心を清めることができるのは、わたしたちに霊を与えた神だけです。り、火が殺菌をするように、キリストは聖霊によって自己中心という罪を焼き清めてくださり、憎しみや怒り、人を赦せない罪から清めでくださるのです。この聖霊と火の清めを受けることが、神の裁きの火から守られる唯一の道なのです。

わたしたちが実を結ばない者、空しい生き方によって神の裁きの風に吹き払われ、裁きの火で滅ぼされないために、キリストは来られました。キリストは世を裁く方であるのに、低い姿でこの世に来られました。それは、わたしたちが強いられてではなく、心から喜んで救い主を迎えるためです。心から自分を低くしてキリストのもとに行くためです。

信仰によってキリストに結ばれ、キリストの言葉を聞く人々の心に、今も聖霊の火が注がれています。パウロはエフェソの長老たちに対して、「今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」(使徒二〇:三二)と語っています。聖霊は神の言葉通して働きます。そしてわたしたちを清め、御国を嗣がせてくださるのです。

待降節は、クリスマスのための備えをするだけの時ではありません。それは終わりの日に裁き主として来られるイエス・キリストを覚えるときです。そしてその終わりの前に苦しみの道を歩んでわたしたちを救うために来られた御子イエス・キリストを覚える時なのです。この時に、わたしたちは改めて自分のありのままの姿を認め、恐れと共に感謝と喜びをもって恵みの主をお迎えしたいと思います。

「霊の目を覚まして」

マタイによる福音書24章32~44節

聖霊降臨後第23主日の説教

32「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。 33それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。 34はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 35天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」36「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。 37人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 38洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。 39そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。 40そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 41二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 42だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。 43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

●終わりの時代を生きる

教会の暦の終わりと始まりには、「世の終わり」についての聖書の言葉が語られます。「世の終わり」という言葉を聞くと、不安や恐怖を掻き立てられる気がしますが、それはむしろ神様がわたしたちにはっきりとした希望と確かな人生の目標を示してくださっている、ということなのです。

一般の社会では「世の終わり」についてはあまり話されませんが、最新の宇宙科学では、太陽もいつかは燃え尽き、宇宙も終焉を迎えるということが明らかにされています。またわたしたち一人ひとりの人生もいつか終わりを迎えます。しかし人々はできる限りそのことを考えたり触れたりしないようにしているのではないでしょうか。明確な希望がない所では、そうした現実を見つめることはできないのです。

一五年ぐらい前には、「宇宙の終わり」というテーマの本がいくつか出版されました。それらは宇宙物理学者が書いたものですが、ある本には、「人類が消滅する時には神も消滅する。なぜなら神は人間が考えたもので、人間の心の中にあるからだ」と書かれていました。それは愚かな考えであり、「家が壊れたら家を設計した人もその時に死ぬはずだ」と言うようなものです。しかし家は壊れても、家を設計した人が同時に死ぬことはありません。家を建てた人が生きているなら、その家を再建することができます。同じように宇宙と人間を造られた神がおられるなら、その方は宇宙を新しく造り替え、またわたしたちの体も再建することがおできになるのです。このように、聖書が語る終末の教えは、神様だけが与えることのできる真の希望を教えているのです。

イエス様は、終わりの時代に起きる様々な徴(しるし)について教えておられます。今日の日課の前、二四章七節には、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。」と語られています。二〇世紀になって世界はかつてない世界的規模の戦争を経験しました。第二次世界大戦の後に国際連合が創られ、これからは平和な時代が来ると期待されましたが、今なお悲惨な戦争が続けられ、また内戦状態にある国も多くあります。人間の罪の問題が根本から解決しない限り、この世界がよくなることはありません。神様はノアの時のように、この世界をリセットされ、悪を滅ぼして完全な世界を造ろうとされています。しかし義しい方である神は、その時に私たちの一人一人に対して正しい裁きを行われるのです。そのわたしたちの罪を赦し、裁きから守り、新しい世界に導いてくださるために、神様はイエス・キリストを与えてくださったのです。

●キリストの内に生きる

 イエス様は「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」と言われました。わたしたちが覚えなければならないことは、今表れている終わりしるしに心を留める、ということです。しかし一方でイエス様は「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」とも語っておられます。 ここでイエス様がその日その時がいつかは「子も知らない」と言っておられるのは、イエス様にその知識がないということではなくて、それはイエス様には関わりのないこと、であり父なる神様に関わる事柄である、ということです。世界には、「もう終わりが来た」と教えたり、「何年何月に世の終わりが来る」と言ったりして、人々の不安をあおって勧誘した団体もあります。イエス様はそのようなことを否定されます。終わりがいつ来るのかを詮索するよりも、やがて来られ、わたしたちに出会ってくださるイエス様に目を向けて生きること、その救いとその教え

にとどまっていることが大切なのです。つまり私たちの中にあるキリストの言葉を風化させてはならないのです。

 以前、あゆみの家という施設に県の防災課の方を招いて、防災についてのお話を聞いたことがあります。その講師は、「過去の震災の記憶は何年ぐらいで忘れられてしまうと思いますか」と問い「それは四〇年です。」と言いました。聖書では四〇年という年月は「一世代」を表します。つまり大きな災害を体験した世代が、自分が経験した災害を記憶に残そうとしても、次の時代になると、その記憶は風化してしまうのです。

 二週間前にもお話ししましたが、イエス様が弟子たちに予告したエルサレムの滅亡はイエス様が天に帰られてからちょうど四〇年後に起きました。イエス様は「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たらあなたがたは山に逃げなさい」と教えました。紀元七〇年にエルサレムがローマの軍隊に囲まれた時、逃げる機会はありませんでしたが、わずかの間だけローマ軍の包囲が解かれた瞬間がありました。そのわずかな隙にエルサレムにいたクリスチャンたちは家も持ち物も残して全員エルサレムから脱出したのです。

なぜ彼らは昨日のことのようにイエス様の言葉を心に刻んでいたのでしょうか、なぜ彼らの中でイエス様の言葉は風化しなかったのでしょうか。それは彼らが常に礼拝を守り、またあらゆる機会に集まり、キリストの言葉を語り続け、また聞き続けたからです。今わたしはイエス様を信じている、と思っていても、四〇年もすればその信仰は過去の事になってしまうかもしれません。ですから絶えずキリストの言葉を聞き、その救いの内にとどまり続けなければならないのです。イエス様は 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と語られました。いつまでも続くと思われるこの宇宙よりも、イエス様の言葉の方が確かであり、それは必ず実現する、ということです。わたしたちは何よりも確かなイエス様の言葉に信頼を置き、それを最も大切な宝として守り続けるのです。

●目を覚ましていなさい

 イエス様は「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」と語りました。

食べたり、飲んだりすることは必要なことですし、めとったり嫁いだりすることも大切なことです。しかしそれらは人生の目標ではありません。神様が人間を造られた時、「地を治める」という使命をお与えになったのです。その使命を果たすために神様は人に食べ物を与え、またその使命を果たすために配偶者をお与えになったのです。ですからわたしたちの人生の目的は神から与えられた使命を果たすということです。そのためにわたしたちは普段の生活をし、この世での働きもするのです。神から命じられて箱舟を造ったノアの家族も、人々と同じように畑を耕し、家畜の世話をしていたと思います。クリスチャンも同じように、世の人々の中で社会の一員としての働きをします。怠惰な生活をしたり、家庭を顧みないようなことをして人々のそしりを受けるようなことがあってはなりません。しかし、ノアはその日常の中でも、箱舟を造るという神からの使命を忘れませんでした。世界を造られた神の働きが続き、完成するために、ノアに新しい使命が与えられたのです。

箱舟を造る、という使命は、ノアとその家族が救われるためだけではなくて、人類を存続させるため、またあらゆる動物の種(しゅ)を存続させるためでした。同じようにクリスチャンの信仰も、自分の救いのためだけではなく、教会が置かれている場所で、またわたしたちが生活している場所で、わたしたちの救いの箱舟であるイエス・キリストを指し示してゆく使命を与えられているのです。

ノアの箱舟は、その時代の人々にとって、神の裁きと救いを示す大きな「しるし」となりました。おそらくその時代の人々はノアを「無駄なことに時間と費用を費やしている」と嘲ったことでしょう。しかしノアは神の御言葉の確かさを信じ、箱舟を完成させたのです。 

イエス様は「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」

と言っておられます。「目を覚ましている」ということは、わたしたちの主であるキリストの前で生き、常にその言葉に心を止めてゆくことです。ノアの時代のように、この世界の多くの人は、イエス・キリストについて聞いても、自分には関係ないこと、価値のないものとみなす人がほとんどかもしれません。そのような時代の中であっても、キリストはご自分の救いを恥としないで証しすること、そしてわたしたちが互いに愛し合い、助け合うこと、そしてこの世の中で困窮している人々に対して神の愛を実践する事を命じておられます。これらのキリストの言葉を大切にし、いつキリストが来られてもその前に立つことができるように歩むことが「目を覚ましている」ということなのです。

「主は王となられた」

ルカによる福音書23章33~43節

永遠の王キリストの主日の説教

「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

●不安な時代の中で

ルーテル教会は、三年前から改訂された聖書日課を取り入れています。この日課では、今日の「聖霊降臨後最終主日」は「永遠の王キリスト」と呼ばれる日になっています。一体どのような経緯でこの主日が定められたのか調べてみましたら、次のように説明されていました。

「この祭日は、1925年に、教皇ピオ11世が回勅をもって、『王であるキリスト』の祝日と定めたものです。時代はまさに、ドイツではヒットラー、イタリアではムッソリーニ、ソビエトではスターリンと独裁体制を固めているところでした。教会は、終末主日に世の終わりについて考察してきました。今日、この祭日を祝って、世の終わりが滅びの時ではなく、神の国の完成の時であること、キリストが宇宙の支配者であること、この王であるキリストが再び来てくださる喜びの時であることを祝います。」

先週、わたしたちは世の終わりについてのメッセージを聞きました。そして、終わりが近づくと、世界は戦争や暴動、様々な自然災害が起きる不安な時代を迎える、というイエス様の予告を聞きました。しかし、イエス様はわたしたちに、そのようなことが起きても「おびえてはならない」と教えられました。

世相が不安定になると、人は政治家に強いリーダーシップを求めるものです。自分たちの期待に応え、国民としての誇りを満足させ、より豊かな暮らしを実現してくれる政治を期待するのです。

それは自然なことと言えますが、警戒しなければならないことは、ともすると、過剰に愛国心を掻き立てられ、他の国や他のグループへの敵意を煽られること、そして自分たちの利益しか見えなくなったりすることです。

第二次世界大戦の前、不景気だった日本は、国内でそれを解決するのではなく、中国に進出し、中国人の土地を奪うことで解決しようとしたのです。ほとんどの日本人がそのような日本の大陸進出に賛同しました。またドイツに生まれたヒトラー政権は、国の経済を回復させ、さらに次々と隣国を占領してゆきました。多くのドイツ人はそのヒトラーに熱狂し、彼をあたかも救世主であるかのように讃えたのです。キリストを信じているはずの人々も、キリストのみこころを求めるよりも、目の前の成果や利益を喜び、他の国の人々の苦しみや悲しみを無視してしまったのです。

教会の暦の最後に「永遠の王キリスト」の日が定められたのは、世の終わりの不安と動揺の中で、わたしたちキリスト者が、しっかりとまことの王であるキリストに、信仰の目を注ぐために定められた日であるということができます。

●誰を王とするのか

聖書は、神の民イスラエルが、誰をまことの王としてきたのかということを記録し、またその結果を記した書物であるといえます。イスラエルの国は、始めは神ご自身が王として治める国であり、必要な時に預言者や指導者たちが立てられたのですが、人々は、自分たちにも他の国のように、安定した世襲制の王を与えて欲しいと神に要求しました。それは人々が神を捨てるということでしたが、結局神様は民の求めに応えて王を与えました。しかし王たちは神に信頼するよりも、強い国と同盟を結ぶことで国を守ろうとしました。神に信頼し、神のおきてに従うよりも、目に見える大国の力に頼ろうとしたのです。その結果、イスラエルはバビロンの捕囚となり、七〇年の間、国が失われたのです。

新約聖書の時代になって、イエス・キリストが生まれると、東の国の学者たちが来て「ユダヤ人の王はどこで生まれましたか」と尋ねました。しかしそれを聞いたヘロデ王は不安になり、またヘロデのもとで生活していた人々も同じように不安を感じ、誰ひとりキリストのもとに行こうとはしなかったのです。

やがてイエス・キリストが捕らえられたとき、「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」と叫ぶ人々に、ピラトは、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えました(ヨハネ19:15)。しかしユダヤの国はまさしくそのローマ皇帝によって四〇年後に滅ぼされてしまったのです。

この世の王、この世の指導者は必要ない、ということではありません。神はわたしたちの社会の秩序を保つために指導者、為政者を立てておられます。そしてパウロは「彼らのために祈りなさい」と教えています(1テモテ2:1,2)。それはわたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためである、というのです。 国家や指導者は必要ですが、それらは永遠に続くものではありません。それらはやがて消えてゆくものです。ですからわたしたちは、キリスト以上にそれらに頼り、神様がわたしたちに主として、また救い主としてお与えくださったキリストの教えを忘れるようなことがあってはならないのです。

ある人が、全聖書の中心にある聖句はどれかを調べました。わたしたちが持っている聖書のすべての聖句の真ん中にある聖句は、詩篇118編の8節だということです。8節と9節にはこのように書かれています。

「人間に頼らず、主を避けどころとしよう。君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。」

全聖書の中心であるこの言葉は、今もこの世界に響き渡っているのです。

●主は王となられた

人間が完全な王となることができないのは、すべての人は罪を持っているからです。「どんなに優れた人であっても、権力の座に長くとどまると、必ず腐敗し、独裁者になる」ということが人類が経験してきたことです。しかし神様は、わたしたちに朽ちることのない正義によって世界を治める王を与えてくださると約束されました。そしてわたしたちが力の支配や物質的な欲望からではなく、心からその王を愛し、敬うことを求められました。それが永遠の王であるイエス・キリストです。

イエス・キリストは悪霊を追い出し、死者を生かし、風や波さえも静める方でした。しかしそれとともに大切なことは、キリストは罪に打ち勝った方である、ということです。そのことはキリストと同じような奇跡をおこなった預言者たちもなしえなかったことです。今日の福音書を見ますと、キリストは十字架の上で、極限の苦痛の中に置かれ、しかも「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」というあざけりの言葉を浴びせられたのです。そんな状況の中で、「父よ、彼らをお赦しください」と願ったのです。一体他のだれがそのような言葉を語ることができるでしょうか。

十字架の上のキリストは、弱さの極みにあるように見えました。ほかの福音書によれば、キリストと一緒に十字架にかけられていた強盗たちも、始めのうちは二人とも無力なイエス様をののしっていたのです。しかし、やがてそのうちの一人は考えを変えました。聖書の箴言に「 怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」(箴言16:32 口語訳)とありますが、ひどい苦痛と人々のあざけりの中で、この人は憎しみに支配されず、赦しと慈しみに満たされている。この方は普通の人ではない、人間を超えた方だ、ということに気づいたのです。そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言いました。イエス様は答えて、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。「楽園」とは神が人間を造って一緒に過ごされた所です。そこは人間が本来おるべき場所であり、人間の目指すべきゴールなのです。罪に勝たれた方、そしてわたしたちのために最後まで十字架の上にとどまり、わたしたちの罪を背負いぬいてくださったイエス様が、わたしたちを救い、そこに導いてくださる唯一の方なのです。

主はわたしたちの王となられました。主は十字架の木の上で、わたしたちを永遠に救う王となられたのです。この方だけを、わたしたちの永遠の王として仰いでゆきましょう。

「過去と将来の間」

ルカによる福音書21章5~19節

聖霊降臨後第23主日の説教

ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

●エルサレム神殿の崩壊

 今年もあと二週間で教会の一年の暦が終わります。また、クリスマスが終わると年末を迎えます。教会の暦も、社会の暦も、毎年はじめと終わりを繰り返しているように思いますが、聖書は、この世界は限りなく循環するのではなく、初めから終わりに向かって進んでいる、それも、ある「ゴール」を目指して進んでと告げています。そのゴールとは再び来られるイエス・キリストと神の国です。教会暦の終わりには世の終わりというテーマが取り上げられますが、それはわたしたちが、大切なこのゴールに目を向けるためです。

聖書は、キリストが世に来られた時に、すでに終わりの時代に入っていると教えています(ヘブライ1:2)。しかし、「終わりの時代」と「終わりの日」は同じではありません。今日のイエス様の教えはそのことをわたしたちに教えています。

 終わりの時代に起きる「しるし」として、イエス様はエルサレム神殿の崩壊を予告されました。イエス様がそれを語ったのはイエス様の最後のエルサレム行きの時でした。地方から都に来た弟子たちにとって、目の当たりにするエルサレムの神殿は壮大で豪華絢爛でした。巨大な石で作られた神殿はいつまでも建ち続けるだろうと思われました。

 しかしキリストは思いがけないことを告げました。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」(21:6)と語ったのです。神殿の破壊については、すでに旧約聖書のダニエル書にも津語のように予告されています。「油注がれた者(すなわちキリスト)は不当に断たれ(殺され) 都と聖所は 次に来る指導者の民によって荒らされる。」(ダニエル9:26)。このダニエル書の預言どおりに、神殿はキリストが殺されて後、四〇年後の紀元七〇年にローマによって破壊されたのです。しかしイエス様はさらに、神殿はただ壊されるだけでなく、跡形もなく破壊される、と告げたのです。

 どんな古代遺跡でも、壊れてはいても柱だけは立っていたり、一部の石組が残っていたりするものです。しかしエルサレムの神殿は文字とおり完全に破壊されたのです。ローマによって神殿が燃やされ、神殿を覆っていた金がその熱によって溶け、石の隙間に流れ込みました。ローマ兵はその金を回収しようと、すべての石を覆したのです。こうしてイエス・キリストの予告は、驚くべき正確さで実現したのです。

 エルサレムの神殿は、動物の犠牲をささげることにより、罪の赦しを受けとる場所でした。しかし神殿は、やがて神が与えてくださる完全な赦しと救いを示す場所だったのです。キリストこそ、すべての国の人がそこで神と出会うことができるまことの神殿なのです。ユダヤ人は、この生きたまことの神殿を破壊しましたが、キリストは三日目に復活しました。しかしユダヤ人の神殿はもはや永遠に不要なものとして破壊されてしまったのです。

●過去と現在の間

 弟子たちはキリストに、神殿の破壊はいつ起きるのかと訊ねました。その問いに対してキリストは、「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。」と教えられました。

神殿崩壊の前に、キリストが予告されたとおり多くの反キリストが現れました(1ヨハネ2:18)。また飢饉や暴動も起きました。ですから弟子たちのある者は、「もうすぐ終わりが来る」と思い、働くことさえもしなくなりました。しかしイエス様は、「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」(21:9)と教えられました。先ほど言いましたように、それらは世の終わりが近づいたというしるしであっても、世の終わりそのものではないからです。

イエス様は、「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。」と予告しました。(21:12,13)。

使徒言行録は神殿の崩壊以前の記録ですが、そこにはキリストが予告されたとおり、弟子たちが迫害を受けたことが記されています。しかし迫害を受けることによって、弟子たちは普通では決して会うことのない身分の人々、総督や王、さらに皇帝の前に立ったのです。そしてそれらの人々にイエス・キリストを証しする機会を持つことができたのです。

神殿が破壊された後も、世の終わりが来るのはさらに将来のことです。今日の日課の次の箇所、24節以下を見ますと、キリストは、「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」と予告しています。エルサレムが滅亡し、神殿が破壊された時、ユダヤ人は捕虜となってあらゆる国に連れて行かれます。そしてエルサレムの町は時が来るまで外国人たちに踏み荒らされる、と予告されたのです。し

こうしてみますと、エルサレムの滅亡、ユダヤの滅亡は、一つの「終わり」であると同時に、さらに将来に起きる、より大きな最後、すなわち世の終わりを指し示している出来事であるということができます。わたしたちはイエス様が予告された神殿の破壊とエルサレムの最後が実際に起きたことを見ています。イエス様の言葉が過去において確実に実現したのであれば、将来について予告された事も必ず実現するはずです。わたしたちは過去にイエス様の言葉通り実現したこと、イエス様が将来について語られたことの間の時に生きているのです。

●命を勝ち取る

 イエス様が語られた、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり」ということは、神殿の破壊の前に起きたのと同じように、今まさに起きています。実際、今のウクライナでの戦争が「アルマゲドン」すなわち最終戦争となるのではないか、とおびえる人々もいます。しかし、聖書は人間同士の戦いで世界が終わるとは決して教えていません。こうした様々なしるしは、終末が近いことのしるしではあっても、終末そのものではないからです。

世の終わりが近づくと、なぜこのような恐ろしいことが起きるのでしょうか。わたしたちはこうしたことが起こらない日常が当たり前と考えるのですが、この世界はいずれ滅びて、まったく新しい世界に再創造されなければならないのです。神様はむしろそれまでこの世界を災いや混乱から守ってこられたのです。それはキリストの救いが世界の人々に伝えられるためです。様々なしるしは今やその「保護」も終わりに近づいている、という警告です。しかし、キリストを待ち望んでいる人々にとっては、これらのしるしは、キリストが戸口に近づいていることの喜ばしいしるしなのです。箱舟のノアたちが守られたように、キリストは世の終わりの前にわたしたちを集めてくださる」と約束されています(マタイ24:31)ですから不安になる必要はありません。むしろわたしたちの救いの時、解放の時が近づいていることを知って、いよいよ忠実にキリストの御名のために生きることへと向かうのです。

しかし、イエス様は、決して安易な気休めを語りません。むしろ神キリスト者はこの時代の中で多くの労苦や困難を経験する、と告げるのです。のです。そしてどんな苦しみに対しても忍耐し、命を勝ち取りなさいと言われます。それは迫害にあっても死ぬことはない、という意味ではありません。「中には殺される者もいる。」と言っておられるからです。キリストはご自分に信頼する者たちを必ず復活させてくださる、ということを約束しておられるのです。

ダニエルの三人の友人は、神への信仰を貫いたために、バビロンの王によって火の中に投げこまれましたが、髪の毛も焦げずに生きていたのです。焼けたのは彼らを縛っていた縄だけでした。そして彼らと一緒に、「神の子のような姿のものがいた」と記されています(ダニエル3:25)。キリストが共にいるなら、死はわたしたちをわずかでも損なうことができないと主は断言されているのです。

今わたしたちの国では教会に対する迫害はありませんが、世界の中にはキリストへの信仰のために迫害を受けている無数の兄弟たちがいます。そのような中で信仰を守り続けている人々のために祈りましょう。そしてわたしたちもキリストの名のために労苦を惜しまず、ますます忠実に主に仕えたいと思います。この世の命を惜しむ者はすべてを失い、キリストのために生きる人、キリストと共に生きる人は命を、それも朽ちることのない命を勝ち取るからです。

「神によって生きる」

ルカによる福音書20章27~38節

さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」

●復活を信じない人々

 よくこう言う人がいます。「聖書は死んだ人が復活するということが書いてあるので信じられない。復活ということを言わなければ信じることができるのだけれども・・・。」また、「聖書が書かれた頃の人は復活ということを信じられても、現代のわたしたちには信じられない。」と言う人もいます。

しかし今日の福音書を読みますと、イエス様の時代にも死者の復活を信じない人々がいたことがわかります。それは「サドカイ派」というグループの人々でした。サドカイ派の人たちは、死んだ後の裁きや復活はないと考えていました。また天使も存在しない、と主張していたのです。まさしく現代の人々と同じような考えをもっていたのです。貴族階級であった彼らにとっては、この世がすべてでした。死後の裁きとか、死後の命というものはあって欲しくなかったのです。サドカイ派の人々は聖書の中でモーセの五つの書物だけを聖書として認めていました。それらの書物は復活について語っていないと考えていたからです。そのようなサドカイ派の人々は、復活について教えているイエス様をこころよく思わず、イエス様をやり込めようと意地悪な質問を考えたのです。

旧約聖書には、夫が結婚して子供が無いまま妻を残して死んだら、その兄弟が残された妻を自分の妻として娶らなければならないという律法がありました。それには、兄弟の名前を絶やさないということと、やもめとなった女性の生活を守るという目的がありました。サドカイ派の人々はその律法に基づいて質問したのです。「ある長男が結婚したが、子どもがいないまま死んで、残された女性を次男が妻にしたが、彼も死んだしまった。次に三男がその女性をめとったが、その人も死んでしまった。こうして七人いた兄弟みんなが死んで、最後にその女も死んでしまった。こうして七人ともこの女を妻にしたのだが、もし復活ということがあるなら、その時にはこの女は誰の妻となるのか。」という質問です。サドカイ派の人々は、イエス様でもきっと答えることはできないだろうと思ってこのような質問をしたのです。

●この世の命と復活の命

イエス様は、マタイ福音書の同じ個所で、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」と言われました。そして、「復活した人はもう死ぬことはないのだから、結婚することもない」とも言われました。日本は少子高齢化の時代を迎えていますが、子どもが生まれないと、年寄りだけの世界になってしまいます。そうなると働いて社会を支える人がいなくなるので、政府は少子化対策の担当大臣という役職を設けました。しかし、復活した人の世界では老いるとか死ぬということがありません。罪の力から解放されているので、病気も老いも死もないのです。ですから死後の世界には結婚はありません。イエス様は、復活の命は天使と同じであり、死ぬことはないし、結婚して子どもを産こともないと教えられたのです。夫婦の関係も今の世の中だけの関係です。そしてその関係は双方が生きている間だけのものであり、どちらかが死ねば結婚は解消されるのです。また、復活の体は古い体と同じではないということを、パウロは種まきのたとえで説明しています。畑にまかれた種は、土の中で腐ります。言ってみればその種が土の中で死ぬのです。しかし、種の中には命があって、それは前と同じ姿ではなく、百倍の実を付けた新しい姿で実ります。そのように、人間も古い体から新しい体によみがえるのです。劣った形で死んでも優れた姿で復活するというのです。

●生きている者の神

続いてイエス様は、復活があることを聖書から語られました。それもサドカイ派の人々が復活のことが書かれていないと考えていたモーセの五つの書の中から、それも最も大事とされていた十誡の書である出エジプト記から復活を証明されたのです。出エジプト記の第三章で、モーセに顕れた神様は、ご自分を「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と自己紹介されました。アブラハム、イサク、ヤコブは、モーセの時代から四百年以上も昔の人でした。でも神様は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」とは言われずに「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」といわれているのです。それは今でも神様はアブラハム、イサク、ヤコブの神であり続けておられる、ということです。それは彼らが死によって消えてしまったのではなく、今もなお神の前で生きているということなのです。神が「わたしはあなたの神である」と語りかける時、それは語り替えられた人が神の語るかけを聞くことができる、ということです。わたしたちは自分の力では死を超えて生きることはできません。ただ神が共にいてくださることによって、死を超えて生きるのです。人はすべて神によって生きるからです。

●神に向かって生きる

イエス様は、「すべての人は、神によって生きているからである。」と最後に語りましたが、この「神によって」、は英語で表すと「TO HIM」という言葉で、「神に向かって」、「神に対して」という意味です。人間は神に向って生きるものなのです。旧約聖書の創世記には、神様はすべての生き物を土から造って、それに命の息をお与えになったことが書かれています。神様は人間も同じように土から造りましたが、人間だけはその鼻に神様が直接息を吹き込まれたのです。「こうして人は生きるものとなった」と聖書は記しています。それは、人間は神様と向かい合って生きるように造られた、ということを示しています。人間は神様に向かい、神様の語りかけを聞き、神様との関係において生きるように造られたのです。アブラハムもイサクもヤコブも神様の声を聞き、神様に応えて生きてゆきました。ですから彼らはイエス様の時代にも彼らは命の神と結ばれていたのです。 

すべての人間は神様に背を向けていました。しかし、神様は人となられた独り子のイエス様を通して人間に出会ってくださいました。イエス様を見たことがなくても、イエス様は神の御子であり、神が世に遣わされた方であると信じる人は、イエス様によって神様に出会っているのです。そして、わたしたちが神様に顔を向け、神様に向かって生きることができるようにしてくださったのです。イエス様がサドカイ派の人たちとこのような議論をされたのは、十字架にかけられる二日前のことでした。イエス様は苦しみを受け、死んでわたしたち罪を赦してくださいました。また復活によってわたしたちを生かす方であることを明らかにされたのです。このイエス・キリストによって示された人知を超えた愛 によって、わたしたちは神に向って生きる者とされたのです。

わたしたちが神様に向かって生きるのでないとしたら、わたしたちは永遠の希望を持つことができません。動物のように、地上のものだけしか見ようとはせず、神様が喜んでくださる生き方を求めるよりは、自分のためだけに生きてゆこうとします。しかし神に向かって生きる人、神からの新しい命の希望に生きる人は、神の愛の内にあって、神に喜ばれる生き方を目指します。喜びをもって生きることができます。「死ねばすべてが終わる」と思っている人々、特に子どもたちや若い人々に、神から与えられる新しい命があることを伝えてゆきたいと思います。「あなたの命は神から与えられたものです」ということ、そして「あなたに命をお与えになった神は、新しい命を与えてくださる方です」ということを伝えてゆきたいと思います。

「キリスト者の自由」

ヨハネによる福音書8章31-36節

31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。

●「奴隷」と「自由」

今日は宗教改革を記念する日曜日です。宗教改革の始まりは1517年ですが、その三年後の1520年に、ルターは「キリスト者の自由」という本を著わしました。ルターは、本当の自由とはなにかということをその本の中で語っています。短い論文ですが、ルターの書いた中で最も有名な本であるといえます。また、ルターは後に「奴隷的意志について」という本を書いています。この本には「人間の意志は決して自由ではなく、自分の力で善をおこなうことができない」ということが語られています。ルターは「この本は、わたしにとって最も大切な書物の一つである」と語っています。このように、「自由」と「奴隷」ということがルターの生涯のテーマであったのですが、それはもともと聖書の大切なテーマです。今日のイエス様の言葉も「自由」と「奴隷」ということがテーマになっています。イエス様はどういう意味でこの言葉を語られたのでしょうか。

 イエス様は、ご自分を信じたユダヤ人たちに、「あなたがたがわたしの言葉にとどまっているならば、あなたがたは本当にわたしの弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われました。この言葉を聞いたユダヤ人たちは腹を立てました。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。」と反論したのです。 律法を大切にしていた彼らは、自分たちは、神以外の権威には支配されない、という誇りを持っていたのです。しかし、イエス様はユダヤ人たちに、「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」と言われました。ユダヤ人たちは、「わたしたちは自由である」と胸を張って答えたのですが、この先を読むと、彼らがイエス様を石で撃ち殺そうとしたことが記されています。彼らの心はイエス様への怒りと殺意に支配されてしまったのです。自分では正しい人間であると思っても、彼らは罪の奴隷であり、罪に支配されていたのです。このユダヤ人たちは、キリストの目覚ましい働きを見て信じたのかもしれませんが、キリストが自分たちの喜ぶようなことを言ってくれなかったので、キリストに対立しました。もしキリストの言葉にとどまっていたなら、キリストをとおして与えられる本当の恵みを知ることができたことでしょう。

●神への自由

 ルターが主張した、「人間は自分の意志で善を行うことはできない」という言葉を聞くと、多くの人は「わたしだって良いことができる」と思うかもしれません。しかし、聖書が教える最高の善は「心から神を愛する」ということです。人間の行いは不要ということではありませんが、人はそれによって神に近づくことはできないのです。むしろ神に近づこうとする人間の行いは、それによって神の前に自分の罪を覆い隠すためのわざになってしまうのです。創世記三章には、罪を犯したアダムとエバが自分たちの裸の恥を知り、いちじくの葉で作った着物で裸を隠そうとしたことが記されています。しかし神が彼らに近づいてくると、彼らは木の陰に隠れたのです。わたしたちは善い行いで人間の目から自分の罪を隠すことができても、神に対して隠すことはできません。ユダヤ人たちは、自分の正しい行いで神に近づけると考えていましたが、神の子であるキリストが来られた時、キリストに対して拒絶反応を起こしたのです。彼らは自由に神に近づけませんでした。それは彼らが罪の奴隷であり、罪の力の支配の下にいたからです。イエス様がユダヤ人に語られたように、奴隷はいつまでも主人の家にいることはできません。働きが悪ければ追い出されてしまいます。奴隷には安心がありません。しかし、その家の跡継ぎの子がその奴隷を自分と同じ子どもの身分を与えてくれるなら、その人は自由になり、子としていつまでも家にいることができます。同じように、父なる神の代理者として来られた神の子キリストがわたしたちを子にしてくださるなら、わたしたちも神の子となり、いつまでも神の家にとどまることができます。

キリストはどのようにしてわたしを神の子にしてくださったのでしょうか。先ほどお話したアダムとエバは、楽園から追放される前に神が動物の皮で作った着物を神ご自身によって着せられました。人間は自分で作った不完全な着物ではなく、神からの丈夫な着物を与えられたのです。しかし、その着物を造るために初めてエデンの園で動物の血が流されたのです。このことは神が将来キリストによって行われる救いの予告となっています。イエス・キリストは十字架に死なれ、また復活されました。それは、キリストの血によってわたしたちの罪を覆ってくださるためでした。神は直接わたしたちをご覧になるのではなく、ご自分の愛する御子をとおしてご覧になるのです。神の前に、わたしたちの罪は消え、神はわたしたちをキリストとともにご自分の「愛する子」として見てくださるのです。わたしの義しさではなく、神がくださったキリストという義の衣に包まれて、わたしたちは恐れることなく、神に自由に近づくのです。本当の自由とは、現代人が考えているような、心のおもむくままに生きる、ということではありません。それは自由ではなく放縦であり、罪に支配された生き方です。本当の自由とは、神を愛するように造られたわたしたちが、恐れなく神に近づけるという自由なのです。

●隣人への自由

わたしたちはキリストの愛と赦しの中で、もはや神を怖がる罪の奴隷ではなく、神を愛する子とされ、自由な心で神に近づくことができるようになりました。神を愛するようになると、強いられてではなく、心から神に喜ばれることを行いたいと願うようになります。神が喜ばれることは、わたしたちが隣人を愛し、隣人に仕える、ということです。キリストも、仕えられるためではなく、すべての人の僕(しもべ)となって仕えるために世に来た」と語られました。隣人を愛することは、わたしたちがいつまでもなくならないもののために生きる、ということです。愛という実りだけがいつまでも残るものであって、わたしたちがこの世を去った後も持って行けるただ一つのものだからです。そのような実を結ぶためにも、わたしたちはキリストにつながっていなければなりません。というのは、わたしたちが自発的な愛をもってほかの人に仕えるのは、わたしの力ではなく、キリストから注がれる愛の力によるからです。そのように心から隣人に仕える人こそ「自由な人」です。どんなに体が健康で、知恵があり、豊かな財産があっても、自分のことしか考えられないなら、それは自己愛に縛られた不自由な人の姿です。隣人に仕えるという時、それは皆が同じ働きをするということではありません。体の弱い人、病床にあって、体を動かすこともできない方もいます。しかし神がわたしにキリストという一番尊い贈り物をくださったという喜びと感謝が心にあるなら、その人は誰かのために祈るという最高の奉仕ができます。また目の前の人に慈しみに満ちた言葉を語ることができます。それもまた隣人に仕える尊い奉仕なのです。

「人の義と神の義」

ルカによる福音書18章9~14節

聖霊降臨後第20主日の説教

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

●二種類の祈り

先週は、気を落とさずに神様の正しい裁きを待ち望んで祈るということを学びました。今日のイエス様のお話も祈りについて大切なことを教えています。それは、高ぶることなく、へりくだった心で神様の前に立つということです。

イエス様は、そのことを、たとえをとおして教えられました。二人の人がお祈りをするために神殿に行きました。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人です。ファリサイ派の人は天を見上げて祈りました。ユダヤ人は顔を天に向け、両手を上げてお祈りしたのです。

このファリサイ派の人は、まず自分がほかの人々のように罪びとでないことを感謝しています。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」と言っています。実際にユダヤ人の書いたものの中に、そのような祈りも見られるそうです。

次に、彼は自分が行っていることを述べています。「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」旧約聖書には一年に一度、大贖罪日の時の断食が決められていましたが、ある人々は毎週金曜日に断食するようになりました。しかし、このたとえに登場するファリサイ派の人は、「わたしは週に二度断食をしています」と言っています。

また、この人は、「全収入の十分の一をささげています。」とも言っていますが、旧約聖書で命じられているのは、穀物の収穫と、果物の収穫と、家畜の群れの中からの十分の一が命じられていますが、野菜やその他のものは命じられていませんでした。ですから献げ物においても彼は決められた以上のものを献げている、というのです。

このようなファリサイ派の祈りに対して、一緒に祈っていた徴税人は目を天にあげようともしないで、胸を打って「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言いました。徴税人は、ローマのために同胞からお金を収奪する悪人とみなされていたのです。

イエス様は、「二人の人が祈るために神殿に上った。」と語っておられますが、ここで実際に神様に祈っていたのはどちらのほうでしょうか。ファリサイ派の人は「心の中でこう言った」と記されていますが、これは自分自身に向かって、という言葉です。この人は神様に祈っているのではなく、自分の正しさを並べ立てて自己満足しているのです。これに対して徴税人は、心の底から神様に向かって叫んでいたのです。

●悔いた砕けた心

たとえ話の中で二人が祈ったのは、祭司しか入ることができない神殿の建物の中ではなく、神殿の境内でした。そこには罪のための犠牲を献げる祭壇がありました。エルサレムの神殿が建てられた目的は、そこで罪の赦しを受けるために、動物を犠牲として献げるためでした。

イスラエル以外でも、様々な国、様々な宗教が自分たちの神に犠牲を献げる習慣を持っていました。しかし、それらの宗教とイスラエルの宗教には大きな違いがありました。出エジプト記20章24節には、「あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。」と書かれています。そして続く25節以下にはこうあります。「しかし、もしわたしのために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。のみを当てると、石が汚されるからである。あなたは、階段を用いて祭壇に登ってはならない。あなたの隠し所があらわにならないためである。」

古代文明の遺跡に見る祭壇は、加工した石を高く積み上げ、階段で上り、できるだけ神に近づいて犠牲を献げるためのものでした。しかしイスラエルの祭壇は、土か自然石を積んだテーブルのようなものでした。罪のある人間が、祭壇の石にのみを当て、また階段で祭壇に上るなら、かえってその祭壇を汚してしまうからです。それは、わたしたちが自分のわざや力によって神に近づくことができないことを教えています。 

さらに、そこに献げるものも、神に何かを与えることではありません。献げるものは、本来はすべて神から受けたものなのです。このたとえの中のファリサイ派の人は、「全収入の十分の一を」と言っていますが、もとの言葉は「わたしの財産の十分の一を」という言葉です。しかし、人間は自分の力で献げものの羊や野菜を作ることはできません。それらはすべて神が与えてくださるものです。詩篇24編には、「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの」と記されています。人は神から受けたものの中からその一部を礼拝のために使うのです。わたしたちが礼拝するときに求められる最も大切なことは、わたしたちの正しさや献げものを誇ることではなく、悔いた砕けた心を神の前に供える事です。詩篇51篇で、ダビデが「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」と詠っているとおりです。

神様は、御子イエス・キリストを完全な償いの捧げものとしてわたしたちに与えてくださいました。キリストは神殿よりも偉大な方であり、神が備えてくださった本当の犠牲です。それはわたしたちが行いで手に入れる正しさではなく、神がわたしたちに与えてくださった正しさなのです。

●人の義と神の義

わたしたちが自分の正しさを頼りにするとき、わたしたちは自分を誇っているのであって、本当に神に祈り求めてはいません。また自分の心の中を見通される神を、「自分の正しさ」という壁によって遠ざけようとしています。自分の正しさを主張していたファリサイ派の人々や律法学者たちは、イエス様から自分たちの隠れた罪を指摘されると、イエス様を激しく憎むようになりました。

聖書は「神は光である」と教えています(ヨハネの第一の手紙1:5)。その光はわたしたちの外側を照らすのでなく、わたしたちの心の中を照らします。わたしたちは光のない暗い所では自分の顔の汚れは見えませんが、明るければ明るいほどほどよく見えます。どんなに自分は正しいと思っても神様の光に照らされ、神様の言葉という鏡に自分の心を映すなら、罪の汚れにまみれていることが分かるはずです。ですから、「神に近い人」とは、自分は正しいと思う人ではなく、神様の前に自分の罪を知っている人なのです。

また、人間が自分の罪や弱さを認めないで自分の正しさを主張することは、神と人間を分断するだけでなく、人間と人間とを分断させます。イエス様のたとえ話の中のファリサイ派の人は自分と一緒にいた徴税人をさげすんでいました。自分を正しいとすることは、わたしたちを高慢にし、隣人への愛を失わせます。過去の歴史の中で、最も恐ろしい大量殺戮は、「自分は罪人である」と考える人々ではなく「わたしは正しい」と信じる人々によって引き起こされました。。  

それは今の社会においても同じです。自分は罪びとであると思う人よりも、自分は正しいと思う人がより大きな悪を行うのです。最近問題となっている「あおり運転」で人を死に至らせるのもそこ一例です。

神の光の中に立つことは、生まれつきの人間にはできないことです。それは罪に対する神の怒りと裁きのもとにわたしたちが立たせられることだからです。しかし、神は裁きの神であるだけでなく憐みの神です。神はわたしたちのために大切な独り子を死に渡され、呪いの木に掛けられました。それは、わたしたちの罪をすべて飲み込む神の子の犠牲の死です。この神の愛の光、赦しの光という最も強い光の中でのみ、わたしたちはありのままの自分の姿を素直に認めることができるのです。

わたしたちは繰り返し、このキリストの十字架の光のもとに帰りたいと思います。そして徴税人が「義とされて家に帰った」ように、わたしたちも、赦された者、神に義とされた者として、それぞれの生活の場に帰ってゆきたいと思います。そこで神に赦された者としての謙虚さと感謝をあらわす生き方をさせていただきたいと思います。


「御国が来ますように」

ルカによる福音書18章1-8節

聖霊降臨後第19主日の説教

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。 1裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」

●神の裁きを求めて 

今日の福音書の日課の前、一七章二〇節から三七節まで、イエス様はご自分が世の終わりに再び来られることを語っておられます。ユダヤ人たちは世の終わりが来て、神の正しい裁きが行われると考えていました。詩篇九六篇の終わりにも、「主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き 真実をもって諸国の民を裁かれる。」と記されています。イエス・キリストが来られたのは、わたしたちの罪を赦し、神の裁きを受けることのないようにしてくださるためでした。

イエス様によって神の民とされた人々は、この地上でイエス様の働きを受け継ぎ、福音を伝え、罪を悔い改めて神に立ち返るようにと、キリストのメッセージを伝えているのです。

しかし、この世界にはそれを喜ばない人々も多くいます。キリストが十字架にかけられたように、教会も迫害を受けました。ユダヤ人だけでなく、異邦人の救いも説いた教会は、選民としてのプライドをもっていたユダヤ人を怒らせました。また、キリスト教がローマに広がると、自分を神として礼拝させていたローマ皇帝の迫害を受けました。

イエス様は、弟子たちがそのような迫害と困難に会うことを予告されました。そして今日の日課にあるように、そのような困難の中で祈り続け、神の助けを待ち望むようにと教えられたのです。ですからここで教えられている祈りとは、自分の個人的な願いではなく、神が速やかに正しい裁きを行ってくださるように、という祈りなのです。

キリストは、やもめと不正な裁判官のたとえ話をされました。当時、夫に先立たれた婦人は、社会の中で最も弱い立場にいました。このたとえの中のやもめは、だれかに圧迫され、苦しめられていましたが、裁判官はなかなか裁判を開いてくれません。彼は神を畏れぬ者であり、正義よりもわいろや利権で動くような不正な裁判官です。やもめにできることは、とにかくひっきりなしに裁判官に訴え続けることでした。やもめの執拗な訴えに、ついに裁判官は重い腰を上げます。彼が慈悲深いからではなく、やもめによって「さんざんな目に遭わされたくなかったからです。この「さんざんな目」という言葉は「目の下に隈ができる」と言う意味だそうです。

 弱い寡に出キリただ一つのことは、とにかくあきらめないで訴える事だっ

たのです。

●まして神は

イエス様は七節以下で、「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」と語っておられます。キリストは、迫害の中にある教会が、神の正しい裁きを信じて祈り続けるように教えました。悪い裁判官でさえ、やもめの訴えに応えたのですから、まして正しい方である神は、日夜祈り続ける神の民の訴えを聞いて下さるはずです。

この「神は速やかに裁いてくださる。」という言葉は、もちろん世の終わりの裁きを指していますが、それだけでなく、教会の歴史の中で繰り返し起きる迫害や困難についても語られている言葉であると思います。

聖書には黙示文学、黙示思想と呼ばれるものがあります、ユダヤ人は、世界の歴史は光の子と闇の子が戦いを繰り返し、いくつもの戦いの後に、世の終わりに、最後の戦いが起きる、という歴史観をもっていました。もともとユダヤ人であったマルクスという人は、この「光の子と闇の子の戦い」を、「資本家と労働者の戦い」に置き換えました。資本家と労働者の間に戦いが起こり、それは革命運動となって世界に広がってゆく。そして最後に世界的な革命が起きて、ユートピアが実現する、という考えです。それは青年たちに人生の目的と使命感を与えてくれる思想として広がってゆきました。

しかし、聖書の黙示思想は神の民が武力による戦いや革命によって神の国を実現する、というものではありません。教会はからし種のように小さな始まりから、世界に枝を広げる大きな集団になりました。しかし、真の教会は権力や武力には頼りません。また、この世の団体のように大人数で結集して力を誇ることもしません。教会は隠されていて、国や地域の中では小さな弱い姿の群れであり、歴史の中で何度も苦しめられてきました。今でも、中国やイスラム圏のクリスチャンは困難の中にいます。ミャンマーのクリスチャンたちも町ごと家を焼かれたりして圧迫されています。教会はこの世ではやもめのように無力ですが、しかし、教会はこの世界の歴史を導く方、必ずご自分の民の叫びを聞き、勝利を与えてくださる神と結ばれているのです。

イエス様は、世の終わりが近づくと、特に激しい迫害が起きると語られた一方で聖書は、「主の日は盗人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、」(1テサロニケ5:2)とも記しています。一見矛盾している言葉のように思えますが、今わたしたちの国では無事で平和であっても、別の国では迫害に苦しんでいる教会があります。わたしたちはそうした苦しみの中にある兄弟姉妹と、祈りによって連帯しなければなりません。この世の一つ一つの不正や悪が正しく裁かれるように祈るのです。

●祈る務め

この世の悪の力の中で、正義のため、神の国が実現するために祈り続けるためには信仰と忍耐が必要です。わたしたちは自分のことを祈るだけでなく、「御国が来ますように」と日々祈っているでしょうか。今も理不尽な苦しみを受けたり、過酷な迫害を受けている人々と共に、「主よ、いつまでですか」(黙示録6:10)と、訴えなければならないのです。

キリストは、今日の日課の最後で、「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」と心配しておられます。世の終わりには、迫害に耐えかねて信仰を捨てる人々が多く生まれることを予告しています(マタイ24:12) 。日本でも戦争中、弾圧を受けて信仰から離れた人も多くいました。祈っても事態が良くならないので、あきらめて、安逸な生活に逃避する人もいます。また、「祈っても神の予定は変わらない」という運命論的な考えから、祈ることをやめる人もいるかも知れません。ペトロは、「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。」(2ペトロ3:12)と教えています。聖書の神は祈りを聞いてくださり、予定をも変えてくださる方なのです。祈りは神の約束を信頼する信仰から生まれるものであり、その信仰があるところに神は働かれるからです。わたしたちがあきらめずに神に願い続けるということは、そのような生ける神への信頼にとどまることなのです。

「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。38 わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。」(ヘブライ10:37-39)

キリスト者は祈りによって神の働きを引き出す務めを負っています。ルターは、「靴職人が靴を作り、仕立屋が服を仕立てるように、キリスト者の手の業は祈ることである。」と語りました。わたしたちがこうして集まるのは、わたしたちに与えられた「祈りの務め」を果たすためなのです。わたしたちが集まって、心を一つにして祈る願いを、神はとりわけ聞いてくださるからです。神が神の民の歴史の中で、必ず正しい裁きと救いを果たしてくださったことを覚え、わたしの小さな祈りも、神の力があらわれるための大事な祈りであることを信じて、これからもこの大切な務めを果たしてゆきましょう。

「感謝に生きる人」

ルカによる福音書17章11~19節

聖霊降臨後第18主日の説教

 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 1ある村に入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

●癒された十人

 今日は、十人の重い皮膚病を患っていた人たちが、イエス様にその病気を癒していただいた、というお話です。以前の聖書では、「らい病」と記されていましたが、この言葉は患者が差別されていた時代の用語だということで、今は使われなくなり、ハンセン氏病という言葉に置き換えられました。

今はこの病気にかかる人はいなくなりましたが、昔は不治の病とされ、感染力が強く、生きたまま体が朽ちてゆく恐ろしい病気でした。日本でも、小さな子どもがこの病気にかかったことが分かったとたんに親からも引き離されて、強制的に隔離施設に収容されてしまったのです。

イエス様の時代も、この病気にかかった人は他の人々と離れて生活しなければなりませんでした。他の人とは五十メートル以内に近づいてはならないとされていました。ですから重い皮膚病の人たちは遠くから「イエス様、先生、どうかわたしたちを憐れんでください」と叫んだのです。

イエス様は、ルカ福音書五章では思い皮膚病の人に手を触れて癒しておられます。しかしここでは十人のらい病人に、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言っただけです。社会復帰するためには祭司によって体を調べられ、治っていることが分かっても、それから一定の期間を過ごしたのち、いけにえを捧げるなどの手続きをして、家庭や社会に戻ることができたのです。この十人は、イエス様の言葉どおりに祭司に体を見せに行く途中で、自分たちの病気が治ったことに気づきました。そして、そのうちの一人は、直ったことを知ると、大声で神様を賛美しながら戻ってきて、イエス様の足元にひれ伏して感謝したのです。他の九人は少しでも早く家族のもとに帰りたかったのではないでしょうか。それに対してサマリア人は、治ったことだけを喜ぶのではなく、治して下さった方に心を向けました。そして祭司に見せに行くことが遅くなっても、まずイエス様に感謝したい、感謝せずにはいられないと思ったのです。

このサマリア人は、病気を癒されたことを知った時、癒してくださったイエス様に神の愛と大きな力があることを知り、そのイエス様のもとに帰り、その足元にひれ伏したのです。これは神への礼拝をあらわしています。癒された喜びは感謝となり、キリストへの信仰となったのです。

●恵みの与え主に帰る

イエス様は決して「わたしを救い主と信じるなら治してあげよう」とは言いませんでした。イエス様が人々の病気を治されたのは、いつも憐れみの心から行われるものでした。わたしたちも同じでなければならないと思います。この宗教に入ったら、あるいは入るなら助けてあげる、ということをしてはならないのです。それでは無償の愛ではなく、打算的な行いとなってしまいます。

神様の恵みは無償の愛です。神様はわたしたちが神を求めない時にも太陽を照らし、雨を降らせ、食べ物を与えてくださいました。それは、わたしたち人間が神様の恵みを知って、自発的に神様のもとに帰り、神様を愛する者となることを願っておられるからです。なぜなら、人間は自分から神を愛するように造られているからです。そして神を愛し、神との交わりに生きるとき、人は神の命に結ばれて生きる者となるのです。

「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」こう言われたイエス様の心には、体の癒しだけを受けて、恵みの源であるイエス様ご自身を信じなかった人々への悲しみがあるように思えます。もちろん病気が癒されたほかの九人も心の中ではありがたいと思っていたと思います。しかし感謝とは、恵みを与えてくれた相手に会い、言葉で感謝を示すことなのです。

多くの日本人は「ありがたい」という心を持っています。「今日もご飯を食べることができてありがたい」、「今日も健康でありがたい」と言います。それは大切なことだと思います。「ありがたい」ということは「あるのが難しい」、「殆どあり得ない」という意味の言葉です。確かにわたしたち人間は毎日驚くべき奇跡的な恵みの中で生かされています。だとするなら、その恵みを与えてくださる方を探し出し、その方に向かって感謝することが大事ではないでしょうか。

わたしたちは神様から生きるために必要なもの、命や健康や食べ物、一緒に生きてゆく人々を与えられていることに感謝をささげるべきですが、何よりもその神様がわたしたちにイエス様ご自身を与えて下さったことを感謝したいと思うのです。最大の「有難い」ことは、神様がわたしたちの罪を赦し、生かしてくださるためにご自分の大切な独り子を下さったことだからです。   

神様がこれまで日々豊かな恵みを与えてくださったのは、わたしたちがこの最大の恵み、命の糧であるイエス様を受け取るためであり、そのことのためにわたしたちは今まで生かされてきたのです。

●感謝に生きる人

神様を讃えるために帰ってきたサマリア人に、イエス様は「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。「立ち上がりなさい」、とか「起きなさい」という言葉はイエス様が多く使われている言葉ですが、これは復活する、生き返る、という意味があります。そしてイエス様は「あなたの信仰があなたを救った」と告げました。ここまで病気が癒された、清められたという言葉は使われていますが、「救い」という言葉はここで初めて使われています。この人は体を癒されただけでなく、イエス様を信じる信仰によって魂の救いをいただいたのです。

 クリスチャンとは恵みの与え主である神に帰り、神様の最大の愛のあらわれであるキリストを知り、キリストから命を受ける人々のことです。

教会には多くの人が悩みを抱えてやってきます。いろいろなアドバイスや助けを受けてゆくうちに苦しい状況を抜け出して、明るい方向に向かってゆく人々もいます。そうした人々の中で教会の働きの中心におられるイエス様に心を向ける人々はもしかしたら十人に一人もいないかもしれません。でもその一人はイエス様にとって大きな喜びである一人なのです。そしてここにイエス様に感謝するために集まっている皆さん一人一人もイエス様によっては大きな喜びとなる一人一人なのです。イエス様に帰り、イエス様に信仰の目を向ける。そこに救いと命があるからです。

サマリア人がイエス様の前にひれ伏して感謝した、という「感謝」は「ユーカリスト」という言葉で、「正しく恵みを覚える」、という意味があります。そして、これは聖餐式を表す言葉でもあります。聖餐はわたしたちが神様から受けた恵みを正しく憶える時なのです。

わたしたち人間の内にある罪は、重い皮膚病よりもおぞましいものです。それはわたしたちを神から遠ざけ、死に至らせ、人間同士を分断します。しかしイエス様はそのような罪の世界に来られ、ご自分を信じる人に、その聖なる血による救いと清めを与えてくださるのです。

わたしたちは、その最大の恵みを覚え、讃えるために、イエス様のところに帰ってきます。そしていつもイエス様と結ばれ、他の兄弟と一緒に、恵みと伝えるために来られたイエス様のお手伝いをするのです。

わたしたちは日々の恵みをお与えくださる神様に感謝し、その恵みの中で最大の恵みとしてイエス様をお与えくださったことを正しく覚えるためにいつもイエス様に帰り、神様を讃美し、命を受け続けて生きてゆきたいと思います。

「み言葉に照らされて生きる」

ルカによる福音書16章19-31節

聖霊降臨後第16主日の説教

 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

●金持ちの罪とは?

今日は、ある金持ちとラザロのお話です。高価な着物を着て毎日贅沢に遊び暮らしていた金持ちがいました。その玄関の前に全身できものに覆われた貧しいラザロが横たわっていて、犬がそのできものをなめていました。

この二人の人間のどちらが幸福だったでしょうか。地上での生活だけ見れば確かに金持ちの方が幸せだったに違いありません。しかし、金持ちもラザロも死にました。そして今日の聖書は、死の先に神の裁きと永遠の世界があることを教えています。金持ちは人々によって葬られましたが、ラザロは葬式さえしてもらえませんでした。しかし、彼は天使たちによってアブラハムのふところに運ばれました。そして金持ちは燃えさかる炎の中でもだえ苦しみました。

何がこのように二人の運命を分けたのでしょうか。イエス様は先週のお話の最後のところで、「人は神と富とに兼ね仕えることはできない」と教えられました。金持ちはお金を愛し、お金が彼の頼るものになってしまっていたのです。反対に,ラザロは神様に助けを求めました。ラザロという名前は、「神は助け」という意味です。ラザロは貧しさの中で神に頼る者とされていたのです。

この金持ちは、お金に信頼して神への信頼を忘れただけでなく、富むことによって貧しい人への憐れみも忘れました。21節に、ラザロは金持ちの「食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」とありますから、そう願っても食べることができなかった、ということです。金持ちはしラザロに対する憐みの心、同情の心を持っていなかったのです。

「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」といった人がいます。憎しみは、まだ相手のことが心にあるのです。相手にこうあって欲しいという期待や関心があるから憎しみや敵意が生まれるのです。でも無関心というのは相手を何とも思わないことですから、憎しみ以上に愛することから離れているのです。

この金持がラザロを殴ったとか蹴ったということは記されていません。彼はラザロに対して無関心だったのです。無関心ということは。言い換えれば、自分がすべてであって、隣人に対する憐みの心を持たない、ということです。

今、ウクライナで恐ろしい戦争が続いています。わたしたちは「何と酷いことをするのだろう」と憤慨しますが、日本人も昔は日本の軍隊が大陸に渡って隣国民を殺し、領土を奪っているのを応援していたのです。他者の痛みを感じないことは、積極的に人に害を与える行いと結びついています。無関心は無慈悲のことであり、無慈悲は残酷さへと結びついています。それで聖書は「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)と教えているのです。

●もう一人の兄弟

この金持ちは、アブラハムを「父」と呼んでいます。イスラエル人は、自分たちは皆アブラハムの子であると考えていました。だとしたら金持ちにとって、このラザロもアブラハムの子であり、同じ父のもとにいる兄弟であったはずです。彼は、わたしには五人の兄弟がいる、と言っています。ということは彼も含めて六人兄弟だということになります。子どもが歌う「アブラハムには七人の子」という歌がありますが、聖書を読むと、アブラハムには実際に七人の子がいたことが分かります。アブラハムにはサラから生まれたイサクがいました。そしてサラが死んだあとアブラハムはケトラという女性によって六人の子をもうけています。アブラハムの妻から生まれた子は合わせて七人ということになります。

この金持ちにとって、一番近くにいた隣人のラザロもアブラハムの子であり、彼の七人目の兄弟であったことを聖書は教えているのです。金持ちは自分の兄弟たちにはこんな苦しみを味あわせたくない、と言いました。彼は自分の身内である兄弟を愛していたのです。しかし聖書は、自分の家族や血縁を超えて、わたしの助けを必要としている隣人を愛することを命じているのです。

この話は、イエス様が金に執着するファリサイ派の人々たちに対して語られた話です。先週学んだように、「不正な富を使ってでも自分を永遠の家に迎えてくれる友を作りなさい」というイエス様の言葉を聞いて、彼らはあざ笑ったのです。律法学者たちは裕福な生活をしていましたが、彼らは「正しい人々は神様によって祝福され、豊かな生活をすることができる」という考えを持っていました。そして自分は正しいのだから、悔い改めることも、今の生活を変えることも必要ないと思っていたのです。旧約聖書の中には確かに神様に祝福されて富み栄えていた人たちがいます。ヨブもその一人でした。しかしヨブ記31章には、ヨブがその財産を貧しい人々のために使うことを惜しまなかったことが書かれています。「そうしなければわたしは災いだ」と考えていたのです。貧しい人々を憐れむこと、助けることは最も大切な神の戒めだからです。

●彼らには聖書がある

陰府に落とされた金持ちはアブラハムに、「ラザロを兄弟たちのところに遣わしてください」、と頼みました。死人の内からよみがえって忠告してくれる人がいれば、兄弟はその人の言うことを聞き入れるしょう、というのです。しかしアブラハムは彼に、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」と答えました。

 アブラハムの言う「モーセと預言者」とは旧約聖書のことです。ユダヤ人たちは神から聖書を与えられていました。この聖書に耳を傾ける、という姿勢がないならば、どんな奇跡を目にしても、たとえ死人がよみがえって忠告したとしても、信じないだろう、というのです。

イエス様のこの言葉はファリサイ派の人々にとって現実のこととなりました。イエス様はヨハネ福音書11章で、同じ名前のラザロをよみがえらせています。しかしそれを見たファリサイ派の人々はイエス様を信じるどころか、かえってイエス様を殺そうとし、またイエス様の証人であるラザロをも殺そうと考えたのです。ラザロの復活という事実に接しても彼らはイエス様の語る言葉に耳を傾けようとはしなかったのです。

 「彼らにはモーセと預言者がいる」、「彼らには聖書がある」、この言葉は今わたしたちにも語られている言葉です。

 聖書は神のことばであり、人間の心を神の光で照らします。聖書によらなければ、わたしたちの弱い良心の光では何が正しいことで、何が罪であるか分からないからです。

 聖書は神の掟だけでなく、救いの言葉も伝えています。それは罪を赦して、新しい心を与えてくださる救い主の約束です。聖書の中心は神であるイエス・キリストであり、キリストだけが罪を赦し、またモーセの光よりも強い福音の光でわたしを照らしてくれるのです。罪深いわたし、正しさを失っていた貧しいわたしに、神の子イエスが惜しみなくその命を注いでくださったことを教え、その愛に応えて、困窮している隣人に関心を向けるように教えてくれるのです。

 今、聖書は世界に広がり、だれもが手に入れることができます。でもわたしたちの社会では聖書に聞こうとする人は多くはありません。しかし、わたしたちはこれからも神のことばの光に照らされて歩んでゆきたいと思います。人間は神のことばに耳を傾けて生きるように造られたからです。そして、神のことばの中に命の道が示されているからです。


「今の時を生かして」

ルカ福音書16章 1-13節

(聖霊降臨後第15主日の説教)

イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

●人生の会計報告

今日のイエス様のたとえ話は、主人から財産の管理をまかされていた管理人が、その財産を無駄遣いしてしまった、というお話です。前の聖書の訳ですと「浪費している」と訳されています。現代でも会社のお金を遊ぶために使ってしまった、という事件が起こりますが、彼も主人のお金を自分のために使ったのです。

この管理人は主人から信頼され、財産の管理を任されていました。もし主人がこの人を信用していなかったなら、いつも会計報告をさせていたと思います。でもこの人が主人のお金を浪費している、といううわさが主人の耳に届きました。それで主人はこの管理人を呼んで、会計報告を出すように求めました。

わたしたちは時々考えます。「人が良い生き方をしても悪い生き方をしても、変わりはないではないか」と。旧約聖書の「コヘレトの言葉」にも、「悪事に対する判決が速やかに実施されないので、人の心は悪事を行うことに傾いている」とあります。「神なんかいないよ、だれも見ていないよ」と考えるのです。

しかし、神様はいないのでもなく、何も見ておられないのではなく、人に対して一度限りの裁きをなさるのです。神に造られたわたしたちがどのように生きたのか。神から与えられたわたしの命も、心も、からだも、神の御心を行うためではなく、自分の欲のために使ってこなかっただろうか。神の栄光のためではなく、自分が賞賛されるために生きてこなかっただろうか・・・。それが問われるのです。人のものを自分のものにしてしまうことを「わたくしする」と言います。わたしの命、わたしの子供、わたしの人生というように、本当は神様から預けられたものを自分の所有物のように考えているのがすべての人の現実ではないでしょうか。

この管理人が、「会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。」という主人の宣告を聞いたように、わたしたちも「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)という聖書の厳かな言葉を真剣に聞かなければならないのです。

●友を作る

不正を働いたこの管理人に残されている時間はわずかでした。彼は必死に自分が生き延びる道を考えました。そして自分の主人に対して借りがある人々を呼んで、彼らが主人に対してもっている負債を減らしてあげたのです。そうすることで、彼は、管理人をやめさせられた自分を迎えてくれる友達をつくろうとしたのです。管理人は、油百バトス返してもらえるはずのところを半分にしてあげたのですから、主人にまたもや損をさせていることになります。

ところが、そのことを聞いた主人はその管理人をほめた、というのです。主人は管理人の不正をほめたのではなく、その賢さをほめたのです。彼はどこまでも不正な管理人と呼ばれています。しかし、管理人は自分に残された時を生かし、自分の裁量の権限を賢く用いたのです。

わたしたちも、この管理人と同じで、今から良い行いをしても罪の穴埋めをすることはできません。会社のお金を一度使い込んだ人が、「あれはなかったことにしてくれ」ということはできないのと同じです。パウロは「すべての人は罪を犯したために神の栄光を受けなれなくなっている」(ローマ3:23)と告げています。しかしパウロはこう続けます。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより、無償で義とされるのです。」(3:24)

神はわたしたちを裁かれる前に、わたしたちが生きる道を開いてくださいました。ご自分の独り子であるイエス・キリストを救い主してお与えくださったのです。イエス・キリストはわたしたちの罪を償うために、その尊い命を捨ててくださいました。そして「わたしの父の家には住む所がたくさんある。…行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」(ヨハネ14:2,3)と約束してくださる友となってくださったのです。

では、わたしたちはどのようにしてこのイエスをわたしの友とすることができるでしょうか。

それは第一に、「わたしはイエス様を信じます」と公(おおやけ)告白してイエス様の愛を受けとることです。「友人」とは一方的な関係ではなく、お互いの友情を受け入れ合う関係だからです。

そして第二に、自分の時間や持ち物を使って、キリストの友として生きることです。キリストは人間としてこの世に生まれ、赤ちゃんのときからマリアやヨセフのように、彼に奉仕し、仕える人々を必要としてきました。そうすることによって、わたしたちがイエス・キリストの働きに与かることができるようにしてくださったのです。

イエス様は、神のことばを伝えるためにこの世に来られました。だからわたしたちもキリストの体である教会の働きに仕えるのです。そしてキリストの友である兄弟姉妹たちを大切にするのです。

また、キリストは「お返しのできない人をもてなしなさい」(ルカ14:13,14)と教えられました。わたしたちはイエス様が心にかけておられる貧しい人、弱い立場の人々に仕えることによって、イエス様の友となるのです。

●忠実であること 

わたしたちが自分の時間や財産を使って奉仕をしても、それは罪びとのわたしがすることですから、それだけでは永遠の住まいである天国に行くことはできません。しかしそのことは、わたしたちに与えられている時間や持ち物が決して役に立たないもの、どうでもよいものということではありません。わたしたちに残された時間は、神を友とするために、イエス様を友とするために使うことができる大切な「時」なのです。

 神を友とする生き方を選んだわたしたちは、その生き方に忠実でなければなりません。キリストは、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」(16:10)と語っておられますが、この「忠実」という言葉は「信仰」と同じ言葉です。ですから「不忠実な信仰」というものはありえません。

しかし神とキリストに仕える忠実な生き方は簡単ではありえません。なぜならわたしたちは神を友とする生き方よりもこの世を友とする生き方を求め、神からの誉れよりも人からの誉れを求め、神の前に富む生き方を求めるよりも、自分を喜ばせる事を求めようとするからです。イエス・キリストは今日の教えの結びの言葉として、「あなたがたは神と富とに仕えることができない」と言われています。人が二つの違う道を同時に歩けないように、神に従う道とこの世の富や成功を第一とする道を同時に歩むことはできないのです。ここに信仰の歩みの難しさがあります。わたしたちは目の前のこの世の暮らしで富む事を求めるのでしょうか。それとも永遠の神の前に富む事を求めるのでしょうか。

どんなに欲張っても、わたしたちの持っているものはいつか失われてゆくものです。でも、その限りあるものを、永遠の住まいに迎えてくださるイエス様のために用いるという道が開かれているということは、わたしたちにとって大きな恵みではないでしょうか。「わたしには才能も財産もないのだから、たいした役には立たない」などと決めつけてはなりません。小さく見えても、あなたの忠実さをキリストは必要とされているのです。わたしたちは神の力に助けられて、最後までキリストに忠実な者でありたいと思います。

「罪人を招く神」

ルカによる福音書15章1-10節

聖霊降臨後第14主日の説教

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

●罪人と食事をされるイエス様

最近は新型肺炎の流行のために行いませんが、教会ではよく一緒に食事をします。一緒に食事をするということには大切な意味があります。それは神の家族として一緒に生きていることを覚え、その絆を深めるということです。 

イエス様も様々な人々と食事をされました。その中には神様から遠く離れているように見える人々がいました。今日の日課に記されている「罪人」という言葉は、当時の宗教的習慣や儀式を行っていない人々、という意味もありますが、徴税人や、文字通り道を踏み外して生きていた人を表す言葉でもあります。しかし、そのような人々も、喜んでイエス様の教えを聞いていたのです。 

自分が正しい人間だと思っていたファリサイ派の人や律法学者たちは、「なぜイエスは罪人と一緒に食事をするのか」と不平を言いました。「ファリサイ派」とは「分離派」という意味で、神の掟や儀式を守っていない人たちや罪びとたちとは決して付き合わなかった人たちです。ですから、イエスが神の人であるなら、罪人とは食事を共にするはずがない、と考えていたのです。

そのような彼らに、イエス様は、彼らに三つのたとえ話をされました。迷子になった一匹の羊、なくした銀貨の話、そして家出した息子のお話です。今日はそのうちの二つが読まれましたが、この三つのお話に共通することは何でしょうか。 

第一は、三つとも「失われたもの」についての話であることです。羊は羊飼いのもとから失われ、銀貨は婦人のもとから失われ、父親は息子を失いました。そして、失われたものは「命」を失っています。羊飼いから離れたままの羊は生きてゆくことができません。また人間の手もとから失われた銀貨はその価値を失っています。つまり「死んだお金」になっているのです。人間も、神のもとを離れると、神のみ心よりも自分の欲望に従って歩む、という滅びの道を歩みます。神から離れた人間は霊的に死んだものとなっているのです。 

エフェソの信徒への手紙でパウロは「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」と語っています。

第二に、これらのたとえ話で共通していることは、羊や銀貨の持ち主が見つけるまで探した、ということです。そして三つ目に、見つけた人が大喜をして、人々に「一緒に喜んでください」と言っていることです。

●探し出してくださる神

イエス様がこれらのたとえ話をされたのは、聞く人々が生活の中で経験する事柄を通して、神様の御心を教えるためでした。なぜ一匹の羊のために羊飼はそれほど一生懸命探すのでしょうか。また女性は一枚の銀貨のために必死に探すのでしょうか。それは彼らが羊の持ち主であり、また銀貨の持ち主だからです。イエス様は、「あなた方が羊の所有者であり、あるいは銀貨の所有者であったら、同じようにするのではないか」と言われたのです。ヨハネ福音書10章2節に、羊飼は「自分の羊の名をよんで連れ出す」と書かれていますが、羊の持ち主にとっては、百匹の中の一匹の羊は「百分の一」ではなく、名前を持っている、かけがえのない一匹なのです。

同じように、他の人には大切に思えなくても、神様にとってはご自分のもとから離れ、失われている人間もご自分のものであり、かけがえのないひとりひとりなのです。

羊も銀貨も、持ち主が探さなければ、自分の力で持ち主のもとに帰ることはできません。放蕩息子は自分から父親のもとに戻りましたが、彼が息子の地位を回復したのは、父親の愛によるものでした。もし父親の愛が無かったら、元の息子の身分に戻ることはできなかったでしょうし、雇人にさえしてもらえなかったでしょう。 わたしたちが神に帰ることができるのは、わたしの働きではなく、神とキリストの働きによるのです。

小教理問答の中の「聖霊をわたしは信じます」という項目で、ルターは、「わたしは、自分の理性や能力によっては、わたしの主イエス・キリストを信じることも、みもとに来ることもできないことを信じます」と教えています。

わたし自身も、二十歳になる前に、生きる目的や、意味を考えはじめ、道を求めていましたが、偶然の出会いで、ルーテル教会に通うようになり、聖書を学んで、キリストを信じるようになりました。その時、わたしはようやく自分の帰るべき場所にたどり着いたと感じました。その後ずっと、わたしは自分で道を求めてキリストにたどり着いたと思っていました。けれどもある時から、わたしが教会に導かれたのは、決して偶然ではなかったことに気づきました。キリストがわたしの心の叫びを聞いて、連れ戻してくださったのだ、ということに気づいたのです。ここにおられる皆さんも、キリストへと導かれた道がそれぞれ違っていても、やはりキリストがご自分のもとに運んで下さったおひとりおひとりなのです。

●神の喜びに仕える

三つのお話の中で、三つ目に共通することは、見つけ出した人の喜びです。他の人にも自分と一緒になって喜んで欲しいと思うような大きな喜びです。自分のもとから失われていた大切なものが戻った喜びを経験した人はそのような喜びが分かるはずです。

イエス様は、「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(15:10)と教えられました。

ひとりの人がイエス様の言葉に喜んで耳を傾ける姿は、本来居るべき場所に立ち返った人間の姿なのです。それは神に見出された人の姿であり、とても素晴らしく喜ばしい光景なのです。  

わたしたちにとって小さく見える人であっても、たったひとりの人であっても、その所有者である神様は、そのひとりが失われたことを悲しみ、そして捜し求め、見つかったら大喜びをされるのだ、とイエス様は教えられたのです。もし自分が神に近い人間だと思うなら、そのような神の心を知っているはずです。神と喜びを共にできる人こそ、神に近い人だからです。わたしたちは知らなかったとしても、わたしたちが神に帰った時、天で大きな喜びがあったのです。

世の中のニュースを見ていると、様々な悪や不正が目に飛び込んできます。そのようなニュースばかりを見ていると、わたしたちはこのファリサイ派の人々のように、そうしたことを行う人々に比べて、わたしは正しい者であると思い込み、自分の罪を悔い改めること忘れてしまいます。ですから、わたしたちはいつももう一つのニュースを聞かければなりません。それは、神から離れて無力なものとなり、死んでいたわたしのところにキリストが来られ、わたしを見つけだし、大喜びでわたしたちを背負って神のもとに連れ戻してくださった、というニュースです。

わたしたちは、この世では聞くことができないそのニュースを教会で聞くのです。そして、礼拝や交わりの中で、お互いにキリストに見出されたことを喜び合います。そしてその神の喜びに仕えてゆくために心を合わせるのです。

世の中の不正は不正として正しながら、しかし罪の内にある人もわたしたちと同じように神はその人が立ち返るのを持っておられることを心に刻みたいと思います。

エゼキエル書18章23節に、「 わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」とあります。わたしたちはこの神の喜びに仕える者になるのです。  

振り返って見ますと、わたしたちは、イエス様に仕える多くの人の祈りや働きを通してイエス様に導かれました。わたしたちもまた、今も一人ひとりの大切な人を探し求めておられるイエス様の手や足となってゆきたいと思います。

「弟子の条件」

ルカによる福音書14章25-33節

聖霊降臨後13主日の説教

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 14:28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

●イエス様の厳しい要求

イエス様は、ご自分に従ってきた大勢の群衆に向かって言われました。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」

この時、イエス様はエルサレムに向かう最後の旅をしていました(ルカ9:51,13:22)。そのイエス様に強い覚悟を感じた多くの群衆がイエス様に従っていました。イエス様はエルサレムで王座に着くことを期待してついて行ったのです。その群衆の意気込みを打ち砕くかのように、イエス様はご自分の弟子となる道がどれほど厳しいものかを教えたのです。

イエス様は「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら」と語られていますが、ここでの「憎む」という言葉は、ユダヤ的な言い回しであり、「積極的に憎む」ということではなく、言いかえるなら、「イエス様を第一とするとき、他のものは二の次になる」、という意味です。このルカ福音書の16章13節で、イエス様は、  

「どんな召使も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである、あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と教えておられます。誰かがわたし以外のものをわたしと同じように大事なものと考えているから、その人はわたしの弟子ではありえない、とイエス様は語っておられるのです。

聖書は、親や家族に対する責任を果たさなくてもよいとは教えていません。「あなたの父と母とを敬え」と言う十戒の戒めをイエス・キリストも語っておられます。そして父母を敬うことには父と母を養うことも含まれています。パウロは、「自分の親族、ことに自分の家族を顧みない者はその信仰を捨てたことになり、実信者以上に悪い」とテモテへの第一の手紙5章で教えています。家族への責任を果たさない者は、「自分はクリスチャンだ」と言っても、神様を信じない人たちより悪い、というのです。

●従うことを妨げるもの

しかしながら、人々がキリストに従うのを妨げるのも、多くの場合、自分にとって大切な家族の存在ではないでしょうか。「親が反対するから」、「家庭の平和が大切だから」という理由でキリストに従わなかったり、従ったとしても途中でやめたりしてしまう人も多くいます。

たしかにわたしたちにとって家族は大切です。しかし家族も神様がお与えくださったものです。創世記によれば、神様は人間を創造し、その人間にこの世界を管理するようお命じになりました。そして、そのための助け手として彼に妻を与えたのです。聖書では、結婚も家庭も神の働きに仕えるためのものです。

 親を敬うことは十戒に教えられている大切な戒めですが、十戒の最初には、「わたし以外のものを神としてはならない」と教えられています。大切な親であっても、神よりも大切にすることはできません。キリストはここでご自分を父母に勝るものとして示しておられるのです。

家族は、キリストに従うことに比べれば最善なものではなく、次善のものです。この次善の者を最善なものよりも大切にしてしまうことに大きな過ちがあります。

 静岡県にいた時、市立図書館で子育て中の母親を対象に、平和について考える会が開かれました。講師がお母さんたちに、「あなたたちが戦争に反対する理由は何ですか」と聞きました。するとお母さん達は口々に、「わたしの子供たちが戦争で死ぬようなことがあってはいやだから」と答えました。講師はこう言いました。「戦争をする理由もまったく同じです。大切な人たちを守るために、と言う理由で人は戦争を始めるのです」と言ったのです。本当に平和を追求するためには自分の命や家族の幸せ、という次善のものではなく、わたしの造り主である神が教える真実な生き方を求めるという、もっと崇高な動機が必要なのです。

 また、キリストに従うためには「勇気」が必要です。黙示録21章で、キリストは、「おくびょうな者」は神の国へ入れない、と宣言しておられます。ポンテオ・ピラトがキリストを十字架につけたのは、彼がキリストを憎んだからではありません。「この人を釈放すれば、あなたはカイザル(ローマ皇帝)の友ではありません」と叫んだ群衆の声を恐れたからです。ピラトは民衆を恐れたために、真実ではない裁判を行い、それによって神の子を十字架の刑に引き渡すという最も大きな罪を犯したのです。わたしたちは「自分の弱さ」をキリストに従わない口実にすることは決してできないのです。

●神の恵みを土台として

イエス様は二つの例を語りました。「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、「あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

家を建てるということは、一生に一度しかないような大事業です。また、戦争ということも一度始めたら、死ぬか生きるかという重大なことです。信仰生活もそうです。キリストの弟子となることは時流に乗ってたやすく実現できることではなく、一人一人が生涯をかけ、総力を挙げて完成しなければならない大事業なのです。それを完成する力があるかどうかをよく考えてみない、とキリストは言われるのです。

わたしたちがそのように「一切を捨てることができるだろうか」と自問するならば、とても心もとない気がします。ペトロのように、一時は「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)という決意をしても、次の瞬間にはキリストを否んでしまう弱い者かもしれません。

それならば、わたしたちはキリストに従うことを断念すべきなのでしょうか。イエス・キリストは、今日の最後の言葉として、「同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたの誰一人としてわたしの弟子ではありえない」と言われました。ここでイエス様が「自分の持ち物」と言われた言葉は「彼に属するもの」という意味です。持ち物だけでなく、家族、命もそうです。

また、「わたしに属するもの」の中には、「自分を捨てきることができない弱いわたし」も入っています。「わたしは自分の力でキリストに従うことができる」という「自分への信頼」もキリストの前に捨てなければなりません。それが自分のすべてを捨てることなのです。それはキリストの前に降参することです。降参するなら相手は味方となり、敵の力は自分の力となります。弱い自分をイエス様のみ手の内に捨てる時、従う力も主が与えてくださるのです。それはわたしたちのものではない、上からの力です。

教会の歴史の中で、多くのクリスチャンたちに勇気を与えたのも、イエス・キリストから来る力でした。わたしたちが今日までキリストを信じ、キリストに従ってきたのも、決してわたしの意志や力でなく、キリストからの力に支えられていたからでした。これからも、キリストは必要な時に必要な力と平安を与えてくださいます。わたしたちは幼子のようにキリストに信頼を寄せ、キリストに従ってゆきたいと思います。

「低い者が高められる」

ルカによる福音書14章1,7-14節

聖霊降臨後第12主日の説教

安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。

イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、 1あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

●上席に座ろうとする人々

 今日のイエス様のお話は、イエス様がファリサイ派の議員に招かれた食事の席で語られました。「議員」と呼ばれる人は、ユダヤの国に七十人しかいませんから、とても身分の高い人であったと言えます。そこに招かれていた人たちも身分の高い人たちだったでしょうし、お互いに自分の地位を意識していたのではないでしょうか。

当時は紙に書いた席順というのはなく、地位の高い人が上席につく習慣があって、参加者は、自分にふさわしいと思う席に座ったのではないでしょうか。しかし、それでも招待された人々は、できるだけ上の席に座ろうとしたのです。イエス様はそのような人々の様子を見ておられたのです。

 そしてその人たちにこう教えられました。

「婚宴に招待されたら、上席についてはならない。あなたより身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て,『この人に席を譲ってください』というかも知れない。そのとき、あなたは恥をかいて末席につくことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、さあ、もっと上席に進んでください』と言うであろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」。

 最初から高い席に着こうとすると、意外に身分の高い人が来ていて、その人に席を譲るように言われて恥をかくことになるので、はじめの方は低い席に座っていなさい。と教えたのです。

イエス様は、ただ宴会に招かれたときの作法を教えられたのでしょうか。ただそれだけであるなら、日本人には必要ない教えだと思います。わたしたちは、このような場合、誰かが「あなたはもっと上席に移ってください」と言われるのを期待しながら、わざと下の席に着こうとするからです。

●天の宴会に招かれたわたしたち

しかし、イエス様は、ここでそのようなこの世の処世術を教えておられるのではありません。イエスは「彼らにたとえを話された」とあるように、この世の事柄を通してもっと大切な奥ふかいことを教えておられるのです。

イエス様はここで「婚宴に招待されたら」(14:8)と言っています、話の舞台は婚宴に変っています。旧約聖書は、神の国には救い主と神の民の婚宴の喜びがあると教えています(イザヤ61:10、62:5)。イエス様の譬え話にも婚宴の話がいくつもあります。わたしたちはその天の婚宴に招かれているのです。

婚宴に「招かれたときには」、とイエス様は語られていますが、神様がわたしたちを神の国に招いてくださるとき、それは本当の意味での招待です。たとえば、食事会でも参加費いくらいくら、と決めている場合があります。結婚式でも、「招待状」と書いてあっても、「いくらいくら包まなければならないだろう」というのは、本当の招待とはいえません。

しかし、わたしたちが神様の国の宴会に招かれたのは、本当の意味での招待です。神の国はわたしたちの功績や能力によって入ることはできません。そのような資格を問われるなら、わたしたちの落ち度や罪のほうがはるかに大きく、神の国にふさわしい人はひとりもいないからです。わたしたちが神の国に入ることができるのは、神様の一方的な恵みによるものです。父なる神様は御子であるイエス・キリストによってわたしたちを神の国にふさわしい者としてくださったのです。このキリストの招きに応える人々は誰でも神の国に入ることができるのです。

そのように招待された人々の中で、招いてくださった方、すなわち神を喜ばせるのは、自分の立派さでそこに招かれたのだと自負する人ではなく、まったく神の恩恵によるものと感謝してその招待に与かる人です。神の国においては、自分の知恵や地位や立派さを誇る人ではなく、神様の恵みを知り、喜んでそれに応える人が最も神様の近くに呼ばれるのです。

●誰を友とするのか

 それでは、わたしたちは自分を低くするために、具体的に何をしたらよいのでしょうか。

イエス様はこのお話を、一緒にいた客に対してだけでなく、招いた人に対しても語りました。

「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持も呼んではならない。彼らもあなたを招いて、お返しをするかもしれないからである」。

ここでイエス様は招いてはならない、と言われたのは、絶対に招いてはならない、ということではなくて、招き続けてはいけない、招くことを慣わしとしてはならない、という言葉です。むしろお返しのできない、身体の不自由な人や貧しい人を招きなさい、と言われるのです。

 とかく人間は、「わたしはこういう人と付き合っています」、と自慢できるような人とお付きき合いをし、また付き合って必ずお返しをしてくれそうな人に良くしようとします。わたしたちはそうすることによって、やはり自分をできるだけ高い地位に置こうとしているのではないでしょうか。

初代教会の時から教会はこの世の富める人々や有力な人よりも、社会的地位の低い、貧しい階層の人々の方が多くいました。多くの人にとって、そのような集団に入るよりは、この世でもてはやされる人々といる方がはるかに誇らしい、と思ったことでしょう。また教会員になったとしても、その中の身分の高い人々とだけ付き合おうとする人もいたと思います。人々の間で立派に見える人は、また神の前でも尊い人に違いない、と勘違いをしているのです。

パウロは、ローマの教会に対して、「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」(ローマ12:16)と教えています。口先だけでなく、進んで自分よりも恵まれない人々と交わることを求められているのです。

そのようにするのは、「わたしは、本当は優れた者だが、こうしてあなたとも付き合ってあげる」という上から目線でするのではありません。むしろわたしたちは、自分よりも小さいと思う人から最も大切なことを学ぶのです。それは、神の前で偉大な人とは、自分を誇る人ではなく、小さい者に恵みをお与えてくださる神を知っている人、神だけに信頼をおいて生きる人たちである、ということです。そして神様の目はそのような人々に格別に注がれているのです。キリストも、「この小さな者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(マタイ18:5)と宣言されるのです。つまるところ、わたしたちが誰を大切にしているかによって、わたしたちが何を大切にしているかが明らかにされるのです。

以前、静岡のある教会で会員の娘さんの結婚式と披露宴に出席したことがあります。その披露宴の中央の新郎新婦に一番近い席には、目の見えない老夫妻の席が設けられていました。その夫婦は社会の中でとても弱い立場にあった人です。その教会はその夫妻をとても大事にしていました。わたしはそれを見て感動しました。「これこそイエス様が求めておられる教会の姿なのだと思いました。

神様は、自分の力では到底神の国の宴会に入ることができない貧しいわたしを、ご自分の独り子を与えるという大きな愛で招き入れてくださいました。その神様の前で、わたしたちは誰を友にしようとしているのでしょうか。付き合って得になる人、見栄えのする人々でしょうか。それともこの世で低く見られている人々でしょうか。神様はどちらの側におられるのでしょうか。これから、わたしたちの生活の中でそれを考えてゆきたいと思います。

「解放者イエス」

ルカによる福音書13章10-17節

聖霊降臨後第11主日の説教

安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。


●解放者イエス

 イエス様は安息日に会堂で教えておられましたが、そこに十八年間、病の霊に取りつかれて、腰が曲がったままになっていた女性がいました。イエス様はその女性を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、 曲がった腰に手を置かれました。女性は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美しました。

「病の霊にとりつかれた」とありますが、この福音書を書いたルカは医者でしたから、この女性の病気が普通の病気ではなく、霊的な力によるものだと判断したのです。イエス様も十六節で、「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。」と言っておられます。イエス様がこの女性を癒された時の言葉も「あなたは解かれた」、すなわち「解放された」という言葉です。

聖書は解放の物語であるということができます。旧約聖書の中の最大の出来事は「出エジプト」です。エジプトで奴隷にされていたイスラエル人たちは、モーセによって解放されました。同じように、イエス・キリストは、悪魔の支配からこのわたしたちを解放するために来てくださったのです。

人が解放されるということは、神と共に生きるようになる、ということです。腰が曲がっていると上を見上げることができません。同じように、自分の罪という重荷を背負っている限り、心の姿勢が押し曲げられ、神様を見上げることができなくなっているのです。

イギリスのジョン・バニヤンという人が書いた「天路歴程」という本がありますが、その主人公であるクリスチャンという名の人は、救いを求めて旅に出ますが、重荷を背負っていて、苦しい旅をしていましたが、ある日、墓の上に十字架が立っている場所に着くと、背負っていた荷物が背中から転げ落ちて、墓の中に転がり落ちてゆき、まったく見えなくなってしまいました。

わたしたちも、背負っていた罪のために神を見上げることができなくなっていました。しかし十字架にかけられたイエス様によって罪の重荷が取り除かれた者として、喜んで神を見上げることができるようになったのです。この福音書にある女性に起きたことは、またわたしたちにも起きたことなのです。

この女性は体が不自由な間は、他の人のために何かをすることはできませんでしたが、癒されてからは感謝の心で他の人のためにも働くことができるようになったと思います。

わたしたちも罪に縛られている間は、他の人を思いやり、助ける余裕はありません。ですからキリストによる解放は、神様への解放であるとともに、他の人のために生きることへの解放でもあるのです。

●安息を与える方

しかし、この癒しの出来事は、それだけでは終わりませんでした。この会堂の責任者である会堂長は、イエス様が安息日に病人を癒やされたことに腹を立て、群衆に向かって「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」と語ったのです。イエス様に直接言わないで、群衆に語ることでイエス様に対する批判をしたのです。

 イスラエルの歴史の中で、人々が偶像を拝み、また安息日を無視した時代がありました。それでイスラエルの国はバビロンに滅ぼされました、バビロンから解放され後、今度は厳しく安息日を守るようになりました。そのために安息日に何をしたら仕事をしたことになり、安息日を破ったことになるのか、という規定を作ったのです。それには、安息日に病気を癒すことも仕事になるという規定もありました。病気が悪化しないような治療は良いけれども、病気を治すような積極的な治療は禁止されていたのです。イエス様は病気を完全に治す働きをしたので批判されたのです。しかし、そのような規定は人間が作ったものであって、聖書の教えではありません。

 イエス様は、「あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」と言われたのです。

 動物がえさを食べる飼い葉桶は石でできていて、家畜部屋の中にあり、それに家畜をつないでいました。ユダヤ人は安息日であっても水を飲ませるために家畜を飼い葉桶から解放したのです。

 安息日はもともとイスラエルの人々がエジプトでの奴隷生活から解放され、安息のない状態から自由と安息を受け取ったことを記念するために神が定めた日です。ですから安息日には、自分のための仕事は休んでも、重荷を負っている他の人々を助け、安息を与えることはむしろふさわしいことだったのです。

 キリストは安息日についてこのような理解を教えてくださったことはとても大切です。もしこのキリストの教えが無かったら、キリスト教も戒律宗教になっていたことでしょう。

 反対者に言わせるなら、安息日に癒さなくても、他の日に癒せばよいではないか、という声もありました。しかしそれは憐れみのない人の考えです。苦しんでいる人を思うなら、一秒でも早く救うのが正しいことです。それは後回しにしてはならないことです。しかしこうしたイエス様の姿勢は、イエス様に対する敵意や殺意となってゆきました。わたしたち人間を悪魔の力から解放するという働きは、イエス様が命の危険の中に入ってゆくということでもあったのです。

●イエス様を喜ぶ人々

 今日の日課の最後の節には、イエス様が語られると、「反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」と書かれています。「反対者」とありますから、そこにはイエス様に反対する人たちが他にもそこにいたと思います。

イエス様の到来は、いつも人々をグループに分けます。自分の誇りや利害の方を大切にし、また、今の生活を変えたくないので、イエス様を喜ばない人と、イエス様に神の愛と救いを見て喜び、イエス様を迎える人とに別れるのです。

 ルカによる福音書の二章で、シメオンは幼子のイエス様を抱いて、母マリアにこう言っています。

「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」(2:34,35)。

 イエス様に出会う時、人々は神を愛する人と、神を拒む人に別れます。それまで隠されていたその人の心が、イエス様に出会うことで明らかになるのです。わたしたちはイエス様を捨てて悪魔の支配の内にとどまる者ではなく、イエス様に、命をかけてわたしたちを罪と死の絆から解放してくださったイエス様を受け入れたいと思います。

わたしたちの安息はイエス様がおられるところにあります。わたしたちがこうして集まるところ、またわたしたちがイエス様に向かって祈るところにイエス様はおられて、安息を与えてくださるのです。

わたしたちはこの古い体で生きている間はいつも罪と過ちを犯します。ですからこうして新しく「あなたの罪は赦された」という言葉を聞き、新たな安息をいただくのです。そして安息を受けたなら、他の人たちの安息のために生きるようなるのです。これこそ神様が喜ばれるキリスト者の生き方なのです。

「主イエスの羊」

ヨハネによる福音書10章11‐18節

2022年召天者記念礼拝の説教

10:11わたしは良い羊飼である。良い羊飼は羊のために命を捨てる。 10:12羊飼でなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 10:13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 10:14わたしは良い羊飼である。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 10:15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 10:16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼に導かれ、一つの群れになる。 10:17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 10:18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」


●良い羊飼イエス

 聖書には羊と羊飼のことが多く書かれています。イエス様は「わたしは良い羊飼である」と言いました。イエス様はご自分の羊を救うために来られた方です。

羊飼から離れて迷い出た羊は、犬や猫のように自力で自分の飼い主のもとに帰ることができません。また自分で食べ物を見つけることもできません。自分で自分を守ることができないので、山犬や狼に襲われて食べられてしまいます。

ですから、羊の所有者である飼い主が必死に迷子の羊を探すように、イエス様も命がけでご自分の羊を探し出し、救おうとされるのです。

羊が飼い主のもとから迷い出ることは「罪」とは言いません。しかし人間が神から迷い出ることは「罪」と呼ばれます。

神様はこの世界と人間を造り、知恵と意志を与えてくださいました。それは、わたしたちが、すべてものを与えてくださる神に感謝し、すすんで神に従うためでした。しかし、聖書は人間が神に背いたことを記しています。そして神の御心よりも自分の利益や欲望に従うようになりました。 

このように、人間が神から離れて道に迷うことは、道徳的に誤った道に行くことを意味します。

この世では、表にあらわれた犯罪だけが裁かれます。しかし、犯罪は人間の手足が勝手に動いて犯すのではなく、心の罪から生まれるものです。今は弱い立場だから悪いことはできなくても、心の中には怒りや悪い思いがあります。神はそのようなわたしたちの心を見通すことができる方です。そして正しい裁きを行う方です。人間はそのような神を無意識のうちに恐れており、神を避けて生きています。わたしたちの罪が神に帰る道を閉ざしているのです。

しかし、神様はご自分のもとから離れて迷っているわたしたちを見捨てないで、大切な独り子であるイエス・キリストを送ってくださいました。人となられたキリストは、罪のないご自分の身を、わたしたちの罪の償いのためにささげてくださったのです。イザヤ書53章6節には次のように記されています。

「わたしたちは羊の群れ

道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。

そのわたしたちの罪をすべて

主は彼に負わせられた」

ここで「彼に負わせられた」とある「彼」とはキリストを予告する言葉です。

良い羊飼が、羊の群れを襲う獣と命がけで戦うように、イエス・キリストは、わたしたちを罪の力から救い出すために命を捨てられたのです。キリストの十字架は、わたしを救うために尊い命をささげて下った神の子の愛のしるしなのです。

●今も導いておられるキリスト

しかし、羊飼が命がけで羊のために戦ってくれても、死んでしまったら、もはや羊を導くことも守ることも出来ません。しかしイエス・キリストは死に打ち勝たれた力をもって永遠にわたしたちと共にいてくださるのです。先ほどお読みしたヨハネ福音書の10章18節で、キリストはこう語っています。

「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」 

イエス・キリストは十字架の上で死なれました。しかし神の子であるキリストは、わたしたちの罪を償って余りある豊かな命を持っておられます。それは「永遠の命」です。キリストは墓に葬られましたが、三日目に復活し、弟子たちの前に現れました。イエス・キリストは手足にある十字架の傷跡と、槍で刺されたわき腹の傷跡を弟子たちに見せて、目の間の前にいるのが、確かにご自分であることを弟子たち示されました。

イエス・キリストが死なれた時、弟子たちは羊飼を失った羊の群れのように散り散りになっていました。しかしキリストの復活という思いがけない出来事によって、絶望していた弟子たちは、喜びと勇気にあふれてこの出来事を世界に伝えたのです。

キリストは罪からわたしたちを救い、また罪の結果である死の力からもわたしたちを守ってくださる方です。「死の力からの救い」とは復活のことです。

死後の世界には霊だけが行く、と考えている人がいますが、霊だけで体がなければ死んだままです。愛する子を亡くした親は、「魂が残っているので悲しくない」とは言いません。魂と共に、触れることができ、抱きしめることができる体があることを願うのです。聖書が教えている希望は、人間の体の復活であり、その体が住む、新しく創造された世界です。それは人間を創造し、世界を創造された神だけが与えることができる希望です。

旧約聖書の中には、死がその人の羊飼となる、という言葉があります(詩49:15)。この世では死の力よりも強い力はありません。しかし、わたしたちの羊飼は、わたしたちを死の力から奪い返してくださる永遠の羊飼いなのです。キリストは今も生きておられる方です。そして復活の時まで、ご自分の羊を守ってくださるのです。

●羊飼の声を聞く人

 イエス様は、今日の聖書の箇所でこう言っておられます。

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」(一〇:一六)。

「この囲いに入っていないほかの羊」とはユダヤの国以外の国の人々のことです。ユダヤ人たちは「自分たちだけが神の民である」と考えていましたが、イエス様は「わたしの羊は他の国々の中にもいる。わたしは彼らも導く」と言われたのです。キリストは教会を通して、ご自分のことを世界に伝えさせました。とりわけ、キリストがわたしたちのために死なれたこと、そして復活して今も生きておられることを伝えさせたのです。この聖書の中心となるメッセージが「福音」と呼ばれるものです。

わたしたち人間は、最初から神をすすんで愛する者として造られています。人間の尊さは神に愛されており、わたしたちもまたその愛に応えて生きるところにあります。ですから神はわたしたちを強制することはしないで、ご自分の愛と赦しを示され、わたしたちが喜んで神に帰るようにと招いてくださったのです。

羊は決して強い動物ではありませんが、優れているところは、自分の飼い主の声を聞き分けることです。それはわたしたち人間にとっても同じです。語られたキリストのことばに自分の羊飼の声を聞く人、そしてその羊飼の声に応える人がキリストの羊です。キリストの声を聞き、それに応えることは小さな子どもにも、貧しい人でも、弱い人でもできることです。

このように、キリストの声がするところに良い羊飼であるキリストがおられます。わたしたちが教会に集うのは、羊飼のキリストの声を聞き、キリストに出会うためです。

わたしたちには、なお罪があります。日々道からそれそうになります。しかし、イエス・キリストはわたしたちの思いを越えた力でわたしたちを導き、正しい道に引き戻してくださるのです。

今日、わたしたちが記念している召天者の方々は、羊飼であるキリストに出会い、その声を聞き分け、キリストに従って生きた方々です。このようにキリストにまことの羊飼いの声を聞く人は幸いです。

わたしたちも、先だって行かれた人々と顔と顔を合わせる日まで、同じ羊飼のもとで生きてゆきたいと思います。

「目を覚まして」

ルカによる福音書12章32~40節

聖霊降臨後第9主日の説教

小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

●神の前に富む者

先週の日課でイエス様は、「神の前に富む」ということをお教えになりました。今日の日課でイエス様は「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。」(12:33)と教えておられます。「神の前に富む」ということは、わたしたちの助けを必要とする人に、喜んで施す、ということです。

最近、高額な献金を強制する宗教団体のことが、マスコミなどで報道されています。そのような団体の教えと聖書の教の違いは、第一に、わたしたちが自分の財産をささげるから、わたしや家族が神の国に入れるのではない、ということです。イエス様は「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」と言っておられます。神の御国は、わたしたちの働きの報いとして与えられるのではありません。それはひとえにイエス・キリストによって、恩恵として与えられるのです。だから、恵みを受けているあなたがたも、こころよく人に施しなさい、とイエス様は教えるのです。

第二に、キリストが教えておられるのは、教団の教祖にささげることではなく、貧しい人々に施す、ということです。聖書は、わたしたちが神のことばの働きのためにささげることを教えていますが、またわたしたちの助けを必要としている人々を支えることをさらに多くの箇所で教えています。

他者のためにささげるという生き方は、神への信頼がなければできないことです。父なる神が御国を与えてくださる、ということは将来のことだけではありません。神の国とは、神の御支配のことです。父である神は、その御支配によって、御子に従って生きるわたしたちを守り、養ってくださいます。だから自分のことだけではなく、他の人のことも思いやって生きることができるのです。

施すことは、自発的なものでなければならない、と聖書は教えられています。強いられてではなく、神への愛から生まれる自由な奉仕を行うことが、わたしたちを「神の前に富む者」とするのです。

●神の恵みの管理者として

わたしたちが、自分の持ち物を他の人のために役立ててゆくことは、自由な行いでなければなりませんが、それは「そうしなくてもよい」ということではありません。「自由である」ということは、貪欲に支配されないで、他の人のために生きることができる、ということだからです。

このような生き方をするためには、わたしたちが主人ではなく、神から受けているすべてのものを、神様の御心に従って管理して行くという「僕(しもべ)」としての精神が必要です。

今日の日課の後半でイエス様は、わたしたちが僕として忠実に主に仕えるべきことを教えておられます。「僕」は「奴隷」とも訳されますが、ここでの「僕」は、主人に家の管理を任されている人です。

主人が僕に求めることは、「主人のために忠実に仕えること」です。わたしたちの主であるキリストも、わたしたちがご自分の御心に忠実であることを求めておられます。

イエス様を「主」と告白して洗礼を受け、初めの内は教会に喜んで来る人は多くいますが、生涯変わらずに主に仕える人は決して多くはありません。キリストに出会った時の「初めの愛」を忘れないで、主のみ言葉に耳を傾け、主が求めておられる務めを果たす忠実さが求められているのです。わたしたちが礼拝でキリストの言葉を聞き続けるのは、わたしたちがキリストの御心を知るためですが、またみことばによって御心を行う力を受けるためでもあります。

 イエス様は、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい」(12:35,36)と教えています。ユダヤでは、結婚式は夕方から始まります。終わりの時刻は招待した人が決めましたから、いつになるかわかりません。時には終わるのが夜中になってしまうこともあったと思います。

同じように、イエス様は見える姿ではわたしたちの前におられませんが、やがて必ず帰って来られます。

イエス様は、「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(一二:三八)。と言っておられます。イエス様が帰って来られる時とは、第一にイエス様が再び世に来られる「再臨の時」と考えることができます。ここでの「真夜中」とは、ローマ軍の「第二の夜回り」を指す言葉で、夜の九時から真夜中までを指します。また「夜明け」とあるのは「第三の夜回りの時」のことで、真夜中から三時までです。つまり最も暗く、眠い時です。この世界が最も暗い時、悪や災いが満ちて、この世に神などいないように思える時、そして多くのクリスチャンが霊的な眠りに陥っている時、突然主が帰ってこられるのです。しかし、それがいつになるかは誰も知らない、とイエス様は教えています。

また、イエス様が帰って来られる時は、わたしたちが世を去ってキリストの前に立つ時、と考えることもできます。それもまたいつになるのかは誰にも分かりません。ですから、わたしたちは信仰の灯を消さず、霊の目を覚まして、常に主のみ前で生きてゆかなければならないのです。

●主と共に喜ぶ時

イエス様は、「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」(12:37)と言われました。

主人が僕のために給仕する、というこのイエス様の言葉は、この時代には決してありえないことです。しかしイエス様はそのありえないことを約束されたのです。

イエス様は最後の晩餐の時に「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」(ルカ22:16)と言われ、また同じ席で、「言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(22:17)と言われました。それはイエス様が神の国で弟子たちと食事をする時を、ぶどう酒断ちをしてまで待ち望んでおられる、ということです。

父なる神に忠実であったイエス様は、わたしたちにも「死に至るまで忠実でありなさい」と言われます。それはやがて、そのように歩んだわたしたちを迎えて、喜びの食事を共にすることを切に願っておられるからです。

復活したイエス様は、ガリラヤで弟子たちに現れ、一晩中漁をした弟子たちのためにパンと焼いた魚を用意され、それを湖から上がった弟子たちに手渡されました(ヨハネ21)。イエス様自身が弟子たちをねぎらい、給仕してくださったのです。それは弟子たちにとってどんなに幸せな時だったことでしょうか。イエス様は、この世が終わって新しい日が来る時にご自分がなさろうとしていることを、あらかじめガリラヤ湖畔でお示しになったのです。

キリストがわたしたちに「忠実であれ」と教えられるのは、決してわたしたちを厳しくおいつかうためではありません。父である神に忠実に仕えたイエス様は、わたしたがイエス様を忘れて生きてきたという後悔の心で迎えるのではなく、イエス様を愛し、その御心に忠実に応えた者として出会い、神の国で喜びの食事を共にすることを願っておられるからです。わたしたちは、この主の愛に応えて、ますます忠実に、また喜んで主に仕えてゆきたいと思います。


「神の前に富む」

群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

●貪欲に注意しなさい

今日の福音書は、群衆の中の一人の人が、イエス様に向かって「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」と願ったところから始まっています。

イエス様の時代、ラビすなわちユダヤ教の教師は、人々の民事上の争いごとや問題を聞いて、解決してあげるということも行っていました。ですからこの人も、イエス様ならわたしの抱えている問題をきっと解決してくれるに違いないと考えていたのです。

しかしイエス様は「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」と言われました。そしてイエス様は一緒にいた人々に、「あらゆる貪欲に注意しなさい」と言われました。  

この人は、自分は正当な訴えをしているのであって、決して貪欲だとは思っていなかったでしょう。この人の何が貪欲だったのでしょうか。

第一に、この人が兄弟と争ってでも、親の遺産を受け取ることが当然の権利だと考えていたことです。現代でも遺産をめぐる家族のトラブルがあります。それは、自分が働いて得たお金ではないのに、遺産は自分のものであるかのように考えているからです。そして兄弟の間の平和よりも遺産の方が大切だと考えるところに貪欲な心があります。

第二に、この人は遺産のことで心がいっぱいで、目の前にいるイエス様が何のために来られた方なのかまったく分からなかったのです。

この直前に、イエス様は群衆に何を語っておられたのでしょうか。12章8節でイエス様は、「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。」と語っておられます。それは、「もしあなたが人々の前で、『わたしはイエスの仲間である』と告白するなら、わたしも神の天使の前で、あなたが何に属する者であるかが問われる時、わたしは『この人はわたしの仲間であり、わたしに属する者である』と告白するであろう」ということです。

これはユダヤの教師たちには決して語れなかった言葉です。イエス様はこの世の富を保証するためではなく、天にある朽ちない富を与えてくださるために来られた方です。イエス様に訴えたこの人には、イエス様の言葉は全く耳に入っていませんでした。貪欲は、地上の財産のことで心の目を塞ぎ、本当の富であるキリストを見えなくしてしまうのです。

●命を守るもの

エス様はまわりの人にひとつのたとえ話をされました。お金持ちの農夫のお話です。この人にたくさんの収穫がありました。この人は「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」と思い巡らしたすえ、「そうだ、こうしよう。倉を壊してもっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい。こう自分に言ってやるのだ。さあ、これから何年も生きてゆくだけの蓄えができたぞ、一休みして食べたり飲んだりして楽しめ。」と言いました。

金持ちの独り言をもともとの聖書の言葉であるギリシア語で読むと、この人は「わたしの作物、わたしの倉、わたしの穀物、わたしの財産、わたしの魂」と言っています。先ほどイエス様にお願いした人のように、自分の財産がすべてであり、神様は「不在」なのです。

神様はこの人に、「愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前が用意したものはいったいだれのものになるのか」と語られました。そして「自分のために富を積んでも神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と結ばれました。

この人が語った、「こう自分に言ってやるのだ」という言葉は、「自分の魂に言おう」という言葉です。そしてこの魂という言葉は「命」とも訳せます。この農夫は、この世の財産や持ち物を守ることは考えていましたが、一番大事な自分の命を守ることを考えていなかったのです。

神様が、わたしの命を取り上げる時、わたしを守るものは地上の財産ではありません。わたしのために死んでくださり、また永遠に生きて共にいてくださるキリストだけがわたしを守ってくださるのです。わたしたちは地上の財産を守ることを考える前に、わたしの魂、わたしの命を永遠に守ってくださるイエス・キリストをなくてはならない財産として第一に求めるべきです。

 イエス様は最後の晩餐の時に弟子たちと契約を結びました。それはある意味で「遺産相続」のための契約でした。イエス様はそこでわたしたちのために死なれ、またわたしたちを生かすご自分の体、わたしたちを罪の裁きから守る血を遺産として分け与えると約束され、弟子たちはそれを受け取ったのです。そして、イエス様がその後に十字架で死なれたことにより、その遺言が実現したのです。神が与えてくださったこの永遠の遺産を受け継いでいる人が、「神の前に富んでいる」人なのです。

●善い行いに富む人

聖書は、もう一つの「いつまでも残るもの」について教えています。それは「善い行いに富む」ということです。

パウロはテモテへの第一の手紙6章18節で、「善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くように」と教えています。それは自分の持っている力や時間や持ち物、財産を必要とする人のために使うということです。

「わたしの作物、わたしの倉、わたしの穀物、わたしの財産、わたしの魂」と言っていた人の心に神様はいませんでしたが、また隣人もいませんでした。飢えている人、貧しい人のことへの関心、同情は彼の内にはありませんでした。

多くの人は、「わたしが働いて得たものはわたしのもの」と考えますが、この例えに見るように、わたしたちの命はわたしのものではなく、神から預かっているものです。そしてそのわたしの持ち物も神が与えてくださったものです。神がそれをどのように用いることを求めておられるかを考えなければなりません。 

キリスト者であっても、自分のためだけに生きた人生は貧しいものです。たとえわたし自身は救われたとしても、神様の前にもってゆくことが何もないからです。

ここで忘れてならないことは、わたしたちの善い行いがわたしを救うのではない、ということです。「善い行いをしていれば、キリストはいらない」と考える人もいます。しかし、わたしたちのどんな行いもわたしたちの罪を覆い隠すことはできないのです。神の前にわたしたちを生かしてくださるのはキリストだけです。キリストは富んでおられたのに、わたしたちのために貧しくなり、ご自分の命を与えてくださいました。この方だけがわたしを神の前に義しい者としてくださり、わたしを生かしてくださるのです。ですからキリスト抜きの自己信頼による善い行いではなく、このキリストと、キリストを与えて下さった神への感謝から生まれる行いこそ、純粋な愛となり、永遠に残る実となるのです。

さて、神から「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。」と言われたこの農夫はその先どうしたでしょうか。ここで彼が完全に予期しない死を遂げたのであれば、考えを変える時はありませんでした。しかし、神はここで彼の死を「予告」しておられるのです。彼は考えを変えることができなかったかも知れないし、もしかしたら最後の時に悔い改めることができたのかもしれません。

幸いにも、わたしたちは今朝、こうして生かされ、神の声を聞く時を与えられています。新しい感謝をもってキリストという富を受けとり、生きることをゆるされている今の時に、兄弟姉妹や隣人と分かち合う生き方ができるよう、主の助けを願い求めてゆきたいと思います。


「イエスが教えた祈り」

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

●「主が教えた祈り」

わたしたちは礼拝の中で、また教会の様々な集まりで「主の祈り」を祈ります。「主の祈り」と呼ぶのは、主イエスが教えてくださった祈りだからです。

「主の祈り」は、マタイによる福音書の「山上の説教」の中でも教えられています。マタイ福音書の方ではイエス様の方から教えられた形をとっていますが、ルカ福音書の方は、「祈りを教えてください」という弟子の願いに応えて教えてくださったものです。わたしたちがいつも礼拝で祈る主の祈りはマタイ福音書のほうに近いものです。今日のルカ福音書の方はマタイによる福音書の祈りと、内容や構成はほとんど同じですが、ルカによる福音書の方が少し簡潔になっています。

このように「主の祈り」が少し違う形で二つ記されていることは意味のあることだと思います、それは、「主の祈り」は経文のように一字一句そのまま唱えることに意味があるのではなく、むしろその内容を学び、理解をして祈るべきものだということです。 

わたしたちは洗礼の準備や堅信礼の準備としてこの祈りを学びますが、その時だけでなく、生涯繰り返し学んでゆかなければならないものだと思います。それは、この祈りの中に、わたしたちにとって最も大切なことが教えられているからです。

「主の祈り」と出会う前は、わたしたちはどちらかといえば自分のために祈っていました。時々は他の人のために祈り、また世界の平和のために祈ったこともあるかもしれません。でも、主の祈りの最初にある「父なる神の御名があがめられますように」とは祈りませんでした。

なぜ御名があがめられる祈りが最初に祈られるのでしょうか。

聖書は、この世界の不幸は、神様との交わりにおいて生きるように造られた人間、すすんで神様をあがめるように造られたわたしたちが、神に背を向けたまま、目に見える繁栄や自己満足を願っているところにある、と指摘しています。自分の考える善悪の物差しで測って、自分を正しいものと考えていますが、神様の求めておられる正しさからは離れています。わたしたちが 神のみ心を行うためには、神を心からあがめる者とならなければなりません。

神様は、神から離れているわたしたちの世界に御子を与えてくださり、御子によって罪を取り除き、神様を父と呼ぶことのできる神の子にしてくださいました。わたしたちが心から神を愛し、讃えることができるようにしてくださったのです。ですから、最初の願いとして、「わたしたちを、あなたの恵み深いみ名をあがめる者にしてください」と祈るのです。

●他者のために祈る

「主の祈り」を祈る時、気づくことは、この祈りが個人のための祈りではなく、「わたしたち」の祈りである、ということです。この「わたしたち」とは、これを一緒に祈っている教会の兄弟姉妹たちの事ですが、さらに神様の助けと恵みを必要としているすべての人を含んでいます。ですから「主の祈り」を、「世界を包む祈り」と呼んだ人もいます。

イエス様は、今日の日課で一つのたとえを語っておられます。

「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』」

パレスチナでは、暑い日中を避けて、午後涼しくなってから旅に出たそうです。ですから目指す地に着く時にはすでに日が暮れている、時には真夜中になってしまうこともありました。

隣の家にパンを借りに行った人は、自分のためではなく、旅をしてきた空腹の友人のためにパンを願い求めたのです。

イエス様はここで「求めなさい。そうすれば、与えられる。」と教えられますが、このたとえでは自分のためではなく、他者のための求めです。この「求めなさい。そうすれば、与えられる。」と言う言葉はマタイによる福音書七章にもありますが、その言葉に続いてイエス様はこう教えておられます。

「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7:12)。

イエス様は、自分がしてもらいたいことを隣人にもしなさい、と教えました。けれどもわたしたちは、「わたしにはそんな力も生活のゆとりもない」と言います。しかしイエス様は、「必要なものはすべて父が与えてくださる」言われるのです。

旅¥¥¥の途中で飢えを覚えている友のために、パンを貸してくれるようにしきりに願った人のように、わたしたちも、人生の旅の途上で心の飢えを覚えている人々に、霊の糧が与えられるように、天の父に祈りたいと思います。また生活のための助けを必要としている人々を覚えて祈りたいと思います。自分の必要だけを求める祈りは、自分の生活が満たされると祈ることもなくなり、教会とも縁遠くなってしまいます。しかし、わたしたちは自分のためではなく、兄弟や他者のために一緒に祈るために召されているのです。

●聖霊と言うパン

イエス様は、熱心に祈ることを教えてくださいました。人間の父親でも、子どもが思い付きでねだるものは与えなくても、子どもが本当に願っているものは与えたいと思います。天の父である神様も、わたしたちが本当に必要としていることのために祈りなら、それを与えてくださる、と教えておられます。

イエス様は、今日の日課の終わりに、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」と語られました。父なる神様が愛する子どもたちに与えてくださる食べ物が「聖霊」である、とは意外に思います。しかし、よく考えると、これ以上に素晴らしい神からの贈り物はないことに気づきます。

聖霊は三位一体の神のおひとりであり、神ご自身ですから、聖霊をいただくことは神ご自身をいただくことです。

聖霊は、第一に、何よりもわたしたちの心を新しくし、つよめてくださいます。パウロは弟子のテモテに、「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださった」と書き送っています.別の訳では「神が私たちに与えてくださった聖霊は、人を恐れず、知恵と力とをみなぎらせ、人を愛し、喜んで人と共に歩むようにさせてくださる霊だからです。」となっています。何入りも私たちの心が聖霊によって養われることが必要です。聖霊は主の祈りをかなえてくださる方です。わたしたちに父をあがめる心を与えてくださり、赦す心も、誘惑に勝つ力もあたえてくださいます。

また、聖霊はわたしたちを導いて、必要なもの、必要な助けを与えてくださいます。使徒パウロは当時の地中海世界に福音を広めました。彼がそのような大事業を成し遂げたのは、聖霊の神がパウロと共におられ、彼を導いて、必要な人、必要な助けを与えてくださったからです。

わたしたちにとって、聖霊は第一に求めなければならない最大の贈り物であり、その中にすべてが隠されている宝です。またわたしたちが神と人に仕えるために必要な助けを与えてくださいます

イエス様は、あなたがたの父は、なくてはならない糧である聖霊を、喜んでお与えくださる、と教えておられます。このイエス様の言葉に励まされて、これからも兄弟たちや隣人のために、この賜物を祈り求めて行きたいと思います。

「必要なものはただ一つ」

ルカによる福音書10章38-42節

聖霊降臨後第6主日の説教  

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。

●イエス様をもてなした姉妹

イエス・キリストは、その生涯の歩みの中で、ご自分の住いを持っていませんでした。わたしたちは外で働いて疲れても、帰る家があります。でもイエス様は故郷のナザレを出てからは御自分の家に帰ることはありませんでした。「人の子には枕するところがない」と語っておられます。

 そのように、安住の地を持たないで宣教の旅を続けられたイエス様を、今日聖書に出てくるマルタとマリアの姉妹は、自分の家に迎え入れて、安息の場所を提供したのです。

彼女たちはイエス様だけではなく、イエス様と一緒にいた弟子たちも迎えたのだと思います。マルタはひとりで食事の支度をしていましたから、召使いを雇えるような裕福な家ではなかったから、それは彼女たちにとって大きな負担であったと思います。でも彼女たちはイエス様に対する愛情と尊敬の心からイエス様の一行をもてなしたのです。困難な旅を続けているイエス様にとって、マルタやマリアたちのもてなしは、どんなに嬉しかったことでしょうか。

聖書には「マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。」とありますから、きっとマルタの方がお姉さんであったと思います。  

そのマルタが、イエス様のためにご馳走を作っている間、マリアはイエス様の足元に座って、じっと話に聞き入っていました。姉のマルタはだんだんいらいらしてきました。そして「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」とイエス様に言いました。「自分はこんなに忙しくしているのに妹は何もしないで座り込んでいる。イエス様だってわたしのことを見ていたらお話しするのをやめて、妹に手伝わせてもいいのに」と思い、ついにイエス様に不満を言ったのです。マルタにとって、大切に思える事、しなければならないことは多くありました。イエス様に喜んでいただくために精一杯のことをしようと思っていたのです。

●必要なものはただひとつ

イエス様は、マルタがイエス様を精一杯もてなそうとしていたことを知っていました。それで「マルタ、マルタ」と優しく語りかけたのです。イエス様はマルタに、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」と諭されました。

イエス様がマルタに「マリアは良いほうを選んだ。」と語られた、「良いほう」という言葉は、「ひと皿」とか「ご馳走」という意味にもとれるそうです。イエス様にとって何よりのもてなしは「イエス様の言葉に耳を傾ける」ということなのです。これこそイエス様が最も喜ばれることです。なぜなら、イエス様はわたしたちのために命の言葉をかたるためにこの世に来られたからです(マルコ1:38参照)。

ヨハネによる福音書四章には、イエス様がサマリア人の女性と対話したことが記されています。町に食べ物を買いに行った弟子たちが戻ってくると、イエス様は弟子たちに「「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。そして、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」と語りました(ヨハネ4:32,34)。イエス様にとっては、食べることや飲むことを忘れてさえも、神の言葉を語ることが喜びであり、力の源であったのです。

イエス様の言葉を聞くことは、イエス様にとって喜びであるだけでなく、わたしたちにとっても、なくてはならない「ただ一つのもの」です。それはマリアから奪ってはならないものであり、またわたしたちも決して失ってはならないものです。それは、わたしたち人間にとって「神の言葉に聞く」ことが最も大切なことだからです。

人間は神の言葉を聞き、それに応えて生きるように造られたのです。神の言葉を聞くことは人間らしく生きる道であり、またいのちを受ける道なのです。

創世記三章で、アダムとエバは、その実を取って食べてはならない一本の木を示されました。その木は、他の被造物と違って、進んで神に従うものとして造られた人間の栄光を示しています。また神様は見るに美しい木、食べておいしい木をたくさん生えさせられ、「あなたは園のどの木からでも心のままにとってたべてよろしい」と言われました。これらの神の言葉を、神の恵みの言葉として深く心にとめていなかったことが誘惑に負け、罪を犯して神の命を失う原因となったのです。

しかし、イエス・キリストは、神様から離れてしまったわたしたちのところに来てくださいました。そしてわたしたちにご自分を与えてくださったのです。人間に対する神様の最初のことばは「取って食べてはならない」と言う命令でしたが、キリストの最後のことばは、「いのちのパンであるわたしを食べなさい。わたしを受け入れ、わたしが持っている赦しと命を受けなさい」と言う命令なのです。

キリストが、「必要なものはただ一つ」と言われた「ただ一つのもの」とはキリストに聞く、ということです。そしてキリストの言葉を受け入れる人は、キリストご自身を受け入れる、ということです。今もキリストの言葉を聞いて、それを受け入れる人に、キリストご自身が与えられるのです(黙示録3:20)。その時、その人の人生は完成され、キリストによってすべてを持っているのです。反対に、キリストを持っていなければ、わたしたちのどんな業(わざ)も労苦も、世の終わりとともに消え失せてしまうのです。

●イエス様のもてなし

イエス・キリストという命の糧は、またわたしたちの奉仕の力となります。マルタが「わたしだけにもてなしをさせています」と言った「もてなし」とは、ディアコニアすなわち「給仕」や「奉仕」と言う意味の言葉です。わたしたちも、マルタのように、できるだけの奉仕をすることが神様の喜んでくださることと考える傾向があります。しかし多くの場合それはマルタのように、自分と同じように働いていない兄弟への不満や、疲れから来る不平になってしまいます。その原因は、わたしたちの心が、奉仕を生み出す力の源を失っているからです。わたしたちの奉仕の源は、わたしたちの中からではなく、キリストの言葉によって与えられるのです。神がキリストによって与えてくださった完全な赦しと完全な愛について聞き、それを受け入れる時、わたしたちの中に神の霊が注がれ、神への愛と感謝が湧きあがります。この神への愛と感謝の心によって行うことは、ルターの言葉を借りるなら、「藁一本を拾うこと」さえも神に喜ばれる善い業となるのです。

礼拝とは、わたしたちが神に仕え、奉仕する場であるというよりは、むしろ神がキリストによってわたしたちのために給仕をし、仕えてくださる場なのです。わたしたちが神に仕える以前に、神がわたしたちに魂の安息と命の言葉を与えてわたしたちをもてなしてくださるのです。詩篇23篇で、ダビデが主に対して、「あなたはわたしに食卓を整えてくださる」と告白している通りです。

確かに、礼拝が行われるためには、わたしたちの働きも必要です。しかしそれは、イエス様から恵みの食べ物を受けとるための器を用意することなのです。イエス様はその器に、わたしたちの働きでは決して手に入れることができない絶大な恵みを満たしてくださるのです。 

また、キリストの言葉を通して命の糧を受けることは、隣人に仕えることの出発点でもあります。キリストが、まったくの見返りなしにわたしたちに親切にしてくださり、ご自分の命を与えてくださったのであれば、わたしたちも、この世の旅路にあって重荷を負っている人たちに、自分たちにできることで助けてゆきたい、という心が生まれます。

先週、わたしたちは「善いサマリア人」のたとえ話を聞きました。今日の聖書の箇所は、わたしたちが善いサマリア人として生きるための力の源は何かを教える箇所であるといえます。

これからわたしたちは聖餐をいただきます。説教は見えない神のことばであり、聖餐は見える神のことばです。わたしたちは今、説教で恵みのことばを聞きました。これからいただく聖餐も、わたしたちを生かす神のことば、なくてはならないただ一つのものとして、心から感謝して受け取りたいと思います。

「善いサマリア人」

ルカによる福音書 10章25~37節

聖霊降臨後第5主日の説教

すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 

●わたしの隣人とは誰か

ある新聞社が日本人の一番好きな言葉についてアンケートした結果、それは「愛」という言葉でした。

多くの人が愛の大切さを感じています。でも、愛の本当の意味を知って実行することは簡単ではありません。わたしたちは、聖書を読むまでは自分には愛があると思っていました。しかし聖書を学ぶようになると、家族や恋人、大事な友達など自分にとって好ましい人だけを愛することが愛ではなく、「隣人を自分のように愛する」ことが本当の愛なのだ」ということがわかってきて、愛することの難しさを知るようになりました。

今日の福音書に、ある律法の専門家がイエス様に、「先生、何をしたら永遠の命が得られますか」、と質問したことが記されています。人間にとって永遠の命を得ることは最も大切な人生の目的です。「永遠の命を得る」ということは、神が「あなたは死を超えて生きることができる」と宣言されることであり、「神に受け入られる」ということだからです。

イエス様は彼に、「律法には何と書いてあるか」と問い返しました。その学者は、律法の中心が神への愛と隣人への愛だということ知っていましたから、そのように答えました。でも、イエス様が、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言うと、彼は「わたしの隣人とは誰ですか」と言いました。律法の専門家たちは律法を守っていない人々や外国の人たちは愛したり助けたりするに値しない人たちであると考えていたのです。ですからこの学者は、イエス様に「神から離れているような人でも愛しなさいというのですか」ということを言外に問いかけたのです。

そこでイエス様は、有名な「善いサマリア人」のたとえ話をされました。

「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中,追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り,殴りつけ,半殺しにしたまま立ち去った。」

エルサレムの町からエリコの町に下る山道は、険しく、旅人を襲う強盗が出没しました。その旅人も強盗に襲われ、道に倒れていると、祭司やレビ人が通りかかりました。エリコの町にはエルサレムで働いていた祭司たちの半数が住んでいたそうです。彼らは倒れている人を見ると,「道の向こう側を通って」行きました。祭司たちは、死んだものに触ると汚れた者となって、一週間は仕事ができませんでしたから、それを避けたという見方もあります。でもこの人たちはエルサレムから下ってきたのですから、仕事明けであったことがわかります。彼らは自分が他人のために危険な目に会う事を避けたのです。この祭司とレビ人の姿は、「自分たちが助けるのは正しい人たちであって、罪びとは助けるべきではない。助けると自分も彼らの悪に与することになる」と考えていた当時の宗教家たちの姿を示しています。

次にそこを通りかかったサマリア人は、「そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」のです。

●あなたも行って

イエス様の話に登場するサマリア人とは、もともとイスラエル人でした。しかしイスラエルは北イスラエルと南ユダに分裂してしまいました。サマリアを首都としていた北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、混血の民となってしまいました。イエス様の時代、ユダヤの人々は彼らをサマリア人と呼び、「けがれた民」と見て軽蔑していたのです。

イエス様は、律法の専門家に「この三人のうち、誰が強盗に襲われた人の隣人になったか」と聞きました。質問された律法学者にとってもサマリア人は愛することができない人たちでしたから、「サマリア人です」とは言えずに、「その人に親切にした人です」と答えました。

サマリア人が、傷ついた人を助けた、というイエス様のたとえ話は、まったくの作り話ではありません。イエス様の時代よりもずっと前に、サマリア人がユダヤの人々を助けたという話が旧約聖書に記されているのです。ユダヤとサマリアは兄弟同士でありながら戦争をし、ユダヤが破れました。サマリア人たちは、戦争で捕虜にしたユダヤ人たちを故郷のユダヤに帰したのです。 

歴代誌下二八章一五節にはこう書かれています。「人々が立って捕虜を引き取り、裸の者があれば戦利品の中から衣服を取って着せた。彼らは捕虜に衣服を着せ、履物を与え、飲食させ、油を注ぎ、弱った者がいればろばに乗せ、彼らをしゅろの町エリコにいるその兄弟たちのもとに送り届けて、サマリアへ帰った」。

イエス様のたとえ話を聞いた律法の専門家も何も言えませんでした。自分たちの先祖が敵であったサマリア人に親切にされた、という歴史的事実があったからです。イエス様はこのたとえ話を通して、「あなたが敵であり、愛する義務がないと考えている人々がユダヤ人を助けたではないか。それなのに、なぜあなたたちは「愛さなくてもよい人」という差別をしているのか、と律法学者に問いかけたのです。

律法の専門家は、自分では「神様を愛しなさい」と言う戒めを守っている、と思っていましたが、それと同じくらい大切な「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めを守っておらず、神様が求める愛と憐れみから遠く離れていたのです。

 イエス様が律法学者に語った「あなたも行って同じようにしなさい」という言葉は、「隣人を自分のように愛することができる」という意味ではありません。それは、「わたしの隣人とは誰か」と線引きをし、愛さないことの言い訳をやめて、このサマリア人が実行したような愛に生きようとする時、神の律法を守ることができない自分を知るであろう」、ということです。その時、自分こそ罪の力に打ち倒されて死にかかっている憐れな旅人であり、赦しと救いを必要としている者であることを知るのです。

●本当の善いサマリア人

たとえ話の中で、サマリア人は傷ついている人のそばに来ました。そして、「その人を見て憐れに思い、近寄った」のです。この「憐れに思う」という言葉は聖書ではイエス様だけに使われている言葉です。神の子であるイエス様は、神から離れて罪を犯している人間を、愛する値打ちがない者とは考えませんでした。罪によって傷つき、死に向かっていたわたしたちを憐れみ、危険を承知の上で近づいてきてくださったのです。

サマリア人は倒れている人の傷を癒すために、油を注ぎ、ぶどう酒で洗いました。イエス様は、わたしたちの罪の傷を癒すためにご自分の血を注いでくださったのです。

サマリア人は宿屋の主人に自費で費用を払いました。ある人は「この宿屋とは教会である」と言いました。イエス・キリストが帰って来られるときまで、わたしたちはイエス様によって、癒され続け、生かされ続けてゆくのです。またそのために、わたしたちはここでお互いに励まし合い、支え合って行くのです。

わたしたちは礼拝の中で聖餐をいただきますが、それはイエス様の血と聖霊の油による癒しをいただく時です。罪によって無力にされ、隣人を愛することができない自分の弱さを覚え、「主よ、今日いただくあなたの体と血によって、わたしの罪を癒し、わたしを生かしてください」、と願い求めながら受けたいと思います。 

イエス様は、この世でただひとり、まことの愛に生きた方です。この方に触れ、その愛に包まれて生きる時、わたしたちは癒やされ、イエス様がわたしを憐れんでくださったように、わたしも人生の旅路で出会うあらゆる人の隣人となる力をいただくのです。

「弟子を遣わす」

ルカによる福音書10章1-11,16‐20節

聖霊降臨後第4主日の説教

その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」

七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

●宣教の重要性と緊急性

 先週は、神の国を伝えることの重要性と緊急性ということをお話ししました。今日の日課も、イエス様が宣教のために弟子たちを宣教に派遣されたことを記しています。

「主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とあります。これはイエス様が、後から弟子たちが回った町々、村々を回る、ということではありません。ここでの「先に」という言葉は、「彼の顔も前に」という言葉になっています。つまりイエス様は派遣する弟子たちのすぐ後ろにおられる、という意味なのです。イエス様は弟子の背後にいて弟子たちを守り導いていてくださるのです。イエス様は、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言われていますが、イエス様は弟子たちの羊飼いとして共にいて守ってくださるのです。

今でも、キリストによって遣わされているわたしたちに、イエス様は「わたしは世の終わりまで、あなたがたとともにいる」(マタイ28:20)と約束してくださっているのです。

4節でイエス様は、「財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな」と命じておられます。これは、宣教する者は、生活やこの世の人間関係への心遣いで、大切な務めを後回しにしてはならない、という注意です。キリストの働きに仕える人を神が養ってくださるからです。神の国を伝えることは「道で出会った人と挨拶をする時間もないほど、緊急を要する重要な任務なのです。

9節を見ると、派遣される弟子たちに託されたメッセージは、「神の国は近づいた」という言葉です。この言葉は福音そのものであるといえます。ユダヤの人々にとって、最も大切なことは「神の国に入る」ということでした。その神の国が、今やイエス・キリストがこの世界に来られたことによって、人々の生活のただ中にやってきたのです。

この「神の国は近づいた」という言葉は、「神の国はすでに来た」とも訳すことができます。マタイによる福音書12章でイエス様は、「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と宣言されました。 

イエス・キリストは、神の力を帯びてこの世界に来られました。力だけではなく、赦しをもって、来てくださったのです。人間が正しい行いをして神に近づくのではありません。神の方から人間に近づいてくださり、人間が触れることができる方となられたのです。ここには大きな「赦し」があります。

神の国は近づき、その戸口は開かれています。宣教とは、それを知らせ、そこに人々を招く働きなのです。

●宣教に仕える人々

イエス様は、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」と教えておられます。この「どこかの家に入ったら」という言葉は、「戸別訪問」をしなさい、という意味ではありません。行った先の町で滞在するところを見つける、ということです。そこに泊まりながら、会堂や町の広場で人々に語るのです。イスラエルでは、神の言葉を伝える預言者を迎えて、彼らを養うことは大切な義務と考えられていました。旧約聖書には、ご存じのように、飢饉の中で、預言者エリヤに自分たちの最後の食事を与えて、神の祝福を受けたザレプタのやもめの話が書かれています。

 また新約聖書でも、使徒言行録などを見ますと、同じように、使徒たちや弟子たちの働きを支えた多くの人々がいたことが分かります。ペトロやパウロは使徒言行録の中では「主役」のように見えます。しかし彼らの働きも、彼らを支えた多くの人々の存在なしには不可能でした。マタイによる福音書10章では、預言者たち、すなわち神の言葉に仕える人々を助ける人も、預言者と同じ報いを受ける、とイエス様は語っておられます。預言者の言葉を受け入れることと、預言者を受け入れ、助けることは切り離すことができません。キリストの言葉を受け入れる人は、キリストの使者たちも受け入れるのです。

それは今日も同じです。牧師や宣教師は神の言葉のために働きますが、牧師の働きと生活を支える人々がいるので、牧師は神の言葉を語ることに専念できるのです。教会には多くの働きがありますが、すべてが宣教につながる働きです。教会に属しているわたしたちは、「わたしは神の国を広めるために生かされている」という自覚をもって、日常の生活を送ってゆきたいと思います。そして、「人生は死という闇に包まれた、希望のないものだ」、と感じている子どもたちに、神だけが与えることができる希望を伝えたいと思います。齢をとって、「わたしはこれからどこへゆくのだろう」と恐れている人々にも、イエス・キリストによって神の国に入る門が開かれていることを伝えたいと思います。また、神を知らないために、この世のもので幸せになろうと、間違った道に迷いこんでいる若者にも、神の国を伝えたいと思います。

●働き人にあたえられているもの

今日の日課の終わりの方に、「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と書かれています。弟子たちは、自分たちに与えられた力に驚き、またそれを喜んだのです。しかしその弟子たちに対して、イエス様はこう言われました。「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

弟子たちが持っていた力はイエス様がお与えになったものです。使徒パウロも、キリストに仕えるために持っている力、能力はすべて神から与えられた賜物、ギフトであると教えています(1コリント12:27‐31)。ですから、それらをあたかも自分のものであるかのように誇り、高ぶることがあってはなりません。

わたしたちにとって何よりも重要なことは、神の国を伝えるために働くわたしたちの名前が、すでに天に記されているということです。なぜなら、神の恵みを知り、そしてそれを受けている人だけが、神の国の働きをすることができるからです。

わたしが聖書を読んで不思議に思っていたことがあります。それは、悪霊がイエス様に出会って、「いと高き神の子、イエス」と叫んだ時、イエス様が「黙れ」と命じて、悪霊に、ものをいうことをお許しにならなかった、ということです。

まだ誰もイエス様が神の子であると知らなかった時に、悪霊はその力でイエス様を正しく見抜いたのです。それはイエス様のことを人々に宣伝するよい機会となるはずなのに、イエス様はそれを禁じたのです。なぜなら、「神の国を宣べ伝える」という聖なる務めは、神によって新しい命を与えられ、聖なる者とされた人々にだけに許されている働きだからです。神様は、宣教の務めを果たす栄光を、天使にさえお与えになりませんでした。キリストによって救われ、キリストの命に生きている人々にだけ、その務めを与えたのです。

わたしたちは救われるために宣教の働きや教会の奉仕をするのではありません。わたしたちがすでにキリストの愛、神の愛によって救われているので、その働きができるのです。それはわたしたちの働きによっては到底得ることができない恵みであり、報酬です。

わたしたちは、神の限りない愛によって与えられている救いの恵みを何よりも大切にして、感謝と喜びをもって神の国のために生きてゆきたいと思います。


「いのちの主に従う」

ルカによる福音書9章51-62節

聖霊降臨後第3主日の説教

イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

●エリヤとイエス

 今日の福音書の日課の初めには、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(九:五一)と書かれています。一行はエルサレムに行くために、サマリアの地を通過しようとして、そのために前もって弟子たちが遣わされました。食事や宿泊の場所を確保するためだったと思います。しかし、サマリの人たちはイエス様を敵視していた、ということではありません。すでにイエス様の名はサマリアにも広まっていました。しかしユダヤ人と対立していた彼らは、イエス様が自分たちのところに来るのが目的ではなく、町を通過してエルサレムに行こうとしていることを知って、歓迎しなかったのです。

 弟子たちの内、ヤコブとヨハネの兄弟はサマリア人に対して怒り、イエス様に「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。二人は、昔、預言者エリヤが、天からの火で敵を焼き滅ぼした、という出来事を思い浮かべていたのでしょう。それで、キリストを拒んだサマリア人たちを、エリヤの時のように罰したらどうか、と言ったのです。しかしイエス様は彼らを叱りました。なぜなら、イエス様は罪びとを滅ぼすために来られたのではなく、罪を赦し、救うために来られた方だからです。

 確かに神は罪を裁く方です。神はご自分が存在し、悪に対して必ず報いる方であることをお示しになります。そのような神の業がなかったら、人間は限りなく悪に傾くことでしょう。モーセやエリヤは、人間の罪に対する神の裁きを実行しました。しかし、同時に彼らはやがて来る神の救いの時、恵みの時を予告しました。そしてイエス・キリストが、人間の罪を完全に赦す方として来られたのです。

  絶大な神の力を持ったイエス・キリストは、その力を、決して人を傷つけたり、悪人を殺したりするためには使いませんでした。反対に、人を癒し、救い、生かすためだけに使ったのです。イエス・キリストは、すべての人を招く「命の主」として来られたのです。

●弟子にふさわしい覚悟

「罪を赦し、命を与える」キリストの務めが、すべてにまさる大切な務めであることを知り、キリストの働きに仕えている人々が弟子と呼ばれます。今日の日課ではイエス様がご自分の弟子に求められる心構えと覚悟とを教えています。

ある人が、「あなたのおいでになるところならどこでも従います」と申し出ました。これに対してイエス様は、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし人の子には枕するところもない」と答えられました。

イエス様には本当に寝るところがなかったのではないと思います。でもイエス様には安住の地というものがなかったのではないでしょうか。ですからイエス様に従ってゆけば、いずれこの世でよい地位に着き、安楽な暮らしができるということは約束されません。クリスチャンはこの世の安楽な生活を選ぶのか、またキリストに従うことを選ぶのか、という選択を迫られるのです。

しかし、「人の子には枕するところもない」というイエス様の言葉は、イエス様が天にあるまことの住まいを目指しておられることを示しています。イエス様は、十字架の上でご自分の身をささげて、わたしたちの罪を取り除いてくださり、わたしたちのために天への道を開いてくださったのです。ですからイエス様に従う人々には、天への道が開かれているのです。

イエス様に従う人に求められる二つ目の覚悟は、いつでも一番大切なことをわきまえ、それを選び取る、ということです。

ふた人がイエス様に「主よ、従いますが、まず父を葬りに行かせてください」と言いました。イエス様はその人に、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と言われました。この世では親の葬儀を立派に行うことは美徳とされています。しかし、「命」のために働くことはそれ以上に大切で緊急なことです。また、父を葬ることは神の命を知らない人々、すなわち霊的な死者にもできることですが、永遠の命を伝えることは、それを知っている人にしかできないことなのです。

わたしたちの教会は今年宣教70周年を迎えます。70年前に宣教師は船で何週間もかけて日本に来ました。親や家族が危篤だという知らせを受けても間に合わない距離です。しかしわたしたち日本人を愛して、宣教のために来てくれた人達の働きによって、こうしてわたしたちは神と出会うことができたのです。

●ただ目標を見つめて

 第三に、キリストに従う人は、決して後ろを振り向かない人です。ある人が「主よ、従いますが、家族にいとまごいに行かせてください」と願いました。しかしイエス様は、「手を鋤にかけてから後ろを振り向くものは神の国にふさわしくない」と答えられました。

牛が引っ張る鋤に手をかけてよそ見をすると、牛が動き出して転んでしまいます。また目をしっかり前に向けていないと、最初の畝が曲がってしまいます。家の者に別れをつげる時間もない、というのは極端に聞こえますが、わたしたちが、この世への愛着や、人とのさまざまな付き合いで、次第にイエス様の働きから離れてしまう、ということがあるのではないでしょうか。

列王記上一九章には、預言者エリヤの弟子として従ったエリシャは、家族や近所の人々との別れの食事を行なったことが書かれています。しかし、ここでも、命の主であるキリストに仕える働きは、預言者の働き以上に重要で、緊急なことなのです。

今日の日課の初めに、イエス様が「エルサレムに向かう決意を固められた」とありますが、これは「エルサレムに顔を向ける」という言葉です。苦しみと死が待ち受けるエルサレムに向かってその顔を向け、そこからそれることはなかったのです。このイエス様の「覚悟」によって、わたしたちは救いをいただくことができたのです。そしてわたしたちもこのイエス様に顔を向け、絶えず目を注いでゆくのです。

今日のイエス様の言葉は、預言者として召されることが尊いこととされていた昔のイスラエルの社会を背景にしています。ですから、ここに教えられていることを、そのまま現代の日本で実行しなければならない、ということではありません。しかし、ここに教えられているキリストの弟子としての姿勢、また覚悟の原則は今も全く変わらないものです。

命の主に従うことは、決して牧師や宣教師など、伝道を職業としている人々だけでなく、すべてのキリスト者に求められています。またそれは非日常的なことではなく、わたしたちの日常生活のただ中でも行われるべきことです。「わたしはどこにいても、神の命を伝える働きに召されている」という自覚を持って生きることが大切なのです。

ある主婦の方が「台所の祈り」という祈りを著しました。

  「主よ、私の小さな台所を祝福してください。

  お料理をするときも、お皿を洗っているときも、

  私の心をいつも喜びで満たし続けてください。

  あなたの祝福を私の家族みなでいただくことができますように

  そして、あなたが再びおいでになるときの心備えができますように」

この主婦は、自分の小さな台所を、命の主に仕える場としていたのです。わたしたちも、キリストの命に生かされている者として、これからも命の主に従い仕えることを、人生の究極の目的として歩んでゆきたいと思います。


「悪霊からの解放」

ルカによる福音書8章27‐37節

聖霊降臨後第2主日の説教

 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。

●悪霊の働き

 イエス様は、弟子たちと一緒に舟で湖を渡り、向こう岸のゲラサという所に行かれました。イエス様が上陸すると、そこに悪霊に取りつかれた人がやってきました。「この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた」とあります。彼は悪霊によって通常の社会生活、人間的な生活を奪われていたのです。

 マタイによる福音書には、この男はとても凶暴であった、と書かれています。またマルコ福音書では、彼は石で自分の体を打ちたたいていた、と書かれています。彼は他人を傷つけ、また自分自身を傷つけていたのです。また、鎖でつながれ、足枷をはめられても、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていました(29節)。

福音書には、他にもイエス様が悪霊に取りつかれた人を癒されたことが書かれていますが、このような悪霊の働きは、異教の影響を受けていたガリラヤ地方や、ゲラサのような異邦人の世界に多く見られていました。以前、ビルマ―今のミャンマ―にボランティアに行っていた大学生が話してくれたことですが、ミャンマーにも悪霊に憑かれた人がいたそうです。ミャンマーは国民の大多数が仏教徒ですが、本来の仏教では、霊の存在は認めていませんから、悪霊を追いだすことはできず、キリスト教徒が人々を悪霊から救う働きをしていました。それで、少数派であってもキリスト教はミャンマーでは尊敬を受けているということでした。

 悪霊とは、神に背いた悪魔と一緒に神から追放された霊、すなわち堕落した天使たちのことだと考えられています。ゲラサの人に取りついた悪霊は、それまで誰も口にしていなかった、「いと高き神の子イエス」という言葉を発しています。悪霊は一目でイエス様がいと高き方の子であると見抜くことができたのです。

 悪霊の働きについて考えてみると、それには三つの次元があるように思えます。一つは、今日の聖書に見るように、誰の目にもあからさまに分かる悪い働き、第二に、しばらくは隠されていても、やがて見えるようになる悪の働き、第三に、すべての人を支配する悪霊の働きです。今日の福音書にある悪霊に憑かれた人の話は、悪霊の最も単純であからさまな働きだと言うことができます。

●社会悪の中に働く悪霊

 しかし、悪霊の働きには、初めは悪いものに見えないものもあります。作家のドストエフスキーは「悪霊」という小説を書きました。それは彼の時代に、ロシアの無神論的無政府主義者たちが、その活動の中で互いに争い、自滅してゆく姿を、悪霊によって海に飛び込んだ豚の群れに重ね合わせて描いたものです。

それと似たようなことが、日本でも起きました。初めは崇高な目的をかかげて始めた活動が、やがてテロとなり、ついには仲間まで殺すという事件にまで発展したのです。

また、悪霊の働きは様々な偽りの教えの中にもあります。オウム真理教では、一人の教祖にだまされて、多くの真面目で教養のある若者が凶悪な事件を起こしました。こうしたグループも、最初はある人々の目には素晴らしく見えますが、次第に悪に駆り立てられてゆきます。わたしもこのような反社会的な活動に走るカルトの人たちと向かい合って来ましたが、いつもその教えや活動の背後に、人を惑わす悪霊の働きを感じました。

悪霊の働く所は、正しい神の言葉がない場所です。多くの人々は、オウム真理教のような事件を見て、「宗教は怖い」と言いますが、本当の原因は、人間の心が空き家になっていて、神の言葉と聖霊がそこに住んでいない、ということです。そのような空き家状態のところに悪霊は住み着くのです。そのことはイエス様も別の箇所で教えておられます(ルカ11:14-26)。

 このような悪の霊に一度捉えられると、その人の力や他の人の力では打ち勝つことはできません。ゲラサの悪霊は「レギオン」と名乗りましたが、「レギオン」とは6千人単位のローマの軍団のことです。このように強大な力を持つ悪霊に対抗することは、人間には不可能です。人間の世界の外からやって来られた方、悪霊の上におられる方だけが悪魔と悪霊に打ち勝つことができるのです。

●すべての人に働く悪霊

 悪霊の働きの三つ目は、人間を神から引き離す、ということです。使徒パウロはエフェソの信徒にこう言っています。

「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」(エフェソ2:1,2)。

 悪霊はわたしたちに働きかけて罪と不法を行わせ、神とわたしたちを引き離しているのです。これは悪魔と悪霊の最終的な目的で、すべての人に働いている悪霊の働きです。キリストが来られた目的は、すべての人を支配している悪の霊から、人を神へと解放することです。「たとえ生きる意味が分からない人生であっても、死ですべてが終わる人生であっても、それでも神がいない方がよい」と思わされていることは、何と不幸なことでしょうか。

 悪霊に取りつかれたゲラサの人はキリストに、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と言いました。それは彼の中にいる悪霊の声でもあります。「この世を支配する霊」のもとにいる人々は、解放者であるキリストを、むしろ自分を束縛する者として恐れるのです。

 悪霊が人を罪に誘って神から離す時は、人間の方にも、罪の誘惑に応じた責任が問われます。それが、わたしたちが神を恐れ、遠ざける理由なのです。

 悪霊は代わりの住み家がなければ人から出てゆくことはできません。それでゲラサの悪霊たちは、イエス様に、自分たちを、豚の群れの中に入れてくれ、と頼んだのです。悪霊は豚の群れの中に入ると、豚の群れは海に向かって駆け下り、みな溺れ死んでしまいました。

旧約聖書のミカ書7章19節には次のような言葉があります。

「主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる」。

たったひと言で悪霊を追い出すことができたイエス様も、わたしたちを罪の責任から自由にするためには、ご自身を犠牲としなければなりませんでした。イエス様はわたしたちの罪を背負って死んで下さり、陰府にまで下り、そこにわたしたちのすべての罪を投げ込んでくださったのです。キリストを受け入れる人は、罪の束縛から解放され、神との平和な関係を取り戻すのです。使徒パウロはコロサイの信徒に次のように語っています。 

「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。 しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」(コロサイ1:21,22)。

 まことの解放者でるキリストは、悪霊とは違って、わたしたちの同意と求めなしに、強制的にわたしの内に来られることはありません。わたしたちは、朽ちない清さと正しさを持ち、また朽ちない愛をもっておられるイエス・キリストを知り、このキリストに信頼を寄せ、すすんでわたしの心の家にお迎えしなければならないのです。

イエス様によって悪霊から解放された人は、たった一人であっても、暗い異邦人の地をキリストの光で照らす大切な人となったのです。わたしたちも、キリストによって神との平和と自由を与えられている喜びを、生活の中で表して生きる者でありたいと思います。


「三位一体の神」

ヨハネによる福音書16章12-15節

三位一体主日の説教

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

●三位一体の神を教える聖書

今日は三位一体の神様を覚える日曜日です。「三位一体」とは、父なる神様と、神の独り子のイエス・キリスト、そして聖霊の神様が一体となっておられる、ということです。この神は一体となって存在しているだけではなく、わたしたちの救いのために一つとなって働いてくださる神です。

教会の暦は毎年11月末の待降節から始まりますが、待降節と次の降誕節は、父なる神が御子なる神をわたしたちに与えてくださったことを覚える時です。次の顕現節は、御子キリストが言葉と業によって神の栄光を表したことを覚える時です。次の四旬節と復活節では、キリストが、その死と復活によって罪の赦しと救いを実現してくださったことを覚えます。そして先週の聖霊降臨祭ではキリストを信じる人々に聖霊が降ったことを記念しました。そして今日、わたしたちの救いの御業を完成してくださった三位一体の神を賛美するのです。こうして私たちは毎年、約半年の間、父と子と聖霊の神のお働きを覚えるのです。

 三位一体の教理は教会が考え出したものではなく、聖書が教えていることです。キリストは神から生まれた方であることが旧約聖書に書かれています。詩篇第2篇では、神はメシアに向かって「お前はわたしの子」と宣言しておられます(詩2:7)。

 今日の旧約日課である箴言8章22節にはこう記されています。

 「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って わたしは生み出されていた」

 これは父なる神と共におられた知恵、すなわちロゴスであるキリストのことです。「主は、その道の初めにわたしを造られた」とある「造られた」という言葉は「得ておられた」という言葉です。アダムに長男カインが生まれた時、エバが「わたしは主によって男子を得た」(創世記4:1)と言ったのと同じ言葉です。

またイザヤ書9章では、一人の男の子が生まれ、「その名は、驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる」

と予告されています。

 イエス・キリストは神から生まれた方です。わたしたち人間は、生まれる「時」がありますが、キリストは永遠の昔から神から生まれていたのです。(ミカ書5:1)。わたしたちはそのことを理解できなくても信じているのです。

●神をあらわすキリスト

それでは、なぜわたしたちは三位一体の神を信じなければならないのでしょうか。

第一に、わたしたちはキリストなしには神を正しく知ることができないからです。罪の中にいるわたしたちは、神について考える時も、神を自分の考えに合わせようとします。「神は善行を積み、神に熱心な人を受け入れてくれる」と考えます。しかしキリストは、わたしたちに、神の前にへりくだること、また、隣人を自分のように愛することを教えます。自分たちを支配している異教徒は敵であると考えていた当時の人々に対し、キリストは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と教えました。そしてご自分もその教えの通りに行動されたのです。父なる神はこのキリストを指して「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」と言われました(マタイ17:5)。キリストの教えを神の教えとして受け入れる人が、本当に神を敬っている人なのです。

 イエス・キリストは、神のみ心を表しただけではなく、わたしたちを神様と結びあわせてくださいました。旧約聖書は、神の掟を守ることができなかった人間の歴史を記していますが、その罪の歴史の中で、やがて神が完全な罪の赦しを与えてくださる時が来ることを予告しています。それはご自分の命を完全な犠牲として献げてくださったイエス・キリストによって実現したのです。

神は人間ではないから、死ぬことはできません。しかし人間は罪を持っているので、死ぬことはできても、誰かの罪を償うために死ぬことはできません。人となられた神だけが、罪の償いのために死ぬことができるのです。しかも多くの人の身代わりになれるのです。

このように、キリストはわたしたちのために神への道を開いてくださったのです。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と告げました。罪のある、不完全な人間は、初めから自分の正しさや行いによって神に近づき、命を得ることはできません。しかし、誰でもイエス・キリストを「生ける神の子」と信じ、またそのように告白するなら、その人は確かに恵みの神に出会っているのです。

●イエスに導く聖霊

しかしながら、それでもなお、キリストの救いの道はわたしたちの思いを超えています。キリストは弟子たちと共におられた時、ご自分の死と復活について何度も弟子たちに語りました。しかし当時の弟子たちにはそれがまったく理解できなかったのです。キリストは弟子たちにこう告げました。

「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」

イエス様は、やがて来る聖霊が、弟子たちをすべての真理へと導いてくれる、と教えたのです。この「真理」とは一般的な知識のことではなく、特定の真理です。それは神様がキリストを通してわたしたちの救いのためにしてくださった「真理」なのです。

また、「これから起こることをあなた方に告げるからである」と言われたのは、特にこの後に起きようとしていたイエス様の十字架の死、また復活のことです。聖霊の神が来られる時、今まで分からなかったことが理解するようになる、と言われたのです。

このイエス様の言葉通り、聖霊が弟子たちの上に降った時、弟子たちは以前には理解できなかったキリストの言葉のすべてを悟ったのです。

聖霊の神は、今でもイエス様を信じ、愛する人々の求めに応えて、イエス様の御業とその教えの真理を教えてくださいます。ですから聖霊の神を信じる人は自分の知恵を越えて、神の真理を悟ることができるのです。

ある姉妹から聞いた話ですが、その姉妹は教会に通い始めた時、次から次に疑問が湧き起こり、その度に時間をかけて牧師に質問したそうです。彼女の手帳には百以上の質問が記してあったそうです。ところが、ある日、まだ洗礼を受ける前に、それまでの疑問がすべて解決したというのです。それはとても不思議なことです。聖霊の神はわたしたちの心の目を開き、すべての真理へと導いてくださるのです。

神は聖なる方であり、光と尊厳の中におられ、罪のある人間が近づくことのできない方です(一テモテ6:16)。しかし、その神はキリストによってわたしたちに近づいてくださり、わたしを救って下さいました。また聖霊によってわたしたちの目を開き、キリストにある真理に導いてくださいました。聖霊の神はこれからも、わたしたちをキリストと父なる神に結び合わせてくださり、世の終わりまで、支え、導いてくださるのです。

父なる神、御子なる神、そして聖霊の神は、今も一つとなってわたしたちを愛して下さり、わたしたちの救いのために働き続けてくださいます。わたしたちが弱く、無知であることは問題ではありません。大切なことはこれからもこの三位一体の神に包まれて生きてゆくことなのです。

「聖霊が降るとき」

使徒言行録2章1‐11節

聖霊降臨祭の説教

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

●神の霊が降る

 今日は聖霊、すなわち神様の霊がイエス様を信じる人々に降(くだ)った記念の日です。イエス様が天に昇られてから十日目の日曜日、五旬祭ペンテコステというユダヤの祭りの日に、弟子たちの上に、イエス様が約束されていた聖霊が降ったのです。使徒言行録には次のように書かれています。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」

 聖霊が降ったということの意味は、第一に、人間と神様とが一つに結ばれた、ということです。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とありますが、この「とどまる」という言葉は「座る」とか、「滞在する」、また「住む」という意味の言葉です。聖霊が一人一人の上にとどまったということは、人が神様と結ばれた、ということです。

 英語では「宗教」のことを「レリジョン」と言いますが、それは「再び関係を結ぶ」という意味だそうです。人間は神との関係を結ぶために様々な道を考えてきました。しかし人間が考えた道は、人が自分の行いや知識によって、また自分自身が神のようになることによって神に近づこうとする道でした。

今日の旧約聖書の日課は「バベルの塔」のお話しです。その時代、シンアルの人々は、それまでの日干しれんがとしっくいに換えて、火で焼いた焼結レンガとアスファルトを使うようになりました。この技術革新によって、より大きな高い建物を造ることが可能になったのです。人々は大都市を建設し、また、天に届く高い塔を造ろうとしました。  

しかし、聖書は、神様が人間のしていることをよく見ようとして天から下って来られたと、実に皮肉な書き方をしています。つまり人間の方は天に届こうとしているのに、神様の側では下って行かなければよく見えないような「ままごとごっこ」に過ぎなかったということです。

神様は、このまま放置していたら取り返しのつかないことになると考えました。神様は洪水の後、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と命じました。しかし人間は神に逆らって大都市を造ろうとしました。この古代文明があった地方は、当時は緑豊かな土地でしたが、焼きれんがを作るために樹木を伐採し、その結果、土地は砂漠化してしまったのです。神様は人々の言語を乱させ、多くの人が一つところに集まらないようにされたのです。

このように、人間が自分を誇り、自分の力で神に近づこうとする試みは打ち砕かれてしまいました。また神に逆らう人々の一致は、混乱と分裂という結果に終わったのです。

●キリストにあって一つとなる

 このバベルの人々に対して、ペンテコステの日に、キリストの弟子たちは一つになっていました。そして聖霊は弟子たちが心を一つにしているところに降りました。「一同が一つになって集まっていると」とありますが、それは1章14節の「心を合わせて」という言葉と同じです。弟子たちは、イエス・キリストによって心を一つにしていたのです。

 キリストが十字架で死なれる前、弟子たちの心は決して一つではありませんでした。弟子たちは、イエス様に従ってはいましたが、「誰が一番偉いのか」ということで言い争っていました。彼らは、キリストへの貢献度を互いに競い合っていたのです。

しかし、イエス様が逮捕されたとき、彼らの忠実さも、熱心さも打ち砕かれてしまいました。誰一人イエス様に従うことができず、逃げてしまったのです。

そのように自分の弱さを知った弟子たちに対して、復活したイエスは変わらない愛をもって出会ってくださったのです。弟子たちはそのとき初めて、自分の力ではなく、イエス様の愛と力が、弱い自分たちを支えていたのだ、ということに気付いたのです。弟子たちは、もはや「誰が偉いか」などと考えていませんでした。みんなの心がキリストによって一つになっていたのです。そして約束の聖霊を祈り求めていました。そこに神の霊が降り、彼らは神と一つに結ばれたのです。

 このように、イエス・キリストの恵みのもとで、わたしたちは本当に一つとされ、また神と出会うとができるのです。

●聖霊の力によって生きる

 聖霊が最初に降ったとき、激しい風が吹くような音が聞こえ、また炎のような舌が見えました。これらの現象は聖霊の到来を示すための出来事であったのと同時に、聖霊のお働きをあらわすしるしでもあったのではないでしょうか。

「風」はエネルギーです。風が船を前に進めるように、イエス様の弟子たちは力を受けて全世界に出てゆきました。イスラエルの人々が海を渡った時、海の水を二つに分けたのは風の力でした。神様は夜もすがら激しい風を持って海の水を押し返された、と書かれています。聖霊を受けた弟子たちは、この世の権力のどんなや脅迫や妨害にも屈することなく、キリストを証ししました。それは弟子たちの力ではなく、弟子たちに与えられた聖霊の働きによるものでした。聖霊はわたしたちにも力を与えてくださり、自分のことばかり考えるのではなく、イエス様の御心を行わせてくださるのです。

 また、聖霊は炎のような舌のかたちをとって降りました。これは「語る」ことに関係しています。聖霊は弟子たちに、異国の言葉を語る能力を与えました。五旬祭の時、外国で生まれ育って、ユダヤに移り住んでいたユダヤ人たちがエルサレムに来ていました。一四の国や地域の名がここに記されています。そのすべての人々が、神の偉大な働きを自分たちの国の言葉で弟子たちが語るのを聞いたのです。

 弟子たちにそのような目覚しい能力が与えられたのは、イエス様が、ご自分の福音は使徒たちの時代に世界に広がる、と告げておられたからです(使徒1:8)。何年もかけて外国語を学ぶ猶予はなかったのです。初代教会の爆発的な広がりは、聖霊の働きなしには考えられません。

 現代では、わたしたちが聖霊によって、習ったことのない言語を急に話し始める、ということは起きないかもしれません。しかし、聖霊は最初の聖霊降臨の日以来、絶えることなく注がれています。

 弟子たちが自分たちの国の言葉で語るのを聞いて驚いた人々は言いました。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」(2:8)。

 イエス・キリストの福音は、わたしたちのまことの故郷である天の父を示し、またそこにわたしたちを招く恵みの言葉です。そそれはすべての人々、すなわち異なる国や、異なる言葉、異なる文化に生きる人々の心に響く言葉です。

わたしたちはペトロのように語ることはできなくても、同じ霊によって神の愛を語ることはできます。聖霊によって、人々の心を照らし、暖める言葉を語ることができるのです。

 イエス様は今日、この集まりで、わたしたちに聖霊をお与えくださいます。それはわたしを生かす命の霊であり、またイエス様に従うための力を与え、人々の心を生かす言葉を語る者としてくださる神の霊です。わたしたちはこれからもイエス・キリストのもとで心を一つにし、力と愛を与えてくださる聖霊を求め続けてゆきたいと思います。



「イエス様の昇天」

ルカによる福音書24章44-53節

主の昇天主日の説教

イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。 

●神のご計画

復活されたイエス様は、驚きとまどっている弟子たちに聖書を解き明かされました。イエス様は「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」と言われました。この「モーセの律法と預言者の書と詩編」とは、配列は異なりますが、今わたしたちが持っている旧約聖書のことです。イエス様は、その旧約聖書が記していることは「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということであり、それはすべて実現する、と教えたのです。

 このように、聖書の内容をイエス様が簡潔に教えてくださっていることはありがたいことです。イエス様が聖書について説明されたのは、イエス様が苦しみを受けること、そして復活されるという、「これまでに起きたこと」、そして福音が弟子たちによって世界に伝えられてゆく、という「これから起きること」です。

 この、「すでに起きたこと」、そして「これから起きること」は、わたしたちにとっても、世界にとっても重要なことです。ある人は、このイエス様の言葉を「神の事業計画」と呼びました。この世界に関わる神様の計画は、クリスチャンは信じていても、そうでない人にはどうして大切なのか分からないことでしょう。しかし、わたしたち人間にとって、神の言葉を聞くことが最も大切なことです。いま神の言葉は聖書として世界に広がり、すべての人がそれを読むことができます。その聖書の中で、キリストが最も大切なこととして教えてくださったことを、わたしたちも大切にし、心して聞かなければなりません。そして、そのご計画に沿って、わたしたちの人生設計をしなければならないのです。何よりも確かで、必ず実現する神の言葉を土台としている人生だけが、空しく終わらない人生となるからです。

 そして、イエス様が語られた「これまで起きたこと」と、「これから起きること」の真ん中で、イエス様の昇天という出来事が起きたのです。 

●わたしたちのゴール

 イエス様の昇天は、第一に、すでに起きたこと、すなわちイエス様の苦難と復活を通してわたしたちに与えられた「救い」のゴールを示しています。

わたしたちが「キリストの昇天」という時、それはキリストのためだけに起きたことではありません。キリストの復活と昇天は,キリストと結ばれて生きている人々の復活と昇天を示しているのです。

 使徒パウロはエフェソの信徒への手紙2章4節以下でこう語っています。

「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、・・・キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」

パウロはここで、神様が、キリストと共にわたしたちを復活させ、キリストと共に天の王座に着かせて下さった、と教えています。イエス様はもともと神の御子ですから、改めて父の右に行く必要もありません。イエス様が人間となられて死から復活し、天に昇られたのは、体を持っているわたしたち、本来は神様と区別されているわたしたちが、イエス様と共に復活させられ、イエス様と共に父の右の座に着かせられる、ということを、見える形で示しているのです。

以前、イギリスで一般人の女性が王子と結婚しました。それまで王室に縁のなかった女性が王妃として王子の隣に座ります。同じように、イエス様を信じ、イエス様を愛する人々は、将来救いと栄光を受けるのではなく、すでに今、命と栄光を受けているのだ、と聖書は告げているのです。

イエス様の苦しみと、勝利の復活は、わたしたちの罪が完全に償われたことを示しています。そしてそのイエス様の働きを受け入れる人は、イエス様と共に天の座に座るというゴールをすでに与えられているのです。

 多くの人は、自分の人生のゴールを将来に置いています。そして様々な夢や期待をもって進んでいます。しかし、人間の世界の中に自分のゴールを見ようとするなら、それは必ず死によって終わり、また宇宙の終わりの時に跡形もなく消滅します。またわたしたちがこの世の中に人生の目的を考えていても、いつそれが予期しない災難によって挫折してしまうかわかりません。

ですから、わたしたちの本当のゴールは地上ではなく、神のみもとである天に持つべきであり、将来にではなく、今、そこに入っていることが必要なのです。イエス様が導いてくださる天のゴールは、わたしたちが立派でなくても、不完全であっても、あの十字架の強盗のように、罪を認めてイエス様に信頼するなら、誰もが今、はいることのできるゴールなのです。

●キリストの証人となる

 イエス様の昇天は、イエス様がご自分の苦しみと復活によって勝ち取って下さったわたしたちのゴールですが、またそれはこれから起きることの出発点でもあります。

 イエス様はこれから起きることを次のように教えておられます。「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」(24:47-48)。

 パウロは、「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(コロサイ3:3)と語っています。しかし、わたしたちの体は、なおこの地上にあります。それは、キリストが成し遂げてくださった罪の赦しをわたしたちが伝えて、多くの人が神と結ばれ、神の国に生きるようになるためです。そして、そのために必要な聖霊の力を、イエス様が地上の弟子たちに天から送ってくださるのです。イエス様の昇天から10日後に約束の聖霊が降り、弟子たちは力強く福音の宣教を始めたのです。

このように、イエス様の昇天は、わたしたちの人生のゴールであるとともに、イエス様のお働きに仕えて生きるわたしたちの働きの出発点でもあるのです。

 イエス様は「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と語られました。すでに起きたことは神の意志によるもので、その通りに実現しました。そしてこれから起きること、すなわちキリストの救いがあらゆる国に伝えられてゆくことも、神によって必ず実現されるのです。

  まだわずかな弟子たちしかいなかった時に、キリストが、「わたしの福音は世界に宣べ伝えられる」と言われたことは、驚くべきことです。また、この福音書が書かれた時代を見ても、教会は厳しい迫害の中に置かれていました。しかし今日、イエス様が告げられたように、キリストの福音は世界に伝えられています。

 イエス様は、弟子たちに「あなたがたはこれらのことの証人となる」(24:48)と告げました。このイエス様の言葉は正確に言えば、「あなたがたはこれらのことの証人である」という言葉です。これはわたしたちにも語られている言葉です。イエス様を信じている皆さんが、それぞれの家庭や地域におられるということが、イエス様の名がそこにも広がっていることの証しなのです。

 わたしたちは、教会の働きを通して、公けに神の言葉を伝えています。しかし、それぞれの生活の場では他人に宗教の押し売りをすることはできません。でもわたしたちが教会生活をしていること、神の言葉を大切にしていることを隠さずに示すことはできます。そして聖霊によって、キリストから受けている愛や赦し、そして希望に生かされている喜びを表すことができます。

神の国は神ご自身のお働きによって広がってゆきます。しかし、わたしたちは、自分が受けている尊い救いを忘れないために、キリストの証人として生きてゆくことを求められています。

これからも共に神様の救いの計画にあずかり、また聖霊の力を受けて、主の証人として生きてゆきたいと思います。


「わたしの内に来られる主」

ヨハネによる福音書14章23-29節

復活節第6主日の説教

イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。

●イエスを見る

今日の福音書には、弟子たちとイエス様が過ごした最後の晩に、イエス様が、「わたしを愛する者はわたしの言葉を守る。父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、その人の内に一緒に住む」と弟子たちに告げたことが記されています。

このイエス様の言葉は、イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と訊ねたことに対するイエス様の答えとして語られました。ユダはイエス様に、「自分たちはあなたの素晴らしさをいつも見ていますが、公の場で、もっと多くの人にあなたの御業を現わしたらどうでしょうか」と言いたかったのです。

 これに対してイエス様は、「わたしを愛し、わたしの言葉を守る人を父なる神は愛され、父とわたしとはその人のところに行き、その人の内に一緒に住む」と言われたのです。

 ユダは、自分たちはイエス様を見ており、イエス様を知っている、と思っていたのです。しかし、そのようにイエス様の近くにいて、目で見ていても、実はイエス様のことが本当は見えていない、ということがあるのです。イエス様の身近にいながらイエス様を理解できないで裏切ったイスカリオテのユダがそうでした。イエス様を本当に見ること、イエス様を知ることは、近くにいるからできるというものではありません。それは、わたしたちが聞いたイエス様の言葉を守る時、そのわたしたちの内にイエス様が来て下さることによって実現するのです。

では、弟子たちが守るべきイエス様の言葉とはなんでしょうか。今日の日課の少し前に、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である」(14:21)と同じ意味のことを語っていますが、そこでは「わたしの掟」となっています。先週の礼拝で、イエス様が、弟子たちに「互いに愛し合いなさい」という掟を弟子たちに与えられたことを学びました。イエス様は、イエス様の愛と赦しの中で生かされているわたしたちが、お互いに受け入れあい、愛し合うことを求められたのです。それはわたしたちが本当にイエス様を愛し、父なる神を愛していることのしるしなのです。そしてそのようなな人をイエス様と父なる神は愛して下さり、その人の内に一緒に住む、と約束されたのです。

 ここでイエス様が言われた「わたしの言葉を守る」ということは「実行する」と言う意味よりも「キープする」、「大切にし、無くさないようにする」という意味の言葉です。イエス様の教えを捨てないで、イエス様が願われた掟として大切にしてゆくのです。わたしたちが今、完全に「互いに愛し合うこと」が実現できていないと感じていても、その掟がわたしたちに対するイエス様の願いであることを覚えて、その掟を心にいつもとどめておくのです。

イエス様がわたしの内に来られることは聖霊の神様を通して実現します。イエス様の母となったマリアは聖霊によってイエス様をお腹に宿しました。同じ聖霊によって、イエス様は、ご自分の言葉を大切にする人々の中に住んでくださるのです。その時、わたしたちはイエス様と本当に出会っているのです。 

わたしたちの内におられるイエス様は、やがてこの目でイエス様を見る日まで、いつもわたしを支えて生かし、支えてくださるのです。

●主の言葉を思い起こさせる聖霊

イエス様は続いてこう言われました。「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(14:25,26)。

聖霊がイエス様の話したことをことごとく思い起こさせてくださる、とはどういうことでしょうか。弟子たちがイエス様から聞いたけれども忘れてしまっていた事を思い出させてくださる、ということかもしれません。しかし、聖書では「思い起こす」という言葉には「理解する、悟らせる」という意味もあります。ヨハネによる福音書の16章13節で、イエス様は、「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16:13)と教えておられます。神の霊が与えられる時、わたしたちの救いにとって大切な真理を完全に知ることができるのです。使徒パウロも、「神の事柄は、神の霊によらなければ理解できない」と教えています(一コリント2:10-12)。

イエス様が十字架で救いをお与えくださったことや、復活されたこと、神は三つの神であって同時に一人の神であること、イエス様がまことの神であってまことの人であること・・・こうした信仰者にとって最も大切な真理は、聖霊を受けなければ、聞く人にとって、愚かな話であり、決して理解できないことなのです。そのことを裏返していえば、今そのことを信じているわたしたちは、自分の知恵ではなく、聖霊をいただいて、そのことに目を開かれている、ということなのです。

また、キリストの言葉を理解することは、それを行うことにつながっています。救いの教理だけでなく、キリスト者の生き方の教えにおいても、聖霊による悟りを与えられなければ従うことができません。イエス様が「互いに愛し合いなさい」、「赦しなさい」と教えられた時、わたしたちが、心から「その通りだ」と思えるなら、それを行うことがきるのです。ですからわたしたちは、礼拝式文の「教会の祈り」で、「日ごとにみ旨を明らかに示してください」と祈るのです。

●わたしの平和を与える

イエス様はまた、「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と約束されました。

考えて見ますと、平和というものは、この地上に生きているわたしたちに人間にとって一番大事なものだという気がします。わたしたちはみな平和な生活や、心の平和を求めています。そして、そのために働いています。安心して生活したいので、お金を貯めたり、健康に気をつけたりしています。また人間関係もうまく行くように気をつかうのです。

それは決してどうでも良いことではなく、必要なことです。しかしそのような、この世のものによって得る平和は不確かなものであり、いつ失われるかわからない危ういものです。

また、困難や争いがないことが平和である、と捉えるなら、わたしたちが本当は勇気をもって直面しなければならないことを避けて通ることになります。イエス様は「平和を実現する人々は幸いである」(マタイ5:9)と教えられました。平和を愛すること、平和を願うことは誰にでもできます。しかし「平和を「実現する」ためには、困難や恐れの中でも決して失われない心の平和が必要です。

イエス様は、「わたしは、これ(イエス様の平和)を、世が与えるように与えるのではない」と言われました。それはこの世の物や人の力によって保障される平和ではなく、神の平和であって、わたしたちをキリスト者としてこの世に押し出してゆく力強い平和です。

もう三年前のことになりますが、世界の人々に尊敬されていた二人の日本人のキリスト者が天に召されました。アフガニスタンで人道支援活動を行っていた、医師の中村哲さんと、国連難民高等弁務官として働いた緒方貞子さんです。二人とも「平和を造りだす」ために、危険な地域に身を置いて働きました。彼らを支えたのはイエス様が与えてくださった力強い平和ではなかたでしょうか。

 わたしたちにはこの二人のような大きな働きはできないかもしれません。しかし、わたしたちにも、イエス様が遣わされる場所があります。イエス様の平和の内に、わたしたちもそこに向かってゆくのです。 

イエス様が与えてくださる平和は、わたしの意思の力ではありません。「主があなたに御顔を向け、あなたに平安を賜ります」という言葉のとおり、それは神様からいただくものです。今わたしたちの内に平和や勇気が無いように思えても、わたしたちが必要とするときに、必ず与えられる平和なのです。

イエス様がわたしの内に住んでくださるように、また聖霊の助けによって御心を知り、行うことができるように、そして主の平和をいただき、これから遣わされてゆくそれぞれの生活の中で、イエス様に仕えて生きることができるようにと祈りましょう。


「わたしたちの羊飼い」

ヨハネによる福音書10章22-30節

復活節第4主日の説教

そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

●キリストの言葉とみ業

今日の福音書の最初に、「そのころエルサレムで神殿奉献記念祭が行われた」と書かれています。「神殿奉献記念祭」とは、イエス様がお生まれになる年の165年前に、シリアの支配者に奪われていたエルサレムの神殿を、ユダ・マカベウスという人が戦いによって取り戻し、これを再び清めて神様に献げたことを記念する祭りで、今のクリスマスと同じ12月25日に祝われていました。

その祭りの時に、ユダヤ人たちは神殿の境内にいたイエス様を取り囲んで、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシア(キリスト)なら、はっきりそう言いなさい」と迫ったのです。

すでにイエス様をキリストと信じる多くの人々がいましたが、エルサレムのユダヤ人たちはイエス様から直接、「わたしはメシアである」という宣言を期待していました。そして、もしメシアであるなら、ローマに占領支配されているユダヤを、あのユダ・マカベウスのように解放してくれるはずだ、と思っていたのです。そして、この祭りの時こそ「メシア宣言」を行う絶好の機会ではないかと期待したのです。しかし、一向に自分がメシアであることを表明しないことに苛立ちを覚え、イエス様に詰め寄ったのです。

イエス様は彼らに対して、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている」と答えられました。

意外に思いますが、福音書の中で、イエス様は「わたしはメシアである」とは一度も言っておられません。その理由は、「自己証言」は正当な証言ではないからです。今でも「わたしはキリストの再来である」とか、「わたしは神のお告げを聞いた」などと主張する人々がいます。しかし、自己証言だけでは、それを証明することはできません。それを裏付ける確かな証拠が必要なのです。そうでなければ、「本人が言うのだから間違いない」という世界になってしまうのです。「誰かがそう言っているから」というのも同じことです。

イエス様は、メシアにしかできない多くの奇跡を行いました。また、その教えは人々に真実な道を示しました。ですから、もし誰かが、「この人は本当にキリストだろうか」という問いを持っているなら、自分の目で見て、自分の耳で聞いて確かめることができたのです。また、キリストの到来を予告していた聖書の証言に、イエス様が一致するかを確かめることができたはずです。しかし、ユダヤ人たちは、自分の目や耳で確かめようとしないで、イエス様から安直に答えを得ようしたのです(ヨハネ1:19-22参照)。

●「キリストの羊」とは

イエス様は、続いて言われました。「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。」

羊という動物は、自分の羊飼いの声を聞き分け、その羊飼いに従います。同じように、イエス様の言葉を聞いて、「この方がわたしを正しく導いてくださる方だ」と信じるなら、その人は「イエスの羊」なのです。しかしイエス様の言葉を聞いても関心を示さず、ついて行かない人々もいます。それによって、その人がイエス・キリストの羊ではないことが明らかにされるのです。

ユダヤ人たちがイエス様の声を聞こうとしなかったのは、彼らが自分たちの願いや期待を優先し、それをかなえてくれるメシアを求めていたからです。ユダヤ人たちは、自分たちが「まことの神を信じている」と思っていましたが、いつの間にか自分たちの都合に救い主を合わせようとしていたのです。この世の多くの宗教は、自分たちの繁栄や成功を実現し、また民族の誇りを高揚させるための手段になっています。しかし、それは羊が羊飼いを自分に従わせようとするようなものです。羊という動物は強い近視であって、遠くが見えないので、自分たちを導いてくれる羊飼いが必要です。人間も目先の利益しか見えず、永遠に朽ちないもの、本当に大切なものが見えないので、羊飼いを必要とするのですが、多くの人は自分たちの目先の期待に応えてくれる神、また指導者に従ってしまいます。しかしそれが自分の破滅や国の破滅につながる危険なことであることを歴史は語っているのです。わたしたちは自分の願いに神を従わせるのではなく、わたしたちの創造者である神が、羊飼いとして世に遣わされた方に、「わたしが」聞き従わなければならないのです。

今のわたしたちはイエス・キリストの姿を目で見ることはできません。しかし、今でもキリストの言葉を聞くことができるのです。わたしたちはキリストの到来とその働きについて、神が前もって予告しておられる旧約聖書を読むことができます。また福音書によってキリストの言葉を聞くことができます。また、わたしたちは今、キリストの業(わざ)を見ることができます。キリストの到来によって、この世界に新しい光が照らされました。女性や子ども、弱者に対する考えに改革が起きました。それは現在の世界を導く倫理の基準となっています。このようにわたしたちは今、キリストの言葉を聞き、世界に広がるキリストの働きを見ることができるのです。

●すべてにまさって偉大なもの

イエス・キリストは、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(10:27)と告げました。「彼らを知っており」という言葉は、強い絆と愛の関係を表す言葉です。将来を見通せる永遠の神、父なる神様とその御子であるイエス・キリストは、誰がご自分に信頼する人々であるかをすでに見通しておられ、その人々をはるか昔から御心に留めておられるのです。

そのようなキリストとの深い絆は、わたしたちの知恵や力によるものではなく、人間の理解を越えた神秘的な絆です。

わたしは、知的障がいを持つ人たちが礼拝に参加している教会で働いてきました。その人々に、わたしの説教がどれほど理解されているかは分りませんでしたが、それでもその人々は説教を通して伝えられるキリストの声を、目を輝かせて聞いていたのです。このような経験を通して、わたしは人間とキリストとのつながりの不思議さを思わされました。

キリストは、「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである」(10:29,30)と言われました。

キリストの祖先であり、キリストより千年前に生きたダビデは、少年の時、父親から羊の群れを託されていました。彼はイスラエルの敵であった巨人ゴリアテと戦う前に、サウル王に向かって「僕(しもべ)は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。 そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。」(サムエル上17:34)と語っています。ダビデは父から託された羊を命がけで守ったのです。同じように、イエス・キリストは、父なる神から託された人々を、命をかけて救われるのです。

 イエス・キリストは、わたしたちを神の前に義しい者とするために、その命を捨ててくださいました。しかし、弟子たちの群れは孤児のように置き去りにはされませんでした。キリストは復活し、永遠にご自分の群れを守り、養い、導いて下さる羊飼いとして弟子たちに現れたのです。ダビデが羊を大切に思う心だけではなく、羊を守ることができる強い力をもっていたように、イエス・キリストは、ご自分の羊を死の力から永遠に守る力を持っておられるのです。

イエス・キリストは、「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、」と語りました。わたしたちの価値は、わたしたちの立派さや能力にあるのではなく、キリストのもとに行く人は、父なる神がキリストに託した人であり、神はその人を、大切な独り子さえ惜しまずに、身代わりとして与えるほどに尊いものとみておられる、ということにあるのです(イザヤ43:4)。

神のみが持つ愛と力によって、わたしたちを命の道へと導いて下さる羊飼いの声を、これからも喜んで聞いてゆきたいと思います。


「復活の光の中で」

ルカによる福音書24章1-12節

復活祭の説教

そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。

 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。 婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。


イエス様は金曜日に十字架につけられて死なれました。その日の夕方、日が沈むと安息日に入ります。過ぎ越し祭の安息日は特に大切な日であり、人々は急いでイエス様の遺体を墓に納めました。 イエス様の最後を見守っていた婦人たちは、あらためてイエス様の遺体に香料を塗ってさしあげたいと願っていました。でも安息日には歩くことができる距離も決められていますから、墓までは行けませんでした。また、安息日が終わっても夜になるので、墓に行くことはできませんでした。 それで日曜日の朝早く夜が明けるのを待ちかねて、まだ薄暗いうちに用意していた香料を持って墓に向ったのです。

 ところが、婦人たちが墓に着くと、墓をふさいでいた石が転がされていて、墓の中は空でした。婦人たちが途方に暮れていると、二人の御使いが現れて「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」と言ったのです。

 このように、復活されたイエス様は最初から弟子たちに会いませんでした。

 なぜイエス様は御自分の復活を弟子たちに知らせるのに、そんな遠回りをされたのでしょうか。それは十字架で死なれたイエス様が、突然弟子たちの目の前に現れたなら、弟子たちは大きな精神的ショックを受けるからです。 ですからイエス様は、やがて婦人たちや弟子たちの前に姿を現すのですが、その前に心の準備をさせたのです。ちょうど暗闇の中で何日も生活していた人が地上のまぶしい光に少しずつ慣れてゆくように、弟子たちもイエス様の復活というまぶしい光を見ることができるように、心の準備をさせられたのです。 そこには弟子たちに対する神様のご配慮がありました。

 また、このようなリアルな福音書の記録は、キリストの復活が現実であったことを示すものです。もし、イエス様の復活が事実ではなく、誰かが捏造した話であるとすれば、決してこのような書き方はしないで、「イエス様が復活して弟子たちに現れ、弟子たちは主を見て喜んだ」というように書くに違いないからです。


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