heart essay
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好きに生きたらいいのに、という言葉は薄情に聞こえてしまうのかもしれない。
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空一面に隙間なく分厚い雲が敷き詰められた、湿っぽい昼どき。部活帰りの学生たちに囲まれながら錆びたコンクリートの階段を降りると、改札の向こうで久しい顔がこちらを見ていた。
高校から続く十年来の友だちと、その子どもだ。この間、会ったときはハイハイしていたはずなのに、しっかり両足で立っている姿に成長の早さを感じて、少し心の奥がキュンとしてしまう。友だちの子どもでそうならば母親になったらもっと心を震わすような感動に進化するのだろうか。
久しぶりの再会を果たした後、子どもは仕事終わりの旦那さんと一緒に帰宅するとのことで「またハルカと遊ぼうねっ! ハルカと! ねっーー??」と、盛大にじぶんの名前をアピールしながら手を振る(子どもに夢中になりすぎて旦那さんにほとんど挨拶しなかった気がして少し反省)。
覚えてくれたかどうかは分からないけれどニコッと微笑んでくれた表情に満足して、わたしと友だちは早速予約したイタリアンのお店へ。
プランターに入った色とりどりのお花が出迎えられ、カントリー風の小さなお店に足を踏み入れる。カウンターが3〜4席と、テーブル席が4つ程の小ぢんまりとした店内。1番奥の丸テーブルに通されて、二人して本日のパスタを注文する。
「戸建て派? マンション派?」
「なにか投資はしてる?」
「家計管理ってどうしてる?」
わたしと友だちは高校からの付き合いだけれど、いつの間にか“こんな”話をするようになっていて、二人してちょっと驚いた。友だちとの関係性も、ノリも、何も変わっていないのに、年月による環境の変化は確実にわたしたちが繰り広げる会話に影響を及ぼしていて、今更ながら“もう子どもではないこと”を思い知らされる。
そんな友だちは、これからのキャリアについて悩んでいるという。育休中の彼女だけれど復帰するか、転職するか、仕事を辞めるか、どの選択肢が最良なのか毎日頭を悩ませているらしい。単純に「自分がどうしたいか」を選ぶことができたら簡単だけれど、そうもいかないのが子育て中のキャリアなのだと。
復帰するなら時短で働くことになるけれど、時短で働けるのは子どもが小学生なるまでという期限付き(彼女の務め先では)。フルタイムでは働きたくないけれど、いつかは時短を抜け出さなければならなくなるジレンマがある。
くわえて会社は人手不足。時短勤務のはずが、管理職に促されフルタイムで働いている人も少なくないという……。
さらに言えば一度時短で復帰してしまうと再び産休に入る場合、時短の給与で手当が支給されることになるから、金銭的な収入が減ってしまうデメリットもある。純粋に「また働きたい」と思っても懸念事項がべっとりとその足を引っ張るのだ。
転職するという方法もあるが、新しい環境が苦手な彼女にとって、転職という選択はかなりの勇気と決心が必要だ。復帰であれば働き方のイメージをすることができるけれど、転職となれば仮説は立てられても現実に近いイメージをすることは難しい。
思っていた環境と違った、想像していた働き方と違う、なんて事態になったら……と思うと足も竦んでしまうだろう。転職活動をするハードルさえ高く感じているのに、実際に転職先を決めるとなったら彼女にとっては大仕事になるはずだ。
つまるところ、どんな決断にもリスクがあるし、メリットもデメリットもあってどう判断したら良いか分からなくなってしまっていると――。
自分一人であれば決断は簡単だけれど子どもがいることを考えると、金銭面・生活面のことも考慮に入れなければならないし、とにかく考えることがいっぱいあるんだそうだ。
話を聞いていて、たしかに難しい問題だな、と思う反面「好きに生きたらいいのに」という言葉が頭にふんわりと浮かんだ。
そんな簡単な問題じゃないと怒られるのかもしれないけれど、彼女の人生は、彼女だけのものであって、一度きりの人生をどう過ごすかは自由だ。
どんな選択を取ったって、きっと良いこともあれば、大変なこともある。その一度の判断で「成功」を引こうとせずに、少しずつより良くなるよう方向転換しながら進んでいったって良いはずだ。そもそも失敗のない完璧な人生なんてあり得ない。
だから色んな細かいことなんて全部置いておいて、自分がやりたいように、心が赴くままに、好きに生きたらいいじゃない、と思う。
好きなほうを選択して、ズレを感じたら修正して、また好きな方へ……って、そうやって生きても良いんじゃないかなって。
――そんなことを考えたりもしたけれど、子育てを経験していないわたしには見えていない景色がきっとある。そう思うと、わたしの言葉は無防備すぎて、薄情にさえ思える気もして、「難しいね」と答えることしかできなかった。
なにもできなかったけれど、大好きで大切な彼女が、これからも生き生き過ごせたら良いなと、切に願う。また会おうね。
『山田くんとLv999の恋をする』という漫画が、これまでのどんな少女漫画にも描かれてこなかった“真理の愛”を教えてくれた。
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『GANMA!』で連載中、ましろ先生によるラブコメ漫画『山田くんとLv999の恋をする』が好きで、好きで、たまらない。
こんなに好きになった漫画は、初めてだ。一度読んだら、そう読み返さないわたしが手元のファッション雑誌を捲るように何度も何度も何度も……何度も繰り返し単行本を開いては『山田くんとLv999の恋をする』の世界観に浸っている。
少女漫画だけれど、どこか少女漫画らしくない。王道でベタな展開がきそうでこない自然な日常と漫画ならではの特別な非日常が絶妙に混ざりあったストーリーが心を鷲掴みして離さないのだ。
ページを捲る手をたびたび止まらせる美しい絵柄。
キャラクターに語らせすぎない余白の上手さ。
ベタではないのに、読者が求めているものをドンピシャでくれる供給力……もう、ましろ先生の手腕が高すぎて「虜」なんて言葉で表現するのはもったいないくらいに、とてつもなく、好き。
好きなシーンは語りきれないほどたくさんあるのだけれど、なかでも1番好きなのは『GANMA! 第80話 くだらないよ』。
タイトル通り、茜ちゃんが抱えていた不安に対して「くだらないよ」と山田くんが一蹴するシーンだ。
一見、冷たそうに聞こえる「くだらないよ」という言葉。だけれど、これほど優しくて愛のある言葉なんてきっとほかにない。
だって「山田に嫌われたんじゃないか」と不安がる茜ちゃんの気持ちを知って山田くんが思うのは「嫌いになるわけがないのに、どうしてありもしない未来を思い浮かべるんだろう」という、疑問だから。
山田くんのなかで茜ちゃんが好きという気持ちは紛れもない事実で、覆ることのない真実で、全くの疑いようもない気持ち。
だから山田くんにとっては「なんだ、そんなことか」と「深刻なことじゃなくて良かった」と、安堵するような「くだらないこと」なのだ。
茜ちゃんが笑っていること。
山田くんにとって何よりも大切なことが守られるのであれば、他のどんな事柄だって些細なことでしかないのだ。
よくわからない恋愛映画に付き合うことも、好みではない香水を肯定することも、すべて些細なことだと言える山田くんの価値観がとても美しくて、そしてものすごく共感してしまう。
だって現実世界でも、その通りだと思うから。
じぶんが好きな人が笑っていて、しかも一緒に笑い合えていなければ意味がない。
どれだけお金があったとしても、高級住宅に住んでいたとしても、好きな人が側で笑っていてくれなきゃ意味がない。その他のことなんて、ほんの些細なこと。どうでもいい、とすら思えてしまう。
その証拠に、どんな時だって好きな人に話しかけられたら顔も体もその人を向いて言葉を受け止めたいと思ってしまうし、仕事中でもラジオを聴いているときでも、お気に入りのアニメがクライマックスを迎えていてるときでも、どんな瞬間でも好きな人になら遮られたって構わない。
だって、有限な人生の時間を1秒でも長く好きな人と過ごしていたいから。
昔、職場の上司に「彼の嫌なところ教えてよ」と言われたことがある。まったく美しくない質問だなと呆れてしまうけれど、そういう話題が好きな人だったから、わたしは何かあるかな、と少し本気で考えてみた。
だけれどこれが本当に一つも出てこないのだ。もちろん一緒に生活していれば、何かしら思うことは出てきていると思うのだけど、わたしにとってはほんの些細な出来事でしかない。どうでもいいちっぽけなことで記憶にさえ残らない。
だからこそ好まない匂いの香水でありながらも嬉しそうに笑う茜ちゃんの笑顔を見て嘘をつく山田くんに、わたしは心の底から共感してしまうのだ。そして茜ちゃんが別れ話をされると勘違いして不安がっていたときに、「くだらない」と一蹴できる山田くんに深く感心もしてしまう。
山田くんの価値観に共感しながら、その潔い行動に感心と尊敬の念まで抱いてしまうのだ。
だって山田くんと価値観が似ているからと言って、わたしは山田くんのようにクールで、気遣いができて、誰かを守ろうと動けるような人ではないから。山田くんよりも感情は激しいし、大雑把だし、虫がいたら我先に逃げるような小心者だ。
だけれど、今日をきっかけにもう1歩、思いやりのある大人になれたらいいなぁと思う。
大人になると学生時代のような節目のイベントもなくなって、成長の概念が仕事の力量によって測られがちだけれど、きっと内面だってもっと成長できるはずだ。
今までは「仕事の場でどう成長するか」ということばかり考えてきたけれど、これからは日常生活を生きる「ありのままのわたし」が好きな人をもっと笑顔にできる人になれるように、何かできることはないのか探してみたいなと思う。
とりあえず、後回ししてしまうクセを直してみよう。それから問題にぶつかってから考えるのではなく、ぶつかる前にスムーズに事が運ぶよう下調べができるようになろう。
ほかにもきっと、できることが何かあるはず。
でも、きっと正しい答えなんてない。日が経つごとに答えの形も変わっていくのだと思う。だけれど、少しでも前向きに変わろうと挑戦しながら生きていくことが思いやりのある大人へ近づく1歩な気がする。自己満足で終わる可能性もあるけれど、やらないより絶対やったほうがいいことだ。
まさか『山田くんとLv999 の恋をする』を読んで、こんなに深く思考するとは思ってもいなかった。とにかく、わたしの心に深く優しく突き刺さってきたこの作品を、わたしはこれからもずっと大切にしていきたいと思う。
ましろ先生、素晴らしい作品を生み出し続けてくれて本当にありがとうございます。ずっとずっと応援しています!
大型バスから一歩出て、足を地に着けた瞬間、ぴりぴりとした不思議な感覚が身を包む。
緊張のような、ワクワクのような、夢の世界ならではの刺激が足先から頭のてっぺんまでスッと通り抜けて、わたしは思わず息を吐いた。一歩踏み入れた瞬間、今日が楽しい1日になることを確信させてくれる。
“魔法にかかる”とは、まさにこのことだ。
今年で40周年を迎えるという人生の大先輩であり、幼少期の頃から幾度もお世話になっている東京ディズニーランド。
キラキラした世界に足を踏み入れたのは、たぶん4年ぶり。学生の頃なんかは、1年間のうちに10回以上もランドとシーを交互に行くような、年パスを買ったほうが確実にお得な日々を過ごしていたというのに社会に出てからはめっきり行く機会が減ってしまっていた。
いつの間に4年という月日が経っていたことに驚きつつも、いつ行っても、そして年齢をいくつ重ねようとも、変わらずキラキラと輝き続けてくれている安心感に「感謝」の感情が溢れ出てくる。
進化しながらも、当たり前のように居続けてくれることは本当に素敵で幸せなことだ。
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スパンコールめらめらのカチューシャをつけて、本日も調子に乗りながらランド中を練り歩く。
値段も見ずに食欲をかき立てられたフードにかぶりついたり、行きゆく知らない人と手を振りあっちゃったり、完全にお調子者。だけれど、ある意味で日頃押さえていたじぶんの欲望が解放されたような自由さもある。これもまたディズニーがかける魔法の片鱗なのだろうか。
しっとりしたクッキーがたまらないミッキー型のクッキーアイスに、耳までお肉たっぷりの40周年仕様のうきわまん、クレームブリュレチュロスにシュリンプクレープ、休憩がてらホットコーヒーも2杯、さらにポテトフライもいただいた。
なんでもない普通のポテトであるはずなのにディズニーという特別な空間で食べるだけで、なんだかとてつもない贅沢をしている気分になるから不思議だ。
むしろ“ディズニーに来ているくせにどこでも食べられるポテトを食べる”という状況がすでにもう贅沢。
ディズニーという「特別感」とポテトという「チープさ」のギャップが、わたしのなかの優越感をすこぶるくすぐるのだ。
だからこそ「ポテトにくわえてチキンナゲットも食べてさらなる優越感の境地へ身を委ねたい……!」と期待に身を揺らしていたのだけれど、一緒に行った友だちがメニュー表を眺めながら「お腹いっぱいでもう食べられないね」なんて言うものだから、優越感の境地は一瞬にして“食いしん坊の境地”に成り果てて、つい「だよねー」と忖度して注文できなかったことが悔やまれる。
ディズニーの魔法にかけられて自由を手にしたはずなのに、とつぜん忖度してしまったじぶんの小ささを感じて、なぜかチキンナゲットを前に少し落ち込んだ。
しかしそんな気持ちも、アトラクションに乗れば吹っ飛ぶもの。なかでも、ちっぽけなじぶんを愛そうと心を動かしてくれるイッツ・ア・スモールワールドは格別だ。
リニューアル前から好きだったけれど、とにかく「かわいい〜!」がいっぱい詰まっていて大好きだ!
しかも順番待ちしている間、うしろにいた小さな女の子が「このアトラクションって、せ〜かい〜はぁ、せ〜かい〜ってやつだよね!」と話していて、足から崩れ落ちそうなほど癒やされた。正解、もう大正解。
――と、ディズニーランドは結局わたしたちを楽しませてくれるからスゴイ。
これまで両手では足りないほどディズニーに遊びには来ているけれど、大人になった今でも何度だって、魔法にかけられたいと思ってしまう。
また、魔法をかけてね。
「普通」とは、何なのだろうか。
法律で定められているわけでもなければ、規則として決まっているわけでもない「普通」という概念。
辞書を引いてみると、下記のように書いてあった。
ふ-つう【普通】
読み方:ふつう
[名・形動]特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。
引用:weblio辞典
特に変わっていない。ごくありふれたもの。あたりまえであること。……ほう。
気づいたら、わたしたちの側にいる「普通」。
じぶんのなかにある「普通」から外れた行為を目にすると、人は途端に相手を「異常だ」「非常識な人だ」と見做して軽蔑する。まるでじぶんの「普通」が正義であるかのように堂々と剣を抜いて刃先を向ける。
空気に溶けた見えない「普通」というルールは時に、人間を苦しめているのではないだろうか、と思う。
「普通、ウェディングドレスは着たいでしょう。結婚式は女の子の憧れ」
この世界に生まれたすべての女の子が結婚式に憧れを抱いているというのは、本当なのだろうか。
すべての女の子がウェディングドレスを着たいと切望しているのだろうか。
事実わたしは女性だが、結婚式にもウェディングドレスにも憧れは抱いていない。もちろんドレスを見たら「綺麗だな」「素敵だな」という感情は浮かんでくるし、ウェディングドレスを着ている人を見たら「美しいな」と感じることもできる。
だけれど、その感情がイコール「わたしも着たい」「結婚式で着たい」に繋がるわけではない。着たくないわけではないけれど、わざわざ着なくてもいいという感覚だ。
「え、子ども欲しくないの? 女性はみんな普通に子どもは産みたいものかと。へぇ……そういう女性もいるんだね」
女性はみんな、子どもを産み育てたいと思っているのだろうか。
“子どもを産める”という力が、女性だけに備わっていることは事実。だけれど産める特権があるからと言って、すべての女性が子どもを産みたいと思っているわけではない。
上記はわたしが実際に友だちのパートナーに言われた言葉なのだけれど、わたしという人間を女性という大きな括りでしか見ていないことに悲しさを覚えたものだ。
「19時からMTG入れたから。は? 定時? いや残業なんて社会人なら普通だぞ」
残業をすることは社会人として当たり前なのだろうか。定時退社は普通ではない異常な行動なのだろうか。
わたしたちの人生は、わたしたち自身のものであって、会社のものでも、上司のものでもない。就業規則に従って1日8時間×週5勤務(例)で働いているにも関わらず、当たり前のように残業を強いる環境は正しいのだろうか。
一応、補足しておくと、決して残業が「悪」であると言いたいわけではない。残業を強制する環境の存在に対して述べていることを理解しておいてほしい。
「好きなバンドの歌詞が掲載された広告がクレームで取り下げられた! なんで! 普通に良い歌詞なのに酷い……」
歌詞の良し悪しに議論の余地はないけれど、広告として扱う場合、その「普通」は適用されるのだろうか。
2022年4月頃、『My Hair is Bad』(以降、マイヘア)というスリーピースロックバンドが渋谷に広告を掲出した。マイヘアファンに向けてサブスク解禁を大々的にうったえるため、代表曲『真赤』の歌詞を使った広告だ。
わたしも『真赤』は好きだ。ロックフェスに赴いたときにも何度も聞いたし、ファンからも熱望される一曲。けれど歌詞の一部を抜粋した広告は、マイヘアを知らない人から見ると一部の人を侮辱したように受け取られてしまう可能性も否めないという意見が散見された。
繰り返すが、歌詞の良し悪しに議論の余地は全くない。
けれど、大衆が目にする広告という媒体では適応されない表現もあるのだろう。
「普通、コップを使ったらすぐ洗うでしょう。どうしてシンクに置きっぱなしにするかなぁ……」
飲み終わったコップは、必ずすぐに洗わなければならないのだろうか。
「後で洗う」という選択肢をもっていてはいけないのだろうか。
人によって洗うタイミングが異なって当たり前で、その事象に対して「普通」というカードを切るのはどうなんだろう。そのカードを提示する前に“相手を知る”という行動を挟むべきではないだろうか。
――と、いくつか事例をあげてみたけれど「普通」に対する考え方の違いによって、わたしたち人間はときにぶつかり合い、傷つけあってしまうことがある。
けれど本来「普通」なんてものは存在しない。「普通」を巡って争う理由もない。そこにあるのは「価値観」なのだから。
だって、普通とは、生きてきた道なのだ。
これまで歩んできた人生の道のりのなかで、わたしたちはじぶんだけの「普通」という感覚を育てながら進んでいく。
砂漠を歩いてきた人と海沿いを歩いてきた人では価値観が異なるのは当たり前のこと。
わたしたちは、じぶんとは異なる価値観にであったときに即座に反発しあうのではなく「なぜそう思うのか」という背景に着目して、相手が生きてきた道を見ることが必要なのかもしれない。
理解したり、受け入れたりするかどうかは、またその先の話。背景を知ってなお、理解できない価値観であれば「わたしには分からない」で済ませても良いと思う。
ただ一方通行でしか物事を見ずに発言することで、知らずうちに「普通」という刃で他人を傷つけてしまうことがある。
だから、普通とは生きてきた道によって形成されているということを、忘れずにいたいなと思う。
タイトルの通りである。
会話とは、音を繰り返し伝え合う行為だ。のどの奥を震わせて「声」という音を空気中に振動させ相手の耳へ響かせる。
この一連の取り組みが嫌いなわけではない。その行為が心をゆるせる好きな人同士で行われるのなら何の申し分もない。むしろ、その瞬間をより楽しく美しく彩色してくれる「声」は大好きだ。
けれど、心をゆるしていない相手。たとえば初対面の人やお仕事上でお付き合いしている人など、一定のバリアを張って相対する人の場合はちがう。
途端に「声」で伝える楽しさが失われて、できるだけ口をつぐみ、必要最低限かつ当たり障りのない「音」だけを選んで発しようと脳がまわりだす。
それは、なぜか。
おそらく無意識的に「いい人」であろうとしてしまうからだと思う。
会話とは、瞬間的な判断で「声」を紡ぎ合う行為だ。卓球のサーブ&レシーブのように相手から受け取ったボールをすぐに打ち返さなければならない。
しかもその最中では、相手を傷つけないように、相手が楽しい時間になるように、相手が心地よくいられるように、そして自分が悪く思われないように、気に入ってもらえるように……と神経を尖らせながらラケットを振る必要がある。
その過程が、どうしても疲れるのだ(考えすぎなんだろうけど)。
ひどいときには当たり障りのない「音」を選び出すことも面倒になって、張り付けた笑顔で頷く行為に集中することもある。
わたしは生粋のニコニコ地蔵タイプなので、他人の前に出させたら笑顔は一級品だ。常に口角は上がり、相手の話に合わせて適度に相槌を打って、終始にこやかに微笑みつづけることができる……というよりも何故かそうなってしまうといった方が適切だけれど。
食事の場であれば笑顔を盾に、しきりに水を飲んだり、フライドポテトをひたすらつまんだりするので、大体が“よく食べる奴”になる。
ちなみに、相手の目の前でスマホを取り出していじる勇気や「ちょっとお手洗いに……」なんて抜け出す勇気がないので、上記の行為により拍車がかかる。相手が気にならない範囲でできるだけ「いま口が忙しいんです。喋りたいんですけどね、ほんとうは。もぐもぐもぐ」を演出しながら、1秒でも会話の時間を溶かすべくひたすら周囲に目を配るのだ。
それがまた、自分を疲れさせるのだけれど……。
そして、タイトルに戻る。
言葉を発さずに表現できるものが好き。その方がこころが清潔な気がするから。
言葉のやり取りは人と人の間に一線を引くようで安心する。勝手に入ってこないでね、というラインが明確にあるようでホッとする。
何よりも瞬間的に言葉を返す必要がないところが良い。相手の言葉をゆっくり咀嚼して体内に入れて、返す言葉をじっくり温めてから相手へ送ることができる。
会話より多少時間がかかるかもしれないけれど、わたしのこころへの負担は驚くほど変わる。こころがザワザワしないから、精神衛生上も良い。
言っておくが、わたしはこれまでずっと「声」によるコミュニケーションを避けてきたわけではない。社会人になってからテレアポをしたこともあるし、何度もインタビューに臨んだこともある。知らない人ともたくさんたくさん会話をしてきた。
その経験を経てやはり、「文章」でコミュニケーションを取る手法が1番心地よいと改めて気づいたのだ。
今では心の底から言葉があって良かったと思う。そして、文章を好きになれて良かった。
「会話」だけで生きていくなんて考えられない。「文章」がある時代に生まれたから、こうして元気に生きられている。大げさでなく、こころから、そう思う。
日本語という文字を扱って想いを伝え合う行為が、わたしは今もこれからも、きっとずっと、好きだ。
だから、どうか。世界のみなさん。
文章を通して会話する方が、こころ穏やかに生きられる人間がいることを知っていてください。
息をするように空想を膨らませて、二次小説を書いていた頃があった。ざっと振り返ると、小学生の頃から社会人1〜2年目くらいまで、そうしていた。
学校に向かう道すがら。
つまらない授業中。
夕ご飯を心待ちにしながら。
あたたかい湯船に浸かりながら。
夜眠りにつくまでの間……。
頭のなかではずっと、わたしにしか見ることのできないオリジナルの映像が流れつづけていた。
そして、ペンを持てる時間やスマホに指を滑らせられる時間であれば、息を吸って吐き出すようにオリジナルの映像を言語化して、二次小説としてこの世に形を為すことが当たり前の事象となっていた。
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二次小説とは、既存の商業創作物から派生して生まれた物語のことだ。
実体験をもとに、たとえ話をしてみよう。
わたしは小学生の頃、はじめて『名探偵コナン』の映画を観た。『名探偵コナン』(以降、コナン)とは、週刊少年サンデー連載の長編人気漫画・青山剛昌先生が手がける推理ミステリーだ。
1994年に刊行し、すでに単行本は100巻超え。これまで1年に1度放映してきた映画総数も30本目前と、言わずもがな大人も子どもも虜にする大人気漫画だ。そんなコナンとのはじめての出会いは、映画10作目『名探偵コナン 探偵たち鎮魂歌(レクイエム)』だった。
もともとコナンには「怖い」イメージを抱いていたため避けてきたのだが、友だちに誘われ断る勇気がなかったわたしは、しぶしぶ映画館に足を運ぶことになる。けれど、そこで待っていたのは苦痛の時間ではなく、新たな喜びとの邂逅だった。
映画の最中、幼いわたしの心を大きなハートの矢で貫いたのは、怪盗キッドだ。美しい身のこなしと異彩を放つ瞳、そして闇を隠し持っていそうな心根に心底惚れてしまった。わたしにとって、はじめての推しは怪盗キッドおよび黒羽快斗(怪盗キッドの正体)なのだ。
それからはコナンはもちろん、黒羽快斗が主人公の『まじっく快斗』(以降、まじ快)まで擦り切れるほどに読み込み、それでも飽き足らず親のパソコンを借りてまじ快の二次小説を探しまわったものだ。
まじ快の作品に触れれば触れるほど愛はスクスクと成長していき、「付き合うなら快斗がいい!」と小学生ながら半ば本気で考えていた。
常に快斗が頭の中にいる生活を送るなかで、わたしがまじ快の二次小説を書くことは自然な流れだったように思う。
わたしの頭の中で、いきいきと活動する黒羽快斗および怪盗キッド。いつからか100均一で購入した星柄の青いノートにえんぴつを押しつけて、空想のなかで生きる快斗たちを言葉で写し出すようになった。(ちなみに夢小説ではない。あくまで、まじ快・コナンの世界を生きる快斗たちの物語だ。)
不思議なもので、えんぴつはわたしの手を乗っ取ったように、ノート一面をどんどん埋め尽くしていった――。
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前置きが長くなったけれど、つまり二次小説とは原作者とは異なる人が、原作のキャラクターや世界観を活かして新たに紡ぎだす物語のことだ。
そして、ここで何が言いたいのかと言うと……「息をするように二次小説を書いていた」わたしだけれど、いま振り返ってみると「二次小説を書くことで息ができていた」のではないか、ということ。
たぶん人見知りでクラスメイトとうまく話せなかったり、自分の部屋がない監視されたような家に居心地の悪さを感じたりしていたわたしにとって、空想の世界を見るのは何よりも楽しい時間だったのだと思う。心のなかにぽっかりと空いた穴を埋めていくような感覚があり、二次小説を書くことで、わたしはわたしの心を励ましつづけていたのだ。
そう考えると、小学生の頃から社会人1〜2年目あたりまでは、ずっと二次小説で息をする日々を過ごしていた。
その道中では黒羽快斗から浮気して『鋼の錬金術師』のエドワード・エルリック、『テニスの王子様』の財前光、『弱虫ペダル』の東堂尽八、荒北靖友、『僕のヒーローアカデミア』の爆豪勝己など、あらゆる推しに出逢い、空想を言葉に写し出したものだ。
いまでも黒羽快斗が最推しであることは変わりないのだけれど。
でも、ここ数年で変化が訪れた。
二次小説を書かなくても、息ができるようになってきたのだ。わたしにとってこれは嬉しい出来事である。
息ができるようになった理由は明白で、心にぽっかりと空いていた穴を埋めてくれる人がいつも側にいてくれるようになったからだ。空いた穴を「推し」で埋めていた日々からの解放。満たされた心とともに生きる日々。
これからは「息をするため」ではなく「書きたいという純粋な気持ち」で二次小説に向き合えることをとても幸せに思う。とはいえ、二次小説はすっかり書かなくなってしまったのだけれど(ROM専で細々生きてる)。
またいつか、わたしの頭の中に住んでいる推したちと、また一緒にオリジナルの世界を旅して物語を紡げたらいいな。
深夜1時を回った頃。キッチンと連結したリビングで毛布にくるまっていた女の子がうっすらと目を開いた。
隣で寝ていた母の姿はない。代わりにキッチンの明かりで伸びた母の影が座っていた。けれど、いつもと様子が違うようだ。女の子は毛布を盾にして、こっそり影の先を追いかける。するとキッチンには見慣れた二つの影。怒りの声をぶつける影が、顔を真っ赤にして謝る影に突き刺さっていた。
何が起こっているのだろう。一つ分かるのは女の子が大好きな二つの影の間には、愛がないということ。
止める勇気もなく、女の子は毛布に潜り込んで耳を塞いだ。何も見ていない。何も聞いていない――と言い聞かせながら。
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「家族の愛と絆を描いた物語か。苦手だなぁ」
映画の広告が流れて、ふと思った。
いつからだろう。血の繋がりに苦笑いを浮かべるようになったのは。
母はわたしが小学生になると、しきりに離婚したいと話した。わたしは母が好きだったので、母が幸せになるのなら、そうしたらいいと思っていたけれど、母は「あなたがいるから離婚できない」とぼやいていた。一方、父はお酒を浴びては壁に穴を空けるのに家族との距離は空けようとしなかった。
わたしたちは家族という縁で、互いを拘束しあっている。鎖で繋がれた両腕は抜け出そうと足掻いた跡で黒く染まるだけ。離れたくても離れられない鎖のつながりに、いつしか家族という存在が“怖い”と感じるようになっていた。
けれど二十数年生きたある日、血の繋がりを超える素敵な出会いが訪れた。陽だまりの温かさで心の闇を燃やし、両腕をやさしく撫でる手に引かれ、わたしは彼と家族になった。
ご褒美タイムがやってきたんだと思った。心の底から毎日を楽しめる幸せゾーンがやってきたのだと実感した。
そうして、わたしは思ったのだ。
信頼できる家族がいるのは素晴らしい。でも信頼できなくてもダメな人生になるわけでは決してない。
血の繋がりがなくても心を満たし、笑顔をもたらすヒトやモノ、コトとの出会いは必ず訪れる。わたしらしい幸せを感じることができる。幸せに出会うまで、泣きたい夜を何度も越えなければならないこともあるかもしれないけれど、いつか寂しかったこころに寄り添ってくれる存在はきっと現れる。
すり減った分の愛を補い、満たされた愛を祝福するような出会いは誰にだってきっと起こる。
小説はサラリとした紙を一枚捲れば、現実世界を超えた新しい場所へ、わたしを連れていってくれる。
一行読めばそこはもう主人公がいる世界。現実離れした世界もあれば、現実に似た、すぐ隣で主人公が暮らしているような気にさせる世界のときもある。
わたしは一度、小説の世界に呑み込まれてしまうと、まわりの景色も音も感覚もすべてが消えて身体と五感まるごとぜんぶを連れて行かれてしまう。
すべてを連れて行かれたわたしは宇宙のような空間にフワリと浮かび、見えない透明の管が身体からいくつも伸びて、小説に登場する人物の一人ひとりの心とカチリと繋ぎ合わされる。
人物たちが生きる度に、わたしも同じように呼吸をして、笑って、泣いて、喜んで、怒って、悔やんで、そして愛するのだ。
人物たちの感情がダイレクトに心に流れてくるものだから、わたしはふと現実世界に戻ってきたときに人物の感情や精神状態を引きずってきてしまう。
引きずってきた架空の心が“どんより系”の場合、その影響はなんとも重苦しくわたしにのしかかる。
テンションが上がらなくなって「ああ……」と夕焼けに向かって呟きたくなったり、冷めた目で物事を見てしまったり、何もせずベッドで横になりたくなったり、意味もなく海が見たくなったり、でも近くに海がないから部屋の小窓から駐車場を眺めてみたり、そんな虚無な時間が発生してしまう。
フィクションの世界だと割り切って楽しめたら良いのに、どうもそれができない。感情移入しすぎなのだろうか。
登場人物たちが明るく平和に過ごしている間は良いのだけれど、苦の山を登り始めた途端わたしはいつも「小説よ、早く終わってくれ」と心の隅で懇願してしまうのだ。
だけれどページを捲る指先は止まらないし、文字を追いかける瞳は速度を増すばかりで、わたしはわたしのことなんてちっとも考えてくれない。読むのを止めればいいのに、そんな選択肢は初めから持ち合わせていないように小説の世界に捉われる。
でも。
知らない世界を見られるのが楽しくて、新しい表現や考え方が身体に染み込むのが嬉しくて、登場人物が懸命に生きる姿が尊くて、わたしはこれからも同じことを繰り返しながら、小説を手に取ってしまうのだろう。
だから小説が好き。でも、苦手。
「結婚式はしない」
そう宣言するわたしに、母は眉間に皺を寄せた。
浅瀬程度かもしれないけれど驚く気持ちも、悲しい気持ちも少しはわかる。母の世代では結婚式を挙げるのは当たり前の出来事だったのだから、結婚式を挙げないだなんて衝撃の一言だったに違いない。
その悲しみにやさしく寄り添える立派な娘であれば良かったのだけれど「せっかく、女の子を産んだのに」と言葉がつづいて、いたたまれない気持ちになった。
一人っ子のわたしは、俗に言う「両親からの愛を一心に受ける一人娘」というヤツだ。一人っ子=両親から一心に愛を受ける、という見方・考え方には疑問を呈したいけれど、今は置いておこう。一人娘という事実は変わらない。
一人娘を育てた母にとっては、わたしにすべての期待をかける他ない。わたしが結婚式を挙げなければ、子どもの結婚式に参加することはできないし、わたしが子どもを産まなければ孫を可愛がることはできない。
だから「結婚式を挙げてほしい」と願ってしまう気持ちは理解できる。だけれど、それを「せっかく女の子を産んだのだから、ウェディングドレスを着てみんなからの祝福を受けてほしい」というのは些か違和感がある。
わたしたちは色とりどりの命を抱いて生まれてきたわけで「女の子」や「男の子」として今を生きているわけではない。
性別は一つの情報だ。わたしたち人間は性別という枠を取っ払って、もっと深いところでつながれるはずだ。「女の子」「男の子」だなんて雑多な枠組みにわたしたち人間は収まらない。収まるはずがない。
ウェディングドレスだって「一度着てみたい」という願望はないこともないけれど、わたしは恐らく試着して写真を撮ったら満足してしまうだろう。むしろ俳優の山本美月さんと瀬戸康史さんのように二人で白いタキシードを着こなす姿に憧れてしまう(お二人が結婚報告とともに掲載した写真があるので、どうぞ検索してみてください。ファッション・構図ともに素敵かつ、お二人の美しさに悶えます)。
結婚式を挙げてみんなから祝福されるのはもちろん嬉しくありがたいことではあるけれど、結婚式を挙げなくても祝福してほしいのだが? と、思ってしまう。
友人からも結婚式を挙げない事実に「かなしい〜〜」と言われたことがあるけれど、なんて自分勝手にものを言うのだろうとモヤモヤとしてしまう。
誤解されないよう一つ補足すると、わたしは女性の枠組みに入れて物事を大まかに判断されたくはないけれど、女性という性別を得て産まれたこと自体は嬉しく思っている。それなりに楽しい人生も送れている。
産んでくれて、ありがとう、お母さん。
ただ、「女の子であること」と「結婚すること」・「女の子であること」と「ドレスを着ること」・「結婚すること」と「結婚式を挙げること」は、どれもイコールでは結ばれない。
もちろん結婚式を挙げたって、ドレスを着たっていい。けれど、それが常識であるかのように人に反論したり、強要したりするのはやめて欲しい。
「そういう考え方もあるのか」と受け止めて、その答えに至った理由を聞いてくるのは一向に構わない。聞いたうえで「説得したい」と思ったのなら、そうすればいい。だけれど固定観念をもって頭ごなしに言葉を投げつけるのはやめて欲しいのだ。
くわえて、この思いを「多様性の時代」なんて軽い言葉でまとめあげないでほしい。多様性はずっとずっとここにあった。見えていなかっただけで、人間のなかにずっとあったものだ。ようやくそれがフォーカスされるようになってきただけ。見えるようになってきただけ。
「常識」とか「当たり前」とか「ふつう」って、何なのだろう。わたしたち一人ひとりが、生きてきた道でしかないのにね。
誰もが生きやすい世界になったら良いね。
「そろそろ春かな?」と思っても、まだまだ朝は布団から出るまでに時間がかかる。
でも部屋にやってくる風の冷たさは、UNIQLOで買ったモコモコのパーカーとボアのパンツで凌げるほどの温度に変わってきていることは確かだ。ちょっと寒い。でも気持ちいい。先月は感じられなかった心の機微に春の面影を感じる日々だ。
春になると活気よく飛び交うのが“新生活”という言葉だろう。年度が区切られ、新しい季節がやってくる。学生たちは新学年を迎え、新たな学問や友だちの輪に飛び込んでいく。
はじめて社会に進出する人たちもいるだろう。はじめてのバイト、はじめてのインターン、はじめての会社員、はじめての社会人。
初挑戦という活力漲る言葉に押されると、先の見えない不安に駆られながらも世界がキラキラとしてみえたものだ。少なくとも、わたしはそうだった。嫌なことや辛いことがあると、すぐにリセットしたくなるタイプの人間なので、環境がガラリと変わるタイミングは余計にキラキラと美しく見えていたんだと思う。
学年が変わればクラスが変わるし、学ぶ内容も友人関係も変化する。卒業はさらに取り巻く環境が大きく動く。それと同時に嫌だった環境や関係や自分自身が新生活の季節によって、強制リセットされる感覚があったのだろう。
無理やり変えられることで、頭を切り替えるスイッチになったり、忘れたりすることができた。だからわたしは少し歪みはあるけれど、世界が明るく見えて初挑戦で溢れる新生活の季節はそう嫌いではなかった。
でも新生活の強制リセットボタンは年を重ねるごとに錆ついて、うまく機能しなくなってしまった。
社会人になった年のこと。
わたしは「人に感動を与えられるヒトになりたい」という想いを語って受かったIT企業に入社し、どれほど社会に価値を残せるのだろうかと夢に思いを馳せながらパソコンのキーボードを景気よく弾いていた。
テレアポ、SEO、LPO、広告。知らない言葉も多かったけれど、なんでもやってみたくて、文字通りなんでもやった。新しい知識や経験を取り入れるたびに瞳の輝きは増していった。
今は億劫でしかない飲み会や忘年会も、当時は「これが社会人の嗜みか」と胸を躍らせて梅酒を煽ったものだ。デキル新卒面をしながらサラダを取り分けて「女子力高いじゃん」なんて、しょうもない言葉に喜んだ時もあった。
どこにも属さず一人で生きていたら得られないであろう体験がこの身に起こるたびに、良いことも悪いことも、社会人らしさに繋がっている気がして甘んじて受け入れた。
擦り傷をつくる無茶苦茶な走り方をしていてもスニーカーの靴紐は解けなかったし、靴底がすり減ることもなかった。転んだって、「いてて!」くらいの軽症で、すぐに再スタートを切れた。
だけれど、それから数年。月日が経つごとに新しい挑戦のハードルは上がっていく。
靴紐を結び直す頻度が増えて、靴を買い替える機会も増えた。楽しい時間はあっという間に過ぎていくのに、傷が癒えるまでの時間はどんどん長くなった。
大人になればなるほど新しいものに立ち向かうエネルギー、受け入れるエネルギー、乗りこなすエネルギー、乗り続けるエネルギーが必要になって、そのエネルギーゲージはなかなか溜まってはくれなかった。
次第に前を走る友だちや、キラキラしている面識もないSNSの人々を眺めていると苦しくなった。
「わたしにもあったんだから。のどが乾いて水を欲するように新しい刺激を求めつづけたあの頃が、あったんだから!」
と、虚勢を張っても、んだんと言い訳にしか聞こえなくなって自分の声にすら耳を塞ぎたくなる。
新しい挑戦に対して億劫になっている自分が酷くイケナイものであるように思えてきたのだ。
それでも新生活の煌びやかな雰囲気はステップを踏んで近づいてくる。あたりに笑顔を振り撒いて、桜の花びらが舞う道を軽やかに飛んでくる。あろうことか無邪気に手を差し伸べてくるものだから、わたしは苦笑いで誤魔化すほかない。
直視したくない。目を逸らしていたい。
だけれど春の陽光はあたたかい。痛くもなく、鋭くもなく、花が風を滑るように縮こまった背中に触れてくるやさしい光。
そんな折、ふと陽光に誘われて外に出ると、青々しい空が見えた。
いつの間にか足元ばかり見つめていた自分に気がついて、意識的に視野を高めてみる。
すると、
「新生活は新しい挑戦を迎える季節だ」
「キラキラした世界に飛び込んで活気盛んに行動するのだ」
「新しい刺激を得るのだ!」etc.
そんなこと、誰が言ったんだろう?
そう、疑問が浮かんだ。
働き方も、過ごし方も、生き方も、すべて。表に見えるものだけが正解ではない。人の数だけ人生があるとは、よくいったもので、新生活の迎え方も千差万別であるはずだ。
表舞台で輝く姿にはどうも焦がれてしまい、それが一番正しい形なのだろうと見比べてしまうけれど、自分にとって居心地の良い形を選んだって良いじゃないか。
じぶんの心を守ること、新生活を迎えるにあたって、わたしに必要な意識はたぶんそれだ。
胸に手を当ててみる。
新生活をどう過ごしたいのか、問いかけてみる。
わたしは新しい挑戦よりも、今あるものを洗練させる意識で新生活を迎えたい。
新しいものを取り入れることも素敵だ。けれど、今あるものを洗練させていくこともまた美しい挑戦だと思う。