警報が鳴り響く美術館。館内は黒い絵の具を零したような深い闇。たまに現れる月の光が仄かに降り注ぐ一点を頼りに突き進んで、右へ左へ角を曲がる。息を切らした先で今度は階段を駆け上がる。
間に合え、間に合え。“奴”はまだいるはずだ。
「待て!」
屋上に出ると柵に立つ黒い影と目が合う。マントを思わせる黒髪が嘲笑うように夜風に靡いていた。
「犯行から58秒。遅いわよ、警部。本当ならとっくに逃げられてる」
盗んだ首飾りを掲げ、奴が笑う。
「だが、逃げていない」
「警部との追いかけっこは、嫌いじゃないからね♡」
「いいから寄越せ」
構えた銃に奴が両手を上げた瞬間だった。びゅおおっと音を立てて、横風が二人の間を駆けるように過ぎていく。
銃口の向こう側で、ふらっと身体が傾いたのが見えた。幅2cmもない柵にヒールなんかで立つからだ。あら、とルージュの引かれた唇から音がこぼれて、影が柵の外へ消える。
「おいおいおい! だいじょぼがぁっ!?」
駆け寄れば、落ちたはずの身体はロープを支えに宙返りし、眼前に鋭い右蹴りが繰り出されていた。脳天を貫く衝撃と、尾てい骨へのもろな打撃。ううう、と知らず息が漏れるなか、耳元に響く凛とした奴の声。
「またよろしく♡」
chuと鳴ったリップ音を追いかけて首だけ振り返るも、そこにはもう誰いない。
「警部〜、無事っすか〜?」
顎からもろに食らってましたケド、と薄笑いで駆け寄る部下に蹴りで応答しつつ、 いつの間に膨らんだポケットに手を突っ込む。
それにしても……と部下が呟いた。
「泥棒を雇うなんて警部も大胆っすね」
“奴が盗んだ首飾り”を肩を借りるフリして部下の胸ポケットに落とす。襟を二度正すように触ればポケットの膨らみは消え、仕込んだ隠しポケットへ移動する。
あとで“奴から取り返した”と明言するためだ。
「ふん、出世のためなんでもするさ」
「実は、好きだったりしないんすか?」
「誰が泥棒なんぞ好きになるか」
「えっ。“奴のこと”だなんて一言も言ってないのにぃ」
「おまえ、たまにめんどうくさいよな。あいにくだが、奴とはそんな関係にはならん」
「向こうは好きかもしれないのに?」
「んなわけあるか。借りにも私は警察、それも警部でおっさんだ。あり得ないだろう」
「わたしは、好きだけどなぁ」
一際、強い横風が夜の闇を引き裂くようにびゅおおっと音を立てて過ぎ去っていく。
「ん、なにか言ったか?」
「……いいえ、なにも!」
若い部下のつぶやきに、男は気づかない。唇の端に少し残ったルージュにさえも。