2025年の礼拝メッセージ(斉藤幸二牧師)
2025年の礼拝メッセージ(斉藤幸二牧師)
聖霊降臨後第16主日の説教
「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
●金持ちの罪とは?
今日は、ある金持ちとラザロのお話です。高価な着物を着て毎日贅沢に遊び暮らしていた金持ちがいました。その玄関の前に全身できものに覆われた貧しいラザロが横たわっていて、犬がそのできものをなめていました。
この二人の人間のどちらが幸福だったでしょうか。地上での生活だけ見れば確かに金持ちの方が幸せだったに違いありません。しかし、金持ちもラザロも死にました。そして今日の聖書は、死の先に神の裁きと永遠の世界があることを教えています。金持ちは人々によって葬られましたが、ラザロは葬式さえしてもらえませんでした。しかし、彼は天使たちによってアブラハムのふところに運ばれました。そして金持ちは燃えさかる炎の中でもだえ苦しみました。
何がこのように二人の運命を分けたのでしょうか。イエス様は先週のお話の最後のところで、「人は神と富とに兼ね仕えることはできない」と教えられました。金持ちはお金を愛し、お金が彼の頼るものになってしまっていたのです。反対に,ラザロは神様に助けを求めました。ラザロという名前は、「神は助け」という意味です。ラザロは貧しさの中で神に頼る者とされていたのです。
この金持ちは、お金に信頼して神への信頼を忘れただけでなく、富むことによって貧しい人への憐れみも忘れました。21節に、ラザロは金持ちの「食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」とありますから、そう願っても食べることができなかった、ということです。金持ちは、ラザロに対する憐みの心、同情の心を持っていなかったのです。
「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」といった人がいます。憎しみは、まだ相手のことが心にあるのです。相手にこうあって欲しいという期待や関心があるから憎しみや敵意が生まれるのです。でも無関心というのは相手を何とも思わないことですから、憎しみ以上に愛することから離れているのです。
この金持がラザロを殴ったとか蹴ったということは記されていません。彼はラザロに対して無関心だったのです。無関心ということは。言い換えれば、自分がすべてであって、隣人に対する憐みの心を持たない、ということです。
今、ウクライナでの戦争が続いています。わたしたちは「何と酷いことをするのだろう」と憤慨しますが、日本人も昔は日本の軍隊が大陸に渡って隣国民を殺し、領土を奪っているのを応援していたのです。他者の痛みを感じないことは、積極的に人に害を与える行いと結びついています。子のたとえ話の中の金持ちは、憐れみの心を持たない者として、神の裁きを受けました。
●もう一人の兄弟
陰府に落とされた金持ちは、アブラハムを「父」と呼んでいます。イスラエル人は、自分たちは皆アブラハムの子であると考えていました。だとしたら金持ちにとって、このラザロもアブラハムの子であり、同じ父のもとにいる兄弟であったはずです。彼は、わたしには五人の兄弟がいる、と言っています。ということは彼も含めて六人兄弟だということになります。子どもが歌う「アブラハムには七人の子」という歌がありますが、聖書を読むと、アブラハムには実際に七人の子がいたことが分かります。アブラハムにはサラから生まれたイサクとイシュマエルがいました。そしてサラが死んだとアブラハムはケトラという女性によって五人人の子をもうけています。アブラハムの妻から生まれた子は合わせて七人ということになります。
この金持ちにとって、一番近くにいた隣人のラザロもアブラハムの子であり、彼の七人目の兄弟であったことを聖書は教えているのです。金持ちは自分の兄弟たちにはこんな苦しみを味あわせたくない、と言いました。彼は自分の身内である兄弟を愛していたのです。しかし聖書は、自分の家族や血縁を超えて、わたしの助けを必要としている隣人を愛することを命じているのです。
この話は、イエス様が金に執着するファリサイ派の人々たちに対して語られた話です。先週学んだように、イエス様は「不正な富を使ってでも自分を永遠の家に迎えてくれる友を作りなさい」教えました。その後に、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。」とあります。律法学者たちは裕福な生活をしていましたが、彼らは「正しい人々は神様によって祝福され、豊かな生活をすることができる」という考えを持っていました。そして、今の生活を変えることも必要ないと思っていたのです。
今でも,「わたしはまじめに働いているから食べてゆけるので、貧しい人々は努力しないから貧しいのは当然の結果だ、とどこかで決めつけています。かつてレーニンが、「働かざる者、食うべからず」ということを言いましたが、これは使徒パウロの、「働こうとしない者は食べることもしてはならない」(第二テサロニケ三:一〇)という言葉から語られたものです。
しかし、パウロは、働きたくても働けない、あるいは働いても十分に生活できない人のことを言っているのではありません。
●彼らには聖書がある
陰府に落とされた金持ちはアブラハムに、「ラザロを兄弟たちのところに遣わしてください」、と頼みました。死人の内からよみがえって忠告してくれる人がいれば、兄弟はその人の言うことを聞き入れるしょう、というのです。しかしアブラハムは彼に、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」と答えました。
アブラハムの言う「モーセと預言者」とは旧約聖書のことです。ユダヤ人たちは神から聖書を与えられていました。この聖書に耳を傾ける、という姿勢がないならば、どんな奇跡を目にしても、たとえ死人がよみがえって忠告したとしても、信じないだろう、というのです。
イエス様のこの言葉は現実のこととなりました。イエス様はヨハネ福音書11章で、同じ名前のラザロをよみがえらせています。しかしそれを見たファリサイ派の人々はイエス様を信じるどころか、かえってイエス様を殺そうとし、またイエス様の証人であるラザロをも殺そうと考えたのです。ラザロの復活という事実に接しても彼らはイエス様の語る言葉に耳を傾けようとはしなかったのです。聖書に耳をハタ向けようとしなかった彼らは、死者が復活したのを見てもイエス様を信じることができなかったのです。
聖書の掟は、神の愛と救いを前提として与えられています。神様はエジプトで奴隷となって苦しんでいるご自分の民を憐れみ、救ってくださいました。それで神様は、イスラエル人々にも、憐れみを受けた者として弱い立場の人、貧しい人に対して、憐れみ深い者となりなさい、と教えています。
神様はユダヤ人だけでなく、全世界の人々を憐れんでおられます。神はわたしたちを憐れみ,ご自分に御子を与えてくださいました。そして、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ六:三六)と教えています。神の憐れみに生きる人はほかの人への憐みに生きる者となります。^
使徒パウロは、「重要なのは、愛によって働く信仰である」と言っています。神に対する信仰は必ず愛という形になって働くからです。信仰の兄弟に対する愛、また困窮している人々への愛は、わたしたちの信仰,神への愛と感謝が真実であるかどうかを示すしるしであるということです。
聖書は、永遠のベストセラーと呼ばれ、世界に広まっています。今の日本では誰もが手にすることができます。しかし、「彼らには聖書がある」という言葉を、誰よりもわたしたちに向けられた言葉として受け取りたいと思います。神様が、イエス・キリストを信じるわたしたちに、どのように生きることを願っておられるのか。わたしたちは聖書からそれを聴き、またその御心に生きることができるように願い、祈ってゆきたいと思います。
聖霊降臨後第15主日の説教
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
●人生の会計報告
今日のイエス様のたとえ話は、主人から財産の管理をまかされていた管理人が、その財産を無駄遣いしてしまった、というお話です。前の聖書の訳ですと「浪費している」と訳されています。現代でも会社のお金を遊ぶために使ってしまうという事件が起こりますが、この管理人も、自分の手元にある主人の財産を自分の財産であるかのように思い込んでしまったのです。
わたしたちは、考えることができる頭や心を持ち、体や命を持っています。わたしたちは自分で頭や心や体や命を造ったのではなく、神様が与えてくださったのです。です。でもわたしたちは、神様は、わたしたちがどうそれを使うことを求めておられるのだろうか、ということは考えてきませんでした。わたしは誰のものでもない、偶然に生まれたのだ。だからわたしの思いのままに生きてゆくのだ、と考えてきました。自分の人生が神から預けられたものであることを考えないで、「わたしの命、わたしの財産、わたしの家庭」と考えて、それらを与えてくださった神様の御心に聞くことをしてきませんでした。もし、人間が罪を犯さなかったなら、わたしたちの心は神様の心と一つになって、わたしたちは神様が喜ばれる生き方だけをしてきたことでしょう。しかし、わたしたちは皆、心に自己中心の罪があり、神の御心から離れてきて生きてきました。わたしたちは神の御心から離れて行ったことのすべてを神の前で問われる時が来ます。つまりわたしたちも、それぞれの人生の会計報告を出す時が来るのです。この世界で不正が裁かれるように、神様の前で本当の審判が行われる時がきます。
わたしたちは、いつも自分を基準にし、裁きを受けるのはわたしよりも悪い人だ、と考えがちです。しかし、神の裁きは公平です。一億円ごまかした人は裁かれるが、百円ごまかした人はオーケイ、ということはありません。
家でテレやスマホばかり見ていると、戦争や犯罪のニュースが飛び込んでくるので、「彼らはとんでもない悪人だ」と、わたしたちは憤慨するのですが、見た目の違いがあっても、わたしの内にもそのような悪があるのです。わたしたちが教会の礼拝で神様の前に立つときに、そのことが分かってくるのです。
わたしたちが自分の人生を振り返る時、わたしもこの不正な管理人なのだ、と思わずにはいられません。しかし、わたしたちは過去に戻って人生をやり直すことはできないのです。子の管理人のように、神による決済の時を待つ身なのです。
●友を作る
イエス様のたとえ話で、不正を働いた管理人に残されている時間はわずかでした。彼は職を失う前に、必死に自分が生き延びる道を考えました。そして自分の主人に借りがある人々を呼んで、彼らが主人に対して負っている借りを減らしてあげたのです。そうすることで、彼は、管理人をやめさせられた自分を迎えてくれる友達をつくろうとしたのです。管理人は、油百バトス返してもらえるはずのところを半分にしてあげました。百バトスの油は二千三百リットルで、現在の価格は1千万円になるそうです。その半分ですから、五百万円の借金を免除されたことになります。
また小麦一コロスは二百三十リットルで、百コロスは二十三万リットルであり、値段は二千五百万円になります。それを八十コロスにしてもらった問うことは、やはり五百万円の負債を免除されたことになります。こうして管理人は負債を負っている人に恩義を示すことで、自分が失職した時に彼らに迎え入れてもらう道を開いたのです。
ところが、そのことを聞いた主人はその管理人をほめた、というのです。主人は管理人の不正をほめたのではなく、その賢さをほめたのです。彼はなおも主人に損害を与えている不正な管理人です。しかし、管理人は必死に自分に残された時を生かし、自分が生き延びる道を造ったからです。
イエス様はこう言っておられます。
「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」
ここでイエス様は教えておられることは、わたしたちが今からどのような良い行いをしたとしても、自分の罪を償うことができない、ということです。しかしイエス様は、「罪びとであるあなたの行いであっても、地上の富を、友をつくるために使いなさい、」と言われるのです。
それでは、わたしたちにとっての友とは誰でしょうか。それは神様です。神が送ってくださったイエス・キリストです。イエス・キリストはわたしたちの罪を償うためにその尊い命を捧げてくださったのです。
このキリストを友とするためには、第一に、「わたしはイエス様を信じます」と告白して、イエス様の愛を受け入れることです。
そして第二に、キリストの友として誠実さを示すことです。「友だち」とは一方的に利用する関係ではなく、お互いに誠実を尽くす関係だからです。キリストは人間としてこの世に生まれ、赤ちゃんのときからマリアやヨセフのように、彼に奉仕し、仕える人々を必要としてきました。イエス様はわたしたちの助けが無ければ何もできない方ではありません。しかし、イエス様はわたしたちの働きを必要としてくださり、また喜んでくださいます。今、イエス様ご自身は見えませんが、イエス様のからである教会は目ンお前にあります教会や兄弟姉妹に仕えることでキリストに仕えることができるのです。
そしてそのようにキリストを愛し仕える人々に、
「わたしの父の家には住む所がたくさんある。…行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」(ヨハネ十四:二,三)と約束してくだるのです。わたしたちは洗礼を受けて教会に属するものとなりますが、それはわたしたちたちが力を合わせてキリストの体である教会の働きに仕えるためなのンです。
三番目に、キリストが心にかけておられる弱い立場の人々に仕えることによって、イエス様の友となるのです。次週は金持ちとラザロの話が取り上げられます。金持ちは貧しい哀れなラザロに無関心であり、助けることをしなかったので、神を友とする道ではなく、神を遠ざける道を選んでしまいました。
わたしたちは教会に関わることで、様々な助けを必要とする人々に心を向け、支援する機会をもちます。これもまた神を友とする道なのです。
●忠実であること
繰り返しになりますが、わたしたちが自分の時間や財産を使って行う奉仕も、それによって罪の埋め合わせをすることはできません。しかし、わたしたちに愛と誠実さを示されたイエス様を友とすることができます。そしてイエス様に友としての誠実さを示すことができるのです。
イエス様は、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」(一六:一〇)と語っておられますが、この「忠実」という言葉は「信仰」と同じ言葉です。ですから「不忠実な信仰」というものはありません。
しかし、神とキリストに仕える忠実な生き方は決して簡単なことではありません。なぜなら、わたしたちは神を友とする生き方よりもこの世を友とする生き方を求め、神の前に富む生き方を求めるよりも、自分を喜ばせる事を求めようとするからです。
イエス様は、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない」と言いました。必ずどちらか待遇の良い方にだけ仕えるようになるからです。ここに信仰の歩みの難しさがあります。わたしたちはこの世を友とするなら、必ずやがて神の道遠ざかり、教会が困っていても、兄弟が困っていても、まったく関心を持たないようになってしまうのです。
しかし、どんなに欲張っても、わたしたちの持っているものはいつか失われてゆくものです。でも、その限りあるものを、命をかけてわたしたちを愛し、永遠の家に招いてくださるイエス様のために使うことができるのです。
「わたしには才能も財産もないのだから、たいした役には立たない」などと決めつけてはなりません。小さく見えても、あなたの友情をキリストは必要とされているのです。皆さんの中には、礼拝が終わってすぐに家に帰らなければならない方もいます。けれども、忠実に礼拝に参加しているその姿は、わたしにとって大きな喜びです。わたしたちはそれぞれにできることは違いますが、イエス様の忠実な友でありたい、と願う心は同じでありたいと思います,神の力に助けられて、自分に与えられているものを喜んでイエス様のために使いたいと思います。して最後までキリストに忠実な者でありたいと思います。
聖霊降臨後第14主日の説教
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
●罪人と食事をされるイエス様
教会では、よく一緒に食事をします。一緒に食事をするということには大切な意味があります。それは仲間として、また神の家族として一緒に生きていることを覚え、その絆を深めるということです。
イエス様も様々な人と食事をされました。その中には当時の人々から、神様から遠く離れているように思われていた徴税人や罪人たちがいました。「徴税人」とは当時ユダヤを支配していたローマのために、同胞から税金を集める人です。敵の国のために同胞から税金を取り立てる、というだけでも嫌われるのに、たいてい彼らは役得として、余計に税金を取りたてて、私腹を肥やしていたので、一層嫌われていたのです。
また、「罪人」という言葉は、文字通り罪を犯した人のことですが、また、当時の宗教的習慣や儀式を行っていない人々、という意味もあります。そのような人々も、喜んでイエス様の教えを聞いていたのです。
しかしそれを見ていたファリサイ派の律法学者たちは、「なぜ彼は罪人と一緒に食事をするのか」と不平を言いました。「ファリサイ」とは「分離」という意味で、神の掟や儀式を守っていない人たちや罪人たちとは決して付き合いませんでした。ですから、イエス様が本当に神の人なら、罪人と食事を共にするはずがない、と思ったのです。
イエス様は、彼らに三つのたとえ話をされました。一つ目は、迷子になった一匹の羊の話です。ある人が百匹の羊を持っていましたが、そのうちの一匹がいなくなりました。羊の持ち主は他の九十九匹をおいてその一匹を捜しました。二つ目は、十枚のうちに一枚をなくした女性が、家の中を見つかるまで捜したというお話です。そして三つめは「家出をした息子」のは何誌です。今日はそのうちの二つが読まれました。
●失われたものを捜す神
この三つのお話に共通することは何でしょうか。第一に、それは、どれも「失われたもの」についてのお話である、ということです。羊にしても、一枚の銀貨にしても、持ち主の手から離れている、ということは「死んでいる」ということでもあります。羊飼いのもとから迷い出た羊は、自分では帰ることができないので、飢え死にするか、獣に襲われてしまいます。
また、お金は人間の手を離れてしまったら、そのお金はただに紙切れに過ぎなくなり、「死に金」となります。
神様は、すべての造られたものの中で、人間を、ご自分を愛することができるものに造られました。そして神の愛の内にあって永遠に生きる者とされたのです。しかし、わたしたちが神から離れたままでいる時、わたしたちは神に対して失われたものであり、死んだ者なのです。
また、階から離れると、わたしたちは自分や他の人の本当の自分の本当の価値を見失ったものとなっています。皆さんのお財布の中には、新しいお札も、古びたお札も入っているかもしれません。もし、これがお金でなく、ただの紙切れであったら、新しい神の方が古い紙切れよりも価値があります。しかし、それがお札であれば、古くて汚れていても、新しいお札と同じ価値を持っています。わたしたちは、若いとか、年寄りであるとか、仕事ができるとかできないというような面で人の価値を測ります。しかし、わたしたちの所有者である神に帰る時、わたしたちは自分の本当の価値を見だすことができるのです。
イエス様のたとえ話の二つ目の共通点は、失われたものを熱心に探す、持ち主の姿です。なぜ一匹の羊のために、羊飼はそれほど一生懸命探したのでしょうか。また、なぜ女性は一枚の銀貨のために手間をかけて探したのでしょうか。それは彼らが羊の持ち主であり、また銀貨の持ち主だからです。
わたしたちにも、他の人にとっては、それほど大きな値打ちがないように見えても、わたしにとっては大切なものであって、もし失くしたなら、見つかるまで探し続けるものがあるのではないでしょうか。持ち主ではない他人は、「羊一匹いなくなっても、まだ九十九匹いるのだから、危険を冒してまで探すこともないのに」と言うかもしれません。また、「銀貨は家の中にあることが分かっているのだから、いつか出てくるでしょう」と言うかもしれませんが、失くした当人は、銀貨を見つけるまでは決して落ち着かないのではないでしょうか。イエス様は、「あなた方が羊の所有者であり、あるいは銀貨の所有者であったら、同じようにするでしょう」と言われたのです。
わたしたちは、目には罪に汚れていても、小さなものに見えても、持ち主である神様にとっては、かけがえのない一人なのです。他人のものではなく、自分の羊として、他人のお金として、また他人の子どもではなく、自分のかけがえのない大切な子どもとして見ておられるのです。イエス様はそのような父なる神様と心を一つにされて、わたしたちを見つけ出すために、この世界に来てくださったのです。イエス様は、命をかけた愛を示して、わたしたちを、神を愛する者へと回復してくださったのです。
●神の喜びに仕える
今日のお話に共通する三つ目のことは、失われたものを見つけ出した人の喜びです。他の人にも自分と一緒になって喜んで欲しいと思うような大きな喜びです。自分のもとから失われていた大切なものが戻った喜びを経験した人はその喜びが分かるはずです。
イエス様は、「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(一五:一〇)と教えられました。
罪びとと呼ばれていた人々と一緒に食事をしていたイエス様を批判したファリサイ派の人々や律法学者たちは、自分たちは神に近い者だと考えて思っていました。しかし、本当に神に近い人なら、神様と同じ心で、罪人が神に立ち返ることを一緒に喜ぶはずではないでしょうか。「わたしもこのような神の愛を受けているのだ、」と喜ぶはずではないでしょうか。今、イエス様のそばに、イエス様によって見つけ出され、神のもとに帰った人たちがいます。神を愛するようになった人がいます。それはイエス様にとって大きな喜びでした。ですからイエス様は、「わたしと一緒に喜んでください」と言っておられるのです。
教会は、イエス様に見出され、神のもとに帰ることができたお互いを喜び合うところです。そして、今も失われた人を救おうとされる神様のお働きに仕える者たちの集まりです。
この世界には、人間の造り主である神、また持ち主である神のもとから迷い出て、失われている人々がいます。自分はこの広い宇宙の中で偶然に生まれ、消えてゆく塵のようなもののように考え、生きている間がすべてである、と考えている子どもたちがいます。うわべだけでしか自分を見ることができず、本当の自分の価値を見失っている多くの人はいます。神様の愛を知ったわたしたちは、こうして礼拝で神の愛を伝えていますが、わたしたちが遣わされてゆく社会の中で、人々に出会う時も、失われた人を捜し求めるイエス様の眼差やイエス様の声をもって出会うことができます。「あなたは神に愛されているかけがえのない人です」、という思いで接することができます。そしてわたしたちの行いを通して神の愛をあらわすことができます。わたしたちはそのようないイエス様の心を持たせていただくために、ここで一緒に祈りたいと思います。
わたしたちは今日、イエス様に見出された感謝の内に、新たな思いで神様の喜びのために仕えてゆきたいと思います。
聖霊降臨後第12主日の説教
安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、 1あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
●上席に座ろうとする人々
今日の福音書には、イエス様がファリサイ派の議員から招かれた食事の席で語られたこと餓書かれています。ここでの「議員」とぱ、ユダヤの国に七十人しかいませんから、大変身分の高い人だったと言うことができます。そこに招かれていた人たちも、身分の高い人たちだったでしょうし、お互いに自分の地位を意識していたのではないでしょうか。
当時は紙に書いた席順というのはなかったようですが、地位の高い人が上席につく習慣があって、招待された人は、だいたい自分はこれくらいの席がふさわしいと、見当をつけて座ったのです。でも、できるだけ上の方の席に座ろうとしたのではないでしょうか。イエス様はそのような人々の様子を見ておられたのです。 そして、弟子たちに、「婚宴に招待されたら、上席についてはならない。あなたより身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て,『この人に席を譲ってください』というかも知れない。そのとき、あなたは恥をかいて末席につくことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、さあ、もっと上席に進んでください』と言うであろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」と教えられました。
最初から高い席に着こうとすると恥をかくので、はじめの方は低い席に座っていなさい、と言うことですが、イエス様はただ宴会に招かれたときの作法を教えられたのでしょうか。ただそれだけであるなら、わたしたち日本人は普段からイエス様が教えたとおりにしているからです。つまり、内心はともかく、表向きはお互い謙遜に上席を譲りあいます。
●天の宴会に招かれたわたしたち
しかし、ここではイエス様はそのようなこの世の知恵を語っておられるのではありません。イエスは「彼らにたとえを話された」と書かれています。そしてたとえ話の内容も食事会から婚宴に変わっています。婚宴は、結婚を祝う喜びの時です。聖書では、神の国に招かれることは、天における婚宴に招かれる、ということです。福音書にはイエス様が語られた婚宴の話がいくつかあります。クリスチャンとは、この招きを受け、その招きに応えている人々のことです。そしてイエス様は、招かれた人たちがどのようにふるまうのかということを、今日の箇所で教えておられるのです。
イエス様は、「婚宴に「招かれたときには」、と語られていますが、神様がわたしたちを神の国に招いてくださるとき、それは本当の意味での招待です。たとえば、食事会などでも参加費はいくら、と決めている場合があります。結婚式も、「招待状」と書いてありますから、基本的には無料の招待なのです。
わたしたちが神様の国の宴会に招かれたのも、本当の意味での招きです。神の国は、わたしたちが自分の働きや功績によって入ることはできません。そのような資格を問われるなら、わたしたちの落ち度や罪のほうがはるかに大きく、神の国にふさわしい人はひとりもいないからです。わたしたちが神の国に入ることができるのは、神様の一方的な恵みによるものです。父なる神様は御子であるイエス・キリストを神の国への招待者として送ってくださったのです。このキリストの招きに応える人々は誰でも神の国に入ることができるのです。なぜならキリストがわたしたちを神の国にふさわしい者としてくださったからです。
そのように招待された人々の中で、招いてくださった方、すなわち神に喜ばれる人とは、自分の立派さでそこに招かれたのだと自負する人ではなく、まったく神の恩恵によるものと感謝している人です。神の国においては、自分の正しさや地位を誇る人ではなく、神様の恵みを知り、喜んでそれに応える人が最も神様の近くに呼ばれるのです。
このルカ福音書十九章には、徴税人ザアカイのお話があります。エリコの町に来られたイエス様は、町の人たちからさげすまれていた徴税人ザアカイに、「今日わたしはあなたの家に泊まる」と言ったのです。イエス様は、自分が正しいと思っている人の家ではなく、ザアカイの家に泊まったのです。それはザアカイが心の中で神の恵みと憐れみを求めていたからです。
神様は、心の砕かれた人、へりくだる人とともに住む、と聖書にあります。神の前に自分を低くする人に、神は近くいてその人を尊んでくださるのです。
●誰を友とするのか
イエス様は、客を招いた人に対しても、次のように教えました。
「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持も呼んではならない。彼らもあなたを招いて、お返しをするかもしれないからであある」。
ここでイエス様は、「招いてはならない」と言われたのは、絶対に招いてはならないということではなく、招き続けてはいけない、つまり。それを習慣にしてはならない、という言葉です。むしろお返しのできない、体の不自由な人や貧しい人を招きなさい、と言われます。
このイエス様の言葉は、第一に、この世の中で高く見える人ではなく、低く見える人を大事にするかにによって、その人が、神の前に自分を低くしているかどうかが示されることを教えています。この世で立派に見える人の方を大事にするなら、わたしたちはそれによって自分をより高い所に置こうとしていることになります。イエス様は、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と言われました。わたしたちが神の前に自分を低くしているか、どうかは、わたしたちがだれを大事にしているかによってはかられます。
初代教会の時から、教会はこの世の富める人々や有力な人よりも、社会的地位の低い、貧しい階層の人々の方が多くいました。多くの人にとって、そのような集団に入るよりは、この世でもてはやされる人々といる方がはるかに誇らしい、と思ったことでしょう。また、教会員になったとしても、その中の身分の高い人々とだけ付き合おうとする人もいたかもしれません。パウロは、ローマの教会に対して、「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」(ローマ一二:一六)と教えています。
神の御子であるイエス様は、はるかに低く、小さなわたしを友としてくださり、婚宴に招いてくださいました。その恵みにふさわしく歩んでゆきたいと思います。
第二に、このイエス様の言葉は、わたしたちがこの世の消えてゆく栄誉ではなく、神の前での最終的な栄誉を求めるべきことを教えています。返礼をあてにしてもてなすのは本当の愛ではありません。見返りを求めない本当の愛が、神によって報われるのです。このような善い行いにおいて豊かになることが神っからの誉れを受けることになります。
聖書は、わたしたちのこの世での生き方は、将来の復活の命と無関係ではないことを教えています。ガラテヤの信徒への手紙六章に、次のように教えられています。
「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」
わたしたちが、この世界で行った見返りを求めない愛の行いは、天国の婚宴でわたしたちの身を飾る衣となるのです。(黙示録一九章:八-九)そしてそのような愛の業は、イエス様への信仰と感謝から生まれます。
イエス様が、弱く貧しいわたしたちに示してくださった愛を覚えて、わたしたちもよい行いに富む者になりたいと思います。
聖霊降臨後第11主日の説教
安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
●解放者イエス
イエス様は、安息日に会堂で教えておられましたが、そこに十八年間、病の霊に取りつかれて、腰が曲がったままになっていた女性がいました。まだ腰が曲がる年齢ではないのに、背中を伸ばすことができなかったのです。イエス様はその女性を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、 曲がった腰に手を置かれました。女性は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美しました。
この女性は、「病の霊にとりつかれた」と書かれていますが、この福音書を書いたルカは医者でしたから、この女性の病気が普通の病気ではなく、霊的な力によるものだと判断したのです。イエス様も十六節で、「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。」と言ってでおられます。イエス様がこの女性を癒された時の言葉も、もとの言葉は、「あなたは病から解かれた」、すなわち「解放された」という言葉です。この言葉は、イエス様が、悪魔の力から人間を解放するために来られた方であることが示されています。
旧約聖書には、二つの大きな解放の物語が記されています。その一つは「出エジプト」です。エジプトで奴隷にされていたイスラエル人たちは、モーセによって解放されました。なた、もう一一つの解放は、バビロン捕囚からの解放です。神に対して罪を犯したイスラエルは、バビロンに連れてゆかれ、国は失われました。しかし、その時も神は解放の時が来ることを予告され、その通りにイスラエルの人々は解放されて故郷に帰ることができました。
その二つの解放の歴史は、やがて実現するメシアによる解放の時を示しています。イエス・キリストはイスラエルだけではなく、すべての人を悪魔の束縛から解放する方として来られたのです。イエス様が行った奇跡も、イエス様が悪魔の力から人々を解放するためにられた方であることを示しています。
●安息を与える方
しかし、この癒しの出来事を見た人の中には、イエス様を非難する人たちもいました。この会堂の責任者であった会堂長は、イエス様が安息日に病人を癒やされたことに腹を立て、群衆に向かって「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」と語ったのです。イエス様に直接言わないで、群衆に語ることでイエス様に対する批判をしたのです。
イスラエルの歴史の中で、人々が偶像を拝み、また安息日を無視した時代がありました。このん以外経験から、今度は厳しく安息日を守るようになりました。そのために安息日に何をしたら仕事をしたことになり、安息日を破ったことになるのか、という規定を作ったのです。それには、安息日に病気を癒すことも仕事になるという規定もありました。病気が悪化しないような治療は良いけれども、積極的に病気を治すような治療は禁止されていたのです。イエス様は、病気を完全に治す働きをしたので批判されたのです。
しかし、そのような規定は人間が作ったものであって、聖書の教えではありません。ユダヤ人たちは自分たちが作った規則を神の教えのように見なしていました。そしてその規定を破ったイエス様をメシアであると信じることができなかったのです。
イエス様は、「あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」と言われたのです。
動物がえさを食べる飼い葉桶は石でできていて、家畜部屋の中にあり、それに家畜をつないでいました。ユダヤ人は安息日であっても水を飲ませるために家畜を飼い葉桶から解放したのです。
安息日はもともとイスラエルの人々がエジプトでの奴隷生活から解放され、安息のない状態から自由と安息を受け取ったことを記念するために神が定めた日です。ですから安息日には、自分のための仕事は休んでも、重荷を負っている他の人々を助け、安息を与えることは、むしろ安息日にふさわしいことだったのです。
イエス様を批判した人々は、安息日に癒さなくても、他の日に癒せばよいではないか、と言いました。しかしそれは憐れみのない人の考えです。苦しんでいる人を思iyaruなら、一秒でも早く救うのが正しいことです。それは後回しにしてはならないことです。
イエス様による解放の出来事を受け入れることができずに批判した人々の過ちは、自分たちが神に受け入れられるためには、神の掟を落ち度なく守ることだ、と考えて、神が予告した解放者であるキリストを受け入れなかった、という点にあります。自分で自分を罪と死、悪魔の力から解放できる人はいません。ただひとり、悪魔に勝った方、そして罪と死に勝った方だけが他紙たちを解放することができるのです。
●すべての人の解放者
イエス様が会堂で一人の女性になさったことは、またわたしたちすべての者のためにしてくださったことです。
イエス様によって病から解放された女性は、腰が曲がっていたため、地面しか見ることができませんでした。しかしイエス様によって彼女は天を仰ぐものとされました。
ギリシャ語では人間のことを「アンスロポス」と言います。それは「上を見る者」という意味です。確かに、直立している人間は、四つ足の動物と違って上を見ることができます。しかし、「上を見る者」という言葉は、人は地上のものだけではなく、天を見上げ、神を見上げる者である、と理解することもできます。
しかし、わたしたちが神を仰ぐことができるのは、今まで背負っていた罪の重荷を取り除いていただいたからです。今までは、わたしたちは、自分の犯した罪の重荷によって、神の前に顔を上げることができませんでした。罪のために神を恐れていたからです。しかし、神はわたしたちのすべての罪をキリストの上に置かれ、キリストを罰することによってわたしたちの罪を取り除いてくださったのです。
この女性がイエス様に癒されて最初にしたことは、神を讃えることでした。神様によって罪の重荷から解放されたわたしたちも、こうして神の愛と恵みを賛美する者になりました。わたしたちが、
今、こうして神様を礼拝しているのは、わたしたちがもはや罪のない、正しい人間になったということではありませんし、わたしの正しさが、わたしたちを神の前に立たせているのではありません。イエス・キリストは今もわたしたちの罪を背負っておられます。詩編六十八篇十九節に口語訳でこう書かれています。
「日々にわれらの荷を負われる主はほむべきかな。神はわれらの救いである。」
わたしたちは今も、日々イエス様によって罪の重荷を背負っていただいているのです。それはわたしたちが聖餐式にいつも与っていることにも表れています。ですから今日もイエス様の十字架を見上げて、そこから新しく生きる力を受けたいと思います。
このキリストの救いは、全世界の人々のために成し遂げられた救いです。子どもから大人まで、この世の富や人間の評価ではなく、神の愛を知り、神を見上げて生きる喜びをわたしたちは一人でも多くの人に伝えたいと思います。人が地上での豊かさだけを求めているなら、自分の本当の価値を見失うことになります。この世界に起きている問題の根本は、神を見上げて生きるように造られた人間が、地上のものだけを見て、神を見上げることができないところにあると言えるのではないでしょうか。わたしたちを罪の重荷から解放してくださる十字架の言葉,主が成し遂げてくださった尊い救いを、これからも伝えてゆきたいと思います。
聖霊降臨後弟10主日の説教
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」
イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
●分裂をもたらすキリスト
イエス・キリストの言葉は、わたしたちが素直に受け入れることができる言葉だけではなく、わたしたちの常識に反する言葉の方が多いのでないでしょうか。今日の言葉もその一つです。人と人との「和」を特に大切に思っているわたしたち日本人にとって、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」というイエス様の言葉には抵抗を覚えるのではないでしょうか。
わたしたちは、イエス様が「平和の君」としてこの世界の来られたと信じていますが、イエス様はそれとは反対に、「今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。」と語っています。もっとも親しくあるべき、親子や兄弟同士の間に分裂が起きる、と言われるのです。
イエス様が、分裂をもたらすために来た、と言われたのは、イエス様が来られた結果として、人々の間に分裂が生じる、という意味です。イエス様が世に来られて語られる時、それを聞く人々の間に分裂が生じます。ヨハネ福音書七章四三節には、「こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。」と書かれています。イエス様の言葉を聞いた人々の間で、イエス様に対する評価が分かれたのです。
さらに、この分裂は、人間の最も強い絆であるはずの家族にも及びます。今日のイエス様の言葉はこの後に実現してゆきました。家族の中で誰かがイエス様を信じると、いさかいが起きました。ローマの社会の中に福音が伝えられていったときも、キリスト者になった子を親が訴え、反対に子が親を訴える、ということが起きたのです。皇帝を神として礼拝することをしないことが国の平和や一致を破壊すると考えていたからです。
キリストは、親を敬い、養うことを、当時の宗教家以上に強く教えています。聖書は、たとえ神に献身したという理由であっても、親や家族を顧みなくてよい、とは教えていないのです。また、国民としての義務を果たすことも教えています。しかし、聖書は同時に、国や家庭が神の言葉以上に大事である、という考え方も否定します。旧約聖書の中には、人々が神から離れて、国の中に不正や抑圧があるのに、「平和だ、平和だ」と言っている偽預言者を厳しく批判しています。神から離れ、誰かを抑圧することで成り立っている平和は、本当の平和とは言えません。イエス様のお教えは、偽りの平和を本当の平和に造り変える方なのです。
●平和を造るために
イエス様は、今日の日課の始めに、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」と語っておられます。
この「火」とはキリストの言葉です。今日に旧約聖書の日課の最後に。「このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。」(エレミヤ二十三: 二十九)とありました。神の言葉は偽りのものを壊し、本当のもの、いつまでも残るものを明らかにします。
一昨日、わたしたちは八十回目の終戦記念日を迎えました。八十年という節目を迎えて、例年以上に戦争の記憶を新たにし、戦争の原因を問う内容の報道が多くありました。その中の一つの番組で、ある有識者が、「戦争というものは、国民のわずか一パーセントの人たちが引き起こすのです」と言っていました。それは本当でしょうか。国家の指導者が戦争を始めるのは、必ずその背後に、戦争を支持する国民がいるからです。日本が中国に進出したとき、日本の国民は喜びました。平和のために満州を手放すことを政府が検討されたとき、「これまで中国で戦死した兵たちの命を無駄にするのか」と、国民からの猛反対を受けたのです。
戦争は、多くの場合、国家のため、同胞や家族のためと正当化されますが、その奥底には「自分が最優先」という思いが潜んでいます。
今から二十五年ほど前に、交流していたある他教派の牧師から葉書をもらいました。それには九十歳を過ぎて天に召された彼の祖母のことが書かれていました。その方が結婚されたばかりの時、夫の満州への転勤が決まりました。しかし、彼女は「日本人が中国人の土地を奪っている所に、わたしは行かない」と言ったのです。親戚の人たちは怒って、「夫の出世を妨げるような嫁は追い出してしまえ」と言いました。当時、満州に転勤することは栄転だったのです。夫は弱り果てましたが、離縁することもできず、満州行きをあきらめました。もし満州に行っていたらどうなっていたことでしょうか。命の危険にさらされ、すべての財産を失い、乳飲み子がいれば中国に置いて来なければならなかったのです。葉書をくれた牧師は、「当時、二十歳そこそこの祖母の決断がなかったら、わたしは今この世にいなかったかもしれません。祖母の夫は彼女の信仰に降参し、彼もキリスト者になったのです。」と結んでいました。
このように、キリストの言葉に従う時、人は大きな分断や争いを経験しなければなりません。しかし、その分断は本当の平和と一致が実現するための産みの苦しみなのです。
●わたしを清める火
イエス様が地上に投じる火とは、イエス様の言葉であるとともに、神の霊であるともいえます。聖霊の火は、イエス様の言葉とともに働いて、わたしたちの中にある罪を焼き清めてくださるのです。
わたしたちは、自分自身を、平和を愛する者とみなしていますが、聖書は人間というものをそうは見ていません。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙三章十節以下で、でパウロは詩編を引用して人間の本質について次のように教えています。
「正しい者はいない。一人もいない。中略 彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。らない。彼らの目には神への畏れがない。」
この聖書の言葉は、悪人とみなされる人のことではなく、すべての人間の姿として教えています。
最近、「アメリカファースト」とか、「日本ファースト」という言葉を聞きますが、その言葉は多くの人に好まれ、受け入れられます。その根底に「自分ファースト」があるからです。この根深い自己中心という罪が、様々な口実を設けて他者を支配し、抑圧するのです。わたしたちの力では消し去ることができないこの悪をきよめることができるのは、まことの愛平和の道を歩まれた神の子イエス・キリストだけです。イエス様は、の力をもっていましたが、その力を自分のために使ったり、また誰かを傷つけたりするために使うことは一度もありませんでした。人を分け隔てしないで、苦しむすべての人に深い憐れみを示しました。また、ご自分を侮辱する人にも敵意を向けませんでした。わたしたちは自分の生まれつきの力ではわたしを変えることはできません。まことの平和の道を歩まれたキリストの心を受けなければならないのです。わたしたちキリスト者は、「自分ファーストではなく。いつも「キリストファ―スト」、つまり、キリストの教えを最優先するのです。イエス様は、罪を焼き清める聖霊の火を地上に投じるために、十字架の苦しみと死という洗礼を通り、わたしたちの罪を赦し、聖霊を受けるのにふさわしい者としてくださったのです。聖霊は、キリストを信じる人に永遠の命を与えます。それと同時に、わたしたちの生まれつきの罪を焼き清めてくださるのです。
わたしたちはこれからも神の言葉に照らされ、聖霊の働きを求めてゆきましょう。
聖霊降臨後第7主日の説教
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
●「主が教えた祈り」
わたしたちは礼拝の中で、また祈り会で「主の祈り」を祈ります。「主の祈り」と呼ぶのは、主イエスが教えてくださった祈りだからです。「主の祈り」は、マタイによる福音書の「山上の説教」の中でも教えられています。マタイ福音書ではイエス様の方から教えられた形をとっていますが、ルカ福音書の方は、「祈りを教えてください」という弟子たちの願いに応えて教えてくださったものです。わたしたちがいつも礼拝で祈る主の祈りはマタイ福音書のほうに近いものです。今日のルカ福音書の方はマタイによる福音書の祈りと、内容や構成はほとんど同じですが、ルカによる福音書の方がより簡潔になっています。
このように「主の祈り」が少し違う形で二つ記されていることは意味のあることだと思います、それは、「主の祈り」は経文のように一字一句そのまま唱えることに意味があるのではなく、むしろその内容を学び、理解をして祈るべきものだということです。
今ではわたしたちがよく親しんでいる主の祈りですが、この祈りは、日本の国で生まれ育ったわたしたちが考える祈りとは大きく違っているのではないでしょうか。わたしたちは、祈りと言えば自分の願いをかなえてもらうためにするものだと考えてきました。しかし、主の祈りでは、まず、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。」と祈ります。
なぜ御名が崇められることを最初に祈るのでしょうか。
聖書は、この世界の不幸は、神様との交わりにおいて生きるように造られた人間、すすんで神様を崇めるように造られたわたしたち人間が、神を捨てて、自分たちの願いや都合を中心に生きて行こうとしていうことから生じていると教えています。ます。先日、参議院選挙が行われました。より良い政治が行われて、国民が幸福な暮らしをすることは大事ですが、自分の国だけの幸福追求が、他の国を脅かす戦争へと向かっていったことも忘れてはなりません。わたしたちは、暮らし向きの向上を最高の価値とするよりも、まずわたし自身がすべての人の造り主である神の心にかなうものとなることを願うべきだと思います。
神様は、神から離れていたわたしたちの世界に御子を与えてくださり、御子によって罪を取り去り、神様を父と呼ぶことのできる神の子にしてくださいました。わたしたちが心から神を崇めることができるようにしてくださったのです。ですから、最も大切な第一の願いとして、「わたしたちが、あなたの恵み深いみ名を崇める者になりますように、そして、喜んであなたのみ心に従う者にしてください」と祈るのです。
●他者のために祈る
「主の祈り」を祈る時、もう一つ気づくことは、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」とあるように、この祈りがわたし個人のための祈りではなく、「わたしたち」の祈りである、ということです。そして、この「わたしたち」とは、これを一緒に祈っている教会の兄弟姉妹たちの事ですが、さらに神様の助けと恵みを必要としているすべての人を含んでいます。ですか「主の祈り」は「世界を包む祈り」と呼ばれています。
イエス様は、今日の日課で一つのたとえを語っておられます。
「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』」
パレスチナでは、暑い日中を避けて、午後涼しくなってから旅に出たそうです。ですから目指す地に着く時にはすでに日が暮れている、時には真夜中になってしまうこともありました。
友人の家にパンを借りに行った人は、自分のためではなく、旅をしてきた空腹の友人のためにパンを願い求めたのです。
イエス様はこのたとえ話の前のところで、「求めなさい。そうすれば、与えられる。」と教えられますが、このたとえでは自分のためではなく、他者のための求めです。この「求めなさい。そうすれば、与えられる。」と言う言葉はマタイによる福音書七章にもありますが、その言葉に続いてイエス様はこう教えておられます。
「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ七:一二)。
イエス様は、自分がしてもらいたいことを隣人にもしなさい、彼らが必要としているものを与えなさい、と教えました。けれどもわたしたちは、「わたしにはそんな力も生活のゆとりもない」と言います。しかしイエス様は、「必要なものはすべて父が与えてくださる。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」と言われるのです。
わたしたちも心の飢えを覚えている人々に魂の糧が与えられるように、天の父に祈りたいと思います。また生活のための助けを必要としている人々を覚えて祈りたいと思います。自分の必要だけを求める祈りは、自分の生活が満たされると、祈ることもなくなってしまいます。しかし、わたしたちは自分のためではなく、兄弟や他者のために祈り、また仕えるために召されているのです。
●聖霊というパン
イエス様は、熱心に祈ることを教えてくださいました。人間の父親でも、子どもが思い付きでねだるものは与えなくても、子どもが本当に願っているものは与えたいと思います。天の父である神様も、わたしたちが本当に必要としていることのために祈りなら、それを与えてくださる、と教えておられます。
イエス様は、今日の日課の終わりに、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」と語られました。父なる神様が愛する子どもたちに与えてくださる食べ物が「聖霊」である、とは意外に思います。しかしよく考えると、これ以上に素晴らしい神からの贈り物はないことに気づきます。
聖霊はわたしたちをキリストに導き、神と結び合わせて下さり、神の子として下さる方です。
聖霊はわたしたちにとって必要ですが、またこの世の中で魂の飢えを覚えている人々にも必要な糧です。イエス様が、わずか五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人々を養ったとき、十二人の弟子たちはイエス様からパンを手渡され、それを群衆に運んだのです。同じように、わたしたちの務めも、この礼拝で聖霊というパンをいただき、信仰の兄弟を励ますために、また、ここから遣わされ、出会う人々に、聖霊の働きと導きが与えられるために祈りながら歩んでゆくのです。たとえわたしたちが直接神について語らない時でも、聖霊はあたしあっちを通して働くのです。
だいぶ前に、東京のから大垣の教会に移ってきた姉妹がいます。その方が数年前に学んだ中学校の担任の葬儀に出た時、初めてその教師がクリスチャンであったことを知ったそうです。ちなみに葬儀が行われたのはルーテル教会でした。その姉妹は自分の担任が自分たちに接する謙虚で丁寧な姿勢が、彼のキリストへの信仰に基づいていたことを知りました。そしてそのことが彼女をキリストへの導く機会となったのです。
また、今度は大垣教会に移ったその姉妹が、町のコーラスグループで歌う時、その顔が輝いることに惹かれた別の女性が、教会に来て信仰者となりました。^このように、聖霊の導きはわたしたちを通して隣人へと伝えられます。わたしたちは、これからも人生の途上になって魂の糧を求めている人々に、命のパンである聖霊の恵みを伝えてゆく者でありたいと思います。そしてそのためにさらに天の父に、隣人のための聖霊の賜物を与えて下さるように、熱心に祈り求めてゆきたいと思います。
聖霊降臨後第6主日の説教
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
●イエス様をもてなした姉妹
イエス・キリストは、その生涯において、ご自分の住いを持っていませんでした。わたしたちは働いて疲れても、帰る家があります。でも。「人の子には、枕するところがない」と語っておられたイエス様には、故郷のナザレを出てからは御自分の家に帰ることはありませんでした。
しかし、安住の地を持たないで宣教の旅を続けられたイエス様を自分の家に招いて、その働きを支えた人々がいました。今日の聖書に出てくるマルタとマリアの姉妹は、ラザロという兄弟と共に、エルサレム近郊のべタニアという村に住んでいました。イエス様と弟子たちはエルサレムに来られた時、自分の家に迎え入れて、食事を提供し、休息の場所を提供したのです。困難な旅を続けているイエス様にとって、マルタやマリアたちのもてなしは、どんなに嬉しかったことでしょうか。今日の日課は、イエス様がこの姉妹の家に滞在しておられたときおことが記されています。
今日の日課では、姉のマルタが食事の支度をしていた、と記されています。召使いを雇えるような裕福な家ではなかったと思います。しかし、彼女はイエス様を精一杯もてなそうとしたのです。
マルタが働いている間、妹マリアはイエス様の足元に座って、じっと話に聞き入っていました。マルタはだんだんいらだってきました。わたしが忙しくしているのに、妹はのんきにイエスの話を聴いている。イエス様だってわたし44が忙しくしているのを知っているはずなのに、平気で話し込んでいる。マリアの不満は妹だけではなく、イエス様にも向けられました。そして「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」とイエス様に不満を言ったのです。
●必要なものはただひとつ
イエス様は、マルタがイエス様を精一杯もてなそうとしていたことを知っていました。それで、「マルタ、マルタ」と優しく語りかけたのです。イエス様はマルタに、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない」と諭されました。
イエス様がマルタに「マリアは良いほうを選んだ。」と語られた、「良いほう」という言葉は、「ひと皿」という意味にもとれるそうです。イエス様にとって何よりのもてなしは、人が「イエス様の言葉に耳を傾ける」ということでした。なぜならイエス様は命の言葉を語ってくださるためにこの世に来られたからです。
ヨハネによる福音書四章には、イエス様がサマリ人の女性と対話したことが記されています。町に食べ物を買いに行った弟子たちが戻ってくると、イエス様は弟子たちに、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。そして、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」と語りました。(ヨハネ四:三二、三四)イエス様にとっては、食べることも飲むことも忘れても、神の言葉を語ることが何よりの喜びであったのです。
イエス様の言葉を聞くことは、イエス様にとって喜びであるだけでなく、わたしたちにとっても、なくてはならない大切なことです。
神様は人間に言葉をお与えになりました。それはただ人間同士がおしゃべりを楽しむだけでなく、何よりもまず神の言葉を聞くためでした。人間は神の言葉を聞き従う時、生きるように造られたからです。
創世記三章で、神様は最初の人間アダムに、目に美しく、食べておいしい様々な果物を与えました。そしてどの木からも取って食べてよい、と言われたのです。しかし一つの木からは取って食べてはならない、と言いました、それは人間がたった一つのことを守ることによって、自分から進んで神を敬い、神と人間の間の境界線を守るためでした。しかし、人間は、「神のようになれる」という悪魔の誘惑に負けて、その木から取って食べ、神に背いて死ぬものとなったのです。今でも多くの人は神kを遠ざけ、神の言葉を聞こうとはしません。一本の木を示して、「この木の実を取って食べてはならない」と命じました。
イエス・キリストは、神様から離れてしまったわたしたちのところに来てくださいました。そしてわたしたちに神の愛と赦しの言葉を語ってくださったのです。それは言葉だけでなく、イエス様の実際の働きに基づいている言葉です。イエス様の言葉を聞くことは、イエス様を受け入れることであ李、イエス様を受け入れることは、イエス様が成し遂げてくださった赦しと命を受けることなのです。罪と死は神の言葉を守らないことにとって始まりましたが。命と祝福は神が遣わされたイエス・キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
●イエス様のもてなし
人間に対する神様の最初の言葉は、「取って食べてはならない」と言う命令でしたが、キリストの最後のことばは、「取って食べなさい。」という言葉でした。それは、わたしたちの罪を赦し、命を与えるわたしを信じ、受け入れなさい」ということです。イエス様の言葉を聞くこと、それを受け入れることはイエス・キリストという命の糧をいただくことなのです。
古い契約は「律法を行いなさい」と命じます。しかし新しい契約は「食べなさい」と命じます。しかし食べること、食事をすることは義務ではなく、喜びの時です。働く時ではなく、働くための力を受ける時なのです。
礼拝のことを、英語でサービスと言います。それは、礼拝とは神への奉仕である、と考えられてきたからです。しかし、ルターは、礼拝、すなわち神奉仕は、「神様の奉仕である、と教えました。礼拝とは、神様がみことばと聖餐を通して養ってくださる時である、と教えました。詩篇二三篇で、ダビデが主に対して、「あなたはわたしに食卓を整えてくださる」と告白している通りです。
神様のもてなしを受けるよりも、自分の働きを大事なものと考える時、わたしたちも時として、マルタのように、自分と同じように奉仕しない人に対して不満を持ってしまうことがあります。
「人間の最大の栄光は、その人が何をしたかではなく、神がその人にために何をされたのか、ということにある」と言った人がいます。わたしたちが神様のために何かできるのは、神様がわたしたちを神の子として下さり、神を愛するようにしてくださったからです。ここにわたしたちの出発点があります。確かに、礼拝や教会の働きが行われるためには、わたしたちの働きも必要です。しかしそれは、イエス様から恵みの食べ物を受けとるための器を用意することなのです。イエス様はその器に、わたしたちの働きでは決して手に入れることができない絶大な恵みを満たしてくださるのです。そしてその器をさしだすことこそ、命をかけてこの世界に来てくださったイエス様への最上の「ひと皿」であり最高のおもてなしなのです。
先週、わたしたちは「善いサマリア人」のたとえ話を聞きました。マルタとマリアの家は、エルサレムの郊外にあったので、今日のお話は、実際はもっと後のことだったはずですが、「善いサマリア人」の話のすぐ後に置かれているのは、わたしたちが「善い隣人」として生きてゆく力がどこで与えられるかを教えるためです。
わたしたちが神を愛し、隣人を愛するためには、キリストの言葉を通して、命を与えられ、愛と憐みの心をいただく必要があります。
わたしたちはこれからも、なくてはならないただ一つのもの、イエス・キリストの言葉を、命の糧として受け取ってゆきたいと思います。
聖霊降臨後第5主日の説教
すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
●わたしの隣人とは誰か
ある新聞社が日本人の一番好きな言葉についてアンケートした結果、それは「愛」という言葉でした。
多くの人が愛の大切さを感じています。でも、愛の本当の意味を知って実行することは簡単ではありません。わたしたちは、聖書を読むまでは自分には愛があると思っていました。しかし,聖書を学ぶようになると、家族や恋人、友達など自分にとって好ましい人だけを愛することが愛ではなく、わたしが出会うすべての人、とりわけわたしの助けを必要としている人を、自分を愛するように愛するとが本当の愛なのだ」ということがわかってきて、愛することの難しさを知るようになりました。
今日の福音書に、ある律法の専門家がイエス様に、「先生、何をしたら永遠の命が得られますか」と質問したことが記されています。人間にとって、永遠の命を得ることは最も大切な人生の目的です。「永遠の命を得る」ということは、神に受け入れられる、ということだからです。
イエス様は彼に、「律法には何と書いてあるか」と問い返しました。その学者は、律法の中心が神への愛と隣人への愛だということを知っていましたから、そのように答えました。でも、イエス様が、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言いました。すると彼は、「わたしの隣人とは誰ですか」と問い返しました。律法の専門家たちは、律法を守っていない人々や外国の人たちは、愛したり助けたりするに値しない人たちであると考えていたのです。そして罪びとと呼ばれていた人と付き合っていたイエス様を批判していました
ですからこの学者は、彼は自分を正当化しようとして、「神から離れているような人でも愛しなさいというのですか」ということを言外に問いかけたのです。
そこでイエス様は、有名な「善いサマリア人」のたとえ話をされました。
「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中,追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り,殴りつけ,半殺しにしたまま立ち去った。」
エルサレムの町からエリコの町に下る山道は。人気(ひとけ)のない険しい山道でした。そして旅人を襲う強盗が出没しました。たとえ話の中の旅人も、強盗に襲われ、道に倒れていると、祭司やレビ人が通りかかりました。エリコの町にはエルサレムで働いていた祭司たちの半数が住んでいたそうです。彼らは倒れている人を見ると,「道の向こう側を通って」行きました。祭司たちは、死んだものに触ると汚れた者となって、一週間は仕事ができませんでしたから、それを避けたという見方もあります。でもこの人たちはエルサレムから下ってきたのですから、仕事明けであったことが分かります。彼らは自分が他人のために危険な目に会う事を避けたのです。この祭司とレビ人の姿は、「自分たちが助けるのは正しい人たちであって、罪びとは助けるべきではない。助けると自分も彼らの悪に与することになる」と考えていた当時の宗教家たちの姿を示しています。
●親切なサマリア人
しかし、祭司やレビ人の後にそこを通りかかったサマリア人は、「そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」のです。
イエス様の話に登場するサマリア人とは、もともとイスラエル人でした。しかしイスラエルは北イスラエルと南ユダに分裂してしまいました。サマリアを首都としていた北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、混血の民となってしまいました。イエス様の時代、ユダヤの人々は彼らをサマリア人と呼び、「けがれた民」と見て軽蔑していたのです。
サマリア人が、傷ついたユダヤ人を助けた、というイエス様のたとえ話は、まったくのフィクションではありません。イエス様の時代よりもずっと前に、サマリア人がユダヤの人々を助けたという話が旧約聖書に記されているのです。ユダヤとサマリアは兄弟同士でありながら戦争をし、ユダヤが破れました。サマリア人たちは、戦争で捕虜にしたユダヤ人たちを故郷のユダヤに帰したのです。
歴代誌下二八章一五節にはこう書かれています。「人々が立って捕虜を引き取り、裸の者があれば戦利品の中から衣服を取って着せた。彼らは捕虜に衣服を着せ、履物を与え、飲食させ、油を注ぎ、弱った者がいればろばに乗せ、彼らをしゅろの町エリコにいるその兄弟たちのもとに送り届けて、サマリアへ帰った」。
イエス様は、このたとえ話を歴史上の事実に基づいて語られたのです。
●「善いサマリア人」とはだれか
イエス様は、律法の専門家に、「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と聞きました。律法の専門家は、「サマリア人です」と言いたくないので、「その人を助けた人です。」と答えました・そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言いました。
イエス様が律法学者に語ったこの言葉は、「隣人を自分のように愛することができる」という意味ではありません。それは、「わたしの隣人とは誰かと線引きをし、愛さないことの言い訳をやめて、このサマリア人が実行したような愛に生きようとする時、神の律法を守ることができない自分を知るであろう」、ということです。
旅人を助けたサマリアの人にとっては、倒れている人がどんな人であるかは関係のないことでした。サマリア人が、「その人を見て憐れに思い、近寄った」と書かれています。ただ憐れみの心で、身の危険も顧みずに旅人に近づき、手当てをしたのです。
この「憐れに思う」という言葉は、聖書では、この個所を除いてイエス様だけに使われている言葉です。それは英語では「コンパッション」、つまり共感する、という言葉です。他者の痛みを自分の痛みのように感じとる、ということです。
エフェソの信徒への手紙2章にこのように語られています。
1さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。~ 中略~しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
このように、イエス・キリストこそ、罪のために人生の途上で倒れていたわたしたちを命がけで救ってくださった「善いサマリア人」なのです。
サマリア人は旅人の傷を癒すために、油を注ぎ、ぶどう酒で洗いました。イエス様は、ご自身の血を注いで、わたしたちの罪を癒し、生かしてくださったのです。わたしたちがこのような愛と救いを受けとる時、わたしたちの内に神への愛が生まれます。そして隣人への憐みと愛が生まれます。
永遠の命を得るためには律法を守らねばならない、と考えて行動するところあらは自発的な愛はありません。隣人は自分の救いに必要な「手段」になってしまいます。
愛は、キリストの憐みを受け、救われた感謝と喜びから生まれます。律法の行いは救いを受けるために行われますが、キリストとの出会いから始まる愛は、わたしが憐みを受け、救われることから始まるのです。イエス様の憐れみと無条件の愛によって救われたことを知る者が、無条件に隣人を愛することができるのです。
これからも、礼拝を通して、神とキリストの愛を受け、神の憐みに生かされている者として、すべての隣人に出会ってゆきたいと思います。
聖霊降臨後第3主日の説教
イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。
●エリヤとイエス
今日の福音書の日課の初めには、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた(九:五一)と書かれています。そして、そのために前もって弟子たちが遣わされました。食事や宿泊の場所を確保するためだったと思います。しかし、途中にあったサマリの人たち歓迎しませんでした。それはイエス様を尊敬していなかったということではないと思います。すでにイエス様の名はサマリアにも広まっていました。しかしユダヤ人と対立していた彼らは、イエス様が自分たちのところに来るのが目的ではなく、町を通過してエルサレムに行こうとしていることを知って、歓迎しないという意思を示したのです。
弟子たちの内、ヤコブとヨハネの兄弟はサマリア人に対して怒り、イエス様に「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いました。二人は、昔、預言者エリヤが、王の命令で自分を捕らえに来た兵士たちを、天からの火で焼き滅ぼした、という出来事を思い浮かべていたのでしょう。それで、キリストを妨害したサマリア人たちを、エリヤの時のように滅ぼしたらどうか、と言ったのです。しかしイエス様は彼らを「戒められた」、と書かれていますが、これは「叱った」という言葉です。
旧約聖書には、悪に対する神の裁きがあること、そしてその裁きがモーセやエリヤといった預言者によって行われたことが書かれています。ですから弟子たちは、イエス様もご自分を敵対するサマリアの人々を滅ぼせばよい、と思ったのです。
しかしイエス様が世を裁かれるのは、イエス様が再び来られる時です。イエス様が最初に来られたのは、すべての人が罪の赦しを受け取るように、力ではなく愛によって人々を招くためでした。
絶大な神の力を持ったイエス・キリストは、その力を決して人を傷つけたり殺したりするためには使いませんでした。反対に、人を癒し、救い、生かすためだけに使ったのです。イエス・キリストは、すべての人を神の国へと招く「命の主」として来られた方だからです。
このように、サマリアの人々を火によって滅ぼすように求めたヨハネは、後にペトロとともにサマリアに伝道に行きました。そして、そこで「聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。」(使徒八:十五)とあります。サマリアの人々の上に、天からの滅びの火が下るように願ったヨハネが、同じ人々の上に聖霊が下るように祈ったのです。
●キリストの弟子にふさわしい覚悟
人々を神の国に招き、命を与えるキリストを受け入れ、そのキリストに従う人たちがクリスチャンと呼ばれ、またキリストの弟子と呼ばれます。続く今日の日課で、イエス様はご自分の弟子に求められる心構えを教えておられます。
五七節に、ある人が、「あなたのおいでになるところならどこでも従います」と申し出たことが記されています。これに対してイエス様は、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし人の子には枕するところもない」と答えられました。
イエス様には、本当に寝るところがなかったのではないと思います。でもイエス様には安住の地というものがなかったのではないでしょうか。ですからイエス様に従ってゆけば、いずれはよい地位に着き、安楽な暮らしができることは約束されていません。クリスチャンは、この世の安楽な生活を選ぶのか、またキリストに従うことを選ぶのか、という選択を迫られるのです。
しかし、「人の子には枕するところもない」と言われたイエス様は、また天にあるまことの住まいについても教えられました。イエス様は十字架におかかりになる前の日に、弟子たちのこう言いました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。・・・行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」(ヨハネ十四:二,三)
この世でどんなに豪勢な邸宅を建てても、それは永遠の住まいではありません。しかし、イエス様はご自分の後に従う人々を天の父のもとにある永遠の住まいに迎えてくださるのです。
イエス様に従う人に求められる二つ目の覚悟は、いつでも一番大切なことをわきまえ、それを選び取る、ということです。
ある人がイエス様に「主よ、従いますが、まず父を葬りに行かせてください」と言いました。イスラエルの国では、父親のために立派な葬儀を行うことが長男としての最上の務めとされていたのでしょう。しかしイエス様はその人に、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と言われました。死者を葬ることは神の国を知らない人々、すなわち霊的な死人にもできることですが、永遠の命を伝えることは、それを知っている人にしかできないことなのです。
神の国を言い広めることは、神から離れている人々を神へと招き、神の命に生きる者とすることです。
●ただ目標を見つめて
第三に、キリストに従う人は、決して後ろを振り向かない人です。ある人が、「主よ、従いますが、家族にいとまごいに行かせてください」と願いました。しかしイエス様は、「手を鋤にかけてから後ろを振り向く者は神の国にふさわしくない」と答えられました。
牛が引っ張る鋤に手をかけて耕す時に、よそ見をすると牛が動き出して転んでしまいます。また目をしっかり前に向けていないと、最初の畝が曲がってしまいます。家の者に別れをつげる時間もない、というのは極端に聞こえますが、わたしたちが、人とのさまざまな付き合いの方を大事にして、次第にイエス様の働きから離れてしまう、ということがあるのではないでしょうか。
列王記上一九章には、預言者エリヤの弟子として従ったエリシャは、家族や近所の人々との別れの食事を行なったことが書かれています。家族へのいとまごいをしたいとイエス様に願った人も、そうしたかったのでしょう、しかし、ここでも、人々救い、生かすキリストの働きは、預言者の働き以上に重要で、緊急なことであることが教えられています。
このエリヤとエリシャの例に見るように、イスラエルの国では、預言者は会う人を弟子として招いたとき、招かれた人は、それを神からの召命と受け止めて、それに応えたのです。当時のこのような習わしを、今のわたしたちが同じように実行しなければならない、ということではないにしても、わたしたちもまた、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」というイエス様からの使命を与えられているのです。人は、イエス・キリストの福音を通して神を愛する者となります。そして、永遠の命を受けます。人は神を愛することによって生きることができるからです。
さらに、神を愛する者ことは、人が正しく生きる出発点となります。法律や規則が人を正しくするのではありません。神を愛し、神に喜ばれるように生きてゆきたい、と心から思う時、本当の良い生き方が始まります。
今の日本の社会で、食べ物に飢えている子どもは多くはないと思います。しかし、多くの子供たちの魂は神の愛に飢え渇いています。わたしたちは小さな者ですが、世界のすべての教会とともこの世に遣わされていることを覚えたいと思います。
今日の日課の初めに、イエス様が「エルサレムに向かう決意を固められた」とありますが、これは「エルサレムに顔を向ける」という言葉です。そして「向ける」とは「セットする」という言葉です。苦しみと死が待ち受けるエルサレムに向かってその顔を「セットされた」のです。決してイエス様はそこからそれることはなかったのです。このイエス様の堅い「覚悟」によって、わたしたちは救いをいただくことができたのです。ですから、わたしたちも、この礼拝で、改めてわたしたちの前を行かれるキリストに真っすぐ顔を向け、キリストに仕えてゆきたいと思います。
聖霊降臨後第2主日の説教
一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
●悪霊の働き
イエス様は、弟子たちと一緒に舟で湖を渡り、向こう岸のゲラサという所に行かれました。そこはユダヤ人の土地ではなく、異邦人の土地でした。そこに悪霊に取りつかれた人がやってきました。「この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた」と書かれています。彼は悪霊によって通常の社会生活、人間的な生活を奪われていたのです。
マタイによる福音書では、この男はとても凶暴であった、と書かれています。またマルコ福音書では、彼は石で自分の体を打ちたたいていた、と書かれています。彼は他人を傷つけ、また自分自身を傷つけていたのです。また、鎖でつながれ、足枷をはめられても、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていました。(二九節)
聖書では、このような悪霊の働きは、ゲラサのような異教の国や、異教の影響を受けていたガリラヤ地方に多く見られていました。
では、この「悪霊」とはどういうものなのでしょうか。それは、もとは位が高い天使が、神に反逆して悪魔になったとき、一緒に神に背いた天使たちではないかと考えられています。あるいは悪魔が「分霊」したもの、悪魔の霊が分かれて広がったものではないかとも考えられています。
今日の福音書にあるような、一目で悪霊の働きと分かるようなことは、今の日本ではほとんど見ることがありません。悪霊などという迷信じみた言葉は、今の時代にはそぐわないように思われます。しかし、人間性を破壊し、狂気の行動に駆り立てる力が、今の社会にも働いていることをわたしたちは見ています。
ロシアの作家ドストエフスキーは今日の福音書の出来事をもとにして、「悪霊」という小説を書きました。それは彼の時代に、ロシアの無神論的無政府主義者たちが、その活動の中で互いに争い、自滅してゆく姿を、悪霊によって海に飛び込んだ豚の群れに重ね合わせて描いたものです。
それと似たようなことが、日本でも起きました。今から五十年前、崇高な目的をかかげながらテロ活動を行い、ついにはリンチによって、多くの仲間まで殺すという事態に至ったのです。
また、悪霊の働きは様々な偽りの教えの中にもあります。三十年前のサリン事件では、一人の教祖にだまされて、多くの真面目で高学歴の若者が、凶悪な事件を起こしました。
キリスト教の異端とされているグループの教えも、人を惑わす霊が、その背後で働いています。悪魔が神の言葉を歪めて、エバを誘惑したように、多くの人々を偽りの教えによって支配しています。
●すべての人に働いている悪霊
しかし、悪霊の最も大きな働きは、人間を神から引き離す、ということです。使徒パウロは、エフェソの信徒にこう言っています。
「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」(エフェソ二:一,二)。
悪霊は、異邦人世界では偶像を礼拝させ、罪と不法を行わせ、人を神から引き離していました。パウロは、偶像なる神は実在しないが、 偶像礼拝の背後には、人間を神から引き離す悪霊の働きがあるのだと教えています。偶像礼拝を続けると、そこから離れることができなくなります。
また、偶像を拝んでいない人も、自分の罪のために神を恐れ、神に帰ることができなくなっています。これこそ悪魔と悪霊の最終的な目的です。そして、キリストが来られた最終的な目的も、すべての人を悪の霊の支配から神へと解放するためでした。
悪霊の取りつかれたゲラサの人はキリストに向かって、「いと高き神の子」「イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」と言いました。それはその人自身の言葉ではなく、彼の中にいる悪霊の声でもあります。
今も多くの人は、キリストが自分に近づいてくることを恐れています。わたし自身も、教会に行く前は、自分の自由な意思で、自由に行動できると思っていました。しかし、教会に行くようになり、神の光に照らされると、わたしの中に別の者がいて、それがわたしを神のもとに行かせまいと働いていることに気づきました。わたしの中に働いていた力は、鉄の鎖でわたしを縛っており、「お前のような者を、神が受け入れてくれるはずがないではないか」と言うのです。エジプトの王がイスラエルの民を奴隷にして去らせなかったように、わたしを縛りつけていたのです。
このような悪の霊に一度とらえられると、人間の力では打ち勝つことできません。悪霊に着かれたゲラサの人を誰も縛り上げることができなかったように、悪魔に対抗することは人間には不可能です。ゲラサの悪霊は「レギオン」と名乗りましたが、レギオンとはローマの六千人の軍団のことです。人間の世界の外からやって来られた方、悪霊の上におられる方だけが、悪魔と悪霊に打ち勝つことができるのです。
●わたしたちの罪を海の深みに
今日の日課にはこのように書かれています。
「ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。」
ゲラサの人に取り憑いていた悪霊たちは、代わりの住家がなければ、底なしの淵、すなわち永遠の滅びの中に投げこまれてしまうので、自分たちをあの豚の群れの中に入れてくれ、とイエス様に、頼んだのです。悪霊が豚の群れの中に入ると、豚の群れは海に向かって駆け下り、みな溺れ死んでしまいました。
罪という神への負債は、その償いが行わなければ、いつまでもわたしの上に覆いかぶさり、わたしを神から遠ざけているのです。
旧約聖書のミカ書七章十九節に、
「主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる」とあります。
たったひと言で悪霊を追い出すことができるイエス様も、わたしたちを罪の責任から自由にするためには、ご自身を犠牲としなければなりませんでした。イエス様は、わたしたちの罪を背負って下さり、死んで陰府にまで下り、そこにわたしたちの罪を投げ込み、そして、復活され、わたしたちを守ってくださる羊飼いとなられたのです。 わたしも、イエス様がわたしの罪を背負って下さり、死んでくださったことを信じた時、わたしを縛って神から引き離していた鎖が砕かれたことを感じたのです。このキリストをわたしたちの内に迎えるとき 、わたしたちは悪霊の力から解放されるのです。
イエス様によって悪霊から解放されたゲラサの人は、イエス様に感謝し、イエス様に従いたいと願いました。しかし、イエス様は、この人に、「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」と告げました。彼はたった一人であっても、暗い異邦人の地をキリストの光で照らす大切な人となったのです。
わたしたちの国でも、底知れない闇の力が働いていることを感じます。最近も、十五歳の少年が祖父母を殺すとか、十六歳の少年が、行きずりの人を殺すという事件がありました。キリストがいない心に、悪の霊が働いて、多くの悲劇を起こしています。わたしたちがキリストと共に生きているなら、周りの人々にもわたしたちを通してキリストが近づいておられるのです。悪霊は、キリストの霊に生かされている人の近くにいることができないのです。世の光として生きている人から、闇の力は逃げてゆきます。日本という異教の国で生きているわたしたちも、それぞれに遣わされている場所で、キリストの光を照らしてゆきたいと思います。
三位一体主日の説教
言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
●三位一体の神を教える聖書
今日は、三位一体の神様を覚える日です。毎週の礼拝の中で唱えている使徒信条とニケヤ信条は、三位一体の神様への信仰を告白するものです。
世界には、唯一の創造主である神を信じる宗教が三つあると言われています。それは、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教です。そして、この三つの宗教は同じ神を信じている、とよく言われます。しかし、キリスト教だけは三位一体の神を信じています。ユダヤ教もイスラム教も三位一体を認めていないので、同じ神を信じているとは言えないのです。これらの宗教は天地を創造した唯一の神を教える聖書をもとにしています。しかし、その聖書は、同時にその神は三一体の神であると教えているのです。
創世記のはじめから、神様はご自身のことを「我々」と呼んでいます。そして「我々に似せて人を造ろう」と言われ、神のかたちに人を造られたとありますから、「我々」とは神ご自身を指している言葉です。
三位一体の神は愛の神です。永遠の昔から神は孤独の神ではなく、ご自分の内に愛の交わりを持っておられたからです。
旧約聖書で、神に愛する子がおられることは、詩編第二篇にはっきりと書かれています。7節以下のこうあります。
《主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし 地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く。」すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。畏れ敬って、主に仕え おののきつつ、喜び躍れ。子に口づけせよ》
この最後の「子に口づけせよ」という言葉は、足元にひれ伏して礼拝する。という意味の言葉です。東から来た学者タたちが幼子のイエスの前にひれ伏して礼拝したように、御子イエスは礼拝を受けるべき方なのです。
ヨハネによる福音書の五章二三節で、イエス様は 「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。 」と語っています。つまり、父なる神を敬うのと同じほどに、子であるキリストを愛さない者は、父なる神をも敬っていないと言っておられるのです。「唯一の神は敬うが、キリストは神ではない」という人は、本当は神も敬っていないということなのです。
旧約聖書の中には、神の内に交わりがあること、また神様には愛する子がおられることが書かれていますが、イエス様はさらにはっきりと、父と子と聖霊の神ついて教えてくださいました。今日の福音書の日課でも、イエス様は父である神と、子と、聖霊の神の関係について教えておられます。
●近づいてくださる神
それでは、この三位一体の神は、わたし達にとってどのような神様なのでしょうか。
三位一体の神は、わたしたちのところに降(くだ)って来られる神、わたしたちに近づいてくださる神様です。神は本来、わたしたちが近づくことのできない方です。テモテへの第一の手紙 六章十六節に、神は「唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。」と書かれています。神は罪を持つ人間が近づくことのできない方です。しかし、旧約聖書を読むと、人間は神に近づけなくても、神は人間を訪ね、また近づいてくださる方であることが分かります。その神様は、全人類のために御子イエス・キリストによって、わたしたちにちかづいてくださったのです。
わたしは、まだクリスチャンではなく、生きる道を求めていた時、こんなことを考えていました。それは、救いというものは、それを得るために、何年勉強しなければならない、また一定の修行しなければならない、というものではないはずだ、ということです。救いは、真理と出会った瞬間に与えられるものでなければならない、と考えていたのです。もし、救いのために一定期間の修行や学びが必要だとするなら、今、臨終の床にいる人は間に合いません。その救いは、万人のための救いではなくなってしまいます。そんなことを思っていた時、「わたしは道であり、真理であり、命である」というイエス様の言葉を聞きました。イエス様ご自身が道であり、真理であり、命であるなら、そのイエス様を受け入れる時、わたしは神への道と、真理と、命を与えられているのだ、ということを知ったのです。そして聖書の中でイエス様に出会った人、イエス様を信じた人は、その場で救われているのです。
イエス様は、今日の日課の十四章九節で、「わたしを見た者は、父を見たのだ。」と言っておられます。誰でも、イエス様に人間を超えた神の愛、神の正しさ、神の力を見てイエス様を信じる人は、神様に出会っているのです。
神の子がわたしたち同じ人となって来られた、ということの中に神の赦しがあります。この赦しによって、イエス様はどんな罪びとでも出会ってくださるのです。
●イエスに導く聖霊
しかしながら、わたしたちの知恵だけでは、キリストについて大切なことを知ることができません。キリストは弟子たちと共におられた時、ご自分の死と復活について何度も語りましたが、当時の弟子たちには、それがまったく理解できませんでした。キリストは弟子たちにこう告げました。
「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」
イエス様は、やがて来られる聖霊が、弟子たちをすべての真理へと導いてくれる、と教えたのです。
聖霊は、「これから起こることをあなた方に告げるからである」とイエス様が言われたのは、特にこの後に起きようとしていたイエス様の十字架の死、また復活のことです。聖霊の神が来られる時、今まで分からなかったことが理解できるようになると言われたのです。
このイエス様の言葉通り、聖霊が弟子たちの上に降った時、弟子たちは以前には理解できなかったキリストの言葉のすべてを悟ったのです。わたしたちにとっても、イエス様が神であって同時に人であること、イエス様の十字架の死がわたしたちの救いであること、そのイエス様が復活されたこと。こうしたことは生まれつきの人間にとっては愚かなことなのです。しかし、今わたしたちがそれらを信じているのは聖霊のお働きを受けているからです。
イエス様はそのあとで. 「その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」。と言っておられます。イエス様の言葉は、知識を与えるだけではなく、イエス様の持っておられるものをわたしたちにも与えてくださいます。
わたしたちがイエス様の弟子として生きてゆく時、勇気や愛、そして知識が必要です。わたしたちが聖霊によって成長するのは、キリストの証人として生きりために必要だからです。神様の御心を知る知恵、また互いに愛し合い、キリストの愛をあらわして生きること。困難の中でも進んでゆく勇気が必要です。
しかしそれはわしたちの中からは生まれません。それは聖霊の神様が与えてくださるものです。わたしたちが成長し、実を結ぶことも三位一体の神によって実現するのです。
わたしたちは、大きな愛によって救いを実現してくださった三位一体の神様に感謝し、また、この恵みを伝えるために、今も働いておられ神様から、さらに豊かな恵みを受けてゆきたいと思います。
主の昇天主日の説教
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
●聖書が告げる神の計画
今日はイエス様が天に昇られたことを記念する日曜日です。十字架の死から復活されたイエス様は、四十日間、弟子たちの前に何度も現れて、ご自分が確かに復活されたことを示されたのです。
しかし、四十日たって、イエス様は弟子たちの目の前で天に上げられました。今日読まれたルカ福音書の日課は、イエス様が復活した日の夜、弟子たちに現れてから天に昇るまでの四十日日間のことがまとめて記しています。
まず、復活したイエス様は、驚いている弟子たちに、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」(24:44)と言いました。「モーセの律法と預言者の書」とは、今日の旧約聖書のことです。イエス様は、「聖書は、わたしについて書かれているのだ」と言われたのです。ルターは、「イエス・キリストは聖書の太陽である。キリストによって聖書は明るく照らされるが、キリストに照らされなければ暗いままである」と言いました。
イエス様は、ご自分について何が旧約聖書に書かれているかを、とても簡潔に教えてくださいました。それは、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」、ということです。この言葉の前半、すなわち「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」ということは、すでに弟子たちの前に実現しています。そして、これからは、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」ということが実現してゆくのです。これまでのことが実現したように、これからのことも必ず実現するのです。
それでは、キリストによる神の救いが世界に伝えられることは聖書のどこに書かれているのでしょうか。たとえば詩編 22篇二十八節と、三十節にはこのようにあります。
「地の果てまで すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り 国々の民が御前にひれ伏しますように。・・・わたしの魂は必ず命を得 子孫は神に仕え 主のことを来るべき代に語り伝え 成し遂げてくださった恵みの御業を 民の末に告げ知らせるでしょう。」
この詩編では、イエス・キリストは、ダビデの口を通して、ご自分が受ける苦難と、苦難に対する勝利を預言しておられるのです。キリストは、その子孫、すなわち彼の命を受け継ぐ人々によって、主が成し遂げた救いを、来たるべき世に語り伝える、と語っているのです。
この世界では多くの人がそれぞれに未来を予測しますが、神様の計画だけが必ず実現します。箴言9章21節に、「人の心には多くの計らいがある。」と語られているとおりです。
●神のご計画に仕える
イエス様は、全世界に福音が宣べ伝えられるために、弟子たちを遣わされます。弟子たちが伝えることは何でしょうか。それは、罪の赦しを得させる悔い改め」です。「悔い改め」とは神に立ち帰ることです。人間は神を愛し、神の言葉に聞く時、生きるように造られました。しかし、人間は罪を犯し、その罪のために神の裁きを恐れ、神を愛することができず、神に背を向けて生きています。しかし、神がご自分の独り子によって、わたしたちのすべての罪を完全に赦してくださったことを知るとき、喜んで神に帰ることができるのです。そして心から神を愛し、神の言葉に聞く者となるのです。そしてキリストの復活は、すべての人の罪を背負ったキリストの命が、なおあり余るほど豊かな命であったことを示しています。その命によってキリストは人の罪を償い、また赦されたものを永遠に生かしてくださるのです。
このキリストの苦難と復活による救いの知らせは、この世の中でもっとも重要なメッセージです。それは人々を永遠の神に立ち帰らせるからです。神を愛することによって生きるように創られた人間は、キリストへの信仰によって神との本来の関係に帰り、神からの命を持つ者とされるのです。
イエス・キリストは、ご自分を信じた人々に、この大切な知らせを全世界に伝えるようにお命じになりました。イエス・キリストはこの世の権力によって人々を従わせるのではなく、普通の人々を通してご自分のもとに招かれるのです。キリストの救いに招かれた人は、またキリストの働きに仕える者となります。神様は最初の人間に命の息を吹き込み、人を生かしました。そして「地上のすべての造られたものを治めなさい。」とお命じになりました。人間は地上における神の代理人として、全地を治めることを任されたのです。そして今、イエス様は、ご自分の弟子たちに「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を伝えなさい」(マルコ16:15)と、お命じになったのです。
●聖霊を送ってくださるイエス様
しかし、キリストの証人となるためには、聖霊の力が必要です。キリストが世におられた間は、弟子たちをユダヤの国の中に遣わしました。それは長い期間ではありませんでしたからまたキリストのもとに戻って来ることが出来たのです。しかし、今からはすべての国に出てゆきます。イエス様は天に昇って、弟子たちが世界のどこにいても、またいつの時代であっても父なる神のもとから助け主である聖霊を送ってくださるのです。それまでキリストが弟子たちと一緒にいて教え守ってくださったように、聖霊は弟子たちが世界のどこにいても弟子たちを導き、支えてくださるのです.
ルカ福音書の続きとして書かれた使徒言行録には、聖霊を受けた弟子たちが、大胆にキリストを宣べ伝えたこと、誰も反論できない知恵によって語ったこと、そしてどのような苦難も恐れずにキリストの救いを伝えたことが記録されています。聖霊は、キリストを伝えるための知恵と勇気を与えてくださるのです。
この時代に生きているわたしたちも、イキリストの証人として遣わされています。キリストがご自分の体とされた教会には、同じような人だけではなく、多様な人々がいて、その働きも様々です。みんながペトロのように説教するのではありません。イエス様は弟子たちに、「あなたがたは世の光である」と言われました。神に愛され、赦された者として生きる時に、わたしたちはキリストの証人として生きています。そして、わたしたちがそのように生きてゆくためにも、聖霊の力が必要です。聖霊を受けて、愛、喜び、平和、善意、忠実、寛容という実を結ぶとき、わたしたちはキリストの証人として生きているのです。
教会は、神の目的のために召された者たちの集まりです。わたしたちが礼拝に集まるのは、キリストの言葉を聞き、聖霊の力によってこの世の中に遣わされてゆくためです。礼拝は、「派遣の部」で終わりますが、わたしたちは礼拝で聖霊の助けをいただいて、みんなで力を合わせてキリストを伝え、また一人一人が、それぞれの生活の場所に遣わされてゆき、キリストの光を灯して生きてゆくのです。
パウロは,エフェソの信徒への手紙二章六節で、キリストが復活し、天の座に着かれた時、キリストに結ばれているあなた方も復活し、共に天の王座に着いたのだ、と教えています。わたしたちの国籍はすでに天にあります。しかし、わたしたちが、なおこの世界にとどまっているのは、キリストから与えられた使命を行うためです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というキリストの言葉は、そのように、キリストによって遣わされてゆく人々に語られた言葉なのです。
わたしはたとえ小さいものであっても、イエス様が成し遂げられた救いを証しすることを、わたしの人生の最も大切な目的として生きてゆきたいと願っています。わたしたちをこの尊い業にあずからせてくださった主に応えて、イエス・キリストが再びこの世界に帰って来られる時まで、キリストの証人として共に歩んでゆきましょう。
復活節第6主日の説教
イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。
●イエスを見る
イエス様は、十字架にかけられる日の前の晩、弟子たちと過ぎ越しの食事をされました。その席で、イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」とイエス様に訊ねました。ユダが、そのような質問をしたのは、イエス様が「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」(14:18、19)と言われたからです。ユダは、「イエス様は、なぜ自分たちにご自分を見せて、世の人々にはご自分をあらわさないのだろうか」と思ったのです。
イエス様は、ユダに答えてこう言いました。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。」
イエス様は、この後で殺されますが、三日後に復活して弟子たちに会いました。しかし、弟子たち以外の人々には姿を現わしていません。復活したイエス様を見れば、人々は信じるだろうと思うのですが、なぜイエス様は弟子たちだけに現れたのでしょうか。それは、イエス様はご自分を愛する人だけにご自分をあらわされるからです。イエス様を信じていない人が、復活したイエス様に出会うことは、イエス様を信じるということではなく、イエス様を認めざるを得ない、ということであって、それはその人にとって裁きの時です。キリストを信じ、愛する機会を永遠に失ってしまうからです。また、肉の目でイエス様を見ることよりも、イエス様のことを聞いてイエス様を信じ、イエス様を愛する人は、霊の目によってイエス様を見ているのです。
イエス様は、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」と言いました。イエス様を愛する人はイエス様の掟を守ります。その掟とは、先週学んだように、「互いに愛し合いなさい」という掟です。自分が、イエス様の命をかけた愛によって神の子とされたことを信じる人は、同じようにイエス様の愛によって神の子とされ、兄弟姉妹とされた人々を愛します。兄弟たちに無関心な人はイエス様に対しても無関心なのです。しかし、イエス様の掟を守る人は、本当にイエス様を愛する人であり、父なる神とイエス様がその人の内に住んでくださる、とイエス様は約束しておられます。
●主の言葉を思い起こさせる聖霊
父なる神様とイエス様がわたしたちの内に住んでくださる、ということは聖霊の働きによって実現します。イエスは、聖霊によって乙女マリアに宿りました。そして今、イエス様を信じる人々に聖霊わたしたち一人一人と共に住んでくださるのです。
イエス様は、続いてこう言われました。「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(14:25,26)。
これは、そのまま読めば、聖霊が与えられる時、イエス様の言葉を思い出し、正しくそれを記録することができる、ということです。聖書が人間によって書かれたにも関わらず、それを誤りのない神の言葉として信頼できるのは、それが聖霊の導きによって書かれたからです。そして聖霊は、その書かれた言葉を理解させてくれるのです。ヨハネによる福音書の一六章一三節で、イエス様は、「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(16:13)と教えておられます。神の霊が与えられる時、わたしたちの救いにとって大切な真理を、完全に知ることができるのです。使徒パウロも、「神の事柄は、神の霊によらなければ理解できない」と教えています。(一コリント2:10)-一二)。
イエス様が、十字架の死によって救いをお与えくださったことや、復活されたこと、神は三位一体であること、イエス様はまことの神であって、またまことの人であること・・・こうした信仰者にとって最も大切な真理は、聖霊を受けなければ、愚かな話であり、決して理解できないことなのです。今、そのことを信じているわたしたちは、自分の知恵ではなく、聖霊をいただいて、そのことに目を開かれているのです。
また、キリストの言葉を思い起こさせる、という言葉には「実現する 」という意味もあります。
出エジプト記の中で、エジプトの奴隷であったイスラエルの人々が、苦しみのあまり主に叫んだ時、主は、彼らの先祖たちと結んだ契約を思い起こされた、とあります。(出エジプト2:24)。それは、神様が忘れていたことを思い出した、ということではありません。神はイスラエルの民を先祖の土地に導く、という契約を実現しようとされた、ということです。イエス様の教えも、聖霊の働きによって実現されます。イエス様がここで、「心を騒がすな」と言っておられる言葉も、それを聞いたわたしの決意によってではなく、イエス様の言葉とともに働く聖霊によって実行できるのです。
●わたしの平和を与える
イエス様はまた、「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と約束されました。
考えて見ますと、平和、また平安というものは、この地上に生きているわたしたちにとって一番大事なものだという気がします。わたしたちは、みな平和な生活や、心の平和を求めています。そして、そのために働いています。安心して生活したいので、お金を貯めたり、健康に気をつけたりしています。また,人間関係もうまく行くように気をつかうのです。
それは決してどうでも良いことではなく、必要なことです。しかしそのような、この世のものによって保たれる平和は、不確かなものであり、いつ失われるかわからない不完全なものです。
また、困難や争いがないことが平和である、と捉えるなら、わたしたちが本当は勇気をもって直面しなければならない困難を避けて通ることになります。真実に生きようとするなら、困難な道を選ばなければならない時があります。
イエス様は、「わたしは、これ(イエス様の平和)を、世が与えるように与えるのではない」と言われました。この世が与える平和というものは、わたしがいつも平穏無事であることによって保障される平和です。そのような平和は、いつも人々との間に波風を立てないよう生きることで与えられるのがこの世の平和です。
しかし、イエス様が与えてくださる平和は、そのようなものではありません。ある時、弟子たちがイエス様に命じられて、ガリラヤ湖の向こう岸に行こうとしたとき、弟子たちの舟は暴風が襲ったのです。同じように、ィエス様に従う人々もこの世の波風に悩まされるのです。しかし、イエス様は、その波と風を静め、弟子たちを守ってくださるのです。
礼拝の最後の言葉は「ゆきましょう。主の平和の内に」という言葉です。主の平和に守られて、わたしたちはこの世に出てゆくのです。
わたしは、教会に行き始めた時、昔の迫害のことを考えて、わたしには迫害を乗り越える力があるだろうか、そんな覚悟はわたしにはない、と悩んだことがあります。しかし、イエス様が与えてくださる平和は、わたしの意思の力ではありません。それは神様からの賜物であり、わたしたちが必要とする時にかなrず与えられるのです。
イエス様は、「さあ、立て、ここから出て行こう」(14:31)と、わたしたちをこの世に送り出されます。しかし、わたしたちは一人ではありません。わたしの内にはイエス様が一緒におられます。そしてイエス様がともにおられ、イエス様が与えてくださる平和があります。
イエス様がわたしたちの内に住んでくださるように、また聖霊の助けによって御心を行うことができるように、そして今、主の平和をいただき、それぞれの生活の中でイエス様に仕えてゆけるように祈り求めましょう。
復活節第5主日の説教
さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
●新しい掟
イエス様は、十字架におかかりになる日の前の晩に、弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事をされました。その席でイエス様は弟子たちに、「わたしはこれからあなたたちがついて来ることができないところに行く」と言いました。これは、イエス様が十字架で死なれるだけではなく、復活し、そののち昇天して、父である神様のところに行くということです。イエス様は、再び来て、ご自分のおられるところに弟子たちを迎えると約束されましたが、それまで弟子たちはイエス様を見ることはできません。イエス様はここで弟子たちに「子たちよ」と語りかけています。親が世を去ろうとしている時、自分の子どもたちを集めて厳かに最後の言葉を語るように、イエス様は弟子たちに大切なことを遺言として告げたのです。それは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という言葉でした。
イエス様はこれを「新しい掟」と呼んでいます。ではこの新しい掟に対して、「古い掟」とはどんな掟なのでしょうか。イスラエルの人々は、神がモーセを通して与えて下さった掟をすでに持っていました。それは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主であるあなたの神を愛しなさい」という掟と、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という掟です。イエス様は律法の中でこの二つが最も大切な掟である、と教えておられます。
しかし、イエス様が教えた「互いに愛し合いなさい」という掟は、イエス様を信じている弟子たちがお互いに愛し合うように命じた掟です。この掟は、言い換えれば兄弟愛のことです。ヨハネの第一の手紙五章一節から三節にこう書かれています。「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」
●兄弟を愛する人は神と隣人を愛する人
ヨハネの手紙で語られているように言っているように、この新しい掟とは兄弟愛のことです。そして兄弟を愛する人は神を愛する人です。先週の福音書の中でイエス様は、「父がわたしに与えてくださったのは、すべてのものより偉大である」と言われました。神様はご自分の愛する御子を苦しみと死に渡すことにより、わたしたちをご自分お子としてくださいました。この神の愛を知る人は、同じように間の子とされた人々を大切にし、愛するはずです。兄弟を愛することによって、わたしたちが神を愛していることが明らかにされるのです。わたしたちがこのように教会に召されたのは、わたしたちが互いに愛し合い、助け合い、支え合うためなのです。イエス様の大切な羊、また尊い神の子とされた人の信仰の歩みを助けることはできるのは、同じ信仰を持つ兄弟だけだからです。
また、兄弟を愛することは隣人を愛するための出発点です。兄弟愛は狭い愛であり、隣人愛は広い愛です。しかし、「わたしはすべての人を愛している」と頭では思っていても、行いになっているのでなければその愛は観念であって、本当の愛ではありません。わたしたちは「すべての人を愛する」と言いながら、実際には自分と合わない人、またつき合っても利益にならない人たちとかかわりを避けて生きているのです。しかし愛とは顔の見える相手に対する実際の行いなのです。
イエス様は、「わたしが あなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と教えられました。イエス様はいつも「わたしはあなた方を愛している」とは言わずに、「あなたを愛した」と言います。愛とは空想や先だけではなく、実際の行いなのです。
またイエス様の愛は「分け隔てのない愛」でした。イエス様は性格も異なる様々な弟子たちを同じように愛しておられました。裏切り者のユダでさえ、他の弟子たちと同じように接していたのです。そのようにわたしたちも、神が与えくださった目に見える兄弟たちとの関りの中で、互いに愛し合うことを学んでゆくのです。ある方が、「同じ信仰を持つ兄弟を愛せないなら、ましてクリスチャンでない人など愛せませんね」と言っておられましたが、その通りだと思います。教会は、目に見える兄弟を愛することを通して、具体的に隣人を愛することを学んで行く「愛の学校」なのです。
またこのイエス様の掟は「互いに愛し合いなさい」という掟です。誰かが誰かを一方的に愛するのではありません。人間の体に働いていない部分が一つもないように、すべての人が兄弟を愛するという務めを負っているのです。わたしは兄弟のために仕えている、と思うだけでなく、「わたしも兄弟の愛の奉仕によって支えられていることを忘れてはならないのです。
●神の愛をあらわす教会
イエス様は、今日の福音書の最後の箇所で、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と語られました。教会は言葉によって神の愛と救いを伝えます。しかし信仰に生きる人々の生き方を通しても、神の愛を伝えています。人々を教会に招いても、そこでは先輩の会員たちがいばっていたり、社会的に弱い立場にある人が軽んじられたりしているなら、教会はキリストの愛を証していることにはなりません。教会に初めて来た人は説教の内容をすぐに理解することはできません。しかし教会に集う人々の関係や交わりの姿を見て、「ここにこの世にはない神の愛が働いているのを見ることができるのです。
教会が生まれてから最初の三百年の間に、教会は当時のローマ帝国の中で、迫害を受けながら急激に成長してゆきました。その理由は、ローマの人々がクリスチャンの交わりの中にこの世を超えたまことの愛を見たからです。ローマ帝国の中でペストなどの疫病が広がったとき、クリスチャンたちは病人のための施設を作り、自分が感染することを恐れずに兄弟を看護したのです。また信仰の仲間だけでなく、未信者であっても、疫病に感染して親族からも見捨てられた人々を引き受け、同じように看護したのです。人々はそのようなキリスト者の姿に感動し、」わたしもこの人々と一緒に生きてゆきたい、彼らの交わりの中にいたい」、と思ったのです。この時、教会が建てた施設は「ホスピス」と呼ばれました。それは「もてなす」という意味です。そしてこのホスピスが「ホスピタル」、つまり今の病院の始まりとなりました。このように、お互いに命を捨てるほどに愛し合う姿が、人々に神の愛、キリストの愛があらわしたのです。
今の時代にはそのような状況はないかもしれませんが、「命」という言葉を、「人生」とか「生活」という言葉に置き換えるなら、わたしたちは自分の人生や生活を兄弟のためにげささげることはできるのではないでしょうか。
イエス様がわたしたちを愛してくださったように兄弟を愛する、ということはわたしの力で実現できることではありません。そのように成長させてくださるのは神様です。わたしたちのしなければならないことは、このイエス様の教えを、最も大切な掟として受け入れる、ということです。そしてそのような愛をわたしたちの内に与えてください、と願うことです。
わたしたちの教会は、会員がお互いに心を配るという良い習慣があります。これからもわたしたちは愛において成長し、互いに助け合い、励ましし合いながら歩んでゆきたいと思います。
復活節第4主日の説教
そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」
●キリストの言葉と御業
今日の福音書の最初に、「そのころエルサレムで神殿奉献記念祭が行われた」と書かれています。神殿奉献記念祭というのは、イエス様がお生まれになった年の一六五年前に、シリアの支配者に奪われていたエルサレムの神殿をユダ・マカベウスという人が、戦いによって取り戻し、これを再び清めて神様に献げたことを記念する祭りでした。この祭りは今のクリスマスと同じ十二月二五日に祝われていました。
ユダヤ人たちは、外国の軍隊を撃ち破った記念のこの時こそ、メシアであると宣言するのにふさわしい時ではないか、と思っていたのです。彼らはイエス様が一向に自分がメシアであることを表明しないことに苛立ちを覚えていたのです。
イエス様は彼らに対して、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている」と答えられました。
イエス様はご自分が復活される前は、「わたしはメシアである」とは言いませんでした。なぜなら、「自己証言」は正当な証言とはみなされないからです。今でも「わたしはキリストの再来である」とか、「わたしは神のお告げを聞いた」などと主張する人々がいます。しかし、自己証言だけでは、それを証明することはできません。それを裏付ける確かな証拠や証言が必要なのです。
イエス様は、「わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。」と言いました。イエス様は、メシアにしかできない奇跡を行っていました。ですからユダヤ人の指導者たちの中にも、ニコデモのように、イエス様に向かって「わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」(ヨハネ三:二)と素直に言う人もいたのです。
イエス様のわざは今でも見ることができます。世界にはイエス様が成し遂げた御業が今もは続いています。わたしたちの国も、欧米の文化に出会うまでは、人間には生れつきの身分の差はなく、女性も子供も大切にされなければならない、という考えはありませんでした。日本の外からやってきた思想によって日本は近代化したのです。そしてその思想のもとにはキリストの教えがあります。ですからこの世界の歴史を見るなら、わたしたちは今もイエス様の偉大な働きを見ることができるのです。
●良い羊飼い
ユダヤ人たちがイエス様を信じることができなかった最も大きな理由は、彼らが自分たちの願いにかなうメシアを求めていたからです。ユダヤ人たちは、にローマと戦い、その支配から解放してくれるメシアを期待していました。期待通りに行動しないイエス様に失望した彼らは、「命がけでローマと戦うなら、キリストが来て戦ってくださる、と考えて行動し、ついに滅びてしまったのです。
当時のユダヤ人のみならず、今も多くの人々にとって、神とは自分の願望をかなえてくれる者であり、自分が考えているような幸せをもたらしてくれる者だと考えています。しかし、それは羊が羊飼いを自分たちに従わせようとするようなものです。人は誰一人自分の罪に勝つことができず、本当の幸いへの道を知らないのです。大切なことは、わたしの考えに従う羊飼いではなく、わたしを正しい道、命の道に導いてくださる方に従うことです。
旧約聖書には、神様が「わたしは一人の牧者を立てる」と約束された言葉があります。その約束通り、神様はご自分の御子イエス・キリストをわたしたちの羊飼いとして遣わしてくださいました。
羊を導く羊飼いには三つのことが必要とされます。それは第一に羊を正しく導くことができる、ということです。わたしたちの羊飼いは罪の道ではなく、真理の道に導く方でなければなりません。次に羊飼いは羊を大切にする人でなければなりません。どんなに小さな弱い羊でも大事にするのです。三つ目に、羊飼いは羊を守る力をもっていなければなりません。
イエス様は、「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と言われました。キリストより一千年前に生きたダビデは、父親から羊の群れを託されていました。ダビデはイスラエルの敵であった巨人ゴリアテと戦う前に、サウル王に向かって「僕(しもべ)は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。 そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。」(サムエル上一七:三四)と語っています。ダビデは父親から託された羊を命がけで守ったのです。同じように、イエス・キリストは、父なる神から託された人々を愛し、罪の責任から解放するために、命を捨てて罪の償いを果たしてくださいました。しかし、弟子たちの群れはイエス様が殺された後、飼い主を失った羊のように置き去りにされたでしょうか。イエス様は十字架に付けられる前の晩に、弟子たちにこういわれました。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(ヨハネ十四:十八)。イエス様は復活し、永遠にご自分の群れを守る羊飼いとなられたのです。ダビデには羊を大切に思う気持ちだけではなく、羊を守ることができる力があったのです。同じように、イエス・キリストは、ご自分の羊を愛し、また死の滅びから永遠に守る力を持っておられるのです。
●キリストの羊たち
イエス・キリストは、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(一〇:二七)と告げました。「彼らを知っており・・・」と言われた「知る」という言葉は、心と心のつながり、また愛の関係を表す言葉です。キリストと、キリストを信じる人々の深い絆は、人間の知恵や力によるものではありません。それは人間の知恵を越えた神秘的なつながりです。教会では小さな子どもでも、知的障がいを持つ人たちも喜んでイエス様についてのお話を聞いています。たとえ難しいことは分からなくても、イエス様に人間を超えた清さ、愛、そして力を見てイエス様を信じる人は、誰でもイエス様という羊飼いを知っているイエス様の羊なのです。
将来を見通せる永遠の神と、その御子であるイエス・キリストは、誰がご自分に信頼するかを、はるか昔から見通しておられ、その人々を御心に留めておられるのです。しかし、わたしたちは誰が信じ、だれが信じないかはわかりません。ですからすべての人にキリストの声を届けなければならないのです。
イエス・キリストは、「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり)」、と語りました。わたしたちの価値は、わたしたちの働きや立派さにあるのではありません。キリストのもとに行く人は、まことの羊飼いを求めるキリストの羊であり、父なる神とキリストにとって、すべてに勝って大切な存在なのです。
命をかけて御自分の羊を守るイエス様の愛から、また悪魔と死の力に打ち勝ったイエス様からわたしたちを奪い取ることができるものはありません。わたしたちにとって最も大事なことは、わたしの能力や行いではなく、神からの羊飼いであるイエス・キリストを知ることです。つまりイエス様の羊であることです。
また、イエス様はイエス様に大事にされているわたしたちが、お互いを大切にするようにわたしたちにも求めておられます。わたしたちは、お互いに助け合い、支えあいながら、今しているように、これからも共にわたしたちの羊飼いであるイエス・キリストの声に聞き、この良い羊飼いに従ってゆきましょう。
復活節第2主日の説教
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
●愛と赦しの主
先週の復活日の日課には、イエス様が復活された日曜日の朝のことが書かれていました。その女性たちの言葉を聞いた弟子たちは、一つの部屋に集まっていました。彼らはユダヤ人を恐れて家の戸をみな閉めていました。そこへイエス様が来て、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われ、手とわき腹とをお見せになりました。弟子たちは、主を見て喜びました。イエス様は、この日の朝早く女性たちに出会ってから、その日の夜にイエス様は弟子たちに現れたのです。
なぜそんなに時間をかけたのでしょうか。弟子たちは三日前にイエス様を見捨て、逃げてしまいました。弟子たちはイエス様が復活されたと聞いても、素直に喜べない状況にあったのです。しかし、復活されたイエス様はマグダラのマリアに告げました「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
イエス様は弟子たちのことを、「わたしの兄弟たち」と呼んだのです。またマルコによる福音書では、天使が「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」(マルコ十六:七)と女性たちに言伝(ことづて)ています。天使たちは、特にペトロの名を上げて、彼がなお弟子たちのリーダーであることを認めていたのです。ペトロや弟子たちは婦人たちからこれらのイエス様の言葉を聞いてどんなに安心したことでしょう。こうして弟子たちがイエス様に会う準備が整えられていったのです。
イエス様は、扉がすべて閉ざされていた部屋の中で、弟子たちの真ん中に立たれました。キリストは幽霊ではなく、弟子たちが触ることのできた体です。しかし、その体は物質的な制約も空間的な制約も受けない体なのですです。
イエス様は弟子たちに、「あなたがたに平和があるように」と言われ、手とわき腹とをお見せになりました。その痛々しい傷は、目の前の人が確かにイエス様であることの何よりの証拠でした。イエス様の口には、ご自分を見捨てた弟子たちを責める言葉はありませんでした。また自分を十字架につけた人々を呪う言葉もありませんでした。イエス様は復活によってご自分の十字架の死が確かに罪の赦しのためであったことを示されたのです。
弟子たちが復活した主を見て喜んだように、わたしたちも十字架に死んで復活された主をイエス様によって、神様を喜ぶことができます。人間は本当の神様を恐れています。本当の神様はわたしたちの心の中も見ることができるからです。それでちょうど罪を犯したアダムとエバが神の顔を避けて隠れたように、誰もが神様を怖れ、自分から遠ざけようとしています。しかし、人間の罪を乗り超えて復活したイエス様を知るとき、その赦しの中で神との平和が与えられ、心から神を愛する者とされるのです。
●真ん中におられる主
イエス様は弟子たちの真ん中に立たれた、と書かれています。
また、イエス様は弟子たちの「真ん中」に立ちました。マタイによる福音書でイエス様は「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ一八:二〇)と語られました。「その中に」という言葉も「真ん中に」という言葉です。
わたしたちがキリストの名によって集まるとき、その真ん中に来てくださるイエス・キリストにお会いするのです。今日の日課の後半には、弟子のトマスのことが書かれています。トマスは、最初は弟子たちと一緒におらず、キリストと出会いませんでしたが、次の日曜日には他の弟子たちと一緒にいて、復活のキリストに出会ったのです。わたしたちはキリストの名によって集まり、キリストに出会います。
復活したイエス様に十字架の傷が残っていたことは、イエス様すぁることの確かなしるしであると言いましたが、十字架の傷跡がそのまま残っているということは、わたしたちが今もイエス様の御傷に赦され、癒されているということです。弟子たちがイエス様に出会って平和を与えられ、また喜びを与えられたように、今、わたしたちもイエスの名によって集まり、その中にイエス様をお迎えし、イエス様から平和と喜びをいただくのです。
●新しい神の民、教会の使命
しかし、イエス様がわたしたちの真ん中におられるのは、わたしたちだけがイエス様からの平和と喜びを受けるためだけではありません。
旧約聖書のゼファニア書三章一七節には、「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる」とういう言葉があります。この「ただ中」という言葉は「真ん中」という意味です。イスラエルの人々が荒野を旅していた時、神の幕屋はいつも民の真ん中にありました。イエス様か弟子たちの真ん中に立たれたのは、イエス様が新しい神の民を集め、整えて新しい使命を与えるためでした。
イエス様は弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言われました。
このイエス様の言葉は、弟子たちが罪を赦す権威を独占しているような印象を与えますが、これは、わたしに出会い、聖霊を受けたあなた方にしか罪の赦しを与えることはできない、ということを言われたのです。復活のイエス様を信じなければ、罪の赦しの福音を理解することはできないし、聖霊を受けることもできません。また、他の人々にキリストへの信仰を伝えることもできないのです。教会はキリストがその真ん中におられ、キリストの霊が満ちている場所です。わたしたちはここでイエス様と出会い、イエス様から平和と喜びをいただき、聖霊を受けます。それはわたしたちがキリストによる罪の赦しと命を伝える者として送り出されるためです。復活したイエス様はわたしたちに命を与えてくださいます。命という言葉には「使命」という意味もあります。わたしたちが復活の新しい命を受けるということは、新しい使命に生きる者となることです。
この使命は、十一人の使徒たちだけに与えられたのではありません。また特別な人々だけに与えられたのでもありません。イエス様が弟子たちの真ん中に立たれた時、そこには使徒たちだけでなく、エマオから帰った二人やほかの仲間たちもいたのです。つまりこの罪を赦す権威は、すべての信徒の集まりである教会に与えられたものであり、キリストを伝える働きもすべて信徒に与えられている使命なのです。
これは最も大切な聖なる務めです。人間は神を愛する時、生きる音ができます。そしてイエス・キリストの十字架と復活の福音はわたしたちに神を愛する者に変えてくれるのです。イエス様を十字架につけたこの世界が、今もなお滅びないでいるのは、ひとりでも多くの人が、罪の赦しを受け、永遠の命を受けるためなのです。わたしたちは教会を通してキリストの福音が伝えられてゆくように、いっしょに働いています。また、わたしたちが一人一人生活している場所でも、復活の喜びに生きるわたしたちはキリストの証人とされているのです。この世界のすべてのものはやがて消えてゆきます。しかしキリストが与える復活の命だけは永遠に続きます。死の闇に閉ざされている人々の心に神の愛と命の光を照らすという、もっとも大切な使命に生かされていることを心から感謝し、これからも力を合わせてキリストの働きに仕えてゆきたいと思います。
復活祭の説教
そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
●「生きておられる方」
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」
この天使の言葉は、復活について記している四つの福音書の中で、ルカだけが記しています。それは、「イエスはすでによみがえられたのに、なぜあなた方は墓の中のイエスを捜しているのか」という意味にとることができます。
しかし、ここで「生きておられる方」という言葉は、それ以上の意味を持っています。聖書では「生きている方」という言葉は、神に対して使われる言葉です。列王記上 十七章一節で、預言者エリヤは、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。」と言っています。神は唯一の不死、すなわち死なない方であり、永遠の命を持つ方です。ですからイエス様を「生きておられる方」と呼ぶことは、イエス様もご自分の内に永遠の命を持っておられる方であるということです。
また使徒行伝の口語訳では、「あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、 いのちの君を殺してしまった。」とユダヤ人たちに向かって語りました。「いのちの君」という言葉は、「いのちの始めである方」という意味があります。復活によって、キリストは聖なる神の御子であることが明らかにされたのです。
パウロは、ローマの信徒への手紙一章の三節、四節で、こう言っています。
「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、 聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」
神の子と定められた、という言葉は、「神の子であることが立証された」ということです。
イエス様が生ける神の子であるということは、イエス様の死が普通の人間の死とは異なることを示します。イエス様が普通の人間であるなら、その死は一人の人間の身代わりにしかなれません。しかもこの世の命しか償うことはできません。しかし命の始めである神の子の豊かな命は、限りなく人々の罪を償ってくださるだけでなく、多くの人に復活の命、永遠の命を与えてくださるのです。
●キリストの赦しを明らかにする復活
キリストの復活は、キリストが神の子であることを確証する出来事でしたが、さらに復活は、キリストの死が多くの人の罪の赦しのためである、というキリストの言葉を確証する出来事でした。
イエス様は弟子たちに「人の子(キリスト)は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」こう語っています。(マルコによる福音書一〇:四十五)
もしキリストが復活しなかったなら、このキリストの生前の言葉が確かなものだと知ることができるでしょうか。キリストが逮捕されたとき、死んでも先生についてゆきます、と言っていた弟子たちはキリストのもとから逃げてしまいました。またイエス様は人々の酷いあざけりを受けながら死んでいったのです。イエス様はどんなに自分たちを恨んで死んでいったことだろう。自分たちにはもうイエス様に会わせる顔がない。そう考えていました。
しかし、復活して弟子たちの前に現れたキリストの口からは、弟子たちを責める言葉は一切ありませんでした。キリストは弟子たちの前に現れた時、「あなたがたに平和があるように」と言い、変わらない愛を弟子たちに示されたのです。イエス様が復活しなければ、イエス様が生前に語った言葉が変わっていないことを確認できなかったのです。
昔、こんな話を読んだことがあります。アメリカのフロックハートという人の経験したことですが、彼はある時、深刻な病気で死にかかっている友人から、全財産を遺産として与えるという遺言を受けました。しかしその時は、友人は病気から快復したので、遺産は受け取りませんでした。しかしその数年後に、友人は死にました。フロックハートは、遺言状に基づいて遺産相続をしようとしましたが、遺言書に不備があるということで、遺産を受け継ぐことができませんでした。彼はこう記しています。「わたしは二度遺産を受け取ることができなかった。一度目は友人が死なったから。二度目は友人が復活しなかったから。」
ここでフロッグハートは遺産が欲しかったということを言っているのではなく、キリストの死と復活の意味を語っているのです。遺産はその持ち主が死ななければ、相続者のものにはなりません。もし不備があるとき、確かに死んだ人が復活して、その約束が確かであると言ってくれなければ相続されないです。
最後の晩餐はイエス様の遺産相続が約束されたときです。イエス様はわたしたちの罪のためにご自分のからだと血、すなわちイエス様の命を与えると約束されました。そして死なれました。その上、死から復活されて、ご自分の約束が永遠に変わらないことを示されたのです。キリストの口には、ご自分を苦しめた人々に対する怒りや復讐の言葉はありませんでした。それは、イエス・キリストがわたしのために死んでくださり、そして復活されたことを信じる人は、だれでもこのキリストの遺産を受け継ぐことができるためです。
●復活の光の中で
キリストの復活の最大の喜びは何でしょうか。天使は、「あの方はここにはおられない」と言いました。では、キリストは今どこにおられるのでしょうか。生きておられ方、神の御子であるキリストは、ご自分を受け入れた人とともにいてくださるのです。命を捨てるほどにわたしを愛してくださり、また死に打ち勝つ強い力を持つ方が。いつも共にいてくださること以上に大きな喜びはありません。
ヨハネによる福音書一章四節にこう書かかれています。
「言(とこば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」
「言」とはキリストのことです。キリストの内にある光は、人間を照らす光だというのです。イエス・キリストの復活は、わたしたちにいのちの光が照らされた日なのです。それは週の初めの日、すなわち日曜日でした。
世界の最初の日曜日は天地創造の一日目です。この最初の日曜日には光が創造されたのです。それは太陽や月の光ではなく、天地創造を導きく光でした。世界はこの光の中で創造されてゆきました。創世記一章一節から三節にこう書かれています。
「初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。「光あれ。こうして、光があった。」
光が照らされる前の世界は、混沌であった、と書かれています。以前の訳では「地は形なく、むなしく、闇が淵の面にあった。」となっています。わたしはここを読むたびに、この最初の世界の姿がわたしの姿であったと思わされます。死という闇が世界を覆っている。やがて死によって滅び、消えてゆく人生とこの世界に何の意味があるのだろう、とまったく空しい思いでいたのです。人生とは不可解であり、不条理だと叫んで自ら命を絶った人もいます。いじめで悩んでいた小学生の女の子が、「どっちみち人はいつか死ぬのだから、今死んでも同じことだ」、と書き残して命を絶ったこともありました。
一方、多くの人は、生きている間、できる限り快適に、豊かに過ごせばよい」と思っているのではないでしょうか。しかし、イエス様からの命の光に照らされた人は、復活する者にふさわしい道を歩んでゆくのです。
こうして世界の創造が初めの光に照らされて始まり、その光の中で創造の働きが進んでいったように、わたしたちもイエス・キリストの命の光、愛の光に日々照らされ、神に喜ばれる者へと成長してゆきます。復活という希望の光の中で、わたしたちは真実な歩みができるようになるのです。
命の光に照らされたわたしたちは、大きな恵みに感謝し、この光がさらに多くの人を照らすように、死の闇に囲まれ、むなしい思いを抱えながら、心の奥底でまことの光を求めている人々に、この光が照らされるように、力を合わせてキリストの十字架と復活の福音を伝えて行きたいと思います。
四旬節第5主日の説教
過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
●注がれた香油
今日の福音書には、ベタニアに住んでいたマリアという女性が、イエス様の足に香油を注いたことが書かれています。
「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。」と書かれています。イエス様は、エルサレムに来たときはここのベタニアという村のラザロ、マルタ、マリアの三人の兄弟が住む家に滞在しました。そして、イエス様にとっては今回が最後のエルサレムでの滞在でした。ヨハネ福音書は、これが過ぎ越しの祭の六日前のことであったと記しています。翌日の日曜日に、イエス様はエルサレムに入りました。そして過ぎ越しの日の金曜日に十字架にかけられたのです。
安息日が始まる日没前に料理を作り、日没になるとイエス様のために食事会が始まりました。マリアの姉のマルタもそこで給仕をしていました。
「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった」と書かれています。
この時代のユダヤの食事の仕方は、机ではなく、床に寝そべり、足を延ばして頬杖をついて右手で食べ物を取って食べていました。そのように食事をしていたイエス様の足に香油を注ぎ、自分の髪でそれをぬぐったのです。
マリアのこの行動はそこにいた人々を驚かせました。その香油は三百三十グラムほどの量でしたが、それでも労働者一年分の給料にあたるほどの高価なものでした。弟子の一人のユダ―彼はこの後にイエス様を裏切るのですが―「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」とマリアをとがめたのです。マタイ福音書では、ユダだけではなく、弟子たちがそう言ったと書かれています。また弟子たちの他にも、そこにいた人々の中にも、同じようにマリアは高価な香油を無駄にしている、と思った人たちもいたのです。
マリアをとがめたユダに対して、イエス様は、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と語られました。他の福音書では、マリアはイエス様の頭に香油を注いだ、と記されています。頭から足に香油を塗ることは、ちょうど遺体全体に香油を塗る葬りの時の様子と重なる光景でした。マリアは自分では意識していませんでしたが、この六日後に死なれるイエス様のために、葬りをしたのだ、とイエス様は言われたのです。
●ユダの見かけの正しさ
マリアはなぜイエス様に対して、これほどのことをしたのでしょうか。この個所の前の十一章には、イエス様が、マリアとマルタの兄弟であるラザロを復活させたことが記されています。ラザロが死んだとき、イエス様は、ご自分を憎んでいる人々がいるエルサレムを離れていました。しかし、イエス様はラザロを再び生かすために、エルサレムの近くのベタニアに行かれました。弟子たちはイエス様に「 先生、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」と言いました。しかしイエス様は、ご自分が愛しておられたラザロのために、危険を冒してエルサレムの近くに行ったのです。マリアは、自分の兄弟ラザロを命がけで救ってくれたイエス様に、言い尽くせないほど感謝していたことでしょう。マリアは、イエス様への感謝を、高価な香油をすべて注ぐことによって表わしたのです。
これに対してユダは、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 と言いました。ヨハネは、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」と記しています。ユダは、この香油をお金に換えれば、彼がごまかしていたお金を埋め合わせができたのに、と思ったのです。ユダはそのような罪を隠して、自分が貧しい人のことを思いやっているように見せかけたのです。
このユダのように、わたしたち人間はやましいことがあるのに、表面上は正しく見えることを行ったり、他の人の落ち度を責めたりします。自分でも意識しないでそうふるまいます。しかしそれによって罪に勝つことはできずに罪に支配されたままでいることになるのです。
●キリストへの愛は無駄に終わらない
イエス様の足に香油を注いだマリアの行いは、他の人々には無駄で愚かなことにさえ思われましたが、マリアの行いをイエス様は受け入れ、それを人々にご自分の死を告げるしるしとされたのです。また、これから十字架の死に向かおうとしているイエス様にとって、マリアの示した真心は、イエス様にとっておどれほど大きな喜びだったことでしょう。
聖書の中には、やはり無駄に思われた香油の話があります。それはイエス様が葬られてから三日目に、イエス様の墓に向かっていった女性たちが持って行った香油です。女性たち向かっていたイエス様の墓は大きな石でふさがれていて封印され、兵隊たちによって厳重に警備されていて、誰も入ることができなかったのです。女性たちはどうしたら墓を開けられるかも考えずに墓に向かったのです。彼女たちはイエス様を愛する愛に突き動かされて、何も考えずに墓に向かっていったのです。常識的に考えるなら、彼女たちの行動は無駄であり、愚かに思えるものでした。しかし女たちは空になった墓を目撃し、イエス様の体がないことを知りました。そして帰る途中で、復活のイエス様に出会ったのです。彼女たちの行動は無駄に終わりませんでした。むしろ彼女たちはそれによってキリストの復活という、この世で最も偉大で最も喜ばしい知らせを、初めて世界に告げるという務めを果たしたのです。もし彼女たちの無駄に思える行動がなかったら、常識で考えていたなら、だれも墓には行かなかったでしょうし、イエス様の復活を知ることもなかったのです。イエス様への愛は、それがどんなに無駄で愚かに見えても、決して無駄に終わることはありません。神様は必ずそれを受け入れてくださり、尊く用いて下さるからです。使徒パウロはコリントの信徒への第一の手紙十五章の終わりで、「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」と語っています。
わたしたちは毎日の歩みの中で、どうしたら神に喜ばれるかよくわからないことがほとんどです。しかし、確かに言えることは、善い行いは神への愛から始まる、ということです。そしてわたしたちが心から神を愛するものとなるために、イエス様はこの世界に来られ、わたしたちのために命を捨ててくださったのです。ラザロのために命をかけてエルサレムに来たイエス様がもう一度エルサレムに来られ、すべての人々の救いために、最も高価な香油であるご自分の命を惜しみなく注いでくださったのです。わたしたちもこのイエス様の愛に応え、イエス様への愛によってすべてを行う時、それはイエス様に支えられて本当の良い行いとされてゆくのです。イエス様を愛する人はイエス様が行ったように行いたいと思うようになります。ですからコロサイの信徒への手紙三章:一七節で、パウロは「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」と教えられています。
この四旬節を、わたしたちはキリストの愛をさらに深く知り、わたしたちの主への愛をいっそう深める時にしたいと思います。
四旬節第4主日の説教
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
●父から離れて
イエス様が話された「放蕩息子のたとえ話」は、聖書の中でも、よく知られ、また親しまれていますこのお話は次のように始まります。
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。」
ここで弟息子が父に求めた「財産の分け前」とは、父親の死後に受け取る遺産のことです。それを今ください、というのです。この息子にとっては、父親よりも父親の財産の方が大事だったのです。
この弟息子の姿は、わたしたち人間の姿です。人間は、神様が日々豊かに与えて下さるもの―食べ物、健康、大切な家族、持ち物―を大事にします。しかし、それらを与えておられる神様は、自分の幸せを邪魔する者であるかのように考えて遠ざけているのです。この弟息子は、財産を受け取ると、すぐにお金に換えて、遠い国に旅立ちました。父親の目の届かないところに行こうと考えたのです。わたしがこの放蕩息子のたとえ話を読んで思ったことは、「なぜこの父親は息子の言うことを聞き入れて、財産の分け前を渡したのだろうか」ということです。聖書の神は、わたしたち人間が自発的に神様を愛し、敬うように造られたのです。そこに人間の特別な価値があります。ですから、神様はどんなに悲しくても、わたしたちを力ずくでご自分のもとに縛りつけようとはされないのです。
しかし、父の家を出た弟息子は、はそこで放蕩の限りを尽くし、財産を使い果たしてしまいました。さらに悪いことに、その地方を飢饉が襲いました。
神から離れて生きる、ということは、この弟息子のように、第一に自分の欲望にまけ、道徳的に破綻をすることであり、次に、神からの命を失い、死ぬべきものになる、ということです。
以前、ニューヨークの地下鉄に、だれかが「神は死んだ」と落書きりました。そして次の日にその落書きの横に「そしてあなたも死ぬ」と書かかれていたそうです。人が命の源である神から離れる時、死ぬのは神ではなく、その人自身なのです。
しかし、ある人はこうした自分の姿に気づいて、霊的な飢えや渇きを覚えます。このような時、わたしは自分が本来あるべき状態から迷い出ており、失われているのではないか、と思うようになります。
この弟息子は、飢えの苦しみの中で、自分が父によって生きていたこと、その父に対して自分がしたことを思い出したのです。
弟息子は心の中でこう言いました。「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」
そして弟息子はそこをたち、父親のもとに行きました。このように、それまで座り込んでいた場所から立ち上がり、わたしたちの存在と命のもとである神に帰ることが「悔い改め」なのです。
●まだ遠く離れていたのに
息子が家に帰ると、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」とイエス様は語りました。父親は毎日家の前で息子の帰るのを待っていたのでしょう。息子がお父さんを見つけるよりも早く、遠くから近づいてくる息子を見て憐れに思い、 走り寄って息子を抱きしめたのです。イエス様が語っておられる「まだ遠く離れていたのに」という言葉は、物理的な距離だけでなく、道徳的な距離という意味もあります。お父さんのところに帰ってきた息子の姿はとてもみじめでした。自分が父を捨てたこと、お父さんを悲しませた年月、無駄にしてしまった財産、そうした彼の罪が自分と父親を遠く隔てていました。しかし神様にとってはそれが問題ではないのです。わたしたちがわたしたちの魂の故郷である神を思い出し、神に帰りたいと願った時、神は大きな喜びをもってご自分の方からわたしたちに走り寄ってくださり、この父親のように、憐れみをもって、あるがままの姿のわたしたちを抱きしめてくださるのです。
この弟息子は、自分はもう父に受け入れてはもらえないと思っていました。しかし、父親は、一番良い着物を息子に着せました。また、父親は指輪を息子の手にはめるように、また履物を履かせるように僕(しもべ)に命じました。この指輪とは、財産を受け継ぐことができる権利を示すものです。弟息子は自分の財産の分け前を使いつくしてしまったのに、父は再び彼を相続者としたのです。また、家の中で履物を履く、というのは使用人ではなく、家族であることのしるしです。
わたしたちにも、神の愛によって、イエス・キリストという、罪を覆う救いの着物を着せていただきました。そして神の子ども、神の家族となり、神の御国を受け継ぐ資格を与えられたのです。
わたしたちが神の子とされるのは、自分がそれにふさわしい者になったからではありません。ただ神の愛によって受け入れられ、罪を覆われ、神の子どもとされたのです。そしてわたしたちは神の子とされた時に、初めて心から神を愛することができるのです。
●父の心から離れていた兄
しかし、この放蕩息子のお話は、めでたし、めでたしで終わったのではありません。家出息子のお兄さんが畑から帰ってくると、音楽や踊りの音が聞こえるので、どうしたのか、と聞きました。僕が、弟さんが帰ってきてお祝いをしているのです、と言うと、このお兄さんは怒ってしまって家に入ろうとはしませんでした。心配したお父さんがなだめに行きました。
兄は「わたしは何年もあなたに仕えてきました」と言っている、その仕えるとは「奴隷として働く」という言葉です。お兄さんは喜んで働いてきたのではありません。奴隷のように働かされている、と思っていたのです。また、「友達と楽しむために子山羊一匹くれませんでした」と言っています。この兄もまた心の中では「わたしも楽しい思いをしたかった」と言う本心が現れています。
確かに兄のほうは、体はお父さんの近くにいました。でも心は、やはり弟息子のようにお父さんから離れていたのではないでしょうか。このお兄さんの心が本当にお父さんの近くにあったなら、お父さんの心の悲しみや痛みがよく分かり、お父さんと一緒に心配し、お父さんと一緒に弟の帰るのを心から待っていたに違いありません。
イエス様がこの話しをされた相手は、「なぜイエスは罪人と一緒にいるのか」と批判していた人々です。彼らは、神様は自分達のように正しく生きているものを愛されるはずだ、と思っていたのです。しかし、彼らも外側は神様の近くにいるように見えながら、その心は神から遠く離れていたのです。
わたしたちは、自分の正しさではなく、神の憐みによって神に帰ることができ、神の子とされました。その神様の憐みを忘れてしまっているなら、愛のない態度や言葉で、人を神から遠ざけ、神様のお働きを妨げてしまうことでしょう。わたしたちは放蕩息子でもあり、また兄のようになる危険もあるのです。ですから何よりも先ず、わたしたちの心が神様の近くにあるように、悔改めて父のもとに帰り、父親の胸に抱かれた弟息子が父の愛の鼓動を聞いたように、わたしたちも父なる神の胸に帰り、父の愛に触れなければなりません。わたしたちと神の間にあった深い溝を埋めたのは、わたしの正しさや行いではなく、ご自分の独り子を与えてくださった神の愛によるのです。
この四旬節の時、一層神のお近づき、その愛に触れて、弟や隣人に対して憐れみ深い者となることを求めて行きたいと思います。
四旬節第3主日の説教
ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
●エルサレムで起きた事件
今日の聖書は、ある人々がイエス様に伝えた事件のことから始まっています。それは当時イスラエルを治めていたローマの総督ピラトが、神殿で犠牲をささげていたガリラヤ人たちを殺すという事件でした。ガリラヤ地方の人々の中にはローマの支配に対して過激な行動をする人が多かったそうです。
イエス様にその事件を告げた人々は、「神様の守りがあるはずの神殿で殺されてしまったのは、あの人たちがきっと罪深かったからではないか。だからのような最後を遂げたのではないか」と考えていたと思います。
イエス様は彼らの思いを見抜いてこう言われました・「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
ガリラヤ人たちが殺されたのは人災です。またシロアムの塔が倒れて人が死んだのは不慮の事故です。「こうした非業の死、不慮の死に出会う人々は、そうした災いに会う何らかの原因があったのかもしれない。」因果応報という考えになじんでいる日本人のわたしたちも、何となくそのように考えているかもしれません。
しかしイエス様は、「あなた方も悔い改めなければみな同じように滅びる」と言われました。そしてイエス様は、いちじくの木のたとえを語られました。
「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』」
このイエス様のたとえは、やがてエルサレムの滅亡を指していると取ることもできます。イエス様が、この後、エルサレムでいちじくの木から食べようとしたとき、その木に実を見つけることができなかったので、その木を呪ったところ、、そのいちじくの木が枯れてしまった、という不思議な話が書かれていますが(マタイ二十一:十八‐二十二)、これはやがて起きるエルサレムの滅亡を予告している、と解釈できます。「神殿がわたしたちを守ってくれる」と信じて戦った人々は皆殺されてしまったのです。
しかし、エルサレムで起きることは同時にすべての人に対する警告でもあります。「あなた方も悔い改めなければみな同じように滅びる」というイエス様の言葉は、「あなた方も悔い改めなければ、神から離れたまま死に、滅びてしまう、という意味です。たとえ安らかな死のように見えたつぃても、神から離れて迎える死は滅びです。
●実を結ぶ人生
「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき」と話されるたように、そのいちじくの木は自然にそこに生えたのではなく、人の手によって植えられたものです。同じように、わたしたち人間も、決して自然に生まれたのではなく、実を結ぶ、という目的のために命を与えられた一人一人です。
では、わたしたちを造られた神様が求めておられる実とはいったい何でしょうか。それは神の言葉である聖書にしるされています。
神様がわたしたちに求めておられることは、第一に、わたしたちか神を愛する、という実りを得るということです。人間が他の物質や動物と違う点は、人間だけが自分を造リ、多くの恵みを与えておられる神を自発的に愛し、その愛に応えて生きることができるということです。
さらに神様が求めている実りとは、隣人を自分のように愛するということです。ある動物学者が言っていましたが、人間だけが、強いものが生き残り、弱いものが死んでゆくという弱肉強食の法則によらないで生きてゆくける唯一の生き物なのです。わたしたちは自分の命や力、時間や持ち物を神様の御心に従って使ってゆかなければなりません。「自分だけ幸せであればよい」とか、「自分の力で稼いだものを自分のために使うのは当然だ」と主張は、神の前には通りません。自分の満足や幸福だけを目的として神の言葉に聞こうとしない生き方は、無益であるだけなく、いちじくの木が大きくなるだけで実を結ばず、他の木の養分を奪い取るように、神が造られたこの世界にとって有害になってしまうのです。イエス様は、神から離れ、自分だけのために生き、実を結ばない木は必ず切り倒される、と警告しています。
この「切り倒す」という言葉は神の裁きをあらわす言葉です。
●神の裁きと憐れみ
しかし、イエス様のたとえは続きます。「この木を切り倒せ、という主人の言葉に対する園丁の言葉が語られています。
「ご主人様、このままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。それでもだめでしたら切り倒してください」
この園丁の言葉も実は神様の言葉であります。裁き行う神の峻厳と、人間を惜しみ、何とかしてご自分に立ち返らせようとする神の慈愛とがここに語られているのです。
イザヤ書五十三章八節にこう預言されています。
《とらえられ、裁きを受けて、彼は命をとられた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命あるものの地から断たれたことを」
ここで語られている「断たれた」という言葉は「断ち切られる」という言葉です。罪のないイエス様が神様の裁きを御自分が受けてその命を断ち切られることによって、わたしたちが神から離れて犯したすべての罪を負ってくださttのです。この完全な愛と赦しによって、人は神に立ち返ることができ、神を愛する者になるのです。ために
今日の日課は「ちょうどその時」という言葉から始まっています。この前の箇所、ルカ一二章の終わりにはこのようなイエス様の教えが語られています。
「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。」
裁きの場所に向かって歩んでいる、それがあなた方の人生である。しかしその途上で、あなたを訴える人と出会った。だから裁期の場に着く前に、その人と和解しなさい、というのです。神様はわたしたちにイエス様を送ってくださいました。イエス様は人々の罪を指摘したので、殺されました。しかし、イエス様はご自分の死が、人々の罪の負債を引き受けるためである、と前もってはっきりと語っておられるのです。
わたしたちが今なお生かされているのは、神がキリストによって与えてくださる和解を受け取るためです。神が差し出しているイエス・キリストという和解の手を握るためなのです。「悔い改め」という言葉は、神に立ち返る」という意味です。わたしたちがイエス様の愛を見ることができ、聞くことができ、そしてそれに応えて信仰を言い表すことができるうちに、神に立ち返らなければなりません。神の完全な愛と赦しを知るとき、わたしたちは神に帰ることができ、心から神を愛する者になるのです。
イエス様が殺されましたが、三日目に復活し、ご自分の死が罪の赦しのためであることを示し、そのエルサレムが滅亡するまでの四十年間、人々の悔い改めを持ち続けられたのです。そしてご自分と結ばれた人々が実を結ぶために、「御自分の命を注いでおられます。
今日、感謝をもってイエス様に結ばれ、実を結ぶことを願って、イエス様の命に生かされてゆきましょう。
四旬節第2主日の説教
ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。 だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。 エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」
●進みゆくイエス
今日の福音書には、イエス様のエルサレムへの最後の旅の途中の出来事が記されています。イエス様は、「ペレア」という死海の北、ヨルダン川の東の町におられました。そこはガリラヤから離れていましたが、ガリラヤ地方を治めていたヘロデの領地でした。そこにいたファリサイ派の人々が、イエス様に、「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」と伝えたのです。ヘロデは、彼の罪を批判した洗礼者ヨハネを殺しました。そのヘロデは、イエス様が病人を癒し、悪霊を追いだすという奇跡を行っていることを聞いて、「わたしが殺したヨハネが復活したのだ」とおびえていたのです。それでイエス様も殺そうと考えていたのです。
しかし、イエス様は「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」とお答えになりました。「ご自分に対するヘロデの殺意もイエス様は恐れてはいません。なぜならあああ¥^ヘロデの猜疑心にもかかわらず、イエス様は悪霊の追放と癒しの働きを続ける、と言われたのです。
このルカによる福音書の九章五十一節には、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」と書かれています。イエス様はエルサレムでご自分を待ちうけていることを十分に承知の上でエルサレムへの最後の旅に出たのです。
イエス様は、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる」と言っておられます。ペトロの第一の手紙には、「預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊によって語った」と書かれています。これまで預言者を通して語られたキリスト自身が最後に来られて、苦難を受けるというのです。イエス様を迫害しようとしたのはヘロデだけではありませんでした。「神の都」と呼ばれるエルサレムこそ、神の名を唱えながら、その神が遣わした預言者を迫害してきた人々が指導者となっていたのです。そのエルサレムとユダヤの上に必ず下されるとイエス様は語っています。
●神に逆らう人々への裁き
今日の旧約の日課には、神様がアブラハムに、当時彼がいたカナンの土地をその子孫に与える、と約束されたことが記されています。神はイスラエルを使って彼らを裁き、土地をイスラエルに与えたのです。
イスラエルが先住民を滅ぼしたということに躓く人もいます。「なぜ神様はそんなひどいことをしたのか」と言うのです。聖書は人間を中心に読むと分からなくなります。聖書は人間のために神が造られたのではなく、神のために人が造られた、と教えています。神を愛さず、神の言葉に聞くことをしないなら、人間はこの世界に害悪をもたらします。「人間がどんな生き方をしようと、神は人間を罰するべきではなく、幸せにすべきだ」という考えは通用しないのです。悪を行う人々は滅ぼされ、その土地は神様の望まれる実を結ぶ国に渡されるのです。しかし、その土地を受け継いだイスラエルもまた、神に背き、悔い改めて神に立ち返るようにと告げた預言者の言葉を退けました。その罪が極まったのは神の子を殺した時でした。そしてユダヤの指導者たちだけでなく、彼らの考えに従った民衆も神の言葉を捨てたものとして滅ぼされてしまったのです。
神様がアブラハムにカナンの地を滅ぼすことを告げてからそれが実現するのは四百年後であると言われました。なぜそんなに先になったのでしょうか。神はその理由を、この地の人々の悪が、まだ「極みに達しないからである」(創世記一五:一六)と言われました。神様はカナン人の悪が頂点に達した時に彼らを滅ぼしました。イスラエルが滅ぼされたのも、イエス様が殺されてすぐにではなく、四十年後のことでした。その四十年の間、なおキリストの招きの御手はエルサレムに差し伸べられていたのです。イスラエルは四十年後に滅びました。しかしイエス様を信じていた人々はその滅亡から逃れることができたのです。
イスラエルとその都エルサレムの起きたことは、やがて世界的に起きることです。この世界はまだ続いています。そしてイエス様の招きは今もこの世界に告げられています。神様はすべての人に、「神に背を向ける歩みを改め、わたしに帰りなさい」と悔い改めを求めておられます。わたしたちも今神の招きの言葉を今もこうして聞くことができるのです。
●イエスの招き
イエス様は、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。」と語っています。めん鳥は、小さな雛たちを夜の寒さから守るために、翼の中に集めます。それだけではなく、雛を狙う狐や蛇に襲われることがあります。そんな時、親鳥は自分が噛まれて傷つき、血を流しても、雛をかばい続け、決して逃げようとはしません。死ぬまで雛を守り抜くのです。
旧約聖書の詩篇九十一篇には、「神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾」と書かれています。聖書では、翼を広げて人々を守るのは主なる神様です。
今日、みことばの歌として歌った讃美歌二百七十三番の二節に、こう歌われていました。
われにはほかの 隠れ家あらず 頼るかたなき この魂を ゆだねまつれば みいつくしみの つばさのかげに 守らせたまえ
この讃美歌の詩を書いたのはイギリスのチャールズ・ウエスレーという人です。ある日、ウエスレーが書斎にいた時、一羽の小鳥が窓から飛び込んできて、彼の手の上に乗ったのです。何かに追われていたのかもしれません。ウエスレーは、自分の手の中にいる小鳥を本当にいとおしく思いました、そして、「わたしの手の中に飛び込んだこの鳥をわたしがいとしおしく思うのと同じように、神様の御手に逃れたわたしをいつくしんでくださるのだ、と思ってこの讃美歌を作ったということです。
イエス様は、自分の弱さや罪を知っている人々を招かれます。またイエス様は、ヨハネによる福音書六章十七節で、「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」と語っておられます。イエス様に頼る人、イエス様の恵みを頼ってイエス様のもとの行く人をイエス様は決して追い返すことはなさらないのです。
イエス様は,十字架の上 わたしが住んでいた岐阜市の家の近くに傘屋さんがありました。その店はもうやめていましたが、看板は残っていて、「傘」という字の横に、「仐」という字がありました。そんな字があることは知らなかったのですが、それを見た時、イエス様の十字架は、両手を広げてご自分のもとに来るように招いておられる姿のように見えました。わたしの罪に対する裁きをご自分が引き受けてくださり、わたしたちをかばってくださるのがイエス様の姿です。十字架のもとで、わたしたちは裁きの神ではなく、恵みの神に出会い、神を喜んで見上げ、心から神を愛する者となるのです。そして、雛がめん鳥の翼の下で暖められるように、わたしたちはイエス様の懐の中で暖められます。自分で自分を温めることができる人はいません。わたしたちはイエス様の御翼の中で心を温められ、愛することができる者に変えられてゆくのです。
イエス様は、今も傷のある手を広げて、わたしたちを招いておられます。これからも喜んでイエス様の招きに応えて、その御翼の中に身を委ねたいと思います。
四旬節第1主日の説教
さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。
●誘惑に負けた人間
イエス様がヨルダン川で洗礼を受けてから十字架の死と復活に至るまでの三年半の歩みを、「キリストの公生涯」と呼びます。イエス様はその公生涯の最初、洗礼を受けてからすぐに荒野で四十日間悪魔からの誘惑を受けたことが福音書に書かれています。この荒れ野での四十日間の誘惑は、イスラエルの民がエジプトを出てから四十年間荒野で生活をしたことを思い起こさせます。
ある人は、イエス様の生涯を「イスラエルの踏み直し」と呼びました。イエス様はエジプト脱出からのイスラエルの歴史をもう一度たどり、その歴史をもう一度踏みなおされた、ということです。イスラエルの民は海の中を通ってエジプトから脱出し、そのあと荒野を四十年間さまよいました。そしてその間多くの誘惑に会いました。聖書の「誘惑」という言葉は「試練」、「試み」とも訳されます。それは人間にとって好ましい姿をとってやってくるだけでなく、厳しい試練によって、人を神から引き離します。神様はイスラエルの人々が、ご自分に信頼して歩むことを期待されました。しかし、荒野の旅の途中でパンがなくなると、人々は自分たちを救ってくれた神の恵みを忘れ、神に対して悪意を抱き、モーセに不平を言いました。
また、荒野の中で水がなくなった時には、モーセに対して「神がいるなら水を出してみよ」と言って神様の助けがあるかどうかを試そうとしたのです。
また、イスラエルの人々は荒野の旅の途中でも金の子牛を造って拝み、約束の土地に入ってからも、その土地の神々を拝みました。こうして、神様が選んだイスラエルの人々も神様に従うことはできませんでした。聖書に記されているイスラエルの歴史は、人間がどれほど誘惑や試練に対して弱いか、神に忠実であることが、どれほど難しいことかを示しています。そしてその歴史はそのままわたしたち自身の姿でもあるのです。
イエス・キリストはそのイスラエルの歴史を踏みなおされました。ヨルダン川で受けてからすぐに神の霊によって荒野に追いやられ、四十日の間空腹と孤独、また危険の中におられたのです。四十年間と四十日間ではずいぶん長さが違うように思いますが、イスラエルの国がエジプトを出てからイエス様が生まれるまでの千二百数十年、その内の四十年間と、イエス様の公生涯の三年半、つまり 千二百六十日の内の四十日は同じ割合であることが分かります。神様の独り子であるイエス様は、わたしたしたち人間と同じ体を持ち、わたしたちが受けるすべての誘惑、また試練をお受けになったのです。
●キリストが受けた誘惑
イエス様が荒野で過ごした四十日間のすべてが試練でした。しかし最大の試練はその四十日の後断食が終わったときにやってきました。悪魔は、空腹を覚えたイエス様に、「神の子なら、この石をパンになるように命じたらどうだ。」と誘いましたが、イエス様は「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と答えました。これはイスラエルの人々が荒野にいるときに、神様が語られた申命記の言葉です。人間にとって一番大切なことは、神様の言葉を命の糧として生きることであり、そうするなら、神様は必要なすべてのものを与えてくださる。それがイエス様の答えでした。
次に、悪魔は一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。・・・もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」と持ちかけました。イエス様は「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」と答えられました。これも申命記の言葉です。確かに、悪魔にはその力があるのです。しかし、悪魔は大事なことを言っていません。「この国々の一切の権力と繁栄がみんなあなたのものになる。」と約束していますが、「いつまでも」とは言っていません。いっときは世界を手に入れることができたとしても、それはいつか失ってしまいます。イエス様は、人がたとえ全世界を手に入れたとしても自分の命を失ったら、何の得になろうか、と教えておられます。
最後に、悪魔はイエス様をエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。聖書には『天使があなたを守る』と書いてあるではないか」と言います。この三番目の誘惑は、特に救い主としてのイエス様のお働きに関わるものでした。多くの人が集まるエルサレム神殿の高い屋根の上から飛び降りて見せたら、人々はイエス様をメシアと信じるからです。当時、メシアは神殿の屋根の上に立つ、という言い伝えもありました。しかしイエス様は、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになりました。これも申命記の言葉です。イエス様にとって神様の言葉は試すものではなく、どこまでも信頼すべきものでした。
イエス様は、このように神様の言葉に従いました。悪魔の誘惑に敗北している人間の中でただひとり。悪魔の力に勝たれたのです。
●最後の誘惑
しかし、イエス様に対する悪魔の誘惑はこれで終わりではありませんでした。ルカによる福音書は、「悪魔は時が来るまでイエスを離れた」と記しています。 では、悪魔は、その後もイエス様を試しましたが、最後の試練はイエス様の十字架の時でした。
ここで、イエス様が受けた三つの誘惑の順序について見てみたいと思います。マタイの順序は、石をパンに変えること、次に高い所から飛び降りるということ、最後が世界の国々を与える、という誘惑です。しかし、このルカ福音書では「高い所から飛び降りてみよ」という誘惑が最後になっています。順番が違う理由は、マタイの方は、「それから」という言葉が使われていて、時間的な順番にしたがって記録されているのに対して、ルカの方では、この三つの誘惑は、原文では、「また(アンド)」という意味の言葉で結ばれていて、順番は考えていないからです。この福音書を書いたルカは、一番重要だと思われる誘惑を最後に置いたのだと思います。
「神の子なら高いところから飛び降りて見なさい。」この悪魔の言葉は十字架にかけられたイエス様を人々があざ笑って語った言葉を思い起こさせます。人々は口々に、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」と嘲りました(マタイ二七:四〇)。この人々の声を通して悪魔は、苦しむイエス様に対して最も大きな誘惑と試練を与えたのです。
忘れてならないことは、イエス様は十字架から降りることができたし、その力があった、ということです。奇跡を起こす力があるイエス様は、十字架から飛び降りることもできたことでしょう。聖書はイエス様の奇跡が多く記されています。もし聖書が人間の考えで書かれたなら、ここでイエスは十字架から降りて、その力を示めされた」と書くことでしょう。その方がはるかに神の子らしく見えます。
しかしイエス様は、激しい痛み、苦しみ、渇きの中で、また人々のあざけりの中で、父なる神の御心に従いぬいたのです。イエス様はわたしたちを愛してくださる父なる神と思いを一つにして、最後までわたしたちのための苦しみを背負ってくださったのです。
イエス様が受けた誘惑は、人間的な苦しみだけではなく。メシアとして、救い主としてどのような道を選ぶのか、栄光の道か、それとも苛烈な苦難の道かという誘惑です。悪魔の提案を受け入れるなら、この世の人々をご利益の力、権力と繁栄、奇跡の力によって動かす方がはるかに容易に見えます。しかしイエス様が選んだ道は。父なる神の御心に従って、わたしたちの罪を背負って苦しみ、死ぬことでした。ご利益や権力によっては、わたし辰の内に神への愛は生まれません。わたしたちが神を愛する本来の姿に変えるためには、イエス様の苦難による完全な赦しが必要でした。その回復を実現するためにイエス様は十字架の上で、「そこから飛び降りて見よ」と言う、悪魔の最後の誘惑に対して最後まで十字架の上にとど待ってくださった簿です。そこに私たちは神の子の最大の力と勝利を見るのです。
イエス様がご自分の苦しみによって勝ち取ってくださったこの救いを、わたしたちは何よりも大切にしたいと思います。唯一の勝利者であるキリストに結ばれて、これからも誘惑と試練に満ちたこの世の荒野の中で、神への道をまっすぐに歩んでゆきましょう。
顕現後第7主日の説教
「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
●黄金律―積極的な愛
今日のイエス様の教えは、「しかし」という言葉で始まっています。イエス様は、この前の個所で、イエス様に従う人は世の人々から排斥され、悪口を言われる、と教えておられます。そんな時、クリスチャンはどうしたらよいのでしょうか。自分のことを悪く言ったりいじめたりする人を憎み、仕返しするのでしょうか。また、その人が何かのことで困っていたら、「わたしをいじめたから罰が下ったのだ、いい気味だ」、と言うのでしょうか。イエス様はそのようには教えておられません。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなた方を侮辱する者のために祈りなさい」と教えられたのです。
イエス様は、わたしたちがいつどんなときでも正しい道を歩むように命じられたのです。正しい道とは、言い換えれば、まことの愛に生きるということです。イエス様はここで本当の愛とはどのようなものかについて教えておられます。それは第一に、「すすんで相手の必要に応える愛」です。またその愛は相手を選ばない愛です。「わたしは、敵である相手に仕返しはしないが、助けることもしない」というのでは、本当の愛とは言えません。本当の愛とは「見返りを求めない愛」です。わたしたち人間は、自分にとって大事な人、また良くしてくれる人、与えた愛に対してお返しをしてくれる人だけを愛するものです。イエス様は、三四節で、「自分に良くしてくれる人によいことをしたところで、どんな恵みがあろうか」と言っておられます。暴力団の人であっても自分の仲間には良くします。「この人は自分に良くしてくれる人だから自分も親切にしてあげよう」というだけでは、それは「ギブ・アンド・テイク」、つまり見返りを求める愛です。本当の愛は、相手が自分にとって大事な人だから、好きだから、お返しをしてくれるから、ということでよくしてあげる愛ではありません。
ある人が、このような見返りを求めない愛を「一方通行の愛」と呼びました。見返りを求めて与えるのは「対面通行」です。これに対して、見返りを求めない愛は、与えるだけの「一方通行」です、そして「アガぺ」と呼ばれる神の愛は、この一方通行の愛なのです。
よく誤解されることですが、敵をも愛する愛とは相手を「好きになる」という感情の問題ではありません。ここでの愛とは「行動」であり、相手に良いことをしようという意思の問題です。相手を好きになるという感情は、わたし多とがまず愛するという意思を持って行動するときに生まれてくるものなのです。
●本当の愛に生きる
教会生活をしている人であっても、ともすると、「愛」についての誤解をしていることがあります。
ある牧師が、本の中でこんなことを書いていました。ある婦人が、新しく教会に来た人に親切にお世話をしてあげました。ところがある時、自分が一生懸命お世話した人が、悩みを抱えていて、その悩みをほかの人に相談したのです。それを知った婦人は、「あんなに親身になって世話してあげたのに、わたしに相談しないで別の人に相談した。わたしは裏切られた。もう口もききたくない」と激しく怒ったそうです。 その人は良くしてあげた人が、自分を頼りにしてくれるのは当然だ、と思っていたのです。しかし、それも見返りを求めている、ということです。このような愛についての思い違いが、教会においてもトラブルのもとになっていることがあります。
見返りを求めない愛の究極的は、「敵を愛する愛」です。お返しをしてくれないどころか、自分に害を与える相手を愛するからです。このような生き方は、決して弱い生き方ではありません。それはパウロがローマ人への手紙の一二章で教えているように、「善によって悪に勝つ」道です。自分のものをいやいや奪われるのではなく、かえって相手に良くしてあげようとして与えるのです。敵を愛する生き方は、敵への憎しみの心に支配されることよりも、はるかに強い生き方ではないでしょうか。
マタイによる福音書でイエス様は、「誰かがあなたに強いて、一マイル行け、と言ったなら、二マイル行ってあげなさい」と教えておられます。イエス様の時代にはローマがユダヤを占領していて、ローマの兵隊がユダヤ人を呼び止めて、「一マイル先の町までこの荷物を運べ」と命じることがありました。それは、ユダヤ人にとって屈辱的なことでした。しかし、そんなときそのローマ人の役に立ちたいと考え、「一マイルどころか、二マイル先までも喜んで運びましょう」と言うなら、それは愛によって行動するという愛によって、敵意に打ち勝っているのです。しかしユダヤ人たちはイエス様の教えを受け入れませんでした。自分たちは聖なる神の民であって、異国の支配は受け入れないと思っていたからです。それでイエス様が天に帰られて後に、ローマに対するテロや暗殺、暴動を繰り返し起こしました。ローマは支配する地域の宗教や慣習を求めていましたが、ユダヤに対してはついに業を煮やして、エルサレムの町を破壊し、ユダヤの国を滅ぼしてしまったのです。
●「いと高き方の子となる」
なぜ、イエス様は、ご自分の弟子たちに、このような愛に生きることをお求めになられたのでしょうか。それは綿湿地もそのような愛によって生きることができ、また救われたからです。神様は、恩を知らない人々にも食べ物を与え、必要なものを与え続けてくださいました。わたしたちが「神など知らない」と言っていた時にも養ってくださったのです。そのうえ、ご自分に背くこの世界に、大切な独り子をお与えくださり、救いの道を開いてくださいました。イエス様は、わたしたちが、まだ敵であったときに、わたしたちのために死んでくださったのです(ローマ5:8)。その愛によって間の子とされたわたしたちも、神に似たものとなるように求められているのです。言葉においてだけでなく、生き方においても神の愛を現わすことが求められているのです。
イエス様は、そのような愛に生きる人には、たくさんの報いがある、と言っておられます。その人は、人間からの見返りではなく、神からの報酬を受けるのです。人に与える人は、神から豊かに与えられます。イエス様が教えておられるように、親切な行いを祖いて人から感謝され、お返しを受ければ、報酬を受け取っています。しかし、神からの報酬は、人からの見返りを求めない人の行いに対して豊かに与えられるのです。
神様が与えてくださる最も大きな報いは、「いと高き方の子となる」、すなわち神の子となる、ということです。イエス様を信じるわたしたちは、神の愛を受け取る信仰によって既に救われています。しかし、わたしたちが憎しみや悪意の中にとどまっているなら、わたしたちは自分自身を神の子供と呼ばれるのにふさなくない者にしてしまいます。
また、わたしたちがそのような愛の内に歩むことこそ、神を証しすることなのです。世の人々は、神の愛をあらわして生きて人を通して、この世のものならぬ神の愛を見るからです。
イエス様が教えてくださった本当の愛に生きることは、わたしたちの力ではできません。生まれつきのわたしたちには、このような愛はないからです。でも、わたしたちがこの愛の大切さを知って、このような愛に生きることを願い、その力をわたしに与えてください、と願うなら神様は聖霊を与えてくださるのです。その神の霊によって、わたしたちは神の子としての歩みを続けることができるのです(ガラテヤ5:22,23)。
顕現後第6主日の説教
イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
●貧しい人、飢えている人
今日のイエス様の言葉、「貧しい人々は幸いである」という言葉で思い出すのは、マタイによる福音書の「山上の説教」です。しかし、このルカによる福音書は、イエス様が山から下りて「平らな所」で語られたと書かれているので「平地の説教」と呼ばれています。マタイの「山上の説教」ではやはり初めに「幸いなるかな」という言葉で八つの幸いが語られています。しかしこのルカの平地の説教では、四つの幸いと、四つの不幸が語られています。最初に四つの幸いが語られ、次に四つの災いが語られています。
初めの四つの幸いは次の四つと対になっています。
このような違いはありますが、どちらの教えもこの世の幸せについての考えとはまったく違うものでした。
なぜこれほどイエス様の教えはこの世の考えに反しているのでしょうか。ここで使われている「幸い」とは「祝福されている」という言葉です。それは神の祝福を受けている、という意味です。また「不幸」という言葉は、「災いだ」とも訳されます.つまりイエス様が語られた幸いと不幸は神様から見た幸いであり,不幸であるということです。
第一にイエス様は「貧しい人々は幸いである」、と教えました。それは、人は貧しさの中で神を求め、神に頼るからです。その反対に、富んでいる人は、その富を頼り、神に頼ることを忘れてしまいます。そのことは、今、福音がどのような国に広がっているかを見れば分かります。今イエス様の福音はアジア、アフリカの貧しい人々の間に広がっています。しかし豊かな国においては、福音を受け入れる人は少ないのです。
聖書は決して富むことが悪であると教えているのではありません。使徒言行録には、裕福な商人であったルデヤという婦人が、パウロの宣教を助けたことが書かれています。しかし、多くの場合、富は人を神から遠ざけてしまうのです。お金持ちの家はたいてい高い塀で囲まれています。その塀ように、多くの財産は神と隣人との間を隔ててしまうのです。
イエス様はまた、「今飢えている人々」は幸いであると言われました。イエス様の時代には、今のような社会保障制度がなかったので、飢えている人々も多かったと思います。そのような人々は神を呼び求め、神により頼むことしかできませんでした。しかしお腹がいっぱいの人は、自分の魂の飢えに気づかなくなってしまうのです。イエス様は二五節では、「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である。あなたがたは飢えるようになる」と教えられています。ユニセフが統計をとっている世界の子供の身体的幸福度ランキングでは、日本の子供は先進国三十九ヵ国のなかで一位です。食物や医療の面で恵まれているからです。しかし、精神的な幸福度はワースト二位の三十八番目です。食べ物の豊かさの中で、魂の糧である神の言葉が見失われているのです。
●泣いている人、迫害されている人
またイエス様は、「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」と教えました。ここでの「泣く」という言葉は、「声を上げて泣く」という言葉で、身内を失ったときの嘆きを指す言葉です。人の力では解決できない悲しみの中で、人は神に出会います。
「瞬きの詩人」と呼ばれた水野源三さんが「悲しみよ」という詩を残しています。
「悲しみよ悲しみよ
本当にありがとう
お前が来なかったら
つよくなかったら
私は今どうなったか
悲しみよ悲しみよ
お前が私を
この世にはない大きな喜びが
かわらない平安がある
主イエス様のみもとに つれて来てくれたのだ」
イエス様は「笑う」ことについても言えます。「今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。」ここでの「笑う」という言葉は、「ゲラゲラと笑う」という意味です。今のテレビでも、そんな笑いがあふれています。それはこの世の楽しみで心を喜ばせようとする生き方です。箴言十四章十三節に、口語訳ですが、「笑う時にも心に悲しみがあり、喜びのはてに憂いがある。」とあります。わたしたちは浅はかな気休めの笑いではなく、神様が与えてくださる心の深い喜びを必要としています。
イエス様はさらに、「人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。」と言われ、反対に「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」と言われました。「すべての人からほめられる」ことは悪いことではないように見えます。しかし、神から離れているこの世界では、神に従う人は周りの人々から疎まれることの方が多いのです。昔の預言者の中には偽預言者がいて、悔い改めることを教えないで、「わたしたちは神の選民だから、この国は決してこの国は滅びない、と預言して人々に歓迎されました。ちょうど戦時中の日本と同じです。しかし罪の悔い改めを告げる本当の預言者、またイエス様に従う人は、周りの人々から疎まれ、時に迫害を受けるのです。
●二つの道
イエス様は祝福の道と災いの二つの道を示されたのです。
聖書は、わたしたち人間は神によって特別なものとして造られたこと、神から特別の地位と恵みを与えられていることを教えています。それはわたしたち人間もその神を愛し、進んで敬い、従うためでした。その時人は生きることができるのです。しかし人は神に背いてしまいました。そして今でも人間は神に背き続け、神と対立しています。
人が神に帰ることができないのは、神の前に罪があるからです。神の裁きを恐れ、神を遠ざけているのです。しかしイエス様は神の子でありながら、だれもが出会うことのできる方として来てくださったのです。わたしたちはイエス様によって神を愛するものとされました。しかしエデンの園で人を誘惑した者は今もこの世の富や安楽な生き方へと誘います。イエス様に対して、「わたしを拝むから全世界の栄華と権力を与えよう」と言ったように、神よりもこの世の富、楽しみを求めるように誘います。確かに悪魔はそれを与えることができるのです。しかし悪魔はそれらを「永遠に与える」とは言っていません。やがてすべてが失われる時が来ます。
わたしたちは洗礼の時に「あなたは悪魔と、その力とその空しい約束をことごとく退けますか」と問われて、「はい、退けます」と答えました。いつか消えてゆくこの世の富や喜び、また世間の評価ではなく、神がキリストを通して与えて下さる本当の幸いを求めてゆきたいと思います。
神様の祝福は確かにこの世が新しくされるときに与えられます。しかし、神様の恵みはすでに与えられています。わたしたちはイエス様によって、愛の神を知ることができました。そしてこの世が与えることができない、永遠の希望と喜びを与えられています。またわたしたちの羊飼いとなられたイエス様の言葉によって正しい道に導かれ、悪から守られてきました。このような幸いを与えるために、イエス様は神の子の栄光を捨てて貧しくなりました。わたしたちのために涙を流し、人々の嘲けりに耐えてくださいました。ここに集まっている皆さんは、すでにこの世が与えるすべてに勝る宝としてイエス様を選び取っている方々です。わたしたちはこれからも、真実の幸いへと導いてくださるキリストに仕え、命の道、祝福の道を歩んでゆきたいと思います。
顕現後第5主日の説教
イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。
●漁師のシモン
イエス様はゲネサレ湖、すなわちガリラヤ湖の近くで神様の言葉を語っていました。イエス様は大勢の群衆に話をするために、シモンという人に舟を出してくれるよう頼みました。それは、おしよせてくる群衆から離れて語るためでしたが、また、海から陸地に向かって吹く風に乗せて、遠くの人にまで声をとどかせるためでもありました。
群衆に語り終えたイエス様は、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を下ろし、漁をしなさい」と言われました。シモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」とイエス様のお言葉に従ったのです。漁師の経験が無いイエス様の言葉に従って、遠くまで舟を出しても無駄なことだ、湖や漁のことはわたしの方がよく知っている」とシモンは考えたかもしれません。それでも彼はイエス様の言葉に従ったのです。それは、彼がイエス様の素晴らしいお働きを知っていたからです。
「漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。」と書かれています。何年か前に、たくさんの魚が網にかかったために船が転覆して船員が亡くなるという事故がありました。その時、わたしは、この聖書のところを思い出して、たくさんの魚が取れただけでなく、網が破れなかった、舟が沈みそうだったが沈まなかったことも合わせての奇跡なのだ、と思いました。
しかし、たくさんの魚が取れたときシモンは喜んだではなく、彼恐れたのです。シモンはさっきまでイエス様のことを「先生」と呼んでいましたが、ここでは「主よ」と呼んでいます。「主」とは神様のことです。海の中の魚を見通すことのできるイエス様に、シモンは、人間の心の中まで見通すことのできる神を見たのです。ですから恐れを感じたのです。預言者イザヤも、聖なる神様を見たとき「災いだ、わたしは滅ぼされる」(イザヤ六:五)と言いました。「神がいるなら見せて欲しい」という人がいますが、神はご自分に最も近い人であったモーセにさえ、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」(出エジプト三三:二〇)と言われました。罪がある人間は神の前にするとき恐怖を覚えるのです。
●お言葉ですから
しかし、イエス様は恐れるシモンに対して、「恐れることはない」と言われました。人となられたイエス様は、人の不信仰と偽善とを叱りますが、罪を責める方ではありません。なぜなら、神の子がわたしたちと同じ肉の体をとってこられ、わたしたちの世界日本人こられたことの中に、わたしたちを赦してくださり、わたしたちに出会ってくださる神が示されているからです。わたしたちはイエス様を通して、イエス様だけを通して裁きの神ではなく、恵みの神様に出会うことができるのです。
イエス様はペテロにまったく新しい人生の目的をお与えになりました。イエス様はシモンに、「今からあなたは人間をとる漁師になる」と言われました。
少し前まで、シモンはとても空しい気持ちでいたことと思います。「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした・・・。」これはシモン・ペテロの経験だけではなく、わたしたちの現実でもあるのではないでしょうか。わたしたちが一生かけて永遠に残すことができるものがあるでしょうか。心が満たされることを目指して一生懸命に働き続けて来た。しかしふと振り返ってみて、いったいわたしは何のために労苦してきたのかと、むなしさを覚える時があります。ペトロもそんな空しさを覚えていたと思います。けれどもイエス様の御言葉に従ったとき、思わぬ収獲を経験したのです。「この方オン言葉に従うなら、わたしの全てはむなしく終わることはない」という経験をペトロはしたのです。
ヨハネ福音書の一章を読むと、ペトロはこの前からすでにイエス様の弟子となっていたことが分かります。しかしここでは、さらにはっきりと、キリストの弟子としてすべてを捨ててキリストの働きに仕える、という決心へと導かれたのです。
、神様から離れ、この世の海の中に沈んでいる人を神様のもとに引き上げ、生かすのです。イエス様はご自分と一緒にその働きをするようにと、シモンを招かれたのです。
●人間をとる漁師
イエス様はペテロに全く新しい人生の目的をお与えになりました。イエス様はシモンに、「今からあなたは人間をとる漁師になる」と言われました。ここでの「とる」という言葉は、その前にシモンが「何もとれませんでした」といった「とる」という言葉とは違う言葉です。それは「命」という言葉からできた言葉で、「生け捕りにする」、あるいは「生かすためにとる」という意味の言葉です。漁師は生活のために魚を取り、その魚は死んでしまうのですが、人間をとる漁師は生かすためにとるのです。神様から離れ、この世の海の中に沈んでいる人を神様のもとに引き上げ、生かすのです。イエス様はご自分と一緒にその働きをするようにと、シモンを招かれたのです。
シモンと仲間たちは、「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」と書かれています。彼らは網も舟も捨てたのですが、この「すべてを捨てて」という言葉は、もう一切漁の仕事をしない、ということではなく、彼らの人生の一番の目的が変わった、という意味です。それは、いつまでも朽ちないもの、いつまでも残るもののために働く生き方です。
わたしたちも、シモンと同じように、イエス様によって神様と出会ことができただけでなく、わたしたちの人生を空しく消えるもののためではなく、朽ちることのないもの、永遠の命のために働くように招かれているのはさらに素晴らしいことです。
ペトロが一人ではなく、彼の兄弟や仲間たちと一緒に主の働きに招かれたように、わたしたちは一人でなく、兄弟と一緒に主の働きに召されています。教会という舟に乗って、福音という網を使って、兄弟たちと一緒に働くのです。
イエス様は「沖に漕ぎ出して網を下ろしなさい」と言われました。わたしたちにとって「沖に出る」ということは「遠い所」すなわち「この世のただ中」とも言えます。皆さんはこの世の中で六日間生活しておられます。ですから、教会に来るとほっとされるかもしれません。しかしわたしたちは教会にいるときは神様のために働き、この世では神様とは関係のない働きをしているのではありません。わたしたちは礼拝を終えて帰るのではなく、そこに遣わされてゆくのです。ピリピ人への手紙四章に、「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」とあるように、神様に愛された者、神に愛され、受け入れられている者として生きてゆくのです。そこでは神の言葉を語ることはなくても、世の光として生きることで、神様を指し示しているのです。
新しい年の総会が終わりました。今年もわたしたちが共にいる時も、またこの世に遣わされている時も、いつも一緒に主の大切な働きに生きていることを覚えてゆきたいと思います。
顕現後第3主日の説教
イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。
●ナザレの会堂で
先々週は、イエス様が洗礼を受けたことを記念する礼拝でした。洗礼を受けたイエス様は、神様の霊の力に満ちてガリラヤに帰られたこと、その評判が周りの地方一帯に広まったこと、諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられたことが記されています。
そして、今日の箇所は、イエス様がお育ちになったナザレに行かれたことが記されています。
ユダヤ人たちは町々、村々にシナゴグと呼ばれる会堂を持っていました。そして土曜日の安息日ごとにそこに集まって、聖書の言葉を聞き、またそれについての説教を聞いていたのです。ここでの集まりが今のkキリストv教会の礼拝の原型になっています。
会堂では宗教家だけではなく、責任者から依頼された人も話をしました。イエス様は、すでに人々の尊敬を集めていたので、ナザレの会堂でも依頼を受けて聖書の朗読と説教をされたのです。イエス様に手渡されたのは、イザヤ書の一部分で、今の聖書では六十一章の一節と二節にあたります。イエス様はその個所を朗読しました。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
ここで最後に「主の恵みの年」とあるのは、旧約聖書のレビ記二十五章と二十七章にv定められている「大安息年」のことです。ユダヤ人たちは、一週間の七日目に労働から解放される安息日を守っていましたが、また七年ごとに「安息年」を守りなさい、という掟がありました。その年には畑を耕さずに土地を休ませなければなりません。そうすることで土壌が回復するからです。また七回目の安息年が過ぎると五十年目の「大安息年」と呼ばれる年がやってきます。この年には、負債を負ったために先祖伝来の土地を手放した人に、無条件で土地を返さなければならないとされていました。また負債を背負って、誰かの奴隷になっていた人も無条件に解放されて、自分の故郷に帰ることができたのです。その時が来ると「ヨベル」と呼ばれる雄羊の角笛を鳴らして解放の時が来たことを知らせたので、大安息年は「ヨベルの年」と呼ばれました。このヨベルという言葉は、英語では「ジュビリー」と言って、今も結婚記念日などを、シルバージュビリーとが、ゴールドジュビリーと言います。西暦二千年の年には、「ジュビリー2000」という名前で、最貧国が抱えている債務を免除しようという話し合いがありました。
この「ヨベルの年」制度は、やがて救い主によって実現する神様の救いの時を予告するものでした。旧約聖書は、救い主が来ることをいろいろな形で予告をしていますが、このヨベルの年もその一つです。
●罪の赦しによる解放
イエス様は、聖書を読み終わると、「この聖書の言葉は、今日あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言って、話し始められたのです。イエス様はここで、「イザヤが語っていたのはわたしのことである」と言われたのです。イエス・キリストによって、ヨベルの年が到来したのです。それは、すべての人々の解放の時、わたしたちの解放の時なのです。
イエス様は、「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」と言われましたが、わたしたちは今、別に囚われの身とはなっていません。またイエス様は、「目の見えない人の視力を回復し」と言われましたが、大多数の人は目が見えています。また、誰かに圧迫されているということもないかもしれません。しかし、わたしたちは本当の故郷から離れています。聖書は、わたしたち人間は神に愛され、神を愛し、神とともに生きるように造られたと教えています。しかし、人はそのあるべき状態から離れてしまったのです。
昔から日本人は人生というものを旅にたとえました。その旅はあてもなくさまよい、やがて消えてゆく空しいもので、そこに侘びや寂を感じ取ったのです。今はその反対に、多くの人々は人生の行く先などは考えずに、生きている間だけいかに快適に過ごせるか、ということだけを考えているのではないでしょうか。
そのような人生は本当の故郷、また安住の地から遠く離れていている状態です。その原因はわたしたちが持っている罪によるものです。わたしたちは罪のために本当の神様を恐れています。罪のことを聖書では「負債」とも言います。罪の負債のために神のもとに帰れなくなってしまったのです。アウグスチヌスという人は、「神よ、あなたは人間をご自分へと向けて作られました。ですからあなたの内に憩うまでは、わたしに真の平安はありません。」と語っています。この地上にどんなに立派な家を持っていても、わたしたちは魂の故郷、永遠の安住の地に帰る希望を失っているのです。
●主の恵みの年を祝おう
しかし、神は人間が神から離れたその時から、人を回復させる救い主の到来を約束しておられたのです。旧約聖書は長い歴史を通して、救い主が生まれる場所を予告し、そして罪と死の力からわたしたちを解放し、わたしたちを神のもとに回復してくださることを予告したのです。旧約聖書の時代の人々は、まだその約束の実現を見ることはできませんでしたが、その約束を信じる信仰によって生きていました。しかし今日の聖書にあるように、長い間人々が待ち望んだ解放の時が来たのです。
神様は、それまで、人間を愛しておられなかったのではありません。わたしたちが生きるために、太陽を照らし、雨を降らせ、恵みの食物を与え続けてくださいました。でもわたしたちの眼はふさがれていて、その神様を分からずにいました。しかし、イエス様はわたしたちの心の眼を開いて、わたしたちを愛してくださる神を知ることができるようにしてくださったのです。
キリストによる神の愛と救いが決定的な形で示されたのは、ィエス・キリストの十字架の死と復活です。そこでわたしたちの罪が清算されたのです。でもイエス様がこの世界に来られたこと、神の子が人となって来てくださったことの中に、すでに神の愛と赦しが示されているのです。
新しい年が明けてから四回の礼拝が持たれ、来週はもう二月に入ります。わたしたちはいろいろな機会に心機一転しようとします。新しい年を迎えるのもその一つの機会です。しかし、コへレトの言葉(伝道の書)は、時が移り変わっても、すべては昔のままであり、「太陽の下、新しいものは何ひとつない。」と語っています。確かに、新しい年を迎えて心機一転しても、また環境を変えたとしても、その新しさはすぐに色褪せます。イエス・キリストは、太陽の下からではなく、太陽の上におられる神のもとから来られた方です。その知恵と愛の豊かさは、それを受け取るたしたちをも新しくしてくれるのです。神は神様の間に払いきれない罪の負債を負っているわたしたちを、キリストによって無条件に赦してくださいました。キリストはそのために命をかけてくださったからです。わたしの価値や正しさではなく、この神の愛の光に照らされる時、わたしたちは本当に新しい心と新しい生き方に変えられてゆくのです。
この一年も神の愛の豊かさに出会う年、本当に新しい主の恵みの年として歩んでゆきたいと思います。
顕現後第2主日の説教
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たしたイエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
●カナでの奇跡
今日の福音書には、イエス様が水をぶどう酒に変えた、という奇跡が書かれています。それはガリラヤのカナという町で行われた婚礼での奇跡です。イエス様の母マリアがそこにいました。マリアは花婿の側の親類としてお手伝いをしていたのだと思われます。そしてイエス様も、また弟子たちもその結婚式に招待されていました。
ところが、宴会の途中で、ぶどう酒が無くなってなってしまったのです。ユダヤの結婚披露宴は一週間続いたそうです。その間、招待された人たちは入れ替わり立ち替わり来て宴会に加わります。ですから結婚のお祝いのためには十分なぶどう酒を用意しなければなりませんでした。ぶどう酒は結婚式の喜びを盛り上げるためになくてはならないものでした。でも、そのぶどう酒が尽きてしまったのです。客がいるのにぶどう酒がないというのは、とても面目ないことだったのです。
台所にいたマリアは、そのことをイエス様に伝えました。するとイエス様は母マリアに、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」とそっけない返事をしました。しかし、そのあとでイエス様はマリアの願いに応えてくれたのです。
その家の戸口には、八〇から百リットルも入る大きな水がめが六つありました。イエス様はそれに水をふちまでいっぱいに満たすように言いました。召し使いたちが水を満たすと、イエス様はそれを宴会の世話役のところに持ってゆくように言いました。 宴会の世話役はぶどう酒に変わった水を味わって驚いたのです。そして花婿を呼んで「だれでもはじめはよいぶどう酒を出して、酔いが回った頃悪いぶどう酒を出すものだが、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました。」と誉めたのです。
水がぶどう酒に変わったということは、普通はとても信じられないことかもしれません。ある人は、「イエス・キリストが行った奇跡は、わたしたちが毎日見ている神様の奇跡、しかしあまりにも大きすぎて見えない奇跡を小さくして見えるようにしたものだ、と説明しています。普通はぶどうの木が根元から水を吸いあげます。ぶどうの葉に太陽の光があたり、それが栄養となってぶどうの実ができます。それを人間が摘んで絞り増す。その絞ったぶどう液を、時間をかけて発酵させると、ぶどう酒になります。そのプロセスは、時間がかかりますが、確かに水がぶどう酒に変わったのです。イエス様の奇跡は、普通は時間をかけて行われていることを短くして行ったものなのです。
●最初のるし
しかし、奇跡というものはその場限りのものではありません。そして福音書は、イエス様がなさった奇跡を「しるし」と呼んでいます。そしてヨハネ福音書には、七つの奇跡が記されています。それらの奇跡を通して、イエス様はいつもさらに大切なことを教えられたのです。
たとえば、イエス様が五千人の人々にパンを与えたことは、イエス様が「命のパン」であることを示しています。イエス様が目の見えない人の目を開かれたのは、イエス様がわたしたちの心の眼を開いてくださる方であることを示しています。
それでは、このカナの町での奇跡は何を示しているのでしょうか。旧約聖書は、メシア、つまりキリストが来る時、そこに婚礼の喜びがあると語っています。今日の旧約書の日課、イザヤ書六二章五節には、「若者がおとめをめとるように あなたを再建される方があなたをめとり 花婿が花嫁を喜びとするようにあなたの神はあなたを喜びとされる」とありました。イエス様は、神の民の花婿として来てくださったのです。
また、このヨハ福音書三章で、洗礼者ヨハネは、こう語っています。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。」ここで洗礼者ヨハネは、イエス様こそ花婿であり、わたしは花婿の到来を花嫁に告げる介添え人に過ぎない、と語っているのです。
また、イエス様ご自身も、「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」という人々の問に答えて、「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」と答えました。(マルコ二:一八—二〇)。
婚礼の場で行われたこの奇跡は、「最初のしるし」と呼ばれています。この「最初」という言葉は、順番が最初と言うだけでなく「基本的な」という意味があります。この奇跡は、イエス様が神の民の花婿として来られ、喜びを与えてくださるために来られた方であることを示しているのです。そしてそのことはイエス様が、この世界に来られた、第一の目的なのです。
●キリストの時、恵みの時
イエス様は母マリアに、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と言いました。イエス様が「わたしの時」と言われる時、それはイエス様が十字架で死なれ、また復活してご自分の栄光を表すその時を指しています。ヨハネによる福音書一二章で、イエス様はご自分の死の時が来たことを知り、「人の子が栄光を受ける時が来た。」(ヨハネ一二:二三)と言われました。
先ほど、イエス様が「花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」と言われたことをお話ししましたが、弟子たちは、救い主と信じていたイエス様が殺されたとき、深く失望してしまいました。しかしイエス様は十字架につけられる前の晩、弟子たちにこう語っています。
「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」(一六:二二)
このイエス様のお言葉通り、三日目に復活したイエス様が弟子たちの前に現れた時、彼らは大きな喜びに満たされたのです。弟子たちが悲しんでいたのは、イエス様を失ったことだけでなく、イエス様のために何一つできなかった自分たちの弱さも悲しんでいました。しかしイエス様は以前と変わらない愛をもって彼らに出会ってくださったのです。この時、カナでの奇跡が世界の人々のために起きたのです。
イエス様は奇跡を行うために、ユダヤ人が、清めのために使う水がめに水を満たし、それをぶどう酒に変えました。その水がめはユダヤ人が外出から帰ったとき、手を洗うなどして身を清めるためのものでした。それは神様が決めたことではなく、ユダヤ人たちが、どうしたら清い生活ができるか考えて、実行していたことです。
しかし、水によって外側を清めても、それはよい生き方にはなりません。わたしたちは外側の行いや儀式を守ることで善い行いは生まれないのです。わたしたちの外側ではなく、わたしたちの中に、わたしたちの心にイエス様の愛がぶどう酒のように注がれ、喜びが満ちあふれる時、わたしたちは心からの良い行いをすることができるのです。
キリスト教は「喜びの宗教」と呼ばれます。わたしたちを罪から救うために命を捨てるほどわたしたちを愛してくださった方が、死に勝ってわたしたちに出会ってくださるという喜びからすべてが始まるからです。この世が与える喜びはいつか色あせてゆきます。しかしイエス・キリストが与えて下さる喜びは年を経るにつれてますます豊かになってゆくのです。これからも、イエス様からあふれる愛を受けとり、その喜びに生かされてゆきたいと思います。
主の洗礼日の説教
民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
●ヨハネから洗礼を受けたキリスト
今日はイエス様がヨルダン川で洗礼を受けられたことを記念する日です。イエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。洗礼者ヨハネは、すべての人に悔い改めるように教え、ヨルダン川で人々に悔い改めの洗礼を授けていたのです。
それまでイスラエルの人々は、洗礼は異邦人がユダヤ教に改宗するときに受けるものであり、自分たちには必要ないと考えていました。なぜならイスラエルの人々は、昔モーセに導かれてエジプトを脱出し、海の中を通り、またヨルダン川を渡ったからです。その時、すべてのイスラエル人はそこで洗礼を受けて神の民とされていると考えたのです。
確かに、イスラエルの人々は、海の中を通り、ヨルダン川を渡りました。しかしそれは地上にある約束の地に入るための洗礼だったのです。神様の救いはそれで終わりではありません。神様は、初めから人間を罪と死から救う救い主を送ることを約束していました。この救い主は地上の国ではなく、永遠の国に人々を導く方です。その方が来られた今、異邦人だけでなく、すべてのユダヤ人も悔い改めの洗礼を受けなければならないのです。
しかし、なぜ罪のないはずのイエス様も悔い改めの洗礼をお受けになったのでしょうか。
それには二つの理由があると思います。第一の理由は、すべての人が洗礼を大切にするためです。今でも「洗礼は単なる儀式に過ぎないので必ずしも受ける必要はない」と考えている人々がいます。しかし、マタイによる福音書でイエス様は、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・・なさい」と言われましたし、マルコによる福音書では、「信じて洗礼を受ける者は救われる」と言われました。
このように、洗礼は神様が定められたものです。イエス様御自身が洗礼を受けられることで、洗礼が大切なものであることを示されたのです。イエス様は人々にしなさいと言われたことを御自分でも実行される方でした。このようにイエス様でさえ洗礼を受けられたのですから、「わたしには洗礼は必要ない」と言える人は誰もいないのです。
●キリストに結ばれる洗礼
次に洗礼が大切なのは、わたしたちが神様の約束を信じて洗礼を受けるとき、キリストと結ばれるからです。。
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙六章三節以下でこう教えています。
「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」
ここでパウロが「イエス・キリストに結ばれる洗礼」と言っている言葉は、「イエス・キリストの中へと洗礼をうける」という言葉です。洗礼とは、イエス・キリストの中に入り、キリストの内に生きてゆくことです。
神様は、わたしたちの罪を取り除くためにイエス様を与えてくださいました。ですから神様が洗礼を受けたわたしたちをご覧になるとき、わたしたちの罪を負って死んでくださった御子を通してご覧になるのです。
また、わたしたちは、復活されたキリストに結ばれています。キリストはわたしたちの罪のために死なれ、墓に葬られ、三日目に復活しました。キリストが葬られたように、わたしたちもやがて葬られますが、そこが最後の家ではありません。キリストはやがて来られて、父である神の家に迎えてくださるからです。
このようにわたしたちを救ってくださるイエス様を示している一つの例は。ノアの箱舟です.ノアは洪水が襲う前に箱舟に入りました。神の裁きの洪水は箱舟にうち寄せましたが、箱舟の中にいるノアの家族と一緒に乗っていた動物たちは洪水から守られました。そして箱舟は彼らを洪水の後の新しい世界に導いたのです。
イエス・キリストは、洗礼を受けてご自分の内に生きる人々を神の裁きから守り、新しい世界に導いてくださるのです。
イエス・キリストは、来たるべき世界のためだけでなく、この世界の罪の力からもわたしたちを守内にとどまっているわたしたちを誘惑から守り、悪から救いだしてくださるのです。
イエス様は、悔い改めて洗礼を受ける人々の中におられました。イエス様は、洗礼を受けてからではなく、洗礼を受けるときからわたしたちと一緒にいてくださいます。わたしたちは洗礼を受けてからいろいろと心配になることがあります。「私は洗礼の時、どれだけしっかりと悔い改めたのだろうか」、「私はどれほどしっかりとした決心して、またどれだけイエス様の事がわかって洗礼を受けたのだろうか」と思ったりします。しかし指令において大切なことは、イエス様と結ばれる、ということです。イエス様はわたしたちが弱く、不完全であることを知っておられます。ですから。洗礼の時からわたしたちの弱さをすべて背負っていてくださるのです。
●キリストに結ばれて神の子とされる
イエス様が洗礼を受けられた時、三つのことが起きました。第一に、天が開けました。次に、霊が鳩のようにイエス様の上に降って来ました。そして三つ目に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神様の声が、天から聞こえたのです。これはイエス様に起こったことでしたが、またイエス様のお名前によって洗礼を受ける人々にも起きることです。キリストの頭上には天が開かれていましたがイエス・キリストの名によって洗礼を受ける人々の上にも天が開かれます。その人はキリストの内にいるからです。イエス様の上に聖霊が鳩のように下りましたが、鳩は平和のしるしです。イエス様の名前によって洗礼を受けた人もイエス様を通して神様との平和をいただき、また神様との交わりをいただくのです。そして、イエス様と共に「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神様の御声を聞くのです。
ガラテヤの信徒への手紙三章二六、二七節でパウロはこう言っています。
「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」
洗礼を受けた時、わたしたちは、すでに神の子とされ、神の国を受け継ぐ者とされています。同時に、洗礼は神の子としての成長の始まりでもあります。わたしたちは地上にある間は決して完全な者になれないとしても、洗礼の時からわたしたちに働いている神様の霊によって、キリストと同じ姿に変えられているのです。
マルチン・ルターは、「信仰によって義と認められる」ということを次のように例えています。
「冷たくて黒い色をした鉄は、自分で熱くなることも赤く光ることもできない。しかしその鉄の塊が赤く燃えた炉の中に入れられると、その鉄の塊の中に熱が入り、やがてその鉄自体も熱を持ち、赤く光るようになる。炉の中にいる限り必ずそのようになる。キリストの内にいる人々も、必ずキリストと同じようになるので、キリストを信じた時、すでにその人は義しい者とみなされるのである。」
わたしたちは自分の力では何もできません。イエス様は、「あなた方はわたしを離れては何もできない」と言われました。洗礼をうけたわたしたちは、弱い自分を頼りにしないで、今もわたしを包んでいて下さるキリストによって、神の心にかなう者になることを求めてゆきましょう。新しい年の歩みが始まりましたが、改めて洗礼の時から共にいてくださり、わたしを包んでおられるキリストによって心を温められ、清められ、世の光として輝く者になることを願いながら、この年を歩んでゆきたいと思います。