work essay
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他人の言葉ばかり書いていると、じぶんの言葉を書きたくなる。
たとえば、クライアント企業のブランディングを担う広告制作、とあるプロダクトの集客に貢献するためのLP制作、経営陣や活躍社員の取材記事の制作、サービスの認知度を高めるためのコラム編集など……。
どれも楽しいお仕事であることに変わりはない。嬉しい機会と素敵な人々に巡り会えたことで大好きな文章を生業にできているし、日々充実さを感じている。これは本当に……とてもとても素晴らしいこと。
小学生の頃から「文章を書く仕事がしたい」と思っていたわたしにとって、ある種“夢を叶えた”とも言うのだろう。独立して今秋で丸4年になるわけだけれど、本当に素敵な出会いと機会に恵まれたなと、一緒にお仕事をしてくださっているみなさまに感謝の想いが募る。
けれど、文章を書くことが大好きだからこそ、ときおり聞こえてくる声がある。
心の奥底にいる小さなわたしが「もっと“じぶんの言葉”を書きたいんだ!」と、深海から微かな海上の光を頼りに叫んでいるのだ。
“自分の言葉”とは、言葉が向かう星をじぶんで見つけて文章に落とし込み発信すること。編集者に編集されたくないとか、第三者の手を加えたくないといった意味ではなくて、“なんのために書くのか”という目的の手綱の出発点が“わたし”にある執筆をしたい。
クライアントの広告制作のお仕事では、手綱の出発点はクライアントにある。制作するコンテンツの目的づくりには関われるかもしれないけれど、それは既に流れている川の途中で船に乗り込むのと同じ。
そもそもコンテンツを制作する目的が別にあるはずで、制作する目的を実施することになった目的もあるはずで、どうしたって川の最初の一滴を生み出すことはできないのだ。
自身のアイデアや感性・経験はもちろんお仕事に取り込んでいくけれど、川の途中から参加する乗組員は船の秩序を守って働くことを求められる。目的達成に向けた企画構成を考えたり、メディアの文体を踏襲したり、他人が語った言葉をベースに記事を起こすなど。
そこに必要なのは、船に参加しているわたしの自我であって、一個人であるわたしの自我は必要ない。“他人の言葉”を扱う際には、柔軟な姿勢で秩序を保ち成果を出す力が必要なのだ。(それをプロと呼ぶ……とわたしは考える。)
とはいえ、自由に書かせてくださるクライアントさんが多いので、これでもかなり好きにさせてもらえているほうなのかもしれない。わたしの文章を好きだと言って依頼してくださる人もいる。だけれど、他人の輪のなかで書く――とは、そういうものなのだ。
すると、“じぶんの言葉”で書くためには、“じぶんの輪”を持つ必要が出てくる。
こういったエッセイで発信したり、事業を立ち上げてアウトプットしたり……といった道になっていくわけだけれど、これがまた難しいのなんのって。
“他人の言葉”は、他人の輪のなかで書いているからこそ、多くの人に見られやすい傾向にある。予算もあるから広告費をかけられるし、企業名があるだけでも個人事業主と比較して信頼性は抜群に高い。
一方で、“じぶんの言葉”は、じぶんの輪に影響力がなければ、ほとんど誰にも届かない。所詮、渋谷のスクランブル交差点を歩く一人だ。声をあげたって誰も聞いていない、というか、そもそも聞こえてすらいない。他者に埋もれ“その他大勢”と括られるのが関の山だ。
でも、「じゃあ諦めるか」とはならない。わたしにとっては諦める道理がないし、まだやれることがあるはずだと思っている。「いつかきっと!」なんて夢見る少女みたいな想いもあるけれど、きちんと“これからどうするか”を思考して行動すれば、チープな想いも原動力の一助となってくれるはずだ。
誤解のないよう繰り返しておくけれど、世の中にある人・地域・物・商品・サービス・プロダクトなどをより多くの人に届ける“他人の言葉”を書く仕事は、意義もあれば楽しさもあって、本当に素晴らしいお仕事だと思っている。日々携わらせてもらっていることに、喜びと感謝で胸がいっぱいだ。
だから、これから。
“じぶんの言葉”をお仕事として形づくれるように取り組んでいきたい。
どうすれば、叶えられるのか。今はまだ答えが出ていないけれど、わたしが愛する文章を、より愛して書ける日々を過ごすために、考え行動しつづけていきたい。
19日間で会社を辞めた。昨年のことだ。言葉通り、月初に入社して19日目で退職した。
人によっては「社会不適合だな」「迷惑の権化だな」と、簡単な言葉でまとめられてしまうだろう。事実、会社側から見ればそういう側面もあるのかもしれない。けれど、一個人からすると、アヒルが白鳥の湖に迷い込んでしまったようなもの。大きな翼を広げて空を飛ぶ同僚に、アヒルのわたしは追随できなかった。
「飛べ」と言われても飛べないものは飛べないし、ジェット機を積むとか対策は色々あったかもしれないけれど、そこまで労力かけて「飛びたい」とは思えなかった。
そもそも、わたしは湖面を泳ぐものだとばかり思っていたのだ。
まさか空を飛ぶだなんて、聞いてもいなければ想像もしていない。
もともと「リモート」と聞いていたところ、入社初日に「完全出社命令」が下されたり、「PVやCVRが上げられるなら嘘の情報も出すし誇張もしまくる」制作をしていたり、「成果を出してくれるなら人を殺してたって気にしない」なんてことを話す人が上司だなんて――そんなこと、事前に聞いていたら入社するわけがなかったのだ。
社会不適合というよりも、「環境不適合」のほうが言葉としてはしっくりくる。19日間で辞めるだなんて「迷惑の権化」かもしれないが、強気に言えば、こっちだって思っていた環境と異なり精神的にも、時間的にも、金銭的にも迷惑を被ったわけなので"おあいこ"としたい思いだ。
まさか、19日間で辞めるだなんて、自分でも思いもよらなかったのだから。
(退職の意思を伝えるときは、文字通り心臓が口から飛び出そうだったし、何度世界が滅亡してくれたらと想像したか分からない。最終日は気まずすぎて息ができなかったし、退職ってしんどい……。わたしは今回利用していないけれど、退職代行を使いたい人は使っていいと思う。じぶんが一番大切、ゼッタイ。)
兎にも角にも、黄猿を超える光の速さで退職したことで気付いたことがある。
それは、企業といっても結局は「人間の集合体」であること。考え方や価値観・雰囲気は"集まっている人の性質"によって異なるのだから、人によって「合う・合わない」が生まれるのは当たり前だ。
麦わら海賊団が合う人もいれば、バギー海賊団(いやクロスギルドと言うべきか)が合う人、革命軍が合う人もいるのだ。そこに、良いも悪いもない。どんな人たちと一緒にいると楽しいのか、幸せなのか……ただ、それだけ。
"郷に入っては郷に従え"の通り、合わないと思ってもその環境にいる限りは従わざるを得ない。だから、じぶんが居心地の良い船に乗ることが非常に重要なのだ。
突然、「今日から完全出社です」なんて業務命令が下されるトップダウンな風土との相性。それに従うことに意を返さない風潮との相性。ユーザーの利益は考えない成果主義との相性。純粋な上司との相性etc.。
気が合わない人とは、会うたびに険悪になったり傷ついたりしてしまうのと同じように、水と油はどう頑張っても混じり合うことはできない。「合わない」ものは「合わない」のだから仕方がない。コビーがアルビダ海賊団を抜けて海軍に入ったように、合わない環境からは自ら脱しなければならないのだ。
だから、会社を飛び出した。日に日に心が消耗していくのを感じていたし、じぶんを守るためにも退職の選択肢が一番良かったと思っている。
会社に迷惑がかかろうが、在籍期間が何日だろうが、職歴に"短期離職"という項目が増えようが、じぶんの心を守れたんだから、これで良い。後悔はまったくない。
なんなら、今は穏やかな仕事生活を送れているし、「19日間で会社を辞めた」という常人はふつう経験しない稀有な体験を面白がってさえいる。だって、こんな奴、まわりにいる?いないよね?ふざけすぎだよ!!いかれてるって!
でも、こんな失敗をしちゃうじぶんのことを愛していたいし、これからもじぶんを笑顔にできる選択を取れるわたしでありたいなって思う。
失敗したって、間違えたっていい。
美しいケーキも良いけれど、ちょっと崩れているケーキだって愛らしいじゃない。
なんと言われようと、思われようと、わたしは"わたし"で生きていくぞ。
2025年も、良い一年になるといいな。
ハネッコになりたい。
ポケットモンスターシリーズのなかでも、第2世代『ポケットモンスター 金・銀』から登場しているハネッコ。くさ・ひこうタイプで、あたまの葉をくるくると回転させながら、ふわりふわりと空を飛べるキュートなポケモンだ。
ポケモン金銀をベースに新要素をくわえた『ポケットモンスター クリスタルバージョン』からポケモンライフをスタートさせたわたしにとって、ハネッコは幼少期から"かわいいリスト"に仕舞ったお気に入りポケモンのうちの一匹なのだ。とはいえ、まさか。フリーランスになって3年が経ったいま、ハネッコのトレーナーという立場から「ハネッコになりたい」と思う日がくるだなんて。
・ ・ ・
ポケモン世界では、『やどりぎのタネ』という技がある。名前の通り、主にくさタイプのポケモンが扱える技だ。バトルにおいて毎ターン終了時、相手がもつ最大HPの1/8のダメージを与え、与えたダメージ分のHPを回復することができる。しかもその効力はしつこく、技を受けたポケモンが交代しても効果は継続されるのだ。
つまり、一度『やどりぎのタネ』を受けてしまえば、じわじわと1/8のダメージを奪われつづける……ということだ。地味にいたい。そして気付いたときにはHPが赤に変わっているのだ。除草しても繁殖しつづけるカタバミ(雑草)のようにヤツは常に纏わりついてエネルギーを吸い取っていくのだ。地味だけれど、恐ろしい。そんな技だ。
わたしはまさに今、『やどりぎのタネ』を受けている。
フリーランスになって3年が経ち、過去を振り返るとさまざまな冒険の軌跡が見える。ボロボロになった日もあれば、キラキラと輝く日もあって、ゆらゆらと安定しない船を乗りこなして、なんとか今日まで旅をつづけてきた。
3年も旅をつづけていると、自分が活躍しやすい環境や心地よく働ける環境がわかってきたり、自分の肩書きが薄っすら浮かんで辿るべき航路が見えてきたりと、”じぶん”という存在の解像度が高まっていることを感じる。
一方で、今まで見えていなかったものが見えるようになる状態は、わたしを「成長」と「挫折」の天秤にかけてくる。
基本的に、"見える"ことは良いことだと思う。自身に不足しているものを知って調達できたり、危うく崖から落ちるところだった状況を避けられたりして、"見える"ことはわたしを成長させ、危険から身を守ってくれる。
けれど同時に見えたことで自信を失ったり、焦燥感に苦しめられたりして、洞穴から伸びてきた蔦に足を絡め取られ暗い穴底へと引きずり込まれてしまいそうにもなる。
この気持ちをたとえるなら、「成長」と「挫折」の皿を右手と左手にそれぞれ持って平均台の上を歩いている感覚だ。どうにか「成長」の皿を守れるように、わたしは震える足を叩いて細い旅路を歩きつづけているのだ。
そんな道中。わたしは恐らくどこかで、『やどりぎのタネ』を受けてしまった。技の出し手は、神なのか、運命なのか、それとも過去の自分だったのか――その姿はわからないけれど、知らないうちに受けた『やどりぎのタネ』が毎日少しずつわたしのHPを吸い取っていく。
HPゲージは緑から黄色へ、黄色から赤へ、着実に力を奪いつづけ、フリーランス4年目に入ろうとするいま、わたしはポケモンでいう「ひんし」状態にある。ピコンピコンとアラートがうるさく鳴り響くなか、技の出し手を探して攻撃するか、モンスターボールで捕まえるか、その場しのぎの回復薬を投入してHPを復活させるか、それとも逃げるか――あらゆる選択コマンドをうつらうつらとした目で見ながら、どれを押そうか指先を彷徨わせているのだ。
……もう少しだけ具体的にいおう。
一定フリーランスとして生活をつづけられるだけの収入基盤はあり、経験やスキルも蓄積されている。派手な装備ではないけれど、次の旅路へだって出かけられるだけの能力は3年かけて着実に身につけられてきた(と思う)。きっとまだまだ成長できるし、いろんな挑戦に手を伸ばせるポテンシャルもある(と思う)。
じゃあ何が厄介なのかって、わたしが比較的安心してフリーランスをつづけられるラインにあと一歩届かないのだ。あと一歩分の収入がほしい、仕事がほしい、成果がほしい……と思いつづけるまま1年が経ってしまった感覚だろうか。もちろん思っているだけでは叶わないから自分なりに行動はしてきたつもりだけれど、結局その一歩分先へ到達することはできなくて、日に日に前向きだった思いは不安に変わり、ポジティブな意欲は焦りに変わり、大失敗をしているわけではないのに自信を失っている。
そこでわたしは、ハネッコになりたい。
『やどりぎのタネ』は、くさタイプのポケモンには効果がない。くわえてハネッコには、天気が晴れのときにはすばやさがあがり、状態異常にならない特性がある。生産性が重要視される昨今で、すばやさが高いのは強みになるし、メンタル的にも身体的にも状態異常にならないのはでかすぎる。
しかもハネッコはくさタイプにくわえて、ひこうタイプだ。
空を飛べる!
今まで地つづきの道を歩いてきたわたしにとって、地面の有無に左右されずに旅ができるだなんて嬉しいことこのうえない。
ハネッコになって冒険をつづけレベルを上げて、いつかポポッコになって、いつかワタッコになって、勝負どきはこおりテラスタルして4倍ダメージを防げば十分に楽しくやっていける。(ハネッコはこおり属性の技に弱いけれどテラスタルすると弱点を補えるのだ。知らん人ごめんね、ポケモンSVをチェックしてみて……汗。)
――つまり、だ。今わたしを苦しめる「不安」や「焦燥」から解放され、ネガティブな感情に悩まされることなく、人生という空を自由に浮遊したいがためにわたしはハネッコになりたいのだ。
フリーランス4年目を迎えようとする今、どうすればハネッコになれるのかを考えている。
ともに支え合うパーティーをつくるべきなのかもしれないし、ポポッコやワタッコ(先を行く先輩)に出会うべきなのかもしれないし、歩くべき道や方向を変えるべきなのかもしれない。
いずれにせよ現状維持では埒が明かないので、外部からの刺激を取り入れながらトライアンドエラーを繰り返すフェーズにあるのだと思う。かすり傷が多すぎてエラーから立ち上がるのは大分しんどくなってきたけれど、おかげで新たに"見えた"こともある。
去年フリーランスの1年間を振り返ったときには『フリーランス3年目は、本当はずっとやりたかった仕事に手を伸ばしてみたい』と思っていたのだけれど、『本当はずっとやりたかった仕事』の先がけとなれるかもしれない取り組みはできたし、ありがたいことに賞をいただいたりした日もあった。
わたし自身が人生で本当にやりたいことを心から楽しんで取り組めるように、フリーランス4年目は「ハネッコチャレンジ」と名付けて、こころとからだの健康に気を配りながらもがいてみようと思う。
この間、敬愛するエッセイストの塩谷舞さんが、Xでこんなポストをしていた。
文章を書く仕事、誰にでも出来ると思われすぎている。いや出来る人もいるんだけども。
— 塩谷 舞 mai shiotani (@ciotan)
日本で生まれたわたしたちは、幼い頃から日本語を学び、国語を学び、文章を書いて生きてきた。最低限の言葉の扱い方が分かるからこそ、誰だってライターになることができる。
学生だから、社会人だから、なんて年齢も関係ないし、ライターという仕事は未経験だから、なんて経験値もまるで関係がない。やれば誰だってなれるのがライターだと、本当にそう思う。
だけれど「ライターになれること」と「文章を書けること」は違う。誰でもシンガーになれるけれど、音を外して歌ってしまう人もいるように、文章にも見えない音階のようなものがあるんだと思う。音階を守れる人は、多く人の心に届く文章を書けるけれど、音痴な人は目も向けられない耳障りな文章を書いてしまう。そして、そんな文章を書いてしまっていることにも気付けない。
ライターでも壊滅的な文章を書く人がいるのは事実で、まさに塩谷さんがおっしゃる通り、文章を書く仕事は誰にでも出来ると思われすぎている。
そもそも経験不足が大きいのかもしれないけれど、それ以前にもしかしたら「日本語で書くことをライティングだと思っている」から壊滅的な文章になってしまうのかなと個人的には思う。
日本語は物事を伝えるためのツールであって、ライティングそのものではない。
「調査力」と「表現力」と「想い」の3つが伴わなければ、本質的に人の役に立ったり、人の心を動かしたりするコンテンツを作成することはできないのだ(※あくまで持論)。
「調査力」というのは、文章でしたためたいテーマについてとことん調べること。現地に行って感じるも良し、人に話を聞いてみるも良し、本や雑誌・Webを使ってリサーチするも良し。結局わたしたちは、知っていることしか言葉にすることができないのだから、偉そうに文章で語るのなら尚のこと情報を集めてそのテーマについて、とっても詳しい人・とっても関心がある人・とっても共感している人にならなければならない。
「表現力」というのは、5文字で収まる事柄を100文字にして伝えること、そして100文字の伝えたい事柄を5文字に収めることができる力だ。たとえば、“ありがとう”と書けば感謝していることが伝わるけれど、具体的にどんな事柄に心を動かされて感謝の気持ちが湧いたのか、そして今どんな想いで感謝を伝えているのかは5文字だけでは分からない。5文字の背景にあるものを、あらゆる語彙を活用して伝えていく――まるで感情が形を成したように魅せるのが文章を書くということなのだ。
「想い」というのは、じぶんの感情のこと。犬や猫など言葉を交わせない動物であっても、見た目から「嬉しそう」「楽しそう」と感情が伝わってくるように、きちんと感情を込めた文章からは書き手の想いが伝わってくる。そもそもなんの想いも持たずに人に何かを伝えるだなんて、そんな文章が成立するわけがないのだ。
――と、なんやかんやと書いてきたけれど、文章を書いてご飯を食べている端くれとして、これからも文章の鍛錬を続けていかなければな〜と、塩谷さんのポストを見てしみじみと感じる。
音楽の世界と同様に、文章の世界に正解はない。けれど、多くの人に好かれる王道のコード進行のような型はあるし、人を惹き付ける文章を書ける人と書けない人は確実にいるし、今に甘んじて生きているといつかは腐った文章を書いてしまうかもしれない、なんて視界に薄い霧が広がるようにじわじわと不安を感じるときもある。
とはいえ不安を抱いていたって仕方がない。これからも文章を書く仕事をして生きていくために、わたしはこれからもとにかく書き続ける。そして塩谷さんをはじめとした大好きな文筆家の文章にたびたび触れて、言葉の英知を肥やしていきたいと思う。
フリーランスという生物は、わたしの周囲ではなかなか珍しいのか、友人からは“何をしているのかよくわからない人”と思われていることが多い。
だからこそ、受ける質問もかなりふわっとしたもので、「普段、なにしてるの?」と聞かれることが多々ある。
返答に困った挙げ句「仕事してるよ」と返してしまい、何とも煮えきらない間が生まれるのがいつものルーティン。その後、広告作ったり、記事の校正校閲したり、その時々によって色んな仕事をしてるよと言えば「ふうん?」とハテナいっぱいの言葉が返ってきて仕事の話は大抵そこで終わる。
それか「フリーランスかっこいいね」という謎の称賛を受けて、着地点のない会話に終始することもしばしば。
「かっこいいかな?」
「憧れちゃうな〜」
「独立したら?」
「えっ? むりむり。会社に縛られていないと仕事しない質だから」
「必要に迫られればやるんじゃない?」
「絶対にむり。賭けられる。ほら確定申告とか? むりだし」
「確定申告は電子化されてるから大丈夫だって」
「だめだめだめ! でもフリーランス憧れる〜。すごいな〜」
会社員を目指すことが当たり前のルートのように育てられたわたしたちにとって、その道から外れる生物は何だか特別な存在であるかのように扱われて、ひょいっと違う棚の上に置かれてしまう。
全くそんなはずはないし、誰しもが平等に持っている選択肢の一つであるはずなのだけれど。それに確定申告はまじでやれば誰にだってできる。
それから、こんな質問もよく受ける。
「仕事と私生活のメリハリってどうしているの?」
会社員をしていれば、会社にいる時と会社にいない時という「空間」によって、明確にオンとオフを切り分けられる。在宅勤務にしても、始業時間〜終業時間までの間と、そうじゃない間の「時間」によってメリハリをつけることができるだろう(残業の概念は一旦置いておいて)。
そこでフリーランスはどうかというと、わたしの場合は「毎日が仕事であり、休みである感覚」で過ごしている。つまりは仕事をしてもいいし、遊んでもいい、ということで正直メリハリのメの字もない。
だからといって苦痛かと聞かれれば大きく首を横に振って、むしろその逆だと鼻息荒く豪語できる。その日、その時の気分や状況に応じて、自由に動けるフリーランスに仕事と私生活の線引きなんて要らない、とさえ思う。
わたしはたぶん比較的真面目な方だし、仕事も好きなタイプだ。だから平日でも、土日でも、朝から夜まで好きなだけ仕事をする。かと思えば、眠くなって昼寝をしたり、美味しいご飯が食べたくなって出かけたり、前日の夜に思い立って翌朝からガッツリ遠出をすることもある。
ちなみにだけれど、好きなだけ仕事をするといっても夜21時には就寝するので、深夜まで目を血走らせながら働く日はフリーランスになってから一度もしていない。
それこそ会社員をしていた頃は、決められた時間に必ず仕事をしていなければならなかった。仕事が終わるまで残業を重ねる必要もあった。ランチの時間も60分で、事前に有給を取って引き継ぎをしておかないと休むことさえできなかった。
わたしにとって、そんな生活は不自由極まりなく「ここから出して」と閉じられた鉄格子を掴んで口煩く“会社員という籠”を揺らすような日々だったと思う。
だからこそ今の「毎日が仕事であり、休みである生活」は、わたしを幸せにしてくれている。
この幸せをもっともっと噛み締めて、ガムのように味がなくなるまで、味わい尽くしていきたい。
小さい頃、よく折り紙で遊んでいた。
『かんたん!おりがみブック!』みたいな、1.5cm程は厚みのある折り紙のレシピが詰まった本を開いて、そこに描かれた花や動物を表現することに“憧れていた”。
あくまでも“憧れていた”というのは、わたしは本の中で活き活きと芽吹く植物も、今にも動き出しそうな動物も、再現することができなかったからだ。
折り紙の基本は「やまおり」と「たにおり」を知るところからはじまる(と、わたしは思っている)。けれど当時のわたしには、やまおりと言われてもどちらに折れば良いのか分からなかったし、たにおりと言われても――(以下同文)。
今となっては、山のようにせり上げる折り方を「やまおり」、谷のようにヘコませる折り方が「たにおり」であることを理解しているけれど、当時のわたしは、さっぱり分からなくて。
そもそも“やま”が“山”であること、“たに”が“谷”であることすら分かっていなかった。
「やまおり」なのか、「たにおり」なのか、どちらで折ればいいのか判断ができないまま、何度も何度も折り線をつけるうちに、折り紙は和紙のように皺が増えていって、いつしかわたしは折り紙を諦めてしまった。
フリーランスになって、2023年の9月で2歳を迎えるわけだけれど、この1年を振り返ってみて思うのは、選んだ仕事が、じぶんの気持ちが上り調子になる「やまおり」の仕事なのか、下降気味になる「たにおり」の仕事なのか、全く理解できないまま折り紙をくしゃくしゃに折ってきた、ということだ。
頭の中には理想のフリーランス像があるはずなのに、どうしてか再現することができなくて、あぁでもない、こうでもないと、あちらこちらに折り線をつけて不格好な何かを作り上げる。フリーランス2年目は、まるで幼い頃の折り紙遊びのような日々だった。
ここで、わたしが思う仕事における「やまおり」と「たにおり」を少し補足しておく。
・やまおり:人生を豊かにする実りある仕事
(価値観が合う人との仕事、仕事に見合う報酬、成果や価値が生み出される)
・たにおり︰ストレスを抱えてしまう仕事
(価値観が合わない人との仕事、仕事に見合わない報酬、成果や価値が生み出されない)
目指しているのは、もちろん「やまおり」。もとより会社員時代に休職を経験したわたしにとって、仕事における一番の天敵はストレスといえる。ストレスは食欲を失わせ、睡眠を妨げ、生きる気力さえも奪ってくる。
生きていくうえでお金は必要で、そのために働かなければならないけれど、だからと言ってじぶんを苦しめるような働きをする必要は絶対にない。仕事は辛いもの、我慢すべきもの、休日明けの月曜は全国民が憂鬱に感じるもの……という風潮もあるけれど、わたしはせっかく生きているのだから、仕事すらも楽しんでやりたいと思う。
そもそも、辛い仕事を選んできたのは自分だ。だったらこれからは、自分を楽しませる仕事を選んでいけばいい。
フリーランスは自由だ。
じぶんで仕事を決められる。
やりたいと思うのならやればいいし、やりたくないのなら、やらなければいい。
フリーランスならきっと、自分を喜ばせる仕事ができるはずだ。――そう、思っていたのに。
自分にとっての良い仕事を判断するためには「目利き」が必要になることを、わたしはまだ知らなかった。
目利きをするためには、まずは何が好きで、何が得意で、何が嫌いで、何が苦手なのか。どんな価値観を持っていて、どんな人と相性が良くて、どんな環境だとパフォーマンスが発揮されるのか。じぶんのことを知る必要がある。
知らないと判断する基準が頭の中にないために「なんとなく」や「報酬が良いから」といった曖昧で盲目的な決断しかすることができないのだ。
フリーランスのわたしは一体何者なのか、その輪郭すら捉えられていなかったわたしは、この1年で何度も何度も「やまおり」と「たにおり」を間違えた。
「やまおりだ!」と思った仕事で、低報酬で自身を使い倒してしまったことがある。時給に換算したら3桁になるんじゃないかってくらい、自分の価値を低く見積もってしまった。そんな自分を変えようと、別の機会で夜帯の会議を断ると、熱意が足りないと怒られてしまったこともある。きちんと仕事を見極めなければと思うのに、話に乗せられて断れなくなって、やりたくない仕事を請けてしまい毎日泣いていたこともあった。
なんて不器用なんだろうと、呆れる日々。どうして普通に働けないんだろうと何度も自分を叱咤した。ピンとした美しい色紙はいつの間にか、くしゃくしゃに皺がれて、形を成す力も次第に弱くなっていった。
一方で、仕事を請けてから「たにおりだったかもしれない」と心配していたら、想像以上に仕事が心にハマって、楽しめていることもあった。自分では大したことのない経験や知識だと思っていたことが、他の人からしたら「ぜひ」と手を取りたくなる魅力的なものらしく、心底驚いたこともある。
「ありがとう」という言葉や誰かの役に立っているという実感が、折り紙の皺を少しずつ伸ばしていった。
そうやって何度も折っては、皺を作り、時には伸ばしを繰り返していくうちに、だんだんと「こう折ったらいいんじゃない?」と、暗闇に灯る一点の光のように、折るべき筋が見えてくるようになった。
もしかして、もしかして、と折り筋をなぞっていくと、気がついたら喜びのある働きがついにカタチを成したのだ。まだ歪で、不格好で、頼りないけれど、それでも、だ。
つまるところ、これまで色んな仕事を請けて、さまざまな価値観や考え方を持つ方々と協業してきたことで、少しずつじぶんに合っている仕事や環境・価値観が見えてきたような気がするのだ。
これまで両手では足りない数の人たちと一緒にお仕事をさせてもらってきたけれど、そのみなさんが居てくれたから、わたしはいまフリーランス3年目を迎えられている。これまで関わってきた方々と、今もなお関わりつづけている方々に、心の底から感謝の気持ちを伝えたい。素晴らしい機会と経験を本当にありがとうございます。
幼かったあの頃はついに折り紙を諦めてしまったけれど、今度は諦めなくて良かった。何度も何度もチャレンジして良かった。
最近は専ら、広告制作やメディアの編集・校正校閲に関わることが増えている。くわえて自主運営するメディアの制作も楽しくて、やっと心地よく働けるようになってきた。今に感謝して、これからも楽しく頑張っていきたいなと思う。
そしてふと、何かの違和感に気づく。
日々に豊かさが生まれ、心に余裕ができたからだろうか。
フリーランス3年目を迎える今、「欲」が体の内側から滲み出してきているのを感じる。
1年目はとにかく収入を得ることに必死で、がむしゃらに仕事をしていた。
2年目は心地よく働きたいのにうまくいかなくて、ジタバタしながら仕事をしていた。
そして3年目を迎える今、一定の収入基盤が確立され、心地よい仕事と出会い、目利きの瞳も養われつつある。だからこそ、“本当はずっとやりたかった仕事”が心の奥で存在感を放ち始めたのだ。
忘れてない?
本当はやりたかったこと。
いつやるの?
ねえ、いつ挑戦するの?
トントントンと、1日に何度もわたしの心をノックして問いかけてくる。
開けてもいいのかな、と誰に対してなのか分からない遠慮の気持ちにドアノブに伸びた指先が止まる。けれど、わたしは、わたしの喜びのために仕事を選びたい。その道中で、一緒に仕事を楽しめる仲間と出会えたり、誰かの役に立てたりしたら、とても嬉しい。
そんな仕事人生を歩んでいきたいのなら、きっとドアを開くべきだ。まずは自分から「楽しみ」のある方向へ飛び出していかなければ、その物語はきっと始まらないのだから。
わたしは、拳ほどもある大きなドアノブをギュッと両手で掴んでゆっくりとまわす。長年、閉まっていたからか、少し錆びついていて重い。ギギギ、と音を立てながらドアを開けると、まっさらな空間が広がっていた。
新しい扉は開いた。
けれど、進むべき道はじぶんでつくらなければならない。誰も用意してなどくれない。新たに広がった世界へ一歩踏み出して、ゴールの旗を遠くに投げる。
めざすゴールにたどり着くためにはどうしたら良いのか、今日からまた試行錯誤しながらフリーランス人生を楽しんでいきたいと思う。
仕事をしていると「あ、今、消費されたな〜」と思うことがある。
たとえば、
・仕事を押し付けられてしまった
・感謝の言葉を一言も貰えなかった
・愚痴の捌け口にされてしまった
・まるで空気のように扱われてしまった
など、相手に都合よく使われてしまう経験のことを、わたしは「消費」と呼んでいる。
「消費される」ということは、自分の中にある何かが消耗するということ。本来であれば、感謝・笑顔などのポジティブな感情を向けられることで、満足感のある仕事をすることができるはず。だけれど消費されてしまうと、満足感どころか、ただ労力を使ったり、嫌な気持ちになったりするだけで、身をすり減らしてしまうのだ。
--
ある夏の日。まだ太陽が低い位置で地上を照らす時間。モワモワとした空気を纏った屋上テラスで、わたしは人を待っていた。
昼間はBBQでも開催されるのだろう。ところどころ剥げの見える錆びれたテーブルが20席ほど、夏の光を受けて熱を上げていた。少し奥まで歩いていくと、横幅10mほどのミニステージが見えてきた。きっとここも昼間になると太陽にも負けないキラキラとした演者が入れ代わり立ち代わり、今日という日を盛り上げていくのだろう。くるりと空間を一周して、再びもといたBBQエリアに戻ってくる。錆びれた一席に少し座ってみては、立ち上がり、そわそわと辺りを見渡して、また意味もなく空間をくるりと一周。
わたしは人を待っている――が、本当に人が来るのか定かではない。なぜって、わたしは仕事の集合時間と集合場所を知らないからだ。
今日は、期間限定で開催される飲食店の取材。取材といっても、メインは別で動く映像部隊。わたしは映像部隊の邪魔にならないようコンテンツ用の写真を撮り、インタビュー内容を記録し、合間で飲食店のスタッフの方々からお話を聞いて、それらを記事として仕上げることがミッション。
どんな関わり方であっても、コンテンツにかける気持ちは変わらないし、1人でも多くの人に飲食店の魅力が届くように、と取材時点から思いは強く募っていく。だけれど、そんな思いを曇らせていく不安だけは、どうにかできないものだろうか。
昨夜送った「〇時に屋上テラス集合の認識で大丈夫でしょうか?」というLINEは、既読状態のまま、返事を得られず夜を越えた。とりあえず事前に共有されていたスケジュール表から、予測される集合時間・場所に来てみたはいいものの、もし違っていたら大変だ。遅刻で登場なんて、こちらに落ち度はないにしろ、気持ちの良いものではない。
そわそわ。そわそわ。
ジリジリと肌を焼く太陽だけが、わたしの側にいてくれた。
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それから30分ほど経って、わたしはようやく肩を撫で下ろした。映像部隊の方が来たのだ。
ぃぃ〜っよぉぉかったあぁぁぁ〜っと這いずるような叫び声を心で上げながら、あくまでクールに「おはようございます」なんて声をかける。そして、その後ろから、既読状態のままお返事をしてくれなかったディレクターさんがやってきた。
「おはようございます」と挨拶を交わして、沈黙。あれ、LINEのこと覚えていないのかな。まあ無事、合流できたから構わないのだけれど。既読は肯定の合図だったのかもしれないし。うん。
取材は順調に進んでいった。映像部隊が撮影するなか、後ろの方でこそっとデジカメのシャッターを切っていると音声担当の女の子が不思議そうにわたしを見てきた。
「ライターさんって、自分で写真を撮るんですか?」
「そうなんですよー。カメラなんて素人だからシャッターを切ることしかできないんですけどね」
首を傾げる彼女に笑って見せれば、「へえ〜大変ですね」と返ってきて、思わず笑いが苦笑いに変わる。
前職でクリエイティブディレクターをしていた頃は、1つのコンテンツを生み出すために「営業」「ディレクター」「ライター」「カメラマン」「デザイナー」「校正校閲」と、複数人が手を合わせていた。
それが今や営業はしないものの、企画を考案し、取材・執筆・編集をし、写真を撮影して、デザインまで制作している。全てを手掛けられる面白さを感じる反面、俗に言う“やりがい搾取”の典型例だなと感じてしまう日も多い(大きな声で言えないけれど、あまり報酬が……ゴホッゴホッゲホッ……)。
こんな気持ちで働くって、良くないな……。
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「おつかれさまでした」
取材は無事、終了。
一足先に現場を出ると、今朝は人気のなかったBBQゾーンが一気に盛り上がりをみせていた。楽しそうに笑い合う人々を横目に、長いエスカレーターを降りて手近なカフェを探す。
基本、ディレクターさんが依頼する取材案件の納期は「なるはや」だ。「できれば今日中に」という言葉を何の悪びれもなく言ってくる。ちなみに「できれば」という言葉に意味はない。
そのため取材後は、デジカメのデータをスマホに落としつつ、作業ができるカフェを探すのが毎度のコース。STARBUCKSが安定なのだけれど、今日はランチも兼ねて、少しオシャレなカフェに入ってみる。これから納期と戦うと思うと、少しでも美味しいものと居心地の良い空間でじぶんのモチベーションを高めておきたいのだ。
注文したコールドブリューとワッフルを相棒に、まずはスマホに落としたデジカメのデータを確認しながら、レタッチ作業をしていく。今日は300枚も撮っていたらしい。
素人はとにかくシャッターを切る回数が大事なのだ。とくに動いたり、喋っていたりする人を撮るのは大変だ。目瞑りを気にしないといけないし、表情もかなり大事。ブレてしまうことも多くて、数回のシャッターでは「使えない写真」しか撮れない可能性だってある。
使える写真と、使えない写真を選定しながら1枚ずつレタッチをくわえる。全てチェックし終わる頃には、コールドブリューが注がれたガラスのマグがしっとりと汗をかいていた。
ようやっと、ライティングへ。事前にざっくりとした構成は作成していたので、それをベースに取材内容を軸に改めて構成を確定していく。
構成を確定したら、挿し込む写真を選びつつ文章を書き進める。
文章があらかた仕上がったら、今度はデザインだ。アイキャッチとなる画像を作成し、文章の合間に挟む写真も一部デザインをくわえていく……。最後に上から下まで推敲して、情報の精度を確認したら、完了。
メールフォルダを開いて、制作意図と申し送り事項を丁寧に記載して、送信。
ドッと疲れが肩に乗りかかる。おそらく今日の仕事は時給に換算したら1,000円程度におさまってしまうだろう。仕事は楽しい。けれど、自分を安請け合いする働き方は良くない。楽しい分、こうやってモヤモヤが募ってしまうから。
それでも誰かに感謝されたり、喜んでもらえたりしたら、「やってよかった」なんて、モヤモヤも忘れてステップを踏んでしまうのだろうけど。
こんな働き方は、やっぱり良くないんだろうな。
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翌日になると、ディレクターさんから初稿に対する返事があった。
「ここの写真ですが、もう少し◯◯さんの表情が良い写真に差し替えをお願いします。できれば◯◯さんが中央にいるカットで。それから、◯◯さんのコメント録音されていますか? ここの部分に入れてください」
わたしは手を額につけて、項垂れる。
「写真、写真ねえ……」
ハァ、とひとつため息を落とす。わたしは、カメラマンじゃないんだけどな。
今でさえ、変な表情をしている写真を挿し込んでいるわけではない。たしかに、もう少し笑顔だとより良いけれど、キリッとした雰囲気で決して表に出せないような表情ではないのだ。素人ながらも上手に撮れた一枚だと言えるはず。画角だって悪くないと思う。
それに事実、わたしは撮影費用をもらっていない。
別の取材で一度写真を撮ってみたら、いつの間にか毎回撮影も行う流れになってしまい、最近は完全にボランティアで対応している。きちんと費用の交渉をできていない自分も悪いのだけれど、善意で取り組んでいる仕事だ。
感謝の言葉も、記事への感想もなく、ただ修正依頼だけをぶつけられると善意の心が途端にしょぼんと萎んでしまう……。
それに、「〇〇さんのコメントを入れてください」という件に関しては、事前に共有を受けていない……。録音はおろか、コメントすら知らない状況だ。取材前に送った記事の構成案のメールには何の反応もしてくれなかったのに。
昨日の疲れが再びドドッと、肩に乗っかってくる気がした。
「申し訳ありません。〇〇さんの表情に関して、300枚以上撮影したなかで1番良い表情の写真を選定しております。動いたりお話されていたりする方の撮影は難しく、高度な写真を求められる場合は、今後プロのカメラマンにご依頼された方が良いかもしれません。また〇〇さんのコメントに関しては事前に聞いておりませんでしたので、録音がありません。もし映像部隊の方で撮られたデータがあるようでしたら、そちらを共有いただけますでしょうか」
期待に応えられず残念だけれど、ないものはない。素直にお返事をするも、それからメールが返ってくることはなかった。
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数日経って、ふとメディアを覗いてみると、この間の飲食店取材の記事がアップされていた。写真はそのまま、〇〇さんのコメントの追記もない、わたしが初稿で送った内容ままで掲載されていた。
その瞬間、ストンと胸の内に言葉が落ちてきた。
「あ、わたしって、消費されたんだ」
感謝の言葉も、記事の感想もなく、ただ使われただけ。取材は良かったのか、記事の仕上がりは満足がいくものだったのか、それすらも分からないまま、仕事がひとつ終わっていった。
わたしは駒のひとつなのだろうか。仕事という目的を果たすことが重要で、駒が傷つこうが、擦り減ろうが関係はない。動かなくなれば別の駒を探すだけ。まさに使い勝手の良い駒にされているような気がしてしまった。
仕事に対して適正な報酬を支払うこと、そして報酬に見合った成果を生み出すことは、仕事を依頼する側・される側の双方が成すべきこと。だけれど、わたしたちは「感情」で仕事をしている。少なくとも、わたしはそうだ。
わたしは「お金」でつながる仕事をしたいとは思わない。どれだけ良い報酬を差し出されても、価値観の合わない仕事はお断りしている。どちらか一方が少しでも搾取する行動をしてしまうと、やりがいのある仕事が途端に苦しい仕事に変わってしまうから。
苦しむくらいなら、仕事はやめよう。身をすり減らす仕事は、いつしか自分の心も削ってしまうから。
消費された、と思ったら緩やかにその場から去る。できるかぎり円満に。さらりと風を受けて舞う木の葉のように、ゆっくりと音もなく別の地へ着地する。次の地では誰かに使われるのではなく、ともに手を取り合って、互いのパワーがハブとなって、人々の喜びを生み出す仕事ができますように。
そう、願いながら。
ポンコツとは、どこかに少し欠陥があったり劣化してしまったりして、調子が悪いことを表す言葉だ。
わたしは「またポンコツなことをしちゃったな」と落ち込み、涙することがよくある。元より感受性が高く、涙腺が緩いタイプの人間なので、刺激が一定ラインを越えるとすぐに涙が噴水のように湧き上がってくるのだ。
昨夜は洗濯機をまわすつもりで洗剤を投入していたのに、電源ボタンを入れるのをすっかり忘れてしまった。
この間はレバニラ定食の「レバ」が「レバー」であることを知らずに生きていたせいで、「レバニラって何の材料で作られているんだろうね?」という謎発言をして、恥をかいた。
仕事の場でも、アクセス権限を付与しないままドキュメントのデータをクライアントに共有してしまった。
日常生活〜仕事において、なんてポンコツ。ポンコツぶりを発揮するたびに「どうしてなの、わたしのなかの悪魔よ……静まりたまえ」と頭を抱えてしまう。
たとえポンコツでも、心の調子が良いときは「さすが、わたし。おもしれぇことやってくれんじゃん?」と戯けてじぶんを励まし、切り替えたりすることができるのだけれど、心の調子が悪いときはもう大変だ。
とくに他者との信頼関係が必要となる仕事の場ではふつふつと悲しい気持ちが沸騰して、たまらず涙となって溢れ落ちてしまう。そのたびに「苦しいな」「生きづらいな」と、思うこともある。
だけれど最近「ポンコツな人なんて、いないのでは」と思うようになった。
じぶんのポンコツぶりを棚において置きながら、わたしだって他人に対して「何を伝えたいのかよく分からないな……」「この間も指摘したのにな……」と仕事の場でモヤモヤしてしまうことはある。
わたしはそんなとき、本音は心に留めたまま、そっと本を閉じるようにモヤモヤを締め出すようにしている。
「きっと相手も色々あったに違いない。一生懸命に考えて伝えてくれたのかもしれないし、指摘を気をつけていたけれど、つい抜けてしまったのかもしれない。体調が悪かった可能性もあるし、私生活で何かあったのかもしれない……」
だって、人間だもの。
完璧ではない。
じぶんの思い通りになるわけでもない。
だから仕事を一緒にする相手に対して「こうなってほしいな」という思いはあっても、相手をコントロールしたいとは思わないし、強い言葉で責め立てたり、冷たい言葉で突き放したりもしたくない。
ときにモヤモヤしてしまうのは仕方がないことだけれど、モヤモヤを武器にするような人にわたしはなりたくない。だから相手が気持ちよくポジティブな気持ちで働けるようなコミュニケーションを心がけでいるのだけれど……。
いざ、じぶんがポンコツの立場になると己の無力さに落ち込んで、他人の目が怖くなってすべてをリセットしたい気持ちになる。
すべての人間が、わたしと同じ考えで他人と接しているわけではないし、価値観だって違う。相手はわたしを変えたいと思っているかもしれない。けれど改善はできても、価値観の合わない変化の要求には対応できない。
どうしたらいいんだろう。
モヤモヤするたびに考えて、あるとき、ふと気づいた。
わたしがポンコツを連発してしまう環境と、たまに起こるポンコツを笑い飛ばせる環境があることに、気づいたのだ。
「ポンコツを連発してしまう環境」は、思い返すと価値観が合わない人ばかりと接していた。
価値観が合わなければ、考え方も、働き方も、発言も……すべての事象に少しずつズレが生じてくる。そのズレが「ポンコツ」となって頻繁にあらわれて、どんどんじぶんが苦しくなる。周囲の人間も同様に、わたしに対してモヤモヤ・イライラしやすい環境になってしまっている。
一方で「たまに起こるポンコツを笑い飛ばせる環境」は、一緒にいても気持ち穏やかにいられる人で溢れている。心理的安全性があり、失敗を責め立てることもない。むしろフォローしてくれる優しさがあるから、色んなことにチャレンジすることができるし、相手の失敗も「素敵なチャレンジをしたね」と、微笑むことができる。
ふたつの事象をならべたときに、「ポンコツ」とは、“環境によって生まれるものなのではないか”という仮説が浮かんで、すぐに腑に落ちた。
わたしがポンコツなわけじゃない。
今これを読んでくれているあなたも、ポンコツなんかじゃない。
ポンコツを生み出してしまう環境に身をおいてしまっているだけで、じぶんが輝ける場所は別にあるのだ。
気づいてから、ふっと心が軽くなった。
じぶんが穏やかにいられる環境を、冒険するように、これからも探していこう。またポンコツを生み出す環境に繰り出してしまうこともあるかもしれないけれど、原因に気がついているわたしはもう、今までのわたしではない。きっとすぐに、次の冒険へ出かけられるはずだ。
そうやって冒険を繰り返すうちに、わたしがわたしらしく活躍できる環境にきっとたくさん出会えるから。
思い出すのは途方もない真っ白な空間。会社員というレールの上から、ゲームでいうところのオープンワールドに一人ポツンと降り立った感覚。
右に行くも良し、左へ行くも良し。寝るも良し、食べるも良し。人と交流するも良し、しないも良し。仕事をするも良し、遊びに出かけるも良し――。
すべてが自由となった世界を目の前にしたとき、わたしはもっと「自由だーーーー!」という解放感に包まれるものだと思っていた。ところが現実は、おぼつかない足元で辺りを見渡す迷子そのもの。「どうしたらいい? 何をしたらいい?」と空虚な空間に、戸惑いと不安を浮かべるばかりだった。
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会社員の世界には、コマンドがたくさんあった。
RPGとまではいかないものの「最初の街に来たら、このクエストを達成しよう」「目標クリア! お祝いに新しい装備を授けよう」というようにある程度のストーリーがあって、そのなかでコマンドを選択して進んでいく。
出勤・休憩・退勤などの時間的な制限もあれば、評価・給料といった目に見えて分かるボーナスステージもある。
けれど、フリーランスの世界はちがう。
すべてが自由。時間も仕事も環境も誰に決められることもない。更地に村をつくるように、真っ白な世界で好きに「自分の生き方」をレイアウトしていく。
何をしてもいい。好きにしていい。
夢に見ていた「自由」だけれど、1秒先の未来もわからない毎日が、わたしには恐ろしく感じられた。だけれど恐怖を感じるとともに、心の底で愉快に弾む感情があることも確かだった。
何だってできる。好きなことで生きていい。
もしかしたらフリーランスとは「冒険すること」なのかもしれない。
そう思えてから、随分と気持ちが楽になった。
未来がわからないことなんて、当たり前。だって、冒険なのだから。
会社を休職したのち復帰せず退職して、転職活動で内定が取れず、荒波にのまれるままに独立したあの日から2022年9月で1年が経った。独立初月なんて、詐欺まがいの仕事にあたってしまって、1万字超の記事を納品したにも関わらず報酬はたったの390円。
「おかしい」と気づいたのは納品が終わって、契約も終了してからのことだった。事前に気づけなかった自分の愚かさに「わたしはなんてバカなんだろう」と涙をこぼしたものだけれど、今となっては笑い話だ。いや「早くお金を稼がなければ……!」と焦っていたとはいえ、390円の仕事を請けるのは冷静さを欠きすぎていて、さすがに呆れてしまうな……。
けれどハプニングに見舞われたおかげで、フリーランスには仕事を見極める「目」が必要であることを身をもって実感することができた。
フリーランス生活がはじまった途端、困難に当たってかすり傷を受けるとは、なんて冒険らしいのだろう。そしていまも失敗を経験しながらわたしは毎日、冒険をつづけている。
その旅路はもちろん、傷をつくるばかりではない。
思わぬつながりから互いに心地よい時間を過ごせるビジネスパートナーと出会えたり、昔から好きだった憧れのコンテンツに携われるようになれたり……。
フリーになったからこそ体験できている「喜び」がいま、わたしの手元にはあふれている。
「明日」さえもわからない生活スタイルに、あれほど恐怖していたわたしだけれど、1年も経ってみると考え方も見方もだいぶ変わったものだ。
みえない未来も、わるくない。
フリーランス1歳の誕生日を迎えて、そう思う。
わたしは普段、フリーライターとして活動しているのだけれど、まさか大人になってから、諦めていた学生時代の夢を叶えられるとは微塵にも思っていなかった。
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ダンスサークルに明け暮れていた大学時代。わたしの活動時間は専ら深夜だった。日本のストリートダンス文化なのか、練習やイベント(ショーやダンスバトル)は深夜に行われる機会が多かった。
六本木の小さな箱で開かれた「SOUL STREET」、ショーにバトルに熱を上げた「HiJump!!」、生演奏とともに歌って踊る「WE COLLECTION」、全ダンサーが釘付けになる「DANCE DELIGHT」etc.
デイイベントももちろんあるけれど、舞台に立つまでの練習のほとんどは深夜に行われた。
右から左へ抜けていく講義を受け終わると練習場へ向かって自主練に励み、サークル練をこなしたら場所を変えて深夜練へ。新宿マイスタジオ、代々木や新宿、高田馬場のstudio worcle、池袋のSTUDIO BUZZはダンスの思い出を語るには欠かせないスタジオだ。
着替えやタオル、ドライヤーを携えたカバンを背負って、24時から翌6時までの練習をこなしたら、そのまま大学のシャワー室に飛び込む。冬なのに蛇口を幾度捻っても冷水しか出てこなかった日は散々だった。タオルを忘れて、ハンドタオルで身体を拭いたときも泣きそうになった。眠たい目を擦りながら、1限が行われる講義室に向かって仮眠をとる。溜まった疲れがドッと吹き出る日は、気がついたら2限の知らない講義が始まってしまっていることも往々にしてあった。
そんな風に、わたしの大学生活はダンスを中心にまわっていた。当時に戻って、「大学で何の勉強をしているんだい?」と聞いてみても、たぶんわたしは吃るばかりで答えられないだろう。
一心不乱にダンスを楽しんでいた大学3年生のわたしは、迫りくる「就活」というイベントにあまり興味を持っていなかった。通過儀礼みたいなものとして認識していたので、就活をしない選択肢は頭になかったけれど、とりあえず興味のある分野の仕事に就ければいいやと砂糖菓子のように甘い視線で就活を見ていた。
ただ興味のある分野といいつつも、不思議とダンスに関係する仕事に就きたいとは思わなかった。就活を乗り越えていった先輩たちのなかには、ダンサーを目指してスクール講師になったり、そもそも就職せずに「ダンスで食っていく」と歩き出した人もいたりしたけれど、わたしの頭には就職先候補としてダンスの「ダ」の字もあがることはなかった。けれど「ダンス」という一種の「表現力」を活かす活動には、かなり興味を惹かれていたところはある。
ダンスバトルは、その名の通りダンスで勝ち負けを決めるイベントだ。1on1(ソロバトル)、2on2(ペアバトル)、3on3(3名ペアのバトル)など人数はさまざまで、DJが選曲する音楽に合わせて即興で身体を動かす。
バトルに出場するダンサーはステージ上で互いに向かい合い、決まった秒数内で順番に踊り合って魂をぶつけ合うのだ。勝敗は中央に座る審判のジャッジによって決められる。「3,2,1……ジャッジ!」というMCの高らかな声に合わせて、審判は勝っていると判断したダンサー側の手を上げるのだ。緊張に包まれる瞬間は、見ているだけでも心臓が飛び出そうになる。
ジャンルもイベントごとに異なり、フリースタイルバトル(ジャンル不問)の場合もあれば、lock、pop、breakなどジャンル限定のバトルも多く存在している。ジャンルによってDJの選曲やイベントの空気感も異なるから、見ていて飽きることがない。
わたしは突出してダンスが上手く、バトルに強いわけでは全くなかったのだけれど、ダンスバトルが好きだった。見るのも、出るのも、どちらも大好きだった。振り付けがあらかじめ決められているショーケースも楽しかったけれど、その場の気分で自由に踊るバトルという空間が心地良くてたまらなかったのだ。
もちろん負けてばかりなものだから、悔しさに打ちひしがれることは多かったけれど、DJタイム(バトルの合間やバトル終了後に開かれる自由に踊れる時間)に、先輩や同期と輪をつくって踊り合う時間が楽しくて仕方がなかった。
この頃から、わたしは何に縛られるでもなく、内から生み出されるものを自由に「表現できる場所」を求めていたのだ。
そうしてわたしが選んだ就職の道は、表現の場だった。出版社、新聞社、音楽レーベル。世の中にあらゆる表現を生み出し、届ける場所に焦がれたわたしは地元のドトールにこもってアイスココアを嗜みながら、幾度も履歴書を手書きした。
ときには個性を出そうと色鉛筆を持ち出したり、キャラクターを描いたりすることもあった。会社によって指定された履歴書のフォーマットの空欄が大きければ大きいほど、自由度が高ければ高いほどやる気に満ち溢れて、わたしの思いをどう表現しようかと思考を巡らせた。
しかし就職とは難しいもので。何十社もエントリーしたものの、出版社も新聞社も音楽レーベルも一社もESが通ることはなかった。胸に焦りの色が見えはじめる。ダンスバトルで負けつづける自分の姿が浮かんだ。
どれだけ自由に表現することが楽しくて、そんな環境を望んだとしても、自分が他者よりも一歩でも良いから勝てる要素を持っていないと夢は叶わないのだと知った。「好きなだけじゃダメなんだ」と、わたしは思い知らされたのだ。
それからわたしは川の流れに身を任せるように、たまたま内定を得られたベンチャー企業に入社した。インターネットを舞台にコンテンツを発信している企業で、正直なところ扱うコンテンツへの興味は塵ほどもなかったのだけれど、とりあえず社会人になれるという安心感が優っていたのを覚えている。
流れるままに行き着いた先で、なんとなく生きる日々。幸いなことに、元より好きだった「書く」という行為を活かすことができた。コンテンツ制作の役割を任されたうえに企画・執筆・編集・分析・進行管理まで裁量を持たせてもらい、自由度はかなり高かったと思う。22歳のペーペーに、こんなにも経験の機会を与えてもらえたことは、今ではありがたく感じている。
けれど、当時のわたしにはそれでも自由度が足りなかった。興味がない分野を取り扱っていることが枷になって、「会社に仕事をやらされている」という思いが強く身体を支配するようになっていたのだ。
もっと自分が興味のある分野で書く力を活かしたい。誰かの役に立てるコンテンツを自由に作りたい。
そうして転職した先では、企画・取材・撮影・執筆・編集・デザイン・進行管理のすべてを任せてもらえる部署に配属された。所謂、広告代理店だったのだけれど、毎日がクリエイティブにあふれる生活は刺激的で愉快で、とても楽しかった。
一方で、プライベートの自由時間はどんどん奪われていった。
DJが流す選曲に「fu〜!」と右手を掲げて、何に縛られることもなく、好きに、自由に、踊って遊ぶ自分が頭に浮かんだ。ステップを踏んで、クラップして、自由に動き回っていた手足が突然、重くなる。不思議になって足元を見ると、黒い球状の鉛が鎖で足に括り付けられていて、両の手には「会社員」と彫られた黒い枷が嵌められている。
ズシン、という衝撃を感じたと思ったら、肩に「仕事」という名の鉛プレートが詰まったジャケットがかけられていて、わたしはついに重さに耐え切れず膝をついた。まわりを見渡せば、みんなは好きに踊って楽しんでいるのに、わたしだけが動けずに取り残されていた。
朝から晩まで、ひたすらに仕事だけをこなす毎日に、わたし自身の自由はどんどん失われていった。
やっぱり、負けている。
「やっぱり、好きなだけじゃダメなんだ」
「勝てる場所で戦わないとダメなんだ」
「自由は勝ち取りに行かなければならないんだ」
思いは一層、強まるばかりだった。
そんな時に出会ったのがいまの旦那となる、彼だった。物腰柔らかく聡明な彼は時間を大切にする人だった。
深夜中、踊りまわるような効率の悪い練習の仕方なんてしない。テスト前に徹夜で勉強することもしない。自身を犠牲にする残業はしないし、休みの日に仕事は持ち込まない。ダラダラSNSを見て就寝時間を繰り下げることもしない。
わたしとは正反対の過ごし方をする彼に惹かれるうちに、わたしは「自由」との向き合い方を間違えていたのかもしれないと思うようになった。時間を大切に過ごすということは、必然的に自分を大事にすることでもある。
自由に表現できる仕事をするためには、何かを犠牲にしなければならない、常に剣を抜いて振りつづけなければならない、身を削ることがあっても仕方がない、と思っていた。けれど、違うのかもしれない。
思い返せば、負けてばかりのダンスバトルを、わたしどうして大学4年間ずっとつづけられたのだろう。
そう考えると、たしかに負けて辛い時もあったけれど、それでもバトルが楽しくて好きだったのは、わたし自身がダンスバトルを楽しむわたしのことを大切にしていたからだ。「ダンス楽しい」「バトル頑張りたい」と目を爛々とさせる自分自身の気持ちが、好きだったからだ。
大切にしているからこそ、好きだからこそ、負けて悔しいときは寄り添って背中をさすることができた。稀に勝ち進んだり、負けたけど楽しかったりした日は、一緒になって笑い合えた。
好きなことをできているんだから「多少、傷ついたっていい」だなんて、微塵も思っていなかった。むしろバトルが好きな自分を愛していたからこそ、わたしは自由に思いを身体にのせて表現することができたのだ。
大学生から社会人にあがる過程で「ダンスで自由に表現したい」という思いから「書く力で自由に表現したい」という思いへ、変わっただけ。新しい思いを抱いた自分を、愛せる生き方を選んでみるのはどうだろう。
自分を愛そうと決めたわたしは会社を退職すると、独立の道を選んだ。大好きな表現という分野をずっと好きでいられるように。表現活動を頑張るを自分をいつまでも愛せるように。勝敗に支配されることのない自由な世界に飛び立って、仕事もプライベートも好きだけで満たして生きていこうと決めたのだ。
すると、心がパッと明るくなった。チカチカと点滅を繰り返していた電球がエネルギーを取り戻して煌々と輝きだす。キーボードの上で自由に踊りまわる指輪が、音楽に合わせて自由にステップを踏む過去の私に少し似ていた。
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不思議なことに、独立をしてから、わたしの夢が少しずつ叶いはじめた。
「自由に仕事を選べるって、すごい」
もちろん自ら仕事を探さなければならない大変さはあるけれど、心がポジティブに動く仕事を選べる偉大さには感動してしまう。自分のペースを守れることでプライベートの時間も取れるようになり、生活習慣も見違えるほどに整った。
そして気がついたら、あの日、ESが一枚だって通ることのなかった出版社や新聞社と、一緒にお仕事ができるようになった。学生時代の夢が一つ叶えられたのだ。ほかにも会社に属しているときには、絶対に会えることのなかった人との出会いがあったり、経験できるはずのなかった機会に恵まれたりしている。
自由でいたい。内なるものを自由に表現していたい。そして、誰かの役に立つ表現をしていたい。
戦うことをやめて、好きなことを好きでいる自分を大切にするようになってから、ずっと抱いていた思いや夢が叶いはじめた。
こうした出来事に出会うと、大人という時間はとても長いから、まだまだ夢は叶えられるんだ!と、未来にワクワクと期待を寄せてしまう。
日々過ごしていく道が、未来のどんな出来事につながっているのか、想像したって分かりっこないけれど、何十年も歩き続けた末にたどり着く場所は、意外と夢に見た場所だったりするのかもしれないな。
身を削るような「我慢」は、しない。
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わたしは電話が好きじゃない。美容院の予約であっても、電話をかける前は心臓がトクトクと静かに唸り、全身を嫌悪感が包み込んできて、お金で解決できるのならば、美容院の予約代理人に1000円を支払ったって良い。わたしにとって電話をかける行為は、大きなストレス(我慢の時間)なのだ。
予約さえできれば、あとは最高だ。髪の毛を綺麗に整えられ、晴れやかな気分にしてくれる。自分が整うと世界も美しく見えてくるもので、帰り道はスキップしたくなる程、ご機嫌になれる。
小さなことでも自分を前に進めてくれる我慢は素敵だと思う。内にある恐怖や嫌悪に向き合い乗り越えることで、自分自身が解放されたり、明るい未来がやってきたりするのなら、とても良い。でも足を止める我慢、後退する我慢、苦しい未来が待っている我慢はだめだ。苦しい我慢を美談になんて、絶対に、してあげない。
わたしは今でこそフリーライターのお仕事をできるようになったけれど、以前は会社の歯車となって機械のように働いていた。あの頃。クリエイティブディレクターという職業であらゆる広告制作の仕事をしていた頃。昨今の影響によって経営が傾いた会社は組織の人員を半減させた。救済措置もないまま、以前と変わらない仕事量を社員に配分し、より高い質を求め、わたしの日々は会社を軸に回っていった。
早朝にパソコンの電源を入れて、休憩もしないまま陽は沈み、0時を回ってからもパソコンの画面は光り続ける。山場を乗り越えた先に待っていたのは「昇給やボーナス」による還元ではなく「アリガトウ」や「キミタチノオカゲ」といった10文字にも満たない言葉の亡骸。
ワーカーホリックの多い職場では、ヒィヒィ言いながら日々を生きることこそ美談とされた。まさに命を削る仕事。右手の拳を胸に当てた『心臓を捧げよ!』同然の空気感が其処にはあった。
限界はすぐに訪れたと思う。食欲がなくなり、夜は眠れない。動悸と涙を携えながら働くのが当たり前になって、自分がなくなるまで会社のために戦いつづけた。悪魔という名の我慢は、正常な思考を止める魔法が得意なようで『頑張らなきゃ』『泣いてしまう自分が悪い』『成果を出さないと価値がない』と心を拘束し、日々自らを責め立てた。
それから数ヶ月。ついに限界突破を迎えたわたしは、我慢を辞めた。休職を経て、退職をする決断を下したのだ。
正直、我慢を辞めるのは怖い。未来が不確定だから不安で仕方ない。休職したところで、何をしたらいいのか分からない。次の職を探さないまま退職して、生きていけるのだろうか。生きづらい世の中を恨んでみても、現状は変わらなくて、どうしようもなく苦しい。息をしているだけで辛い。人に相談するのでさえ、恐ろしい。
我慢を辞めても、息を吐けばドロドロとした不安が目の前を覆う毎日だった。だけれど、止まっていたわたしの時間が少しずつ動いていくのを頭の片隅で感じていた。
何もしないまま一日を過ごしたり、昼寝してみたり、好きなところに行って、好きなもの食べて、アニメを見て、漫画を読んで、音楽に浸って……。気ままに数ヶ月過ごしていると、何かが心に戻ってくるような気がした。
我慢という悪魔が解かれたことで、心に隙間が生まれていたんだと思う。空いた隙間には、新しい風がいくつも通り抜けていく。それが何かは分からないけれど、確実に今までとは違う、温かいものが自分のなかを通っていく感覚。
温かい気配に気がつくまでは、かなりの時間を要した。命を裂く勇気もないのに、楽になりたいと願った夜もあった。だけど、ほんの少しずつ、感じる。温かい何かに触れたいという欲求が、わたしのなかに生まれていった。
ちなみに、いまはすこぶる元気だ。食欲がありすぎて、すでにお正月太りを気にしているし、お昼寝したくせに22時に眠くなるし、自分が好きな「書く」を仕事にしながらニコニコ過ごせている。我慢のおかげで今がある、なんてちっとも思っていない。思ってやるものか。我慢の崩壊によって人生の転機を迎えた可能性はあるけれど、わたしは美談にしない。黒歴史と呼んだ方がよっぽどマシだ。
小さなことでも、自分を前に進めてくれる我慢は良い。だけど、辛いばかりの我慢はもうしない。『頑張らなきゃいけない』魔法を解いて、わたしはわたしにとって必要な我慢だけチャレンジしてみようと今は思ってる。
だからこそ、今年は「70%の2022年」と題して、70%の力で生きてみようと思う。
100%の力を出し切らないと価値が生まれない、わけがない。命削って頑張らないと認められない、わけがない。成果が出ないと生きてちゃいけない、わけがない。
そういう人がまわりにいるとしたら、それは価値観が違うだけ。互いに否定をする必要はない。人の言葉で自分を呪縛するのも、もうやめる。
70%の力で、充分素晴らしいはずだ。充分、価値があるはずだ。それを身をもって証明してみようと思う。この経験がきっと未来のわたしに良い影響をもたらしてくれる。休み休みだって良いじゃない。70%分のパワーで、できることをやってみよう。
果たして70%の力を出すと、どれだけの幸せを感じられるのだろうか。わたしは70%の可能性を365日かけて探してみるよ。
言葉はわたしの生きる術である。
わたしのしごとは主にライターだ。Webメディアに掲載するSEO記事やコラム、広告制作などを主に作成する物書きさんをしている。
言葉を扱う仕事は、楽しい。人や企業、商品・サービスなど、あらゆるモノに宿っている想いを言語化する。それは未だカタチを成していないモノを言葉で模るということ。想いを吸い取って、言葉で吐き出すひとときは、わたしにとって至福にも近い時間だ。
想いを宿した言葉が世の中に飛び出していって、たくさんの人々の心をポジティブに動かすことができたなら、わたしの心はそれだけでポカポカとしてしまう。これからも言葉を通して、誰かを励ませる人になれたらいいなと思っている。
ただ、この仕事を選んだわけは「人や商品に込められた想いを世の中に伝えたい」だとか、「自分の言葉で誰かを幸せにしたい」という、キラキラとした理由ではない。
それらは結果的に生まれた副産物であって、わたしの仕事選びの根底にあるのは「生き方」だと思っているからだ。わたしの生き方が、仕事選びに大きく影響している。
生き方とは、人生に対する態度であり、生き延びるための手段であり、価値観である。(と、わたしは思う。)
わたしはあらゆる態度と手段と価値観を都度変化させながら、いまを生きているわけだけれど、一つ幼少期から変わらないものがある。それは「わたしは対面で話すよりも、文章で会話した方が自分らしく話せる」という価値観だ。人間は支え合って生きていくものであり、さまざまな人との出会い・別れを繰り返して、成長する生き物だ。けれど、たくさんの人と混じり合うコミュニケーションツールは対面や電話による会話だけではないと思う。
手紙、ハガキ、LINE、チャットetc.紙・Web問わず、筆談による会話も立派なコミュニケーションツールの一つだ。ちなみに、発話の代わりに行う手段、ではない。発話も筆談も、どちらも対等で人間にとって大事なコミュニケーションだと思っていることを伝えておく。
わたしは幼い頃から人見知りが強く、親近者であっても慣れるまでに半日は時間がかかった。話しかけられても頷くだけで精一杯だった。お話したい、だけれど、恥ずかしい。後者の気持ちが壁となって目の前に現れて、わたしは越える勇気も、壊す勇気も持てず、ただ指を咥えて眺めるしかできなかった。
保育園に通っていた時のことだ。わたしは双子のリナちゃんとリホちゃんが好きだった。二人は声を出さないわたしを不思議がることなく仲良くしてくれた。わたしは二人が大好きだった。
だけれど、それ以上に大勢に囲まれた保育園という空間がストレス極まりなかった。誰に虐められていたわけでもないけれど、話せない、伝えられないことによる周囲の大人から浴びせられる「他の子とは違う子」である空気感が、息苦しくて仕方なかった。そんなわたしを見かねた母親は、保育園を辞める選択を贈ってくれた。
ただ心残りだったのが、リナちゃんとリホちゃん。保育園を飛び出す前にリナちゃんとリホちゃんに一言、「ありがとう」と伝えたい。だけれど、話す勇気は出ない。
だから、手紙を書くことにした。色鉛筆を握って、真っ白な画用紙に向かって、声を吐き出す。不思議なもので、心にある想いの丈が身体を伝って色鉛筆に伝わり、カラフルな先端がスラスラと想いを描き出した。心に浮かんだ言葉を喉までせり上げ、震わせて、空気に乗せるのは、とてつもなく難しかったのに、紙の上に描くのは驚くほど簡単で、心地よくて、気持ちが良い。
この感覚は大人になった今でも、持ち続けている。もちろん成長するにつれて、初対面の相手でも発話できるようになったわけで、直接会話をする楽しさも知ったわけだけれど、やっぱり文章の方が伝えやすい。
社会人を経験するなかでテレアポもしたし、プレゼンもしたし、インタビューも何度もしたけれど、やっぱりやっぱり、わたしは紙やWebの上で会話をする方が、心穏やかな自分でいられて、人生が豊かになることを知った。
わたしは、わたしがわたしらしく、心地よく生きられるように、Webライターという仕事を選んだのだ。
「生き方」を主軸に選んだ仕事は、わたしを幸せにしてくれる。会社に振り回されず、自分を軸にして、大好きな言葉とともに毎日を過ごせている。
わたしは、たった一度きりの人生なのだから、もっと自己中心的に、自分の心地良さを大事に人生を構築しても良いと思うのだ。心地良い生き方で選んだ仕事は結果的に、自分にしか生み出せない価値ある仕事になるはずだ、とも信じている。
わたしはこれからも、わたしらしく仕事を選んで生きていく。