◽完結
秋風が嘲笑っている。頬をくすぐり、髪をさらい、切りそろえた前髪をふんわりさりげなく持ち上げる。わずかに剃りすぎた眉をあらわにしようとするのを絆創膏を巻いた指で咄嗟に押さえた。
指の傷跡はうっかり包丁でつけてしまったもの。冷えた指先をもう一方の手のひらで撫でる。少し乾いた肌の感触に秋の深まりを感じる。そろそろハンドクリームを塗る季節かもしれない。肩から下げた長方形のサコッシュを探るもどうやら家に置いてきたらしい。
仕方なく顔を上げれば、目の前に佇む街路樹がくすくすと音を立てて嘲笑う。そこから葉が一枚、追い出されたように飛び出して、右へ左へ宙を漂いながら地面へ落ちていった。その上を手を繋いだカップルの片足が容赦なく踏みつけていく。ぱりっと乾いた音が爆ぜる。ばらばらになった葉の破片がまた風に乗って、ふわりと飛びあがり、さらさらと遠くへ飛んでいった。
木々の葉音、風の通り音、人々のざわめき、忙しない足音。いろんな音が混ざり合う広場で、ずっとある人の姿を探して立ち尽くしていた。
スマホを取り出してメッセージを開く。
『着いたよ。今どこ?』
──そう送ったのは、もう二時間も前のこと。画面に既読の文字はない。虚しい文字と通話の発信履歴が並ぶだけで彼からの応答はなかった。
一週間前、「ピクニックしようよ」というわたしの提案に彼は不満気だった。コスモスが見られる公園があるんだと一生懸命に説得して、「弁当つくってくれるんなら」と彼が折れてからは準備の毎日だった。今日のためにピクニックらしいカゴバックもお弁当箱も新調して、料理の練習もいっぱいしてきた。乗り気じゃない彼が少しでも楽しめるように、来てよかったと笑ってくれるように、できる限りの準備をしてきたつもりだ。
ぎゅうとカゴバックを強く握る。ヤシの葉で編まれた太い取っ手が食い込んで、痛い。もう二時間も立ちっぱなしで足の裏もじんじんと痛む。どこか近くのカフェに入ろうか。でも、もしその間に彼が来たら──そう思うと、動けなかった。
「寝坊かな」「道に迷っているのかも」「もしかして体調悪いとか……」そんな考えがぐるぐると巡る。でもその隙間に、ふと顔を出す嫌な言葉に慌てて首を振った。カゴバッグをもう一度ぎゅっと握り直す。
同じように待ち合わせをしている人たちが次々と笑いながら去っていく背中を何人も見送った折、ようやくスマホが震えた。
『ごめん、寝坊した』
『あと、こんなタイミングで言うのもあれなんだけど……』
『俺らって好きなものとか、ちょっと合わないよな』
『花とか興味なくて笑』
『考えたんだけど、俺たち────』
次の瞬間、わたしは広場を飛び出していた。ざわざわと木々が一層おおきく嘲笑う。自販機の横に丸く口の空いたゴミ箱を見つけて、走る勢いのままに思い切りカゴバックを放り投げた。
こんなもの、もう要らない。
ガコン、と鈍い音を立ててゴミ箱の縁に当たったカゴバックは、なぜか勢いよく駆けていら足元に転がってきて、わたしの身体を宙に浮かせた。酷く景色がスローモーションに見える。目線の先で手を繋いでいるカップルがこちらを指差していた。
なによ。人を指差しちゃいけないって学校で先生から習わなかったの。別にいいけど。っていうか、どうでもいい。もう、どうだっていい。みんな好きに嘲笑えばいい。
ずざざざっと派手な音を立てて地面に伏す。耳を通りすぎる風の音、木々の葉音、人々のざわめき、忙しない足音。音に見られながら、なんでもない風を装ってむくりと起き上がる。パンッと新調したワンピースの裾をはたく。頼んでもいないのに戻ってきたカゴバックを持って、前髪を整えながら今度はゆっくりと歩いた。
駅前を抜け、大通りを真っ直ぐに進む。だんだんと横断歩道から信号が消え、人の気配も薄れていく。ふと、ぽつんと寂しげに立つ錆びれた赤いポストが目についた。そのすぐ横に細い石畳のわき道が見える。寂しそうにぽっかり空いた道が気になって誘われるように足を踏み入れる。ざわついた音がさらに遠ざかり、しんとした空気が身を包んだ。
「ふう」
静かな気配に、やっと息を吐く。
石畳の道沿いには、季節の魔法を受けて姿を変える草花が仲睦まじそうに寄り添い合って咲いていた。そのすぐ下には青空を吸い込んだ鮮やかな花びらが落ちている。よく見れば、寄り添う葉の合間に少しだけ青空色の紫陽花が名残惜しげに顔をのぞかせていた。
さらに進むと大きな欅の木が立つ公園が見えてきた。午後の光が葉の隙間からこぼれて、足元に影をいくつも落とす。飛び越えるように影を超えて進んでいったその先で、不思議なものを見た。
「なんだこれ」
中世ヨーロッパを彷彿とさせる赤褐色の屋根。石造りのベージュの壁には、地面から木の幹のように蔦と葉がよじ登り一定の位置までのぼると左右に広がって大きな円を描く。円のなかには青々とした葉が石造りの壁を埋め尽くすように生をふるっている。さらに、そのなかで一際輝きを見せるのが植木鉢に植えられた色とりどりのお花だ。よく目を凝らすと石造りの壁に板が取り付けられているようで、植木鉢を板で固定することで浮いているように見せているらしい。
すごい。まるで、石造りの壁に生まれた花咲く木。
どうやら、いま見ているのは家の裏側らしい。どんな家主が住んでいるのか気になって、花咲く木を右手にゆっくりと表側へまわってみる。しかしまあ、その間にも家の周囲には草花が咲きほこり、右へ左へ風に揺れてきゃっきゃとお喋りでも楽しんでいるようだ。ここ一帯からやさしい空気が風に乗って身体の奥に流れ込んでくる。空気に色があったなら陽だまりのような淡くて静かであたたかい色をしているのだろう。
「あれ」
ようやく、表にたどり着いたところで足を止める。どうやら住宅ではなく、“花屋カフェ”のようだった。草花に埋もれた茶色の扉にかけられた木彫りの看板に『花想香 hana sou ka 営業中』と書かれている。
「はな、そう、か?」
こんな人通りの少ない住宅街の中心地でカフェを開くなんて、客足はあるのだろうか。そもそも本当に営業しているのかどうか。扉を押そうと伸ばした右手を一瞬躊躇する。何か情報がないかと不審者よろしく辺りを見渡すけれど、目線の先々にあるのは花・花・花、草・草・草。
ええい、開けちゃえ。最悪な今日を思えば、もうどうなったっていい。なんにでも、なれ。
はんぶん好奇心、はんぶん投げやりにドアに手をかける。ギィ、と古びた音を立ててドアが開くと吊るされていた銅製のベルがチリチリと鳴った。
瞬間、世界が変わった。外のざらついた現実を消し去る、まるでおとぎの森に迷い込んだかのような植物と花で溢れた不思議な空間。陽の当たらない側の壁面には油絵の花がいくつも飾られていて、一部分だけ切り取れば美術館だと誤解されてもおかしくない風貌だ。
「いらっしゃいませ」
「あっ」
ぼうっと店内を見つめていると、いつの間にか細身の店主がそばに来ていた。やさしく首を傾けながら、にこりと笑って片手で奥の席を指す。羽根が触れるような仕草に、ひとつ会釈をして席へ歩を進める。大きな窓ガラスのそばにある席は自然光が差し込んでほどよく暖かい。テーブルの上には一輪挿し。ピンク色のコスモスが優雅にくつろいでいる。茎をしならせ、どこか誇らしげに咲くその姿は“ひとり”でありながら美しく堂々としていた。
テーブルの端に置かれた押し花があしらわれたメニューを開くと、細い字でこう記されていた。
─ 月替り花言葉 ─
清らかなこころ
奇跡が起こる日
恵まれた生活
気高い人
私を想って
詩的な言葉の並びに、首を傾げる。
「お客さま、ご注文はお決まりですか?」
突然、上から降ってきたテノールの声。落ち着いたトーンにも関わらず、不意をつかれ驚いたはずみで手からメニューを滑らせてしまった。
「あっごめんなさい」
慌てて手を伸ばしたその先で、スラリとした指先とぶつかる。青みがかったネイルが陽光に反射して鈍く光っていた。
「いえ、お気になさらず。……お客さま、指の絆創膏が剥がれかけていますね。新しいものお持ちしましょう」
「え、あっ。だ、大丈夫です。擦り傷ですし、もうほとんど治ってて」
「ん? もしや膝も擦りむいていませんか? 少し血が滲んでいる」
ワンピースの裾を少し上げれば、円盤状に擦れたような傷と痣が浮かび上がっていた。盛大に広場で転んだあのときだろう。いまの今まで、全く気づかなかったくせに、ずきずきと膝が声を上げてくる。
「あっ」と声をあげる店主の目線を追いかければ、右手首の側面も擦りむいてしまっていたようだ。店主は「すぐ戻ります」と微笑むと、蔦のカーテンが垂れる店の奥に引っ込んでしまう。
ああ、恥ずかしい。気を遣わせてしまった。さいあくだ。
途端に現実に引き戻された心地で、ずしんと重いものが心の真ん中に鎮座する。川の流れをせき止める大岩でも降ってきたかのようだ。
二十年生きてきて分かったけれど、人生は案外うまくいかないことばかりだ。
『考えたんだけど、俺たち別れよう』
先刻のことを思い出して胸が詰まる。スマホはもう開けそうにない。ドラマや映画の世界はあくまでも、ドラマや映画の世界であって、現実では散った花は二度と元に戻らない。枯れて土になって新しい新芽が芽吹くまで、長いながい時間がかかることもある。それに、恋の花は特別だ。じぶんの好きな人がわたしのことも好きになってくれるだなんて奇跡、そう二度も三度も起こせやしない。もう二度と恋の花は咲かないしれない。こんなにも苦しい花ならば咲かなければ良かったとさえ思う。テーブルの上で陽光を浴び強く咲く一輪挿しのコスモスみたいに、誰かに頼るでもなく、愛されるでもなく。
「一人でも、生きられる人にならないと、だめだなぁ」
下を向くと血の滲んだ膝と目が合う。その視界が少しずつ歪んでいって咄嗟に瞼を下ろす。
なにが「一輪挿しのコスモスみたいに」だ。「一人で生きられる人に」だ。今だって人に助けてもらおうと、じっと座っているだけでなにもしていないじゃないか。血がついたまま来店されて店主だって内心は気を悪くしているに違いない。これだけ美しい植物の空間をつくる人だ。こんな、こんな、汚れた客、早く出ていってほしいに決まっている。どうしていつもうまくいかないのだろう。不器用で、不注意で、みっともない。
胸の奥がきゅう、と痛んでたまらず立ち上がった。大股で出口まで一直線に向かってドアの取っ手を掴む。今度は躊躇することなくドアを引いた。銅製のベルがチリチリと鳴る。一歩踏み出そうとした右足を持ち上げて、急にクンッっと引かれた腕につられて背後へたたらを踏んだ。ぽすん、と背中に当たるあたたかさに顔を上げれば、店主がすっぽりと包むようにわたしの肩を抱いて眉を下げていた。
「お待たせしてしまって申し訳ありません。どうか、手当てだけでも」
・ ・ ・
店主に半ば連れ去られるように席へ戻ると、テーブルの上には紫色の花が描かれた木箱と小花柄のベージュのポーチ。それから、陶器のソーサーに乗ったガラスカップが置かれ、甘酸っぱいような爽やかなフルーツのような香りが漂ってきていた。じんわりと香りが鼻を通って、身体のなかに染み込んでいく。枯れた花に水をやるみたいに、心に温かい何かが降り注いできて、また少し視界が歪む。
「カモミールティーを淹れました。良ければどうぞ。お口に合わなければ、香りだけでも。カモミールは心をリラックスさせてくれるんですよ。ぼくもよく飲むんです」
視線の先を悟ったのか、店主がそう続ける。
「さて、傷の具合を見ましょう。少し触ってよろしいでしょうか」
「あ、はい……。すみません」
「お気になさらず」
店主は向かいに椅子を運んで腰を下ろすと、やさしく膝に消毒液をふきかけた。冷たさよりも、すらりとした店主の指のぬくもりのほうが強く感じられる。
「痛かったら言ってくださいね」
割れ物にでも触れるように、やさしくやさしく傷を丁寧に手当てしてくれる。
小花のポーチにはガーゼや絆創膏が入っていたようだ。
「普通の絆創膏もあるんですけど、ほら、お花柄もあるんです。どちらがいいですか?」
ベージュ色のよくある絆創膏と黄色いキクの花が咲いた可愛らしい絆創膏を並べられる。もう、子どもじゃないけれど、ついキクの花のほうを指差してしまう。店主は「センスがありますね」なんて笑って、やっぱりやさしい手つきで貼ってくれた。
「黄色のキクの花には長寿と幸福という花言葉があるんですよ。これで、お客さまの傷も治って、ぱっと幸せに変わってしまうはず」
「そ、そうですかね……」
「大人になると傷を放置しがちですよね。そのうち治るだろうって。でも、手当てしてあげると、その分だけ治りも幸せも早くやってくるんですよ」
右手首を向けるように言われて、差し出す。白く長い華奢な右手が手を包み込んだ。
真剣に傷跡を見つめる横顔は光を浴びる月のように青白い。よく見ると、やけに整った横顔だ。下向きに生えた長い睫毛にぶどうの皮を剥いた実のような緑がかった茶色の瞳。羨ましいくらい通った鼻筋にぷっくりした唇。華やかな顔立ちとはうってかわって、墨で染めたような漆黒の髪はオールバックに持ち上げられている。耳には薔薇を型どったシルバーピアスが光っていた。ミルクにブラックコーヒーを注いだような不思議な雰囲気の店主だと、今さらながら気がつく。
「はい、できました。どうでしょう。痛みや違和感はありませんか?」
「あ、大丈夫です。ありがとうございます。あ、えと、さっき盛大にコケちゃって。あ、指はちょっと料理で失敗しちゃって。どっちもこの歳でやるかって感じで恥ずかしいんですけど……おかげさまで、あの、本当ありがとうございます」
「…………料理」
「え?」
「もしかしてお弁当ですか?」
店主の視線が、わたしの足元にあるカゴバッグへと落ちる。
「あー……はい。でも、意味なくて。ドタキャンされちゃって。というかフラレちゃいまして。まあ、わたし料理上手じゃないし、彼は食べなくてラッキーだったかもしれませんけど」
自分で言いながら、胸の奥にじわりと虚しさが波紋のように広がる。何日も前から準備してきたお弁当。タコさんウインナーを練習した日は、かわいいって笑ってくれる彼の顔を想像した。玉子焼きを巻く練習をした日は、六回目にしてようやく形になった。うまくできたときは、ちょっと誇らしくて「意外と料理できるんだよ」って得意げに笑う自分を思い浮かべた。見た目はまだまだ不格好だけれど味には自信があった。きっと喜んでくれるって、信じてた。なのに、見てもらうことすら叶わないなんて。
指についた傷。本当は、ちょっと包丁が滑っただけの、ほんのかすり傷。絆創膏を貼るほどでもなかったけれど、それでも貼ったのは「一生懸命に頑張ってつくったんだよ」って伝えたかったから。
唯一、手当てを断った中指の絆創膏をぺりっと剥がした。
「じゃあ、今からぼくとピクニックしましょうか」
「え?」
思わず顔を上げると、店主は名案とでも言うように得意げに笑った。
「さあ、こちらへ」
店主は迷いなくカゴバックを手にして、蔦のカーテンの隣にある蹴込み板のないシースルー仕様の白い階段を登っていく。
「えっ……え?」
迷いなく進んでいく後ろ姿を慌てて追いかける。途中でL字に折れ曲がる階段を登りきった先で、思わず息をのんだ。
一階のおとぎの森とは一変、店の二階に広がっていたのは草原だ。澄みきった青空のような天井。太陽の光をたっぷり浴びた青々しい柔らかな芝生が一面に広がっている。外、ではないのに外に出たかのように錯覚させる。風まで吹き抜けているような開放感だ。
「ここで靴を脱いでくださいね。あ、人工芝なのでご安心を」と、靴下姿になって先に芝生にあがった店主が振り返って、にこりと笑う。
そういえば、ちゃんと真正面から顔を見たのは初めてかもしれない。凛とした雰囲気だけれど、丸くて小さな輪郭にくっきりとした二重。微笑むと、どこか幼さが残る顔立ちだ。一見オールバックにピアスも開けて近寄りがたさを感じるのだけれど、紳士的な対応に美しい言葉遣い、落ち着いた仕草、さらにはエプロンをかけた姿が調和しているからか威圧感が全くない。どうしてか、ほっと安心してしまうくらいだ。
店主は丸太を模したテーブルを持ち出し、お花の形をしたクッションを指して「どうぞ」と勧めてくれる。そして、さも自分のものかのようにカゴバッグからお弁当を取り出して、「さあ、食べましょう!」と嬉しそうに言った。
スクエア型の弁当箱の蓋を開けると、ウインナー、玉子焼き、唐揚げ、ミートボール、アスパラのベーコン巻き、コロッケ、プチトマトにブロッコリーが四方八方に散らばった状態で現れた。ああ、恥ずかしい。アスパラなんてベーコンの宿を飛び出してしまっている。
「おお、凝ってますね。豪華です」
「え、いや……ほぼ茶色で、彩りもなくて」
「いやいや。茶色いおかずって、つくるのがいちばん大変なんですよ。どれだけ一生懸命につくったか、ぼくにはちゃんと伝わってきます」
店主は「いただきます」と手を合わせてから、まずは玉子焼きを一口。「白だしが効いていて美味しい」ともぐもぐ口を動かしながら、次はタコさんウインナーを取る。「タコさんウインナーぼくもよくやりますよ。うさぎリンゴも好きで、よくつくるんですよね」そう言って、左手でウサギの耳の形を作って見せてくれた。ただピースしているようにしか見えなくて、思わず笑ってしまう。
「一応、おにぎりもあるんです」
カゴバックのなかをのぞいて、おにぎりも差し出してみる。すると、店主は目を輝かせながら「枝豆と鮭のおにぎり!」と目を輝かせた。子どもみたいに両手で包みこんでいる姿に、また笑いがこぼれる。
「真心がこもっているからかな。外で食べるご飯よりも、ずっと美味しいです」
「そんなこと……」
「ありますよ。真心に勝るものはありませんから」
きっとお世辞だ。でも、本当に美味しそうに頬張る姿に胸がいっぱいになる。目の奥が熱くなって瞳の揺れを見られまいと顔背けたその先に、一階の席でも手に取った『花想香』のメニュー表が見えた。
そうだ。注文、なにか注文しないと。手当てをさせて、ハーブティーをごちそうになって、自分のお弁当を食べるだなんて、そんな図々しい客聞いたことがない。
もう一度メニューを開いて、月替り花言葉とある欄の文字をなぞる。
『清らかなこころ、奇跡が起こる日、恵まれた生活、気高い人、私を想って』
「あの、この花言葉って……」
「ああ、月替わりでご用意している花言葉のメニューです。花言葉にまつわるスイーツと、それに合うドリンクをお出ししております」
「なるほど。あの、花言葉、注文しても良いですか?」
「もちろんどうぞ」
——注文すると、「少しお待ちくださいね。お弁当ごちそうさまでした」と店主はふわりと笑って一階へ降りていった。
手元のお弁当箱が綺麗に片付いているのを見て、無意識に口角が上がる。いっときはゴミ箱に放り投げてしまったけれど無駄にならなくて良かった。かごバッグをぎゅっと抱いて、こころのなかでお礼を言う。
投げちゃってごめんね。戻ってきてくれてありがとう。
少しすると、バターの香ばしい香りがどこからか漂ってきた。それから間もなく、階段を上がる足音が聞こえてきて、「お待たせしました」とお待ちかねの声がかかる。より一層、バターの芳香と爽やかな香りが鼻先をくすぐった。
「本日の花言葉『清らかなこころ』でございます。四色のコスモスが咲くキャンディ型クッキーをご用意しました」
目の前にそっと差し出されたプレートには、キャンディ棒のような白いスティックの先に四色の花が咲いたクッキーが花束のように盛られている。ピンク、ブルー、ホワイト、イエローと色とりどりのコスモスがいっぱいに咲き誇っていた。
「か、かわいい!」
ミルキーな淡い色合いは、見ているだけで心がふわりと軽くなるよう。まるで本物のコスモスを頂くようで、口に運ぶのがもったいないくらいだ。
「コスモスをモチーフにしております。美しいこころをもったお客さまにぴったりなメニューです」
「えっいや、そんな……わたしには似合いませんけど」
「誰かのために一生懸命になれる。これほど美しいこころをぼくは知りません。さあ、クッキーに合わせて、ジンジャーとレモンの爽やかさが香るハーブティーもどうぞ」
すっと差し出されたティーカップから、ほんのりと立ちのぼる湯気。鼻を近づけると、やさしい甘さに包まれたスパイスの香りがぶわっと広がる。
「いただきます」
「どうぞ」
まずは、コスモスのクッキーをひとかじり。バターの風味とほどよい甘さが口いっぱいに広がる。クッキーごとに味が異なるようでチーズだったりベリーだったり、いろんな風味が代わる代わるにやってくるから、口に運ぶのも楽しみになる。さらに、クッキーの甘さをハーブティーがそっと包み込むように調和してくれる。ごくりと喉を通せば、身体の奥までじんわりとあたたかくなっていくようだ。
——はあっ、美味しい。
店主にチラリと視線を向ける。よく見ると、青色に整えられた爪先の一つには花のストーンが光っていた。
ほんとうにお花が好きな人なんだ。
なぞるように視線をあげると、まあるい瞳と真正面から目が合う。カッと顔が熱くなった。
「どうかされましたか?」
「えっ!? あ、いえ、なんでも」
慌てて目をそらすと、店主は少し困ったように頭をかいた。
「見られていては落ち着きませんよね。大変失礼いたしました。下におりますので、何かあればお呼びください」
「あっ……」
一礼して、店主が立つ。もっと居てくれても良いのに、なんて甘えた心が手を伸ばそうとするのを押さえて、会釈する店主にヘラッと笑い返す。
なんだろう。なんか。ふわふわする。人生、捨てたもんじゃないかもしれない。
コスモスのクッキーをもうひとかじり。空いた小窓から風がそよぐ。ささくれていたこころの隙間を秋風がそっと撫でていった。もう、冷たさは感じない。
「女になりたいってこと?」
窓ガラス越しの夕陽がテーブルの上を赤く染める。グラスの影が長く伸び、ささくれ立った指が水滴を伝うグラスを掴む。オレンジに色づいた唇が白いストローを咥えると、黒い液体がスッと吸い上げられ、すぐに沈んだ。まるで、僕の心みたいに。
「ねぇ聞いてるの?」
「聞いてるよ」
「じゃあ無視しないでよ」
「答える必要のない質問だと思ったから、答えなかっただけだよ」
「なにそれ」
彼女は不服そうに唇を尖らして、向かいに座る僕を下から上まで舐めるように見つめたかと思えば、すぐにぷいと目を逸らした。
「やっぱり女の子みたい」
「それ、褒めてる?」
「帰る」
レザーポシェットを肩にかけてベージュのブーツをカツカツと鳴らしながら、店を出ていく彼女の背を見送る。机にぽつんと残されたお会計の伝票。もう何度目かになるこの光景に、小さくため息をつく。
また、失敗だ。恋愛マッチングアプリを始めて早三ヶ月。何人かの女の子と会ってみたけれど、どうにも噛み合わない。メッセージのやり取りでは盛り上がるのに、会った途端に気分が沈む。
なんでだろう。困ったな。メッセージだとみんな、“ちょっといい人”になってしまうのだろうか。それともやっぱり僕の見た目が変だから? 僕が“普通”と違うから?
「はあ〜〜〜〜」
知らず知らず長い息が漏れる。カラン、とほとんど飲んでいないブラックコーヒーが音を立てる。汗をかいたグラスを手にストローを咥えれば、苦々しさが喉を通った。
鎖骨まで伸びた淡いブルーアッシュの髪。黒ゴムでハーフアップに束ねると、両耳に2つずつ空いた穴に光るシルバーリングとキュービックジルコニアのピアスがよく映える。トップスは白のTシャツに青地にオレンジのラインが入ったビッグシルエットのニットカーディガン。少し肩から落ちるくらいがお気に入り。手のひらを半分埋める袖の長さは寒がりな僕には最適で、いわゆる萌え袖なフォルムも気に入っている。下はデニムのスキニーと脚をすっきり見せてくれるインヒールの革ブーツ。好きなものをこれでもかって詰め込んだ今日のファッション。でも——。
「はああぁぁ〜〜〜〜……」
切り揃えられただけの爪先を見て、今度は深くため息をつく。
——ネイルをしてみたい。
さっきだって、彼女がしていたネイルがかわいくて「僕にネイルをしてほしい」とお願いしてみただけだ。ベージュ、ワインレッド、ホワイトの三色でタータンチェック柄に施された彼女のネイル。ブリティッシュな雰囲気がかわいくて羨ましかった。なのに「女になりたいってこと?」なんて。男がネイルをするのは、やっぱりおかしいのだろうか。
昔からかわいいものが好きだった。テレビに映るキラキラとした少女たちに憧れた。普段は恋に、友情に、勉学に、毎日を一生懸命に生きる彼女たちが敵を前に地球の平和のため立ち上がる。かわいさのなかにある強さ。見ているだけで勇気がみなぎっていって、いつか僕もあんなふうに強くなりたいと願っていた。だけど、僕の憧れはどうやら、おかしいらしい。「男の子なのに」って言葉が聞こえるたび悲しくなった。自分の好きに素直でいることが怖くなった。
どうして、みんな“男”という枠のなかでしか僕を見てくれないんだろう。僕は、僕なのに。
「千三百円になります」
決して高額ではない。けれど、今の僕にとっては心の痛い出費を支払ってカフェを出る。SNSに取り上げられるような人気カフェのはずだったけれど──正直、コーヒーの味はまったく思い出せなかった。
「もったいないこと、しちゃったな」
つぶやいて顔を上げると、澄んだ空に一筋の雲が長く伸びていた。それは空の先へ手を伸ばして、背伸びをしているようにも、何かを掴もうとしているようにも見える。
「自由でいいなぁ」
何に縛られることも足を引かれることもない。ただ、風に乗って気持ちよさそうに伸びていく。なんとなく雲が伸びる先が気になって、僕は雲の軌跡をたどることにした。
大通りをずうっと抜けていくと、だんだんと街のざわめきが遠ざかり、穏やかな住宅の気配が漂いはじめた。静かな風の音だけが耳に残る。何も考えたくない、でも、心が空っぽなのも寂しい。そんなとき、ただ歩くという行為は思いの外ちょうどよいものだ。
空ばかり見上げていたから気づかなかったが、いつの間に住宅街に迷い込んでいた。思ったよりも歩いてきたようだ。普段は通らない道、知らない風景。ほんの少しの冒険が、なんだか胸をわくわくさせる。いくつになっても、“新しい”にはトキメキがある。初めてピアスを開けた日、萌え袖を試した日、髪を伸ばして結んだ日……小さな変化は僕の世界を変えてくれる。キラキラとして輝いて、今度こそ自分を受け入れてくれる世界にたどり着ける気がして──。
「……ん?」
ふと、か細い鳴き声がした気がして振り向くと、真っ赤なポストの脇からひょっこりと猫が顔を出していた。華奢な身体に品のある毛並み。どこかの飼い猫だろうか。猫は僕を一瞥するとふっと目を逸らし、くるりと背を向けてわき道へと歩き出した。その背中が、どうしてか昔憧れた芯の強さをもつ少女たちに重なって、今度はその後ろ姿を追いかける。
猫は住宅街を抜け、ブランコやジャングルのある公園の遊具のすき間を通りながら、すいすいと進んでいく。やがて、猫が駆け足になる。その背中に置いていかれないように僕も急ぎ足になったそのとき──。
「わぶっ」
青い、何かに鼻先がぶつかった。柔らかい感触に、レモンのようなフレッシュな香り。
「……花?」
背の高い柵から吊るされたプランターに植えられていた花が鼻先をくすぐっていたらしい。
中央に向かってぎゅっと集まるように花びらが巻かれたようなその花は、珍しい色をしているけれど誰もがよく知る——。
「ブルーローズですよ」
「うわぁっ!?」
奥から響いてきた穏やかなテノールボイスに思わず声が裏返る。声のほうを振り向けば、エプロンをかけた男性が地に膝をつけた姿勢のままニッコリと笑みを向けていた。その膝の上では、先ほどの猫がゴロゴロと喉を鳴らしながら擦り寄っている。
「猫……」
「もしかして、あなたの猫さんですか?」
「いや、僕の猫では」
「そうですか。一度エサをあげたら、すっかり気に入ってしまったようで。最近、ティータイムしにやってくるんですよ」
「へぇ」
その人は「はいはい、お茶にしましょうね」と猫を抱えて立ち上がる。百八十センチは超えていそうなスラリとした背格好。鮮やかな萌黄色のノーカラーシャツを着こなし、その上にはポケットに花が摘まれたエプロンをかけ、胸には心地よさそうに身体を預ける白い猫。しなやかな手のひらが優しく猫の額を撫でると、猫は気持ちよさそうに鳴いた。長い睫毛を瞬かせながら目を細める男性の姿は立っているだけでも絵になる美しさだ。そして、どうしても目がいってしまうのが——。
「お兄さんもティータイムしていきます?」
男性が、植物に囲まれた茶色のドアをコンと叩く。その指先で光る青い爪先を見て、こくんと頷いた。
花屋カフェの店主をしているらしい男性に促されるまま足を踏み入れると、目の前に広がった世界に思わず声を上げた。まるで中世のガーデンを想起させる優雅な店内。背の高い観葉植物がいくつも並び、色とりどりの花々が虹を描くようにあちらこちらで咲いている。花を生ける花瓶の種類もさまざまで、同じものが一つもない。一つひとつの花に合ったおうちが選ばれているようで、全体のバランスが心地よい。どの花も、まるでここに来てから、自分らしく咲くことを許されたように生き生きとしている。
壁には油絵で描かれた花の絵が飾られていた。その筆致にも、色づかいにも、花を愛する人のまなざしが感じられる。
「すっご……」
初めてみる情景に思わず、こぼれる。
「さあ、こちらのお席へどうぞ」
白いアンティーク棚の側の席に通される。棚の上には黒白ボーダーの陶器に生けられた花がまるで笑みを浮かべているかのようにこちらを向いている。その隣には、花束を模したガラス細工と花びらがぎゅっと詰まったアロマキャンドル。
「かわいい……」
また、思わず声が漏れた。
小脇にあるメニュー表を取ると、『花想香』と店名らしき名前が縦書きに書かれていた。その隣には『清らかなこころ、奇跡が起こる日、恵まれた生活、気高い人、私を想って』と、花言葉が並んでいるようだ。そのなかでも、一つの言葉に目を引かれた。
「奇跡が起こる日」
味のしないコーヒーを飲んで、女の子に振られて、でも空の雲を仰いで歩いたら猫に出会って、ふらりとついていった先でこんな素敵なカフェに出会った。まさに、奇跡の連続だ。
「お決まりですか?」
店主が、にこやかに声をかけてくれる。
「えっと、『奇跡が起こる日』を一つください」
「かしこまりました」
注文を告げると、店主は瞳を風にゆれる花のようにゆっくりと瞬かせ、小さくお辞儀をした。窓から差し込む陽の光が、店主の白磁のような肌を淡く照らす。その頬を撫でるように、店内で咲き誇る花々の影が寄り添う。時間の流れが少しだけ緩やかになったような、不思議な空気がそこにあった。
美しい——そんな言葉が自然と浮かんでくる。すると、店主はそっと口角を上げた。笑っているというよりも、何か意地の悪いことでも言いたげな、そんな目だった。
「ぼくの顔に何かついてます?」
「あ、いえ! えと、あっ……どうして、こんなにたくさんのお花を?」
「花、好きなんですよ。ほら、花って一つひとつに物語があるでしょう? 花には声がないけれど、ちゃんと想いが込められている。『奇跡が起こる日』みたいにね。そういうところが昔から好きなんです」
「昔から?」
「そうですね……小学生くらいでしょうか。将来は花博士になりたいくらい花が好きだったんですけど、すごい人見知りで。人と話すのが苦手だったんです。だから、花で気持ちを伝えられたらいいのになって、そんなことを思っていました」
店主は少し眉を下げながら微笑んだ。
「では、準備してまいりますね。ごゆっくりお過ごしください」
そう、店主は声を沈めて答えるとゆったりとした仕草で一礼。くるりと身を翻し、奥へと姿を消していく。スポットライトでも当たっているのか、舞台上の役者のように指先にまで意識が行き届いた美しい所作が余韻を残していく。その後姿を頬杖をつきながら見送ったあと、もう一度白いアンティーク棚の上にある陶器に生けられた花——一輪の薔薇を見つめる。
——『花で気持ちを伝えられたらいいのになって』
花で気持ちを伝えるといえば、たしか薔薇は本数によって意味が変わるんだっけ。一本の薔薇に込められた意味は、ひとめぼれ。一目見た瞬間に惹きつけられて夢中になってしまう。論理も理論もなにもない。なにもなかった空間に、突然現れたブラックホールに僕の心はただ吸い込まれていく。かわいいもの、キラキラしたもの、美しいもの。誰かが唾を吐こうとも、憐れんだ目線を寄越そうとも、惹かれてしまった心はどうしようもない。それを含めて、僕なのだから。誰が何を言ったって止められやしないんだ。
ぼうっと薔薇を見つめていると、ふわっとした香りが鼻をくすぐった。香りの先を辿れば、トレーを持った店主が「お待たせいたしました」と微笑む。
「本日の花言葉、『奇跡が起こる日』でございます。ブルーローズの水出しハーブティーと、ローズオイルを使用したバラ風味のシフォンケーキです」
「わっすごい」
いただきます、と手を合わせてから、まずはハーブティーを手に取る。レモンのような清々しい香り。すうっと吸えば、絡まっていた心の糸を一本ずつほどいていくよう。ひとくち喉を通らせるとさっぱりした風味がほどけた糸をやさしく束ねて包み込んだ。つづいてシフォンケーキにフォークを入れると、断面がふわふわと揺れる。期待のまま口に運べば卵のコクと甘さがふわっと広がり、鼻の奥に薔薇の香りが抜けていく。もっと近くで感じたくて、たまらず目を閉じた。
「あれ、ブルーローズって」
「ああ、お客さまが店先で鼻をぶつけられていたお花ですね」
「『奇跡が起こる日』は青薔薇の花言葉だったんですね。気づかず注文していました」
「それは、奇跡ですね」
「ですね」
ハーブティーとシフォンケーキだけじゃない。店内の幻想的な雰囲気と店主とのやり取りも相まって、こころが海底の底からじわじわと浮上していく心地だ。
ふと、トレーを抱える店主の指先——青い爪先が目に入る。今なら勇気を出せる気がした。
「そのネイル……」
「ああ、これ」
「見せてもらってもいいですか?」
「ええ、もちろん」
ずっと気になっていた。まるで湖のように静かな波紋が広がる青と白のネイル。ラメがコーティングされているのか、光を受けてきらきらと柔らかく輝いている。一粒だけ載せられた花形のストーンが一層の輝きを放っていた。
「綺麗ですね」
「ありがとうございます。独学ですが」
「えっ自分で!? すごい、かわいいです。あの、どうしてネイルを?」
「うーん、美しいものが好きなんですよ。手元って、何をしていても自然と目に入るでしょう? 美しい爪先が目に入ると、不思議と背筋が伸びるんですよね。勇気さえ湧いてくる気もして」
そうか。この店主は、僕が置き去りにしてきたものを堂々と持ち歩いている。かわいいものにときめくこころを持ちながら、それを表に出すことが怖い自分に反して、誇らしげにネイルを見つめる店主の姿が眩しく感じられる。
「ふふっ」
「え、なんですか」
「いえいえ。失礼しました。なんだか昔の自分を見ているようで」
「へ?」
「お客さまも一緒にどうですか?」
エプロンのポケットから取り出されたのは、ブルーとホワイトのネイルポリッシュ。返事もしないうちに左手をそっと取られて、小さなハケがつやりとブルーを乗せる。ひんやりとした感覚のあと、憧れが爪に広がっていく。
ホワイトをアクセントに加えられ、マーブル模様に仕上がった手元を天窓から差し込む光にかざしてみる。言葉が出なかった。自分の手じゃないみたいだ。いや、正確には、ずっとなりたかった自分がようやくここで生まれた——そんな気がした。背筋がすっと伸びて、視界がふわりとひらけていく。
「僕、ずっと自信がなかったんです。僕が好きなことを好きに愛する、ただそれだけのことが怖くて」
「ええ、わかります。でも、好きに生きましょう。自分の人生なんですから」
店主は、自分の指先をそっと胸元に抱き寄せるようにして微笑んだ。
好きなものを好きだと言える。好きなものを大切にできる。好きなものをずっと愛し続けられる店主が眩しい。僕も、いつか、そうなれるだろうか。
「ネイル、お似合いですよ」
「あの……また、来てもいいですか。次は僕もネイルしてきます」
「それは楽しみです。いつでもお待ちしておりますよ」
たとえ運命で今日の出来事が決まっていたとしても、それを奇跡と呼ばずにはいられない。素敵な出会いに感謝して、僕は青く染まった爪先にそっとキスを落とした。
前を歩いていた人が物を落としたとき。電車で立っているおばあちゃんを見かけたとき。勢いよく転んでしまった子どもを見かけたとき。「落としましたよ」「席、どうぞ」「大丈夫?」と、あたしはいつも声をかける……心の中で。
心に浮かぶ言葉は、喉元でいつも行き止まりになる。妄想のなかでなら、いくらでも他人に手を差し伸べられるのに。寄り添うことができるのに。現実のあたしは、誰かの痛みを見ても風景の一部となって終わってしまう。物語のモブにさえなれない。車窓を流れる空の一部。薄情者だと自分でも思う。
でもだって、余計なお世話って思われたら? 迷惑だって思われたら? 足踏みばかりする心に気づきながらも変えられない。だって、他人に薄情になることで、自分の平穏を保てるのだから。
駅前の交差点を渡った先、緑色の看板が目印のいつもの喫茶店に足を運ぶ。自分だけの小さな避難所。ガラス扉を一枚開けば、外界のざわめきから一歩距離を置ける場所。
焙煎された豆の香ばしい香りがふわりと鼻先をくすぐり、カップを傾ける音やカウンター越しの店員さんの声が心のざわつきを少し和らげてくれる気がする。なかでもお気に入りは窓側・一番奥にある隅っこのカウンター席。小窓からは外で揺れるイチョウ並木がよく見えるうえ、壁が近くて落ち着くのだ。人によっては狭くて窮屈かもしれないけれど、あたしのような小さい人間には、このくらいのサイズ感のほうが心の収まりが良い。世界よりも、世界の片隅くらいが丁度よいのだ。
お財布とスマホだけ入ったA5サイズのポシェットを肩から外して、隅っこのカウンターチェアの背をギギギと引いた。その瞬間——白い塊が肩を掠りながら通り過ぎ、今まさに座ろうとしていた座面にドスンと鎮座した。
つい、固まる。目をぱちくりと瞬かせる。
食材らしきものがぱんぱんに詰められ、口元をぎゅっと固く結ばれたビニール袋がまるで王様のように背もたれに凭れかかっている。
「どいてくれる?」
振り向けば、何食わぬ顔をしたご婦人が背後に立っていた。すっと身体を避けると、ご婦人は座らせた王様をテーブルに置き直し、「よっこらせ」と調子をつけて今度は大きなお尻が王の座につく。
「ちょっと、今わたしが座ろうとしていましたよね? ビニール袋を投げて席を取るなんてどういう神経してるんですか? どいてください。そこはわたしの席です」——と、文句の一つや二つや三つを心の中でまくし立てる。
「なにあんた。文句でもあんの?」
「あ、やっ……別に」
ふん、とご婦人は鼻をならす。一方、あたしはしゅんっと切なさを鳴らして背を向ける。店内を見回してみるが、すでに満席だった。
あ〜あ。あたしは他人を助ける勇気もなければ、自分を守る勇気もない。
肩にかけ直したポシェットが重い。喫茶店のガラス扉が無慈悲にもバタンッと音を立てて閉まる。ガラス越しに見える店内は遠いどこかの国のようで、見上げた空も心なしか曇って見える。あの小窓から見えたイチョウの黄色は、どこか色あせてしまったようだ。
これからもあたしは、何も伝えられないまま、生きていくのだろうか。
ふらふらと、行くあてもなく足を彷徨わせる。別の喫茶店に入ろうと目に入る店を眺めるけれど、おしゃれすぎる喫茶店は勇気が出なくて扉を開けないし、開放的な空間でおしゃべりに花を咲かせている人が多い喫茶店も気後れしてしまってだめ。喫茶店はやめようとファストフード店を覗くけれど、学生が賑わう空間は音の洪水に心が溺れてしまうからだめ。次にファミレスを覗いてみるけれど、子ども連れのファミリーが集う空間は自分の孤独を際立たせるからだめ。あれもだめ。これもだめ。あ〜。このまま、人生でも居場所を見つけられずに彷徨い続けるのだろうか。
ぼんやりと歩いているうちに、いつの間にか知らない通りへ足を踏み入れていた。気づけば、人の気配もまばらで静かで和やかな空気が漂っている。子どもの声も、車の音も聞こえず、ゆるやかな風だけが頬を撫でて通り過ぎる。ようやく、胸の奥のざわめきが少しだけ和らいでくるのを感じた。
そのときだった。ふと視界に赤い絨毯のようなものが映り込んだのは。いや、よく見るとそれは平面ではなく、まるくふくらんだ不思議な赤い物体たち。大きな一軒家の庭先を埋め尽くすようにそれは並んでいた。ふわふわとした質感で、まるで毛糸玉がころころと転がっているみたいだ。吸い寄せられるように近づいていくと背丈六十センチほどの赤い植物のようだ。
なんだろう。こんな、もこもこな植物、見たことない。
夕陽を浴びて、一層赤く染まる植物は風に揺られて、ひそひそ話でもするように葉を揺らす。
「かわいいね」
なんとなく声をかけてみると、植物の赤さが頬を染めたようにも見えて、より一層かわいらしく見えてくる。そっと指先で触れてみると、見た目通りのふわふわとした柔らかな感触だ。
「やわらかいねぇ。わたしは他人の目ばかり気にしているから、きっと触れたらトゲトゲしてるんだろうなぁ。それに比べて君は、ふわふわで、きっとやさしい子なんだろうねぇ」
「キミモ、ヤサシイヨ」
「えっ……」
不意に聞こえたつくり声に、びくりと身体が跳ねる。慌てて身を起こすと、赤い植物に紛れている真っ黒な頭を見つけた。何色の絵の具を垂らしても染まらなそうな漆黒の髪。能面のように真っ白な肌が夕陽に当たってほんのり朱に色づいている。俳優にでもなれそうな二枚目風なその顔が、ゆっくりと近づいてきて、逃げ腰のわたしの顔まで迫る。
ち、近い近い近い近い近い近いっ……。なになになになにっ……。
人と話すのが苦手なあたしにとって、異性はさらに話をするハードルが爆上がりする。大学生になるまで、まともに男性と話せなかったあたしが(今でも上手く会話できるわけではない。話しかけられたら一言返せるくらいだ)、こんな好青年に迫られて普通でいられるはずがない。会社に入ってから嫌でも異性と話せるようにはなったけれど、あくまでも仕事上での話だ。男友達なんていないし、もっぱらイケメンなんて別次元の生き物だ。
夕陽が耳元のシルバーピアスに反射して、キラリと光る。
ピアスしてる男性なんて、人生で一度も話したことがない。やばい、きっと元ヤンだ。知らんけど。怒鳴られる? 指つめられる?
そう思わずぎゅっと目を瞑れば、少し経ってふふっと柔らかい笑い声が落ちてくる。おそるおそる目を開けると、男は瞳の奥にエメラルドでも混ぜたような緑がかった茶色の目を綻ばせると、目元をくしゃりと崩して微笑んだ。
「よろしかったら、一杯飲んでいかれませんか?」
「えっ……」
彼が指す先を見ると、赤い絨毯の奥にヴィンテージ調のドアが見えた。木製のプレートに『営業中』と書かれた札が揺れている。
「カフェなんです。植物がお好きでしたら、ぜひ」
「あっ……か、かふぇ? ゆび、つめられたりとか……」
「はい?」
「あっやっ……なんでも、なんでもないです」
まさか、カフェだとは思わなかった。たしかに、男の背後にある大窓からは店内がうっすらと見える。アンティーク調の壁に花が咲いて、その奥には、カフェカウンターのようなものも見える。
「どうですか?」と男が微笑む。悪意のない視線だとわかっているのに、心臓をぎゅっと掴まれた心地になる。
どうしよう。断る? でも、普通のカフェっぽいし入ってもいいかも? ああ、とりあえず何か言わなければ。えっと、どうしよう、どうしよう……。
「コキアって言うんです」
「ふぇ……?」
思わずふぬけた声が出て口元をおさえる。店主は気にする様子もなく、丸くもこもこっとした赤い絨毯にやさしく撫でるように触れた。
「このこたちの名前です」
「コキア。かわいい、なまえ」
「かわいいですって。たくさん褒めてもらってよかったね」
子どもをあやすようなやさしい声で、男はコキアたちと目線を合わせた。「よかったね」と繰り返すその姿に、つられて私もそっと触れてみる。すると、風が吹いてコキアがさわさわと揺れた。
「コキアたちも喜んでますね」
「あ、はい」
そう言われると、本当に笑っているみたいだ。言葉はなくても、気持ちが通じ合っているような、そんな不思議な一体感。ちらりと男を見れば目を細めてコキアを見つめていた。
「ふふ、嬉しいです」
「え?」
「訪れた人が、閉じた心の蕾を花ひらかせる場所でありますように」
「……?」
「ぼくが切り盛りしているカフェ『花想香』が叶えたい夢です」
「ゆめ?」
「人は対話を通して、こころを通わせ生きる、生き物ですから。植物を通して豊かなコミュニケーションが生まれる場をつくりたくて、カフェを始めたんです。お姉さんは、おしゃべりは好きですか?」
「え? わたしは、あまり……。人が苦手で」
「そうでしたか。でも、お話する相手は人とは限りませんよ」
なにを言ってるんだろう、この人は。けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。掴まれていたはずの心臓が緩やかに鼓動する。むしろ、落ち着いてきたこころに少し驚く。あたしは、ゆっくりとその人の顔を見た。
前髪をオールバックにして、不思議な色の瞳が星みたいに瞬いている。冷たさとあたたかさの間をたゆたうような、少し不安定で、でも力強さを感じる瞳。どうしてか、目が離せなくなる。
「たとえば、目が合った草花に挨拶したり、お気に入りの植物に話しかけたり。こころを落ち着けて自分自身と対話するのも、そう。コミュニケーションって聞くと、人との会話を思い浮かべがちですが、実はそれだけじゃない。言葉がなくても、こころを交わす方法はいくらでもあります。コミュニケーションとは、こころとこころが触れ合うことですから」
「こころ、」
店主の男は、ゆっくりと頷いて、つづけた。
「たとえ言葉が通じなくても、こころを共有し合うことができる。時間がかかることもあるかもしれません。だけれど、芽が出て、蕾になって、花ひらくように、いつか心をひらける場所になったらいいなって。だから、あなたがコキアに触れて、こころを寄せてくれたことがとても嬉しかったんです」
「え、そんな。わたしはただ、かわいいなって。それだけで」
「最高の褒め言葉ですよ。ありがとうございます」
急に恥ずかしくなって「そろそろ」と帰る素振りを見せると、店主の男は慌てたように立ち上がった。「ちょっと待っていてください!」と言うが早いか店内へ走っていった。
少しすると、パステルグリーンのケーキ箱をもって戻ってくる。
「お土産に差し上げます」
「えっ」
「コキアをイメージしたベリーのチーズタルトです。三種のベリーを細かく砕いて丘に見立てたチーズの上に、ベリーをコキア畑のように散りばめて表現しています。酸味があるのでレモンティーと合わせると美味しいですよ」
「あ、あの、えっと」
「コキアを褒めくださったほんのお礼です。受け取ってください」
「で、でも」
「あ、もしかして甘いもの苦手でしたか?」
「いえ! 好きです……」
「なら良かった。あなたのような素敵な人に出会えるなんて、コキアたちは恵まれています。そんなあなたにも『恵みある生活』が訪れますように、願い込めて」
曇り一つない店主の男の澄んだ瞳を見ていると、まさか断ることなんて、できなかった。
・ ・ ・
受け取ってしまった。
一人暮らしの1Kの部屋。その中央に鎮座する白いテーブルの上。パステルグリーンのケーキ箱を前に正座して、まじまじとそれを見つめていた。
もらってしまって良かったのだろうか。今更、そんなことを思う。
キッチンの方からグツグツ……と音が聞こえてきて、次第にピピッと機械音が鳴った。電気ケトルを持ち上げて無地のマグカップにお湯を注ぐ。店主に言われた通り、スーパーで買ったレモンティーのティーバッグを一つお湯にふわりと浮かばせ、適当なお皿でフタをして蒸らす。頃合いを見てお皿を外すとフワッと爽やかなレモンの香りが鼻を掠めた。
再びテーブルへ戻り、改めて正座。ついにケーキの箱を開く。
「かわいい」
ラウンド状に型どられたタルト生地にこんもりとチーズの丘が立ち、ストロベリー、ブルーベリー、ラズベリー、カシスで表現されたコキア畑が丘いっぱいに広がっている。表面をゼリーでコーティングしているからか、つやつやとしていて、夕陽をいっぱいに吸い込んでいたコチアたちを思い出した。
「いただきます」
手を合わせて、おそるおそるコキアの丘をフォークで登る。少し力を入れるだけで、すうっと入っていく。一口サイズにそれを取って、いざ……。
「んんっ美味しい!!」
チーズの滑らかな口どけ、後からやってくるコク、そこにベリーの酸味がマッチする。追いかけるように、レモンティーをコキアが溶けた口元に運ぶと、爽やかな風味がふわっと広がって身体の芯まで染み込んでいくようだった。
こころがコキアのように色づいていく。
なんだか今日は不思議な出会いをした。どうしてだろう。私は人と話すのが苦手だ。いつも人と関わった後は、ああすれば良かった、こう言えば良かった、こう思われたかも、なんてぐるぐると反省会が続くのになぜか今は落ち着いている。今日だって、うまく話せたとは言えなかった。それなのに、あの店主といた時間を思い出すと心がぽかぽかする。後悔がない。
ふと、ケーキ箱に封入されていたショップカードと目が合う。名刺サイズのカードにドアをモチーフにしたデザインが描かれ、中央には押し花で彩られた花束。その上に、箔押しで店名が刻まれている。
「花想香」
心の蕾を花ひらかせる場所と、店主は話していた。
こころに手をあててみる。少しだけれど、あたしのこころは今日、花びらをひらかせた気がする。どうしてなのか。なにがきっかけだったのか、まだ答えはわからないけれど。きっと、あたしがまだまだ知らないたくさんの理由が、あの花に囲まれた茶色のドアの向こうにある。次はもう少しだけ上手に話せる気がする。それに、もう一度コキアに会いに行きたいな。
「もういっかい、行ってみようかな」
わたしはいつも声をかける……こころの中で。こころに浮かんだ言葉は大抵、口にはできない。でも、声にしなくても伝わるものがあるのかもしれない。ふれる手、伝わるぬくもり、空気のゆらぎ、あたたかい気配。“話す”って、本当はもっと自由なのかもしれない。
コキアの丘をもう一口、口に運ぶ。店主と話してみたいことがこころの中にたくさん浮かんでくる。
次に会えたら、なにをはなそうか。
ドッドッドッドッ……ドッドッドッドッ……。
まるで、鼓動のようだ。血液を奥へ奥へと流し込んで、生を前に進ませる。細長いからだを上下に小刻みに揺らしながら、時折ガッタンコゴットンと大きく揺らして車輪を前へ進ませていく。その揺れが、どうにもまぶたの裏で、別世界への波を立てる。気を抜けば、すぐにでも夢の底へと沈んでしまいそうだ。
パチンッ!
両頬を両手のひらで思い切り叩く。真向かいに座る赤ちゃんが驚いたようにこちらを見ていて、ごめんごめんとジェスチャーする。赤ちゃんの背にある車窓からは、見慣れた景色がどんどん流されていって目的地がもうすぐそこであることを告げる。
ふう、よし。大丈夫だ。起きろ、俺。次だ、次の駅で降りるぞ。絶対にだ。振りじゃあない。今日は大学の必修のテストがあるんだ。受けないと詰むぞ。落単に王手をかけることになる。せめて遅刻。欠席はありえない。そもそも寝坊して家を飛び出して、滑り込みで乗った電車だぜ? 降り損ねた時点でもうアウト。試合終了。空でも飛べない限り間に合わない。そうだそうだ。絶対に降りるぞ。駅まであと、どれくらいだ? ……二分くらいか? たったの二分。カップラーメンができるよりも早い。耐えられるはずだ。いや、耐える。耐えるんだ、俺……!!
深くて暗い水面の底から陽光から伸びる意識の糸をぎゅっと手繰り寄せる。
そうだ、そうそう。いいぞ、俺。その調子。その、調子……。
一瞬の暗転。
「あれっ?」
意識が浮上して、まぶたを擦る。真向かいには、すでに赤ちゃんの姿はない。サッと喉元にナイフでも突きつけられたような悪寒が駆け抜ける。気づけば、車窓の外に見慣れない景色が広がっていた。慌てて腕時計を見れば、授業開始からすでに四十分近く経っていた。信じられない。顔から血の気が引く。
「やっちまった」
誰もいない車内に小さな声が沈んでいく。そのまま、ずるずるとシートに深く腰を沈めて、腕をぐーっと天井に向かって伸ばす。身体の節々がぽきぽきと鳴った。ポケットのスマホを取り出せば、同じ必修を取る友人たちから落単へ王手をかけた俺への健闘を祈るメッセージが届いていた。もちろん半笑いで、だ。
「くっそー」
適当にスタンプだけ送り返して、立ち上がる。
窓の外では、似たような住宅の屋根がいくつも右から左へ流れていく。銀色に輝く背の高いビルなど見る影もない。都会から離れてだいぶ奥まで進んでしまったようだ。兎にも角にも、このまま電車に揺られていても仕方がないし、過去を悔やんでも仕方がない。昔、ジイちゃんがよく言っていた。過去なんて存在しない。これからどうするか、それだけだ、と。
「とりあえず、降りっかぁ」
人気のない吹き抜けのホームに降りると、大きな桟橋と川が見えた。その奥には古びた屋根の一軒家がいくつも並んでいる。少し電車で進むだけで、見える景色がここまで変わるものなのか。自分がいつも降りる駅は地下の深いところにある。差し込む光もなく、ひんやりとしたコンクリートに囲まれて無機質だ。地上に出れば、すぐさま人波に呑まれる。足早な人々と、忙しない足音。あれが、いつもの日常だったのに——。
「スゥー……ハァー……」
試しに深呼吸をしてみる。冷たくて、やわらかくて、どこか甘い。胸の奥まで空気が届く。いつもの日常のなかでは、こんな風に呼吸する余裕なんてなかった。大学の授業に、バイトに、友人との馬鹿騒ぎに忙しい。デジタルに囲まれた日常のすき間には情報が各所から飛びいって、政治がああだとか、物価がこうだとか、就職は早めに始めたほうがいいとか、そろそろインターンを考えたほうがいいとか、誰が付き合って誰が別れただとか、そんなことばかり。“今の若者は”なんて言うけれど、こっちだって時代に取り残されないように必死に生きている。……必死に生きていても、寝坊することはあるし、電車で寝過ごすことも、あるけれど。
くんっと両腕を大きく伸ばして、もう一度肺から息を吸う。耳をすませば、どこかで畑を耕す機械の音。どこかで遊ぶ子どもたちの笑い声。鳥のさえずり。木々の葉音。静けさの中にちゃんと人の暮らしが聞こえる。そんな当たり前のことがやけにあたたかく思えた。都会では味わえない豊かな香りがする。
思い出すのは「大学を卒業したら実家に帰りたい」と言っていた同級生のこと。あのときは「田舎なんて、なにもないじゃん」と笑い飛ばしてしまったけれど、そのときの彼の言葉が耳に返ってくる。
『田舎は空気の美味しさが違う。空の広さが違う。人の気配が違うんだよ』
今なら、少しだけその意味がわかる気がした。
塗装の剥げた階段を下りる。反対ホームへ続く階段をちらりと見て、そのまま改札を抜けた。今さら大学に戻ったところでテストには間に合わない。別に興味もない授業だ。怒られるかもしれないけれど、将来に役立つかと問われても答えに詰まるような、自分にとっては大事にしようと思えない、そんな授業。そもそも、将来やりたいこともなりたいものも、なにもない俺にとって、大学の授業は退屈な時間でしかない。こんなことを言ったら、やっぱり怒られるんだろうけど。
「までも、こんな日があってもいいじゃんね」
誰に言うでもなく、つぶやく。行き先も決めずに、ふらっとどこかに迷い込む。そんな日があったって良いじゃないか。
改札を出てすぐ目に飛び込んできたのは一面に広がる畑だった。一定の間隔で区切られていて、育てられている作物が少しずつ違っている。誰か一人の私用地ではなく、区域ごとに個人が利用できるシェア畑なのかもしれない。最近は休暇を活用して農園体験をする需要も増えていると聞く。週末だけ土に触れる生活も案外悪くないのかもしれない。都会の喧騒から少し離れて、土にまみれる時間——想像しただけで、心がふにゃっとゆるむ。子どもの頃は畑仕事に憧れていた。いや、正確には畑で働くジイちゃんに憧れていた。
ジイちゃんは小さな畑でレモンを育てていた。当時やんちゃ盛りだった俺は、何度も「連れてって!」とお願いしたけれど、そのたびに「怪物を野に放つやつがいるかァ?」と連れて行ってもらえなかった。そのたびに、むくれる俺をばあちゃんが笑いながらなだめてくれたっけ。
畑仕事から戻るジイちゃんは、いつも爽やかな香りをまとっていた。そんなジイちゃんに聞いたことがある。
『なんでジイちゃんは香りを持って帰ってこれるの? 目に見えないのに、掴めないのに、なんでなんで?』
ジイちゃんは縁側に座っておれを膝の上に乗せると、歯の抜けた口を大きく開けて笑った。
『そりゃジイちゃんがすげぇからよ』
『すげぇって? どんなふうに?』
『ジイちゃんの手は人気もんなんだ』
『レモンがジイちゃんの手をだいすきってこと?』
ジイちゃんのシワシワで大きな手を掴む。
『おれも大人になって、もっと手が大きくなったら、香りを持って帰れるかな?』
『っかァ〜〜馬鹿でねェ。大きさなんて関係ねえよ。んでも、大人になったら、レモンと言わず、好きな香りを好きなだけ持って帰れるかもしれねえなァ』
ジイちゃんの手が、ポンっと頭の上に置かれて大きく頷いた。またフワッと爽やかな香りが漂ってきて、そうだ。だけど、爽やかさに混じって甘い香りも漂ってきて……。あれは、なんの香りだったんだっけ。
そんな思い出に浸っているうちに、道は少しずつ細くなり住宅街に入り込んでいく。平日朝の住宅街はどこか時間が止まったように静かで、穏やかな気配があたりを包んでいた。ビジネスパーソンが革靴を鳴らす都会とまさか同じ国とは思えない。
どこからか焼き魚の香ばしい匂いが漂ってきて、お腹がグゥと鳴った。そういえば、今朝は急いで家を飛び出してきたから何も食べていなかった。何かお腹に入れたいなと思いながら辺りを見回してみるが、並んでいるのは民家ばかり。コンビニの気配もなく、おとなしく駅に引き返そうか——そう思いかけたとき、ふと鼻先をくすぐる甘い香りに気づいた。
その香りに導かれるように足は自然と前へと進んでいく。一本道を抜け、公園の緑のトンネルをくぐると、視界の先に植物に囲まれた一軒家が見えてきた。それはまるで——。
「花の楽園か?」
青々と茂った庭先には、色とりどりの草花がプランターに丁寧に植えられていた。壁際には、綿織りの布でくるまれた鉢植えが吊るされ、そこからこぼれるように伸びたグリーンが風にそよいでいる。ここだけまるで、日常から切り離されているようだ。
かなり広い庭だけれど、どの植物にもちゃんと手入れが行き渡っていることがわかる。葉はみずみずしく張りがあり、枝先まできちんと手入れが行き届いている。奥を見ると、OPENと書かれた看板に木製のドアが見える。そのすぐ横にはメニュー表らしき看板も立てられているのが見えた。どうやら人が住む家ではなく、お店のようだ。
「お茶も出す花屋ってところか?」
ここまで足を進めさせた甘い香りもどうやら、このドアの先に続いているらしい。『花想香』と書かれたプレートを横目に木製のドアを勢いよく開ける。チリチリとドアの上に付いていたベルも負けずと大きく鳴った。
「うおっまじか」
思わず口をついて出た。扉を開けた瞬間に飛び込んできたのは、まさに植物の立体アート。自分の背丈にも届きそうな観葉植物が静かに葉を揺らしながら出迎えてくれる。頭上を見上げれば、高い天井に吊るされたドライフラワーがリースのようにかけられ咲き誇っている。壁際には油絵で描かれた花の絵画がずらりと並び、店内のあちらこちらに置かれた花瓶の中で、一輪の花々が生き生きと呼吸をしている。店内いっぱいに甘い香りが漂っていて、どうしてか懐かしい気持ちにさせられた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きなお席に」
「あ、ども!」
店主の声に軽く会釈して、店内をクルリと見渡しながら歩いてみる。どこを向いても植物と目が合うもんだから少しドキドキする。
ラウンドテーブル、ふかふかのソファ席、そしてカウンター。さらに店の奥には階段がL字に伸びていて、どうやら二階もあるらしい。どこに座ろうかと迷った末にソーサーを拭く店主のいるカウンターに腰を下ろした。近くの小さな丸窓から光が差し込み、窓辺にちょこんと座ったサボテンが「ようこそ」と微笑んでいるように見えた。
「あの、花屋併設のカフェ、みたいな感じっすか?」
尋ねると、店主はゆっくりと頷きながら答えた。
「植物をモチーフとしたお飲み物やお食事を提供しております」
「へぇ〜なるほど」
「学生さんですか?」
「そうです! 大学に向かう途中だったんすけど、爆睡して電車降り損ねちゃって」
「ふふ、ぼくもよくやりました。目を開いたら知らない景色が広がっていて、早く戻らなければならないのに、気づいたら改札をくぐってて……」
「まさにそれっす! 運命的にココにたどり着きました」
「それはそれは」
店主はすっと通った鼻筋に柔らかな目元をしていて、笑うとその目元がくしゃっとなる。真顔は好青年って感じだけれど、笑うと幼さも垣間見えるような、花みたいな人だ。もし、大学にいたら女子が放ってはおかないだろう。いや、男子だって虜になるかも……?
「どうかされました?」
「あ、いや、なんでも。すんません。っていうか、なんか甘い香りしてません? この香り、なんですか?」
そう尋ねると、店主はふっと目を細めて「ああ」と頷き、人差し指をそっと立てた。
「キンモクセイでしょうか」
「きんもくせい?」
「はい。少しお待ちください」
店主は店奥に入り、ほどなくして甘い香りとともに戻ってきた。
「お客さまの仰っていた香り、こちらではないですか?」
そう言って、透明なティーカップを差し出した。夕日を浴びた海のように透き通ったべっ甲色の液体がゆらりと静かに波打つ。立ち上る湯気とともに鼻先をくすぐる香りがやってきて、どうしてか胸の奥がぎゅっとなった。
「キンモクセイの花を一つひとつ摘んで丁寧に枝を取り除き、台湾の凍頂烏龍茶とブレンドした“桂花茶”です」
「けいかちゃ?」
「はい。キンモクセイの花だけを乾燥させた香り高いお茶なんですよ」
カップを手に取り、そっと口元に近づける。グッと濃厚な香りが鼻を抜ける。ひと口すすると爽やかなお茶が喉元を駆け抜けていく。あとから、ほんのりと甘さが追いかけてきて、忙しない日々からふっと解き放たれ、自分と静かに向き合えるような——そんな、心がほぐれる味だった。
「……うまい」
気づけば、言葉がこぼれていた。
「よろしければ、合わせてどうぞ」
つづいて出されたのは、小皿に乗ったキンモクセイ色の花和菓子。拳の半分ほどの大きさで、一口で食べるには少し大きいくらいだろうか。まるでキンモクセイの花がそのまま大きく膨らんだようだ。
「キンモクセイをイメージした和菓子です。栗とあんこを使用しています」
「すっげぇ、かわいいっすね」
「自信作ですから」
店主は得意気に鼻を鳴らして、どうぞと右手を差し出した。その手に導かれるまま、ひと口。和菓子が舌の上でそっとほどける。栗のやさしい甘みと、あんこの奥深い風味がじんわりと広がり、口の中が一気に秋に染まっていく。滑らかな舌触りに目を閉じると、浮かんできたのは懐かしい縁側の風景。ジイちゃんが縁側に腰を下ろし、笑いながら庭を指差している。そこには、秋になると橙色の小さな花を咲かせるキンモクセイの木が立っていた。甘くてやわらかな香りが、風にのって頬を撫でていた。
ああ、そうだ。ずっと心の奥でくすぶっていた懐かしさの正体は、あのキンモクセイの香りだった。レモンの香りと風に乗って運ばれてくるキンモクセイの香りに包まれながら、ジイちゃんの膝の上に座る時間が大好きだった。香りには思い出が宿るって言うけれど、本当だったんだな。
「キンモクセイの花言葉を知っていますか?」
店主の声にハッと我に返る。
「うーん、なんだろう。可憐……とか?」
「たしかに、小指の爪ほどの小さな花はとても可憐ですよね。でも、違います」
店主は少し微笑んでから、静かにつづけた。
「謙虚、初恋、そして『気高い人』——そんな花言葉があるんですよ」
「気高い人?」
「はい。人柄が優れていて品格が高い人のことです。私はキンモクセイの香りに包まれると自然と背筋が伸びて、指の先まで仕草が丁寧になり、心に余白が生まれる気がします。自分自身が洗われるような、そんな感覚になるんですよね」
「ああー……なんとなく、わかる気がします」
ジイちゃんの膝の上に座ると勇気が湧いた。いつかおれもジイちゃんのような立派な手を持つ大人になれるんだって。ジイちゃんはよく、鼻息荒く未来を語るおれの頭を大きな手で撫でながら、『マセガキが』なんて目尻を下げて笑っていたけれど。あの手は、まっすぐで、あたたかくて。いつか、俺も誰かに勇気や自信を与える手を持ちたいと夢見ていた。
そうか、自分には目標もやりたいことも、なにもないって思っていたけれど昔から実は“持っていた”のか。
「お師匠、俺を弟子にしてください!」
気づいたら言葉が口をついて出ていた。驚いたように店主が瞬きをする。
「思い出したんです。この手で“誰かにポジティブな想いを届けられる人”になりたいって。たとえば香りって、人の気持ちや記憶をそっと掘り起こしてこころに寄り添ってくれますよね。本人が忘れていても、香りがそっと思い出を呼び起こして抱きしめてくれる。俺、キンモクセイの香りを嗅いで、お茶と和菓子を舌を感じて、なんかぶわっと感情が昂って……! こんな風に俺も、ポジティブな感情を思い出すきっかけを与えられる人になりたいんすよ!!」
やさしい気持ちになれる日常が、ひとつでも増えるように。悲しみや辛い気持ちをちょこっとでも忘れられるように。そんな手伝いができたら、きっと人生はもっと豊かになる。「無駄だな」とか「こんなの意味がない」と自分が生きている大切な時間に唾を吐きたくなる瞬間だって、きっとやさしく溶けていくはずだ。
カウンターに乗り出して、じっと店主の瞳を見つめる。
しばらく沈黙のあと、店主はふっと目元をゆるめた。そして、静かに、穏やかに笑みを浮かべた。
「イヤです」
「えっなんで!?」
「弟子とってませんし」
「えぇ!? 今から取りましょうよ!」
「えぇ〜。それに君のこと、なにも知りませんし」
「それは、たしかに!」
ぽすんと、尻をカウンターの椅子に落ち着ける。んんっと咳払いをして、ほとんどなにも入っていないぺしゃんこのリュックから学生証を取り出して、「こういうものです」と両手で差し出す。店主は自分用に淹れた桂花茶を口につけながら興味のなさそうな顔で学生証を手に取った。
「長所は明るく元気なところ、短所は後先考えないところで、趣味はカラオケ、特技はレモン料理っす」
「レモン料理?」
呆れ顔で見つめていた店主が、ふっと目を丸くする。これはアピールチャンスと舌をなめて、スマホの写真フォルダを開いた。
「うち、ジイちゃんがレモン農家なんすよ。で、めっちゃレモンが送られてきて。だからレモンを使った料理はまじで得意っすよ。ほら見て、塩レモンのねぎだくチキンとか牛肉とレモンのオリーブソース和えとか。あっこっちはスイーツ! レモンパイでしょ、レモンカステラでしょ、これこれ俺の十八番のレモンキャラメルタルト。自家製レモンカスタードにキャラメルクリーム絞ってるんすよ」
「ふむ。君、なかなかやりますね」
「だろっ!? なあ、どうっすか? 俺、役に立ってみせます!」
店主は顎に手を当てる。しーんと静まりかえった店内にキンモクセイの甘い香りがふわふわと漂い流れていく。その甘さを吸い込んで、ゆっくり吐いて。何度も繰り返される波打ち際で、店主の声をじっと待つ。
ぱちり、と店主と目が合う。凛とした瞳が心の奥底を見定めるように俺を貫いていった。
「ぼくの指導は厳しいですよ。ついてこれますか?」
「もっもちろん!! 望むところです!!!!」
ガッと胸の奥が熱くなる。燃え上がるように熱い。背筋をしゃんと伸ばし、拳をグッと握る。胸の奥に閉じ込めていた思いがやさしい香りに包まれて、今まさに花ひらいたようだった。
「ただし」
ぴしゃり、と浮ついた心に言葉が跳ねる。
「一つ、条件があります。『花想香』は、人が心の蕾をひらける場所になりますように、『きょうは、なにをはなそうか』と対話を楽しめる場所でありますように、そう願いを込めて日々育てている場所です。君は自分の保身だけでなく、お店のコンセプトを守り育み、来られたお客さまを大切にするこころの花を咲かせ続けられますか?」
真っ直ぐな瞳。ごくり、と唾を飲み込む。今朝、寝坊をしてしまった自分を強く強く抱きしめる。
ありがとう。寝坊して、電車を寝過ごしたおかげで、きっと自身の人生を左右することになる大きな節目に出合うことができた。燻っていた心の芽に水を注ぎ、めきめきと葉をつけ茎を伸ばし、その蕾をひらかんとする太陽に負けないように、もう一度強く拳を握り、ドンッと胸元のこころに打ち付けた。
「はい、必ず咲かせつづけます」
しばらく沈黙のあと、店主はふっと目元をゆるめた。静かに、穏やかに、でも今度はニッと悪戯でも仕掛けるような子どもっぽい笑みを浮かべた。その表情にドキッとする。お前自身はどんな花を咲かせるんだ——と試されているようにも見えて、俄然、こころの奥が昂った。
「いらっしゃいませー。おや、嬢ちゃん。おひとりさまですかー?」
いつもの場所でじっと屈んでいると、木製のドアがチリチリとベルを鳴らして開いた。自分の姿を目に入れるや否や腰をかがめてニッコリ微笑んでくる青年を無言でじっと見つめる。猫目の黒い瞳にくるりと上がった睫毛。ダークグレーの前髪の一部分には金色のメッシュが稲妻のように光っている。
“いつもの魔法使いさん”じゃない。
「あんただれ?」
ゆっくりと立ち上がって、じりじりと少し後ずさる。背負っているランドセルの柄を両手でぎゅっと握った。
「え? 俺は、ここのカフェ『花想香』の新米スタッフです」
「新入生ってこと?」
「うん、そんな感じ。もしかして嬢ちゃんは『花想香』によく来るの? 以後、お見知りおきを〜」
たしかに、よく見れば魔法使いさんがいつも着用しているエプロンとよく似たものを着ている。あぶないひと、ではないのかもしれない。でも、これじゃあ意味がない。あたしが会いに来たのは魔法使いさんなのに。
「んで? ここでなにしてんの? ひとり?」
「おひとりさまじゃないんだけど」
「ああ、えっと。ごめんごめん。お友達がいるのかな? それともお母さんとか?」
「いない。あたしは、ひとりぼっちさまです」
「あっ、ちょっと……!」
腰をかがめる青年を押しのけるように店内に入る。チリチリといつもの音がなって、ふわっと花の芳香が鼻に抜ける。正面奥にある階段を登って、赤いランドセルを肩から外しながら、芝生を模した絨毯が敷かれたスペースに転がるようにダイブする。今日も魔法をかけられたくて——。
・ ・ ・
おうちから続く長い長い一本道を下ると見えてくる、魔法のお屋敷。普通のおうちとは少し違っていて、屋根も壁もドアも全部が植物でできている不思議なおうち。通学路を少し外れた途中にある魔法のお屋敷を門限ギリギリまで眺めてから帰るのがあたしの日課だ。お屋敷の庭では、背の高い草木が風に揺れて笑ったり、ピンクや黄色、水色や紫色など、あたしが持っている絵の具じゃ足りないくらいたくさんの色をもったお花がニコニコと微笑んだりしている。みんな、他人のあたしを快く迎えてくれるみたいで心がほっと癒やされる気がした。
そうやって毎日眺めているうちに、魔法のお屋敷には時折大人が出入りしていることに気がついた。いらっしゃいませとか、ありがとうございました、とか声が聞こえてくる。もしかしたら魔法のお花を売っているお店なのかもしれない。気になるけれど、尋ねる勇気はなかなか出ない。だから、あたしはいつも、ひっそり、こっそり、魔法のお屋敷の植物を眺めて楽しんでいた。
そんなある日のことだ、魔法使いに見つかったのは。
その日は、どうしても家に帰りたくなくて、「もっとお花を見たいから」「お花が呼んでる気がするから」と自分に言い訳をして、こっそりお屋敷のお庭に入って、大きなプランターの物陰に隠れながら花々を見つめていた。いつもはもう少し遠目から屋敷を眺めているだけにダイレクトに鼻の奥に流れてくるお花の香り、お花の揺らぎは美しくて愛らしくて、いつまでも見つめていられそうだった。両膝を抱えるように両手を抱いて、その腕に顔を寝かせて、なにをするでもなく、ただ眺める。
「このまま時が止まればいいのに」
家に、帰りたくない。べつに親と喧嘩したわけじゃない。特別なにか罵られたり、暴力を振るわれたりしているわけでもない。でも、あたしが帰るとママとパパはいつも喧嘩している。なにを口論しているのかは知らない。二人はあたしになにも言わないし、「おかえり」とそのときだけは口をそろえて笑顔で迎えてくれるけれど、隣の部屋から漏れ聞こえてくる喧嘩の声を聞きながら一人で食べる夜ご飯は、苦くてしょっぱい。
一度、あたしの名前が口論のなかであがっていたような気がして、それからは余計に苦しくなった。テストで百点を取ってみたり、リレーで一番になってみたりもしたけれど二人の仲は変わらない。
「お出かけしたい」とおねだりすれば、二人はあたしを連れて遊びに出かけることも多々あったけれど、二人はいつもすれ違っているように見えた。あたしを中心にしか会話をしないし、帰り道になると堰が切れたように二人はバラバラになる。大股で早足のパパはママを置いて、どんどんどんどん先へ進んでしまう。ママはパパを気にもせずマイペースにゆったり歩く。三メートル、五メートル、十メートル、十五メートル……。二人の歩幅はどんどん開く。パパについていったらママが可哀想。ママについていったらパパが可哀想。そんなことを思っているうちに、あたしも一人で歩くことが増えた。パパとママのちょうど中間あたりの位置を歩く。ただ仲良くしてほしいだけなのに。
もし、あたしのせいで喧嘩しているのなら、あたしはきっとここにいないほうがいい——。
そんな想いが積もりに積もったときだったのだ。じっと花々を見つめていた視線の先で、なにもなかった空間に突然に花が咲いた。白と紫がマリアージュした不思議な色合いのお花が白いベールのリボンにかけられて。
「ようこそ、お嬢さん。お近づきの印に」
その言葉にはっと顔を上げれば、雪のように真っ白な肌にマスカットが埋められたチョコレートのような色をした瞳がこちらを見つめていた。目が合うと、その瞳はゆっくりと細められ、目尻に少し皺が寄った。目の前に咲いた花束をそっと受け取ると、嗅いだことのない甘い香りがすっと身体のなかに入ってくる。なんだかよくわからないけど、その香りが心のなかのすごくすごく柔らかい部分に入り込んできて、あたしはたまらず泣いてしまった。
なぜ、泣いているのか。悲しいのか、嬉しいのか。自分がどんな感情なのかまるでわからない。方向感覚のないまま宇宙をふわふわと漂っているような、そんな感覚。どうしたら良いかわからなくて、あたしはただひたすら花束を抱きしめて、その花びらに涙の水滴を落とすことしかできなかった。
「ううっ……」
しばらくそうしていると、顔を下げていた視線の先に今度はブーケを手渡してくれた長い指先がそっとあらわれる。指先は、ワン、ツー、スリーと静かにカウントする。すると——。
「わっ」
ぱっと、突然手のひらからお花の咲いたドーナツがあらわれた。思わず顔を上げれば、優しいまなざしのまま、マスカットチョコレートの瞳がニコリと微笑んだ。
「食べてみますか?」
こくん、と言葉を発さずに頷くと、包まれていたビニールの先を開いて、食べやすいようにドーナツの顔を半分出して手渡してくれた。
「チョコレート味のドーナツです。表面をコーティングしているのは桜で色付けしたホワイトチョコレート。その上で咲いているのは、パンジーというお花なんです」
その説明に、うんうんと頷くことで合図をしてパンジーごとかぷりっと齧った。ホワイトチョコレートがパリッと弾けると、ふんわりと花の甘い芳香がやってくる。そのあとやってくるのがもちっとした食感。もきゅもきゅとリスみたいにほっぺを膨らまして咀嚼すれば、ホワイトチョコとシュガーの甘さが代わる代わるにやってきて、美味しさに心がきゅんっと跳ねた。
「おいしい」
小さく小さくつぶやくと、その声が届いたのか、頭上でふっと笑いのような声が漏れ聞こえる。
「お褒めいただき光栄です」
もぐもぐとドーナツを頬張っている間、お兄さんは乾いた土の表面に銀色のじょうろで水をあげたり、痛んだ葉をやさしく取ったり、時折花々を撫でるようにやさしく触れて、会話でもするようにお手入れをしていた。あたしはその様子を、ほっぺをもごもごと動かしながらじっと見つめていた。
ドーナツを食べ終わって、ブーケを抱いて立ち上がる。
「あ、あのっ……ごちそうさまでした」
「いえいえ。お粗末様でした」
ぺこり、と頭を下げると、同じようにぺこりと頭を下げられる。そこで、思い切って口を開いた。
「あのっお兄さんは花屋さんですか? ドーナツ屋さんですか? それとも魔法使いさんですか?」
「……魔法使い?」
お兄さんはわかりやすく首を傾げる。あたしは、身振り手振りしながら答えた。
「えっと、ブーケとドーナツ。お兄さんが手でぱってやったら、一瞬のうちに、またぱって、魔法みたいに出てきたから」
「ふふっ。なるほどたしかに。ぼくは、どこにでもいる普通の店主ですよ。でも、」
そう言うと、お兄さんは両手を顔の前にかざしたかと思うと、どこからかぱっと花の刺繍がされたハンカチを取り出した。そして、それをそっとあたしの頬に当てると、涙で濡れた跡をやさしく拭き取っていく。
「今だけは、君を笑顔にする魔法使いとでも名乗っておきましょうか」
——あの日から、どうにも心の奥が困ったときは、こうしてここに来ることにしている。ここに来れば、家に帰りたくない日も、心がいっぱいいっぱいになった日も、いつだって魔法で癒やしてくれるから。色とりどりの愛らしいお花に囲まれて、魔法使いさんの魔法にかけられれば、涙を流した夜も忘れて、ひとたび笑顔になれるのだから。
それなのに。新入生がいるとは、聞いていない。
「いらっしゃいませ」
耳馴染みのあるテノールの声が聞こえて、振り向く。そこにはあたしの魔法使いさんと、さっきの知らない稲妻メッシュの男の人。
「あっ魔法使いさん! だれですか、あの人」
「おいおい。お子さま、指さすんじゃねえよ……ってなに、お師匠は魔法使えるの?」
「こら。人に向かって指をさしてはいけませんよ。そして、あなたはお客さまになんて言葉遣いをしてるんですか」
「あっ……ごめんなさい」
「す、すんません」
魔法使いさんはにこりと微笑むと、あたしの前に屈んでメニュー表を手元に開いてくれた。
「お久しぶりの来店ですね」
「うん、あっはい……!」
「今月もおいしい花言葉をご用意していますよ。ゆっくり選んでくださいね。ぼくは下準備があるので、オーダーは彼に。少し言葉遣いが野蛮ですが、まぁ害はありませんから」
「ちょっと野蛮ってお師匠ぉ……」
魔法使いさんは、ぽんっと稲妻メッシュの肩を叩くと、さっさと階段を降りていく。もう行っちゃうの、なんて甘えた心が顔を出す。見えなくなるまで魔法使いさんの背中を追いかける。頭の先まで見送ってから、少し心の奥がしょぼんとしぼんだのを感じた。
指をさすなんて、よくないところを見せてしまった。子どもっぽいし、まあ十分子どもだけれど、あたしだって来年にはランドセルを卒業するくらいには成長しているんだ。ちゃんとしなくっちゃ。
ふと、視線を感じて顔を上げると、稲妻メッシュとぱちりと目が合った。
「別に、怒ってないと思うぜ?」
「……怒ってるなんて思ってないし」
「あっそう? んで、なに頼むんだ?」
稲妻メッシュがテーブルに置かれたメニューをコンコンと叩く。魔法使いさんとは違って、ゴツゴツした指先だ。
「あ、これ。これがいい。『私を想って』」
「かしこまり〜」
「……あんたそんなんだと、また魔法使いさんに怒られるよ」
「なんなの? その魔法使いって」
「あんたに関係ないし」
「あっそう。……俺も使えるけどね? 魔法」
稲妻メッシュはそう言ってにやりと笑うと、右手の人差し指と親指を掲げて、パチンッと鳴らした。その瞬間、ふわりとレモンによく似たフレッシュな香りが漂ってくる。一瞬にして、二階中に爽やかな香りが溶け込んだ。
「……ごほん。お客さま、オーダー承りました。心をリラックスさせるレモングラスの香る草原にて、羽を伸ばしてお待ちくださいませ」
これまでは、二階にこんな香りが漂うなんてことはなかった。少し甘みがあるけれどさっぱりしていて、肩の力が抜けていく感覚がある。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。
ゆっくり息をすると、なんだか心の奥で張り詰めていた緊張の糸が解けたような気がした。稲妻メッシュをちらりと見れば、一つウインクを残して階段を降りていく。
「魔法使いさんの弟子なのかな。お師匠って呼んでたし」
『怒ってないと思うぜ?』さっきの言葉を頭の中で反芻する。
……怒ってるなんて、思ってなかった。本当に。でも、呆れちゃったかも、とか。嫌われちゃったらどうしよう、とか。そんなことは思ったかもしれない。だって、ママもパパもいつの間にか喧嘩していたから。小さなマイナスがどんどん重なっていつか大きな壁になる。気付いたときには、もう遅い。小さな歪みができたそばから改めないと、取り返しのつかないことにきっとなってしまうから。でも——。
レモングラスの香りが鼻先をくすぐる。さっきより、少しだけ甘くなった気がして、よく感じたくて目を閉じた。爽やかなレモンの香り。ほんのり混じる草の香り。窓から流れる風の香り。それらを吸い込むと、心のなかに魔法の香りがじんわり広がる。
──ここだけは、自分がいてもいいんだって思える。なにかを求めなくても、がんばらなくても、ただ、こうしているだけでちゃんと呼吸ができる。家よりも居心地が良い場所があるなんて、おかしいことなのかもしれないけれど、それでもあたしは魔法にかけられたくて何度だって通ってしまう。ここがなければ、今頃きっと涙の海に溺れていた。
こつこつ、と人が階段を登ってくる音が聞こえて身体を起こした。ふわりと、芳香なバターの香りも漂ってくる。今日の魔法使いさんのスイーツはなんだろうか。
「お待たせいたしましたぁ」
「なんだ弟子か」
「“なんだ”って、なんだよ。俺の魔法も良かったろ?」
「うん。……まあまあだけどね」
「そっか」
得意げに鼻を鳴らしていた顔がふっと緩む。それから、ニッと音でも聞こえそうなくらいな笑みを向けられて、思わず顔を逸らした。
「さあ、お待ちかね。本日の花言葉『私を想って』でございます。パンジー畑のシュプリームクロワッサンをご用意いたしましたよっと」
目の前にそっと置かれたお皿から、あま〜い香りがふわりと立ちのぼる。ふっくらと焼き上げられたクロワッサンは、表面がほのかにラベンダー色に染まり、まるで朝露にぬれた花びらのように輝いていた。その上には、色とりどりの食用パンジーがやさしく散らされ、まるでクロワッサンがパンジー畑の丘で寝転んでいるみたいだった。
「いただきます」と小さくつぶやいて、かぷりと齧りつく。サクッとした食感のあとに花の香りと甘酸っぱいクリームが口いっぱいに広がる。中には、ほんのり紫がかったベリーのクリームがたっぷりと詰まっていた。
「……おいしい」
「魔法使い特製だからな。うまいに決まってるぜ」
そう言いながら稲妻メッシュは、“うきうき”と顔に書いた表情でわたしの前に座ると、にんまりと笑った。
「パンジーの由来知ってる? 語っていい?」
「えー? まあ、知らないし良いけど」
「よし。あのな、パンジーってフランス語のPensées(パンセ)って言葉からきてるんだってさ」
「パンダ?」
「ちがう、パンセ。パンセってのは、物思いって意味。うつむくように咲く姿が物思いにふける人の顔みたいで名付けられたらしいぜ」
「ふうん?」
そう言われて、クロワッサンの上で寝そべるパンジーを見る。たしかにパンジーの花びらの模様は人の顔っぽいところがある。言われてみれば、その表情は心の奥に本音をしまいこんで誰にも見せずに抱えているみたいにも見える。今のあたしと、少し似ている。
じっと見つめていると、頭の上にどすんと重力がかかる。ゴツゴツした大きな手のひらが頭の上でゆっくり左右に動いていた。がしがしと荒くて、でも痛くはなくて、胸を奥がぎゅううってなる手だ。
こんなふうに頭を撫でられるのなんて、いつぶりだろう。
「“ひとりぼっち”だなんて、決めつけるには早すぎんじゃねぇの」
あたしは、返事をしなかった。でも、こころの奥がまた、きゅううっと鳴ったのを感じる。
「君はまたお客さまにタメ口を使って……」
「やべっお師匠いつからそこに!? あ、俺あれだ。お花たちの水換えをしないと。そうだった、そうだったー。やってきます!」
不意に軽くなった頭を上げて、店の奥へ逃げるように走っていった稲妻メッシュの背中を思わず追いかける。撫でられていた頭にふれると、ごつごつとした手のひらの感触が、まだそこに残っている気がした。
“ひとり”って、なんだろう。あたしはまだ、“ひとりぼっち”じゃないのだろうか。答えはわからないけれど、さっきよりほんの少し世界がやわらかく見えた気がした。
「すみませんね、うちの新人が」
やわらかな声がして、ふと顔を上げる。気づけば、あたしの目の前に魔法使いさんがいた。いつものやさしい穏やかな表情に、ほっと安心する。
「ううん。……やさしいお兄さんでした」
思わず口からこぼれた言葉に自分でも少し驚く。でも、嘘じゃなかった。
魔法使いさんはふわりと笑うと、片手に持っていた銀のトレイを静かにテーブルへ置いた。目の前に差し出されたのは、透きとおるガラスのティーカップに注がれた青紫色をしたハーブティー。カップの上にあふれるように、こんもりと乗っているのは大きな白いわたあめ。その表面にはいくつもパンジーが花を咲かせている。
「では、そんなやさしいお嬢さんへ。わたあめバタフライピーをお召し上がりください」
「かわいい!」
魔法使いさんに小瓶を手渡される。半透明の液体が入ったそれを、わたあめのパンジー雲にかけるらしい。
少しずつ小瓶を傾ける。青紫のハーブティーにわたあめが少しずつ溶けてゆく。すると不思議なことに、ハーブティーの様子がみるみるうちに変わっていく。青い海に太陽の光が差すようにピンク色の軌跡ができたと思ったら、次第に青全体を包みこんで、鮮やかな赤紫色へと姿をかえる。
「生きていると、ブルーな気持ちにもなりますよね。ですが、こうして魔法を注いであげると、ちゃんとこころに温もりの色が戻ってくるんですよ」
「さっきはブルーだったのにピンク色になったよ! すごい! きれい!」
「ふふっ。それは、お嬢さんのこころがやわらかくなった証拠ですよ。やさしい人でないと、このピンク色は見えませんからね。さあぜひ、飲んでみてください」
そっと手を伸ばしてカップを持つ。甘さとハーブの香りがゆっくりと喉を通り抜けていく。こくり、こくりと喉を鳴らすたびにあたしの中に溶けこんでいく魔法——。
ピンク色の海のなかでは、パンジー雲に乗っていたパンジーたちが、今度は波乗りするみたいに流れに乗っていた。物思いの表情は変わらないけれど、今この瞬間を楽しんでいるように、波に乗ってくるくるまわったり、ゆらゆら浮かんだりしている。
そっとカップを置いて、ちいさく深呼吸をひとつ。
いま自分が置かれている状況を悲しんで、人生をつまらないものにしているのは、実は自分自身なのかもしれない。悲しいことや辛いこともあるけれど、こうして『花想香』に来ている時間は楽しいし、毎日・毎時間・毎秒がずっとずっと苦しいわけじゃない。カップのなかのパンジーだって、まだ物思いに耽っているような表情はしているけれど、くるくると回る様子は楽し気で、自分で自分を楽しませているように見える。
「魔法使いさんは、悲しいことや辛いことに遭遇したことはありますか?」
「そりゃあ、もちろん。花が咲けば枯れるように人生は美しいばかりではありません」
「そっか」
「悩まない人なんていませんよ。まあ、たまに、悩みなんてこれっぽちもなさそうな人がいますよね。ほら、そこの庭を掃除している新人なんてその代表格ですよ」
窓の外を見れば、庭で花を世話する稲妻メッシュの姿があった。一面に咲く花々にホースでシャワーのように水を浴びせている——と思ったら、手元をあやまって自分の顔に水がかかり、驚いたはずみで尻もちをついていた。「うわあ」と魔法使いさんが心底引いたような表情をする。稲妻メッシュのおっちょこちょいぶりも、魔法使いさんのそんな顔も見たことがなくて、思わず笑ってしまった。
「ふふふっ。たしかに、あのお兄さんは悩みなんてなさそう」
「ですよね。でもね、実はポジティブな人も悩むんです。ちゃんと悲しむし、傷つく。けれど、どうやって乗り越えようか考えるのが得意だからポジティブなんです。枯れた花を前に、ただ涙を流すのか、水をやるのか、光をやるのか、肥料をやるのか、選択は自分次第なんですよね」
「ああ、そっか。そっかぁ……」
にこりと、魔法使いさんが微笑む。その表情を見て、あたしもにっこりと笑い返した。
・ ・ ・
「お、帰んのか?」
『花想香』を出ると、まだ店先で稲妻メッシュがお花の手入れをしていた。ホースの水やりは終わったようで、花の状態を一つひとつチェックしているようだ。お花が太陽の光を浴びれるように、時間帯によって配置を変えるお花もあるって、前に魔法使いさんが言っていたっけ。
大きな手のひらが、葉をやさしく撫で、花びらにそっと触れていた。
「……うん? どうした?」
黙っているあたしを見て、稲妻メッシュ……否、魔法使いの弟子さんが腰を折る。目線が近づいて、子どもみたいに首を傾げる。よくみると前髪が少し濡れていた。
「さっき、顔に水かけてたでしょ」
「えっ見てたの!? はずかし〜」
わざとらしく頭をかいて、濡れた前髪に触れる。「見て、濡れた〜」と眉を下げる様子が子どもみたいで、なんだかおかしい。あたしよりも、ずっとずっと大人なはずなのに。
「なーに笑ってんだよぉ〜」
「ま、魔法使いの弟子さん、手貸して」
「手? ほい」
差し出された手のひらを両手で掴んで、ぐんと引っ張る。そのまま、ぽすんと自分の頭の上に乗せた。魔法使いの弟子さんはされるがままに、「なになに?」と笑う。
「……撫でるの上手だったから、もう少し撫でさせてあげてもいいよ」
「ははっ。そりゃあ、どうも!」
魔法使いの弟子さんは一度大きな瞳をぱちくりさせてから、くしゃりと笑った。がしがしと荒っぽく、頭の上で手のひらが踊る。
「また来いよ」
「うん」
まだ“ひとり”の感覚からは抜けられないけれど、次は、“おひとりさま”のあたしで来よう。いくつもいくつも思考の根を張らせて、たまに魔法の水や光を浴びたら、いつか芽が出るかもしれない。まだまだ時間がかかりそうだけれど、いつか答えにたどり着ける気がする。それまでは、どうか、ここに通うことを許してほしい。
「魔法、またかけてね」
「おうよ。とびっきりのやつ用意しとくぜ」
ぼくの朝は、明け方四時にはじまる。セットした目覚まし時計を二、三度止めた末に、ようやく身体を起こす。ブランケットに半分包まれたまま、まどろみに引き込まれないようクンッと、ひと伸び。首を右へ左へストレッチして顔にかかる前髪を右手でかきあげる。紺地のカーテンを引いて窓を少しだけ開けると、夜と朝のあいだにある静けさが冷たい空気と混じり合いながら部屋に流れる。
今日も新しい朝を迎えられた。よかった。
電気ケトルでお湯を沸かしている間に、パジャマのままスーパーで買った安物のサンダルをつっかけて庭へ出る。夜露をまとった草花たちが、しんと目を閉じて、今日もそこにいてくれた。
「おはよう」
まだ眠っている花たちに、そっと声をかけながら葉の先を指でなぞる。挨拶をしながらゆっくりと庭を一周。花の大きさ、葉の付き方、好きに自由に咲くみんなをゆっくりと見渡す朝の時間が、たまらなく好きだ。
「みんな、きれいだね」
花の匂いを吸い込んで、吐き出す。
きょうも、生きてるなぁ。
深呼吸を繰り返したら、家の中へ。
ケトルがコポコポと立てる音を聞きながら、三段重ねにした洋服タンス代わりのカラーボックスに手を伸ばす。ブルーのクルーネックシャツに首を通して、下はグレーのカーゴパンツ。それから花柄のジャガードソックス。ついでに小箱から花のシルバーピアスを取り出して装着。今日は首元にもアクセントが欲しい気分。ピアスとおそろいのシルバーペンダントも身につける。これでよし。
ピーッとケトルが合図する。駆け足でダイニングに向かい、ガラス製のティーサーバーにアールグレイ茶葉を入れて、熱湯を注ぐ。美味しく紅茶を淹れるコツは、沸騰直後の百度のお湯を注ぐこと。ぬるすぎても、沸騰しすぎてもだめ。紅茶の香気成分をよく演出するには温度が欠かせない。今日は三分間蒸らして、いつもの二倍の濃さで紅茶をつくる。その間に深めのシャンパングラスを取り出して、フレッシュなオレンジジュースをグラスの三分の一まで注ぐ。さらにガムシロップを適量注いでマドラーでかき混ぜる。今度はオレンジの皮を剥いて、食べやすい一口サイズにカット。オレンジと氷をグラスからあふれる寸前までたっぷりと敷き詰めるように入れる。さあ、お待ちかね。蒸らしておいたアールグレイをグラスにそっと注いでいく。オレンジに広がるべっ甲のようなアールグレイの茶液がマーブルに交りあって溶けていく。この瞬間がたまらない。最後に、残っていたオレンジをグラスのふちに飾って、ローズマリーを飾れば完成。アールグレイ仕立て、オレンジとローズマリーのアイスティー。オレンジの甘酸っぱさとローズマリーの爽やかな風味がアールグレイの味わいをぐんと引き立ててくれる、朝にぴったりな目が覚める一杯だ。
「うん、おいしい」
さて、もう一品。温めたフライパンにバターを溶かして、食パンを一枚焼いていく。両面焼けたら、食パンの上にチーズとローズマリーの葉を適量乗せて、チーズがとろーり溶けたら完成。さいごに作り置きしておいたトマトとルッコラのサラダを取り出せば、モーニングのできあがり。
「いただきます」
ローズマリーは、少し料理に取り入れるだけで独特の香りが鼻を抜け、全身に爽やかな風を届けてくれる。“若返りのハーブ”とも呼ばれ、酸化作用や血流改善作用があるといわれているそうだ。そう聞くと、ついつい日々の食卓にも連れていきたくなってしまうもの。自然の力は、すごい。
朝食を終えたら後片付け。改めて身なりを整えて、鏡の前で前髪をオールバックにかきあげてスタイリング。
棚からいつもの作業用エプロンを手に取って——。
「あ、ほつれてる」
ポケットの端が少しほつれてしまっていた。小棚から裁縫セットを取り出して、さっと補修。『花想香』の開店時からずっと愛用しているエプロンだ、こうしてほつれが出るたびに修復して、着続けている。大切な相棒を首にかけ腰でひと結び。さて、お腹も見た目もこころも、準備万端。
庭に出るとさっきよりも明るくなった空が、草花の輪郭をやわらかく照らし始めていた。
ゆるやかな草花の朝の始まりは、まず水やりから。蛇口をひねり、ホースの先を調整しながら霧のようにやさしい水をまく。葉と葉のすき間を縫うように、思いやりをもって、丁寧に。眠りから目覚めたばかりの花たちを驚かせないように、語りかけながら、そっと。
「今日もきれいだね」
「午後は晴れるようだよ」
「きっと気持ちいいよ」
紫陽花の葉の裏に小さな虫を見つけて、そっと追い払う。昨日、咲いたばかりのビオラの花びらに指先で触れてごあいさつ。ポットに植えたばかりの苗の土の湿り具合もしっかり確認。今度はハーブの鉢の葉を少し摘んで、指先で軽くこすって香りを確かめる。ミント、ローズマリー、レモンバーム。どれも朝の空気と混ざり合って、背筋をしゃんとさせてくれる。
「さあ、カフェの開店準備に取り掛かろうか」
ひと通り手入れを終えた頃には、空はすっかり明るくなっていた。一つひとつに声をかけるように目をやりながら、庭をあとにする。ふと、背中に視線を感じて振り返ると、マリーゴールドがふわりと揺れていた。まるで、いってらっしゃいと手を振るみたいに。
カフェの鍵を開けると、夜のあいだにじっと息をひそめていた植物たちの気配がふわりと迎えてくれる。外の光がまだやわらかいうちに店内の空気を入れ替える。ドアと窓を開け放ち、風の通り道をつくると、カーテンの裾がふわりと揺れた。
「みんな、おはよう」
そう言いながら、観葉植物たちの葉に指先でふれる。まずは、レジ横のポトスから。葉に積もった細かな埃をやわらかなクロスでそっと拭き取って、霧吹きで葉の表面に細やかな水を吹きかける。同じように見えても葉には今日だけの表情がある。
生きているんだな。同じ時を、同じ空気のなかで、一緒に。
そう思えば一層のこと、丁寧に、ていねいに拭いてあげたくなる。
今度は大きな鉢植えのウンベラータ、モンステラ、エバーフレッシュ、アレカヤシたちの元へ。店の奥や窓際に配された観葉植物にも声をかけながら、葉の状態を見て、葉焼けや虫の気配がないかを確かめる。乾き気味の鉢には少しだけ水を足し、逆に湿りすぎている鉢は風を通しやすい場所へそっと移動する。
窓辺の花瓶に挿した生花は、昨夕のうちに水を替えたけれど、念のため水のにごりを確認する。少し水を足しながら、茎の先を少しだけ斜めにカット。ユリの花粉は開き始める前にそっと指でつまんで取る。うっかり服につくと落ちにくいから。
それから、壁を彩る淡い色のドライフラワーのスワッグへ。アジサイ、ユーカリ、スターチス。“色褪せた”なんて言葉は使わない。時間の経過をまとった美しい人生の色。やさしいそれらを壊してしまわぬよう、羽のようにそっとほこりを払う。
植物たちが整い、静けさのなかに整然とした命が笑う。花屋カフェ『花想香』が、ようやくかたちになってきた。
植物たちの機嫌を整え終えると、つぎは店内の空間へ目を向ける。まだ静かな誰もいないカフェ。けれど、今日も誰かがこの扉を開けてくれるだろう。その人の一日が居心地の良い環境であれるようにと気を引き締める。
まずはテーブル。布巾を一枚手に取り、木製の天板を一つずつ円を描くように拭いていく。カウンター席、二人がけの小さなテーブル、そして奥のソファ席。使い込まれた木の表面には朝の光がさざ波のように反射していた。
二階のお手入れも欠かせない。人工芝の床をナイロンのデッキブラシでブラッシングして、倒れた芝を立ち上がらせる。テーブルを同じように拭き上げたところで、思わずごろんっと寝転んだ。
「はあ」
空を描いた天井に吸い込まれそうになる。
ここに寝転ぶと癒やされる。今日もこうして、ゆったり、心地よく、過ごせていることを幸せに思う。幸福な言葉が空からこころへ舞い落ちてくる。いいことも、いやなことも、宇宙から見れば他愛もない小さな出来事で気にしているほうが馬鹿らしくなるものだ。
今日も草花たちとお客さまと、“今日”だけの“興”を堪能できますように。
つづいて、棚に並ぶカップたち。白磁のカップ、陶器のマグ、ガラスのグラス。ひとつずつ手にとっては柔らかな布で指紋やくもりを磨き取る。ガラスと陶器がわずかに触れ合う音が心地よい。
豆を挽く準備も欠かせない。コーヒー豆の袋を開けた瞬間、深い香りが一気に空間に広がる。焙煎したての苦みと甘みが溶け合った香りは、朝のスイッチになる。グラインダーに豆を入れ、静かに音が鳴り始めると、カフェが動き出した合図のように思える。
ミルクピッチャーを冷蔵庫から取り出し、エスプレッソマシンでスチームの準備をする。ポットに水を張り、ダージリンの茶葉も量っておく。
最後に、小さな黒板に今月の花言葉メニューを書く。今月は勢いで取ってしまった弟子のデビュー作がある。花はローズマリー。花言葉は『追憶』。メニューは、ローズマリーとフレッシュレモンのオリーブタルトだ。過去を振り返り、なつかしい想い出を思慕する時間にしてほしいという想いを込めているそうだ。
手さばきは安定していても、お客さまに出すメニューを考案することは初めてだと言う弟子と何時間キッチンにこもったことか。レモンの皮を削り、ローズマリーの香りの塩梅に迷い、幾度も焼き直しながら、ようやくたどりついた味。
「師匠……。きました。これっす。この味っすよ!」
興奮冷めやらぬまま差し出されたタルトは、まるで彼自身の過去が練り込まれているようだった。苦い記憶も、甘い思い出も、すべてを抱きしめて焼き上げた味。つい、ぼくもローズマリーの香りに包まれて追憶してしまった。
今までずっと“何者”かになりたくて、もがきながら生きてきた。それはもう濃い霧を両手でかき分けながら目的も見えず、いま歩いている地が道であるかも分からないまま、ひたすらに何かを求めていた。
幼い頃は人見知りで、注目を浴びることが嫌で、同級生であっても人と話すことが怖くて、教室で一人ずっと花図鑑を読んでいる子どもだった。自分でいうのも烏滸がましいけれど、綺麗な顔に生まれたことで周囲にはよく人が集まってきた。けれど、外見だけを見て集まる人、勝手に妄想してがっかりして去っていく人たちに疲れて、小学生にして「影に隠れて小さく生きていこう」と心に決めていた。
けれど、そんなぼくにも、だんだんと歳を重ねるにつれて、自尊心が生まれてくる。具体的な理由も理想もないけれど、なんとなく“なにかになりたい”、“なにかにならなければ”という気持ちが強くなった。それはたぶん、他人を見て「羨ましいな」という感情がよく芽生えるようになったからだ。誰とも分け隔てなく話せる人、話がうまい人、いつも人を笑わせている人、男女問わず友人が多い人、みんなを引っ張るのが上手な人、先輩や上司に気に入られてかわいがられている人。
ぼくも、誰かに見てもらいたかった。知ってもらいたかった。好きなってもらいたかった。外見じゃなく内面を。妄想のなかのぼくではなく、現実に生きるぼくのことを。
そのためには、人の記憶に残る実績が必要で、多くの人が振り向く功績が必要で、追いかけたくなる魅力が必要で、必死に必死にそれらを積み重ねることに心と時間をすり減らした。
人見知りだった過去なんて嘘のように、スケジュールは毎日予定でびっしりと詰まっていた。当時の友人からは「一カ月前に約束しておかないと会えないなんて、夜景の見えるレストランか」なんて揶揄されたものだけれど、それくらい仕事に勉強に遊びに毎日やることがいっぱいでタスクが渋滞していた。
どうしてそんなに予定を埋めようとしていたのか。いま振り返ると、きっと“寂しかったから”なんだと思う。世の中には、よく人から誘われる人間とあまり人から誘われない人間がいるのだけれど、ぼくは圧倒的に後者だった。空っぽな予定を埋めると、寂しさでぽっかり空いた心の穴を埋められる気がしていた。
そうやって必死に生きてきたけれど、ぼくのなかには、ずっと人見知りのぼくがいる。教室で花図鑑を読み、放課後に花壇の水やりをして、通学路の草花を見て帰る、あの日のぼくがずっと心の奥に住んでいた。
人に注目されること、大勢の前に立って喋ること、集団の輪を乱さずに振る舞うこと、郷に入れば郷に従うこと——。“何者”かになれるように努力をしたつもりだったけれど、ぼくは結局、人の雑踏のなかいつも独りで立ち尽くしていた。究極のところ、向いていなかったのだ。人の群れのなかで、仲間のように振る舞いながらも、誰に心をひらくでもなく、静かに息を吸って吐くだけの花。人の足で埋め尽くされたアスファルトの上で踏み潰されないよう気を張りながら時間が流れるままに生きる日々。
そんな毎日に疲れてしまって、ある日ぼくを支える太い茎がぽきりと折れた。葉はみるみるうちに萎れ、花びらは生気を失い、吹けば飛んで消える綿毛になった。
仕事を辞めて、SNSも全部やめて、フラフラしながら「もっと穏やかにいられる場所に行こう、もっと自分らしくいられる場所へ」と行き場を探したけれど、そんな場所は社会のどこにも見当たらなかった。
そこで、ようやく気がついた。そもそも“何者”ってなんなんだろう。そんなもの幻影にすぎないんじゃないのか。花が咲く前はちょっと楽しいように、いまのぼくが思う“ぼく”を探しながら、小さな喜びを摘んで生きていけば、いいんじゃないか。
“何者”じゃなくて、“ぼく”でいい。ぼくが、ぼくらしく生きる。それだけでよかったんだ。
「“ぼく”として咲ける場所がないのなら、つくればいい」と、最終的には花屋カフェ『花想香』というカタチでぼくのこころは花ひらいた。まだまだ未知な存在である、ぼくという人を『花想香』を通じて、もっともっと知って、いろんな花を咲かせられたらいいなと思う。
“追憶”。黒板に記した言葉を見つめながら、ほんのり口角を上げる。
想い出は時に苦しさを思い出させるけれど、同時に「いまを愛そう」と人をやさしくもする。この場所で誰かが『追憶』のタルトを口にしたとき、ふと懐かしい気持ちになってくれたなら、それはきっと彼の作品が誰かの心に触れた証なのだろう。彼のタルトが多くの人のこころに芽吹きますように。
黒板を書き終えると、布巾でチョークの粉を軽く払い、窓辺の特等席へそっと立てかける。朝の光が差し込むなか、白い文字が淡く輝いて見えた。
ドアにかかる表札をOPENにする。
さて、きょうはどんなお客さまが訪れ、どんな出会いがあり、どんな会話が生まれるのだろう。
さあ、きょうは、なにをはなそうか。
fin.
〜あとがき〜
人生バラ色だなんて、大嘘つきだ。
けれど、咲いたり、萎んだり、膨らんだり、枯れたり、また芽が出たり。
花のような毎日は、美しくて尊いもの。大切にたいせつに、育てて生きたいなと思う日々です。