2024年の礼拝メッセージ(斉藤幸二牧師)
2024年の礼拝メッセージ(斉藤幸二牧師)
ルカによる福音書2章41-52節
降誕後第1主日の説教
さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。
●見失われたイエス
イエス様の生涯を記した福音書は四つありますが、イエス様の少年時代を記しているのは今日お読みしたルカ福音書だけです。ルカはエルサレムに帰るパウロに同行しましたが、パウロはユダヤ人に訴えられて、カイザリアというところに二年間捕らえられていました。ルカはその間にエルサレムの弟子たちやイエス様の母マリア、あるいはすでにクリスチャンとなっていた主の兄弟たちから話を聞いて、ルカによる福音書を記したと思いまます。ルカ福音書にはマリアしか知らないことがいくつも書かれていますし、マリアが感じたこと、マリアの心の動きも記されています。今日の福音書の箇所にも、マリアしか知らないイエス様の少年時代が記されています。
ユダヤでは男の子は一三歳になると「律法の子」と呼ばれ、大人とみなされます。そしてその一年前までに、そのための学びをしなければなりませんでした。今日の日課に書かれている過ぎ越しの祭への旅は、エルサレムで教えを受けるという目的もありました。
イエス様が住んでいたナザレの町から、祭が行われるエルサレムまで行くためには、歩いて三日以上かかりました。イエス様にはすでに幼い弟や妹がいました。マリアはその子たちに気を配っていました。祭が終わって帰途に就き、宿泊場所でマリアはイエス様を探しますが見当たりません。慌てて捜しながらエルサレムに引き返し、三日目にようやく神殿の境内で、学者たちの話を聞いたり、質問したりしていたイエス様を見つけたのです。マリアたちのそれまでの心配、不安はどれほどのものだったでしょうか。
十年以上前のことですが、岐阜教会で信徒による礼拝が行われていて、わたしは大垣教会に行っていました。岐阜の礼拝が終わった後、教会にいた二歳だった孫がいなくなったそうです。家内も、娘夫婦も、また教会員も総出で近所を探し回りましたが、見つかりませんでした。家内が警察に通報すると、「それは事故ではなく、事件です」と言われ、すぐにパトカーが三台も駆けつけてきたそうです。家内は、その時は最悪のことを考えて、目の前が暗くなったそうです。二時間ぐらいたった時、孫はみんながいるところに、にこにこしながら帰ってきて、パトカーを見て、はしゃいでいたそうです。
たった二時間でも胸がつぶれそうだったのに、三日間も長男を見失ったマリアの苦しみはどれほどのものだったでしょうか。ですから神殿でイエス様を見つけた時、死んでいた子が、生きて戻ってきた、と言えるような大きな安堵と喜びがあったと思います。マリがわが子イエスを見失い、三日後に見出したことは、は後にマリアが経験することを暗示している出来事のように思います。この二十一年後の同じエルサレムの過ぎ越し祭で、マリアは我が子イエスの死を目の当たりにし、その三日後に神の子としてのイエス様と再会したのです。
●「父の家」のイエス
イエス様を見つけたマリアの安堵は、たちまち、自分たちを心配させたイエス様を責める心に変わりました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」と言ったマリアに対して、イエス様は、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と答えました。 でも両親には、その言葉の意味が分かりませんでした。
ヨセフもマリアも、イエス様が生まれる前に神のお告げを受け、生まれる子はいと高き方の子、すなわち神の子であることを告げられていました。しかしイエス様が誕生し、そして育ってゆく時の流れの中で、いつの間にかこの子が本来は自分たちが神から預かっている子であることを忘れてしまっていたのでしょう。しかし、イエス様は十二歳の時、ご自分が神の子であるという、はっきりした自覚をもっておられたのです。
少年イエスがマリアに語った「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だという言葉は、原文では,「わたしの父の働きに関わっていることを、知らなかったのですか。」という趣旨の言葉で、「家」という言葉はありません。イエス様はご自分の本当の父である神の業に仕えておられたのです。教師たちから聖書の言葉を聞くことも、自分の使命を確認するために必要な事だったのです。
十二歳で大人となったイエス様は、その時、ご自分が神の子であり、神から受けた使命を果たすために世に送られている、という意識を持っておられたのです。聖書に書かれているように、こののちイエス様は故郷のナザレに戻って両親に仕えます。イエス様がメシアとしての公生涯に入ったのはおよそ三十歳の頃であった、と聖書は記しています。それは兄弟たちが成長して両親を養えるようになるまでのまで必要な期間でした。このように親を大切にしたイエス様が、愛する家族を後にして、ご自分の使命を貫き、十字架への道を歩み通してくださったからこそ、わたしたちの、そして全人類の救いが実現したのです。
●神と人とに愛される
今日の福音書の日課の最後の言葉は「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(2:52)、という言葉です。この言葉はよく「体育、知育、徳育」という言葉で表現されます。体が成長し、教育によって知恵が増してゆくのは大切なことです。しかし、人間にとって大切なことは最後の「神と人とに愛された」という言葉です。そのことのために、体も知恵も用いられるべきものだからです。この世の人々の関心事は、健康であり、知識において人よりも秀でる、ということです。しかし最高の知恵は神を畏れ、敬い、愛するということです。イエス様が「神と人とに愛された」ということは言い換えれば、イエス様が「神を愛し、人を愛した」ということです。人々は、体が丈夫であり、知恵があり、美しく、お金があれば人から愛される、という勘違いをしています。人からもてはやされ、羨ましいと思われることは、愛される、ということと同じではありません。人は愛するからこそ愛されるのです。
このように、人として最も大切な生き方をされたイエス様は、イエス様を信じるわたしたちの内にも生きてくださいます。イエス・キリストを信じるわたしたちはイエス様の霊、すなわち神の子の霊をいただいているからです。そしてキリストの命はわたしたちの内なる人を日々養い、成長させてくださるのです。
もうすぐ一年の歩みが終わり、新しい年が始まります。わたしたちの体は年ごとに衰え、知識を増やすこともおぼつかなくなります。しかしパウロはこう語っています。
《だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。》(コリントの信徒への第二の手紙4章16節)
ここでパウロは、ただ老齢のことを語っているのではなく、苦難や病、あらゆる危機について語っているのです。そうした試練の中でこそ、内なる人は新しくされてゆく、というのです。イエス・キリストを信じる人は、力強く成長し、神と人に愛されたイエス・キリストの命を宿しています。新しい年も、この命にますまし強く生かされてゆくことを願ってゆきたいと思います。
ルカによる福音書1章39-45節
待降節第4主日の説教
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
●マリアの信仰
今日読まれました福音書には、マリアが親族のエリザベトを訪問したことが書かれていました。そしてその訪問のきっかけとなった出来事がこの前の箇所に書かれています。
イエス様の母となったマリアは、ユダヤの北、ガリラヤ地方のナザレという町に住んでいました。ある日、そのマリアに天使が現れ、「あなたは男の子を産みます」と告げたのです。マリアはその時ヨセフという婚約者がいましたが、まだ同居はしていませんでした。当然、マリアは、「まだ結婚していないのに、なぜそんなことがあるでしょうか」と言いました。乙女からどもが産まれるなどということは、現代人だけでなく、二千年まえの年前の人にとってもあり得ないことだったのです。み使いは、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」と答えました。マリアから産まれるのは神の子である、というのです。
わたしたちが外国に行くときには、パスポートやビザが必要です。では天皇はどうでしょうか。天皇にはパスポートもビザも必要ありません。国家元首の扱いだからです。同じように、すべての人間はす一組の男女によって産まれるという法則の下にいます。例外はありません。しかしこの世界を造られた神はその法則には支配されません。イエス様の父である神が聖霊によってマリアの体内にイエス様を人として送られたのです。
また、ほとんどの人は、「神が人となるなんてありえない」と考えます。でも多くの日本人は「人間が神になる」ということは信じているのです。天満宮では菅原道真という人が拝まれていますし、靖国神社では戦争で命を落とした人々が神として祀られています。
人間はこの世界を造られた神には絶対になることはできません。しかし、
すべてのものを創造し、人間を造られた全知全能の神は人間になることができるのです。
さらにみ使いはマリアに、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 神にできないことは何一つない。」と言いました。マリアは聖書に親しんでいた女性です。ですから、マリアよりも七百五十年前にいた預言者イザヤが、「おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと唱えられる」と語ったことを思い出したはずです。また「神にできないことは何一つない。」という言葉を聞いたとき、マリアよりも二千年前に同じようにみ使いから「主にとって不可能なことはない」と言われ、不妊でありながら高齢になってから男の子を生んだアブラハムの妻サラのことを思い出したことでしょう。マリアはみ使いの言葉を信じて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と言うことができたのです。
●「教会」、喜びの共同体
そしてマリアはユダにいるエリザベトを訪ねました。マリアがいたナザレからそこまでは歩くと三日かかりました。そんな大変な苦労をしてまでマリアがそこに行ったのは、もうおなかが大きくなっているエリザベトを見たいという気持ちもあったかもしれませんが、それ以上にマリアは自分たちの身に起きたことについて話し合い、確かめたいという願いがあったのではないでしょうか。
マリアがエリザベトの家について挨拶すると、エリザベトのおなかの子が躍りました。その子はヨハネという名前が決まっていました。後に救い主として来られたイエス様を人々に知らせる働きをした人です。マリアは三か月の間エリザベトの家にたいざましました。そこで祈り、讃美し、エリザベトの夫であるザかリアもマリアに聖書の言葉を教えたことと思います。それはマリアにとってとても大切な時でした。
ある人が「ここに教会の原型がある」と言いました。マリアとエリザベツはこの出会いによって大きな喜びを経験しました。
教会とは、神様の恵みを受け、主の働きに仕えるために召された人たちの集まりです。わたしたちはそこでお互いに信仰を強め、支えあい、思いを一つにして神の働きに仕えるのです。
●信じる人の幸い
エリザベトは最大の敬意をこめてマリアを迎えました。エリザベトはマリアよりも年上であり、格式の高い祭司の妻でした。これに対してマリアは貧しい大工のヨセフの妻でした。しかし、エリザベトはマリアに対して「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」(一:四二,四三)とマリアを讃えたのです。
しかしエリザベトはさらに大事なことをマリアに語っています。それは、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(一:四五)。という言葉です。救い主の母となった女性は幸いだ、と言ったのではなく、「主が語った事は必ず実現すると信じた人は幸いだ」と言ったのです。
ルカによる福音書十一章に、イエス様の教えを聞いて感激した女性が、「あなたの母親になった人は何と幸いな人でしょう」と叫びました。イエス様はその女性に対して、「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ一一:二八)、と答えました。神の言葉を守る人のほうが、救い主の母となることよりも幸いなのだ、お言われたのです。
神の言葉を「守る」というとは、「行う」という意味にとらえられがちですが、この言葉は「見張る」という意味の言葉で、「大切なものとして、なくさないように守る」ということです。
聖書は神の言葉です。聖書を読むと、神の約束はすべて実現しているこことが分かってきます。そして聖書が書かれた最大の目的は、神がすべての人のために救い主を送ってくださる、ということです。それが実現したことをお祝いするのがクリスマスです。キリストの働きをあらわす称号は「インマヌエル」と言いますが、それは、「神がわたしたちとともにおられる」という意味です。神の御子はこの世に来られ、わたしたちの罪を赦し、命を与えて、永遠に共にいてくださるのです。
神は私たちの中に無理には入りません。神の子が人となられたことを信じた人は、神が約束したことを守られる誠実な方であり、また、それを実現する力がある方であると信じる人です。そして救い主に心を開く人の中に来られます。マリアが天使の言葉を受け入れたときキリストが彼女の胎内に宿ったように、信じる人の中に来られるのです。罪を持ち、神に触れることさえできないわたしの内に来てくださるのです。それはわたしたちの正しさや資格ではなく、神の恵みと力によるもものです。
このようにキリストがわたしの人生の中に迎え、わたしの内にお迎えするとき、クリスマスの本当の喜びを知るのです。わたしたちもマリアとともに、最大の宝であるキリストをいただいていることを心から感謝し、これかもともに神をたたえて歩んでゆきたいと思います。
ルカによる福音書3章7-18節
待降節第3主日の説教
そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父は アブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
●荒れ野で神の声を聞く
待降節も三週目を迎えました。待降節の四週間は、二千年前にユダヤでお生まれになったイエス様をお祝いするだけでなく、やがて再びこの世に来られるイエス様を覚えるときです。旧約聖書にはこの世界を裁き、新しきされるメシア、キリストのことが預言されています。またこの世の罪を背負って苦しみを受け、死なれる苦難のメシア、キリストのことが預言されています。そしてわたしたちにとってはこのどちらも大切です。
しかし、イエス様がお生まれになったときのユダヤでは、この世を裁き、悪を滅ぼすキリストを信じていました。神の国が近づいた、という説教をしていた洗洗礼者ヨハネのもとに、救われるための洗礼を受けけるために多くの人がやってきたのです。ヨハネはその人々に対して、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」と厳しい言葉で言いました。(七,八節)昔、「野焼き」と言って、枯草や藪を燃やすとき、その火から逃れようとして蛇がはい出てきます。同じように、神の裁きの時が近づいてきたことを聞いて、恐ろしいので悔い改めないまま、とりあえず洗礼を受けておこうと彼のもとに来た人々に対してヨハネは、まず自分の罪を悔い改めなさい、と語ったのです。
わたしたちは、「神がおられるのなら、悪や争いがはびこっているこの世界をなぜいつまでも放っておかれるのか」と言います。そんな時わたしたちは、自分はその悪い人々の中にではなく、善い人間だと思っています。しかし、神の言葉を聞く時、その光に照らされる時、自分が本当に正しい生き方をしているかがわかってきます。日常の生活の中にいると、自分の家族や自分の仕事のために一生懸命生きている善い人間だ、思っています。でも荒野で神の言葉を聞くとき、そんな自分免許の正しさではなく、神の前での本当の正しさとはないかがわかってきます。そして荒野で人々が神の言葉を聞いたように。わたしたちも日常の生活から出て神の前に立ち、神の言葉を聞いています.
●悔い改めの実
洗礼者ヨハネは「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた群衆に対して「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えました。徴税人たちに対しては「規定以上のものは取り立てるな」と教えました。また兵士たちには「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と教えました。
ヨハネの教える悔い改めとは、自分中心の生き方を変えなさい、ということです。そして神中心の生活とは、「隣人とともに生きる」ということです。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という教えは、神様を愛することと同じに大切な戒めです。
先週も後藤先生が話しておられましたが、わたしたちはキリストが来たら喜んでお迎えしたいと思っています。しかしベツレヘムの人々は住民登録で故郷に帰ってきた親族や友人を家に迎えました。ですから遠くナザレから来たヨセフとマリアには泊まる家がなかったのです。誰か一人でも、おなかの大きなマリアを見て部屋を譲る人はなかったのでしょうか。ベツレヘムの人々は家族や親族、友人に対しては善い人々でしたが、隣人に対しては不親切でした。隣人を迎える心の部屋を持たない人はキリストをお迎えする心の部屋もないということです。
わたしは孫たちと食事をするとき、「食べ物のない子供たちがいます。助けてください」とお祈りするのですが、実際そのためにほとんど何もできていないように思います。わたしたちの日々の糧を今日お与えください、という祈りをどう実行したらよいのでしょうか。一人一人の暮らしの中では難しくても、教会ではできるのではないでしょうか。わたしたちは毎月炊き出しのためと福祉村のために献金をしています。このほか今日では今誰が支援を必要としているかという情報が届けられ、それに応えています。このように、教会は神様と出会う場所であると同時に、またわたしたちが隣人に出会う場所でもあると言えます。
●二つの火
しかし、洗礼者ヨハネは、洗礼を受けに来た人々に、「あなたたちが正しい行いができるようになってから出直して来なさい」とは言いませんでした。人々は自分が神の御心から離れていたことを認めて洗礼を受けたのですが、善い実を結ぶことはわたしたちの力ではできないことです。それはキリストに結ばれ、キリストの命に生かされる時にできることです。
洗礼者ヨハネは人々に向かって、「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。」と言いました。そして、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(三:一六)と教えました。
人々に水の洗礼を授けたヨハネは人々にキリストを指し示しました。キリストはヨハネの洗礼に続いて、聖霊によって洗礼をお授けになります。聖霊はわたしたちとキリストを結んでくれる神の霊です。わたしたちはわたしたちのために死んでくださったキリストに結ばれて罪の赦しをいただきます。また復活されたキリストに結ばれて永遠の命をいただくのです。
また、聖霊は火のようにわたしたちの内側を清めてくださいます。料理をするとき、食べ物から汚れを取り除くために水で洗います。でも、肉の中にあるばい菌をなくすためは火を使います。わたしたちは自分で自分の内側を清めることはできませんが、神の霊はわたしたちに新しい心を与えるのです。
また、神様に捧げる動物の供え物は生のままではなく、必ず火焼いたものでなければなりませんでした。キリストが与えてくださる聖霊の火は、わたしたちを清めて神に受け入れられるものとしてくださるのです。
ヨハネはこの後に、キリストがもたらすもう一つの「火」について語っています。「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」と言っています。「そして」という言葉がありますから、これは先の聖霊と火の洗礼ではなく、裁きの時のことです。
麦が収穫されると、脱穀されて、実と殻とがふるい分けられます。そして実は倉に納められ、殻は風に吹き飛ばされ、集められて焼かれます。同じように、実を結ばなかった人生も、すべて焼かれてしまいます。
わたしはある時、「今夜神の前に立つとしたら、わたしは何を持って神の前に立つのだろうか」と考えました。そして「わたしは親を大切にしました。仕事も一生懸命してきました。」と言いました。すると神様はわたしに、「それはお前のためにしたことではないか。わたしのためにお前は何をしたのか」と問われたのです。その時わたしの目の前に真っ白な灰の山が見えました。そしてわたしは恐ろしいほど空しい気持ちになりました。しかし、神が下さった御子キリストを受け入れたこと、またキリストの言葉に従って信仰の兄弟に仕えたこと、そして隣人に仕えたことはすべて残っていることを知りました。そしてその時に、福音を語る仕事をしたいと思ったのです。
わたしたちが裁き主であるキリストの前に立ち、わたしたちの人生が火で試される前に、キリストが与えてくださる聖霊と火の洗礼は、罪を赦し、心を新しくして神の愛に応えて生きる者としてくださいます。キリストはわたしたちを裁く前に、まずわたしたちの罪のためにご自分を裁きに渡されたのです。そしてお自分のもとに来る人に赦しと命を与えてくださるのです。
わたしたちは、世の終わりに来られるキリストを覚え、特にこの期節を悔い改めの時として過ごします。わたしたちを罪から救うために生まれてくださったキリストを、心からの感謝をもってお迎えし、「わたしたちを、実を結ぶ者にしてください」、という祈りをもってお迎えしたいと思います。
ルカによる福音書21章25-36節
待降節第1主日の説教
「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
●再び来られるキリスト
今日は教会の暦の最初の日です。教会の暦の終わりと初めの時には、世の終わりの時に再び来られるキリストについて取り上げられます。わたしたちが持っている聖書は、天地創造から始まって、世の終わりで終わっています。しかし、正確に言うなら、聖書は世の終りではなく、その後に来る新しい天と新しい地の実現で終わっているのです。
この世の終わりのしるしについて、イエス様は次のとうに教えています。
「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」
二週間前の礼拝では、世の終わりが近づいたことのしるしとして、戦争や地震が起きるということを聞きました。戦争や地震は地上の秩序が揺らぐ時ですが、「天体が揺り動かされる」ということは宇宙的な異変であって、これまで人間が経験しなかったことです。イエス様は、海が荒れると言っていますが、海の満ち引きは月の引力によるものですから、月に異変が起きると海にも異変が起きるのです。
天体に異変が起きるとき、どんなに怖いことでしょう。しかしイエス様は、「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」と言われました。ここでの「解放」とは、奴隷状態から解放されることです。イエス・キリストを信じる人々はすでに神の子とされていますが、まだ古いる体と古い世界の中にいて様々な重荷を負っています。しかし、ちょうどエジプトに戻ったモーセが、奴隷であったイスラエルの人々を解放したように、再び来られるキリストは、罪と滅びの世界からわたしたちを解放してくださるのです。
神はこの世界をリフォームされるのではなく、根本から一新されます。天体の異変はその新しい世界の到来を告げる出来事なのです。
天地を創造された神を知っているなら、その神が新しい天と地を創造することも信じることができるのです。
イエス・キリストはわたしたちと神との間に平和を与えてくださり、神を愛する者として下さました。そしてわたしたちは神だけが与えることのできる希望を知ることができたのです。キリストを信じる人々にとって、人生は死で終わる空しいものではありません。その先に新しい命と新しい世界というゴールを見ることができるのです。わたしたちはこのゴールに目を向けて新しい一年の歩みを始めるのです。
●キリストの言葉は滅びない
イエス様は続いて、
「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」
と語りました。
いちじくの木は、ほかの木々よりも遅く葉を出します。それは鳥が歌い、豊かな実りが与えられる嬉しい夏が近づいているしるしです。同じように、世の終わりのしるしは喜びの時が近づいているしるしなのだ、と言われるのです。
この言葉をもう少し詳しく説明する人もいます。いちじくの木はイスラエルの国の象徴とされています。そして「ほかのすべての木」とはイスラエル以外の国々のことです。キリストが来られる時は、まず聖書に登場している中東の国々が葉を茂らせます。
二十世紀になるまで、聖書の登場していた中東の国であるエジプトもイランもレバノンもシリアの国はありませんでした。しかし聖書ではキリストが来られる時にはこれらの国々は存在していることになっています。1920年代にオスマン帝国が終わると、それらの国々が復活したのです。そして最後にイスラエルの国が1947年の国連決議によって回復されたのです。イエス様は、このマルコ福音書13章24節で、「異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」と言っておられます。「異邦人の時代が完了するまで」ということは、異邦人の時代が終わって、イスラエルが回復するということです。紀元70年にイスラエルの国が滅亡してから実に二千年ぶりにエルサレムはイスラエルの人々が住む所となったのです。二千年間消えていたイスラエルの国ができたことはア二十世紀最大の奇跡と呼ばれています。
イエス様は、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(21:33)と語られました。この「滅びない」という言葉は、「は実現しないまま終わることはない」という意味です。
聖書を学ぶことの目的の一つは、このように、神の言葉、そしてキリストの言葉が必ず実現するということを学ぶことです。
●目を覚まして
終わりの日を覚えることは、そのことに心が奪われ、平静さを失い、普通の生活ができなくなるということではありません。昔の教会では、「主が来られるのが近い」と言って、仕事もしなくなった人々がいました。世の終わりを覚えるということは、その日がいつなのかを知ろうとすることではなく、日々神様に喜ばれる生き方を求めるということです。
今日の日課の最後でイエス様は
「あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
と教えておられます。わたしたちは古い世界の中にいて、この世の価値観の中にいます。聖書にあるように、
「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(1コリント15:32)と言って、この世でできる限り楽しく、得になる生き方を求めます。この世の闇の中でいつの間にか霊的な眠りに陥ってしまう危険に囲まれています。
こんな話を聞いたことがあります。アメリカとカナダの境にあるナイアガラの滝に向かって流れている川は、冬になると、とても冷たくなり、時々その川に鹿などの動物が落ちると、すぐに凍死してしまい、滝に向かって流れてゆきます。すると上空で鷲や鷹がその死体を見つけ、その上に舞い降りて肉をついばむそうです。夢中で食べているうちに滝が近づいてきます。滝の音を聞いて鷲はあわてて飛び立とうとしますが動物の死体をしっかりとつかんでいた足の爪が肢体に凍り付いていて、離れません。それで動物の死体と一緒に滝つぼに飲み込まれてしまうのです。キリストから目を離して、この世の快楽や欲望をむさぼっているなら、クリスチャンであってもいつの間にか霊的な眠りに陥って、キリストへの信仰をすっかり失ってしまうことになります。
また、たとえこの世の終わりが百年先であったとしても、わたしが世を去る時がわたしにとっての世の終わりなのです。次に目を覚ますのはキリストの前に立つ時です。それは今日かもしれません。
「いつも目を覚まして祈りなさい。」とイエス様は教えます。祈りは神の前に立つことです。神の前に立つ時、わたしたちがどれほどキリストの赦しと救いを必要としているかがわかります。わたしたちは祈りによってキリストに結ばれるのです。
また、祈りはわたしたちが神の前に立つための備えをさせてくれます。わたしたちがキリストに会う備えをさせるのは、弱いわたしの決意や行いではありません。祈り求める者に与えられる神の霊がわたしたちの霊の目を開き、またわたしたちの心を新しくしてくださるのです。
マルコによる福音書18章33-37節
永遠の王キリスト(聖霊降臨後最終主日)の説教
そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
●「お前がユダヤ人の王なのか」
今日は教会の暦の最終日の礼拝です。この教会暦の最後の主日は「永遠の王キリスト」と名付けられています。
この名前は1925年に決められたということです。当時のローマ教皇ピオ11世が回勅によって、「王であるキリスト」の祝日を定めました。[その時代はまさに、ドイツではヒットラー、イタリアではムッソリーニ、ソビエトではスターリンが、独裁体制を固めているところでした。教会は、自分が救世主であるかのようにふるまう独裁者に対して、キリストこそまことの王であり、世界の本当の支配者である。と宣言したのです。]
旧約聖書は、やがてメシア、すなわちキリストが王としてこの世に来られる、と教えています。
イエス・キリストが来られた時、ユダヤの祭司長や律法学者たち、つまりユダヤの指導者たちは、自分たちの偽善を指摘するイエス様を憎みました。もしイエス様が強大な軍団を率いる王としてエルサレムに来たのであれば、彼らは仕方なくイエス様に従ったかもしれません。しかし、イエス様は軍馬ではなく、小さな子ろばに乗って、王としてエルさレムに入ったのです。従っていた人々も軍隊でなく、普通の人々でした。
祭司長たちは、「ローマがこのイエスという男に目をつけて攻めて来るかもしれない」という口実を設け、イエス様を殺す計画を立てました。彼らはキリストを捕え、当時ローマから派遣されてユダヤの総督となっていたポンテイオ・ピラトに引き渡したのです。非占領人国であったユダヤの議会には、人を死刑にする権限がなかったからです。
ユダヤの指導者たちはピラトに、「この男は自分を王だと言っており、ローマへの反逆者です」と訴え、ローマの手によってイエス様を死罪にしようとしたのです。ですからイエス様を取り調べたピラトもイエス様に、「お前がユダヤ人の王なのか」と問い質したのです。イエス様はご自分が「王ではない」とは言われませんでした。しかしイエス様は同時に、「わたしの国はこの世には属していない」と答えたのです。
●この世には属していない国
イエス様が言われた、「わたしの国はこの世には属していない」とは、どういうことなのでしょうか。それは、キリストの国は人間が治めているこの世の国とは違うということです。聖書は、この世の国や制度は、神から離れているこの世界のために、神が立てたものであると教えています。それはわたしたちの社会が無法状態にならないためです。ですからこの世の国は法律による支配であり、その法律は警察などの力によって成り立っています。や。つまり、この世の政治は、刑罰と武力なしには成り立たない不完全なものです。
しかしキリストの国は刑罰への怖れによって王に従う国ではありません。それは王であるキリストへの愛によって従う国です。わたしたち人間は、もともと神の愛に応え、神を愛して従うように造られたのです。そしてそのように神を愛するとき人は生きるのです。しかし人間は神から離れ、そして神の命を失ってしまいます。
イエス・キリストはこのような世界に来られ、神の愛と赦しを表されました。それはわたしたちが怖れからではなく、心からの喜びと感謝によって神を愛し、神に仕える者としてくださるためでした。
この世の国は永遠ではありませんが、神の国は滅びることがありません。昔から多くの人たちが武力によって大帝国を造ろうとしました。しかし力によって支配しようとした国は力によって滅んで行きました。
フランスのナポレオンもそのひとりでした。今日の週報に彼の遺書の抜粋を載せましたが、その一部を読みます。
「イエス・キリストの永遠の支配と、大ナポレオンと呼ばれた私の間には、大きな深い隔たりがある。
キリストは愛され、キリストは礼拝され、キリストへの信仰と献身は、全世界を包んでいる。 これを、死んでしまったキリストと呼ぶことが出来ようか。
イエス・キリストは、永遠の生ける神であることの証明である。
私ナポレオンは、力の上に帝国を築こうとして失敗した。
イエス・キリストは、愛の上に彼の王国を打ち立てている。」
ナポレオンがここで告白しているように、キリストの国は永遠の国であり、そこに住む人々はやがて罪から解放され、死の力からも解放されると約束されています。
キリストは、罪の赦しの福音を世界に伝えるようにと弟子たちに命じました。それはキリストを王と告白する人々をご自分の民としてくださるためです。わたしたちはこの世界で自分が生まれる国を選ぶことはできませんし、自分の住みたい国を自由に選ぶことはできません。しかし、「イエス・キリストは主である」と告白して洗礼を受ける人は、誰でもキリストの国に入ることができるのです。
●真理に属する人
イエス・キリストはピラトに対して、「わたしの国はこの世には属していない。」と言いました。イエス様が「わたしの国」といったことを聞いて、ピラトは、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエス様は、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と答えました。聖書が語る真理とは、神様についての真理です。キリストは、神についてわたしたちが知らなければならない真理をあらわすためにこの世に来られました。
キリストが示した真理は光に似ています。暗くて何も見えない時、光があると見えるようになります。イエス様は神様の義しさをあらっした方です。人となられた神の子として、それまで人間が知らなかった本当の義しさというものを知ったのです。
また、イエス・キリストは神様の愛を示されました。イエス様はわたしたちに完全な愛ということを教えてくださいましたが、ご自分がそれを実行されました。ご自分の命をかけてその愛を証しされたのです。イエス様は人間が考えることができなかった義しさと愛を表されたのです。イエス様はその正しさによってわたしたちの罪を照らします。しかし同時に、わたしたちの罪を照らされる方は、その愛によってどんな罪びとでもご自分のもとに招かれたのです。これが、神がキリストによって示してくださった真理です。
このキリストにおいて示された真実を知るためには、人間も真実でなければなりません。イエス様は、「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と言われました。ピラトはキリストに罪がないことを知りました。しかし官邸の外に出ると、そこにはイエスを十字架につけよ、と叫ぶ群衆がいました。彼らは「もしイエスを赦すなら、あなたは皇帝の友ではない」とピラトを脅しました。ピラトは何度もキリストと群衆の間を行き来します。そして最後に「真理とは何か」と言ってキリストの前を去り、外の闇の中に出て行ったのです。彼はキリストが無罪であることを知りながら、自分の出世や地位を守ることを選び、キリストを十字架の刑に引き渡しました。それによって彼が真理を受け入れない人であることが明らかにされたのです。ピラトはキリストを裁く立場にいましたが、実は彼はキリストによって裁かれたのです。
同じように、すべての人は真理であるキリストの前に立つとき、真理に属する者なのか、正しいものを正しいものと判断するのか、それよりもこの世の利益の方を求めるのか明らかににされるのです。
しかしここにいるわたしたちは、イエス様に神の真理を見て、キリストをわたしの王として従っています。王であるキリストがその栄光の姿を現すときまで、このまことの王を愛し、心から仕えてゆきましょう。
マルコによる福音書13章1-8節
聖霊降臨後第25主日の説教
イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。
●神殿の崩壊を予告する
イエス様と弟子たちは祭りのためにエルサレムに来ていました。それはイエス様にとって地上での最後の時でした。
エルサレムには神殿がありました。イエス様と一緒にガリラヤからやってきた一人の弟子がイエス様に、「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と言いました。神殿は、真っ白な大理石で造られ、屋根には金箔が貼られていたそうです。また、その土台の石の中には、今の貨物列車一両ほどの大きさのものもあったと伝えられています。
ところがイエス様は驚くべきことを告げました。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言われ、この壮大な神殿が、完全に破壊されると告げたのです。
このイエス様の言葉を聞いたペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレは、ひそかにイエス様に、「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」と尋ねました。イエス様は弟子たちの質問に対して、神殿の崩壊の時と、その後に起きる世の終わりの時に起きる共通の徴について語られえした。その徴とは、第一に偽キリストの出現です。キリストの時代にもメシアを名乗って暴動を起こした人々がいました。神殿に上ってみんなで戦えば必ず神が助けてくださる、と言ったのです。現イエス様は続いて「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」と教えておられます。
まず神殿が壊されることについてのイエス様の言葉が実現しました。ユダヤの人々は、エルサレムの神殿を誇りとし、ここで礼拝が行なわれている限り、神殿は永遠に守られると信じていました。しかし、神殿を大事にしていた彼らは、神が遣わされたキリスト様を受け入れなかったのです。そしてイエス様の教えも受け入れませんでした。イエス様は「あなたの敵を愛しなさい」と教えました。ユダヤを支配しているローマ人であっても、憎んだり、害を与えたりしてはならないと教えたのです。しかしユダヤの人々はイエス様を受け入れず、ローマ人を憎み、彼らに対する暗殺と暴動を繰り返したのです。とうとう業を煮やしたローマは、エルサレムの町を包囲し、神殿を破壊し、イスラエルの国も滅ぼしたのです。エルサレムにいた多くのユダヤ人は殺され、生き残った人たちは奴隷として売られてゆきました。
大きな石で作られた遺跡は壊されたとしても土台の石組みや柱、アーチなど、いくらかは残るものです。しかしイエス様は「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と、神殿が完全に破壊されることを予告されたのです。
エルサレムに攻め込んだローマ兵は神殿に火をつけ、この火災によって神殿に使われていたたくさんの金(きん)が溶け、石と石の隙間に流れ込みました。その金を集めるためにローマ兵は神殿のすべての石を根こそぎくつがえしたのです。キリストが天に上ってから四十年後の紀元七十年にそれは現実になりました。
●世の終わりと完成
この神殿の破壊の時のあった前触れは世の終わりにも起きるとイエス様は教えています。日本も世界でも近年大きな地震を経験し、疫病の流行も経験しました。わたしが子供の時は、世界はよくなってゆく、とんとなく思っていました。しかし今なお世界のあらゆる場所で、国と国、また民族と民族の争いが続いています。
今、日本の国は戦争をしていませんが、警察や刑務所が必要とされる社会です。つまりこの世界は人間の罪から解放されていないのです。多くの人は、戦争は一部の愚かな指導者が起こすものだと考えていますが、聖書はそのような行動を生み出す原因、すなわち罪の根はこのわたしも含めてすべての人の中にあるのだと教えています。イスラエルの国がメシアを殺して滅びたように、神に敵対しているこの世界も必ず滅びることを聖書は告げています。
しかし神様はご自分の御子の死を赦しに変えてくださいました。そしてこの赦しを通してわたしたちがご自分のもとに帰る道を開いてくださったのです。わたしたちはそのような神の愛と赦しを信じ、受け取っています。
しかし、わたしたちの古い体にはまだ罪と死から自由ではありません。神様は、キリストがもう一度来られるとき、この世界を新しくされ、罪のために死ぬものとなったからだも新しいからだも新しく造り変えてくださるという約束をわたしたちは与えてくださったのです。
●苦難と不安の中にある希望
イエス様は今日の日課の最後で、このような苦難や混乱は「産みの苦しみの始まりである」と語っています。出産の苦しみは新しい命の誕生が近づいている徴です。当時の弟子たちは迫害を受けることも予告されていました。しかしそうした苦しみは、キリストの約束に信頼する人にとって、新しい時代が近づいているという徴なのです。ですからキリストに結ばれている人々は、不安と暗さの中でも希望を持っているのです。
キリストは三十一節で、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と言っています。滅びない、という言葉は必ず実現する、という意味です。神殿の破壊についてのイエス様の言葉はその通りに実現しました。同じように、世の終わりについてのイエス様の言葉も必ず実現するのです.
エルサレムが滅ぼされた時、そこに住んでいたクリスチャンたちはどうなったでしょうか。クリスチャンたちは「町が包囲されたら山に逃げなさい」というキリストが残した指示に従って、エルサレムの滅亡から逃れることができたのです。同じように、イエス様は、ご自分に信頼する人たちを世の終わりの時にも守ってくださると約束してくださったのです。
なぜエルサレムのクリスチャンたちの信仰は四十年間もキリストの言葉を覚えていたのでしょうか。その答えは、彼らが常に礼拝や集会に集まり、キリストの言葉を聞き続け、また伝え続けた、ということです。わたしたちも、一番大切なイエス様を忘れないためには、いつも集まってお互いに励ましあうことが大切です。ヘブライ人への手紙十章二十五節には「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」と教えられています。
わたしたちは、人生の終わりや世界の終わりの先にある希望を持っています。この希望を知っている人は、「どうせこの世は終わるのだから、何もしなくてもよい」この世界から目を背け、自分のことだけを考えようとはしません。イエス様に会うことを目標に生きる人は、その時までイエス様の御心を行おうと努めるのです。みなでイエス様の救いを伝えること、兄弟姉妹に仕えあうこと、そして隣人に対してイエス様の愛を行うことは、神の国に持ってゆくことができる財産となります。わたしたちがイエス様に結ばれて行うことはいつまでも残ります。キリストを待ち望む人は希望があるので、忍耐強く主の業を行うことができるのです。
コリントの信徒への手紙15勝の最後でパウロはこう語っています。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」この「決して無駄にならない」という言葉は「決して滅びない」という意味です。
来週の日曜日に教会の暦の一年が終わります。教会暦の終わりと始まりの時は世の終わりを覚えます。目に見えるものはどれほど素晴らしく、偉大に見えても神殿と同じように崩れて失われてきます。わたしたちは滅びゆくものの中に生きていますが、決して滅びないものに心を向けてゆきたいと思います。
マルコによる福音書12章38-44節
聖霊降臨後第25主日の説教
イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
●やもめの献金
今日の日課の後半には、イエス様が神殿の境内で、「賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。」と書かれています。大勢の金持ちがたくさんのお金を入れていました。この献金箱はお金の投入口が、真鍮で作られていて、大きなラッパの形をしていたということです。そして、そこで捧げられた献金は、神殿の修繕のため、また貧しい人々のために使われていました。境内にはこの献金箱が十三あったそうです。当時のお金はコインでしたから、たくさんのお金が投げ込まれる時は、きっと大きな音がして、周りの人々の注目を集めたことでしょう。
「ところが、そこに「一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた」のです。レプトンは最も小さな銅貨で、現在の百円にも満たない金額です。しかし、イエス様は弟子たちを呼び寄せて、「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言いました。イエス様は神の目をもって、この女性が貧しい未亡人であり、彼女がささげたお金は、彼女がそのとき持っていた生活費のすべてであったことも見抜いておられたのです。 ここで、イエス様が神様へのささげものを大切なことと考えておられたことがわかります。
よく、「宗教はお金のことをいうべきではない」ということが語られます。今日の日課の前半に、神の教えを売り物にして、やもめの家を食い物にしている当時の宗教家たちを非難しています。そして今でもお金で恵みや救いを得られるかのように教える宗教が数多くあります。わたしたちは二週間前に宗教改革記念の礼拝をしました。ローマ教皇が罪を赦す赦免状を売り出したことが、宗教改革が始まるきっかけとなりました。しかしルターは教会が献金を募ることを批判したのではなく、「罪の赦しがお金や人間の功績によって得られる」という考えに反対したのです。当時の教会は人間の善い行い、功績をお金に換算したのです。神の独り子であるイエス・キリストの犠牲によって与えられた神様の恵みは、人間が値段をつけることができないほど高価で尊いものであり、神様はそれを信仰によって受け取る人に無償でお与えくださるのです。
●富のあるところに心がある
神への捧げものはむしろ恵みを与えてくださった神様への心からの感謝、自発的な応答でなければなりません。
わたしの子供がまだ小さいとき、「どうして毎週教会に行くの」と聞かれたことがあります。わたしは「誰かによくしてもらったら『ありがとう』って言うでしょう。わたしたちは神様から毎日食べ物やたくさんのものをいただいている。そして神様は一番大切なイエス様をくださった。だから毎週教会に集まって、みんなで声に出して、『神様ありがとぅ』って言うんだよ」と答えました。「ありがたい」と心の中で思っていても、それを言葉や行動で表さずにいたら忘れてしまいます。キリストの
してその救いが教会の働きを通して伝えられてきたことを考えるとき、その働きに自分もできるできるかぎりの力を尽くしたいと思うのではないでしょうか。反対に、自分のためにだけ時間や労力やお金を費やすことを考えているなら、自分の中で次第に神様の救いの恵みは小さなものになってしまうのではないでしょうか。
聖書には、イエス様がお金をもらって病気を治してあげたとか、「わたしにささげなさい」と要求したり、「わたしのためにささげなさい」と求めたりした例は一つも書かれてはいません。しかし自発的にイエス様に自分の持っているものをささげて仕えた女性たちのことが書かれています。「その中には悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」(ルカ八:二,三)
この女性たち以外にイエス様は多くの人の病をいやされました。そのうちの多くの人は感謝したでしょうが、元に生活に帰ってゆきました。しかしこの女性たちはイエス様に癒していただいたことへの感謝を忘れませんでした。そして癒されてからもずっとイエス様に仕えたのです。そして復活のイエス様に出会ったのもこの女性たちでした。彼女たちはイエス様への感謝を持ち続け、それによって復活したイエス様に出会い、いつまでもイエス様とともに生きる者にされたのです。
イエス様は「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(マタイ六:二一)と教えられました。わたしたちの心がイエス・キリストのもとにあるように、わたしたちの生活の中心にいつもイエス様を置くようにしたいと思います。
●神への信頼によって
この貧しいやもめは、レプトン二枚を持っていました。普通なら一枚の硬貨だけをささげて、もう一枚はパンを買うために硬貨一枚は残しておこうと考えるものです。しかし彼女は二枚とも、すなわちすべてをささげたのです。彼女は決して悲壮な気持ちで捧げたのではないと思います。神様がご自分に信頼して生きる人を必ず養い、支えて下さることを信じていたのです。
イエス様は、神殿で人々がささげるのを「見ておられた」のです。それは何気なく眺めていたのではなく、関心を持って見ておられたのです。イエス様はこのやもめがどんな境遇の人であるかも知っておられたのです。わたしたちが神様に信頼して生きることができ、またささげることができるのは、この神様への、またイエス様への信頼があるからです。イエス様はいつもご自分の従うふと立の歩みを見守っていてくださり、また助けてくださるのです。信仰生活とは、このようにご自分に信頼して仕える人をいつも見ていてくださる神様を経験する歩みであると言うことができます。
このやもめは、すべてのものの創造者であり、ご自分に信頼する人を決して見捨てない神に、自分のすべてを預けたのです。そして真の神にささげて生きることは決して失うことではなく、神にお預けする事であり、それは神の御手の中でより豊かなものにされるということです。
新しい礼拝式文では、今まで説教の後に会った感謝の捧げものが、「派遣の部」になっています。これは礼拝の中で神様に捧げるだけでなく、これから遣わされてゆくわたしたちの歩みが神と隣人に仕える歩みであることがここで示されています。そして神と隣人のために自分をささげる生き方は、わたしたちの生活を豊かにするのです。
人は自分の豊かさだけを求めて、神への愛を失うと、魂が淀んでゆきます。イスラエルにあるガリラヤ湖は上流から絶えず水が注がれ、またその水を下流に流しているので、水が生きていて、多くの魚が住んでいます。しかし下流にある死海は、低地にあるために水を受け入れるだけで、外に出すことができません。それで塩分がたまり、飲むこともできず、魚も住めない死の海になりました。わたしたちも神様の恵みを受け、その恵みに応えて、神様と人のために進んでささげるなら、わたしたちの心は神の霊が流れ続け、喜びのある、生き生きとした人生を送ることができるのです。このことをさらに深く経験してゆく、そのような信仰生活をこれからも目指してゆきたいと思います。
ヨハネによる福音書8章31-36節
宗教改革日の説教
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
●罪の奴隷としての人間
今日は、1517年10月31日、マルチン・ルターによって始まった宗教改革記念日です。しかし、ルターによる改革というよりはルターを通して神様がご自分の教会を新たにされた、というほうが正しいと思います。
ルターは、宗教改革から三年後の1520年に「キリスト者の自由」という本を出版しました。今日の日課にも「自由」という言葉が出てきます。
「キリスト者の自由」の前半で語られていることは、イエス・キリストへの信仰による自由ということです。今日の福音書で、イエス様は、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」とユダヤ人たちに語っています。この時キリストを取り囲んでいたユダヤ人たちは、掟を守っているなら、決して他人や他国の奴隷にはならない、と信じていました。しかしイスラエルの歴史を見ると、イスラエルの人々は神から与えられた掟を守ることができず、ほかの国に滅ぼされ、その国に支配されたのです。それは旧約時代だけの話ではありません。この時イエス様を取り巻いていた人々も、この八章の最後には、イエス様を石で撃ち殺そうとしたことが書かれています。それはイエス様に落ち度がったからではありません。自分たちの罪を指摘したイエス様に対して怒りを燃やしたのです。実際彼らの心も罪の力から自由ではなく、憎しみという罪に支配されていたのです。
確かに神の掟は大切です。神様が人間に「これを守りなさい」と言って律法を与えられたのだから、守ることができるはずだ、と思うのですが、実は、わたしたちは掟を知ってそれを守ろうとするとき、初めて掟を守ることができない自分を見出すのです。ちょうど鎖で縛られている人が、「歩いてみよ」と言われて、その通りにするとき、鎖につながれている自分の現実を知るのと同じです。わたしたちは神の掟によって自分の奴隷状態に気づき、モーセの後に来る方、わたしたちを罪からら解放してくださる方を待ち望むのです。
ルターも、修道士であったとき、神の前に正しいものと認められるために、できる限りの徳を積もうとしました。しかしその結果、ますます自分の罪深さを知ったのです。そしてその苦悩の中から、イエス・キリストの福音を再発見したのです。人間が救いのために行なう正しさではなく、神がイエス・キリストによって与えて下さる正しさ。それが福音です。
●キリストの真理を知る
イエス様はユダヤ人たちに、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(8:31,32)と語りました。自分の正しさを誇り、それを拠り所にしている人にとって、自分が罪に支配されていることを認めるのは難しいことです。しかし、たとえ自分のプライドが砕かれようと、イエス様の言葉にとどまっているならば、真理を知ることができます。その「真理」とは科学的な真理ではありません。人間が知るべき真理という意味です.またそれは神がキリストによって示された真実でもあります.神の真実を知る時、人は自由にされる、というのです。
「奴隷根性」という言葉がありますが、表面的に従っているようでも、主人の怒りを恐れて行動しています。主人を愛してはおらず、むしろ主人がいないことを願っています。わたしたち人間がそうした奴隷状態にある限り、決して神の国を相続することはできません。
イエス様は、「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(8:35,36)と語られました。奴隷はいつ家から追い出されるか、また別の家に売られてしまうかわかりません。しかしその家の子どもはいつまでも家にとどまっています。ですからその子が奴隷を自由にするなら、彼は自由になるのです。すなわち神の子であるイエス様が奴隷であるわたしたちを解放してくださるなら、わたしたちは自由になるということを示しています。ヨハネ福音書一章には、「言(キリスト)は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)と記されています。イエス様は神の子です。そのイエス様がご自分の命をもって渡たちの身代金を支払って、わたし谷も神の子となる権利を与えてくださったのです。
●神への自由、隣人への自由
キリストが与えてくださるのは、罪からの自由ですから、何をしてもかまわない、というような自由ではありません。そのような自由は本当の自由ではなく、まだ罪に囚われていることになります。
ここでイエス様が語っておられる「自由」とは、第一に神の子供として神に近づく自由です。わたしのために、かけがえのない独り子を与えくださり、御子の命によってすべての罪を赦してくださった神の愛を知る時、わたしたちの心から神への恐怖が消え、神への感謝と愛が生まれます。神様を「お父さん」と呼ぶ新しい心が与えられるのです。わたしたちの肉体にはまだ罪の力が残っていますが、その罪も含めてイエス様は完全な赦しを与えておられるのです。それは律法を行って得られる自由ではなく、キリストを受け入れることによって得られる自由です。人が神を愛し、神と共に生きること、それが、神が人間を造られた本来の姿です。
また、もう一つの自由は、隣人に向かう自由、自発的に隣人を愛し、隣人に仕えることができる自由です。隣人を愛さないと救われないからではありません。救いのために善い行いが必要である、という教えは、結局は隣人を愛するからではなく、自分のための善行になっています。神の子とされた人々の善い行いとは、わたしを愛してくださる天の父が喜んでくださることをしたい、という心から生まれる行いです。わたしたちは神様がわたしのためにしてくださったことに対して、何かお返しをすることはできません。ですから神様に愛された喜び、赦された感謝、仕えていただいた感謝を隣人に向ける、ということで神への愛を表わすのです。ルターが記した「キリスト者の自由」の前半は、キリストに結ばれて神の子とされる自由について教えていますが、後半では、自由な者とされて、隣人に仕えてゆくキリスト者の生き方が教えられています。
神がキリストを与えてくださったということは、わたしたちがキリストと共に、罪の赦し、キリストの正しさ、復活の命、神の子の身分を受ける、ということです。教会で行われる聖餐式は、その恵みをもっともよく表しています。神がモーセによってイスラエルと結んだ契約は「何々をしなさい」という契約です。しかしキリストによって立てられた契約は、「食べなさい」という契約です。パンとぶどう酒を通してキリストをあなたの内に、あなたの命として、救いとして受けなさい、という契約です。それは掟や行いではなく、恵みです。そして神が下さった御子を感謝して受け入れる信仰こそ、神の前に最も尊いものです。この日、あたしたちは神が下さったキリストを、感謝をもって新たにわたしの内に受け入れたいと思います。
マルコによる福音書10章32-45節
聖霊降臨後第22主日の説教
一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び12人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
●ヤコブとヨハネの願い
今日の福音書の日課には、エルサレムに向かってゆく時、イエス様が弟子たちの先頭に立たれ、そして弟子たちはそれをみて恐れた、とあります。それはイエス様がすでに、「わたしはエルサレムに行って、そこで長老、律法学者、祭司長たちから排斥され、殺され、そして三日目に復活する」、と言っておられたからです。そしてここでもまたその予告をされたのです。すると、弟子のヤコブとヨハネの兄弟がイエス様の前に進み出て、「先生、お願いがあります」と言いました。イエス様が「何をして欲しいのか」と尋ねると、二人は「あなたが栄光をお受けになるとき、ひとりをあなたの右に、一人をあなたの左に座らせてください」と頼んだのです。
この兄弟は決して安易な気持ちでそう言ったのではありません。彼らはイエス様に命を懸けて従うつもりでした。たとえ殺されるようなことがあってもメシアの王国は必ず実現する。その時、自分たちをイエス様に次ぐ地位につけて欲しいと思って、他の弟子たちよりも先にイエス様からの約束を取り付けようとしたのです。
ところがそれを聞いたほかの十人の弟子たちは、ヤコブとヨハネのことで腹を立てました。それは、他の十人も、口には出しませんでしたが、ヤコブやヨハネのように自分たちも偉い地位につきたいと思っていたのです。ほかの弟子たちが地位に執着していないなら腹を立てることはないはずだからです。
イエス様はそんな弟子たちを呼び寄せて教えられました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
イエス様は、ここでまず当時の政治について語っておられます。異邦人の間では、つまりまことの神を知らない人々の間ででは、支配者とみなされている人が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。というのです。ここでの「支配する」という言葉は「抑えつける」という意味です。当時、支配者は権力をふるい、力で人々を抑えつけていました。
●みなに仕える者となりなさい
しかしイエス様は、「あなたがたの間ではそうではない」と言われます、あなたがたの間、つまりイエス様の弟子たちの間では、この世とは違った原則があるのです。
イエス様は、「偉くなりたい者は」と言われました。イエス様は、「偉大な人になりたい」という向上心を否定しませんでした。しかしそれはこの世とは違う道です。それは人の上に立とうとする道ではなく、その力を兄弟のために使い、仕えるという道です。
イエス様が語られた「デアコノス」という言葉で、「仕える人、給仕をする者」という意味です。人々を養うために身を低くして仕えなさい、そのような人が神の国では偉大な人なのだ、とイエス様は教えられたのです。
またイエス様は、一番上になりたいものはみなの僕になれ、と言われました。この僕という言葉は「奴隷」という言葉です。
イエス様は、神の国で偉大な人になろうと思う人は、へりくだって奴隷として兄弟たちに仕えるべきであることを教えられたのです。いうまでもなく、奴隷も主人の下にいて、主人に仕えます。イエス様は、あなたが兄弟たちの間で偉い人になることを目指すなら、奴隷のように身を低くして他の人々に仕える者になりなさい、と言われたのです。
四週間前の福音書でもイエス様は「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 と教えられました。ですからこの教えが教会にとても大切な教えだということがわかります。この教えがなければ、教会もこの世の組織と同じように、指導者が力をふるう組織になってしまうのではないでしょうか。
●イキリストに倣って
このようにイエス様が弟子たちを教えられたのは、イエス様がそのような方として来られたからです。イエス様は仕えるために来られました。イエス様は弟子たちに対して一度もその力をふるいませんでした。イエス様は弱く、未熟な弟子たちを絶えず教え諭しました。それは今でも同じです。イエス様は御言葉と聖餐を与えてわたしたちに仕えてくださっているのです。ルターは、「礼拝は人が神に仕えるよりも、神が人に仕えてくださる場である」と教えました。いまもわたしたちはその奉仕を受け続けているのです。
また、イエス様はご自分が「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と言われました。イエス様はここで初めてご自分の苦難と死の意味について語られました。昔は、借金を返すことができずに、相手の奴隷になることがありました。奴隷には給料はありませんから、自分でお金をためてそれを払って自由になることはできません。誰かが身代金を払ってくれなければ自由になることはできませんでした。
聖書では罪のことを「負債」、つまり借金と呼んでいます。わたしたちはこれまでの人多くの過ちを重ねてきました。それましたはわたしたちが過去に戻ってやり直すことができない、取りもどすことができないものです。その罪の負債を背負っている限り、神に近づくことができません。それはわたしたちが罪の奴隷になっているということです。
この地上にはその負債を支払うことができる人は一人もいません。
しかし神の子であるイエス様は、ご自分の命によって罪のために身代金を払ってくださったのです。イエス様が持っておられる永遠の命は、わたしたちの過去、現在、未来の罪をすべて償い、わたしたちを神の前に立たせ、神と共に生きる人間本来の姿にわたしたちを回復してくれるのです。
昔「アラモの砦」という映画を見たことがあります。アメリカとメキシコが戦争したとき、アラモでの戦いに市民も参加しました。その独りの市民に敵の銃口が向けられたとき、その人の奴隷である黒人がとっさに主人をかばい、自ら銃弾を受けて死にました。わたしはその時「奴隷というものは主人のために命を投げ出すのだ」と、強い感銘を受けました。それは奴隷が心から主人を大切に思っていなければできないことです。イエス様もそのように僕となってわたしたちをかばって死んでくださったのです。
今日読まれました旧約聖書の一部をもう一度読んでみましょう。
十一節「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。」
この「多くの人」の中にわたしたちもいるのです。そしてイエス様がわたしのために身代わりとなって仕えてくださったことを知って、イエス様のように仕える人が一番イエス様に近い人、偉大な人なのです。
この社会では公務員や政治家を「公僕」と呼びます。これは明治以降に使われるようになった言葉で、「民衆の僕」という意味のパブリック・サーバントを訳した言葉です。これの「僕」という言葉は先ほどのデアコノスに由来する言葉です。
しかし、いと高き神の御子がわたしの奴隷となってその命を投げ出してくださったことを知らないなら、「上に立つものが偉い」というこの世の考えから抜け出すことはできません。パワハラをなくそうと叫んでも、平等な社会を作るために制度を変えても、わたしたちの心が変わらない限り、権力を持つ人が他者を抑圧することはなくなりません。
教会は、このわたしがイエス様に受け入れていただいたように、兄弟を受け入れ、仕えることを学ぶ場所が教会です。そして、そのように学んだ人々が、この社会の中で生きるとき、この世界は変わってゆくのではないでしょうか。
わたしたちはこれからも仕えてくださるイエス様の愛に養われ、イエス様に倣って歩んでゆきたいと思います。
マルコによる福音書10章17-31節
聖霊降臨後第21主日の説教
イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。 1金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
●命を得る道
ある人がイエス様のところに来てひざまずき、「善い先生、永遠の命を受け継ぐためには何をしたらよいでしょうか」と尋ねたました。その人が求めていた「永遠の命」という言葉には、ただ死なないでいつまでも長生きする、ということ以上の意味があります。「永遠の命」とは、神様から生きる資格を与えられるということで、言いかえれば、その人が神様に「よし」とされる、義と認められるということです。ユダヤ人の中で心から神を信じる人々は、みな神の判定を受けて、「永遠の命」を得ることを人生の目標と考えていたのです。
イエス様はこの人に、「あなたは殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父と母を敬え、という掟をあなたは知っているはずだ」と言われたのです。これは十戒の後半の隣人に対する戒めです。するとこの人は、「わたしは小さいときからそれをみな守ってきました」と答えました。この人にとってイエス様の答えは意外でした。イエス様は何かもっと深いことを教えてくれると思っていたのです。
イエス様はこの人に、「あなたに欠けていることが一つある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。そしてわたしに従って来なさい」とお答えになりました。イエス様は、「わたしは小さい時からみな守ってきました」と胸を張って答えたその人に、「本当にそうなのか」と問い返されたのです。イエス様がこの人に示された十誡の後半の精神は、自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」ということです。イエス様はこの人がたくさんの財産を持っていることを見抜いておられました。そこで、「あなたは飢え、苦しんでいる隣人を本当に愛しているのか。もしあなたが自分を愛するようにあなたの隣人を愛しているなら、あなたの持っている財産を貧しい人々に分け与えるべきではないか」と言われたのです。それができなければ、完全に掟を守っているとは言えないのではないか、というのです。また、あなたが「神様を愛する」というなら、あなたが敬っているこのわたしの弟子となって従うべきではないか、といわれたのです。
この人はイエス様の言葉を聞いて落胆し、悲しそうな顔をして立ち去りました。「それはその通りだ、しかし自分にはとうていそれはできない」と思ったのです。その人は捨てきれないほどたくさんの財産を持っていたからです。
●だれが救われるのか
他の福音書では、このイエス様のところに来た人は青年で、ユダヤの議員であったとも記されています。財産だけでなく、彼の若さも、社会的な地位も一種の「財産」であり、イエス様に従ううえでのネックになっていたと思います。彼が去った後、イエス様は弟子たちに「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われました。らくだはユダヤ人が目にすることができた動物の中で一番大きなものだったでしょう。それが針の穴を通ることは不可能なことです。
「金持が神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだやさしい。」わたしは小学生の時にこのイエス様の言葉を教会学校の先生の口から聞きました。イエス様のたとえは小学生の心にも残る強烈さがあります。ですから弟子たちも驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った」と記されています。
「それでは、だれが救われるのだろうか」というこの問いは、わたしたちにも問いかけられています。わたしたちも、「あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という戒めを守ってはいないからです。
近年、「よりそう」という言葉が使われるようになりました。教会でも「わたしは苦しんでいる人によりそいたい」という言葉を聞きます。しかし、本当にそう思うのなら、ホームレスの人と一緒に同じ生活ができるでしょうか。家も財産も捨てて、一番貧しい人たちと一緒に暮らすことができるでしょうか。わたしたちは、困っている人を「思いやる」ことは少しだけできたとしても、寄りそうことなどできません。わたしたちも捨てることができないものがあり、それによって神の掟を完全に全うすることができないのです。
聖書が示している神の掟は大切なものです。神様はそれを行えと命じています。しかし命じているからには守れるはずだ、ということではありません。むしろ神の掟は、それに真剣に向かい合うなら、掟を完全に守れない自分の姿、罪の世界の中に縛られて生きている自分の根源的な弱さが見えてくるのです。この青年に対するイエス様の言葉は、神の掟に対して自分がいかに無力であるかを気付かせるための言葉なのです。
●神にはできないことはない
イエス様は、イエス様の言葉に驚いている弟子たちに、「人にはできないが神にはできる。神には何でもできるからだ」と言われました。
この言葉とよく似た言葉が新約聖書のほかのところにもあります。それは天使が、マリアにイエス様の誕生を予告した時に語った、「神にできないことは何一つない」という言葉です。天地を造られた神が人間の赤ちゃんとして生まれたこと、それはまさしく、らくだが針の穴を通るようにありえないことではないでしょうか。そればかりか、その御子がわたしたちの罪を赦すために進んで十字架の死を遂げたこと、それもまたらくだが針の穴を通る以上にありえないことではないでしょうか。自分の力ではでは天国の門を通れないわたしたちの所に、神様の方から近づき、赦しと命を与える方として出会ってくださり、わたしたちを受け入れてくださるのです。イエス様によって神の国は近づいたのです。そして。幼子のように心を低くしてこのイエス様を受け入れるところに「永遠の命」があるのです。こうして、人にはできないことを神様は成し遂げてくださいました。
イエス様のもとを悲しみながら立ち去った青年は、その後どうなったのでしょうか。キリストから離れたまま生涯を終えたのでしょうか。わたしは、この「金持ちの青年」の話で、マルコ福音書だけにある「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」(10:21)という言葉に心をひかれます。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えたこの人に対して、イエス様は「あなたは不完全であり、救われない」という軽蔑や裁きの目を向けたのではなく、慈しみの目を向けたのです。不完全であっても、ひたむきに真理と救いを求めて走りよってきたこの人の心をイエス様は大切なものとして受け止めておられたのです。そして、イエス様のこの慈しみがあるところに希望があるのです。
金持であり、議員であった、というこの人と良く似た人がほかにもいます。それは、やはり金持ちであり、ユダヤの議員であったアリマタヤのヨセフやニコデモです。彼らは自分たちの地位のために、ほかのユダヤ人たちを恐れて、自分たちがイエス様の弟子であることを隠していました。しかしイエス様が十字架の上で死なれたとき、彼らの心に変化が起きました。また同じ議員のニコデモも高価な香料を持ってきて、イエス様の体に塗りました。イエス様の死をきっかけに、イエス様の弟子であることを恐れずに告白する信仰と勇気が彼らに与えられたのです。それは神様のお働きでした。聖書を読むと、イエス様は真実に道を求め、救いを求めてご自分のもとに来た人を皆受け入れておられます。イエス様はヨハネによる福音書六章で、「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」と言われました。わたしたちも神によって導かれてここにいます。ですからわたしたちは自分の正しさにではなく、このイエス様に望みをおいて、いつも身許に近づいて行きたいと思います。
マルコによる福音書9章38-50節
聖霊降臨後第19主日の説教
ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。 43もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 48地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
●キリストの名はだれのもの
現代には登録商標とか著作権というものがあります。ある人の名前やその人が書いたものを勝手に使たりコピーしたりすることは禁じられています。それはもともとその名前を持つ人やそれを書いた人の利益を守るためです。
ではイエス様のお名前はだれのものでしょうか。弟子のヨハネはイエス様のお名前は本家本元である自分たちだけが使うことができる、と考えていたようです。それで、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」とイエス様に報告したのです。弟子のヨハネはキリストに対してとても熱心は人でしたが、気性の激しい人でもあったようです。
でもここでイエス様はどう答えたでしょうか。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。」と言われたのです。彼らはイエス様の名前で悪いことではなく、悪霊を追い出すという良いことをしているのです。たとえ自分たちのグループに入っていなくても、イエス様はそご自分を信じている人々をご自分にとって大切な人と考えていたのです。そういう人々の信仰を奪い取るようなことをしてはならないというのです。ここにわたしたちはイエス様の広い心を見ることができます。
イエス様は「わたしを信じるこれらの小さなもののひとりをつまずかせるものは、大きな石臼を首にかけられて、海に沈めされてしまうほうがはるかに良い」と語られました。つまずかせるという言葉は、何かにつまずいてよろけるというような生易しい意味ではなく、「わな」にかかる」という意味をもっている言葉です。鳥や動物がわなにかかるとそこから抜け出させないように、滅んでしまうということです。
先週は教会の中で、「子ども」のように小さい者でも受け入れ、仕えなければならないことを学びましたが、今日の箇所では、もっと広く、自分たちの組織、党派を越えて、イエス様を信じている人々を大切にしなければならないことが教えられています。イエス様を信じている小さい人を躓かせることは、人を滅ぼす悪魔の働きに仕えている、ということになるのです。だから永遠の火に投げ込まれる、という運命がその人を待っているのです。そのような最悪の罪を犯すよりは、海の深みに沈められて二度と浮かび上がれないようにほうはるかにがましだ、というのです。誰かをキリストから引き離すことはそれほどに恐ろしい罪であるというのです。
●正義の中に潜む罪
小さい兄弟を「つまずかせる」、つまりイエス様から引き離すことになる行いは二種類あります。それは第一に、わたしたちがその人々の信仰にとって、道徳的に悪い手本を示すことによって、悪い影響を与えることです。わたしたちにとっては害のない行いでも、小さい人々を滅ぼすようなものがあります。
第二に、その反対にわたしたちが正しいと思って行うことで人をイエス様から遠ざけてしまうことがあります。イエス様を憎み、十字架に追いやった人々は皆、自分は悪人だと思っていた人々ではなく、自分は絶対に正しいと思っていた人々でした。人間は自分が正しい、と思うときほど実は最も大きな悪を行ってしまうのです。
わたしたちの中にある生まれつきの心を聖書では「肉の思い」と呼んでいます。ガラテヤ人へ信徒への手紙五章一九節に「肉の業は明らかです」とありますが、そこで言われている肉の業とは「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」と言っています。ここで「利己心」という言葉は以前の訳ですと、「党派心」となっています。この党派心や分派、仲間争いについては「自分は正しいと思う心によって起こります。しかし、その中にも他の人を裁き、キリストから遠ざける罪の力が働いています。教会の歴史の中でも、そのような考えから自分たちの組織の中にいない人々を弾圧した時代があります。
イエス様は、「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。」、「片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。」と教えておられます。その意味は、あなたをつまずかせるものがあれば、それたとえあなたの体の一部のように大事なものであり、捨てがたいもの、抜き去りがたい価値を持つように思えるものでも、それを切り捨てなさい、と言っておられるのです。しかし手や足が勝手に動いて悪いことをするのではなく、心の中から悪が生まれるのですから、心の中にある悪を捨てなさい、とイエス様は教えてられるのです。
●火で塩味を付けられる
そのような肉の心はどのようにしたら良い心になるのでしょうか。イエス様は教の日課の中で「人は皆、火で塩味をつけられる」と語られています。塩は生きてゆくうえで欠かせないものです。また塩は肉や魚にすりこむことによって腐りにくくします。ここで塩とはいったい何でしょうか。この塩とはイエス様の言葉、本当の正しさ教えてくださるイエス様のみ言葉です。あるとき気がついたのですが、塩以外のすべての味は食べ物の中に含まれています。甘みも辛味も酸味も果物や野菜などの中にあります。でも塩味だけは自然の食べ物には含まれていません。ですから必ず外からとらなければなりません。神様のきよい言葉もこの世からは出て来ません。またわたしたちの心からも生まれません。それはいつもわたしたちの外から与えられるものです。イエス様は「塩は良いものである」と言われました。イエス様のみ言葉は塩のように命を与えてくれます。またわたしたちの心に浸みとおってわたしたちの心が罪によって腐ってしまうことから防いでくれるのです。
イエス様は他の誰かが、ではなくて、自分自身の内に、あなたの中に塩をもちなさい、と語られます。人は火で塩味をつけられる、と言われました。火とは聖霊のことです。わたしたちの心が変えられてゆくために絶えず聖霊とみ言葉によって塩味を付けられる必要があります。それによって肉による裁きや怒りからではなく、愛にもとづいて語り、平和な関係を築いてゆく人になるのです。
最初に言いましたように十二弟子のひとりであったヨハネはイエス様から「雷の子」と呼ばれた気性の激しい人でした。しかしこのヨハネは後に「愛の使徒」と呼ばれるようになりました。神が愛であることを教え、また「互いに愛し合いなさい」と教えました。なぜ彼は変わったのでしょうか。イエス様の言葉が、そしてイエス様の心が彼の心にしみこんだからです。
イエス様は、今も罪に勝つ力をわたしたちに、み言葉と聖霊によって与えてくださいます。イエス様のみ言葉が、イエス様のお心がわたしたちに内にしみこむようにと祈りながら恵みに与ってゆきましょう。
ヨハネによる福音書9章30-37節
聖霊降臨後第18主日の説教
一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
●誰が一番偉いのか
今日の福音書の中で、イエス様は二度目の受難予告をしておられます。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」という予告です。しかし弟子たちはイエス様のその言葉を受け入れることができませんでした。むしろ弟子たちは、「いよいよイエス様がエルサレムで王座に就く時が来るのだ」と受けとったのです。そして、その時には誰がイエス様から高い地位をいただくことができるだろうか、と考えたのです。それでお互いに、「わたしのほうが先輩だ」とか、「わたしのほうがその地位にふさわしい」というような言い争いを始めたのです。
こうした箇所を読むと、聖書は本当に真実を記している書物であると思わされます。後に教会の指導者となった弟子たちにとって、このようなことは隠しておきたい恥ずかしいことだったであろうと思うからです。しかし聖書はそのような自分たちの失敗や恥ずかしい姿をありのままに記しているのです。
家についたイエス様は、弟子たちに「途中で何を議論していたのか」と尋ねました。しかし彼らは恥ずかしくて答えることができませんでした。イエス様は十二人を呼び寄せて、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と教えられました。イエス様は、人の先に立ちたいと思うこと、偉い人になりたいと思うことを否定されたのではありません。しかし、それはこの世と同じ道であってはなりませんでした。イエス様はこの世界とはまったく違う原理を教えられたのです。それはイエス様を信じる人々の間で、つまりキリストの教会で守られるべき原理です。
イエス様は「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と教えられました。例えば、お母さんが子供のおむつを替えたり、体を拭いたりします。それは赤ちゃんに仕える姿ですが、だからと言って、お母さんが赤ちゃんより地位が低いのではありません。お母さんは赤ちゃんよりもはるかに力がありますが、それを赤ちゃんに仕えるために使っているのです。
教会は神の家族であり、強い者が弱いものを支配する世界ではなく、愛によって仕え合う場所です。イエス様は、自分を低くして群れの中で最も弱い者、小さい者に仕える者になりなさい、と言われたのです。そのように仕える愛を持つ人が、愛なる神に近い人、つまり偉い人なのです。
●子供を抱き上げるキリスト
イエス様は弟子たちの前で一人の子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせました。この時、イエス様と弟子たちがいたのはカファルナウムという町で、そこの家とはペトロの家であり、この子どもはペトロの子どもであったったと考えられます。真ん中に立たせた、とありますが、ユダヤ人の会堂では、真ん中は聖書が置かれ、教えが語られる大切な場所でした。イエス様は子どもを弟子たちの中で最も大切な場所に立たせたのです。イエス様は、子どもは軽んじる者ではなく、尊ぶべき者であると教えられたのです。
そしてイエス様は、子どもを抱きあげて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と教えられました。
「わたしの名のために」とは「わたしの名を信じていることのゆえに」、と言う意味です。ユダヤにとって子どもは未熟なもの、不完全な者のことでした。またラビと呼ばれた教師にとって十分な知識を持っていない初心者も「子ども」とか「幼子」と呼ばれました。この世の組織の中ではそうした人々は尊敬されず、見下されます。しかしイエス様は、こどもであっても、また未熟であったとしても、その人がイエス様の御名を信じているならば、最も大切にして、愛情をもって仕えなければならない、と教えられたのです。
ここでイエス様が子どもを抱け上げられたことは、とても大切なことを示しています。抱き上げるということは、その子どもにたいするイエス様の慈しみを表しています。またそれは、その子を守り、支えている姿です。
その光景から思い出すことがあります。わたしが牧師として初めての任地である焼津と藤枝教会に行った一九八一年に掛川で大きな洪水があって、掛川教会は床上まで浸水しました。当時の掛川教会の牧師は、小学生の息子を肩車して、その子に教籍簿を持たせ、首まで泥水につかりながら避難したということです。
それを聞いたとき、わたしは、イエス様はご自分が神の裁きを受けたとき、わたしをその裁きから守りために抱き上げていてくださったのだ。そして今もイエス様に抱えられて守られ、生かされているのだ、と思いました。自分の力では決して神の国に入れないわたしたちもみな「小さい者です。しかしイエス様に受け入れられ、仕えられ、支えられ続けているのですから、わたしたちのも自分の目に小さく見える人を受け入れ、大切にしなければならないのです。
●キリストの心をわたしの心とする
この世界にイエス様の教えが行きわたるためには、まずイエス様を信じる人々の間でそれが実現しなければなりません。それは自分に与えられた能力を、それを必要としている兄弟のために使う、という生き方です。しかしその一方で、小さいものを真ん中に置く、ということは教会の中だけでなく、キリスト者によって社会の中でも実践されてゆかなければなりません。
ある人たちは、弱い人、障害を持つ人、あまり働けない人は社会の重荷であると考えています。またそうした人がいなくなることが社会の発展につながると思っています。しかし本当にそうなのでしょうか。
ある方が講演で話しておられましたが、どれほど医学が進んでも、十人に一人は何らかの弱さを持って生まれてくる。その比率は時代が変わっても変わらないということです。それは人間だけが、強い者が生き延びる、という動物の原理ではなく、一人も取り残されない社会を作ることができるということであり、それが求められている、ということです。そしてそのような社会でこそ人間は幸せに生きることができるのです。反対に強い人が力をふるい、弱い人々が片隅に追いやられる社会は、決して幸せな社会ではなく、殺伐とした社会になってしまいます。
神から見れば取るに足らない小さなわたしたち、そのわたしたちのためにキリストは神のもとからこの世に来られ、ご自分が持っているルすべての力をご自分のためには少しも使わないで、わたしのために重い十字架を背負ってくださいました。そして今もわたしたちの罪を赦し続け、仕え、養っていてくださいます。そのキリストへの感謝をお互いの間でも、この社会の中でも表して生ゆきたいと思います。神様がこの社会の中でとりわけ小さく見える人、弱く見える人々に心を留めておられることを覚えたいと思います。
マルコによる福音書8章27-38節
聖霊降臨後第17主日の説教
イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
●ペトロの信仰告白
わたしたちが今礼拝で学んでいるマルコ福音書は、全部で十六章あります。ですから今日の日課でマルコ福音書の前半が終わります。そしてこの個所はイエス様の歩みの大きな区切りとなっていますし、峠ともいえる箇所です。
イエス様の弟子たちは、これまでイエス様がなさったたくさんの奇跡を見ました。そしてイエス様が神のもとから来たメシアであると信じるようになっていました。ですからイエス様から、「あなた方はわたしを誰と言うか」、と聞かれた時、ペトロは弟子たちを代表して、「あなたはメシアです」と答えました。メシアとはキリスト、救い主という意味です。ペトロは「あなたは神が約束された救い主です」と答えたのです。
イエス様はこのことをだれにも言うな、と命じました。そして弟子たちに思いもかけないことを言いました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と弟子たちに教え始められたのです。ここで「人の子」とはイエス様ご自身を指しています。また、「…殺され、三日の後に復活することになっている」と言われた「なっている」という言葉は、「神によってそのように定められている」という意味です。イエス様の苦難と死と復活はイエス様の父である神によって定められていることなのだ、とイエス様は告げたのです。
すると、つい先ほどイエス様をメシアとして告白したペトロは、イエス様をわきに引き寄せていさめ始めました。ペトロはイエス様に「先生、そんなことを言っては困ります。みんなを動揺させるようなことを言わないでください」と言ったのではないでしょうか。
この時代のユダヤ人が待ち望んでいたメシアとは、昔モーセによってエジプトの奴隷の家からイスラエルを解放してくれたように、自分たちを支配していたローマ帝国を打ち負かしてくれる解放者でした。ローマだけでなく、偶像を拝んでいるすべての外国人を罰して、ユダヤ人とともに世界を治めてくれるのがメシアだと思っていたのです。ですからメシアが殺される、などということはありえないことだったのです。
●「神のこと」と「人間のこと」
しかし、イエス様はペトロに向かって、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言って叱られたのです。これはペトロがサタンであるということではなく、この時サタンの代弁者となっていたペテロを叱ったのです。サタンの目的は人間を神から引き離すことです。エデンの園でサタンは蛇を通して、人間が神の言葉よりも自分の欲望に従うように誘惑しました。サタンは人に罪を犯させ、神から引き離してしまったのです。そして今日の聖書の箇所では、イエス様が苦難の道ではなく、王としての栄光の道を歩むべきだと誘惑したのです。イエス様ご自身はそれが悪魔の誘惑であると知っていました。しかし弟子たちのリーダーであったペトロによって弟子たち全体が惑わされることがないように、ほかの弟子達を見つめながらペトロを叱ったのです。
ペトロはイエス様をメシアであると告白したのに、そして自分はそのイエス様に従っている、と思っていたのに、実際は自分の願いにイエス様を従わせようとしていたのです。自分たちが願っていることは正しいと思っていたからです。
しかし人間の目にはどんなに美しく見ることも、それが神様、そしてイエス様の言葉から離れているなら、それは必ず罪の力に支配されてしまいます。
イエス様は「あなたの敵を愛しなさい」と教えましたが、ユダヤの人々はその教えを受け入れないで、ローマに対する暗殺や暴動を繰り返しました。また内部でも主導権争いをして殺し合いました。そしてついに怒ったローマによって滅ぼされてしまったのです。
神様の教え、イエス様のことばに従わない人間や理想や平和や幸福というものは、自己中心の罪に支配されてしまいます。わたしたち人間は何よりも神のことばに聞くものとして造られたのです。そして神のことばに聞くときに生きることができるのです。
しかし、生まれながらの人間は神のことばを喜んで聞くことができません。罪を持ち、神を怖がっているからです。わたしたちは神の愛と完全な赦しを知って、初めて心から神のことばに耳を傾けることができるようになるのです。
イエス様はその赦しを実現するために来られました。人となられたイエス様は、多くの試練の中で罪のない生涯を繰りました。そしてその罪のない体と命をイスラエル人だけでなく、すべての人のために捧げてくださいました。イエス様は受難の予告を通して、ご自分がそのようなメシアとして来られたことを弟子たちに教えたのです。そしてあなた方の願いにわたしを従わせようとしないで、わたしに従いなさい、そこに命があるのだ、と言われたのです。
●命を得るために
イエス様は、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と告げました。自分を捨てる、とは神でさえも自分の思いに従わせようとする古い自分のことです。キリストに従うとき、世間の逆風や迫害に合うことがあります。自分の十字架を背負う、とはイエス・キリストに従うときに出会う困難や辱めに会うとき、キリストの十字架を恥とすることなく、その辱めや苦しみが大きいものであっても、小さいものであっても、それを背負ってゆくということです。それがイエス様に結ばれて生きるということです。
またイエス様は、恥や苦難をしのぶという受け身の姿勢だけではなく、さらに積極的に「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのであ。」と教えられました。
今は迫害によって命を捨てることはないかもしれません。しかし命という言葉は、英語の「ライフ」という言葉のように、生活とか人生ということも指す言葉です。わたしたちは消えてゆくこの世の豊かさだけを追い求めるのではなく、わたしたちを神様と共に生きるようにしてくれたイエス・キリストの救い、つまり福音を伝えるために仕え自分にとって大切と思うもののために心血を注ぎ、労苦するからです。
わたしたちは礼拝で使徒信条やニケア信条を唱えます。その中にはイエス様の名のほかにマリアとピラトの名前が出てきます。それはイエス様がマリアという実在の人物から生まれた実在の人であることを示しています。また、ピラトの名があげられているのは、罪を赦すキリストの死が、空想の話ではなく、ピラトという実在の人物によって歴史の中で実際に起きたことを示しています。
しかし、わたしはある時から、この二人の名はイエス様に対する二通りの生き方も示しているのではないか、と思うようになりました。
「あなたは救い主を生むであろう」、という天使のお告げを受けたとき、マリアは結婚を控えていました。天使の言葉を受け入れることは恥と苦難の中に投げ込まれることになると思われましたが、マリアは「わたしは主の仕え女です。お言葉通りこの身になりますように」と言って神のことばを受け入れ、自分を神にささげたのです。
一方、ピラトは裁判の場で、イエス様に罪がないことを認めました。しかしイエス様を釈放しようとすると暴動が起こりそうになりました。彼には「暴動を防ぐために」という口実がありましたが、本当は分の地位を失うことを恐れ、罪のないキリストを十字架刑に渡したのです。
マリアは苦難の多い生涯をたどりましたが、最後に復活した神の子であり、自分の愛する息子のイエス様に出会ったのです。わたしたちは使徒信条や、ニケア信条を唱えるとき、ピラトの道ではなく、マリアの道に生きることを新しく心に刻みたいと思います。そして、わたしをキリストの救いを伝える器としてください、と、服従と献身の思いを新たにしたいと思います。
マルコによる福音書7章1-8、14-15 、21-23節
聖霊降臨後第15主日の説教
ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。
中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
●昔の人の言い伝え
今日のお話は、律法学者とファリサイ派の人々が、イエス様の弟子たちの中に洗わない手で食事をしているのを見つけたことから始まります。彼らはイエス様に、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と言って批判したのです。イエスが神から来た人であるなら、誰よりも自分の身を清く保つは、食事の前に手を洗いなさいとか、市場から帰った時は、身を清めなさい、という掟はありません。異邦人や罪人の偶像崇拝や不品行にならってはならない、という神の言葉があるだけです。
異邦人は偶像礼拝や不道徳な生活によって汚れた人々とされていました。ユダヤ人たちは、市場に行った時などに、異邦人や罪びとが触れたものに自分が触れるかもしれない、そうすると彼らの汚れが手に付き、その汚れた手で食べ物に触ると、汚れが食べ物を通して体に入り、自分を汚してしまうと考えたのです。それで食事の前に念入りに手を洗うことが考え出されたのです。しかし、それは聖書の教えではなく、人々が考え出した決まりごとだったのです。
イエス様は、当時のユダヤ人が、神様の言葉である聖書よりも、人間が考えた言い伝えの方を大事にしていることを指摘されました。ユダヤ人は、より厳格に神の掟を守ろうとして、聖書に人間の言い伝えや儀式を付け加えたのですが、それはかえって聖書の本当の教えから離れてしまうことになりました。
確かに旧約聖書はイスラエルの人々を異邦人と隔てるような掟をいくつも与えていました。汚れた食べ物を定めた「食物規定」もそうでした。しかしこのような規定は雑菌を多く持っているもの
を食べない、という衛生上の目的がありました。また様々な掟によってスラエルの人々を周囲の国から隔離するという目的もありました。次に、それは異国の偶像崇拝や汚れた生活から守るためでした。もしこうした掟がなかったら、イスラエルの人々は周囲の国の悪い習慣に影響されて、純粋な信仰を保つことはできなかったと思います。また新しい救い主はイスラエルから生まれ得ることになっていました。イスラエルの人々はそのために民族の純粋性を保つ必要があったのです。
しかしイスラエルの人々は、神の掟にさらに様々な掟や儀式を加えました。そのような先祖が考えた掟や儀式を守ることが正しい人になることだ、と考えたのです。しかしイエス様が指摘されたように、そこには罪というものは人間の外から来るものだという誤った考えがありました。
●罪は心の中から
このような考え方は日本にもありました。たとえば、ある人々は金剛杖をついて「六根清浄」と唱えながら高い山に登りました。山のきれいな空気を体に入れて世俗の生活で体に染み付いた汚れを清めようと考えたのです。また、みそぎをして罪や汚れを洗い清める、ということもしました。人間はもともと清いものであり、罪や汚れは外から入ってくる、という考え方があったのです。
イエス様はこう教えておられます。「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」(7:21‐23)。人は食べ物によって汚れることはない、汚れというのは外から人間に入ってくるものではなく、人間自身の内側から出てくるものなのだ、と教えられたのです。
このイエス様の言葉はその通りだと思いますが、実際に受け入れることが難しい言葉です。と言うのは、わたしたちは自分の本当の姿、ありのままの姿を見ることができないからです。それを認めてしまったら、そこにあるのは自分自身に対する絶望だけです。そこで人間は外側の見かけの行いや、儀式を滞りなく行うことによって自分を立派に見せることです。そしてもう一つは、自分より悪い人間を見つけて批判をすることによって、自分を正しく見せようとすることです。イエス様がおられた時代、こうしたことが律法学者やファリサイ派の人々によって行われていたのです。当時、イエスに出会った宗教家たちは、外側は正しいかのように装っていても、イエス様を妬み、悪意を持って落ち度を探しました。そしてこの時すでにイエス様を殺そうとしていたのです(マタイ十二:十四)。イエス様が語られたように、まさしく彼らの心は悪意や殺意という罪に支配されていたのです。人間の罪は人間の中から、その心から生まれます。心の中にあることを口は語り、手足が行います。ですから人間の行いを律することによって心を変えることはできません。
●罪を洗ってくださる神様
わたしたちが自分の罪を認めることができるのは、神の赦しを知る時です。詩篇百三十篇三節、四節にこのようにあります。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。」
この詩篇は、人は神の赦しがあるので、真実に神を恐れ敬うことができるのだ、と言っています。福音書を見ると、イエス様は人間の心の中にあることを見抜くことができる方であることがわかります。イエス様は神の目を持っておられました。普通に考えるなら、清いお方であるイエス様がこの世に来られ、罪びとたちの中に住むことはどれほど苦痛ではなかったか、と思います。しかしイエス様は弟子たちに対して、また人々に対して。「お前は今なぜそんな汚れた思いを持つのか」とは一言も言いませんでした。イエス様は罪びとを裁くためでなく、ご自分のもとに招くために来られたからです。イエス様が避難したのは、罪びとではなく、自分を正しい者と自認して、人を蔑む人、悪い心を外側の行いで隠し、自分を正しいと見せかける偽善者でした。
イエス様が正しい人を訪ねたのではなく、サマリアの女性やザアカイのように、自分の罪を知り、悩んでいた人々であったことを覚えたいと思います。イエス様は今も、自分の罪を知る人、ご自分を必要とする人々のところに来てくださいます。そしてこれまで学んできたように、まことの食べ物として信じる人の内に来てくださり、ご自分の血によって絶えずわたしたちの罪を赦してぅださいます。また神の霊、聖霊によってわたしたちを清めてくださるのです。わたしたちの心と体に深く染みついている罪は、わたしの努力ではなく、イエス様を通して注がれる神の霊によるのです。わたしたちの洗礼は、生涯キリストによって洗い清められてゆく生活の始まりです。
わたしが洗い清められるために大切なことは、神の赦しの中で自分罪を認めることです。今はテレビやスマホで、世界や日本で起きている問題や、犯罪のニュースを見て、「何という悪い人だろう」と思います。世の中の問題を批判することで世の中を変えてゆくことができますが、危険なのは、その時、その人たちと自分を比べて、わたしは正しい、という自己満足に陥ることです。人間は他人の悪について聞くことが好きなのです。それによって自分の罪が見えにくくなっているのが今の時代です。このような時代だからこそ、わたしたちは聖書の言葉に聞かなければならないと思います。そして神の言葉である聖書によってわたしたちの心の中を照らしていただきます。それは神様がわたしたちを責めるためではありません。わたしたちが神の愛と赦しの中にとどまり、キリストから注がれる聖霊によって心を洗っていただくためです。
これからも、神の愛と赦しの内に歩み、また神によって与えられる清めをいただく道を歩んでゆきたいと思います。
ヨハネによる福音書6章56-69節
霊降臨後第14主日の説教
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われたシモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
●弟子たちのつまずき
イエス様が荒野で五千人以上の人々を、五つのパンと二匹の魚で養った、というお話から始まって、今まで五回の礼拝で、「わたしがまことの食物であり、命のパンである」と言われたイエス様の言葉を聞いてきました。とても長い個所ですが、聖書の福音について大切なことがここで教えられていると思います
しかし、イエス様が「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(六:五六)と語った時、それを聞いた人たちは「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」(六:六一)と強く反発しました。
彼らが反発した最大の理由は、神様が動物や人間の血を飲むことを固く禁じておられたからです。創世記九章四節以下で、神は
「肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」と命じています。血は命であり、命は神様のものである、という考えがそこになります。
また、続いて「人の血を流す者は 人によって自分の血を流される 人は神にかたどって造られたからだ。」と続いて教えられていまます。神様は特に人間の血を流すことを固く禁じたのです。
ユダヤ人たちにしてみれば、イエス様の語ったことは、イエスという人の血を飲むということは二重の意味で神の掟を破ることになります。
しかしイエス様は、「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。」と言われました。
この一年後にイエス様は十字架で死なれ、復活して天に帰られます。ここでイエス様が語っておられることは、神の世界に戻られたイエス様について語られているのです。
確かに命は神のものであるから、人はそれを他の人から奪い取って自分のものにはできません。しかしその命の持ち主である神が、命をわたしたちに与えることはできるはずです。神はご自分のものである血とその中にある命を自由に与えることができます。しかもその命は人間の命ではなく、天におられる方の命なのです。
先週の箇所で、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と疑いました。人々はイエス様の地上の体のことを考えていたのです。地上のイエス様の体であればすぐに尽きてしまいます。しかし天に上ったイエスの命は五つのパンと二匹の魚が多くの人々を養ったように、神の霊を通して多くの人々に与えられるのです。
●肉ではなく、霊によって
イエス様は続く六十三節で、「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」と言いました。聖書で「霊と肉」という区別をするとき、それは人間の霊魂と体という区別のことではありません。ここでの「霊」とは「神からの働き」という事であり、「肉」というのは生まれつきの人間の働きのことです。わたしたちは生まれつきの力で努力して、良い成績を取ったり、スポーツで賞をもらうことはできるかも知れません。しかし神様がお求めになる生き方を実現することはできないのです。
神様はわたしたち人間を、神を愛して生きるように造られました。しかし罪を犯した人間は、心の底から神を心から愛することができなくなったのです。生まれつきの人間の行いから始めても神を愛することはできません。それで神様は旧約聖書の中で、「やがてわたしはあなたがたと新しい契約を結ぶ、」と約束されました。」それは神を愛する心をあなた方の心に与える」という契約で、エレミヤ書31章に記されています。
新約聖書、という言葉は、この新しい契約について記された本という意味です。
この新しい契約はイエス様が弟子たちと最後の晩餐の時に結ばれたのです。それはこのパンとぶどう酒を通して、わたしの体と血を受け取りなさい。という契約です。ここに罪の赦しとわたしの命がある。この糧を受ける時、あなたはわたしと一つとされ、神に愛された神の子の命を持つのだ、というのです。ここでは何かを「行いなさい」という命令はありません。ただ「食べなさい」という命令があるだけです。
十字架に死なれ、そして復活されたイエス様の体と血が聖霊によってこのパンとぶどう酒に宿り、またこのパンとぶどう酒を通してわたしの内に与えられるというのです。イエス様は聖霊によってマリアに宿りましたが、今イエス様は聖霊によって信じるすべての人にご自分を与えてださるのです。そして今、すべての人が、神に出会うために自分の働きや努力に頼るのではなく、神が与えてくださるこの命の糧によって生きるようにと招かれているのです。
●命の主にとどまる
今日の聖書の終りの方には、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」(六:六十六)と記されています。「キリストの教えはわたしの持っている願いや理想をかなえてくれるものではない」と言って多くの人がキリストのもとを去って行ったのです。
イエス様は十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われました。しかし、弟子のペトロはイエス様に向かって、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」と告白したのです。
わたしたちはキリストの問いにどうこたえるのでしょうか。もしこの世界にキリストが来られなかったら、世界の歴史はどうなっていたでしょうか。またもしわたしたちの人生の中にキリストが来て下さらなかったらどうなっていたことでしょう。朽ちるこの世のことだけに目を向け、生きる意味や、死を超えた希望を知ℛらないまま生きていたことと思います。自分や他人を社会的地位や財産という外側だけで判断し、自分や他の人の本当の価値を見失っていたことでしょう。
わたしたちもペトロと同じように、この世界を照らし、またわたしを照らして新しくしてくださるのはあなたです。あなたを離れてわたしはどこに行くことができましょうか、といつも告白してゆきたいと思います。「イエス様がいなければ、このわたしはどこに行けばよいのでしょう。」という思いを新たにしましょう。
キリストのもとに留まるという事は、キリストに従い、キリストに仕えることです。五十七節でイエス様が言われた「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」という言葉は、「わたしが父のために生きるように、わたしを食べる者もわたしのために生きる。」と読むことができます。キリストが弟子たちの手を通して大勢の人々にパンを分け与えたように、わたしたちも命の糧を与えるキリストの働きに仕えるのです。
岐阜の少年鑑別所の所長をしていたクリスチャンの方が、教会でお話をしてくださいました。そのお話の中で、「戦争後しばらくは、少年たちは飢えや貧しさのために罪を犯した。しかし今はそうではなく、心の飢えや渇きのために罪を犯している」と言っていました。
子どもたちの心は飢え渇いています。G7の国々の中で、十代の死因の一番が自殺だという国は日本だけです。子どもも青年も命のパン、永遠の命を与える糧に飢えています。
わたしたちのすべてを知りながら、なお命をかけてわたしを愛してくださった方がおられること、今も生きておられ、死を超えた命の希望を与えてくださる方がおられること、わたしたちの心を新しく造り変えてくださる方がいることを、天からのパンが与えられたことを、これからも一緒に伝えてゆきたいと思います。わたしたち自身を、イエス様の命と恵みを伝える器としてイエス様にささげましょう。
ヨハネによる福音書6章51―58節
聖霊降臨後第13主日の説教
わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
●命を与える神様
神様を信じるようになると、今まで気づかなかった神様のたくさんの恵みが見えてきます。神様がどれほどわたしたち人間を愛しておられるかがわかってきます。今日もここにきれいな花が生けられていますが、花は下の方に咲くものはみな上を向いて咲きます。ひまわりのように、人間の目と同じ高さに咲く花は横を向いて咲きます。そして桜のように人間よりも高い所に咲く花は下を向いて咲きます。神様は人間に見えるように花を咲かせてくださるのです。
また、わたしたちが毎日頂いている食べ物にも神様の愛が込められています。神様は最後に人間を創造した後にこう語っておられます。
「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」
「種を持つ草と種を持つ実」とありますが、「種を持つ草」とは穀物のことです。麦は香ばしいパンになります。そしてお米はやふっくらとしたご飯になりますが、脱穀の知識を持ち、火を使うことのできる人間だけがそれを食べることができます。また「種を持つ実」とは果物のことです。創世記二章で神様は、むしろ人間をエデンという農園に住まわせ、そこに「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ・・・」と書かれています。神様は人間に色とりどりで様々な味の果物を自由にとって食べるようにと与えてくださったのです。
神様は続いて、人間以外の動物には「青草を食べさせよう」と言っておられます。牛や羊は草だけを食べて生きて行います。しかし、もしわたしたちも三度の食事が草だけだったら、どれほど味気ないことでしょう。
このように神様はたくさんの喜びをわたしたちに与えてくださっています。神様がこのようにわたしたち人間を愛しておられるのは、わたしたちも神様を愛し、神様の御心に従って生きるためです。
しかし、最初の人間が誘惑に負けて、神様を愛することよりも、自分の欲望に従う道を選び、罪に自分を委ねてしまいました。それ以来わたしたちも同じ罪を持って生まれ、神様の恵みに包まれていながら、神様から離れて生きてきました。知恵や力を持っている人間が自分の思い通りに生きようとするなら、それはこの世界にとっては破壊的な影響を与えます。それで神様は人間に死を定められたのです。また人間のもとにある世界もすべて滅びの力の中に置かれてしまいました。神様はそうすることによって、この世界に永遠に続くものはないことを示されたのです。
●天からの生きたパン
しかし、神様はわたしたちを見捨てたのではありません。人間は神様と縁を切ったつもりでも、神様はなお食べ物を与え、ご自分の愛を示しておられます。そしてわたしたちにイエス・キリストを与えてくださいました。イエス様は今日の福音書の初めの五十一節で、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。」と人々に告げました。イエス様はこの世からではなく、神のもとから、永遠の世界からこの世に来られた方です。
ご存じのように、イエス様はユダヤのベツレヘムという町でお生まれになりました。紀元前八世紀に書かれたミカ書の五章一節に次のように預言されています。
「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」
イエス様は人間の赤ちゃんとしてこの世に生まれましたが、実は永遠の昔から生まれているのだ、というのです。
また「ベツレヘム」という地名は「パンの家」という意味です。イエス様は命のパンとしてパンの家に生まれ、また羊や牛がえさを食べる飼い葉桶の中に寝かされたのです。
イエス様はユダヤ人たちに、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」と告げました。これを聞いたユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、言って互いに激しく議論し始めた、と書かれています。イエス様の言葉が理解できなかったのです。イエス様はさらに、「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と語りました。ヨハネ福音書が記しているイエス様の言葉には、聞いたその時には分からないで、後でそのことが起きて初めて分かる、という言葉がいくつかあります。イエス様はやがて十字架にかけられ、パンのように裂かれ、血を流します。一つの罪もなかったイエス様が血を流されたのは、神の子の命によってわたしたちの罪を償ってくださるためでした。イエス様は、その血をあなた方のものにしなさい、と言われたのです。
また、わたしの身代わりとなって死んでくださったイエス様はこの世でただ一人正しい方として神によって復活させられました。イエス様はそのわたしの体をあなたのものとしなさい、と言われたのです。イエス様を食べる、ということはなたが神の前に永遠に生きるために、イエス様を信じて受け入れなさい、という事です。
●信じることと食べること
食べることと信じることは似ています。わたしたちが食べる物は、わたしたちの中で消化されて、わたしたちと一つになります。同じようにイエス様を信じるということは、今生きておられるイエス様をわたしの内に受け入れ、イエス様と一つにされる、ということです。五十六節でイエス様は、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」と言われました。この世の食べ物には永遠の命はありませんが、イエス様という食べ物には永遠の命があります。そしてわたしたちを神の前で赦された者、神に「よし」と認められたものとし、永遠に生かしてくれるのです。それは世のために与えられたものです。イエス様は昔のユダヤ人のためだけではなく、世界のた間に、わたしのための食べ物なのです。
しかし信じることは一人一人の意志に任されています。子どもには親がよいと思うものを与えますが、成人には強制できません。人の体に誰かが強制的に薬や食べ物を入れることはできないのです。でも神様はわたしたちに愛と救いをあらわしてくださり、わたしたちの応答を待っておられるのです。イエス様を愛する人、イエス様と共に生きることを願う人は、喜んでイエス様を受け入れます。
イエス様という命の糧は、それを信じるすべての人に与えられます。イエス様はご自分のもとに来る人を誰も追い出さない、と語っておられます。イエス様はどんなに罪深い人であっても、ご自分のもとに来て触れることをお赦しになりました。
また、食べることは行いの前に必要です。行いが命を生み出すのではなく、食べ物が命を与え、行いを生むのです。
これはよく誤解されることですが、イエス様が「あなたも行って同じようにしなさい」と教えているから、わたしたちもそうすべきだ、と取る人がいます。しかしイエス様は、ここで自分が律法を守ることができると思っている人々に対してそういっているのです。
イエス様は「あなたの敵を愛しなさい」とか「人の罪を赦しなさい」という、わたしたちにとって難しい掟を教えられました。それは神の子にふさわしいあり方を教えるためです。しかし、わたしたちを神の子としてくださるのはイエス様の命であり、わたしたちを神の子として成長させてるのもイエス様が与えてくださる命です。良い行いのためにはイエス様の命が必要なのです。
「わたしから離れてはあなた方は何もできない」とイエス様は語っておられます。ですからわたしたちはイエス様の掟について学ぶ時「イエス様、あなたの素晴らしい掟を感謝します。あなたの命によってわたしにその実を結ばせてください」と感謝してその言葉を受け取ることができるのです。み言葉を聞いた後に聖餐を受け取るのも、み言葉に生きるための命を受けるためです。
「わたしを食べる」、「血を飲む」というイエス様の言葉は、「繰り返し食べる」「繰り返し飲む」という言葉です。食事をするのに飽きた、という人はいません。それはいつも喜びの時です。礼拝もみ言葉や聖餐を通してイエス様という豊かな糧を繰り返しいただく喜びの時です。日曜日だけでなく、わたしたちが日に三度の食事をいただく時も、わたしたちを愛して喜びを与えてくださる神様が、イエス様という最も素晴らしい糧をくださったことを覚えて感謝したいと思います。
これからも私たちがまことの食べ物であるイエス様のもとに行き、喜びと力を受け続けることができるよう祈りましょう。
ヨハネによる福音書11章17―27節
2024年召天者記念礼拝説教
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言ったイエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
●先立ちし人々を覚えて
今日わたしたちは、この教会で神を信じ、天に召された方々を覚えて礼拝をしています。教会では先祖を拝むことはしませんが、先立って行かれた親や身内を、感謝をもって覚え、偲びます。その人々がわたしたちに与え、また残してくれた数々の大切なものを思い起こすのです。その人々がわたしたちを愛し、尽くしてくれたことを覚え、わたしたちもその愛に応えて、与えられている人生を大切に生きようと心を新たにします。特に、神を恐れ敬う人々が残してくれた言葉や生き方は、わたしたちを守り導いていてくれる貴重な遺産であると言えます。
また、わたしたちがこうして神に召された方々を覚えて礼拝をするのは、その方々が人生の先に望み見ていたものをわたしたちも覚えるためです。彼らは不確かな願いではなく、神が約束された確かな希望を抱いていました。それは死に勝つ命の希望です。
聖書はこの世界に死というものが始まった理由を記しています。神様はわたしたち人間を、神様を愛し、神様の愛に応えて生きるように造られたのです。しかし最初の人間が誘惑に負けて、神様を愛して従うことよりも、自分の欲望に従う道を選び、罪の中に自分を委ねてしまいました。それ以来わたしたちも同じ罪を持って生まれ、神様の恵みに包まれていながら、神様から離れているのです。神様に背いている人間は神から与えられた知恵や力を悪用します。それはちょうど乗り手を失った自動車のようなものです。神の意志ではなく、自分の欲望に従って突っ走るのです。それは他の人を傷つけ、また自分も破滅に向かうのです。わたしたちは生まれつきそのような罪の中にいました。それですべての人に死が定められたのです。また人間のもとにある万物も、この宇宙も滅びの力の中に置かれてしまいました。神様はそうすることによって、この世界に永遠に続くものはないことを示されたのです。
この世界には死を超えて生きることに挑戦した人々がいました。古代エジプトの王は死後も生活できるように巨大な墓を作り、自分の体をミイラにして保存しました。また秦の始皇帝は不老不死の薬を捜させるために家臣たちを他国に遣わしました。しかし彼らの財力や権力によっても永遠の命や、死を超えて続く体を得ることはできませんでした。
聖書には「永遠の命」とい言葉が多く出てきます。それは単に長く生きる、という事ではなく、神に祝福された命、という事です。神によしとされ、「お前はいつまでも生きてよい」と宣言されることです。
そしてそれは復活の命でもあります。
しかし、誰が永遠の命、復活の命を受けるのでしょうか。今まで人間の中には誰一人死に勝った人、復活した人はいません。聖書は、「すべての人は罪を犯したので、神の栄光を受けられなくなっている」と告げています。
●ただひとり死に勝った方
しかし、神様は自分の罪を背負いながら、本当の平安を求めているわたしたちを生かすために、旧約聖書を通して救いの約束を与えてくださいました。そして約束の通りご自分の大切な独り子を世に送ってくださいました。それはイエス・キリストです。イエス・キリストは永遠の存在である神の独り子であり、御自身の中にも神の命、永遠の命をもっておられます。この神の子が人として生まれたことを祝うのがクリスマスです。
イエス・キリストのこの世での主な働きを三つ上げることができます。その一つは、人間の悪と罪が渦巻く世界で、完全に正しい歩みをすることです。新約聖書にはキリストがなさった奇跡について多く書かれていますが、わたしは聖書が記しているキリストの最大の奇跡はその人格にあると思っています。キリストはご自分が持つ奇跡を起こす力を一度もご自分のために使わず、ただ人々を助けるためにだけ使いました。キリストはその力を、人を脅したり、傷つけたり殺したりすることはありませんでした。また、「あなたの敵を愛しなさい」と教えられたキリストは、ご自分を憎んで十字架につけ、その惨めな姿をあざけった人々のために、「父よ、彼をお赦しください」と執成したのです。わたしたちはこのような人物を考えて創作することは決してできないことです。
またキリストは当時低く見られていた子どもや女性を大切にしました。貧しい人、障害を負っている人、社会からはじき出されていた人々を分け隔てることなく受け入れたのです。当時の反対者たちでさえキリストに一つの落ち度も見つけることはできなかったのです。また現代の道徳基準に照らしても、キリストに罪を見つけることはできないのです。人間となられた神の子の姿は、当時の世界では普通の人の姿でした。地位も権力も持っていませんでした。しかしキリストは誰も持っていないものを持っていました。それは罪の力に負けない清さと正しさだったのです。
●わたしたちの贖いと義であるキリスト
しかし、キリストの地上でのもう一つの務めは、正しく生きたその命、神の子としての命をわたしたちの罪の償いとして捧げてくださることでした。それは人間が考えつかないことでした。イエス様がキリストは、「わたしは多くの人の贖いのためにこの世に来たたし」と語った時、弟子たちは誰もその言葉を理解できませんでした。しかしキリストは父なる神が旧約聖書で予告された通り、進んで十字架の道を歩んでくださったのです。「贖い」という言葉は「代価をもって買い取る」という事です。キリストはその罪のない命、神の子の命をわたしたちのために、正しい裁きを行う神の前にささげてくださったのです。
しかし、神の子であるキリストの命は無限の命であり、わたしたちの罪を完全に償ったのち、栄光の体に復活しました。これがキリストの地上での三つ目の働きです。そしてキリスト教はその復活の驚きから始まったのです。
今日の福音書の中で、キリストは兄弟ラザロを病気で失って悲しんでいた姉妹のマルタに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と言われました。
「キリストを信じる」とはどういうことなのでしょうか。
英語で「神を信じる」、「キリストを信じる」という言葉には「I BEREAVE IN GOD」というように、必ず「IN]という前置詞を付けます。これは聖書でも同じです。信じる相手が人間の場合は「IN]をつけせん。神を信じる、またキリストを信じるということは「神の内に身を置く」、また「キリストの内に入る」という事です。その罪のない命によってわたしたちの罪を償ってくださったキリスト、神によしとされて栄光の体に復活したキリスト、そのキリストに結ばれ、キリストに包まれて生きる、ということです。このキリストに結ばれる時、キリストの十字架の死はわたしのものとなり、罪を赦され、ます。またキリストの命もわたしのものとなるのです。また、わたしたちがキリストの内に生きることは、キリストの命によって、キリストに似る者とされることです。わたしたちは自分の力でキリストのようになることはできません。キリストに結ばれる時、キリストの命によって造り変えられるのです。
神様はわたしたちに「あなたはわたしが遣わしたわたしの子と結ばれて生きることを願うか」と問いかけられます。キリストを愛さない人は「はい」とは言わないでしょう。しかしキリストを愛する人々は、「わたしは信じます。キリストの愛の内に、キリストの命の内に生きてゆきます。」ということでしょう。
イエス・キリストはノアの箱舟のように、その中にいるわたしたちを死と裁きの洪水から守り、新しい世界に導いてくれるのです。
今日わたしたちが記念している方々も、キリストのもとに来て、キリストを信じ、キリストと一つにされる洗礼を受け、キリストにある命の希望を持ってこの世を去った方々です。今日わたしたちが覚えている人々は、何よりも大切なこの信仰という遺産を残してくれました。わたしたちはこの遺産を受け継ぎ、この方々と神の国で再会する日が来るまで、同じ希望の内にに歩んでゆきたいと思います。
ヨハネによる福音書6章1-21節
霊降臨後第10主日の説教
その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。 夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。 強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。 二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。 イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
●わたしたちを養う方
今日の福音書の日課は、イエス様が五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を養った奇跡を記しています。多くの人はこのような奇跡はあり得ないことだと思うことでしょう。しかしよく考えると、わたしたちは毎日神様の大きな奇跡の中で生きているのではないでしょうか。ある人が「イエス・キリストの奇跡は、わたしたちの日常にあるあまりにも大きすぎて見えない神の奇跡を、小さくしてわたしたちに見えるようにしているのだ」と言いました。今、水田には稲が育っていますが、小さな種が稲穂となって豊かな実を結びます。小さな一粒の種は無限に増えてゆきます。ですからわたしたちの食べ物は尽きることがないのです。人間にはそのようなものは作れません。それは神だけにできる偉大な業です。しかしそれはあまりにも大きくて、わたしたちには見慣れた当たり前のことになっています。しかし、わずかなパンと魚で多くの人を満腹させたイエス様の奇跡は、毎日見ているのに大きすぎて見えなくなっている奇跡に気付かせてくれます。
またイエス様は多くの人々の病気を癒されましたが、わたしたちも毎日病を癒されています。わたしたちの体には、いつも命を脅かす細菌やウイルスが侵入してきます。しかしわたしたちの体の中にはそれらと戦う免疫力がいつも働いています。薬というものはすでに備わっているその免疫力を働かせるものに過ぎないと言われています。イエス様の癒しの奇跡は、わたしたちが気づかないで毎日受けている神様の癒しの働きを、見えるように示しているものだということができます。
イエス様は五千人の人にパンと魚をお与えになったのは、この奇跡によって人々をご自分に引つけるためではありませんでした。イエス様が人々に語っておられるうちに長い時が過ぎてしまい、そのままでは空腹のまま長い距離を帰らせることになってしまうからでした。
先週、羊飼いとしてのイエス様を覚えましたが、ここでイエス様は羊飼いとして人々の神の言葉を語りました。そしてこれから家に帰る人々に必要な食べ物をお与えになったのです。十節を見ると、「そこには草がたくさん生えていた」と書かれています。イエス様はその草の上に人々を座らせ 、人々に食べ物をお与えになりました。詩篇23篇に「主はわたしを青草の原に休ませ」とあるように、良い羊飼いであるイエス様は命を与える神の言葉によって人々を命の道に導き、またその生活も支えてくださるのです。
●イエスと群衆
しかし、今日の聖書には、パンを食べた群衆が、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言ったことが記されています。四節に、「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。」とありますが、過越祭とは、昔イスラエルの人々がモーセに導かれてエジプトの奴隷の家から脱出したことを記念した祭りです。モーセはエジプト王の力を砕いて、イスラエルを解放しました。また、エジプトを脱出した人々が約束の国に向かって旅をしていた時、マナという食べ物が天から与えられ、人々を旅の間養ったのです。
イエス様の奇跡を見た人々は、この人こそ第二のモーセとして来られた方である、と思ったのです。一六節には、「人々が来て、イエス様を王にするために連れて行こうとして」いたと書かれています。人々は熱狂し、イエス様を政治的、軍事的メシアにかつぎあげようとしたのです。ローマに支配されていた当時の人々のことを考えると、それも無理からぬことであったとも思います。しかし、人々の間違いは、羊飼いであるイエス様に従ってゆくのではなく、イエス様を自分たちの願望に従わせようとしたことです。
先ほどの詩編二三篇の最後の六節に、「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う」と詠われています。この詩篇を記したダビデは、自分が「恵みと慈しみを追う」のではなく、羊飼いである主に従って生きる彼の後に、神から与えられる恵みと慈しみがついてくる、と言ったのです。イエス様は「何よりもまず神の国を求めなさい。」と教えました。神様はイエス様を通し、最も大切な神の国を与えくださいます。そしてそれを求めて生きる人の生活を支えてくださるのです。
●試練の中で
イエス様は、パンの奇跡を見て熱狂している群衆から離れて山に退かれました。それは群衆を弟子たちから引き離すためでした。そして弟子たちは自分たちだけで湖に漕ぎ出したのです。
ところが、強い風が吹きはじめ、弟子たちは五キロメートル以上も沖に出ていましたが、向かい風のために、目的地に着くことができませんでした。その荒れた湖の上をイエス様は歩いて弟子たちに近づいてこられたのです。
しかし、そのイエス様を見て弟子たちは喜んだのではなく、恐れたのです。そこにいるはずのない人がいたからです。イエス様の復活の時も、弟子たちはイエス様を幽霊だと思って恐れたのです。イエス様はその弟子たちに「わたしだ。恐れることはない。」(六:二〇)と語りかけました。このイエス様の言われた「わたしだ」という言葉は「わたしはある」という言葉で、英語では「アイ・アム」です。これはヤハウエという神の名のもとになっている言葉で、神様がご自分を指して使う言葉で、神様しか言えない言葉です。
わたしたち人間は、「わたしはある」とか「わたしは存在する」と言うことはできません。わたしたちは自分の意志や力で存在しているのではなく、「わたしはある」と言われる神様によって「存在させられている」からです。そして、今日の聖書が記していることは、その神ご自身が、風の中を、波を踏んで近づいてこられた、ということです。旧約聖書のヨブ記九章八節に、「神は自らの天を広げ、海の高波を踏み砕かれる」と記されています。また、「恐れるな」という言葉も神が語る言葉です。
このようにイエス様は弟子たちに対してご自分を神に等しい方として示されたのです。人々はイエス様にこの世の王としての権力を求めました。そして自分たちの思い通りにならないとイエス様から離れて行きました。それがこの後ヨハネ福音書に記されています。イエス様はここで弟子たちに、この世の王や英雄とは違う、イエス様の本当の姿を示されたのです。
偉大な力を持ちながら、イエス様が王にならす、権力も持たなかったのは、わたしたちが力によってではなく、キリストによって恵みの神に出会い、心から神を愛する者になるためでした。
弱い姿を取られたイエス様のように、キリストに仕える教会もこの世では弱い姿に見えます。そしてそれゆえに時代の逆風や迫害の嵐に遭遇することがあります。人に仕え、良いことをしているのに、思いがけない困難に出会うこともあります。
しかし、ただひとり波を踏まれ方、すべての力に勝たれた方は、どのような状況の中でもわたしたちに近づいて下さり、「わたしだ。恐れるな」と声をかけていて下さいます。この主をわたしたちの心の内に、また教会の内にお迎えする時、わたしたちはどのような試練にも決して沈むことなく、勝利を与えられるのです。
聖霊降臨後第9主日
マルコによる福音書6章30-34, 53-56節
さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
●善い羊飼い
今日の福音書の日課は、イエス様が五つのパンと二匹の魚で五千人を養われた、と言う出来事と、嵐の湖を、波の上を歩いて弟子たちのところに行かれた,という奇跡の出来事の初めの部分と最後の部分だけが取り上げられています。
イエス様は弟子たちを伝道の旅に遣わし、帰ってきた弟子たちを休ませるために、舟に乗って人里離れた所に行きました。でもそれを知った群衆は湖の岸伝いに歩いて先回りをし、イエス様を待っていたのです。群衆は必死の思いでイエス様のあとを追ったのです。
「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」
と書かれています。ここには羊飼いとしてのイエス様のお姿が示されています。
イスラエルでは、国を治める指導者や、神の言葉を教える宗教指導者が「羊飼い」に例えられました。人々を神様から託された羊として養い導いくことが求められたのです。しかし王たちや指導者たちは羊のことを心にかけないで、自分の利益だけを考えていました。それはイエス様の時代も同じでした。今日の旧約聖書の日課で神様はこう言われています。
イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった」
そして神様はこう言われます。
「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。」
神様は、「もう人間には任せておけない。わたし自らが羊飼いとして群れを導くのだ」、と言われたのです。イエス様は「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と言いました。失われた羊を探し出す羊飼いとしてイエス様は来られたのです。
イエス様は人々の有様を見て「深く憐み」とありますが、この「憐れむ」という言葉は「内臓」という言葉からできた言葉です。「はらわたが痛む程の強い共感をあらわす言葉です。お母さんが子どもの泣き声を聞いて胸が締め付けられるのと同じです。そしてこの「憐れむ」という言葉はイエス様だけに使われている言葉です。それは羊のことを心にかけていない雇人の羊飼いではなく、羊のことを心にかけている羊の所有者の姿です。先週見たように、当時の領主であったヘロデ王は、イエス様のことを、自分が殺したヨハネが復活したのだ、と思っていました。大勢の群衆が押し掛けたなら、イエス様はさらにヘロデににらまれます。しかし良い羊飼いであるイエス様はご自分の身の危険を顧みずに群衆を深く憐れ、彼らを迎えたのです。
●羊飼いの声を聞き、羊飼いの声を伝えよう
この個所は、別の福音書ではイエス様がここで多くの病人を癒されたと書かれています。しかしこのマルコ福音書では、イエス様が「いろいろと教えられた」、と記されています。今日覚えたいことは、この「教える」という事がイエス様の最も大切な働きであった、という事です。
羊にとって最も大切なことは、羊飼いと共にいることです。羊にとって自分の羊飼いの声を聞き分けること、羊飼いの声が聞こえるところにいること、これが最も大切なことです。
わたしたち人間にとってもそれは同じことです。わたしたち人間は、神が造られたものの中で言葉を与えられた唯一の存在です。そしてそれは何よりもまず、神の言葉を聞き、また神に応えるために与えられました。わたしたちが共同生活をするだけなら、蟻や蜂のように、本能さえあれば言葉はいりません。わたしたちは神の言葉を聞き、進んでそれに応えるように造られています。そしてその時に人は正しく生き、命を得るのです。
この世の多くの宗教は神の言葉を聞くことではなく、人間が大事だと考えているものから出発します。健康に暮らすこと、良い学校に入れること、幸せな結婚ができること、社会で成功するようにと、人間の考える幸せのために神を求めるのです。自分の願い事や必要を求めて願い、祈りますが、「神様。わたしを造られたあなたは、わたしがどのように生きることを求めておられるのですか」と祈る人はいません。本当の羊飼いであるキリストの声を知らないために、世間では賢い人のように見えても、罪に負けてしまい、苦しむ人がたくさんいます。罪を犯さなかった唯一の方であるイエス様は、わたしたちを命の道に導くことができる方です。そしてわたしたちの罪のために死んでくださったイエス様は神の国への門を開いてくださいました。イエス様の教えを聞かなければ、わたしたちは今も迷い続け、自分がどこから来てどこに行こうとしているかも分からずにいました。
また復活されたイエス様は今も生きておられ、ご自分に頼る人々を守ってくださいます。このまことの羊飼いであるイエス様の声を聞くことが何よりも大切なことであることを今日、覚えたいと思います。そしてこれからもイエス様の言葉を聞き、またイエス様の言葉を伝える働きをイエス様と一緒に続けてゆきたいと思います。
●神様の愛を生きるために
今日の福音書の後半には、イエス様と弟子たちが再び舟に乗って「ゲネサレト」というところに行かれたことが書かれています。ここではイエス様は宣教したことは書かれていません。なぜならイエス様は前の場所で休むことができなかった弟子たちを休ませるためにここに来たからです。しかし五十六節には
「村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」と書かれています。
こここではイエス様はご自分から病人に触れて癒されたのではなく、ご自分に触れようとする人々を受け入れたのです。ゲネサレトの人々はイエス様の言葉を聞こうとしたのではありません。しかしイエス様はその人々を拒むことなく癒されたのです。
イエス様がこの世に来られた目的は教えを伝えるためでした。しかしイエス様は人々の体も大事にされたのです。医療が発達していなかった昔は、病気になると直ちに死の危険に直面しました。また働くことができないと生活も困窮したのです。イエス様はそのような苦しみの中にある人々に、「まず神の言葉を聞きなさい。そうすれば癒やしてあげよう」とは言いませんでした。イエス様は見返りなしに癒しの働きを行い、ご自分の持っておられる力を惜しむことはしませんでした。
医療制度が整っている今本は、イエス様の時代とは違います。しかし、悩む人、悲しむ人、傷ついている人々はいます。慰めと励ましの言葉を必要としている人々がいます。イエス様がなさったように、わたしたちもそのような人々を受け入れたいと思います。そこには知恵も必要です。お金をあげれば良いというのではなく、本当にその人のためになることを考えなければなりません。
「伝道」という言葉は「道を伝える」と書きます。言葉によって神の愛を伝える宣教と共に、わたしの生活の中で出会う、助けや癒しを必要としている人を受け入れ、わたしにできる限り助けの手を差し伸べ、神の大きな愛を示すことが必要です。東海教区の福祉村の働きのように教会として皆で力を合わせてできることもありますが、また一人一人の生活の中で隣人を受け入れ、支えることも大切です。
それはいつも報われるものではありません。しかしイエス様が教えられたように、見返りを求めない愛こそ神の愛です。わたしたちはキリストに受け入れられ、キリストの憐れみを受けた者として、教会の中でも、この社会の中でも、出会う人を支え、癒す人として生きてゆきたいと思います。
マルコによる福音書6章14-29節
霊降臨後第7主日の説教
イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。
●ヨハネとヘロデ
今日の福音書には、ヘロデが洗礼者ヨハネを殺すという陰惨な事件が記されています。このヘロデは、幼子イエスを殺そうとしたヘロデ大王ではなく、その子供にあたるヘロデ・アンティパスという人です。彼は 兄弟たちとユダヤをそれぞれの領地に分けて治めていて、彼はガリラヤ地方の領主でした。
また、彼に殺された洗礼者ヨハネは、ィエス様より半年早く生まれた人で、神様から「救い主の先駆者」としてイスラエルの人々に遣わされたのです。彼は神の言葉を人々に告げる預言者でしたが、それまでのイスラエルの預言者と違うのは、「救い主がすぐに来る」ということを人々に知らせ、救い主を迎えるための洗礼を授けたことです。
ヨハネは預言者として、神の道から外れた民衆や支配者をいさめました。彼はヘロデの行いも非難しました。それはヘロデが、自分の兄弟フィリポの妻のヘロディアを誘惑して、自分の妻としたからです。旧約聖書は、自分の兄弟が生きている時に、その妻を娶ってはならない、と命じています(レビ記一八:一六)。ヘロデのしていることは神の掟に反することでした。民を治める者が、神の掟に違反することは、彼のもとにいる民全体に悪い影響を与えます。それで洗礼者ヨハネは、王を公然と非難したのです。しかし、ヘロデは、悔い改めるどころか、自分にとって不都合なことをいうヨハネを捕らえて、牢に入れてしまったのです。
しかし、その一方でヘロデはヨハネが正しい人であることを知っていたので、悩みながらも彼の教えを喜んで聞いていた、と今日の聖書には書かれています。
ところが、王の誕生祝いの時に、彼が奪ったヘロディアの連れ子であるサロメという娘が踊りを披露しました。それは、そこにいた高官や将軍たちに喜ばれました。気をよくしたヘロデは、サロメに「欲しいものを何でも与えよう。」と言いました。娘が母ヘロディアに相談すると、かねてからヨハネを憎んでいたヘロディアは、ヨハネの首を求めるように娘に告げました。聖書は、「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた」(六:二六,二七)と記しています。
ヘロデは初めからヨハネを殺すことなど考えていませんでした。しかし、自分の虚栄心のために、神の言葉を告げたヨハネを殺すという大罪を犯したのです。
●神の声を聞く時
今日の福音書の記事はわたしたちに何を教えているのでしょう。第一に、罪は、自分の目には小さく見えても、悔い改めかければ、それは雪だるまのように大きくなってゆく、ということです。ヘロデはまず、律法に違反する罪を犯しました。次にそれを指摘した預言者ヨハネを投獄しました。
ヘロデよりも一千年前にイスラエルの王であったダビデは、部下の妻を奪い取り、夫を戦いの最前戦に送って戦死させるという恐ろしい罪を犯しました。ナタンという預言者がそのことを責めた時、ダビデはすぐにその罪を認め、悔い改めたのです。そのように王が預言者の言葉を受け入れて罪を悔い改める、という事は旧約聖書を見てもまれなことです。ほとんどの場合、預言者によって自分の悪を指摘された王は、その預言者を捕らえたり殺したりしたのです。聖書は、「善のみ行って罪を犯さないような人間は/この地上にはいない。い」と語っています(コヘレト七章二十節)。大切なことは罪に気付いた時、またと気付かされた時、その罪を悔い改めることです。ヘロデは獄中のヨハネの教えを聞いて、悩んでいました。しかし悔改めることはできなかったのです。そしてついにヨハネの殺害を命じてしまったのです。
しかし彼はそれで安心したのではありません。イエス様のうわさを聞いた時、特にイエス様が目覚しい奇跡を行っていることを聞いた時、彼は「自分が殺したヨハネがイエスとなって復活したのだ」と思ったのです。「神に逆らう者に平和はない」(イザヤ四八:二二)とあるように、ヘロデには心の平安がありませんでした。
しかし彼にはまだ救いの道が閉ざされたわけではありません.神はダビデの罪を赦しました。またキリスト者を迫害しに、死に追いやっていたパウロも赦しました。イエス様はヨハネのように人々の罪を指摘しましたが、罪を指摘するだけでなく、罪を認めて悔いる人を赦赦し、受け入れてくださいました。イエス様は警察官として来られたのではなく、罪を癒す医者として来られたのです。どんなにひどい罪人であっても、イエス様は受け入れてくださり、新しく生きる力を与えてくださるのです。
しかしルカ福音書十三章の終りには、ヘロデがイエス様を殺そうとしていたことが書かれています。このように、罪の行き着く先は、自分の罪を指摘する者は、最終的には神の子を殺そうとする、抹殺しようとする罪にまで至ります。
●ヘロデのパン種
このヘロデのような恐ろしい罪は、今でもこの世の独裁者が行っています。でもそうした罪は一握りの独裁者にだけのものでしょうか。マルコ福音書八章一五節でイエス様は弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒めたことが書かれています。別の箇所では「ファリサイ派の人々のパン種とサドカイ派のパン種を警戒しなさい」という言葉になっています。ファリサイ派のパン種というのは、「自分は正しい」というプライドによってイエス様を拒む罪です。またヘロデのパン種またサドカイ派のパン種とは、自分の地位や利益、また罪の欲望のために、イエス様を遠ざけようとする罪です。これらの人間の罪のよってキリストは殺されました。
イエス様がそのように弟子たちに語ったということは、わたしたちにも語られている、という事です。パン種にはイースト菌が混ざっていて、それを練った粉に入れると、練った粉全体に広がります。人間の罪もパン種のように、わたしたちの心に植え付けられ、繁殖し、心を腐敗させ、自分だけでなく、他の人にも影響を与えます。そしてその罪の最終的な結果は、わたしたちの罪を赦してくださる唯一のお方であるキリストを遠ざけ、嫌い、消し去ろうとする罪にわたしたちを至らせます。
旧約聖書の中に、過ぎ越しの後の一週の間、家の中からパン種を取り除く「除酵祭」という祭りのことが記されています。その意味がイエス様によって教えられたのです。古いパン種を取り除くのは、イエス様がわたしを救って下さり、新しくしてくださったからです。わたしたちはすでに救いをいただいた者としてその救いを失うことがないように、悪いパン種を捜し、取り除くのです。なぜならそれを放置しておくと、それはヘロデの罪のように、膨らんでゆくからです。
わたしたちは今日のお話をわたしとは違う、酷い悪人の話しだと受け取ったはならないと思います。わたしたちの中にも取り除かなければならない、パン種があります。わたしたちがこのように神の前に出て、自分の思い、言葉、そして行いを省みるのは、大切な時、そして幸いな時です。わたしとイエスの間を引き離すパン種を取り除く時だからです。わたしたちが神様の前にそれを言い表す時、神様はわたしたちを赦し、キリストと共に生きる者としてくださるのです。
イエス様は、ご自分の先駆者であったヨハネが殺された時、御自分も同じ道をたどることを知っておられました。しかしエス様はご自分も殺されることを承知の上で来てくださいました。それはご自分の命によってわたしたちのすべての罪を赦してくださるためでした。このイエス様の御愛にとどまり続けたいと思います。イエス様はご自分のもとに来る人を決して追い返すことはしない、と約束されておられるのです。
マルコによる福音書5章21-41節
霊降臨後第5主日の説教
イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。1そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
●ヤイロの娘と長血の女
先週の日課には、イエス様が弟子たちと一緒に船に乗り、湖の向こう岸に行かれたことが書かれていました。今日の聖書には、向こう岸から戻ってきたイエス様のところに大勢の群集が集まって来たことが書かれています。その人々の中に、切実な思いでイエス様のところに来た人がいました。会堂長のヤイロという人で、彼の十二歳になる娘が死にかけていたのです。会堂長はユダヤ人の会堂を管理する人であり、人々から信頼され、尊敬される人がその働きを任されていました。しかし人々に尊敬されているヤイロでも、死にかけている娘を救うことはできませんでした。ヤイロに残された道は、どんな病も癒してくれるという評判のイエス・キリストのもとに行くことでした。
イエス様はヤイロの願いに応えてヤイロの家に向いました。イエス様を囲んでいた群衆もイエス様と一緒に行動しました。その群集の中に、十二年間も出血が止まらない、という病気にかかっていた女性がいました。これは女性の病気で、出血している女性は、律法では汚れた者とされて人前に出たり、他の人に接触したりすることは許されていませんでした。普通の社会生活ができかったのです。
こうした「汚れの規定」は、おそらく女性が出血している時や出産後など、体に負担がかかっていて、感染症にかかりやすい時に、女性の体を保護するための規定であったと思います。それを「汚れ」という強い言葉で規則にしていたのです。
しかし、出血が止まらなければ、体は弱ってゆくでしょうし、また汚れた者として、いつまでも社会生活をすることができません。この女性は、医者にかかって全財産を使い果たしても、病気は良くなるどころかかえって悪くなる一方でした。ずっと貧血の状態で、顔色も悪かったことでしょう。
この女性もイエス様に望みをかけました。イエス様の服にでも触れば、きっと癒されると思ったのです。でも、普通の人にさえ触れないのに、神聖な人に触ったなら、どんな厳しい罰を受けるか分りません。それで気づかれないように、群衆に紛れて、イエス様に近づき、後ろからこっそりイエス様の服に触れたのです。そのとき、この女性は、出血が止まって病気が癒されたことを知ったのです。
●病の癒しと罪の赦し
この女性が触れた時、イエス様は、ご自分の内から力が出て行ったことを知って、「わたしの服に触れたのはだれか」と言って周りを見回しました。弟子たちは、「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」と言いましたがイエス様は、ご自分に触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられました。女性は恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話しました。するとイエス様はこの女性に、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と優しく語られたのです。「「安心して行きなさい」という言葉は、「平和の内に行きなさい」という言葉です。
この女性は、自分の身に起きたことを人々の前でありのままに話すことによって、彼女がイエス様によって癒されたことが公にされ、この女性は自分の人生を取り戻すことができました。また、イエス様がご自分に触れたことをとがめていないことも知ったのです。もしイエス様の言葉を聞かなければ、「わたしはしてはならないことをしてしまった」という罪の意識を、生涯持ち続けることになったでしょう。
ここでわたしたちに示されていることは、わたしたちも罪という汚れを持ちながらも、信仰によってイエス様のところに行くことができ、イエス様に触れることができる、ということです。イエス様はそれによって汚されるどころか、ご自分が持っておられる清さと義によってわたしたちの罪を赦して下さり、神様との平和の内に生きる者としてくださるのです
イエス様は自分に触った人が誰かを知らなかったのでしょうか。イエス様はここで、女性が自分からイエス様に触れたことを打ち明けるのを待っておられたのです。それは、彼女が進んでキリストへの信仰を告白する時、キリストに覚えられ、イエス様の祝福の内に生きる者とされるからです。彼女が自分から名乗りでなければ病気はい止まれても、キリストとの関わりは一時的なものに過ぎなくなります。しかし彼女が名乗り出たことによって、キリストも彼女を永遠に御心に刻んでくださったのです。
ローマの信徒への手紙十章十節に、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」と記されているように、あたしたちが信仰を公けに表わす時、キリストもわたしたちを覚えてくださり、ゆるぎない関わりを持ってくださるのです。
●タリタ・クム
イエス様がまだ話していた時、ヤイロの家から使いが来て「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と言いました。イエス様がこの女性を見つけようとして手間取ってしまい、ヤイロの家に着くのが遅れたのかもしれません。しかしイエス様にとっては、人々から重んじられているヤイロだけでなく、名もしれない貧しい女性も大切な存在だったのです。そしてイエス様の到着が遅れたことで、イエス様は病気を癒すだけではなく死の力に勝つことができる方であることが明らかにされたのです。イエス様は少女のところに行き、「タリタ・クム」と言って少女の手を取って起こされました。「タリタ・クム」は「少女よ、起きなさい」という意味のアラム語です。すると少女は立ち上がって歩き出しました。
このようにイエス様が死から生き返らせたのはす限られた人々でした。また、たとえ生き返っても、それはまたいずれ死ぬベき命を回復したにすぎません。イエス様が死者を生き返らせたことはもっと大切なことを示す「しるし」です。それはイエス様が、わたしたちに永遠の命、復活の命を与えることができる方であることを示す「しるし」なのです。なぜなら、死者を生き返らせる力がなければ、永遠の命や復活の命を与えることはできないからです。
イエス様が語った「タリタ・クム」と言葉は「少女よ、起きなさい」という意味ですが、この「起き上がる」という言葉は復活」をあらわす言葉です。イエス様はここで、ご自分は復活の命を与えるお方であることを示されたのです。
人は、死は自然の現象で避けられないものだと考えます。そしてそれはあきらめるしかないことであると思っています。しかし、自分の愛する家族、時に幼い子どもが死によって失われようとしているとき、死はすべての人の定めである、と悟りすましていることはできません。そして死を前にしては親の愛も、力も無力です。命の創造者である神だけが人を生かすことができるのです。わたしたちは、ヤイロのように信仰によってイエス様を自分の人生に招き入れる人は、たとえ死んでも生きる命をいただくのです。
わたしたちは「イエス様。わたしの愛する人はもう死んでしまいました。もう手遅れです」という必要はありません。イエス様は「恐れてならない。ただ信じなさい」と語りかけるのです。イエス様の力は時間にも支配されないのです。
今日の福音書は、わたしたちが、罪びとを受け入れ、死の力から救うために来られた神の子を信仰によって受け入れることの大切さを教えています。わたしたちも今日、信仰によってこのイエス様に近づき、イエス様に触れ、赦しと4救いをいただきましょう。そしてイエス様を迎えたヤイロのように、命の主であるイエス様をわたしたちの人生の中にお迎えしたいと思います。
マルコによる福音書4章35-41節
霊降臨後第4主日の説教
その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
●嵐の中の教会
先週は、イエス様が大勢の人々に神の国についてお話をされた、という箇所を学びました。その時イエス様は舟の中から岸にいる人々に語っておられたのです。夕方になるとイエス様は弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われました。イエス様が行こうとしていたのはゲラサという異邦人の土地です。この先を読みますとそこには悪霊に取りつかれた人がいました。イエス様はそのようなところにも行って、神様の国を伝えようとされたのです。そこで弟子たちはイエス様と一緒に湖の向こう岸を目指して舟をこぎ出したのです。
ところが、突然の嵐が襲いかかりました。ガリラヤの湖は周りを山で囲まれていて、夕方になると、山から冷たい空気が湖に吹き降ろし、激しい嵐になることがあるそうです。この時イエス様と一緒にいた弟子たちの内、少なくとも四人の漁師がいました。しかし湖に慣れている漁師でさえも恐れるような嵐だったのです。
弟子たちは「向こう岸へ渡ろう」というイエス様の御声に従って湖に漕ぎ出した時にこのような恐ろしい嵐に出会ったのです。
旧約聖書の時代から、海の中には破壊的な働きをする生き物がいると考えられていて、同じように、この世にも神に逆らう力が働いていると考えたのです。そしてその上を進む舟は教会を表しています。教会はイエス様のみ言葉に従い、イエス様のお働きに仕えるためにこの世という海の上を進んでゆくのです。イエス様を信じる生活とは、自分の幸せのために自分のところにイエス様をとどめておくことではありません。わたしたちを救うために今も働いていられるイエス様のお働きに従う生活のことです。
先週は、神の国は、最初はからし種のように小さくても成長し、大きな木となり、大きな国となる、というイエス様の教えを聞きました。しかし神様の国、イエス様の国は決して何の問題もなく広がってゆくということではありません。イエス様に従い、イエス様と一緒に神様のみ言葉を伝える働きをする時、わたしたちはこの世の海の中で嵐に出会うことがあります。人がイエス様に従って行こうとするときに家族や親戚の風当たりが強くなることがあります。また時代によっては国家による迫害が起きます。忠実にイエス様に従っている人々はその時大きな恐れと困難さを経験します。そしてそのような困難の中では、教会は嵐の海の小舟のように小さく弱い存在に見えるのです。
●風と波を静める方
嵐に直面した弟子たちは、慌てふためいて「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言って、舟の中で眠っていたイエス様を起こしました。イエス様は起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われると、風はやみ、すっかり凪になった、と書かれています。
風や波はわたしたち人間が支配することができないものです。神様は天地を造られた時、大空と陸地と海にそれぞれ名前をつけられました。大空を天とよび、渇いたところを地と名付け、水の集まったところを海と名付けました。名前をつける、ということは、それを治め、支配するということです。その後アダムはすべての動物に名前をつけました。それは人間がすべての動物を支配する、ということです。また親が子供に名前をつけることも、親がその子を治めることを表しています。しかし空や海や大地は神様が名付けたのです。それは、それらは神様にしかコントロールできない、ということです。台風や津波、地震は空と海と陸地が起こするものですから、どんなに科学が発達しても台風を止めたり地震を予知したりするとはできないのです。
しかし、イエス様が風や波を従わせたということは、イエス様が神様と同じ力を持っておられた、ということを示しています。イエス・キリストはこの世のどんな力にも支配されず、かえってすべての力の上にある方だということなのです。
わたしたちはイエス・キリストを信じます」と信仰の告白をします。それはキリストが神である、と告白している、という事です。日本語ではわかりにくいのですが、聖書では、神に対する信仰という言葉には必ず英語の「イン」にあたる前置詞を付けます。それは「わたしは神であるあなたに信頼し、わたしのすべてをあなたに委ねます」という信仰です。わたしたちはイエス様がすべての力の上に立っておられる方、この世のすべての力や支配の上におられる方であることを固く信じなければならないのです。
イエス様は弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言われました。これは「なぜそんなに怖がるのか」という言葉です。「なぜそんなに、神への信頼を失うほどに恐れるのか」ということです。確かに恐ろしいことに出会って少しも恐れないでいることは難しいことでしょう。しかしイエス様への信仰を失うほどに恐れてはならないのです。
●世に勝つ信仰
ヨハネの第一の手紙5章5節にこのような言葉があります。 「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではないか。」
イエスを神の子と信じる信仰はなぜ大切なのでしょうか。それは真実な方であり、またこの世を治めるキリストに従う時、わたしたちはこの世の悪に負けないで、正しい道、命の道を歩む力を与えられるからです。
岐阜県の八百津町出身の外交官であった杉原千畝という方は、六千人のユダヤ人に命のビザを発給した人として知られています。彼が日本政府の命令に逆らってユダヤ人にビザを発給したのは、彼が日本の政府以上に権威のある方を敬っていたからです。彼はロシア正教の洗礼を受けたクリスチャンでした。後に杉原さんはこう語っています。「わたしに頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければわたしは神に背く」。
彼は日本の政府以上に高い所におられる方を敬っており、その方に従ったのです。そして正義の道を選んだのです。イエスを神の子と信じる人は、神からの力と勇気を与えられ、神に逆らおうとするこの世の力に勝つことができるのです。
「世に勝つ」という時それは、信仰者は災いにも苦しみにも会わないという事ではありません。思いがけない苦しみ、試練に出会っても、それに飲み込まれることのない力と平安をキリストから与えられる、ということです。
わたしを導いてくださった池田政一牧師は、先の戦争の時に特別高等警察、すなわち「特高」によって1943年4月6日未明に逮捕され、一年半を獄中で過ごしました。当時池田牧師はキリストの再臨を強調する教会に所属していて、天皇を最高の権威として国民を従わせようとしていた国家から治安維持法違反の罪で訴えられたのです。しかし,池田牧師は逮捕された時「自分でも驚くほど平静であった」と記しています。
これはキリストによってすべてに打ち勝つ平安を与えられた数えきれない例の一つです。今のわたしにそのような力も平安もないかもしれません。しかし、あらゆる力に勝つ力と平安を与えてくださる方を呼ぶことが出来ます。
パウロはフィリピ音信徒への手紙4章6節7節でこう語りかけています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」とキリストに叱られたような弱い弟子の叫びに応えて起き上がってくださったキリストは、ご自分に信頼し、従う人々の祈りに応えて、人知をはるかに越えた平安によって守ってくださるのです。
マルコによる福音書4章26-34節
霊降臨後第4主日の説教
また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
●成長させてくださるのは神
イエス様は、当時の人々が日常目にしていた農業や自然界を通して、神の国とはどのようなものかを教えました。イエス様はこう語っておられます。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ぶものである。」
イエス様はこの前の箇所で、種とはキリストの言葉であると教えています。(4:14)土が実を結ぶのはそこに種があるからで、種がなければ土は実を結ぶことが出来ません。「土はひとりでに実を結ぶ」という「ひとりでに」とは、「アウトマテ」というギリシャ語で、オートマチック、つまり自動的にという意味です。実を結ぶという働きはすべて種の働きです。種の中に命があるように、キリストの言葉にも命があり、それを受け入れる人に実を結ばせます。
わたしたちが結ぶ実とは神の愛と恵みを喜ぶ心から生まれる自発的な愛の行いです。その実とは善い生き方、善い行いの実です。そこでは人間の行いは役に立ちません。善い行いは善い心から生まれます。わたしたちは行いで心を変えることはできないのです。それはイエス様の言葉だけが実現できることです。
しかし、み言葉を聞いたらすぐにいい人に変わるのではありません。そこには決まったプロセスがあります。キリストの言葉を深く心に受け入れる時、先ずその言葉を理解するようになります。たとえば、イエス様は「あなたの敵を愛しなさい」と教えました。それはわたしたちの生まれつきの想いに反していますが、よく考えると、確かに自分に良くしてくれる人だけを愛するのは、本当の愛とは言えないということに気づきます。それに神様はわたしたちが神に対立していた時、神に敵であった時でさえ、食べ物を与え、太陽を照らし、雨を降らせてくださいました。そして今、愛する御子によってわたしたちを赦し、受け入れてくださいました。イエス様の教えはいつも神様の愛を土台として語られています。イエス様の言葉を聞いて本当にその通りだと悟ると、今度は「神様、どうかわたしを変えてください」と祈り求める心が生れます。そしてそのように求める心に聖霊が働いて善い実を結ばせてくださるのです。コロサイの信徒への手紙3章16節に「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」ろ教えられています。わたしたちにできることはみ言葉を受け入れ、み言葉が育つようにそれを心に深く受け入れることです。
やがて収穫の時が来ます。神を愛して実を結んでいる人々が、生きている人も世を去った人もすべて眠りから覚め、神のもとに収穫される時が来ます。その時まで、キリストの言葉を豊かに心に宿したいと思います。
●小さく見えても
イエス様は続いて「からし種のたとえ」を語りました。一人一人の中での神の国の成長ということから、この世界の中での神の国の成長について教えておられます。
からし種は、どの種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、三メートルから四メートルもの高さになるということです。ふつうは大きな種から大きなものができて、小さな種から小さなものができると考えてしまうのですが、ここでイエス様は一番小さいものが最も大きなものになる、という不思議さを語っておられます。
神様はいつも小さな始まりから大きなことを実現されます。神様はまずアブラハムを選びました。アブラハムはすでに年を取っていて子どもはいませんでした。しかし神様はこのアブラハムに、「あなたを大いなる国民とする」と約束されたのです。
神様はまた、イエス様を立てられました。イエス様は、当時の小国のユダヤ、その中でも田舎のガリラヤの出身で、高い身分でもなく、その働きもたったの三年半でした。しかもその最後は人間として最も惨めな十字架での死でした。
しかし、人間的には小さく見えても、イエス様は永遠の神の言葉の内に歩まれたのです。そしてイエス様の国は地上のどの国よりも大きくなりました。人間が力によって建てた国はどんなに栄えたとしても、やがて消えてゆきますが、神の御国は終わることがありません。なぜならそれは人間の力によってではなく、永遠の神の言葉によって建てられた国だからです。
アメリカのシカゴ大学の図書館にナポレオンの遺書が収められています。彼はこのように記しています。「わたしは、今セントヘレナの島につながれている。一体誰が、今日わたしのために戦って死んでくれるだろうか。誰が、わたしのことを思ってくれているだろうか。わたしのために、死力を尽くしてくれる者が今あるだろうか。・・・・これが、大ナポレオンと崇められたわたしの最後である。
イエス・キリストの永遠の支配と、大ナポレオンと呼ばれたわたしの間には、大きな深い隔たりがある。キリストは愛され、キリストは礼拝され、キリストへの信仰と献身は、全世界を包んでいる。 これを、死んでしまったキリストと呼ぶことが出来ようか。
イエス・キリストは、永遠の生ける神であることの証明である。
わたしナポレオンは、力の上に帝国を築こうとして失敗した。
イエス・キリストは、愛の上に彼の王国を打ち立てている。」
●神の言葉の確かさに生きる
神の国は世界に広がっています。でも人の目には相変わらず小さく弱く見えるのではないでしょうか。この世界の中では、神の国よりも、大国の力が多く見え、わたしたちの生活の中でもこの世の動きや目の前のことで、目が塞がれて神の国はちいさなものに過ぎなくなっているのではないでしょうか。
イザヤ書42章にこのように書かれています。「彼(キリスト)は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。」教会は一度に何万人も動員してキャンペーンを行ったり、宣伝をしたりすることはしまません。
ニケヤ信条では「唯一の教会を信じます」と告白します。ローマ・カトリックの時代は、地上の教会は一つの組織でなければならないと考えていました。また王であるキリストの権力を地上でも持たなければならないとしていました。それに対してルターは、教会が一つであることは見ることではなく、信じるべきことである、と言いました。教会は様々な教派に分かれていますから、それぞれの地域では小さな群れに見えます。しかしわたしたちは、自分の目先だけを見るだけではなく、目を広い世界に向ける事が大切です。
もう一つの大切なことは、目に見える大きさや偉大さではなく、そこに神の永遠の言葉あるかどうかを見ることです。神様の言葉だけが未来を見通し、すべてを実現させる力を持っているからです。語った事を必ず実現させる神の言葉に信頼し、信仰の目を通して神の確かな未来を見てゆくのです。っして滅びてゆく世界ではなく、いつまでも残る唯一のもの、神の御国を求めて行きたいと思います。
イエス様は、小さなからしの種を「蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」と教えました。空の鳥が巣をつくる、とは、神の国はこの世の人々にとって役立つものとなる、ということを教えています。教会は世界に広がっても、脅威を与えるものではなく、有益なものとなるということです。病院も福祉の働きも教会から生まれました。大きいことが良いのではなく、それが世界にとっても良いものであることが大切です。
わたしたちはやがて消える人間の力、またこの世の力でなく、すべてを実現させる神の言葉に信頼を置きたいと思います。やがて神の国が目に見えるようにあらわれる時、共に喜び合うことができるように、これからも兄弟姉妹たちと共に、永遠に残る神の国の内に生きてゆきたいと思います。
マルコによる福音書3章20-35節
霊降臨後第3主日の説教
イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
●悪霊の追放
福音書にはイエス様が悪霊を追い出だされた事がいくつも書かれています。イエス様は同じ力を弟子たちにも授けた事が二章に書かれています。
現代の日本では悪霊に取り憑かれた人を見ることは殆どありませんが、以前、タイにボランティアに行った大学生から、タイでは悪霊に取り憑かれた人がいることを聞きました。しかしタイは仏教国であり、仏教では「霊」の存在を考えていないので、悪霊を追いだすことができず、クリスチャンたちが悪霊を追いだす働きをしているとのことでした。それで少数派であってもキリスト教は尊敬されている、ということでした。
人が悪霊により憑かれると、その人を悪霊から解放することはとても困難です。ですからイエス様がたった一言で悪霊を追いだされた事は、イエス様が悪霊に打ち勝つ神の力を持っておられることを示すものでした。
しかし、そのようなイエス様の働きを見たイエス様の反対者たちは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ってけなしたのです。「ベルゼブル」とは「蠅の王」という意味だそうです。「あの男は悪霊の頭、すなわちサタンの力で悪霊を追いだしているのだ」、とけなしたのです。
これに対してイエス様は、「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」と答えました。
ここでイエス様が言われている「強い人」とはサタン、すなわち悪魔のことです。この世でサタンより強い者はいません。しかしもっと強い者が来てその人の家に押し入り、その強い人を縛り上げます。これはイエス様が悪魔の支配する世界に来られて、悪魔を無力にし、それまで悪魔が使っていた家財道具、すなわち悪魔に利用されていた人々を今度はイエス様がご自分のものにする、ということです。パウロはローテの信徒への手紙六章十三節から十四節にかけてこう勧めています。
「・・・五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。」
ここでの道具」という言葉は「武器」という言葉です。これからはあなた自身を神の武器として献げなさい」というのです。悪霊は有無を言わせず人間を支配しますが、聖霊はそうではありません。わたしたちが自分から神の道具としてささげることを教え、そのように願う者を導いてくださるのです。
●聖霊を冒涜する罪
イエス様は、ご自分を批判した人たちにこう言いました。「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
イエス様の家族のように、イエス様のことを心配して、その働きをやめさせようとしたり、イエス様のことが理解できないために批判したりすることは、赦されない罪ではありません。それは無知のためにしていることだからです。しかし、目の前で人が悪霊の支配から解放され、人間性を回復しているのを見て、「あれは悪霊の仕業だ」と言い張るのは、もはや無知や誤解ではなく、悪意によるものです。それはイザヤ五章二十節にあるように、「善を悪と言い、光を闇とする」ことであり、あえて不真実と偽りの道を選ぶことなのです。
わたしたちは今も人間を善い者に造りかえてくださるイエス様の働き、聖霊の働きを見ることができます。以前、「親分はイエス様」という映画を見たことがありますが、暴力団にいた人が改心して、素晴らしい人間になり、今度は喜んで神のために仕える人になる、ということが数多く起きています。そのようなことは、キリスト以外の力でできるでしょうか。
教会の歴史の影の部分を見てキリスト教を批判する人々もいます。キリストには罪がありませんが、キリストを信じる人間には罪があります。教会が犯してきたたくさんの過ちがあり、罪があります。しかしある神学者は、「確かに教会の歴史には負の部分も多くある。しかし、もしこの世界にキリスト教が存在しなかったら、この世界ははるかに悪くなっていたであろう」と語っています。キリスト教がなければこの世界に人権も民主主義もありませんでした。病院も福祉施設も教会の働きからはじまりました。
聖書のイエス様を見て、またこの世界に広がっているイエス様の働きを見て、素直に評価できる人、公正な目で見ることができる人、そしてイエス様に人間を超えた力を見て、イエス様のもとに来る人は幸いな人です。
●イエスの家族となる
今日の旧約聖書の日課、創世記三章には、悪魔の誘惑に負けた最初の人間に対して、神様が救い主を送る、という予告をされたことが書かれています。三章十五節で神は、「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」と告げました。これは「最初の福音」と呼ばれている言葉です。
この救い主は「女の子孫」として来られます。イエス様の父は神であり、人間の親は母親だけだからです。
そしてイエス様が悪霊に勝たれたことは、イエス様が悪魔に勝つことができる方であることを示しています。
パウロはキリストを第二のアダム、新しいアダムと呼んでいます。わたしたちは第一のアダムから命を受け継いでいますが、罪と死も受け継いでいます。しかし、キリストに結ばれてあふれる義と命を受けているのです。ですからキリストは「新しいアダム」と呼ばれます。
イエス様が来られたのは、罪を犯して神から離れてしまったわたしたちを悪魔の手から取り戻し、神に愛される子ども、神の家族としてくださるためでした。
今日の福音書の後半で、イエス様に、「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と告げた人に対して、イエス様は、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われました。「神の御心を行う人」とは、イエス様のもとに来て、イエス様の足元に座り、イエス様の言葉に耳を傾けている、そのことを指しているのです。
ヨハネ福音書六章で、ある人が「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と聞くと、イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」とお答えになったことが記されています(ヨハネ六:二八,二九)。どんなに自分は正しい人間だ」と思っても、悪魔に勝てる人はいません。そんなわたしたちに神様は大切な独り子を与えてくださったのです。イエス様に神の訪れを見て、イエス様のもとに行き、イエス様の言葉を喜んで聞くこと、それが神の御心を行うことであり、神の業なのです。そしてそのようにイエス様を受け入れる人は神の子とされ、神の家族とされるのです。
「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と言ったイエス様は、決してマリアや兄弟たちを愛さない、冷たい方ではありませんでした。イエス様が復活された後、イエス様の母も兄弟もイエス様を信じ、地上の一時の関係ではなく、永遠の神の家族とされたのです。キリストはそのために家族を離れて、神の働きに身を献げられたのです。
それはわたしたちにとっても同じです。わたしたちはイエス様を信じていない自分の家族と別の道を歩んでいるように見えるかも知れません。しかしわたしたちが主の愛のもとにいる事は、わたしたちの愛する人々もわたしたちと共に主の愛の中にいるという事なのです。わたしたちをこよなく愛しておられるイエス様は、わたしたちの愛する人々も必ずみ心にとめてくださるからです。このイエス様の愛に信頼を置き、イエス様のお働きに仕えてゆきたいと思います。
ヨハネによる福音書3章1-17節
三位一体主日の説教
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいないそして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
●イエスとニコデモ
今日の福音書にはニコデモという人のことが書かれています。この人はユダヤ人たちの議員でした。ユダヤ人の議員は全国で七十人だけですから、たいへんなエリートです。また、ニコデモは神様の掟を厳しく守るファリサイ派というグループの人でした。
このニコデモが、夜イエス様を訪ねました。なぜわざわざ夜訪ねたと書かれているのでしょうか。イエス様はその時ユダヤ人の指導者たちから悪く思われていました。このヨハネ福音書の二章には、イエス様が神殿から鳩や羊を売る人たちを追い出したことが書かれています。ユダヤ人たちは自分たちを批判するイエス様を憎んでいたのです。しかしその人々の中で、ニコデモはイエス様を尊敬していました。そしてイエス様にお会いして教えを受けたいと思っていました。しかしイエス様のところに行ったことが分かると他の議員たちに「お前はイエスの味方か」と言って攻撃されてしまいます。それでニコデモは人目につかないように、夜イエス様を訪ねたのです。ニコデモは、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。」と挨拶しました。「「ラビ」とは先生、という意味です。
このニコデモの挨拶をよそに、イエス様は、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」とお答えになったのです。なぜイエス様はいきなりそんなことを言われたのでしょうか。イエス様は、ニコデモが何を求めてご自分のところに来たのかが分かっておられたのです。ニコデモはイエス様に「どうしたら神の国に入ることができるのでしょうか」ということを聞きに来たのです。神の国を見ること、神の国に入ること、それはユダヤ人にとって最も大事なことでした。ニコデモは真剣にそのことを考えていた人でした。そしてそのために神様の掟を熱心に守り、行っていたのです。周りから見れば、彼こそ最も神の国に近い人であるように見えたことでしょ。しかしそれでもkレには自分が神の国に行ける」という確信を持つことができなかったのです。
●新しく生まれる
しかし、イエス様はニコデモに、こういうことを実行すれば神の国に入れる、とは教えませんでした。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」、と言われたのです。この「新たに」という言葉には「上から」という意味もあります。人は上から、つまり神様によって新しく生まれなければ神の国に入ることはできないならない、とイエス様はニコデモに語ったのです。
イエス様は「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」と言いました。聖書の「肉」という言葉は、「生まれつきの人間」という意味です。生まれつきの人間は、どんなに努力してもよい行いを励んでも、神様に喜ばれる人にはなれません。人間は良い人間となろうと努力しても、その結果、他の人よりも自分が立派だと誇る気持ちがでてきます。また、生まれつきの人間は神への愛ではなく、主人の顔色をうかがう奴隷にように恐れを持っているので、心から神を愛することができないのです。イエス様は、そのような人間の生まれつきの力ではなく、上から、神から与えられる霊によって新しく生まれ、神の国に入ることができるのだ、と教えられたのです。
「霊によって生まれる」ということが理解できないニコデモにこう言いました
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
聖書では霊と風は同じ言葉です。風は目に見えませんが。風が吹く音や、風にそよぐ木立の様子を見れば風が吹いていることわかります。同じように、神の霊も目に見えませんし、人間の頭でそのすべてを理解することはできませんが、霊が働いた結果を見ることはできます。
パウロは、ローマの信徒への手紙八章で「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」と言っています。
「アッバ」というのは「お父ちゃん」とか、「パパ」と子供が父親を親しく呼ぶ言葉です。これはイエス様だけが神様に対して呼びかけた言葉です。神の霊を受けると、わたしたちは神の子として新しく生まれ、イエス様と同じように神を「愛するお父さん」と呼ぶことは、聖霊の働きの結果なのです。
人が神の霊によって新しくされることは、すでに旧約聖書で神様が約束しておられたことでした。エゼキエル書十一章十九節には
「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。」と書かれています。
●神の霊を受ける人
では、神の霊をどのようにして受けるのでしょうか。イエス様はニコデモに、「風は思いのままに吹く」と言っています。これは、風が気まぐれに吹く、というように聞こえますが、風、すなわち霊は自分の意志に従って吹く」という意味です。昔の文語訳聖書では、「風は己(おの)が好む所に吹く」と訳されています。風は決して気まぐれに吹くのではなく、一定の法則に従って吹いています。風は気圧の高い所から低いところに吹きます。神の霊もまた高い所から低いところに吹くのです。すなわち、神の前にヘリくだった人に向かうのです。神は低きに降る神である、と旧約聖書に記されています。そしてわたしたちが心を低くされるのは、イエス・キリストの十字架を見上げる時です。
今日の福音書の日課には、「聖書の中の聖書」と呼ばれる言葉が記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という言葉です。ここで「神がその独り子をお与えになった」とある言葉は「引き渡された」という言葉です。神様は大切な独り子の命をわたしたちの罪を赦すために、罪びとであるかのように十字架の死に引き渡されたのです。
また、「世を愛された」とある「世」とは、神に逆らっている悪い世界のことです。そしてわたしもその「世」の中のひとりなのです。神の前で自分の正しさし、神を遠ざけ、神を愛することができないのがわたしたちです。しかし神はそのようなわたしたちのために、独り子を与えてくださったのです。わたしたちがこのキリスト、十字架につけられたキリストを仰ぎ、このキリストがわたしのために与えられたのだと信じる人に神の霊が注がれ、神を愛する心、神様をお父さんと呼ぶ霊が与えられるのです。
夜キリストを訪ねたニコデモは、その後どうなったのでしょうか。彼はその後もキリストの弟子であることを告白っすることはできませんでした。彼はユダヤの議員として、キリストを死に定めるという決議にも同席しなければなりませんでした。そして恐らくキリストの死も見届けたことでしょう。しかし自分の弱さを思い知らされたニコデモが見たのは自分を十字架につけた人々を呪うイエス様の姿ではなく、人間のすべての憎しみと敵意を受け止めているキリストの愛の姿でした。それは神だけが持つ愛でした。わたしたちはそのような赦しがなければ決して自分の罪や弱さを認めることができないのです。
ニコデモはイエス様が死なれた後、すぐにたくさんの香料をもってイエス様の葬りに加わりました。それは、「わたしはイエスの弟子である」という告白でした。彼は聖霊によってキリストへの信仰を表わす勇気を与えられたのです。
わたしたちも今、聖霊によって、神を愛する父と呼ぶ者にされています。そのことを何よりも感謝したいと思います。そしてこれからもキリストを見上げ、聖霊が与えてくださる愛と力と熱意を祈り求めて、大切なキリストの働きに仕えてゆきたいと思います。
使徒言行録2章1—21節
聖霊降臨祭の説教
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。
すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。
血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、
月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。
●神の霊が降る
この世界にはなぜ多くの言葉があるのでしょうか。旧約聖書に「バベルの塔」の話が記されています。昔、シヌアルというところに住んでいた人々は石と漆喰のかわりに、焼きれんがとアスファルトを建築資材として使うようになりました。技術革新によって、より高い建物を造ることが可能になったのです。この時言葉は一つでした。人々は、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言いました。彼らのしたことは力を合わせて大きな都市国家を造ろうとしたのです。それは人々に、地の上に広がるようにと命じた神の意志に反抗することでした。シヌアルの人々のしようとしたことは自然環境にとっても脅威となります。もともと緑の豊かなこの地方は、れんがを焼くために森を伐採したため、雨が降らなくなり、砂漠になってしまったのです。
神様はシヌアルの人々の言語を乱し、多くの人が一つところに集まらないようにされました。それで今、多くの言語がある理由だというのです。
今日は、聖霊すなわち神様の霊がイエス様を信じる人々に降(くだ)った記念の日曜日です。バベルの塔に対して、聖霊降臨の出来事は「バベルからの回復」と考えることができます。
第一に、それは人間が神に近づくのではなく、神が降って来られたからです。聖霊が降った時、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とありますが、この「とどまる」という言葉には「座る」とか「住む」という意味があります。聖霊が一人一人の上に降ったということは、人が神様と結ばれた、ということです。これはわたしたち人間にとって最も恵まれたことではないでしょうか。
人間はバベルの人々のように、昔から自分の努力や知識によって神に近づこうとました。しかしどんなにわたしたちが自分の知恵や力や正しさを誇っても決して神に近づくことはできません。それどころかわたしたちはエデンの園のアダムとエバのように、神が近づいてきたなら、恐れて逃げ出すことしかできない者なのです。
●人と人とが結ばれる
聖霊はどのような人々に宿ってくださったのでしょうか。聖霊が降った時、弟子たちは「一つになって集まって」いたと書かれています。これはバベルの人々が心を一つにしたのとは違っています。キリストが十字架で死なれる前、弟子たちの心は決して一つではありませんでした。弟子たちは最後の晩餐の席でも、誰が一番偉いのかということで争っていました。彼らの心の中には、自分の働きや地位を主張し、それらがあるからえらいのだと考えていたのです。でもイエス様が逮捕されたとき、彼らの忠実さも、熱心さも打ち砕かれてしまいました。誰一人イエス様に従うことができなかったのです。
しかし、そのように自分の弱さを思い知った弟子たちに復活したイエスが変わらない愛をもって出会ってくださったのです。弟子たちはそのとき初めて、じぶんたちがイエス様を支えていたのではなく、イエス様が弱い自分たちを赦し、愛し、支えていてくださったことを知ったのです。このキリストの愛の中で弟子たちの心は本当に一つにされていたのです。そしてその弟子たちの上に聖霊が降ったのです。その聖霊によって、弟子たちは心だけでなく、一つの神の霊を受けて、本当に一つにされたのです。
イザヤ書57章15節で、「(神様は)打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる。」と書かれています。
今も、キリストの愛を受け取る人は誰でも神の霊を受け、神に結ばれます。そして一つの聖霊を共に受けた 人々もお互いに一つにされるのです。そしてここに本当の一致と平和の土台があります。
教会には、育った環境が違う様々な人が集まっていますが、キリストの愛を喜ぶ心は一つです。世界の教会は組織を統一しようとはしません。歴史や伝統の違いを持ちながら、聖霊に結ばれて一つの教会とされています。
また教会には外国の方がお見えになることがありまです。言葉の違いによってコミュ二ケーションが十分に取れなくても、お互いの心がキリストによって結ばれ、同じ霊に生かされていることを感じます。これもバベルからの回復」ということができます。
●新しい言葉を語る
それではわたしたちの内に聖霊がおられることをどのようにして知ることができるのでしょうか。今日の日課の最後にあるように、「イエスはわたしの主です」と言い表す人は、誰でも聖霊を受けているのです。なぜなら「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(コリント12:3)と書かれているからです。イエス様を主と告白している人は聖霊を受けているのです。聖霊の神様はわたしたちに働きかけて下さり、キリストへの信仰に導いてくださるのです。
しかし、聖霊のお働きはそこで終わるのではありません。聖霊が注がれる目的は、先週学んだように、わたしたちをキリストの証人とするためです。
聖霊が最初に降ったとき、激しい風が吹くような音が聞こえました。「風」は「霊」と同じ言葉です。神の霊は幽霊のようなものではなく、世界を創造した方であり、突風のように力をもっています。聖霊を受けた弟子たちは、迫害にも負けない勇気を与えられてキリストの救いを述べ伝えました。
また、聖霊は「炎のような舌」のかたちをとって降りました。「舌」は「語る」ことに関係しています。聖霊は弟子たちに異国の言葉を語る能力を与えました。五旬祭の時、外国で生まれ育ったユダヤ人たちがエルサレムに来ていました。弟子たちが自分たちの国の言葉で語るのを聞いて驚いた彼らは言いました。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」(二:八)。
弟子たちにそのような目覚しい能力が与えられたのは、イエス様が、ご自分の福音は使徒たちの時代に世界に広がる、と告げておられたからです(使徒1:8)。何年もかけて外国語を学ぶ余裕はなかったのです。初代教会の爆発的な広がりは、聖霊の働きなしには考えられません。
現代のわたしたちにはこのようなことは起きていません。しかし聖霊を受けた人はあらゆる国の人々に届く言葉を語るのです。「生まれ故郷の言葉」とは、わたしたちの共通のルーツである神の言葉であり、すべての国の人々の心に響く言葉であるとも言えます。
わたしたちは今日、新たに聖霊を受けるためにこうして集まっています。聖霊はわたしたちに様々な力を与えてくれますが、今日はその中でも、「新しい言葉を語る」ということを覚えたいと思うのです。聖霊によってわたしたちに力が与えられ、愛に燃える心が与えられ、誰に対してもふさわしく語る知恵を与えられることを祈り求めたいと思います。イザヤ書50章4節に、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え 疲れた人を励ますように 言葉を呼び覚ましてくださる」とあるように、日常の何気ない会話の中でも、キリストの愛に生かされている者として語りたいと思います。天の方向がわからずにさまよっている人々に、天の父の愛が伝わるような言葉を語る者にさせていただきたいと思います。
ルカによる福音書24章44-53節
主の昇天主日の説教
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
●わたしたちの本国は天にある
今日はイエス様の昇天を覚える日です。イエス様は復活してから四十日目に天に昇りました。イエス様の昇天は、わたしたちにとってどのような意義があるのでしょうか。
イエス様の昇天は、たしたちに新しい人生の目標を与えてくれます。イエス様の復活と昇天は、イエス様ご自身のためだけに起きたことではありません。イエス様は永遠の命を持っておられる方であり、世の初めから父なる神と共に栄光の内におられた方ですから、イエス様ご自身のためには復活も昇天も必要ありませんでした。イエス様が死から復活,天に昇られたことは、イエス様に結ばれているわたしたちも、イエス様と共に復活し、イエス様と共に天に上げられるということを示しているのです。
使徒パウロはエフェソの信徒への手紙二章四節以下でこう語っています。
「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、・・・キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」
ここでパウロは、神様がキリストと共にわたしたちを復活させ、キリストと共に天の王座に着かせてくださった、と教えています。そして「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」と語っています。イエス様を信じる人は誰でも、イエス様に結ばれ、天の国に行き、イエス様と共に天の座に座るという最高のゴールを、将来ではなく今与えられているのです。
使徒パウロはコロサイの信徒への手紙三章三節以下でこう言っています。
「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」
わたしたちの新しい体と命とは、すでに天に備えられているというのです。
イエス様によって与えられるこの栄光を知らないなら、わたしたちの人生は死に向かうだけの虚無的なものになってしまいます。最も良い時は過去の若い日々にあり、歳を重ねると、失われてゆくものしかありません。しかしイエス・キリストの昇天は、わたしたちに永遠の希望を与えてくれるのです。キリストにある人々の人生は、すでに天に備えられている栄光に近づいて行く、大切な、価値ある一日、一日となるのです。
●神のご計画を教えるイエス様
イエス様の昇天の最大の目的は、天から聖霊を送るためでした。イエス様が天に昇られたことは、弟子たちから遠く離れてしまったように見えますが、本当はイエス様は聖霊を通して、わたしたちがいつ、どこにいようとも、近くにいてくださる方となられたのです。
しかし、イエス様が聖霊を送ってくださるのは、わたしたちのためだけではなく、世界に関わる神様のお働きにわたしたちが仕えるためでした。天に帰る前に、イエス様は弟子たちにその大切な使命を弟子たちにお与えになったのです。そしてその使命を果たす力を与える聖霊を送るために天に昇られたのです。
復活したイエス様は弟子たちに、(旧約)聖書に記されている神のご計画について教えました。その計画とは
、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」というものです。イエス様は聖書の中心的な内容を、このように簡潔に教えてくださったのです。そしてイエス様が話された前の半分、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」ということはすでに実現しました。わたしたちのための救いの働きが完成したのです。次は「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」という聖書の言葉が。弟子たちの働きを通して実現する、とイエス様は教えたのです。このように、聖書全体はキリストによる救いの実現と、その救いが全世界に伝えられることを予告しているのです。
それでは、キリストの救いが全世界に伝えられることは旧約聖書のどこにあるのでしょうか。今日は一箇所だけ引用しますが、詩編 二十二篇二十八節と三十節にはこのようにあります。
「地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。・・・わたしの魂は必ず命を得 子孫は神に仕え 主のことを来るべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう。」
ここでイエス・キリストはダビデの口を通して、ご自分が受ける苦難と勝利を語っておられるのです。キリストは復活し、その子孫、すなわち彼の命を受けた人々は、主が成し遂げてくださった救いを来るべき世に語り伝える、と言っているのです。また、「み許に立ち帰り」という言葉は「悔い改める」という意味です。キリストによる赦しが実現したので、人々は自分の罪を認め、喜んで神に帰ることができるのです。
●キリストの証人となる
ィエス様の死と復活による救いが実現したように、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と言われたことも必ず実現するのです。 まだわずかな弟子たちしかいなかった時に、キリストが、「わたしの福音は世界に宣べ伝えられる」と言われたことは、驚くべきことです。また、この福音書が書かれた時代を見ても、教会は厳しい迫害の中に置かれていました。しかし今日、イエス様が告げられたように、キリストの福音は世界に伝えられています。
イエス様は弟子たちに「あなたがたはこれらのことの証人となる」(二四:四八)と告げました。キリストの弟子たちは迫害に耐えてキリストを伝えましたが、それは彼らの力ではなく、キリストが父のもとから送ってくださった聖霊の力によるものでした。
「あなたがたはこれらのことの証人となる」というキリストの言葉は、当時の弟子たちにだけでなく、教会全体に語られた言葉であり、わたしたちにも語られている言葉でもあります。イエス様を信じている皆さんが今ここにおられるということが、イエス様を証ししているのです。
わたしたちは、教会の働きを通して神の言葉を伝えています。しかし皆が神の言葉を語るのではありません。またそれぞれの生活の場でも、他人に宗教の押し売りをすることはできません。でもわたしたちが聖霊によって愛や喜びや平和をいただき、それを通してキリストを示すことはできます。
しばしば、「教会は神の国の大使館であり、クリスチャンは神の国の大使である」と言われます。最近では自治体やその働きをアピールする人を大使と言う意味の「アンバサダー」と呼んでいます。その役割の一つは、自分の国を紹介し、理解してもらうことです。大使は本国から派遣されて外国に住んでいます。わたしたちも、本国はすでに天にありますが、今は神の国を代表する大使としてこの世界に派遣され、この世界で生活しているのです。わたしが神の国の大使として遣わされていることを心に留めて、「どうかわたしたちがその務めをたすことができるように、あなたの霊を与えて下さい」と祈りながら、キリストの証人として歩んでゆきたいと思います。
ヨハネによる福音書15章1-8節
復活節第5主日
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 15:07あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
●わたしはまことのぶどうの木
イエス様は、「わたしはまことのぶどうの木」と言われました。この「まこと」とは「真理」という言葉で、聖書では「影」に対する「本体」という意味を持っています。イエス様は同じヨハネ福音書一章九節では「まことの光」と呼ばれています。わたしたちが毎朝朝の光を浴びる時、世の光であるイエス様を思います。
また、ヨハネ六章では、イエス様はご自分のことをまことの食物」と言っておられます。日々の食事をいただくとき、わたしたちは永遠の命を与えるまことの食物であるイエス様を憶えるのです。
同じように、地上にあるぶどうの木もイエス様のことを指し示しています。わたしが生まれた山梨県では、ぶどう畑を身近に見ることができました。日本では生食用のぶどうはぶどう棚で育てますが、そのぶどう棚を見ると、一本のぶどうの木が、驚くほど遠くまで枝を広げ、たくさんの実がなっているのを見ることができます。イエス様につながる教会は今、全世界に広がっています。しかしどんなに広く広がっていても、イエス様を信じる人々は、一本の木であるイエス様につながっている一つの教会、一つの群れなのです。
イエス様は今日の福音書の中で「実を結ぶ」ことについて語っておられます。ぶどうの木が植えられるのは実を得るためです。このぶどうの「実」とは何のことでしょうか。それはガラテヤ人の信徒への手紙五章にあるとおり、神の霊によって生まれる愛、喜び、平和という実です。パウロは別のところで、「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛である。この中で最も偉大なものは愛である」、と言っています。人間は神の恵みを喜び、神を愛するように造られました。そして、神の子どもとして、「神は愛である」と言われている、その神に似た者となることを求められています。それが「実を結ぶ」という事です。
ぶどうの木や枝はねじまがっていますので、それで家を建てることはできませんし、つまようじ一本さえ作れません。ぶどうの枝や葉そのものには価値はなく、ただ実を結ぶことに価値があるのです。
多くの人は、この世界でできるだけ豊かな生活をし、またある人はこの世に名を残すような大きな働きをすること人生の目的にしています。それらは決して不必要なことではありません。しかし、たとえこの世で偉大に見えることをした人でも、神の子らしく生きる、という実を結ばなければ、その人の業績は何も残らないのです。イエス様は「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」と語っておられます。世の終りには、わたしたちのすべての仕事は火によって試される、と聖書は語っています。(1コリント3:10-15)わたしたちは、いつまでも残るものを人生の目的として定めなければなりません。
●わたしにつながっていなさい
それでは、神様に喜ばれる実を結ぶためにわたしたちは何をしたらよいでしょうか。実を結ぶための力や出発点はどこにあるのでしょうか。それは、良い人間になろうと、自分で努力することではありません。パウロという人は、自分の努力や行いによって善い人間でなることを目指していましたが、自分の内面に気付いた時、「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます」(ローマ7:21)語っています。生まれつきの人間は神への愛がなく、恐れがあるだけです。
しかし、イエス様はこの世でただひとり神の御心にかなう道を歩まれ、父なる神によって復活の命を受けられたのです。つまり、この世で良い実を結ばれたのは人となられた神の子イエス・キリストだけなのです。イエス様はその命でわたしたちの罪をすべて償ってくださり、またその命でわたしたちを養ってくださるのです。このイエス様を受け入れることが、わたしたちにできる最上の業なのです。
イエス様は、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言っておられます。この「つながる」という言葉は、「とどまる」という意味もありますし、「滞在する、宿 泊する」という意味もあります。イエス様は今日の日課の後の十五章九節では、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と語っておられます。枝がぶどうの木につながっているなら、自ずと実を結ぶように、キリストの愛の内にとどまっているなら実を結ぶことができるのです。
また、イエス様は、「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(15:7)、と言っておられます。イエス様にとどまる、ということは、イエス様の言葉がわたしの内にとどまっている、ということです。イエス様はご自分を信じるわたしたちに完全な愛と赦しを与えると約束されました。またその愛にふさわしく、お互いの関係において神の愛をあらわしてゆくということです。わたしたちはイエス様の言葉から愛と赦しの言葉を聞くとともに、互いに愛し合いなさいというイエス様の願いも聞きます。これらのイエス様の言葉を心にとどめる人々の祈りはかなえられます。それはその人々が自分勝手に祈るのではなく、イエス様の意志に従い、イエス様の心に沿って祈るからです。
●わたしもあなたがたにつながっている
このように、キリストの愛の内に生きる時、すなわちキリストにつながっている時、その人は必ず実を結びます。
ここで確認しておきたいことは、今日の一五章二節の、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」という言葉です。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝は…」とありますから、「イエス様につながっていても実を結ばないこともあるのか」と思ってしまいます。しかしこの二節の「わたしにつながっていながら」という言葉は「わたしの内にいる」という言葉です。つまり、キリスト教の国の中にいても、神のぶどう園であり、キリストの体である教会の中にいながら、イエス様の赦しと愛に生かされるのではなく、自分の真面目さや自分の働きを誇る人、それによって兄弟を裁き、愛さない人のことです。そういう人はいつか群れから出てしまいます。イエス様は二節で、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と言っています。それは自分から背を向けたように見えますが、それは神様がその人をぶどう園かた取り除かれた、ということなのです。
最後に、イエス様が今日の日課の四節で、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と言われた言葉を憶えたいと思います。それは、わたしたちがイエス様につながろうとするなら、イエス様はわたしよりもっと強い力でわたしをつながってくださる、ということです。
強い風が吹く湖の上をイエス様と同じように歩こうとしたペトロは、風を見て恐ろしくなり、溺れかけました。イエス様はペトロの差し出した腕をつかみ、引き上げたのです。イエス様は真実な方ですから、ご自分を愛し、信頼する者を決して見捨てることはありません。「わたしはイエス様と結ばれて生きてゆきます」、と告白したその日から、わたしたちの方からイエス様を捨てない限り、イエス様はわたしたちを決して見捨てることはないのです。いつかはわたしたちは自分の力では何もできなくなる時が来るかも知れません。しかし、それでもイエス様はわたしたちとつながっていてくださり、最後まで実を結ばせてくださるのです。
このイエス様に信頼して、「実を結ぶ者にしてください」と願いながら、今日もイエス様のもとに行きたいと思います。
ヨハネによる福音書10章 11-18節
復活節第4主日の説教
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
●わたしたちの飼い
今日の福音書は、わたしたちがよく知っている「良い羊飼い」のお話です。旧約聖書には羊と羊飼いのことがいくつも書かれています。そして神様とイスラエルの関係を羊飼いと羊の関係として教えています。
羊は羊飼いなしには生きてゆけない動物です。羊は食べ物である草や。飲み水のある場所に自分で行くことが出来ません。また羊の毛は生え変わらないので、毛を刈ってくれる人間が必要です。野生の山羊はいますが、野生の羊というものはいないのです。
同じように、人間にも羊飼いが必要です。羊が羊飼いの声に導かれるように、わたしたちを正しく導いてくださる方が必要なのです。わたしたちは皆アダムとエバの子孫です。それは、すべての人は本当に大切な神様との関係を求めないで、自分たちの目に良く見えるものに向かってしまう、ということです。自分では幸せを求めているつもりで、神から離れて道に迷ってしまうのです。
羊と羊飼いが同じでないように、人間の羊飼いは人間ではなく、神様です。神様はイスラエルの国の政治的指導者や宗教指導者たちをご自分の代理として、羊飼いの務めを託したのです。しかしその務めを託された人々は、神に忠実ではなく、羊たち、すなわち自分たちに委ねられた人々を大切にしませんでした。イエス様が言われるように、彼らは「雇人」であって、羊の所有者である神様のように、羊を命をかけて守る気がなかったのです。
エゼキエル書34章には、神ご自身が自分の羊の世話をする、と語っておられます。11節にこう書かれています。
「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。」
神ご自身が直接わたしたちの羊飼いになってくださった。それが人となられた神の子、イエス・キリストです。イエス・キリストは「わたしは失われた羊を探し出すために来た」と言われました。
●イエスは良い羊飼い
しかし、わたしたちはどのようにしてイエス・キリストがまことの羊飼いであることを知るのでしょうか。Jイエス様は今日の日課で雇人の羊飼いについて語っておられますが、前のところでは盗人や強盗のことも書かれています。こうした強盗は強盗の姿で来るのではなく、「わたしがあなたを幸せにしますよ」と言って、羊飼いのふりをしてくるのです。
わたしは、今はイエス・キリストを百パーセント信じていますが、教会に通い始めた時にはまだキリストを信じることへの恐れや不安がありました。世の中には人を食い物にする宗教も多いと思っていたからです。そこでわたしは信じるための二つの条件を考えました。二つ目の条件についてはまたの機会にお話ししますが、その一つは、「その宗教の教祖や指導者が一般の信徒と比べて、裕福な暮らしをしていたり、雲の上の生活をしていたりするなら、それは危ない」ということです。
イエスというお方はどうでしょうか。イエス様は身につけるもの以外はこの世でご自分の持ち物は何一つ持っていませんでした。そしてその着物でさえ、十字架の時にすべてはぎ取られたのです。また、イエス様は弟子たちと同じものを食べ、同じところに休まれたのです。
また、新興宗教の多くの教祖は、偉くなると人に働かせても、自分は同じように汗水流して働きません。しかしイエス様は弟子たちを伝道に送り出した時、ご自分は家で休んでいたのではなく、自らも伝道をされたのです。マタイ福音書十章はイエス様が十二弟子たちを宣教に送り出したことが書かれていますが、十一章一節で、「イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された」と書かれています。
このように、イエス様は自分のためにわたしたちを搾取しない方です。そして搾取しないばかりか、かえってわたしたちのために自分の命を捨ててくださった方なのです。羊飼いが野獣から自分の羊を命がけで守るように、イエス様はわたしたちの罪を十字架の上で背負ってくださり、わたしたちを迷いと滅びの道から、悪魔の牙から救って下さったのです。イエス様の十字架はわたしたちの罪が赦されたことを確信させてくれます。そして心から神を愛することができるようにしてくれるのです。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」わたしがこのイエス様の言葉を聞いたとき、このような方こそわたしが信頼できる方であり、すべてを委ねることができる方である、という確信が与えられたのです。
イザヤ書53章6節を読んでみましょう。
「わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた」
良い羊飼いであるイエス様は、わたしたちの救いのために命を捨てて下さったのです。
●今も導く主
しかし、イエス様がそのようにわたしたちを愛してくださり、命を捨ててくださっても、もし死なれたままであれば、わたしたちは荒野に取り残された羊のように孤立してしまいます。しかしイエス様は、十字架を前にして「わたしはあなた方を孤児のままにしておかない」と弟子たちに約束されました。そして今日の日課の18節で、「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」と語っておられます。十字架に死なれたイエス様は死の力に勝って復活し、永遠にわたしたちと共にいてくださる方となられたのです。イエス様の十字架には神の子の愛が示され、イエス様の復活には神の子の力が示されているのです。
イエス様は16節で、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」と語っておられます。「この囲いに入っていないほかの羊」とはユダヤ人ではない人たちのことです。ユダヤ人たちは信仰の伝統を守るために外国人と区別されていました。しかし復活したイエス様は、その垣根を超えて世界の人々の羊飼いとなられたのです。「その羊をも導かなければならない」と言われているように、復活されたイエス様ご自身が今も羊飼いとして、 生きて働いておられるのです。
わたしたちはどこで羊飼いであるイエス様と会うのでしょうか。
羊飼いは羊飼いの声のするところにいます。羊飼いであるイエス・キリストの声は、キリストご自身の言葉が聞かれるところ、またキリストについて語られるところにおられます。そのために教会では説教が語られますが、他にもみんなで式文を歌い、讃美歌を歌います。説教者だけでなく、みんながキリストの言葉を語っているのです。そのようにキリストの言葉、キリストについての言葉が語られ、聞かれるところに、羊飼いであるキリストがおられます。ルターは、讃美歌は会衆の説教である」と語っています。
イエス様の声を聞いて、イエス様のもとに来る人は、大人でも子どもでもイエス様の羊です。
さらに、「この囲いにいないほかの羊」とはイエス様の羊であるのに、まだイエス様から離れている人々のことでもあると思います。「その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」とイエス様は語られます。このイエス様の思いをわたしたちも受け止め、イエス様の声を届けたいと思います。教会の働きを通してみ言葉を伝え、またそれぞれの生活の中での生き方を通して、良い羊飼いであるイエス様の声を届けてゆきたいと思います。
ヨハネによる福音書20章19-31節
復活節第2主日の説教
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
●真ん中に立たれるイエス
イエス様の墓に行ったマグダラのマリアは、復活したイエス様と出会いました。そしてそのことを男の弟子たちに伝えました。その知らせを聞いた弟子たちはその日、つまりイエス様が復活した日曜日の夕方、一つの家に集まっていました。しかし彼らはイエス様を十字架につけて殺したユダヤ人たちは、自分たちも捕えるのではないかと思い、彼らがいた家の戸にすべて鍵をかけていました。するとイエス様が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言って、手とわき腹の傷を見せたのです。「弟子たちは主を見て喜んだ」(20:30)と書かれています。十字架の痛ましい傷跡は、目の前の人物が確かにイエス様であることの確かな徴となったのです。「あなた方に平和があるように」という言葉は祝福の言葉です。復活のキリストは、人間の罪をみな引き受け、復活してわたしたちにまことの平和を与えてくださる方なのです。
キリストが弟子たちの真ん中に立たれたことが書かれています。申命記6章15節には「あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である」と書かれています。またゼファニヤ書3章17節にも「お前の主なる神はお前のただ中におられ 勇士であって勝利を与えられる」と記されています。「ただ中」とは「真ん中」という言葉です。イエス様が彼らの真ん中に立たれた、ということは、イエス様が新しい神の民の神となられた、ということです。
マタイによる福音書18章 20節でイエス様は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と語っておられます。ここでも「その中に」というのは「真ん中に」という言葉です。イエス様は今日も主の御名によって集まっているここでわたしたちに出会ってくださいます。そして平安を与え、聖霊を与えて、わたしたちを新しくし、この世界に遣わしてくださいます。されるのです。
●トマスの疑い
しかし、その時十二弟子の一人であるトマスはそこにいませんでした。ほかの弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ったのです。ほかの弟子たちが「主を見た」と言った、とあるこの「言う」という言葉は「言い続けた」という言葉です。ほかの弟子たちはトマスに一回言っただけでなく、何度も見たことを話したのです。それでもトマスは信じようとしませんでした。
しかしそのトマスもその八日後、つまり次の日曜日にはほかの弟子たちと一緒にいました。するとそこにイエス様が来られたのです。前と同じように部屋の戸に鍵をかけていたのに、弟子たちの真ん中に立たれたのです。
イエス様はトマスに対して「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言いました。トマスはイエス様に向かって「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。
この場面を扱っている宗教画の多くは、実際にトマスがイエス様の手、またはわき腹に指や手を差し入れている光景を描いていますが、わたしは、トマスはそうしなかったと思います。トマスは、どこまでも彼を追い求めてやまないキリストの愛に圧倒されて、そう叫んだのではないでしょうか。
さらにイエス様はトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言いました。このイエス様の言葉は「わたしを見たので信じたのか」という問いかけになっていますが、もとの言葉は、「あなたはわたしを見て信じたが、見ないで信じる人を幸いである」という言葉です。トマスも含めて、復活のイエス様に出会った弟子たちは、その目撃者として証言する務めを与えられたのです。弟子たちは、自分たちが見たことを証言し、命をかけて伝えたのです。しかし、その弟子たち以後の人々は、今度はキリストの死と復活を見た弟子たちの証言を聞いて、また弟子たちの残した証言を聞いて信じることを求められたのです。そしてそのように、「見ないで信じる人々はさらに幸いである」とイエス様は語られたのです。
●見ないで信じる人のさいわい
では、見ないで信じる人はなぜ幸いなのでしょうか。信仰」とは、聖書では「真実」とか「誠実」という意味の言葉です。わたしたちはすべての点で真実であるとは言えませんが、神を求めることにおいては誠実であるべきです。
神様はこの世界に聖書を与え、教会を建てて、求める人はだれでもご自分を見出すことができるようにしておられます。しかし世界のベストセラーである聖書を読んで理解したいと思う人々は多くありません。人々は自分の求める楽しみや利益や知識を与える本は読もうとしますが、神を求めようとはしません。
イエス様は、「心の清い人は幸いである。その人は神を見る」とキリストは教えました。ここでの「清い心」とは、二心ではない、ひたむきな心のことです。一筋に真理を求め、神を求める人は、神を見ることができる幸いな人なのです。
また、「見ないで信じる人」とはイエス・キリストの愛を信じ、神の赦しと命を受ける幸いな人々です。時々、「神がいるなら見せてほしい」という人がいます。しかし今まで信じようともしないで無視していた神が、突然目の前に現れたらどうするのでしょうか。時代劇の水戸黄門で葵の紋の印籠を見せられたら、それで一巻の終わりであり、やり直しができないのと同じです。わたしたちはいつか聖なる神の前に立たなければなりません。しかし、神はその前にイエス・キリストによって、恵みの神として出会ってくださるのです。
わたしたちはキリストを見ていなくても、聖書を通してキリストの愛を知ることができます。そしてキリストの愛は人知を超えた神の子の愛であることを知るのです。キリストの愛を知ってキリストを信じる人は、今日の終わりの聖句にあるように、永遠の命を受ける幸いな人です。
昔聞いた話ですが、沖縄がアメリカ軍に占領された時、沖縄の人々は飢えに苦しんでいました。ある若いアメリカ兵は、痩せ細った日本の少女を見て、持っていた食べ物を差しだしました。しかし少女はどんなに勧められても口に入れようとしませんでした。大人たちから、「アメリカ兵がくれる食べ物には毒が入っている」と教えられていたからです。困った兵隊はそれをちぎって食べて見せました、すると少女はようやく食べ物を口にしました。それを見たその兵隊は声を上げて泣いたということです。
愛は強制できないものであり、心を開いて受け取らなければならないものです。キリストによって示された神の愛を知り、心を開いてその愛を受け入れる人は、キリストの命に生かされる幸いな人なのです。
ヨハネによる福音書20章1-18節
復活祭の説教
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
●まだ暗いうちに
イエス・キリストの復活は、人類の歴史の中で最も輝かしい出来事です。死の闇に閉ざされたこの世界に新しい命の光が輝きました。
しかし、キリストの復活の光は、最初からまばゆく輝いてのではありません。夜明け前の暗い空がすこしずつ明るさを増してゆくように、復活の光も、キリストを失い、絶望と悲しみの闇に閉ざされていた弟子たちの心を少しずつ照らし、次第に輝きを増していったのです。そして復活したイエス様が弟子たちに姿を現したのはその日の夕方でした。
キリストがこのように時間をかけ、遠回りをして弟子たちに姿をあらわしたのは、弟子たちに心の準備をさせるためでした。炭鉱の事故などで長い間暗闇の中にいた人が、白昼の光を見ると、まぶしさのために失明すると言われています。同じように、イエス様を愛していた弟子たちであっても、死んだはずのキリストが何の予告もなしに目の前に現れたら、とてつもないパニックに陥ることでしょう。キリストは弟子たちを配慮して、ご自分に会う心の準備をさせたのです。
わたしたちはこのような福音書の記録を通してキリストの復活が事実であることを知ることができます。もしキリストの復活が作り話であったなら、最初から「弟子たちはキリストに出会って喜んだ」と書くことでしょう。
このヨハネ福音書では、最初に、墓に行ったマグダラのマリアに空になった墓が示されました。あたりが少し明るくなっていたのでしょう。墓の入り口から中を見たマリアは、イエス様の体がそこにないことを知りました。マリアは驚いて、弟子のペトロともう一人、イエス様に愛されていた弟子のところに走ってゆき、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」と伝えました。この福音書ではマグダラのマリアか書かれていませんが、マグダラのマリアは「わたしたちには分かりません」と言っているので、墓に行ったのはマグダラのマリアだけではなく、他の女性もいたことが分かります。ヨハネ福音書はマグダラのマリアにその女性たちを代表させているのです。
●残された衣
マリアの知らせを受けた二人の弟子たちは、急いで墓に走ってゆきました。そして墓の中でイエス様の体を包んでいた布と頭を包んでいた覆いを見ました。そしてイエス様に愛されていた弟子はそれを「見て、信じた」、と書かれています。
三日目前の午後、死んで十字架から降ろされたイエス様の体に香料は塗られ、ミイラのように亜麻布が巻かれました。「ミイラ」という言葉は没薬の「ミルラ」から派生した言葉です。没薬を塗られ、亜麻布を巻きつけられると、たとえ息を吹き返しても自分でそれをほどくことはできません。また誰かが遺体を盗みに入ったとしても、イエス様の体から亜麻布をほどく余裕はなかったはずです。イエス様の頭に巻かれたのは顔覆いでしたが、それは丸められていました。二つの布はイエス様の体と頭に巻かれたままの形で、抜け殻のように残っていた、と解釈する人もいます。しかしはっきり言えることは、彼らが、普通ではありえないことを見たということです。
今日の旧約聖書の日課、イザヤ書二五章には次のように記されています。
「主はこの山で すべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし 死を永久に滅ぼしてくださる」(25:7,8)
死者の体に巻かれた布と頭に巻かれた覆いとは、死の力の象徴です。死は永遠にその人を縛り続けるのです。しかし二人の弟子がたものは、まさしく無力になり、空しいものとなった布と顔覆いだったのです。
こうして弟子たちが復活のキリストに出会う心の準備がまた一歩進んでいったのです。
●復活の主に出会う者
二人の弟子たちは家に帰りました。マリアはそのまま残って
墓に向かって泣いていましたが、彼女の後ろにおられたキリストに名前を呼ばれ、その人がキリストであることを知ったのです。
マリアはイエスの足を抱き、イエス様を拝しました(マタイ28:9)。そのマリアにイエス様は、「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と言われました。この言葉は マリアがすがりつくことを禁じる言葉ではなく、「すがりついていてはいけない」という意味です。「今わたしは父のもとに上りつつある」というのがその理由です。ヨハネ福音書は、イエス様が父である神のもとに上られることは、復活のすぐ後に起きた、と教えています。
イエス様がここでマリアに「わたしはこれから父のもとに上る」と言われたのは、父なる神のもとから聖霊を遣わすためでした。その聖霊によって、イエス様は遠く離れていても、信じる人々に出会ってくださる方となられたのです。マリアにとっても、キリストが父のもとに行くことは、遠ざかることでなく、むしろ聖霊によってマリアの内に来られ、永遠に共にいてくださる方となる、ということなのです。
イエス様は弟子たちにご自分をあらわすための最終段階として、マリアに弟子たちへの伝言を託しました。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」これは何という恵み深い言葉でしょう。マリアがイエス様から託されたのはイエス様の愛
のメッセージでした。イエス様は今も弟子たちを兄弟と呼んでいます。そしてわたしの神はあなた方の神であり、わたしの父はあなた方の父である」と告げたのです。
このキリストの愛の言葉を聞くことが弟子たちには必要でした。なぜなら、弟子たちには、イエス様を見捨てて逃げてしまった、という後ろめたさがあり、イエス様に会うことを恐れる気持ちがありました。しかし、その弟子たちにマリアは主に出会ったことを告げ、主から託された言葉を伝えました。弟子たちはキリストの愛の言葉を聞いて、恐れが取り除かれ、喜んでキリストと出会うことができるようになったのです。
復活したキリストの口には、ご自分を見捨てた弟子たちに対する怒りの言葉は一切なく、彼らに対しる変わることのない愛の言葉だけがあったのです。イエス様の復活は、死に対する命の勝利があらわしただけでなく、罪を赦すキリストの完全な赦しがあらわされた時です。そして、その知らせを聞く人にキリストへの愛が生まれ、キリストを愛した人にキリストは出会ってくださるのです。
ここにおられる皆さんがキリストの復活を信じているのは、キリストを愛したからであり、キリストが出会ってくださったからです。そしてわたしたちの罪と死に勝ってくださったキリストを私の内に迎える時、わたしたちにも死に勝つ力と、愛する人と顔と顔を合わせて再会する希望が与えられるのです。
キリストがよみがえって、命と愛の光を照らしてくださったことを伝えることができるのは、キリストに出会った人だけです。マリアがキリストからのメッセージを託され、続いて弟子たちに託されたように、わたしたちにもこの大切なメッセージを伝える務めがキリストから与えられています。
救いと命を求めながら、罪のために神を恐れ、心を閉ざしている人々がいます。神の愛と救いのあらわれであるイエス・キリストの復活を、わたしたちはこれからも伝えてゆきたいと思います。
マルコによる福音書11章1-11節
主のエルサレム入城
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。
●あなたの王が来られる
今日は、イエス様がエルサレムの町に入城された記念の日です。その日は日曜日でした。この週の金曜日にイエス様は十字架で死なれ、三日目の日曜日に復活されたのです。
イエス様は王としてエルサレムに入りました。それは旧約聖書で予告されていたことでした。ゼカリヤ書区章九節にはこう記されています。
娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。
イザヤ書に「あなたの神は王となられた」(イザヤ52:7)とあるように、聖書は神ご自身が王となってこの世界を治めるということを予告しています。そして神であるイエス・キリストが王として来られたのです。
しかし、イエス様が普通に歩いてエルサレムに入っても、誰もィエス様が王だとは思いません。ゼカリヤが書いているように、イエス様がろばに乗って入られたこと、そして大勢の人々がイエス様の通る道に、絨毯の代わりに上着を敷き、また他の人々が木の葉を敷きました。そしてイエス様の前を後を行く人々がとが
「ホサナ。主の名によって来られる方に、
祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
と讃美したことによって、イエス様が王として来られたことがおおやけにされたのです。この讃美は詩篇118篇の言葉ですが、讃美歌として歌われていたので、人々はこの詩篇を声を合わせて歌うことができたのです。
列王記上1章には、ダビデの子ソロモンが王に即位したことが記されていますが、その時ソロモンは「らば」に乗ったと記されています。そして人々は大きな歓声を上げた。と書かれています。しかしイエス様は、らばよりも小さなろば。それも子ろばに乗られたのです。
王であるイエス様は、やがて世界を裁き、悪を滅ぼす方です。しかし、この日エルサレムに来られたイエス様は、悪人と戦うためではなく、ご自分の国に人々を招くために、誰もが恐れることなく王であるご自分のもとに近づくことができるように、小さなろばの子に乗って来られたのです。
●罪から解かれて主に仕える
イエス様がろばをどのようにして手に入れたのかを、福音書は詳しく記しています。イエス様は、二人の弟子を遣わして、
「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。」と命じました(11:2節)。
と書かれています。ここで「つながれている」という言葉と「ほどく」という言葉が繰り返されています。マタイ福音書16章で、イエス様はペトロに、「わたしはあなたに天国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:9)と言われました。ここで「つなぐ」という言葉は「罪につなぐ」という意味です。また「ほどく」という言葉も「罪を赦す」こと、つまり罪の責任から解放する、という意味で使います。つながれていたろばの子が、その縄を解かれてイエス様を乗せるために用いられたことは、イエス様がわたしたちを罪の縄目から解放してくださり、ご自分の御用のために用いて下さる、ということを表しているのです。
マルコ福音書1章23節から25節には、イエス様が悪霊に憑かれた人に近づいたとき、悪霊が「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と叫んだ、と書かれています。するとイエス様は、「黙れ。この人から出て行け」と言われました。まだ誰もイエス様のことを理解していない時に、悪霊はイエス様のことを正しく見抜き、正しく告白したのですが、イエス様は悪霊を黙らせたのです。イエス様ご自分が罪から解き放った人にしか、ご自分を証しすることをお許しになりません。それは聖なる、高貴な務めです。イエス様はわたしたちを罪の縄目から解き、そして解かれたわたしたちを「主がお入り用なのです」と言って神様のお働きのために用いられるのです。
●「主は死につながれ」
イエス様が子ろばをご自分のもとに連れてくるためには、一言、「主がお入り用なのです」と言うだけでよかったのです。それは、すべてものの所有者であるイエス・キリストの権威を示しています。しかし、ろばとは違って、わたしたち人間には罪があります。わたしたちが罪から解き放たれるためには、そのための代価が必要でした。
マルコ福音書15章1節には、ユダヤ人によってイエス様が捕らえられ、縄で縛られてピラトに引き渡されたと記されています。そして死の縄目につながれたのです。ルターが作詞した、「主は死につながれ わが罪を解き」という讃美歌がありますが、イエス様の苦しみと死によってわたしたちは罪と死と裁きから解かれたのです。
ろばと共にイエス様が王であることを示したのは、イエス様とともに行進した多くの人々です。今日の日課にはこのようにあります。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、
祝福があるように。
このことを連想させる言葉が旧約聖書のイザヤ書62章11節にあります。
娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い 主の働きの実りは御前を進む。
ここで「あなたの救い」の「救い」は「エシュア」すなわち「イエス」という言葉です。そして、そのイエス様の前と後で一緒に行進していたのは、ルカ福音書によれば弟子たちの群れでした(ルカ19:37-39)。またヨハネ福音書によれば、イエス様を歓迎した人々は、イエス様がラザロをよみがえらせたこ戸を聞いて、イエス様を信じた人々でした。その人たちが、イエス様がエルサレムに来ておられることを聞いて、大喜びでイエス様を王として迎えたのです(ヨハネ12:12-18)。彼らは「主のかち得られたもの」であり、「主の働きの実りは」だったのです。彼らは羽のついたうちわを振ることも、立派なじゅうたんを道に敷くこともできませんでしたが、大切な自分の服を道に敷いて、キリストを讃え、キリストが主の御名によって来られた王であることを伝えたのです。イエス様が救い主でることを信じていたので、そのような讃美が捧げられ、また奉仕がなされたのです。
このように、イエス様が王であることを告げるために用いたのは縄を解かれたろばの子であり、イエス様を信じていた名もない人々でした。
わたしたちも今日、このようにキリストを讃美し、キリストに仕えているのは、イエス様がわたしたちを大きな愛によって罪と死の縄目から勝ち取り、ご自分の苦しみの実りとしてくださったからです。
わたしたちはイエス様が乗った子ろばのように、この世では小さく見える存在かも知れません。でもイエス様は、まことの王であるご自分をこの世に証しし、伝えるというこの上ない尊い務めを与えてくださいました。その恵みに感謝し、これからも皆で、王であるイエス様を賛美し、イエス様と共に歩んでゆきたいと思います。
ヨハネによる福音書12章20-33節
四旬節第5主日の説教
さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。
●異邦人の救い主
イエス様がメシアとして活動されたのは三年半ですが、その最後の一週間、イエス様は過ぎ越しの祭りを守るためにエルサレムにおられました。そのイエス様にお会いしたいと、何人かのギリシャ人が訪ねてきました。過ぎ越しの祭にはユダヤの神を信じる大勢の外国人も大勢来ていたのです。しかし、外国人はユダヤ人とは区別されていて、同じ場所で礼拝することはできず、「異邦人の庭」と呼ばれる場所で神に祈りました。イエス様は、そこで鳩や羊が売り買いされ、両替商が商売しているのを見て憤り、その人々や動物たちを追い出したのです。異邦人の祈りが彼らの商売によって妨げられていたからです。それはイエス様が神殿の持ち主であることを示すようなふるまいでした。ギリシャ人たちはその出来事を通してイエス様を知り、イエス様にぜひ会いたいと願ったのです。
イエス様に会おうとしたギリシャ人たちは、イエス様自身に直接会うことを遠慮して、まずギリシャの名前をもっていたフィリポに、仲介を頼んだのです。そのフィリポはアンデレという弟子に相談をして一緒にイエス様にギリシャ人のことを伝えたのです。アンデレはイエス様の最初の弟子ですから、アンデレと一緒の方がイエス様に頼みやすいと思ったのかも知れません。
イエス様は、ギリシャ人がご自分に会いに来たことを聞くと、「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言いました。「栄光を受ける時」とはヨハネ福音書ではイエス様が十字架に死なれる時のことです。普通なら外国人がイエス様にお会いしたいと言って訪ねてきたなら、いよいよイエス様の名声が世界的なものとなった、と考えるのが普通ではないでしょうか。それなのになぜ外国人の訪問がイエス様の死の時が来た、ということになるのでしょうか。それは、ギリシャ人たちがご自分を求めてきたという事の中に、ご自分がすべての民のために十字架にかかり、救いの道を開く時が来たことを悟られたからだと思います。
しかし、その死はイエス様が栄光を受ける道となります。イエス様はその死によって神様の御心を成し遂げられ、父である神から栄光を受けられたからです。
●一粒の麦として
イエス様は続いて、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言いました。わたしたちは、麦の種を蒔けばそのから芽が出て、麦の穂が成長してゆくことを知っています。そしてそれは自然のプロセスだと考えています。しかし昔の人にとって、それは奇跡でした。種は地面に埋まり、朽ちてゆきます。それは人の目には死ぬように見えますが、それによって新たな命が始まります。そして、その一粒の種は、無限に多くの種となって生き続けてゆきます。
聖書は、わたしたち人間は一人の人から始まったと教えています。そして、神によって最初に造られたその人が、罪を犯して神からは離れてしまったので、彼から生れるすべての人が、わたしたちも含めて、その罪を引き継いでいると教えています。行いによって犯す罪は、人によって大きく見えたり小さく見えたりしますが、皆、罪を犯し、その罪のために神から離れ、死ぬべき者として生まれてくるのです。
しかし、人となられた神の子は、たった一粒の聖い命の種です。そのイエス様が死なれることによって、イエス様の命は多くの人に蒔かれます。その命とは十字架に死んでわたしたちの罪を償ってくださった命です。その命は渡した太刀を神の子にしてくれる命です。そしてその命は復活の命であり、わたしたちを神の前で永遠に生かす命です。
ヨハネによる福音書10章7節でイエス様はこう言っておられます。「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。」わたしたちは神に不従順であった古いアダムの子孫ですが、イエス様だけはどこまでも神に従い、命を捨て、また命を受けました。このキリストを受け入れる時、わたしたちはキリストの命を受け継ぐ者、キリストの子孫となるのです。
旧約聖書のイザヤ書53章は、キリストについてこのように預言しています。これはキリストが来られる七百年前の預言です。
「彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。
彼は自らの苦しみの実りを見 それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。」(イザヤ書53章10,11節)
ここに預言されているように、復活されたキリストはご自分の命を受け継ぐ多くの弟子たちに会いました。そして今。イエス様を信じているわたしたちにも出会ってくださいます。
●神にゆだねる命
イエス様は、一粒の麦が地に落ちて死に、多くの実を結ぶことは、イエス様だけでなく、すべての人に当てはまる原則であると教えています。イエス様は「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と教えました。「自分の命を憎む」という言い方は、ユダヤ的表現で、人はあるものを愛すると、他のものは同じほどには愛さなくなる、ということです。
この「命」とは「ライフ」、つまりわたしたちの生活、人生のことです。自分の命を惜しんで自分の幸せのためだけに使おうとする人は神に仕えることが疎ましくなります。そのような人生は土に落ちようとしない種のように古いい命のままで終わります。しかしイエス様は、「あなた方は、命を与えてくださった神の御心を行うためにその命を使いなさい」と教えられたのです。
イエス様は「わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(12:26)と言われました。わたしたちは、イエス様と同じように、多くの人救いのために死ぬことはできませんが、ご自分の命を与えてくださったたイエス様に仕えることはできます。
わたしが牧師になることを決心したのは、24歳の誕生日の晩にわたしの人生を振り返ったことがきっかけでした。わたしは「今晩、わたしが神の前に立つとしたら一体何を持って神の前に立てるだろうか」と考えました。「神様、わたしは親のためにも真面目に働いてきました」と言うと、神様は、「それはお前のためにしたことではないか。わたしのためにお前は何をしたのか」と問われたのです。その時、わたしには神の前に持ってゆくものが何もないことを知り、恐ろしい絶望感に襲われました。しかしその時、神が下さったイエス・キリストを受け取ったことと、そのキリストに従って行ったことはすべて残っていたのです。神にささげた命だけが実を結んでいたのです。その時、このキリストを伝える働きをしたいと思ったのです。
イエス様は、すべてが失われてゆくわたしたちにご自分の命を与えるために来てくださいました。そしてわたしたちが神の愛の内に生きるようにしてくださったのです。このキリストの愛が伝えられるために、わたしたちは兄弟姉妹と心を一つにしてキリストに仕えてゆきたいと思います。また個人の生活においても、わたし自身の願い、満足を求めることではなく、キリストと共に神様の愛をあらわし、また伝えるために生きてゆきたいと思います。
イエス様は、イエス様のために何かを捨てる人は、来世においてだけではなく、今の世においてもその百倍を受けると約束しています。わたしはクリスチャンになると友達を失うのではないかと心配しましたが、今はここにおられる皆さんをはじめとして、クリスチャンでなかった時と比べて、何百倍もの誠実な多くの友、兄弟姉妹を与えられています。神に命を委ねることは今の人生においても、喜びと豊かさをいただく生き方なのです。
マルコによる福音書8章31-38節
四旬節第2主日の説教
法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
●イエス様に叱られたペトロ
今わたしたちが礼拝で学んでいるマルコ福音書は、全部で一六章ありますから、今日の個所で、マルコ福音書の半分が終わることになります。この前のところまでは、イエス様が語られた言葉や、イエス様がなさったたくさんの奇跡が記されています。
このようなイエス様の素晴らしい働きを見たペトロは、「あなた方はわたしを何者だというのか」というイエス様の問いかけに、弟子たちを代表して、「あなたこそメシア、キリストです」と告白したのです。
ところが、イエス様は、ここで初めてご自分が「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と弟子たちに告げたのです。
「あなたはメシアです」と告白したペトロは、このイエス様の言葉を聞いて驚き、あわてました。そして、イエス様をわきに引き寄せていさめ始めたのです。しかし、イエス様は弟子たちを見つめて「引き下がれサタン。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」とペトロを叱られたのです。
先週わたしたちは、イエス様が荒野でサタンの誘惑を受けたことを学びました。そこでイエス様を誘惑したサタンが、今度はペトロを通してイエス様に働きかけたのです。
「祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」とイエス様が語られた、「~ことになっている」という言葉は、「神によって定められている」という意味の言葉です。サタンの目的は、わたしたちの罪の償いのために苦しみを受け、死ぬ、という神様の定めからイエス様を引き離すことでした。イエス様が神から来られた方であることを示す様々な奇跡を目撃したにも関わらず、イエス様の語ることを受け入れないことは、イエス様を信じないことであり、イエス様を自分たちが期待していた政治的、軍事的メシアという考えに従わせようとするものでした。 弟子たちのリーダーであったペトロがイエス様への信仰からそれてしまうなら、イエス様に従ってきた他の弟子たちもペトロの考えに惑わされてしまいます。イエス・キリストの十字架による救いから人々を引き離すこと、それはサタンの最大の目的です。ですからイエス様は厳しい言葉でペトロを叱ったのです。
●「神のこと」、「人のこと」
イエス様がペトロに言った「あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」という言葉はいったい何を意味しているのでしょうか。
神のこと」とキリストが語られたのは人と神との本来の関係が回復される、という事です。神は、ご自分から離れて失われているわたしたちを赦し、生かし、ご自分のものとするために御子キリストをお遣わしになったのです。
これに対して人のこと」とは、人間が自分の目的や考えに神を従わせようとすることです。たとえ「わたしは神に従っている」と主張している人であっても、神が人間に遣わしたメシアの教えに従わず、自分の民族や国家のために、敵への憎しみに駆り立てられているなら、それもまた「神のこと」を思わずに、「人のこと」を考えている生き方であると言わなければなりません。
このように、人間の生き方は、「神のこと」を求めるか、あるいは「人間のこと」を求めるかで分かれます。「幸福になるために」、「健康であるるように」、「商売が繁盛するように」、という個人的なご利益だけでなく、「世界人類が平和でありますように」というような一見崇高に見える願いであっても、まず自分自身の罪を悔い改め、神の赦しを求めないなら、やはり神の思いを祈っているのではなく、人間の思いに神を従わせようとしているのです。キリストの言葉ではなく、自分たちの願いにかなう神を求める人は、神ではなく、神になりたいと願っている悪魔を掴むことになるのです。ペトロがイエス様を自分のわきに引き寄せたように、神に従うのではなく、神を自分のわきに引き寄セ、自分に従わせようとしているからです。
●苦難の王、キリストに従う
イエス様は、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と告げました。
ここで初めて「十字架」という言葉が出てきます。イエス様は、この初めての受難の予告の中で、ご自分が殺される事を予告しましたが、「十字架」という言葉は使ってはおられません。イエス様がご自分の十字架について初めて語るのは三度目の受難予告の時です。つまりイエス様はご自分の十字架について語るよりも先に、弟子たちが、そしてわたしたちが背負うべき十字架について話されたのです。
イエス・キリストを十字架につけたのは、わたしたちの内に働いている神への背きの罪です。神を排除したいというサタンの思いに支配されているこの世が、キリストを十字架につけたのであり、わたしたちもそのような世界のひとりとして、神に呪われるべきものであったのです。
イエス様はペトロを「サタン」と呼びましたが、それはペトロがサタン、ということではありません。ペトロがサタンのために行動したとで、サタンと呼ばれたのです。私たちが神の側にではなく、サタンの側に立ってキリストの働きを妨げるなら、わたしはサタンに仕えていることになります。そしてそのような私たちこそ十字架に死すべきものです。しかし、イエス様はわたしたちを憐れみ、わたしの罪と呪いをご自分に引き受け、サタンの支配から解放してくださったのです。ですから神の意志よりも自分の思いを押し通そうとする古い自分を、日々十字架のもとに置かなければならないのです。
イエス様は、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と教えました。「自分の命」とは自分のライフ、すなわち自分の人生、生活です。それを神にささげることを惜しんでも、その命を持ち続けることはできません。罪の赦しを通して神の命を与えてくださるキリストに結ばれるためにこそ、その命は費やされなければなりません。わたしたちは神の命を求める道と、この世の命を求める道の二つを同時に歩むことはできないのです。
「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」とイエス様は語っておられます。今、この世界は混迷を深めています。戦争や自然災害など、人間の限界と無力さを思い知らされる出来事が続いています。しかし聖書は、救いは天と地を造られた神から来る(詩篇百二十一篇)と教えています。そしてイエス様に従うわたしたちは、希望をもってその時を持ち望むことができるのです。しかし、イエス様が世を治めるために来られる時、ご自分とその言葉を恥じる者をイエス様も恥じる、と言われます。ここで「恥じる」という言葉は、言い変えれば、それを「誇りとしない、尊ばない」ということです。反対に、使徒パウロが「わたしは福音を恥としない」と言う時、それは「福音を誇りとする」ということです。十字架の福音を何よりも尊いものと誇り、キリストに従ってゆくこと。それが主を待ち望むわたしたちにふさわしい生き方なのです。
マルコによる福音書1章9-13節
四旬節第1主日の説教
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
●イエス様の試練
先週の水曜日から、教会の暦は四旬節に入りました。教会の長い歴史の中で、いつも四旬節の最初の日曜日には、イエス様が荒れ野で誘惑に会われたという福音書の箇所が読まれます。
昔は,求道者が洗礼を受ける日は復活祭でした。そして受難節の四十日間はそのための準備にあてられました。この聖書の箇所が読まれるのも、クリスチャンとなって歩み始める人々が、心の備えをするためであったと考えられます。
確かに、人が神様に従うときに、誘惑、試練の道を通らなければならないことがあります。それはイエス・キリストにとっても同じでした。
今日の福音書の日課の初めに、イエス・キリストの洗礼のことが書かれています。イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、水から上ると、天が裂けて神の霊が鳩のように下った、と書かれています。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がありました。イエス様に対する父なる神様の言葉でした。わたしたち人間のために身を低くして働く道を歩み始めたイエス様に対して、イエス様の父である神は喜びの言葉を語りかけたのです。
しかし、そのすぐ後に、「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」、と書かれています。ここで「霊」と書かれているのは神様の霊のことです。そして「送り出された」という言葉は「追いやられた」とも訳すことができる言葉です。イエス様は、ご自分の意志ではなく、父なる神様により、強いて荒れ野に追いやられたのです。そこでイエス様は断食をされ、苦しい孤独な日を過ごされただけでなく、サタンの誘惑にもさらされたのです。「あなたはわたしの愛する子」と宣言されたイエス様にとって、そのすぐ後に、その言葉とはまったく違う、辛く厳しい状況の中に追いやられたのです。
● わたしたちの試練
イエス様が受けたサタンの誘惑とは、「試み」、試練」という意味の言葉です。それは、神人を神から引き離すための試みで、わたしたちにもやってきます。人間にとって好ましく見える姿でやってくる誘惑もありますが、反対に苦しみや困難としてやってくる誘惑もあります。
サタンがこのように人を誘惑する理由は、人々が神に帰ることを最も恐れているからです。サタンという言葉には「訴える者」という意味があります。サタンは先ず人間に罪を犯させ、次に罪を犯した人間を神の前に訴えます。「あなたがわたしを滅ぼすなら、罪を犯したこの人も滅ぼすべきではないか」と訴えるのです。サタンは自分のもとにいる人々を、神の裁きから自分を守る盾にしているのです。サタンはもはやその人を訴えることはできません。しかし、キリストによる完全な罪の赦しを知った人は神に帰ります。人々が神のもとに帰ることは、サタンにとっては大切な人質を失うことなのです。ですから悪魔は、救いのわざを成し遂げようとされたキリストを最も強く攻撃し、またキリストを信じる人々を攻撃するのです。
ですから、サタンの誘惑とは、キリストを信じる人々にだけにやってきます。信じない人々にはそうする必要がないからです。
なぜ神様はそれを赦されるのでしょうか。試練の荒れ野にご自分の子どもたちを追いやるのでしょうか。わたしは旧約聖書のヨブ記にその答えがあると思います。ヨブという人は正しい人で、神様を敬っていましたが、サタンは、神に対して、「ヨブがあなたを敬っているのは心からではなく、それが彼の利益になるからです。」と言いました。サタンはわたしたちの信仰は真実ではない、と今度は信仰を否定するのです。しかし神は、「いや、彼は神を信じると利益になるから信じているのではない。心からわたしを信頼しているのだ」と答えます。神様はわたしたちの信仰が打算からではなく、心からのものであることを、試練を通して証明し、悪魔の訴えを退けようとされるのです。ペトロ第一の手紙1章7節に、
「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」と教えられている通りです。
● 荒れ野の恵み
今日の福音書に記されている荒れ野でのイエス様は、ご自身の経験を通して大切なことをわたしたちに示してくださっています。
マルコによる福音書は、荒れ野でのエス様の様子を「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」と短い言葉で記しています。野獣たちと一緒にいた、という事は野獣たちがイエス様に危害を加えなかった、という事です。イエス様がおられた所には、神の平和があったのです。そしてイエス様はその平和に守られていたのです。
聖書の中にも、そしてわたしたちの近くにもこのようなキリストの平安に守られた人々が数多くいます。
ある牧師が話してくれたこおとですが、会員の一人が、深刻なガンに罹り、入院しました。その牧師はどういう言葉をかけたらよいのか悩みながら見舞いに行きましたが、その人は先生、わたしは今とても平安ですから心配なさらないでください」と言ったので、かえってとても励まされたという事です。
フィリピの信徒への手紙四章六節に
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
神様はどんな恐れにも飲み込まれることがない、人知を超える神の平和を与えて守ってくださるのです。そして神が与えて下さる慰めを知り、他の人々慰める人とされるのです。
第二に、「そして天使たちは仕えていた」と記されています。、イエスがおられるところに神の助けがあったことを教えています。イエス様は、神に従う人々を天使が支えていてくれる、ということをここで示して下さいました。
ヘブライ人への手紙の一章の終りに
「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」と教えられています。聖書には悪魔よりも天使の方がずっと多く登場します。ルターは「我々はもっと天使について多く語るべきである」と言っています。
個人的なことになりますが、わたしが牧師になる時に神様にお願いしたことの一つは、病気や事故で、日曜日の礼拝の務めができなくなることのないようにしてください、という事でした。その願いはかなえられ、牧師として働いた四〇年近くの間、病気や事故で日曜日の務めを休むことは一度もありませんでした。
しかし、危うい時もありました。交通事故で怪我をしたことも幾度かありましたが、事故が起きた時、いつも思わぬ助けを下さる人が現れて、迅速な治療を受けることができたのです。
最初に試練を受けられたイエス様が教えてくださったことは、荒れ野とは、そして試練の時とは、神様がいない所、神様が遠く離れている場所ではなく、むしろ神様が最も近くおられて、わたしたちを守り、助けてくださる場所である、ということです。荒れ野のイエス様に注がれていた神様の恵みは、イエス様に結ばれて生きているわたしたちにも注がれています。その神様に信頼して、これからも神様に従う歩みを続けてゆきたいと思います。
マルコによる福音書9章2-9節
主の変容主日の説教
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
●栄光に輝くキリスト
今日の福音書の日課は、「六日ののち」という言葉で始まっています。これは「中六日おいて」という意味で、「一週間目に」ということです。一週間前に、シモン・ペトロはイエス様に対して、「あなたはメシアです」と信仰を言い表しました。するとイエス様は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(八:三一)、と記されています。
これを聞いた弟子たちは動揺しました。彼らは当時のユダヤ人たちと同じように、メシアとは昔のダビデ王のように強い力でユダヤをイスラエルの敵をから解放してくれる人だと考えていたのです。ですからイエス様が殺されるなどということは、到底受け入れられませんでした。イエス様は苦難を受け、殺されるだけではなく、「三日の後に復活する」と言っておられますが、弟子たちにとっては、死んだらすべてが終わりだったのです。イエス様がそんなことを言い出せば、せっかくイエス様に従ってきた人々も離れてしまいます。それでペトロは「先生、そんなことを言ってはいけません」とイエス様をいさめたのです。
しかし、イエス様はそのペトロを「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(8:33)と叱ったのです。
それからずっと弟子たちの間には重苦しい空気が漂っていたと思います。そして一週間が経ち、イエス様はペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人を連れて高い山に登りました。そこでイエス様はこの三人の弟子に、ご自分の栄光の姿をあらわしたのです。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」(9:2,3)と書かれています。
これまでイエス様は人々のために驚くような奇跡を数多く行ってきました。しかし、この山の上での出来事は、奇跡というよりは、弟子たちに対して、イエス様はどんな方なのか、ということがはっきりと示された出来事であった、ということができます。光り輝くイエス様の姿は、イエス様が初めから神の栄光の内におられた方であることを示しています。わたしたちがニケア信条でイエス様を「光の光、まことの神のまことの神」と告白している通りです。
●「これはわたしの愛する子」
この世光り輝くイエス様のそばに、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた、とあります。この二人がイエス様と一緒にいるのを見たペトロは、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。
この山上の変貌」と呼ばれる出来事は、マタイの福音書にもルカの福音書にも記されています。しかしこのマルコ福音書は、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」と記して、弟子たちの「恐れ」ということを強調しています。弟子たちは光り輝くイエス様の姿を見て、喜んだというよりも、むしろ「恐れていた」のです。
出エジプト記三十三章には、神様がモーセにご自分の栄光を示されたことが書かれています。神様はモーセにこう言いました。
「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである。」
聖書は、「罪を持つ人間が神を見たなら必ず死ぬ」と教えています。罪のあるわたしたちは神の光に耐えることができないのです。しかし、神様はモーセに
「見よ、わたしのかたわらに一つの所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。 そしてわたしが手をのけるとき、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見ないであろう」
と告げたのです。
この「岩」はキリストを指しています。そしてわたしたちはこのキリストという岩の裂け目から、すなわち裂かれたわき腹の傷の中からしか神を見ることができないのです。
イエス様が、本来の神の姿ではなく、わたしたちと同じ人間の姿になられたからこそ、人々は神の御子であるイエス様に会うことができたのです。そしてわたしたちをかばって十字架の上で死んでくださったそのイエス様のみ傷に包まれて、わたしたちは初めて神様を見ることができ、神様と出会うことができるのです。
神の子であるイエス様が来られた目的は、イスラエルの救いのためだけではありません。ご自分の十字架を通して、すべての人を神のもとに招くためだったのです。
●「これに聞け」
ペトロがイエス様に向かって「三人のために仮小屋を三つ建てましょう」と言った時、父なる神様は「これはわたしの愛する子、これに聞け」と言われました。それは、第一に、ご自分の苦しみと死と栄光について語られたイエス様に聞く、ということです。モーセもエリヤも偉大な人でしたが、イエス様のように「わたしの愛する子」とは呼ばれませんでした。神様の愛する子にしかできない働きをイエス様は成し遂げるために来られたのです。
そして次に、わたしたちにとって何が大切なのか、ということについて、いつもイエス様に聞いてゆくということです。わたしたちはイエス様を信じています。にもかかわらず、わたしたちは当時の弟子たちのように、自分の思いにイエス様を従わせようとすることがあります。
当時のイスラエルの人々は自分たちを圧迫しているローマ帝国を憎み、ローマを打ち破るメシアを求めていました。しかし、イエス様は「あなたの敵を愛しなさい」と教えました。わたしたちは神の敵であったときに神の愛を受けたからです。このイエス様の言葉に従わずに戦った人々は滅びてしまいました。
当時のユダヤ人だけではなく、わたしたちはイエス様に聞くことよりも、この世の栄光や繁栄を約束する人たちの言葉に聞き従うこともあります。キリスト教国と言われている国の人々であっても、キリストの教えに従うよりも、戦争に勝ち、国土が増えることを喜び、そのような成功をも垂らす指導者をキリストのごとくに崇め、心酔し、盲従したことがありましたし、今でもそうしたことが起きています。「今、わたしは誰に聞いているのか」がいつも問われているのです。わたしたちは目に見える一時的なものを求めて、キリストを離れ、神の国を失うことがあってはなりません。イエス・キリストの十字架のだけがいつまでも滅びないものを与えるのです。
わたしたちの日常生活や教会生活においても、イエス様が、兄弟を愛しなさい、赦し合いなさい、と教えておられるのに、自分の主張や正義感を優先してしまう時があります。
イエス様の教えがなければわたしたちは自分で正しいと思っても、たやすく悪の道にそれてゆきます。わたしっちはいつも、この世のすべての知恵にまさるイエス様の言葉に聞くのです。
今度の水曜日は「灰の水曜日」です。この日から日曜日を除く四十日の間、わたしたちのために苦難の道を歩まれたイエス様の歩みを、たどります。それだけ長い期間イエス様の受難を覚えるのは、それがわたしたちにとって最も大切なことだからです。この時期に、わたしたちは父なる神様とイエス様がわたしたちに与えて下さった愛の大きさを、今まで以上に知ることができるように祈り求めたいと思います。そして、このキリストの言葉にいつも聞く者となること、この世界にイエス・キリストの十字架による救いを高く掲げて生きる者となることを願い求めたいと思います。
マルコによる福音書1章21-28節
顕現後第4主日の説教
一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 01:25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
●悪霊の働き
先週はイエス様が四人の漁師を弟子にしたことを聞きました。今日の日課には、イエス様がその弟子たちと安息日にカファルナウムの会堂に入り、そこで教えられたことが記されています。
イエス様の話を聞いて、「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のたようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」とあります。当時、律法学者たちが説教する時には、「昔の偉い先生もこのように教えている」と言って、自分の教えを権威づけたのです。しかし、イエス様は「誰それがこう言っている」という言い方ではなく、「わたしはこう言う」と語ったのです。山上の説教の五章には、「昔の人はこう言っている。しかし、わたしは言っておく」というイエス様の言葉がいくつもあります。こうした言い方は、「権威ある者」すなわち神にしかできない言い方だったのです。それは人々にとって大きな驚きでした。
しかし、さらに驚くことが起こりました。イエス様が、その時会堂にいた、汚れた霊に取り付かれた人から悪霊を追い出したのです。「悪霊」とは、悪魔のもとで働いている霊的な存在の事です。悪霊は人間に取りついて、その人の心を支配します。そして自分自身や他の人を傷つけたり、理性を失った行動をさせたりします。今日の聖書の個所で、悪霊にとりつかれた人は「『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。』と叫んだ」と書かれています。この男性の中にいる悪霊がこの人の口を通して叫んだのです。
ひとたび悪霊に取りつかれると、人間の力でそれを追い出すことは不可能だったのです。しかしイエス様は「黙れ。この人から出て行け」と言っただけで、悪霊を男の人から追い出したのです。イエス様の言葉は、権威あるもののように語られただけではなく、実際にその言葉には権威があったのです。聖書では「権威」という言葉は「力」という言葉と同じ言葉ですから、イエス様の言葉には力があったのです。
●現代に働く悪霊の力
現代のわたしたちは、今日の聖書にあるような悪霊の働きを見ることはほとんどありません。しかし、だからといって悪霊が働いていないのではありません。今でも悪霊は働いています。
第一に、聖書は偶像礼拝のあるところには悪霊の働きがあると教えています。コリントの信徒への第一の手紙一〇章一九節以下には、偶像そのものには意味は無いが、偶像に供え物をすることは悪霊に捧げることなのだ、と教えています。偶像なるものが存在するのではなくて、偶像を拝むように悪霊が働いているのです。
第二に、パウロは、テモテへの第一の手紙四章で「人を惑わす霊と悪霊どもの教え」と呼び、間違った教えの背後に悪霊の働きがあることを教えています。
最近もいわゆる「カルト」と呼ばれる団体のことが話題になりました。カルトには特にキリスト教の偽物が多くあります。それはキリストの教えに価値があるからです。一円や五円硬貨の偽造をする人はいません。一番高価な五百円玉や一万円札を偽造します。悪霊は価値あるキリストの教えを破壊しようとして多くの異端を作りだすのです。
偶像礼拝にしても、カルトにしても、人がひとたびその団体の教祖や教えを信じてしまうと、社会が彼らを非難しようと、親が泣いて訴えようと、その呪縛から抜け出すことができないのです。
宗教だけでなく、無神論的な思想も人々を狂気や殺意に駆り立てます。よく、宗教戦争で多くの人が殺された、と主張する人がいますが、歴史の中で最大の大量虐殺を行った人々は、無神論的な思想を持った人、あるいは無神論的な独裁者です。ロシアの作家ドストエフスキーは、「悪霊」という本によって、無神論的無政府主義者たちの内に働いている破滅的な力を著わしています。
●自由にするために
しかし、悪霊は今まで述べた人々にだけ働いているのではありません。使徒パウロはエフェソの信徒への手紙二章で次のように語っています。「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」
この「不従順な者たちの内に今も働く霊」とは悪霊のことです。パウロは悪霊はこの世の人々を支配している、と言っているのです。
悪霊は人間を支配し、真理と命の源である神から遠ざけている悪魔のもとで働いているのです。悪魔がそのために使うのは罪です。悪魔は人に罪を犯させ、罪を犯した人間が神を遠ざけるようになり、神を嫌うようにさせます。
そのように人間を神から離している力は、普段は表に現れませんが、キリストが近づく時、悪霊はその働き始めます。カファルナウムの会堂にいた人は、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」と叫びました。同じように多くの人々は、キリストが自分を不幸にし、不自由にすると思い、恐れるのです。あるクリスチャンは、教会に行くようになった時、「なぜイエスという人はこうもずけずけとわたしの心に入り込もうとするのか。これ以上関わらないで欲しい」、と感じたそうです。
わたし自身も教会で神様のことを学び始めたとき、わたしの体が鎖に繋がれていて、わたしが神に近づこうとすると引き戻そうとする力を感じましたが。そして「お前など神に受け入れられるはずがない」という声が聞こえてきました。今まで気づかなかったけれども、わたしの意志ではない、別の力がわたしの内にいたことを知ったのです。しかし、わたしの心を縛っていたその鎖も、神の子イエス・キリストが十字架でわたしの罪のために死んでくださった、というメッセージを信じた時、砕かれたのです。
イエス・キリストは、永遠の命、無限の命を持っておられます。そしてこの命はどんなに多くの人の罪も、またどんなに大きな罪でも償うことができるのです。このイエス様の赦しを受け取っている人を、悪魔はもはや神の前に訴えることはできず、自分のもとにつなぎとめておくことも出来ないのです。
キリストを信じると不自由になる、自分が生きたいように生きることが自由だと思っている人がいると思います。しかしそれは「自己本位」というブラックホールの引力中に閉じ込められている状態であると言えます。真の自由とは、真理と命の源である神に向かって生きることです。そのためにわたしたちを解放できるのはイエスキリストだけです。
イエス様はひと言で悪霊を追い出すことができました。しかし罪の鎖によって縛られている人間をその力から解放するためには、ご自分の命を捨てなければならなったのです。
わたしたちを解放するために十字架の道を進んでくださり、神を愛することができるようにしてくださったイエス様に心から感謝し、頂いた恵みを大切にしましょう。そしてこれからもたえずイエス様の力ある言葉を聞き、イエス様の力ある言葉によって神様に従う者になってゆきたいと思います。
マルコによる福音書1章14-20節
顕現後第3主日の説教
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だったイエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
●神の国は近づいた
イエス様は人々に、「時は満ち、神の国は近づいた」と呼びかけ、宣教の働きを始めました。
「時が満ちた」とは、神様が長い間予告されていた救いの時が来た、ということです。また、「神の国」とは「神の王国」、という意味で、マタイ福音書では「天の国」という言葉が使われています。それはこの世界とわたしたちを造られた神様が支配する世界のことです。それが戸口にまで近づいた、ということです。
神の国の対語は「この世」です。それは神を受け入れようとしない今の世界のことです。わたしたち人間は神様に特別に愛されたものとして造られました。そして特別な知恵や力を与えられました。しかし、ある時から人間は神を離れ、自分の満足のために知恵や力を使うようになりました。神はこの世は神様から与えておられるものだけを求めますが、神と神の教えは好みません。そして神を遠ざけています。そのような神に対立している人間の罪が最もはっきりと現れているのがイエスキリストの十字架です。
神と敵対したまま生涯を終わることは最も不幸なことです。しかし、神を遠ざけて生きてきたわたしたちの世界に、神の国が近づきました。神の独り子が人となってこの世に来られたことによって神の国が近づいたのです。
この神の国は、正しい人、立派なことをした人が入るのではありません。自分の正しさや行いで神の国に入ることのできる人はいないからです。神の子がこの世界に人となって来られたという出来事には、神の赦しがあらわれています。ですから高ぶりを捨てて、自分の背きを認めてキリストのもとに行くことが神の国に入るための唯一の条件なのです。「悔い改め」と呼は「向きを変える」、「立ち帰る」という意味で、神に背を向ける生き方から、わたしたちを招いておられる神へと方向を変えるということです。
「悔い改めて福音を信じなさい」とあるように、この福音は信じて受け取られるべきものです。ある人々は「神が愛であるなら、なぜ信じない人も救わないのだ」と言います。しかし、聖書の教える救いとは、人間が、神を愛する、という本来の状態に帰ることなのです。ですから神を愛することなしに救いは実現しません。神の子はこの世に来られ、その生涯を通して最大限の愛と赦しをわたしたちに示してくださったのです。そしてわたしたちがその愛を受け入れるのを待っておられるのです。この方を愛し、受け入れることが天の国の国籍を持つことなのです。
●人間の漁師にしよう
神の国の福音を伝え始めたイエス様は、その働きのために弟子たちをお召しになりました。イエス様は湖で漁をしていたシモン・ペトロとその兄弟アンデレを見て、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたのです。ここではいきなり声をかけたように見えますが、先週の日課には、すでにペトロもアンデレもヨハネもイエス様に出会っていたことが書かれています。彼らはイエス様の弟子となってました。イエス様はその彼らに、「あなたがたを、魚ではなく、人間を取る漁師にしよう、と言われたのです。「二人はすぐに網を捨てて従った」と書かれています。その後、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも声をかけました。すると「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」と書かれています。
ここで注意したいのは、シモン・ペトロとアンデレが「網を捨てて従った」、という言葉です。この後の、ヤコブとヨハネの兄弟が「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して」とある「残して」という言葉も同じ「捨てる」という言葉です。しかし、この「捨てる」という言葉はもう漁の仕事をしないとか、もう親の面倒を一切見ない、ということではありません。これはユダヤ的な言い方で、「優先順位が変わる」ということを意味します。
創世記二章で、「男は父母を離れてその妻と結ばれる」とありますが、この「離れて」、という言葉も「捨てる」という言葉です。それはそれまで最も近しい関係が、結婚すると夫婦の関係が最も強くなる、ということです。親はそこに割り込むことはできませんが、しかし親子の関係が無くなるのではありません。聖書は親を養うこと、親族を顧みることは大切な義務であると教えています。ここで彼らが網を捨てた、すなわち仕事を捨てた、父を残したということは、彼らにとって人々を神のもとに導くことが最も大切な仕事になった、ということなのです。
この世の職業はいつか退く時が来ます。家族の絆も大切ですが、永遠のものではありません。一番深い夫婦の絆でさえ、どちらも生きている間のものです。神だけがわたしたちに愛する者たちとの、死を超えた永遠の絆を与えてくださるのです。家庭や国家というものはこの世で永遠のものが伝えられ、育まれるための大切な器であると言えますが、今日の使徒書の日課の最後にあるように、この世の有様は過ぎ去ります。しかし神の国は決して滅びることはありません。
●わたしたちも神の国の働き人
最初の四人の漁師たちに起きたことは、わたしたちにも起きたことです。わたしたちも、いつまでも滅びることがない神の国を伝えるキリストの働きに仕えるために召されているのです。
人間はキリストによって現れた神の愛を知らなければ、神に帰ることができません。そして神を知らなければ、自分の本当の価値も、生きることの意味も分らず、また死を超えた希望を持つことも出来ません。この世の海の中に沈んでいる人々に福音を伝え、神の国に生きるようにすることが、わたしたちの最も大事な使命になったのです。
イエス様に最初に召された二組の弟子たちはそれぞれ兄弟でした。神の国の働きは、兄弟としての強い絆が必要なのです。そして神様はわたしたちのも共に神の国のために働く兄弟たちを与えてくださっています。
わたしたち皆が牧師や宣教師になるのではありません。皆が神の言葉を語ることができますが、自分から聞こうとしない他人に説教する必要もありません。
ペトロの手紙三章一五節に、「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」と教えられていいます。誰かが「あなたの信仰とはどのようなものですか」と聞かれた時に、答えることができるように備えていなさい、というのです。
しかし、この社会の中で他の人々と一緒に生活しているキリスト者にしかできない働きがあります。それは愛と誠実という光を照らすことです。また、キリストに受け入れられている者として、寛容な心で人々に接することです。このような人々に信頼される生き方を通して、人々が教会の語る言葉を信頼できるようになります。ある方が「『人を見て法を説け』という言葉があるが、『人を見て法を聞け』ということも大切だ」と言いました。教えというものは、まずそれを信じて生きている人々によってそれがよい教えかどうかが判断されるからです。そして世の光としていただくために、わたしたちはここでキリストの教えを聞き、それぞれの家庭や職場や地域に遣わされてゆくのです。
キリストの福音が公けに語られる場は教会です。今日も何人もの奉仕によってこの礼拝が行われています。座って福音を聞き、賛美をしておられる方も礼拝のための働きに仕えています。皆さんの礼拝する姿や讃美の声が他の人々を励ましているのです。また兄弟姉妹が互いに祈り合い、支え合うことも神の国の大切な働きです。
宣教の働きは教会の多様な働きが一ついなって進められてゆきます。たとえ小さく見えることでも、すべての働きが必要とされているのです。これからもわたしたちは神の家族、兄弟姉妹として、心を一つにして大切な神の国の働きに仕えてゆきたいと思います。
ヨハネによる福音書1章43-51節
顕現後第2主日の説教
その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
●キリストの弟子となる
今日の日課には、イエス様がフィリポという人とナタナエルという人をご自分の弟子にしたことが書かれていますが、この前の箇所では、二人の弟子とシモン・ペトロが弟子になったことが書かれています。二人の弟子の内の一人はアンデレという人で、もう一人の名は書かれていませんが、おそらくこの福音書を書いたヨハネだと思われます。なぜならこの人は、自分たちがイエス様に出会った時間を、この福音書に刻銘に記しているからです。
しかし、他の福音書では、アンデレもペテロもヨハネも、湖で漁をしている時、通りかかったイエス様に招かれて弟子になったと記されています。来週の福音書の日課であるマルコ福音書一章にもそのように書かれています。
このような違いは、ペトロやアンデレやヨハネがキリストの弟子になったのは、一回だけの出来事ではなく、幾つかの段階を経て進んで行ったことを示しています。もともと洗礼者ヨハネの弟子であったアンデレとヨハネは、洗礼ヨハネに教えられてイエス様のもとに行きました。その時からイエス様の弟子として学んでいた彼らが、湖で漁をしていた時、改めて、宣教のために従う者よう、イエス様に招かれたのです。
これはわたしたちにとっても同じではないでしょうか。わたしたちがイエス様に従うという決心をしたのはいつだったでしょうか。イエス様が神の子であることを知った時でしょうか。あるいは教会の一員としてイエス様に従ってゆこう、と決心して洗礼を受けた時でしょうか。実はそうした一つ一つの出来事やいろいろな気付きを通してイエス様に対する信仰と献身の思いが深まっていったのだと思います。
聖書の「弟子」という言葉には,「継続して学ぶ者」という意味があ るそうです。わたしたちの信仰生活とは、継続してキリストに学び、継続してキリストに従ってゆく歩みであると言えます。新しい年も、さらにキリストの弟子となることを目指して歩んで行きたいと思います。
●フィリポとナタナエル
今日の日課は、さらにフィリポとナタナエルがキリストの弟子になったことが書かれています。まずフィリポがキリストに従い、そしてフィリポは友人のナタナエルに、キリストに出合ったことを伝えました。するとナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったのです。ナザレの町があるガリラヤ地方は、かつて外国に占領され、異国の影響を受けているとして、イスラエルの中で軽蔑されていたのですが、ナザレは、他のガリラヤ人さえも軽蔑していた町でした。
しかし、ナタナエルはそのような偏見の中に閉じこもるのでなく、イエス様についての友達の証言を聞いて、自分の目で確かめるためにイエス様に会いに行ったのです。その点で彼は誠実な人でした。
イエス様は近づいてくるナタナエルを見て、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言いました。「どうしてわたしを知っておられるのですか」と驚くナタナエルにイエスは、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われたのです。それはイエス様がナタナエルがいた場所のことを知っていたというだけではなく、彼がどういう人であるかを示す言葉です。イスラエルでは、いちじくの木の下で祈り、黙想したそうです。彼はいちじくの木の下で祈り、思い巡らし、自分とイスラエルの救いを求めていたのです。「その心に偽りがない」ということは「自分をごまかさない」ということです。イエス様は彼の無礼な言葉も知っていました。しかしイエス様は彼の欠点ではなく、彼の誠実さを認められたのです。
わたしたちもイエス様に会う前から、イエス様はわたしたちを知っておられたのです。イエス様やキリスト教に対する誤解や偏見があったにも関わらず、また罪やまた罪や欠点があるにも関わらず、道を求めるわたしたちの心を見ておられ、わたしたちをご自分のもとに招いてくださったのです。
●天が開けて
ナタナエルは、イエス様がご自分のことを見抜いておられることを知って、イエス様を信じました。その彼にイエス様は、「あなたはさらに偉大なことを見るであろう、天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」と言われたのです。
「人の子」とはイエス様のことです。「神の天使たちが人の子の上に昇り降りする」という「上に」とはイエス様の頭上のことではなくて、ィス様という階段の上を天使が昇り降りするということです。
創世記二八章に、ヤコブが見た夢をことれています。ヤコブは双子の兄のエサウをだまして、長子の祝福を奪い取り、兄の怒りを逃れて、たった一人で遠い親戚の家に向かっていました。もう二度と父の家に戻れない。いったいこれからどうなるのだろう・・・。そんな絶望的な思いで旅をしていたヤコブが、石を枕に野宿をしたとき、天が開けて、頂きが天に達する階段が地上に向かって伸びており、神の天使たちがその上を昇り降りしているという夢を見たのです。そして神が彼に「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(創世記28:15)と語りかけたのです。
眠りから覚めたヤコブは、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と言いました。彼はその地をベテル、すなわち「神の家」と名づけ、希望と勇気を与えられて旅を続けたのです。
イエス様は弟子たちに、「わたしが、ヤコブが見たあの天からの階段なのだ」と言われたのです。イエス様がおられるところでは天が開かれています。そして神の使いがイエス様という階段を昇り降りしているのです。「昇る」ということが先に書かれているのは、み使いがヤコブの必要としていることを天に伝える、ということです。そして「降る」とはその報告を受けて、ヤコブに必要な助けを与えるために他の天使が遣わされる、ということです。親が子どもの気付かないところで配慮しているように、ヤコブが気付かないところで神様はヤコブを守り、支えておられたのです。
イエス様を信じているわたしたちも、まだ多くの悲しみや苦しみがあるこの世で生きています。今も戦争や自然災害で苦しむ人々を見ると胸が締め付けられる思いがします。 荒野でひとり野宿をするような思いで過ごしている人々がおり、わたしたちも同じ危険や弱さや将来への不安を抱えて生きています。
しかし、イエス様がおられるところでは天が開かれ、主が共にいてくださるのです。そして最悪であると思われる時でさえ、わたしたちに必要な支えを下さるのです。
「わたしは、決してそのように神に愛していただくのにふさわしい者ではない」と思うこともあります。しかし欠けの多いヤコブをその信仰のゆえに選び、守られた神様は、ご自分の御子を信じるわたしたちに同じ助けを与えてくださるのです。
わたしたちは、信仰というものを、天の高みを目指して昇ってゆくことととらえがちですが、イエス様という階段はわたしたちが昇るものではなく、天から地に伸びているのです。
「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見る」とイエス様が語れられた「見る」とは、目で見るということよりも、「心で見る」とか「経験」する、という意味です。この一年、神の子であるイエス様への信仰によって、「まことに主がここにいてくださった」ということを経験してゆく、そのような歩みをさせていただきたいと思います。